メッセージ - 最新エントリー
被災地における主の働き人達の様子です。
昨日ご紹介したのですが、製作者が編集していたのかすぐに消えてしまい、ご紹介できていませんでしたが、再度アップして下さったようですので、あらためて。
ビデオ中に様々なクリスチャンや働き人達のインタビューがありますが、瓦礫の町の彼らは主にあって、希望を失っていませんでした。
「神様が毎日新しい力を与えてくださる。イエス様がご自身の体である教会、何々教会でなく、ご自身の体であるキリスト者を通して日本を変えてくださsる。」(ビデオ中のメッセージ)
まことにアーメンです。
世の光(日本語最終ver.) from Dear.Japan on Vimeo.
礼拝説教メッセージ音声:権利証書は有効に活用しよう(ヘブル4:12-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
人は言葉では何とでも言えるし、外見も取り繕う事は出来るが、心の内は隠されている。
大人になるにつれ、外見と内面を切り離す事が出来るようになって行き、そうなればなるほど世渡り上手となるものだが、神の御前にはそれは通用せず、神の御前で隠されているものは何一つ無い。
病院でレントゲンを取るなら骨組みも内臓も見透かされてしまうが、神様のまなざしは、肉体だけでなく霊も魂も心も見透かすX線である。
12節「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」
生きているという事は、生命力が在って動くものであり、力を発揮する。
力とは原語はエネルゲイヤ、これは「物を動かす力」である。
神の言葉は、信仰を混ぜて初めて力を発揮するものであり、御言葉には力が無いじゃないかと言う者は、信仰を混ぜていないのである。
例えばマイクは声を大きくさせる道具であるが、全然動作しない、というのであれば、コードを指しているかいないかを疑うべきである。
御言葉というマイクは、信仰というコードを、天の御座というアンプに通さなければ、力は発揮されないのだ。
神の言葉には力がある。
この世の中は、神の言葉によって創られた。
光よあれと言われた時、光が創られ、言葉によって混沌とした状態から秩序が生まれた。
人の言葉に力が無いのは、信仰が込められていないからである。
聖書は紙切れかもしれないが、書かれてあるのは神の言葉であり、その言葉は世を創り、世がいずれ焼き尽くされた後もずっと残る程力強い。
この神の言葉を信仰を持って受け入れるなら、力となり、物を動かす力、エネルゲイヤとなる。
ヘブル11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
ここの「確信」とは「権利証書」と訳す事も出来る。権利証書も紙切れかもしれないが、力がある。
「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書である。」
もしこの教会の建物のビルの全所有者は、パスターの林である、という不動産の権利証書があるとしたら、201号室だけでなく、全フロア教会にする事も出来る。
但し、その権利を確信して主張しなければ、何にもならない。
聖書は、にわかには信じられないほど絶大な権利が書かれてある証書である。
「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:21-23)
これを主に対し、世に対し、サタンに対して信仰を持って宣言するなら、実際にその通りになるのである!
弟子達は悪霊が子供に取り憑いて泡を吹きながら引き付けさせている様を見、これは追い出せないだろう、と、信仰が弱ったしまった時、イエス様は「なんと信仰の無い者よ」と叱責された。
しかし同時に弱い私達を助けて下さり、イエスご自身が言葉を発したので、悪霊は出て行かざるを得なかった。
イエス様は、人が居る事の出来ない聖なる光の中に住んでおられるお方であるが、同時に人となられ、あらゆる誘惑も人間として受けられ、罪こそ犯されなかったが、私達同様試練に遭われた。
だからこそ、人のあらゆる弱ささえも見透かされ、その上で執り成して下さるのである。(ヘブル4:14-16)
神様の目と言うX線によって、人の罪や穢れ、あらゆる悪しき物は照らし出される。
医者がそれを診るならお手上げであり、死ぬしかないのであるが、しかし神は「はいそれでおしまい」と言うお方ではなく、イエスキリストのいのちというワクチンを用意され、それを摂取した者は生きるようにされた。
このワクチンは、一度人を死に至らしめ、そして、新しいいのちで生き返らせる。
いのちの御言葉を信仰を持って自分に適用させる時、新しいいのちが生き、古い自分は終わるのである。
主の御言葉は、罪や病、自分の嫌な部分をも見透かすけれども、同時に、人が罪によってどんなに苦しみ悲しんでいるか、という深い呻きまでも見透かす。
その上で御霊は深いうめきを持って、人を執り成すのである。
だから私達もダビデのように、傷ついた道のあるかないかをお調べください、永久の道へと引き戻して下さい、と祈ることが出来る。(詩篇139篇)
全ての傷ついた道を知って頂き、御霊の助けを頂いて、折に適った助けを頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:いのちの積立金とは(使徒9:36-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
昨日はペテロによる中風の癒しについてだったが、今回は、死んだタビタを生き返らせる奇跡である。
昔も今も、病の癒しや蘇りの奇跡は、聖徒なら誰もが一度は切実に求め願う事であろう。
聖書に死人を蘇らせる奇跡は幾つか出てくるが、今回のように、ある人の死が多くの人達に悼まれ、蘇らせていただきたいと祈られた事は、他にも多くあったころだろう。
例えばステファノの死は、多くの人達に悼まれ、多くの聖徒達が彼の死体を囲んで生き返って欲しいと願ったであろうし、後に学ぶヤコブが殺害された時も、多くの人達に悼まれ、蘇らせて欲しいという願いが起きただろう。
彼らは蘇らなかったが、もし、彼ら程の働き人が蘇っていたのなら、今回のタビタ以上に、ユダヤ社会とクリスチャン達に大きな衝撃を与えただろう。
誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こりなぜこの人には起こらないか、とった議論は、我々のする事ではない。
いのちは主のもの、人がいつまで生きいつ死ぬかは、いのちの主イエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。
病で死んで多くの人に悼まれ、蘇らせていただいたケースとして、ベタニヤのラザロがいる。
彼が病だと知らされた時、イエス様はこう言われた。
「この病は死に向かうものではない。神の栄光の為に、神の子がそれを通して栄光を受けるためのものである。」
しかもイエス様はそれを聞いて、よりによって2日もその場所に留まり、ラザロの所に到着した時、既に彼は亡くなっていた。
なぜイエス様はすぐに行かなかったのか。
生きている内に癒されたかもしれないのに、なぜそうしなかったのか。
それは、イエス様が私達に死ぬほど大事な事を教えるためであり、もしインスタントな癒しをしていたなら、人々はその大事な言葉を心に刻む事は無かっただろう。
皆さんにぜひ覚えて置いていただきたい事は、病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事があって、それはすなわち「イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる」事だ。
タビタの場合、彼女を慕う者が多かったため、ペテロは呼び出された。
ペテロはその時、主に蘇えらせて頂けるかどうかは、知らなかった。
ここでもし蘇らせて頂けなかったら、ペテロからはもう聖霊が去った等と見なされ、評判は地に落ちるのだろうか?
そのような議論もまた無駄である。
いのちは、ペテロなど特定の信仰深い者にかかっているものではない。
いのちの主イエス様が計っておられるものであるから。
ペテロはとにかく聖徒達に促されるまま行き、ひざまづいて祈った。結果、いのちを吹き返したのだ。
かつてアナニヤとサッピラ夫婦は、サタンに心を満たし、聖霊を試みたため、死への奇跡が起きた。
聖徒達への配当をしぶったその偽りの代金が、死への切符となったのだ。
それに対しタビタは、生前愛を持って聖徒達のために捧げ施したため、いのちへの奇跡が起きた。
やもめ達への愛情と憐れみの篭った記念の品々がペテロに示された時、それがいのちへの切符となったのである。
そして、彼女は蘇らされ、多くの人達を主へと立ち返らせる記念の証となった。
私達も日常生活において、アナニヤ夫婦のように、心をサタンに満たして死への積み立てをするのではなく、タビタのように、聖徒達を愛し、心遣い、いのちを得るための積み立てをしたい。
昨晩、宮城沖で大きな地震が起き、そのために女川原子力発電所の3つある電源系統のうち、2つが止まり、一つの電源だけで稼動しているとの事。(4/8朝5時現在)
私達はその現状に対しても、直るか直らないかは詮索せず、いのちの為に祈るべきである。
現在、多くの苦しみ悲しみがあるが、皆さんについては、どうかいのちのために執り成し、いのちの働き人として生きますように。
そしてペテロのように、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
今日はイエス様の癒しを必要としておられる方を近くの公園にお連れして、ささやかな花見をしつつ交わりました。
その方が主の交わりに加わり、主からの慰めと癒しをいただきますようお祈りする所です。
東電が法定濃度の100倍の放射線汚染水11500トンを海に放出したり、原子力安全委が年間の被曝限度量の引き上げを検討したりと、人間的な限界・弱さの故であるものの、あってはならない事をしています。
昨晩の祈祷会では、放射能の影響による遺伝子被害の写真や動画を見つつ、皆で祈りに覚えました。
国や東電のトップが正しい判断と知恵によって、これらの事に当たって行くことが出来ますように。
復旧作業が守られ、祝福され、一刻も早く事態が安定化しますように。
礼拝説教メッセージ音声:面倒見られる者から面倒を見る者へ(使徒9:32-35):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
癒しのわざは、福音書や使徒の働きを見るとさほど珍しくない出来事のように思えるが、現代を生きる我々には、病の癒しは切実ではあっても滅多に起きない事のように思える。
アイネヤの癒しに限っては、それを見聞きしたこの地方の人達が主に立ち返る程に、インパクトのあるものだったようだ。
彼は中風で、8年間体が動かない状態だった。
中風とは半身不随などで体がマヒしてしまう、癒し方い病気である。
この病について聖書の他の箇所で思い出すのは、4人の人が一人の中風患者を担いでイエス様の所に連れて行った場面である。(マルコ2:1-12)
イエス様のいる所は人がいっぱいだったためそのまま連れて行けず、屋上に登って屋根を剥がし、イエス様の所に4隅を吊って降ろした場面だ。
そのマルコの場面と使徒の場面で共通している事は、そこにいた人々に大いなる驚きをもたらした事。
この病が癒され突然立ち上がるなどという事態は、正気を失うほど驚くべき事である。
もう一つの共通している事項として、癒されるときに「起きて寝床を担ぎなさい」という言葉も一緒にかけてもらった事である。
中風患者は体が動かないため人に世話になりっぱなしで、誰かに運んでもらわなくては移動もできない。
人の中には、霊的な中風患者もいる。
その人は肉体的には健常であっても、霊的な感覚や良心がマヒし、霊的に面倒を見られっぱなし、という状態である。
ペテロもイエス様も「自分で自分の寝床を運びなさい」と言ったのは、もはや自分で自分の面倒を見ることができるのだから、以前のように人から面倒を見られっぱなしという習慣から
脱出しなさい、という事である。
イエス様は癒す時に「あなたの諸々の罪は赦される」と言われた。
周りの人達は「神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができるだろうか」と思ったが、イエス様の場合は本当に人の罪を赦す権威があるお方である。
その事を示す為に、敢えて「起きて歩け」ではなく「あなたの諸々の罪は赦される」と言われたのである。
中風の癒しとは「このように、全き回復の他に「罪の赦し」も連想させるものである。
ペテロはこのように声かけた。
「アイネヤよ、イエスキリストがあなたを癒される。起き上がりなさい、そして自分で床を整えなさい。」
イエスキリストが癒される時、霊的にも肉的にも回復すると同時に、諸々の罪は赦される。
人に面倒を見られっぱなしだった人生から、自分の面倒を見れる人生となり、ついては中風の人をイエス様の元に運んでいく人生となるのだ。
アイネヤの身動き出来なかった8年の辛い記憶はたちまち主の栄光の記憶へと創り変えられ、それを見た者は主に立ち返るのである。
霊的にしろ肉的にしろ、中風にかかっている人がいればイエス様の元に連れて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:止まる事を知らず広がる福音(使徒9:19b-31):右クリックで保存
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サウロはアナニヤの手引きによって目からうろこのようなものが落ち、悔い改め、人生の方向性を180度転換した。
アナニヤがサウロを弟子達の所に連れて入った時、そこには大きな驚きと恐れがあっただろう。
なにしろ、あの有名な迫害者サウロがダマスコス入りしたと聞いただけで何人もの弟子達が震え上がった、あの噂の張本人が突然連れてこられ、入ってきたのだから。
しかしその驚きは喜びに変わり、主への感謝に変わったからこそ、その後数日間、弟子達との有益な交わりができたのであろう。
22節「サウロはますます力づけられ、イエスがキリストであることを論証し」
サウロは、あの光に打ちのめされた自身の体験よりも、聖書からイエスがキリストであることを論証した。
元々旧約聖書には、イエスがキリスト、すなわち救い主である事の根拠が、至る所にちりばめられているため、聖書に親しんできたサウロには論破する事は難しいことではなかった。
サウロはイエスの事を語る毎に、ますます力づけられていった。
それは御言葉を伝える者なら誰もが経験している所ではないだろうか。
イエスが神の子である事、罪を赦し永遠の命を与える主である事を伝えれば伝える程、力が湧いて来るものだ。
後になって思い返してみると、よくもあそこまで福音を伝えたものだ、と思う事もあるが、主ご自身が守って導いてくださった事も同時に分かるのである。
イエスが主である事を伝える者には御霊の助けがあり、霊が燃やされるため、人の目も危険も気にならなくなって来るのだ。
かなりの日数が経った後、サウロを殺そうとする陰謀が起こるが、主はそのような隠れた陰謀さえ分かるように取り計らってくださり、みすみす殺されるような事が無いように配慮された。
街の門を昼も夜も監視され、サウロは行き来できなくなってしまうが、弟子達は彼をかごに乗せて城壁伝いに吊り降ろし救い出した。
そして彼はエルサレムに着き、弟子達の仲間に入ろうとするのだが、やはり交わりに加わる事に難航する。
しかし「慰めの子」と呼ばれるバルナバが、サウロを執り成し、弟子達の交わりへ加える事に成功した。
31節「こうして教会は、エルサレム、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方にわたって平和を保ち、主〔へ〕の恐れと聖霊の慰めにあって、その基礎が固まり、発展し、その数を増していった。」
いのちの危険がいつも隣り合わせなのに発展して行くとは、一見すると相反しているかのように見えるかもしれない。
しかし福音とは、人の罪が赦され、病や貧しさから解き放たれ、死の門をも打ち破るいのちの道であり、いのちの危険があっても、なおいのちで飲み込んで行くからである。
聖霊によって慰めを受け、いのちを増やしていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
本日4/13は多忙のため早天メッセージ配信ができませんでした。
水曜は朝から晩まで奉仕のため配信が遅くなり勝ちになります。
明日4/14に本日分の配信を行います。
今日は、ネットを通じて交わりをさせていただいている香川の聖徒から、天声の兄弟姉妹達にと
讃岐うどんを大量に送っていただきました。ヽ(´∀`ヽ)
他にも聖徒達から多くの志しをいただき、主の喜びで満ち足りています。
それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(ピリピ4:18)
香ばしい香りを捧げられた全ての聖徒達に、主が豊かに報いて下さいますように!
礼拝説教メッセージ音声:目からうろこ(使徒9:10-19a):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「たちまち鱗(うろこ)のようなものがサウロの目から落ちて、見えるようになった。」(使徒9:18)
目からうろこということわざの起源は、聖書のこの箇所あらである。
他にも「笛吹けど踊らず」「豚に真珠」など聖書由来のことわざはあるが「目からうろこ」とはそれまで気付いていなかった意外な事、見えていなかった事が開け、その世界が広がる事である。
それまで目は見えていなかったサウロの目は見えるようになり、霊的な盲目状態もまた開けて真実が見えるようになった。
サウロはそれまで、神様に熱心だと自負して突っ走っていたが、実は盲目の状態でやみくもに走っていたのだ。
彼は主の弟子達を脅迫し殺そうという、間違った方向性で意気込んでいたため、主ご自身からの直接的な介入があったわけである。
古今東西、主の弟子達を迫害して燃えていた者は大勢おり、そのまま変わらず終わった人生もあれば、サウロのように変えられた人生もある。
変えられるには主の直接介入が必要な事もあるが、主からの促しに「応える」という、本人の側の決断と行動も必要である。
サウロは既に有名であったため、身に危険を招かないために、180度方向転換した事を隠してひっそり生活するという選択肢もあったかもしれない。
しかし彼は、主からの促しと与えられた召命に素直に答え、それまでの地位を捨てる道、命の危険を冒しても福音を伝える道を選んだ。
もし彼ほどの器の人物がひっそりと信徒生活を送る選択をしたら、主はきっと別の器を起こされた事だろう。
しかしそれなら、彼が新約聖書の大部分を書く事も、地中海世界を伝道して回り多くの魂を救う事も、朽ちるこのとの無い栄光の冠をいただく事も無かったであろう。
主からの促し、主の召命に応えるなら、大いに用いられ、朽ちない栄光をいただく事になるのだ。
アナニヤは使徒9章にしか出て来ないが、彼について分かる事は、彼はダマスコスに住み、主から特別な任務を頂いてそれに従順に従う良き聖徒だという事である。
彼は事前に、サウロという人物について詳しく知っており、サウロがダマスコスに来た理由も、どんな権威を祭司長から得ていたかも知っていた。
初代教会の情報網の細かさ、伝達の早さが伺える。
ダマスコスはガリラヤ湖の北にある町で異邦人が住み、ユダヤ人は比較的区別しやすく、故にキリスト者も比較的見つかりやすい状況だったと思われる。
キリスト者達は、あのサウロがそちらに向かったぞという事で多くは事前に逃げたと思われるが、それでもアナニヤはダマスコスに残っていた。
アナニヤには主から、サウロに手を置いて癒すという使命を託された。
もしサウロを知らない聖徒にこの使命が託されるなら、もっと楽な気持ちでサウロの所に行ったであろうが、主は敢えて、サウロを良く知っているアナニヤを召命した。
サウロは99.9999%改心は望めないキリスト者にとっての天敵だったかもしれないが、人の見方と主の見方は違うものである。
人の目からは不可能でも主には不可能は無く、改心するハズの無い者をも改心させ、主は栄光を表すのだ。
私達もアナニヤのように、目が見えず頑なな”うろこ”が付いている人の所に行って、うろこを取ってやるように遣わされる事がある。
アナニヤは相当嫌だっただろうし、私達も相当嫌だろう。
今から聖徒達を逮捕したり殺害してきた組織のアジトに行って、目が見えなくさせられているボスに手を置いて癒してやりなさい、と、主から言われるとしたら、私達も「あの人はちょと嫌です」と訴えたいものだ。
しかし、主は「行きなさい」と言われ、アナニヤはその言葉に従い、行って手を置いて癒した。
主に行けと言われるなら行くべきであり、主の言葉に従えば不可能は可能に、サウロはパウロに変わるのである。
主のなさろうとしている事はある時信じられないかもしれないし、私達にはとんでもない危険があるように見えるかもしれない。
しかし、主の促しに従うのであれば、大いなる祝福と恵みをいただくことが出来るのである。
サウロやアナニヤのように、主からの召命に忠実である皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
近くの川沿いは桜並木で、桜はやっと咲き初めた感じです。
毎年この時期に夜店が並ぶのですが、電気節約という事で提灯が消えていて、寂しげでした。
当たり前の日常が早く戻って来ますよう、お祈りしている所です。
