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今までマルコを中心に福音書を解き明かしてきましたが、本日でマルコ福音書は終りで、明日以降は、使徒の働きに移りたいと思います。 昨年7月以来、今日までの平日の毎朝、総計でおよそ130回。 最初は福音書を簡潔に説いて行こうと軽い気持ちで始めたのですが、まさかこんなに壮大になるとは思わず、またこんなに深い真理をたくさん得る事が出来るとは思ってもみませんでした。 御言葉は1節1節の中に、実に多くの宝が隠されており、他の箇所と有機的に結び合い、共鳴し合い、人間わざではとても手に負えるシロモノではないです。 今日の御言葉の中に、信じる者は「新しい異言(言葉)を語る」とありますが、まさに、それまでの私の知識や経験とは「異なる」源、聖霊から来るからこそ、御言葉を解き明かす事が出来るのです。 主が語らせて下さる限り、語り続けたいと思います。 なお、早天礼拝、主日礼拝、祈祷会メッセージは基本全て録音しておりますので、音声CDとしていただきたい方はお申し付け下さい。 CD1枚につき早天メッセージなら3〜4日分が入って、今なら限定価格の1枚200円、6枚セットで1000円です。
昨年7月以来、マルコ福音書を中心に解き明かしてきたが、本日でマルコ福音書は最後である。
明日以降は、使徒の働きに移りたい。
礼拝説教メッセージ音声:福音を伝えよ(マルコ16:15-20):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
マルコ福音書は、主イエス様による全被造物に対する福音宣教の命令で終わる。
全ての「人に」ではなく全ての「被造物に」と言う所がミソである。
全被造物は、切実な思いで御国の子達の表れを待ち望んでいる(ローマ8:18-23)とあるため、福音を信じて神の子とされた者が増える事、その事が、被造物にとって福音である。
そして人に対しては、言葉による宣教が定められている。
福音(エウアンゲリオン)とは元々、ギリシャ語で「良い(エウ)知らせ(アンゲリオン)」という意味で、戦いの勝利の伝令のような、喜ばしいことを伝えるたよりの事である。
戦勝地から伝令が自国に向かって行く先々で「我々が勝利したぞ!」と伝え、それを聞いた自国の者達は喜び湧き上がったが、我々にとっては何に対する勝利であろうか?
私達の軍の最高司令官・イエス様は、サタンに対して、死に対して、罪に対して勝利した。
それまで罪の断罪下にあり、死に対する恐怖につきまとわれ、サタンの圧政下に奴隷状態でいいように搾取され、こき使われてきたが、もはやその必要はないのである!
単に勝利したというだけでなく、勝利された私達の新しい王様は愛なるお方、すばらしいお方である事も、私達に良い知らせである。
私達はイエス様の愛の統治の内に入れられ、永遠の御国の支配下にいるのだ。
イエス様の事を聞いていながら、信じない者は、既に、裁かれている。(ヨハネ3:16-21)
なぜ「既に」なのか。
それはその人が光よりもむしろ暗闇を愛し、元々が暗闇であった事が明らかとされたからである。
神は光であって暗いところは全く無いが、私達は世にある限り、所々にぽつぽつと闇がある。
所々に闇がある事を望まない者は光を愛する者であり、さらに光に照らされて闇が無くなっていく事を望み、ますます主の元に行く。
しかし闇を愛する者は、自分の中にある闇が光に照らされる事を望まないため、光の元に来ない。
イエス様を信じる者には、数々の良い徴が現れる。
まずイエス様の名によって悪霊を追い出す権威が与えられる。
悪の頭・サタンに対して勝利しているため、権威的には私達が上だからである。
また、新しい異言(言葉)を語る。
この新しい言葉は、異国語であるかもしれないし自国語であるかもしれないが、それまでの自分とは「異なる」源、聖霊から来る言葉であり、福音を語る必要のある場面において、人間自身の知識や経験に基づくのではなく、神様からの知識による言葉を、語る事が出来るのである。
また、手で蛇をも掴みむ事が出来、毒を受けても害を受けない。
パウロは火の中から蛇が出てきて、それを何の害も受けず火の中へ払い落とす事が出来た。
パウロが手で蛇を払ったのと同じように、私達もサタンや悪霊を火の中に払い落とし、毒を受けても害される事は無い。
映画の中で、サタンや悪霊は絶望的な力で人間を屈服させる様子をたまに見るが、イエスにあって勝利者の側にいる我々は、権威的に奴らのはるか上におり、私達を主のゆるし無しに出来る事は何も無く、むしろ、私達が命じる事が出来るのである。
また、病んだ者達に手を置けば、彼らは元気になる。
正しい人の信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださる。(ヤコブ5:15)
事実、教会においても手を置いて癒されている事例がある。
信じる者には、これら数々の良きしるしが伴われるのである。
イエス様は天に上げられていった時、祝福しているその姿勢のまま離れていった。(ルカ24:51)
そこで彼らは喜びを持って、至る所で福音をのべ伝え、信じた者達の中には数々の良き徴が現れ、使徒の働きに多く記されている。
使徒達の働きは今の時代にも、我々主を信じる者達を通して成されており、イエス様は今も天において私達を祝福し続けておられる。
イエス様を信じる事によって、その名による数々の徴を成し、良き働きを行う皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
鍋を焦がしてしまいまして、集会室が微妙に焦げ臭いです。 キャンドルを灯したり、ファブリーズを壁に吹きまくっていますが、なかなかニオイが取れません。 何か良い方法は無いものでしょうか? ご存知の方がありましたら、教えて下さい。
礼拝説教メッセージ音声:定められた歩みで(ヨハネ21:18-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ペテロは3度、主イエス様に「ほれこんでいる(フィレオー)」と告白し、主はペテロに「私の羊たちの世話をしなさい」と使命を託した。
「アーメン、アーメン、あなたに言う。あなたは若かった頃は、〔自分で〕あなた自身の帯を締めていたし、自分の望むところを歩いていた。だが、年をとれば、あなたは両手を拡げ〔るだけで〕、ほかの人があなたの帯を締め、あなたの望まないところへ連れて行くことになるだろう」(18節 岩波訳)
イエス様にほれこんで、ついて行きたいと思う働き人は、まさしくこの姿になってゆく。
信仰が若ければ若いほど、自分のやりたい事をしたく思い、自分の望む所へ行きたいと思うが、信仰が成熟すればするほど、自分は単に両手を広げるだけで、あとは主の導かれるまま、聖霊にうながされるままになって行く。
自分の望む事ではなく主の望む事に委ねれば委ねるほど、また、生まれながらの魂が死ねば死ぬほど、主に栄光を帰する事となって行くのだ。
主がペテロに「私について来なさい」と言ったとおり、私達も従うべきである。
ペテロは、ヨハネはどうか、と主に尋ねた。
人はどうしても、他人の事も気になるもので、事実、他の弟子達も、ヨハネは死なない、と、イエス様の言葉を誤解して噂を立てるほどだった。
しかし、人がどうこう思うかは関係ないし、主がどう"願って"いるかさえも、関係ない。(22節)
ただ御父が定められた通りの御心が成っていく。
例え主が死なない事を"願って"いたとしても、死ぬ事が定められている人は、死ぬのであり、それぞれに量り与えられた運命を両手を広げて受け入れ、御霊の帯に委ね、導かれるまま生きていけば良いのである。
ある者は平穏な人生、ある者は病気、ある者は牢、ある者は殉教が定められているかもしれないが、自分の運命も、他人の事も心配するには及ばない。
各々にしか背負う事の出来ない使命が量られ、道のりを一日一日を感謝しつつ、聖霊に導かれながら歩んで行くなら、安らかに歩んで行く事が出来る。
それは自分の魂の望み通りではないが、単に両手を広げて委ねているだけのラクな生き方であり、委ねれば委ねるほどその生き方が麗しく、甘くなって行き、後には神に栄光を帰する形で御国に凱旋する事が出来る。
主の証しは真実であり、これらの事を書き記したのはこれを読んだ者が主の交わりに入るためだ、とヨハネは書簡に書いた。
ヨハネが書物を持ってイエスを証ししたように、一人一人もイエス様の事を証するべきである。
イエス様のわざが一つ一つ書き記されるとすれば、その書き記されるはずの書物は、この世さえも収めきれないだろう、とヨハネは記したが、決して誇大表現ではない。
この世はこのお方によって創られ、このお方によって成り立っているからである。
世の中は広く、福音によって埋まっていない所がまだまだ多い。
だから惜しみなく、安心して福音を広める皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
早天礼拝で主に使う聖書は「岩波書店新約聖書翻訳委員会訳」(略して岩波訳)です。 これはリベラルな方々が訳したものですが、原語に徹底して忠実で、日本語的にヘンに聞こえるほどです。 しかし、神学的な意訳や、聞こえの良い人工装飾も混ぜ込んでいないため、ロゴスとしての言葉を説明する際に、非常に役立っています。 今日の箇所は、その岩波訳の威力が発揮されている所です。 ちなみに主日礼拝や、早天で旧約を引用する際は、新共同約を使っています。 私が30年来使って一番馴染んでいる聖書は新改訳ですが、著作権の関係で公には使用しません。
礼拝説教メッセージ音声:主は知っておられる(ヨハネ21:15-17):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
※ 聖書は岩波書店新約聖書翻訳委員会訳を使っています。
ペテロはイエス様の所に、わざわざ服を着てから湖に飛び込み、イエス様のところへ泳いで行った。
イエス様が弟子達に暖かい炭火焼きの魚とパンでもてなし、満腹させ、一息つかせた後、シモン・ペテロに個人的に関わられた。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人達にまさって私を愛しているか」
ヨハネには「人」という意味があり、またシモンには「聞く」という意味が込められている。
すなわち「ヨハネの子シモン」は「人の子よ、聞け」という意味にも取る事ができる。
また、このイエス様の「愛しているか」という言葉には「アガペー」という完全な愛を表す言葉が使われている。
イエス様は、人間の子に聞かれる。
完全な愛し尽くす愛は、あなたにはあるのか?
ペテロは「はい、主よ」と言ったものの、少しうなだれた。
何日か前、イエス様の事を3度も「知らない」と公に言い、呪いをかけてまで誓ったから。
そこでペテロは「アガペー」の言葉を変え
「私があなたにほれこんでいること、それはあなたにはわかっています。」
と言った。
「ほれこんでいる」とはギリシア語で「フィレオー」、家族や友人など親しむ愛を表す言葉である。
つまり完全では無いけれどもイエス様を親っている事は、あなたはご存知ですよね、と答えるしか無かったのである。
そこでイエス様は「小羊たちの世話をしなさい」と言われた。
世話をするとは、食べさせ養うという意味である。
再びイエス様は、全く同じ質問をする。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人達にまさって私を愛しているか」
シモンからすれば、あまり質問されたくない事だったが、再び質問された。
シモンはうなだれつつも、再び同じ答えを答えるしか無い。
私がフィレオーしている事は、あなたはご存知である、と。
所詮、人間の子には、どんなに叩いてもアガペーの愛は出てこない事を思い知った事だろう。
イエス様は「私の羊達を牧しなさい」と言われた。
「牧す」とは「世話をする」よりも大きな意味があり、食べさせ養うだけでなく、訓戒しつつ面倒を見る意味がある。
さらに大きなチャレンジを受けたのである。
イエス様は再び質問する。
「ヨハネの子シモン、、、」
ペテロには、自分には愛が無い事は分かりきっている。
さらに心がしなえただろう。
しかし主の次の言葉は
「あなたはわたしに、ほれこんでいるのか?」
つまり、私を完全な愛では無いけれど、慕っているのか、と、ペテロの不完全な愛のレベルに降りてこられた。
ペテロに出来ない「アガペー」を3回要求する事は無く、さらに大きなチャレンジを与える事もしなかった。
あたかも、小さい子供が悪い事をして泣こうとしている所へ、大人がしゃがんみ、子供と同じ目線に来て、なだめてくれるかのように、ペテロに接して下さった。
彼の不完全な愛のレベルに降りてきて、同情するかのように、「あなたはフィレオーなのか」と尋ねて来てくださった。
ペテロは3度目の言葉がフィレオーの言葉を使ってきたので、悲しくなり、
「あなたは私のすべてがわかっています」
と言った。
ペテロの最初の2回のイエス様への返答で、あなたは私を「わかっている」と言ったが、この「わかっている」の原語は”オイダー”、すなわち、主観的に知っているという意味である。
例えば「女は地図が読めない、男は話を聞かない」事を、私達も少しイライラな感覚と共に「わかっている」。
そして3回目のペテロの返答には、ペテロは”ギノスコー”すなわち「客観的に知っている」という意味で、イエスに訴えたのだ。
女は地図が読めない、男は話を聞かない事は、脳の構造の違いであり、男も女もそう出来ている、という事を、学者達は客観的に「知っている」。
ペテロはイエス様に、人の子には完全な愛なぞ元々無い、いつでもまた裏切るかもしれないあやふやな存在として成り立っている事を、あなたは「知っている」でしょう?
そう訴えたのだ。
主は私達の事を全てご存知で、どこまでが大丈夫で、どこまでが無理なのかを知っている。
「あなたを愛す事がきます」「あなたを裏切りません」などと言っているようでは、まだまだなのだ。
人間の頑張りや自我の強さは、主は喜ばないし、満足もしない。
なぜなら、完全な愛は無く、従いつくす事は出来ないからである。
私達もペテロのように、主の前に
「あなたは私がすぐに罪に走ってしまう事を感覚として知っておりますし、また、私達の成り立ちとして罪があり完全な愛は無い事を、客観的にも知っておられます。」
と訴えるしか無い。
傷ついた道のあるかないかをイエス様に見ていただき、全ての面でケアしていただけるみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:繊細かつ圧倒的に(ヨハネ21:1-14):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
弟子達にとっての福音の働きの原点は、イエス様の言葉どおり行動したら、自分の経験や努力などあざ笑うかのような大漁であった出来事と、「人間を獲る漁師にしてあげよう」というイエス様の言葉であった。
十字架の復活の後のイエス様から、息を吹きかけられ、聖霊を受け、権威が与えられ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」とイエス様に言われていた。
しかしそのうち彼らが始めたのは、イエス様と出会う前にしていた仕事、「漁」であった。
漁に出た日、元漁師が少なくとも三人いたのに、夜通し働いても何も獲れなかった。
そんな時、イエス様は現れ、声をかけて下さった。
「幼子達よ、パンと一緒に食べるさかなが無いのだろう。」
この「さかな」は、原語的にはパンと一緒に食べる副食物の事である。
イエス様はパンだけを食べるには口が寂しいから、漁をしているのだろう、と声をかけ、弟子達はそれがイエス様かどうか知らないまま「ええ。」と答える。
イエス様は「舟の右側に網をおろしなさい」と言い、その言葉通りに弟子達がすると、網もやぶれんばかりの多くの魚がかかった。
弟子達は、彼らの福音の働きの原点を思い出し、そしてその声の主は主だと気付いた。
この場面においてイエス様の示された、ご自身のご性質とは。
「人が何年もかけて培ってきたプロフェッショナリティを遥かに越える力を静かに示し、生活に必要なものを溢れるばかりに与えてくださる」という性質である。
彼らが漁をしていた理由は、単にパンに添えるわずかな魚がその時欲しかっただけかもしれないし、あるいは、本格的に元の職業に戻ろうと、プロとして漁をしていたのか、分からない。
どちらにせよ、彼らが御声に従って引き揚げたのは、153匹の大きな魚という圧倒的な結果であり、それでも網は破けず、船も沈まなかった。
復活の後のイエス様の現れ方は直接的な言葉ではなく、静かに、繊細に、ご自身のご性質を現される。
主はかつて、5千人を満たした時、何籠パンが余ったか、4千人を満たした時、何籠パンが余ったかを思い出して見よ、日々食べるものについては心配しなくても良い、と言われた。
この湖の場面においても、「わたしがイエスだ」とか「なぜ人間を獲る漁師ではなく魚を獲る漁師をしているのだ」となじる事はされなかった。
春から初夏にかけての寒い夜、一晩中網を打っても一匹も取れなかった状態だった彼らを、イエス様は暖かい炭火をおこし、パンと魚を焼いて、こおばしい香りを漂わせて迎えていた。
主は「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われ、主のアドバイスに従って彼らが獲る事の出来た魚を用い、焼かれた。
主のこの一連の振る舞いは、どんなに心がほぐれる事だろう。
主はこのように、お腹を満たし、肉的な必要を満たし、心を開かせて下さる。
生活の必要は圧倒的に満たされ、その上で福音の仕事が存分にできる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:
第一礼拝全体(日本語) メッセージ:バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存
第三礼拝メッセージ説教(日本語・韓国語)バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要
ベルシャツァルがバビロン最後の王だった。
王は宴会を開き、宴もたけなわの時、聖なる神殿にあった金銀の器を用いて、妾たちと酒を飲もうとした。
本来、聖なる場所にあって聖なる事に用いられるべき器が、悪い王とその取り巻きの娯楽のために使われ、さらに彼らは金や銀、鉄など、色々な材料で作られている神々を褒め称えた。(ダニエル5:1-4)
この聖なる器は、今の終りの時代においては、私達キリスト者になぞらえる事ができる。
黙示録17章において、バビロンを象徴する大淫婦が登場し、彼女は獣にまたがり、杯に聖徒達の血を注いで酔いしれる情景が出てくる。
バビロンにおける神々は、金や銀など黙示録18:11-13 における様々な商品が取引されて築き上げられる富であり、やり取りされる商品には人間さえも含まれているが、いずれ大淫婦は滅ぼされ、取り巻きの商人達も富を失って泣く日が来る。
ダニエルの時代、聖なる器物がはずかしめを受けているその時、超自然的な指が現れ、堕落した世にあって、まことの神に忠実に仕えたダニエルにしか読むことの出来ない字が記された。(ダニエル5:5-9)
その字の中の「メネ」は数えるという意味で、「テケル」は量りにかけられるという意味である。
私達は人生の歩みを数えられ、神様に量られたいのちの時間を生かされている。
いのちの量りが満ちた時、神様の目方に足りるか足りないかを、査定される。
ベルシャツァル王は量られた結果、足りないと見なされ、パルシン、すなわち王国は分裂し引き裂かれてしまい、彼はその夜のうちに殺されてしまい、同じ日にダニエルには偉大な位が与えられた。
今の時代は、有形無形の様々なものが売り買いの道具としてやり取りされ、人の労働時間は切り売りされ、一部の金持ち達は、恋愛も忠誠心も全て金で買えると思っているような、人間が商品として扱われている時代である。
ノアの洪水やカナンの聖絶も、バビロンの滅亡も、人間の高慢がこのように、極みに達した時に来た。
邪悪な者が、聖なる者を蹂躙する期間は、いつまでも続かず、時が量られている。
「メネ、メネ・・・」は、高慢な者や時代の王だけに来る言葉ではなく、全ての人達に、あてはまる事である。
もし私達が数えられ、量られたら、絶対に足りず、裁きの座において裂かれるしか無い。
しかし、イエス様が我々の代わりに、罪人に数えられ(メネ)、邪悪な者に銀で量られ(テケル)、十字架上で裂かれ(パルシン)て下さったから、その裂かれた肉体を食べた私達は、まことの命を得る事ができた。
私達は元々、命の木から分離していたが、イエス様の裂かれた肉体を通していのちの木を得る事ができた。
主の内にいる私達は、決していのちの木から分離される事は無く、裁かれる事もない。
しかし、信じない神に逆らう悪の大盤振る舞いの人達には、メネ、メネは、そのままの言葉であり、王は、その通りの死を遂げた。
私達は、ベルシャツァル王になり得るし、王の取り巻き商人にもなり得るし、ダニエルにもなり得る。
裁きの日は思いがけない時に来て、主イエスの名を持っていない者は、裁きにあう。
主にある者でも、いつまでも主は来ないと思って、聖徒達を打ち叩いたり、酒を飲んだりして、どんちゃん騒ぎをしているようなら、思いがけない時に主は来られ、そのような者達を厳しく罰する。(ルカ12:42-46)
終りのしるしが現れている今、私達は常に目を覚まし、私達の身代わりにメネ、テケル、パルシンされて下さったキリストにしっかり留まるべきである。
主が戸口に近づいている事をますます意識して、ダニエルのように忠実に日々を過ごし、かの時には栄光を受け、バビロン王の滅びを見る皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
昨晩(今朝)はサッカーのアジア杯決勝を、教会員の経営しているブティックのテレビで見ていました。 延長の後半で決めましたね! 見終わった後も、礼拝準備をしていたので、ちょっと今眠いです。