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金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
ベエル・シェバを得た後に受けたアブラハムの最終テスト(創世記22:1-19)
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創世記22:1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
22:2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

1サムエル記1:11 そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。


創世記22:3 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
22:4 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。
22:5 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
22:6 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
22:7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
22:8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。
22:9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
22:10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、
22:11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。
22:12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
22:13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

ヘブル11:17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
11:18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。
11:19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

創世記22:15 主の使は再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、
22:17 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、
22:18 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。
22:19 アブラハムは若者たちの所に帰り、みな立って、共にベエルシバへ行った。そしてアブラハムはベエルシバに住んだ。

2コリント9:7 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。
9:8 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

主の御名を呼び求め、主との交わりに入っていく事によって、罪をきよめていただく(詩篇38篇)
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『記念のために(to bring to remembrance)うたったダビデの歌』(詩篇38篇表題)

この詩篇は、7つある悔い改めの詩篇の内の一つである。
ダビデは、何かしらの罪を犯したために、この詩篇を記した。
人は一生の内、何度も、無意識的に罪を犯し、人を傷つけ、神の御胸を損傷させてしまうが、この詩篇は、そのような都度、私達も告白すべき祈りである。

詩篇38:1 主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
38:2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

この詩篇で、ダビデは、「主(エホバ)よ」「主(アドナーイ)よ」「わが神よ(エロハーイ)」「あなたは」「あなたに」と、主を呼び求める言葉を、何度も何度も発している。
罪に責め苛まされる時、主の御名を呼び求めるべきなのだ。

詩篇38:3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。
38:4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

彼は、自分の中でありありとうごめいて表面化してしまう罪ゆえに、主から責められ、突き刺されているような思いがしている。
習慣的・自動的・無意識的に犯す罪が、自分で償いきれる分量を超えて、重くのしかかり、それに押しつぶされてしまうように感じる事がある。

私達が病むのも、また体に現れてくる諸々の疾患も、全て、罪ゆえである。
罪のとげが自分の体を蝕み、精神を突き刺し、病ませるのだ。

詩篇38:5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

ダビデは、自分の罪が、あたかもじゅくじゅくと膿んで悪臭を放つ傷口のようだと言っている。
その溜まりに溜まった汚れが破裂し、膿を周囲へ飛ばして汚し、悪臭を振りまいてしまうように。
自分から離れなくなってしまった罪は、そのように、無意識的に人を、周りを、そして主の御胸を汚すものだ。

詩篇38:6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。
38:7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
38:8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。

腰(ケセル)は、信頼する、確信する事の意味もあり、安定の源であるが、ダビデは自ら犯してしまった罪ゆえに、安定に事欠いており、心乱されうめいている。。

以上のように、自分の中にパターン化されている罪、自動的・無意識的に犯して、自分で償いきれる分量を超えて重くのしかかる罪ゆえにさい悩まされる時、どうするべきか。

その時に「してはならない事」は、アダムとエバのように、主の御顔を避けて隠れる事、覆い隠す事、他人のせいにして自分の罪を告白しない事である。
そうしてしまうなら、彼らのように、楽園から追い出され、労苦と呪いがつきまとってしまう。

ダビデはその真逆、積極的に自分の罪を主に告白し、主との交わりへと積極的に入っていき、罪を扱って下さる主を何度も呼び求めた。
それでこの詩篇で、彼は、何度も「主(エホバ)よ」「主(アドナーイ)よ」「わが神よ(エロハーイ)」「あなたは」「あなたに」と、主を呼び求める言葉を何度も発している。

詩篇38:9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。

ダビデは自分の中の全てを主に開示し、主に取り扱っていただく体制を、主の前に整えた。

詩篇38:10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。
38:11 私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。
38:12 私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。

ダビデは、彼を責める人々がいる事も主に打ち明けた。
人に対して罪を犯し、それを責められても仕方がない場合は、相手に謝意を示すと共に償いをすべきであるが、ありもしない事で悪口雑言を言われる時がある。
その時のダビデの対応が以下である。

詩篇38:13 しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。
38:14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。

ダビデは、善にかえて悪で返すような者(19-20節)に対しては「耳が聞こえない人のよう」「口をひらかないおしのよう」になった。
イエス様も同様、彼を訴える者にはそのように対応した。

善を悪で返すような悪人からあざけられ、ありもしない事で悪口雑言を言われるような時、私達もそのようにするのだ。
人の悪意、人からの悪口に対しては、耳が聞こえない者のようになり、また「悪口」に対し「悪口」で返さず、ただ正統にさばいてくださる主に委ね、そして私達の耳は主に対して開き、口は主に対して開くのだ。
ダビデはそれをした。

詩篇38:15 それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。

この1節の中に、「主(エホバ)よ」「あなた」「わが神(エロハーイ)」「主(アドナーイ)よ」と、4つの主を呼び求める言葉がある。
罪の責めに悩まされる時は、ただ主を呼び求めるのだ。
私達の救い主・イエス様のヘブライ語読みは「イエシュア」、意味は「主は救い」である。
このイエス様の御名を、信仰をもって呼び求める時、「神は救い」だと告白して呼び求めているのだ。

詩篇38:16 私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」
38:17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。
38:18 私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。

ダビデは、自分の罪を言い表した。
自分の罪を認め、それを表明する時、不安になるかもしれない。
そこでダビデは主に願う。

詩篇38:21 私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
38:22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。

ここでも「主(エホバ)よ」「わが神」「主(アドナーイ)よ」「私の救いよ」と、4つの主を呼び求める言葉がある。
ダビデは罪を犯した時でも、どんな時でも、積極的に主を色々な呼び名で呼び求めた。
このように、いつでも絶えず主を呼び求め、主と関わる「交わり」の中にこそ、罪や汚れが清められる源がある。

1ヨハネ1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

使徒ヨハネは、交わりへの参加を促している。
なぜなら主は、二人でも三人でも主の御名がある交わりの中におられ、そのイエス・キリストの血潮の中に、罪のゆるしがあるからだ。

1ヨハネ1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

使徒ヨハネも、罪の告白を説いた。
自分の罪を告白し、悔い改めるなら、神はその罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。
そのような罪を告白した人に対して、主は弁護者となり、告発者・サタンに立ち向かって下さる。

ゼカリヤ3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシ3:1 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。
3:2 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
3:3 ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、
3:4 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。
3:5 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。

大祭司ヨシュアは、バビロン捕囚から戻ってきた時代の人である。
バビロン捕囚という罰を受け、しっかりと悔いて改めたなら、主が弁護者として立ってくださるのだ。

罪のゆるしは、ダビデのように悔い改め、そして正直に告白し、主との交わりの中へ入っていく人のものである。
アダム・エバのように、神から逃げ隠れ、自分の罪を隠す間は、のろいの中に留まり続けるしか無いのだ。

大胆に主の元に進み出て折にかなった助けを得るために(ヘブル4:14-16)
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ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

ルツ記3:6 こうして彼女は打ち場に下り、すべてしゅうとめが命じたとおりにした。
3:7 ボアズは飲み食いして、心をたのしませたあとで、麦を積んである場所のかたわらへ行って寝た。そこで彼女はひそかに行き、ボアズの足の所をまくって、そこに寝た。
3:8 夜中になって、その人は驚き、起きかえって見ると、ひとりの女が足のところに寝ていたので、
3:9 「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた、「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い親戚です」。
3:10 ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。
3:11 それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。
ルツ3:3 それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。
3:4 そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう」。


ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
 

1テサロニケ人への手紙 講解説教 水曜夕礼拝
たった3週間のチャーチプランティングで模範教会へと成長する秘密(1テサロニケ1:4-6)
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エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
召命の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 6/9:エレミヤ28:15 (エレミヤ28章)
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御言葉は信仰のバンドによって心と行いに結びつけよ(申命記11:13-21)
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申命記11:13 もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、
11:14 主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、
11:15 また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
11:16 あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。
11:17 おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。

1列王記17:1 ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。

申命記11:18 それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、
11:19 これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、
11:20 また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。
11:21 そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。

マタイ23:2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
23:3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。
23:4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
23:6 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、
23:7 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。

ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、/「わたしが怒って、/彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、/誓ったように」/と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。

ニューイヤーズ・イブ礼拝

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執筆 : 
pastor 2019-1-1 4:50

ニューイヤーズ・イブ礼拝
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初めであり、終わりであり、そして初めである主(黙示録22:10-15)
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黙示録22:10 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
22:11 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
22:13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。

主日礼拝


ベエル・シェバは私達・神の民のもの(創世記21:33)

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 天声では例年、過ぎ行く年の最後の数時間、悔い改めの祈りで罪の垢を落とし、年が改まった瞬間から、礼拝によって新たな年を初める。
2018年が明けた最初の礼拝ではベエル・シェバの言葉が与えられ、天声のカレンダーにその言葉が記された。
 
 ベエル・シェバとは、私達の信仰の父・アブラハムが開墾してしばらく定住した地で(創世記21章)、
水を豊かに汲み上げられる地、敵が入り込んで来ない安心して生んで増えて行ける広い土地である。
 
 今年、まさにベエル・シェバのような安心できるような広く良い所有が与えられた聖徒が横浜に、成田に、静岡に出た。今年を納めるにあたり、ベエル・シェバを得る方法を今一度おさらいし、いかにそこへ入り、いかにそこを保って行くべきかを復習したい。
 
 ベエル・シェバは最初、アブラハムが開墾して井戸を掘ったが、アビメレクのしもべ達が奪ってしまった。
しかし、アブラハムにイサクが生まれた後、何をしても栄える彼を、アビメレクは恐れ、不可侵条約を結びに来た。その時アブラハムはベエル・シェバを返すよう抗議し、見事、奪い返した。(創世記21章)
 アブラハムがもしこの時抗議していなかったなら、黙認的に奪われたままだった。今年まだベエル・シェバを得ていない、奪われっぱなしのままだ、と心当たりあるなら、その相手に抗議を発するべきである。
 
 奪い返した時、『アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木(אֵשֶׁל:エシェル)を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。』(創21:33) このぎょうりゅうの木・エシェルは、水が無い所でも深くから水を汲み上げる。イスラエルが再建国された時、砂漠地帯だったベエル・シェバを、先祖アブラハムにならってこの木を植えた所、緑化に成功し、今や、ネゲヴ沙漠最大の都市となって『ネゲヴの首都』とも呼ばれている。
 
 このエシェルの木は、詩篇1:1にある「幸い(エシェルאֶשֶׁר)」から派生した語で、イスラエル12部族のアシェル族はこのエシェルの木を旗とし、アシェル部族も、エシェルの木も、共に「祝福」の意味を持っている。
アシェル部族は、兄弟の中で愛され、守られ、妬まれないという最高の祝福を得た。(申命記33:24-25)
 
 このように、ベエル・シェバは、信仰の父アブラハムが正統な手続きを経て入手し、潤いある地へと開墾し、永遠の神・主の御名を呼んだ地である。そのような所を得るよう求め、そして得たなら、主の御名を呼び求め、手放してはならず、豊かに祝福を流し続けるよう、管理し続ける必要がある。神がエデンに人を置いた時、そこを管理させ、そうしてエデンから川が流れて全地を潤していったように。(創世記2:4-17)

 アブラハムの子・イサクは、ききんを理由にそこを離れ、アビメレクの所へ「下って」行ってしまった(26章)。
「下」は世であり、そこは一見、食料に事欠かず、美しく栄えているように見えても、破滅への誘惑に満ちており、降った人は、家族や財産、あるいは命を失い、散々な目で帰って来た例が、聖書に多数ある。
 イサクは困難を「下」の方法で解決するために、世に「下った」結果、散々な目に遭う。妻を「妹です」と偽ったり、百倍の収穫を得ても妬まれ、井戸を埋められた挙句、追い出されたり、行った先で井戸を掘っても奪われ、さらに行った先で井戸を掘っても、奪われてしまった。それは彼は、主が定めた地ではない所に行ったからであり、御言葉によってではなく、目に見て良さそうな「世の方法」で解決を求めたからだ。
 
 主は人や状況を鞭として用いて、ベエル・シェバへと追い立てて行く事がある。たとえ成功してもすぐ奪われてしまったり、狭い所で敵だらけで、やられっぱなしで、いつも気を張っていなくてはならないなら、どこが本来居るべき「ベエル・シェバ」なのか、広く安心して産んで増えて行ける地を主に求めるべきである。

 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、そこには争いが無かったので、その名をレホボテ( 「広場」という意味)と名づけて言う。『いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。』(23節) 彼はようやく争いの無い井戸を掘る事が出来たが、すぐベエル・シェバへ「上る」。
 彼は「上」を見上げ、結局、信仰の父が井戸を掘った地、神の約束がある地こそ、自分が産んで増えて地に満ちていくべき所だと悟ったのだ。するとその夜、主がイサクに現れ、「恐れてはならない」「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、あなたの子孫を増す」と言われた。それで彼は、その所に礼拝場所を築き、天幕を張って井戸を掘り、住み込む準備を整えた。(24-25節)
 
 私達も主が「ここだ」と示される地、仕事、礼拝を求め、そして「ベエル・シェバ」を得たなら、そこで産んで増えて地に満ちていく準備を整えるのだ。ベエル・シェバは、私達・神の民のものである。ベエル・シェバをわがものとし、産んで増えていく皆さんでありますように! 
 
 イエス様のお名前によって祝福します!

義人が受ける報酬の法則(詩篇37:21-40)
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詩篇37:21 悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし「正しい人」は寛大で、施し与える。
37:22 主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。

今回の箇所では特に「正しい人(ヘ:ツァディーク 英:righteous、義人とも訳せる)」が受ける報いを知る事ができる。
では聖書的に、「義人」とは一体何なのだろう。
パウロは「義人」を、次のように定義した。

ローマ1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる(エック ピステオス エイス ピステイン)」と書いてあるとおりである。

ここの原意は、信仰(ピスティス)は、「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
つまり「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から始まり、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事である。
つまりイエス様を信じた瞬間がゴールではない。それはスタートであって、その瞬間から、信仰を所有しつつ、信仰の目的地である天国へと向かって歩み続けて行く「状態にある人」が、義人なのだ。
だから、昨日までは義人だったけれど今日は義人ではないという事が、起こりうる。
それでヤコブは、次のように言った。

ヤコブ2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

アブラハムは75歳の時、神に召され、その言葉通り父の家を離れて神の示す地に言った。
すなわちその時、初めて信仰を所有したのである。
しかし、それを途中で投げ出してしまう可能性は、十分にあった。父テラは目的途上で、投げ出してしまった。

この時期、アブラハムの信仰は全うされていない状態だったが、ヤコブ書二章によると、イサクを捧げたとき、その信仰が全うしたのである。
こうして、神へ捧げられたイサクから生まれる子孫・イスラエルを通して、神に贖われた者、神の所有の民として、神のみわざが全人類に介入できるようになり、さらに彼の子孫からイエス・キリストが出て、この世界を救う事ができるに至った。

以上のように、信仰の完成に至るまで、すなわち、義人とされるに至るまでに必要なのは、忍耐である。
次のように書いてある。

ヘブル10:35 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
10:36 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
10:37 「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
10:38 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。
10:39 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

以上、詩篇37篇後半における「正しい人」「義人」とは、信仰を所有し続けながら、神の目に完成と認められる時至るまで、忍耐をもって歩み続ける人である。

詩篇37:23 人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
37:24 たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。

ここの「人」はゲベル、勇士という意味である。
主は誰も彼もの手をささえ助けるわけではない。信仰を持ち続ける「勇士」をこそ、主は、その人の歩みを定め、その道を喜ばれるのだ。
人が思う勇士と神の目に見える勇士は、違う。信仰を持ち続ける人こそ、神の目に勇士である。
ペテロはイエス様を三度知らないと言って、信仰において倒れてしまったかのように見えても、しかし主は予め、ペテロのために祈っておられた。

ルカ22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

信仰者は、倒れる時もある。しかし七度倒れたとしても、八度目に起き上がる。
それは、主がその手を助け、ささえられるから、と詩篇に書いてある。
イエス様はシモン・ペテロが倒れる事を知っておられ、だからあらかじめ祈って支えておられたのだ。
私達・現代の信仰者たちも、主は支えてくださるのだ。

37:25 わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が/食物を請いあるくのを見たことがない。
37:26 正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。

そうである。
信仰を所有し続けながら歩み続ける人の中に、捨てられて食物を乞い歩く者を、ダビデは見たことは無かったし、私達も、無い。
信仰者は、貧困や不足、困難の時、主に助けを求め、主が彼らに答えて助けるからだ。

37:27 悪をさけて、善を行え。そうすれば、あなたはとこしえに住むことができる。
37:28 主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。
37:29 正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる。

とこしえに住む事ができる人、それは正しい者であると書いてある。
その人は、どのような性質の人であるか。続く節に書いてある。

37:30 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。
37:31 その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。

正しい人は、口にも、心にも、神の御言葉がある。
それを昼も夜も口ずさみ、心に刻みつけている人は、正しい者が受ける祝福を得て、とこしえに神の用意してくださった国に住まうのだ。

37:32 悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。
37:33 主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
37:34 主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。

ここにも記されている。
主が国を継がせてくださる人とは、主を待ち望み、その道を守る人である。
信仰には忍耐が必要である。
信仰を所有し、忍耐をもって、信仰の完成を目指して進み続ける人に対し、主は必ず引き上げてくださる。
そして、悪しき者のわざが滅びる事を、見るのだ。

37:35 わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
37:36 しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37:37 全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
37:38 しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。

書いてあるとおり、私達は、悪を行う者に目を向けてはならない。
そのような者の悪に、目を留め続けていると、心煩わされ、怒り、妬み、あらゆる良くないものをもたらすだけで、どんどん病んでいってしまう。
書いてある。そのような者達は、主が、過ぎ去らせてくださるのだ。
私達がむしろ目を向けるべきは「全き人」であると書いてある。
聖書の中には、信仰における全き道を歩んだ信仰者がたくさん登場し、彼らがどんなに報いを受けたか、が書いてある。
私達もそれらにならう者となり、彼らが受けた報いに私達もあずかる者と期待しつつ、進んでいくべきなのだ。
何よりの全き人とは、イエス・キリストの事である。
私達は彼から目を離さずに歩んで行くべきなのだ。

37:39 正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。
37:40 主は彼らを助け、彼らを解き放ち、彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。彼らは主に寄り頼むからである。

以上のように、悪を行う者は決して長く永らえる事はない。
むしろ、信仰を保ち、忍耐して主の御言葉を守り行う「義人」こそ、永遠にながらえる事が出来る、という法則を、この詩篇37篇から見いだせる。
この法則にしっかり立って、その幸いを豊かに受ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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