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主日礼拝
エッサイの根株から出た新芽(イザヤ11章)
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成田エクレシア礼拝 音声
待降節第二週の今日は、預言者イザヤによるメシヤ到来の預言を見たい。イザヤは、救い主がこの世に来られる時の有様と、彼がもたらす物事の素晴らしさについて、イエス様が来る700年も前に預言していた。
『エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』(イザヤ11:1-2)
エッサイはダビデの父で、彼から出た新芽は、やがてダビデ王家という「大木」となった。しかしダビデの子ソロモンから続く王家は、高慢になり、罪を重ねて悔い改めなかったため、バビロンを通して伐採された。
しかしダビデの子・ナタンから出た「新芽」の子孫に処女マリヤが出て、彼女から救い主キリストが生まれた。
このエッサイの根株から出た若枝、すなわちイエス・キリストの上に、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が留まり、それはイエス様に接ぎ木された聖徒達へと流れて行く。(2節)
彼の統治は、失敗が一切無く、さばきも、間違いが無い。このイエス様に繋がり、神の霊が留まった人には、主を恐れる事が楽しみとなり、見える所や聞く所によって判断せず、正しく判断するようになる(3節)。
世の王には欠けがあり、失敗がある。それは人の中には、自分の目でよしとした所に従って動く「善悪判断」の性質があるからで、気に入った人をえこひいきしたり、気に食わない人を勝手に罪定めしたりする所があるが、主はそのようなお方ではない。「主を恐れる事」こそ、失敗の無い判断と統治の始まりなのだ。
そしてこのお方・イエス様は『正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息(ルアッハ)をもって悪しき者を殺す。』(4節)
正しくさばくものが4つあり、それは、主の正義と、主の公平と、主の口のむちと、そのくちびるの息である。
イエス様の御口からは御言葉という”むち”が出、また息(ルアッハ:霊、聖霊)によって全世界の人々を裁く。
私達も、主の御言葉によって「鞭打たれる」時があり、その時、自分が犯してしまった罪を悲しむが、それで悔い改めるなら、救いと安息を得る。しかし、もし主の御口の鞭を受けても悔い改る事がなく、罪を犯し続けるなら、やがてアッシリアやバビロンのような厳しい鞭が来て、その高慢は、強制的に切り倒されてしまう。
主の御口から流れ出る御言葉と、主を知る事の霊が行き巡る所は、どんな世界へと変わって行くか。そこは、どんな猛獣も動物も、互いが互いを害さず、皆、同じ食物を食べ、平和に共存するようになる。(6-9節)
生き物の「食」が変わるのは、尋常な事ではない。ライオンがどんなに頑張った所で、他を襲って食い物にする本能は、変えられない。しかし、主の御口から流れて来る御言葉と、主の霊によって支配されるなら、いかにライオンのような、熊のような、ヘビのような者であったとしても、そうした獣的な「食い方」は出来なくなり、互いに敵対できなくなって、平和に共存し、同じ食物すなわち「御言葉」を共に食べるようになるのだ。
夫婦や家族などの人間関係で、相手の気に食わない性質や言動を見つけたなら、攻め、追求し、引き裂き、食らいついていた性質も、主を知る知識が覆って主の霊に満たされ支配されるなら、無くなるのだ。
『彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。』(9節)
エッサイの根株から出た若枝・キリストの統治が広がっていくと、主は、その御手を翼のように広げ、各地に散っている残りの民を覆って買い戻される。そしてエッサイの根は、旗印となって高く掲げられ、全世界に散らされた神の民イスラエルは、エッサイの根を求め、集まって来るようになる(10-12節)。イスラエルの中の敵対関係は解消され(13節)、彼らを長らく虐げていた国々はかすめ奪われるようになる(14-15節)。
イエス・キリストというエッサイの根が伸びていく所には、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊に満たされ、正しく物事を判断できるようになり、どんなに獣のような人であっても、平和な人へと造り変えられる。エッサイの根が伸びて行くと、散り散りにされている主の民は集められて来る。
主を恐れ敬うなら、主の霊が、私達に留まる。しかし主の言葉を受けても全く変わらず、ただ自分の望みを為し得たいと主張し続けるなら、切り倒す斧が待っている。私達はこの所を、主の民が集う「聖なる山」とし、海が水で満ちているかのように、この日本という地を、御言葉教育によって主を知る知識で覆い、主の民を集めて行く働きの一端を担って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
罪の問題を主に解決していただいた「幸いな人」(詩篇32篇)
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詩篇32篇 ダビデのマスキールの歌
これは7つの悔い改めの詩篇(6,32,38,51,102,130,143篇)の中の1つである.マスキールの意味は明確ではないが,8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり,アモ5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある.13の詩篇に表題として用いられている.47:7の「巧みな歌で」が〈ヘ〉マスキールであることから,演奏上技巧を要した曲を指すものと思われる(実用聖書注解)
詩篇32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2a 主によって不義を負わされず
詩篇32篇も、詩篇1篇と同様、「さいわいである(アシュレイ)」という言葉から始まる。
どういう人が幸いな人か。
まず、「罪がおおい消される者」、また、「主によって不義を負わされず」の人である。
イザヤ書1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。「紅(トラー)」のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
雪が大地を覆うと、大地がいかに汚くとも、一面銀世界となるが、その雪の下は、相変わらず汚いままである。
しかし「主によって不義を負わされ」ないという、本質的に罪の問題が解消される段階がある。
それは、新しいいのちへ生まれ変わる段階である。
このイザヤ1:18で使われている「紅」という言葉は、ヘブライ語でトラー、ことさら「ミミズ」をあらわす故、ミミズの色である「紅」と訳されている。
主はイザヤを通して、あなたの罪が、ミミズのように醜く汚らわしく、そして赤くても、雪のように、羊の毛のようになる、と言って下さった。
私達が罪人として、ミミズのように地を這いつくばって塵を食べるような生き方は、もはや死へと明け渡し、神の子として生まれ変わららされたのは、イエス様が私達の身代わりとなって、人間以下に、虫けらのようになって、私達の罪と刑罰を一身に負ってくださったからだ。(詩篇22:6)
詩篇32:2b その霊に偽りのない人はさいわいである。
ダビデは「霊に偽りのない人」はさいわいである、と言った。
私達は、口先と心を裏腹にして偽る事は良くする。しかし霊は正直であり、自分で自分を偽りようが無い。
しかし、霊が自分の犯した罪を知っていて、主からも指摘されておりながら、それを主の御まえに認めず、悔い改めないまま残している状態が、霊に偽っている状態である。
ダビデは、そのような状態にあった時の苦しみを、以下のように告白している。
詩篇32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
自分の罪を言い表さなかった時には、次の「損」がつきまとう。
すなわち、一日中苦しみうめき、御手が重くのしかかり、あたかも夏のひでりに枯れ果てるような思いがするのだ。
楽になるためには、罪を告白し、悔い改めて、その重荷を下ろす事である。
詩篇32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
罪は誰でも犯すが、その罪を赦される人と、赦されずに災いを背負って行く人とに別れる。
赦される人とは、自分の犯してしまった罪に、心痛め、主に告白して悔い改め、そこから離れようとする人である。
しかし、罪を犯す事に躊躇せず、罪を指摘された時も、いややっていない、と言うような人には、打ち叩きの杖がいつも付きまとう。
それ故、主に対しては、思い出す限り、罪を告白しなくてはならない。
主は、気づかせる。ちょうど、ヤコブの子ユダに隠している罪を気づかせたように。(創世記38章)
そして、気付かされた後、その自分の罪についてどうするかという判断は、本人の自由意志に任されている。
主は私達キリスト者には、罪を犯した時に苦しいと思える心を与えて下さるが、それは特権である。
そして告白して悔い改めたなら、主はその罪をゆるし、きよめて下さる。
1ヨハネ1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
それで私達は、はばかることなく主に祈ることができる。
32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
主は私達に、自由意志を与えて下さった。
主は求めておられる。それを用いて、主を愛し、罪から離れる事を。
32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
32:10 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
神は思いのままに赦す・赦さないをされるわけではない。赦しには、根拠がある。
その根拠とは、神の御子が身代わりとなってくださった事である。
イザヤ53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
まことに主から罪を認められない人は、幸いである。
主に全てを打ち明け、心に後ろ暗い所の無い幸いな人であり続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
何者にも奪われない平安と実際的な助けが与えられるための効果的な祈り(詩篇31篇)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2018-12-6 10:17
何者にも奪われない平安と実際的な助けが与えられるための効果的な祈り(詩篇31篇)
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この詩篇もダビデによるもので、彼が敵に追われていて、命の危機が迫っている中、救いが必要な状況の中での、主への祈りである。
この詩篇には、何者にも奪われない平安と、実際的な助けが与えられるための効果的な「祈りのコツ」が散りばめられている。
詩篇31篇 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
31:1 主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの義をもってわたしをお助けください。
31:2 あなたの耳をわたしに傾けて、すみやかにわたしをお救いください。わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。
31:3 まことに、あなたはわたしの岩、わたしの城です。み名のためにわたしを引き、わたしを導き、
31:4 わたしのためにひそかに設けた網から/わたしを取り出してください。あなたはわたしの避け所です。
人は何かと祈る時、「何々を下さい」という願いごとを、連発をしやすいが、彼は祈りの真っ先に、主に対しする彼の信仰告白ではじめている。
それは「聞かれる祈りのコツ」ではあるが、それ以上に、羊が羊飼いに甘えて、どんな事でも羊飼いに持っていくかのような、彼の、主との親しさをよく表している。
彼は主に彼の思いのたけを、持って行った。
主よ、わたしはあなたにより頼みます、と。
あなたの義によって、わたしを助け出してください、と。
主に向かって、「あなたの耳」を傾けてください、「あなたは」わたしの逃れの岩、「あなたは」わたしを救う堅固な城、という、主に対する告白を織り交ぜながら、彼がこの危機から救われる願いを、主に求めている。
主への呼びかけが無き祈りは、空を打つ祈りである。神との人格的な親しい交わり無き「願い事の投げつけ」は、偶像礼拝者の祈願と変わりが無い。
私達キリスト者の祈りは、主との交わり、主とのコミュニケーションなのだ。
詩篇31:5 わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。
31:6 あなたはむなしい偶像に心を寄せる者を憎まれます。しかしわたしは主に信頼し、
31:7 あなたのいつくしみを喜び楽しみます。あなたがわたしの苦しみをかえりみ、わたしの悩みにみこころをとめ、
31:8 わたしを敵の手にわたさず、わたしの足を広い所に立たせられたからです。
この5-8節は、主語が「あなた」、すなわち、神である主となっていて、主はいかなるお方であるのかという表明と、そして、主は今まで何をして下さったのか、という、今まで与えられた恵みを数える彼の信仰告白である。
主は彼をあがなわれ、むなしい偶像に心を寄せる者を憎まれ、いつくしみで喜び楽しませて下さるお方であり、彼の苦しみをかえりみ、彼の悩みに御心を留め、彼を敵の手に渡さず、彼の足を広い所に立たせられた。
このように、主はいかなるお方であるのか、という宣言をするなら、自分が願い求める祈りに「万軍の主の御名」という裏付けが取れて、その祈りは土台のしっかりした、確証の取れた祈りとなり、大胆に主に願う事を告白することができる。
それで続く祈りで、ダビデは、主に対して切々と現状を訴えている。
31:9 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます。わたしの目は憂いによって衰え、わたしの魂も、からだもまた衰えました。
31:10 わたしのいのちは悲しみによって消えゆき、わたしの年は嘆きによって消えさり、わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れはてました。
31:11 わたしはすべてのあだにそしられる者となり、隣り人には恐れられ、知り人には恐るべき者となり、ちまたでわたしを見る者は避けて逃げます。
31:12 わたしは死んだ者のように人の心に忘れられ、破れた器のようになりました。
31:13 まことに、わたしは多くの人のささやくのを聞きます、「至る所に恐るべきことがある」と。彼らはわたしに逆らってともに計り、わたしのいのちを取ろうと、たくらむのです。
これらの祈りは、「わたしを」「わたしは」「わたしの」、、、と「わたし」づくであったが、しかし、その前にダビデは、主がいかなるお方であるのかをしっかり宣言した、その裏付けがもうあるので、安心して自分の状況を洗いざらい告白して、スに全部聞いていただき、助けを求めることが出来たのだ。
31:14 しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います、「あなたはわたしの神である」と。
31:15 わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。
31:16 み顔をしもべの上に輝かせ、いつくしみをもってわたしをお救いください。
31:17 主よ、わたしはあなたに呼ばわります、わたしをはずかしめないでください。悪しき者に恥をうけさせ、彼らに声をあげさせずに陰府に行かせてください。
31:18 高ぶりと侮りとをもって正しい者をみだりにそしる/偽りのくちびるをつぐませてください。
ダビデが「あなたはわたしの神である」としたなら、彼の全ての問題は、主の手の中に移った。
主の御手の中に匿われているダビデを攻め立てる敵は、主の御手に対して攻め立てる事となり、主があとは取り扱って下さるようになる。
私達も、御言葉の裏付けが取れた主と自分との関係を宣言をした後に、洗いざらい主に自分の状況を告白し、主に聞いていただいたなら、平安が与えられるのだ。
31:19 あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに寄り頼む者のために/人の子らの前に施されたあなたの恵みは/いかに大いなるものでしょう。
31:20 あなたは彼らをみ前のひそかな所に隠して/人々のはかりごとを免れさせ、また仮屋のうちに潜ませて/舌の争いを避けさせられます。
31:21 主はほむべきかな、包囲された町のようにわたしが囲まれたとき、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された。
31:22 わたしは驚きあわてて言った、「わたしはあなたの目の前から断たれた」と。しかしわたしがあなたに助けを呼び求めたとき、わたしの願いを聞きいれられた。
ついに彼は、心底主をほめたたえることができる平安へと至る。
祈るなら平安が与えられ、そしてその揺るぎない平安は喜びになり、さらには賛美へと昇華して行くのだ。
最後に彼は、聖徒たちへの勧めによってこの詩篇を閉じている。
31:23 すべての聖徒よ、主を愛せよ。主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。
31:24 すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。
ダビデは幾度も命の危機があったが、ことごとく主に守られるという経験をして来た。
それは、何かある度に、主に対して彼は真実であったからだ。
またダビデは、それまで数多の敵が沸き起こった。
サウル、ナバル、アブシャロムなど、主に対しておごりふるまう者に相対して来たが、主はことごとくそのような者達を、厳しく扱われた。
私達も、ダビデのように、主と自分との関係をはっきり宣言し、主と親密に交わる祈りをして行くなら、どんな局面でも平安が与えられ、具体的な助けが与えられ、この地上において、高い者とされて行くのだ。
この時代においてダビデのように主の栄光を表す器として、大いに用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
インマヌエル - 主がともにおられるしるし:処女がみごもる(マタイ1:18-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2018-12-5 7:53
インマヌエル - 主がともにおられるしるし:処女がみごもる(マタイ1:18-23)
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マタイ1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
2コリント11:2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。
11:3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。
イザヤ7:11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。
7:12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。
7:13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。
7:14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
創世記3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえ(ゼラ:単数形、種、実)と女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
イザヤ8:5 主はまた重ねてわたしに言われた、
8:6 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。
8:7 それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、
8:8 ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。
創世記1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
イエス様を信じて生ける水をいただく人、信じないで呪われる人(ヨハネ7:31-53)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヨハネによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2018-12-4 6:39
イエス様を信じて生ける水をいただく人、信じないで呪われる人(ヨハネ7:31-53)
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7:31 しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。
7:32 群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。
7:33 イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。
7:34 あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。
7:35 そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。
7:36 また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
7:40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
7:41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
7:42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
7:43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
7:44 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。
7:45 さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。
7:46 下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
7:47 パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。
7:48 役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。
7:49 律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
7:50 彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
7:51 「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
7:52 彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。
7:53 〔そして、人々はおのおの家に帰って行った。
私達のために永遠の家を建てて下さった主(詩篇30篇)
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詩篇30篇 宮をささげるときにうたったダビデの歌
この詩篇の表題で「宮」と訳されているヘブライ語はベイト、宮の意味もあるが、大きくは「家」の意味である。
ダビデが王となり、自分の杉材の家を建てた時は、もう彼を追い回すサウルは死に、周囲の敵を平定した時だった。
その時ダビデは、神の家を建てるビジョンが与えられた。
2サムエル記7:1 さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時、
7:2 王は預言者ナタンに言った、「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」。
7:3 ナタンは王に言った、「主があなたと共におられますから、行って、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。
ダビデは、自分は快適に杉材の家で暮らしているというのに、主の箱は、相変わらず粗末な環境にある、と思ったのかもしれない。
しかし主は、人が造った家に住まわれるお方ではない。主は天にも地にも満ちておられ、まどろむ事も眠る事も無く、疲れる事もたゆむ事も無いお方である。
ただダビデとしては、純粋に、主を愛する故に何かしたかったのだろう。
ちょうど子供が、親のために何かしたい、と思っても、それは幼稚で意味が無いものであるかのように。
しかし親は、そんな子供を愛おしく思うものである。
主もダビデを愛おしく思ったのだろう。
主はダビデに、さらに大いなる名誉を与える約束をされる。
『主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。』(2サムエル記7:11-14)
主のための家を建てたいと願っていたダビデだが、なんと主は、ダビデのために永遠に堅く続く家をたてる、と言われたのだ。
永遠の王が、ダビデの家系から誕生する、と。
ダビデは主を愛する故に、素晴らしい栄誉が与えられる。
詩篇30:1 主よ、わたしはあなたをあがめます。あなたはわたしを引きあげ、敵がわたしの事によって喜ぶのを、ゆるされなかったからです。
30:2 わが神、主よ、わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、あなたはわたしをいやしてくださいました。
30:3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。
主はダビデを、多くの敵や危機から救い出し、ここまで引き上げてくださったゆえに、ダビデは主に賛美し、感謝を捧げている。
キリスト者であるなら、主に向かって助けを求めたなら主が答えてくださった、という経験を何度かしているだろう。
何度も危ない橋を渡っても、なおも主は自分を王とし、鍛えつつ守って来て下さった事を経験して来たダビデの人生は、まさに私達にとって良き手本となる。
詩篇30:4 主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。
30:5 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。
ダビデはさらに、聖徒たちに、このような素晴らしい主をほめたたえるようにと、勧めている。
聖徒の「聖」は、その漢字を分解すると、耳と口と王であり、また「徒」の彳は「少しづつ歩む」の意味で、それと共に「走」という語から成る漢字である。
つまり、聖徒とは、耳と口を王へ捧げ、王なるお方と共に歩み、王のために信仰の競争を走り抜く者達なのだ。
聖徒はすべて、ダビデが勧めているように、この、王なる主をほめ歌い、聖なる御名に感謝すべきなのだ。
詩篇30:6 わたしは安らかな時に言った、「わたしは決して動かされることはない」と。
30:7 主よ、あなた恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました。
ダビデは安全になった時、動かされることはないと思ったが、しかし主が御顔を隠される経験をした。
それは、決して思い上がってはならず、結局私達を山のように動かされないようにして下さるのは、神であるという事を示すためだったのだろう。
詩篇30:8 主よ、わたしはあなたに呼ばわりました。ひたすら主に請い願いました、
30:9 「わたしが墓に下るならば、わたしの死になんの益があるでしょうか。ちりはあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。
30:10 主よ、聞いてください、わたしをあわれんでください。主よ、わたしの助けとなってください」と。
彼は、人生の中で幾度も命の危険にさらされた。決して自分の力では勝ち得ない敵、不足、困窮、孤独など。
それに出会う都度、彼は主に祈り求め、主はその都度、ことごとく危機から救い出して下さった。
私達キリスト者も、幾度、そのような経験をして来ただろう。
そして私達が祈る都度、主はいかに誠実に祈りに答えて来られた事だろう。
詩篇30:11 あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。
30:12 これはわたしの魂があなたをほめたたえて、口をつぐむことのないためです。わが神、主よ、わたしはとこしえにあなたに感謝します。
主を恐れ敬う者には、嘆きを踊りに、灰の代わりに冠を与えてくださる。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
主の前に低くへりくだり、灰と粗布をまとって悔い改める聖徒を、主は、プライドをかけて守ってくださる。
イエス様は、本来救いからほど遠い私達を、十字架の血潮によって救ってくださり、嘆きを踊りへと、悲しみを喜びへと、灰を冠へと替えて下さった。
それ故私達も、私達の主イエス様に感謝のいけにえを捧げるのである。
主日礼拝
マリヤのようにキリストを宿らせる人とは(ヨハネ1:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要
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成田エクレシア礼拝 音声
本日より、待降節(アドベント)に入る。クリスマスというと、イエス様の誕生日というイメージがあるが、イエス様は、乙女マリヤから生まれた時が存在の最初ではない。御言葉なるキリストは、初めからおられ(ヨハネ1:1)、父なる神のふところにおられ(18節)、その彼が、乙女マリヤの胎を通して赤ちゃんとしてこの世に降りて来られたのである。待降節とは漢字の通り、イエス様が私達へ降りて来られるのを待ち望む期間なのだ。
待降節で良く語られる乙女マリヤは、イエス様を懐妊した事で特別視されているが、ご存知だろうか、私達もキリストを宿す事ができるのである。キリストが喜んで宿る人とはどういう人か。本日はそれを学びたい。
『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体(サルクス)となり、わたしたちのうちに宿った。』(ヨハネ1:12-14)
イエス様の言葉が私達に宿る時、私達もマリヤのように、キリストを宿しているのである。肉(サルクス)とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行う部位で、そこには、罪の棘が刺さっていて罪に傾く性質があるが、御言葉であられるイエス様を信じ、受け入れた人は、彼がその人の中に幕屋を張って、宿られる。
だから、御言葉を内に存在させればさせる程、肉の中の罪に傾く性質は、イエス様が除去して下さるのだ。
主は私達に、御言葉を心に存在させるよう命じられた。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞で、大祭司アロンの末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは、その言葉を「存在させ、溢れさせる」意味だ、と言った。
神様の言葉が人の内に「存在」している時、通常はおとなしくしているが、イエス様が「取り扱いたい」と願っておられる人が目の前に来た時や、その状況に接した時、内に存在しておられる御言葉が、激情と力と共に溢れ出て、そこを治める。だから御言葉を豊かにハヤーしている人のメッセージは、力があるのだ。
聖霊によってキリストを身ごもったマリヤは、私達の型である。彼女は聖霊によってキリストを宿したように、私達も聖霊によってイエス様を主と呼び(1コリント12:3)、そうしてイエス様が私達の内に宿られた。(14:20)
マリヤは、イエス様を身ごもった直後、エリサベツに会いに行ってあいさつしたが、エリサベツは、そのあいさつを聞くと、胎の子が喜びおどり、彼女も聖霊に満たされて、言った。 『あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。…主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いな事でしょう。』(ルカ1:42-45)
御言葉であられるイエス様を信じ、イエス様を宿した人を「キリスト者」と呼ぶが、キリスト者の交わりは、このマリヤとエリサベツのような交わりである。私の内に主が宿り、相手にも主が宿っているなら、あいさつの一つで、共に主の存在の喜びで溢れるのだ。御言葉をハヤーしている人が発する言葉には、力がある。
現代のユダヤ人の挨拶は「シャローム」であるが、当時のユダヤは、ルツ記の挨拶を取り交わしていた。
『ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4) この、「主があなたがたと共におられますように」(インマヌエル)と、「主があなたを祝福されますように」(バラク)の挨拶を、呼び交わす事が、元々のユダヤ人の挨拶であったが、戦争や迫害を経ていく内に、短くなって、現代の「シャローム」になったという。
御言葉であられるイエス様を宿したマリヤが、エリサベツの家に入って、「主があなたがたと共におられますように」という言葉を発した時、その御言葉の込められた彼女のあらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、エリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、本来は「主があなたを祝福されますように」と返すのだが、彼女は声高く叫んだ。「あなたは女の中で祝福されたかた」「私の主の母が来た」、と。
主の言葉をハヤーさせた人、すなわちキリストを宿らせている人は、このようにいのちを喜ばせ、そして、そのような、御言葉をハヤーさせた集団の中には、生き生きとした喜びが満ちているのだ。
御言葉は、ただ暗記すれば良いというものではない。マリヤのように、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人こそ、祝福された人である。キリストの言葉を豊かに住まわせ、知恵をつくして互に教え、また訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、心から神をほめたたえ、感謝するこの一同でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主の御声(詩篇29篇)
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この詩篇の表題は「ダビデの歌」(ミズモール レ ダヴィド)、ミズモールは音楽あるいは詩(psalm)である。
この詩篇では「主のみ声」というキーワードが七回、登場すし、、ダビデは、主の御声を通して成される神の創造と支配の偉大さを褒め称えている。
詩篇29:1 神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
29:2 み名の栄光を主に帰せよ、聖なる装いをもって主を拝め。
まず彼は「神の子らよ、主に帰せよ」という呼びかけと命令で始めている。
神の子。それは御使いのような天的な存在を指す事もあろうが、イエス・キリストを信じて救われた人はみな、神の子である。
神の子には、栄光と力が与えられるが、それらは、本人自身の好き勝手に用いるために与えられるのではなく、栄光と力を、主に帰するため、である。
御使い達も、神の子キリストに、栄光と力を捧げた。
ルカ2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
神の御子キリストは、確かに偉大な力を持っており、天地万物はこの御方のために創られ、この御方にあって成り立っている。
それなのに、その偉大なキリストが、なんと人間の赤ちゃんとなられ、しかもなんと、不衛生な飼い葉おけの中に寝かされているのだ。
そこまで低く、低くへりくだられた、全被造物の主なる主。
主はここまで低くへりくだられたからこそ、どんな貧しく卑しい人でも、この救い主イエス様に届くお方となってくださったのだ。
だから御使いは、ほめたたえざるを得なかったのだ。
主イエス様は、低くへりくだられて地上に降りてこられたが、それに対しダビデは、主の偉大さをほめたたえている。
詩篇29:3 主のみ声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ、主は大水の上におられる。
29:4 主のみ声は力があり、主のみ声は威厳がある。
創世記1章2節において、混沌と闇の大海原の上に、主の霊が舞いかけているが、そこで主は
「光よ、あれ」
と仰せられ、そうして光が出来、混沌だった天地を、6日かけて秩序を整えて行かれた。
詩篇29:5 主のみ声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる。
29:6 主はレバノンを子牛のように踊らせ、シリオンを若い野牛のように踊らされる。
シリオンはシドン人による「ヘルモン」の呼び名である。
レバノンの香木も、ヘルモンも、威風堂々とした有様であるが、主は、神を除外した者達の威風堂々を砕かれ、それらを子牛のように、野牛のように踊らされる。
威風堂々とした人間も、自然も、主を前にしてはなんの力も無いのだ。
29:7 主のみ声は炎をひらめかす。
29:8 主のみ声は荒野を震わせ、主はカデシの荒野を震わされる。
29:9 主のみ声はかしの木を巻きあげ、また林を裸にする。その宮で、すべてのものは呼ばわって言う、「栄光」と。
主が御声を発せられると、稲妻が走り、炎をひらめかる。
また、地震によって大地を震わせ、つむじ風を起こし、全被造物は、この御方の栄光をほめたたえざるを得ない。
29:10 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、とこしえに王であらせられる。
洪水と言えばノアの時代の洪水であるが、天地創造から洪水までのおよそ1000年の間、人間は罪に罪を重ねて来たが、憐れみ深い主はずっと忍耐しておられた。
しかしついにノアの家族8人以外は皆、悪に染まり、すでにノアの家族にもその悪が侵食して来ようとしていたため、神はついに大洪水を起こし、そうして主は、愛と憐れみ、忍耐の主であるのみならず、義なる主、審判される主であると、威光を示されたのだ。
しかし主は、やはり憐れみの主である。
29:11 主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。
ノアを通して人類を滅ぼし尽くさず、主と共に歩む民を、平安をもって祝福されるのだ。
主の御声は、このように力があり、偉大なわざを為す。
その御業は、自然界の諸々の現象を通して、誰の目にも明らかなものであるが、主が語りかけてくるその御声の「内容」や「意味」を理解する人は、少ない。
エリヤは、神に仕える者が、自分以外には誰もいなくなってしまったと感じ、神と問答したが(1列王記19:9-18)、神が通り過ぎられた時、山を裂き、岩を砕くという、圧倒的な現象が起きたが、その中には、主はおられなかった。
風の後に地震があったが、地震の中にもおられず、地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。
そして、火の後に静かな細い声が聞えた。
エリヤはそれを聞いて、顔を外套に包んだ。
神は確かに、圧倒的な自然現象を起こされるが、その現象だけを見ても、神の意図は分からない。
神の意図を教える御声は、とても静かで、聞こうとする者にしかその意図は理解できないものである。
だから私達は、神のかすかな声を聞く耳が与えられるように、理解する心が与えられるよう、意図して耳を傾け、祈り求めるべきだ。
神の御声は、神を求める心ある人のみが、理解する。
迫害者であったサウロ、後の使徒パウロが、そうだった。
使徒9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
サウロは、主イエス様の圧倒的な光に照らされた時、「主よ、あなたは、どなたですか」と問うた。
パウロは「主よ」と呼び求めているからには、この、圧倒的な光の主人が「主」であると瞬時に悟ったからだ。
しかし、同じ場面に立ち会い、同じ言葉を聞いておきならが、それを悟らない人達もいる。
使徒9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声(フォーネー)だけは聞えたが、だれも見えなかった。
同行者達は、その場に立ち会って、しかも声(フォーネー)も聞こえたのに、彼らは、サウロのような衝撃的な主との出会いをしていないし、この出来事の直後も、ショックを受けているサウロを、普通に介添えしている。
どういう事だろう。
この「フォーネー」というギリシア語には、声の意味の他に、ノイズという意味もある。
つまり、この場面では、サウロはこのフォーネーを聞いて、それが、主からのものであると瞬時に理解し、そしてその内容は、サウロという自分の名前を繰り返して呼び、しかも「わたしを迫害するのか」と、はっきり理解したので、彼はいまだかつて無かったショックを受けたのだ。
それなのに、このフォーネーを聞いても、何も感じない者達もいる。
主の御言葉とは、そういうものなのだ。
主を求め、主に聞こうとしている人にとっては、御言葉は、人生を揺るがし変えてしまう程のショックをもたらすが、かたや、同じ御言葉に触れても、なんのショックも変化も無い人も、いるものなのだ。
私達は生活の場面で、諸々の現象の中で、主の語られる静かな御声を聞き分け、その内容を理解し、主のみわざを為していく者達であるべきだ。
なんでも主に持って行って、主から可愛がられたダビデ(詩篇28篇)
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詩篇28篇 ダビデの歌
28:1 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって/耳しいとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。
詩篇28篇も27篇同様、ダビデが敵によって苦しめられ、主に向かって祈る祈りである。
ダビデはどんな事でも、「主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。」と、主になんでも持って行くのが、彼のトレードマークである。
親としては、どんな事でもいつでも親に持ってくる子供が、持って行かない子供よりも、かわいいのではなかろうか。
ダビデは、何事につけても、主に向かって持って行った。だから主の目には、彼は、かなりかわいかったのではないだろうか。
それで主は彼を高めて下さった。
28:2 わたしがあなたにむかって助けを求め、あなたの至聖所にむかって手をあげるとき、わたしの願いの声を聞いてください。
ダビデは悩みの時、主の至聖所に向かって手を上げた。その手は、祈りの手である。
28:3 悪しき者および悪を行う者らと共に/わたしを引き行かないでください。彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、その心には害悪をいだく者です。
ダビデは悪を行う者を、主に訴えている。
その彼らの性質は、彼らは表面的には仲良さそうに来るが、心には害悪を抱いている、というものだ、と。
28:4 どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべき罰を彼らに与えてください。
28:5 彼らは主のもろもろのみわざと、み手のわざとを顧みないゆえに、主は彼らを倒して、再び建てられることはない。
この詩篇28篇には、3種類の「手」が登場する。
すなわち、自分の手と、敵の手と、そして主の御手である。
敵の手は、悪しきわざを行うが、その手が迫ってくる時こそ、私達が主に向かってきよい手を挙げて祈る時である。
パウロは以下のように勧めている。
1テモテ2:8 男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。
またモーセも60万のつぶやきやすい群衆を40年間荒野で導いた時、彼自身が怒り心頭になりそうな時は幾度もあったが、その時モーセ自身はいつでも主にひれ伏して執り成し、祈った。
彼やダビデのように、問題も怒りも全てを主に持っていく人こそ、主の御業が働く人である。
この世界は、主の良きわざによって、6日に渡って創造されたが、主は、ご自身の創造のわざを見て、6度「よし」と言われた。
人の手のわざは、悪を行う事に傾きやすく、悪い事ばかりである。
だから私達は、主の「良き」わざを成す主の御手へと、持っていくべきである。
28:6 主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。
28:7 主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。
この詩篇の後半は、早速祈りが答えられ主を喜び褒め称えている箇所へと、早速移っている。
主を呼び求める人に、主が速やかに答えて下さる事例は、聖書には事欠かない。
ハンナも主に求めた時、主が答えてくださり、ダビデ同様の感謝の歌を主に捧げている。
ハンナはペニンナから嫌味といじめを受けたが、そのつのる憂いを彼女は誰にもぶつけず、全部、主へと持って行った。
主は、彼女の祈りに聞かれ、彼女もダビデのように、主をほめ歌った。
1サムエル記2:1 ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。
マリヤも、同様の祈りを祈った。
1:46 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
これらはいずれも、自分の力によらず、自分で仕返しせず、ただ主の救いにより頼んだ人々による、感謝の祈りである。
主は彼らのような、主の御声に100%従順する人を通して、世に良き介入をする機会を得て、彼らを通して大きな事をして下さった。
まことに世は、主に従順な人を通してこそ、世に介入されるのである。
しかし、御声に聞き従わない人、驕り高ぶる者、悪を行う者は、廃れていく。
28:8 主はその民の力、その油そそがれた者の救のとりでである。
28:9 どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください。
ダビデは確かにイスラエルを導く羊飼いであったが、それ以上に、主こそ、まことの羊飼いである。
パスターも牧師も「羊飼い」という意味であるが、真の羊飼いは、イエス様である。
だからパスターも牧師も、人々を、まことの羊飼いへと導く「羊飼いのしもべ」である。
私達も、ダビデのように祈るべきである。
どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らを抱いて導いてください、と。
まことの大牧者よ、来て支配して下さい、と。
主との交わりの甘く麗しい感覚を慕い求めて(詩篇27篇)
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詩篇27篇 ダビデの歌
27:1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
27:2 わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。
27:3 たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。
27篇は、ダビデが敵を前にした時、ダビデの主に対する思いと姿勢がよく現れた詩篇である。
彼は「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしの命のとりでだ」と、信仰をもって宣言した。
主を救いとする時、恐れは取り除かれ、そして主の御言葉を信仰を混ぜて宣言する時、その救いは実体として現れていく。
それで彼の人生、戦いにおいて、敗北は無かったのだ。
主を助け、主を拠り所とする人は、確かに守られ、匿われる。(詩篇91篇)
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので
信仰をもって主の約束の御言葉を宣言し、主に助けを求めて行く時、主はその信仰を実体化させて下さるが、この主の守りに囲われる時、甘く麗しい感覚が沸き起こる。
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
女性が愛する男性の腕にくるまれる時、甘い安心感を覚えるように、ダビデも主に対して、そうだった。
だから彼は主の宮を慕い求め、生涯、そこに住む事を求めた。
この、主と主の宮をうるわしいと感じる感覚は、クリスチャンがイエス様に対して覚えるべき感覚である。
麗しい主を慕い求め、探し、門を叩き続ける人こそ、主を見出し、奥の間で主と麗しい愛の交わりにあずかれる人である。
雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。
3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、わたしを産んだ者のへやにはいった。
この、主との麗しい交わりに入った人は、たとえ敵が目の前にいたとしても、真理の上では主の守りの御手で囲まれているゆえに、大胆に、自信満々になる事ができる。
27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で/喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。
ダビデは主の守りを信じ、宣言し、それが実体化になった。
だからダビデは、あらゆる戦いで勝利を得続けたのである。
27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
「わが顔をたずね求めよ」、これは父なる神の、私達に対して願っておられる事であるが、ダビデはその心を熟知していた故に、それを先取りして宣言した。
もし子供がお父さんに向かって、『僕はお父さんの心を知っているよ。だからお父さんに代わって言います。「わたしの顔をたずね求めよ」』と言ったとしたら、その子供はとてもかわいいのではなかろうか。
主の目に、ダビデは、どれほどかわいく映っただろう。それ故主はダビデを特別に扱って下さった。
私達も、主からの特別待遇をいただきたいなら、心して御心を先取りし、御言葉を宣言するべきである。
27:9 み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。
主は、決して捨てない、と言っておられるのだけれど、この、主に捨てられてしまうのではないか、という気持はたまに沸き起こってくる。
罪を犯した時、自分が相応しくないと感じる時など。
その時、悪魔、サタンがその人を絶望させ主から引き離すためにその感覚を用いるが、私達はそれを信仰をもって制さなくてはならない。
しかし少なくとも、主に捨てられて欲しくないという思いがあるのは、健全な思いであり、主を敬わない人には、沸き起こらない感覚である。
第一サムエル記において、大祭司エリは、息子たちが御前で大きな罪を犯し続けた故に、主から捨てられる、と、幼子サムエルを通して警告を受けた時、「主の御旨がなりますように」などと、信心深そうな事を言ったが、もしダビデだったどうだっただろうか。
一刻でも早く主の御まえに走って行って、赦しを乞い、悔い改めたのではなかろうか。
つまりエリの中には、主を敬う心、主を愛し親しむ心は、無かったのだ。
私達は、人の前に信心深そうに装う事よりも、ダビデのように、なりふり構わず主を愛し、主に慕い求め、罪を犯した時でも、主に食いついて行って、赦しを求めるべきである。
27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。
世の親は、その娘や息子を、捨てるかもしれない。
しかし、たとい親が私達を見捨てたとしても、主は決して見捨てないし、忘れない。
なぜなら主は、十字架上で、手のひらに私達を刻みつけられたからである。
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、
わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(イザヤ49:14-16)
27:11 主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。
27:12 わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。
平時の時さえも、ただ主の麗しさを仰ぎ見ようと求め続けている者こそ、有事の時にも真に主により頼む者である。
27:13 わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
27:14 主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。
私達もダビデのように、いつでも主に求め、主を待ち望み、おりにかなった助けを得る者でありたい。