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真っ黒なぶどう畑の見張りから栄光の花嫁へのシンデレラ・ストーリー(雅歌1:5-8)
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1:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。

彼女は、自分が黒くなってしまったと言っている。その理由が6節。

1:6 わたしが日に焼けているがために、日がわたしを焼いたがために、わたしを見つめてはならない。わが母の子らは怒って、わたしにぶどう園を守らせた。しかし、わたしは自分のぶどう園を守らなかった。

日に焼けて黒い。なぜそうなったか。それは自分の肉親の子達、すなわち兄や姉がいきりたって、無理矢理彼女に、彼らの葡萄畑の見張り人に仕立てられたからだ。
「しかし彼女は自分の葡萄畑たちを見張ることができませんでした。」と言っている。
畑が複数形、という事は、兄や姉たちの畑たちを見張らなくてはならなかった。
それでいて、自分の(単数形の)葡萄畑の面倒を見る事はできなかった。
それで彼女が黒くなってしまった。というのが、彼女の状況。

日に焼けて黒くなって、女性としての魅力がなくなってしまった、と彼女は思って、それで、私のことをそんなに見つめないでください、と言っているのかもしれない。

しかし「日がわたしを焼いた(シャザフ)」は、直訳すると、わたしは太陽に見つめられた、と訳せる。
本来、自分の葡萄畑を見張って面倒を見るべきが、無理やり他人の葡萄畑を見張るようにされてしまった。自分のぶどうは面倒を見ることも、実らせることもできないまま、ただどんどん黒くなっていくだけ、というのが、彼女の今までだった。

しかし彼女は、黒いけれども美しいと言っている。
美しいとは「似合っている」という意味である。

彼女は、自分のぶどうの面倒を見ることができなかったかもしれない。ただ黒くなってしまったかもしれない、しか少なくとも彼女は、ずっと太陽に見つめられつけていた。
義の太陽であられるイエス様は、彼女をずっと見つめて続けておられた。あの間も、この間も。
そして彼女は、ついに、将来の夫の目に留まり、そこへ嫁いでいく。

まさにシンデレラストーリーである。シンデレラは元々、過酷な継母の元で灰をかぶる程に強制的に働かされ、真っ黒になったのと、意地悪な継母が「cinder(灰)」の娘、シンデレラ、と揶揄したのが元々であるが、やがて王子様に見初められ、王家へと嫁ぎ、素晴らしい王宮に入り、以前の古くて汚い、せまい働き場は全くもって過ぎ去る。
地上で神のために働く全ての「僕(ディアコノス=ディア(くぐる)+コノス(灰))」達は、皆、この壮大なシンデレラストーリーにあずかるのである。

花婿は黒くなった彼女のことを、女性の中でも最も美しい、と言う。
彼女は自分で自分のことを黒い、恥ずかしい、と思ったが、それは花婿とは違う価値観だった。

私たちも同様である。
自分で自分を見つめる評価は重要なのではない。むしろ、真の花婿にどう見られているか、彼がどう私たちを評価するのかこそ大事である。
私たちはいつまでも、他人の葡萄畑を見張り続けているわけではない。
やがて王の王であられるお方、まことの夫であられるお方が、より素晴らしい所へと導いて下さるのだ。

以前は、彼女の母の子供たちが、彼女よりも上の立場、力強い立場だったかもしれない。それで彼女の時間やエネルギーを搾取する事ができた。
しかしそれよりもさらなる上なるお方、王の中の王であられるお方に見初められ、嫁がれて行くなら、もはや以前の支配者たちは、手放さざるを得ない。

だから私達は、まことの夫へと引き寄せられる日に備え、日々しっかりと与えられたことをなすべきである。
私たちも世の中において、あるかもしれない。
世の人たちが、いきり立って、神の子達をこき使い、肝心の自分の畑、自分の家庭を全然見張ることができず、ただ無理やり他の兄弟姉妹の畑の面倒ばかりを見せられ、ただ黒くなってシミやそばかす、シワの類だけが増えて、あたかも無駄に時間をつぶしているかのように感じる事が。
しかしイエス様は変わらず、全部を、ずっと見つめ続けておられる。
主が私たちを呼び出し、召し出して下さるなら、もはや誰かに身勝手に押し付けられる労働や苦労から解放され、愛する方に召し出され、奥の間の交わりへと導かれて行く。

そのために私達がなすべき事が一点ある。
それは、夫なる方に、呼びかける事である。

1:7 わが魂の愛する者よ、あなたはどこで、あなたの群れを養い、昼の時にどこで、それを休ませるのか、わたしに告げてください。どうして、わたしはさまよう者のように、あなたの仲間の群れのかたわらに、いなければならないのですか。

私の愛する方、イエス様、どうか教えてください、どこであなたは羊を飼い、どこで休ませているのですか、なんで私だけさまようような事をしなくてはならないのでしょうか、と。

呼び求めるなら、主は教えて下さる。
私たちを罪の飲み食いから、黒くならざるを得ないところから解放される方法を、そして、花嫁として整えますます美しく仕立てられて行く術を。

黙示録に書いてある。夫のために飾られる花嫁は、天から降って来た、と。
花嫁が整えられる場所は、天である。私達のこの身は地上にいるかのように見えても、主に導かれるなら、私達の霊は天にあり、そこでは世の者は決して触れる事はできない。
この身は地上に居ながらにして、霊は御国におり、御国の平安、安息の内に、主に養われ、御国へと嫁いで行く花嫁として整えられ、飾られて行くのである。

何も私たちが、主に気に入られるために宝石やゴールドを買って飾るのではない。
私たちは主にあって、天的な養いを受け、宝石や首飾りなどで花嫁として美しく
飾られていくの。

そのためには、花婿に呼び求め、その言葉に聞き従っていかなければならない。

1:8 女のうちの最も美しい者よ、あなたが知らないなら、群れの足跡に従っていって、羊飼たちの天幕のかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。
 
主は語られる。羊の群れの足跡に従ってついてきなさい、と。
私達も、主の羊たちが歩んだ道、すなわち、信仰の先輩たちの足跡ならい、まずついていくことから始まる。
4節にある通り、私を引き寄せてください、私はあなたの後から急いで参ります、と言う姿勢で。
イエス様、私の後についてきて困った時に助けてね、と言う姿勢ではなく、私たちの側が、主のあとについていく、という歩みをしていくべきなのだ。

主について行って、その場所に到達したなら、羊飼いの住まい(ミシュカン)の傍らで、あなたの子山羊を買いなさい、と言われる。
山羊は羊よりもグレードが低いような、角が生えていた逆らう性質があり、前か悪かと言えば、どちらかというと悪に思えるような気もするが、しかし、その子山羊を飼いなさい、と言われる。羊飼いのミシュカンの傍らでう。

ミシュカンとは幕屋、テントの意味だが、モーセの時代以降の礼拝する所もミシュカンという。
私たちが子山羊を買うようなことがあっても、主の天幕(ミシュカン)のそばでそれを飼っているならば、主は私たちを、子山羊飼いから羊飼いにして下さる。
山羊は成長すれば、目がきつくなっていき、 あばれたり突進して来たりするが、子山羊のうちであるならば、主への捧げ物になる。

私達はまず、まことの羊飼いであられる主の羊たちの群れの足跡に、ついていかなくてはならない。ダビデは、主がまことの羊飼いで、私達はその羊だと言った。
だから私達も、ダビデやヨシュア、カレブのような信仰の先輩たちという主の羊達の足跡について行き、まことの羊飼いの幕屋、すなわち礼拝場所の傍らで、主が言われる通りに、子山羊を飼うのだ。それをしっかりとしていくならば、主はさらなる次の整えへと入らせていく。

どうか、ますます世の罪の飲み食いから離れ、キリストの花嫁として整えられ、飾られ、美しくされ、主の麗しい交わり、奥の間での交わりへと導かれていく皆さんでありますように。
イエス様の名前よって祝福します!

災いが避けて行く人の性質と、災いに追いつかれてしまう人の性質(詩篇91篇)
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詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。

1サムエル記17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」

詩篇91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。

1サムエル記17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

1列王記22:32 戦車長らはヨシャパテを見たとき、これはきっとイスラエルの王だと思ったので、身をめぐらして、これと戦おうとすると、ヨシャパテは呼ばわった。
22:33 戦車長らは彼がイスラエルの王でないのを見たので、彼を追うことをやめて引き返した。
22:34 しかし、ひとりの人が何心なく弓をひいて、イスラエルの王の胸当と草摺の間を射たので、彼はその戦車の御者に言った、「わたしは傷を受けた。戦車をめぐらして、わたしを戦場から運び出せ」。

詩篇91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。

1歴代誌21:20 オルナンが振り返ると御使いが見えた。彼とともにいた彼の四人の子は身を隠し、オルナンは小麦の打穀をしていた。

詩篇91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者を”すまい”としたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。

黙示録3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、”地上に住む”者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

詩篇91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。
 

病の時の祈り(詩篇41篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
41:1 貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。

詩篇41篇は、詩篇第一巻の最後であるが、その最初である詩篇1篇と同じ書き出しである。
1篇の幸いな人は、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人で、あったが、41篇の幸いな人は、貧しい人をかえりみる人である。
1篇では能動的な祝福が、すなわち、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉もしぼまず、そのなすところは皆栄えるという祝福が約束されていた。
しかし41篇では、悩みの日や病の時に守られる、という、受動的祝福が約束されている。
貧しい人をかえりみる事は、主に貸すことであり、主がその善行に報いてくださるのだ。(箴言19:17)

申命記15:7 あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
15:8 必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。
15:9 あなたは心に邪念を起し、『第七年のゆるしの年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に対し、物を惜しんで、何も与えないことのないように慎まなければならない。その人があなたを主に訴えるならば、あなたは罪を得るであろう。
15:10 あなたは心から彼に与えなければならない。彼に与える時は惜しんではならない。あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、手のすべての働きにおいて祝福されるからである。
15:11 貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。

ヨベルの年になると、負債を免除してやらなくてはならないのだが、それが近づいたと言って、惜しんではならないと主は命じられる。
なぜなら貧しい人を助けるという神の働きに参加するためであり、そして主は、その、施しによって失った分を、補填してあまり余らせて下さるからだ。

41:2 主は彼を守って、生きながらえさせられる。彼はこの地にあって、さいわいな者と呼ばれる。あなたは彼をその敵の欲望にわたされない。
41:3 主は彼をその病の床でささえられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる。
41:4 わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。

人は、弱い。
罪の楽しみへの誘惑に負けて、罪を犯したゆえに、サタンが追いつき、病が災いが追いつく事がある。
敵であるサタン、あるいは悪辣な者達に、あざけられてしまうきっかけを作ってしまう事がある。
ダビデもそうであった。

ダビデはこの詩篇を記した時、病んでいたが、この病の原因は、罪にある、と、ダビデは真っ先に告白している。

41:5 わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
41:6 そのひとりがわたしを見ようとして来るとき、彼は偽りを語り、その心によこしまを集め、外に出てはそれを言いふらす。
41:7 すべてわたしを憎む者は/わたしについて共にささやき、わたしのために災を思いめぐらす。
41:8 彼らは言う、「彼に一つのたたりがつきまとったから、倒れ伏して再び起きあがらないであろう」と。
41:9 わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも/わたしにそむいてくびすをあげた。

ダビデは王である故に、彼の周りには、表向き彼にへつらっているものの、心では全く敬っておらず、ただ利益を得るために利用しようとして来る者がいる。
イスカリオテのユダも、イエス様に対してそうだった。事実、9節は、ユダの事を預言した言葉である。(ヨハネ13:18)
そしてそのような者達は、いざという時に裏切り、敵となって責め立てて来るものである。

しかし、普段からの主に対する信頼と、貧しい人への憐れみが、御前に貯金となって積み立てられており、災いの時、主に呼び求めるなら、主は助けてくださる。

詩篇91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

また、8節で「たたり」と訳された語は、ヘブライ語でベリヤアル、元の意味は「価値がない者」である。
私達は、主イエス・キリストにあって、高価で尊い者であるが、それにひきかえ、裏切る者達や責め立ててくるサタンは、まったくもって「価値が無い者」である。
私達は御言葉に立つ時、キリストにあって価値ある者となり、価値が無いベリヤアル、サタンごときが、どうして責め立ててくるのか、と、正統に対抗できる。

41:10 しかし主よ、わたしをあわれみ、わたしを助け起してください。そうすればわたしは彼らに報い返すことができます。
41:11 わたしの敵がわたしに打ち勝てないことによって、あなたがわたしを喜ばれることを/わたしは知ります。
41:12 あなたはわたしの全きによって、わたしをささえ、とこしえにみ前に置かれます。

12節でダビデは「わたしの全き」と言ったが、私達すべての人間には、全き所は、まったく、無い。
この「全き」は、どういう事だろうか。

私達に罪がある時は、私達の罪をはるかに上回る主のゆるしへと、また病の時は、病から起こして床を畳ませて下さる癒やし主なる主へと、立ち返る事。
状況に関係なく、いつもわたしに与える恵みが常に大きい主を信じ、彼へと立ち返り、まことなる御言葉を信仰をもって宣言する事。
それこそ、「わたしの全き」であり、「わたしの義」である。

ローマ4:18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
4:19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
4:20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
4:21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
4:22 だから、彼は義と認められたのである。

詩篇第一巻の最後は、祝祷で終わっている。
同様に、詩篇のそれぞれの巻の終わりは、このような祝祷で終わる。

41:13 イスラエルの神、主は/とこしえからとこしえまでほむべきかな。アァメン、アァメン。

アーメンが反復されている。
アーメンとは、そのとおりです、それは真実です、そうなりますように、という意味であるが、これこそ、私達に御言葉が与えられた時の、正しい応答だ。

主日礼拝

主の目が絶えず注がれる礼拝者の地・モリヤ(1歴代誌21:1-22:1)

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前回はベエル・シェバの箇所をキアズム構造解析し、サンドイッチ・キアズムの中心部分、すなわち、アブラハムがイサクを捧げる場面こそが重要である事を見た。その場面が私達に教える事は、主が奇跡的に与えて下さった人、モノ、事は、我が物として握りしめず、さらに主へと捧げて行くなら、主はそれを足がかりにこの世へどんどん介入できるようになり、その捧げものを主が用いて、この曲がった世を正す、だけでなく、その捧げた人には何倍もの祝福(それも、海の砂粒の数倍・空の星数倍!)を返して下さる事を学んだ。

アブラハムがイサクを捧げるように主が指定された地は、モリヤの地であったが、今回、このモリヤとベエル・シェバの2つが交錯する第一歴代誌21章から、主に捧げる事がいかに素晴らしい結果をもたらすか、逆に、与えられたものを我が物とする事がいかに損であるかを、今一度学んでいきたい。

『時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエル・シェバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。』(1歴代誌21:1-2) サタンがイスラエルに災いを降す「とっかかり」となったのは、イスラエルの中に芽生えて来た罪であり、ダビデに芽生えてきた傲慢だった。

ヨアブはダビデを諌めたのに、ダビデは聞かず、イスラエルを数えさせた。果たして、合計157万という数字が出た。ダビデは、その具体的な数値を聞いて、罪を犯した事を悟った。なぜなら、数えていない内は「万軍の主」(イザヤ54:5)が彼の力だったのに、数えた瞬間から、彼の力は「157万の人間」に成り下がってしまったからだ。彼がこの事を犯したゆえに、エルサレムは3日間、主のつるぎに打たれる事になる。

彼は、自分が罪を犯したのだから、災いを彼らに向けないで、自分と自分の家に降して下さい、と執り成し祈った所、主は、エブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くようダビデに命じた。実はその場所は、過去と未来の礼拝者達をつなぐ、とても重要な場所である。そこはモリヤ山と言われる地、すなわち過去、彼らの先祖アブラハムがイサクを捧げた所であり、後にソロモンの手で神殿が建てられる所である。(2歴代誌3:1)

『その時オルナンは麦を打っていたが、ふり振り返って御使いを見たので、共にいた彼の四人の子は身を隠した。』(1歴代誌21:20)

御使いはオルナンの打ち場で災いをもたらしていたのに、オルナンは何の害も受けず、麦を打っていた。災いのまさに中心地にいたのに、なぜ全然無事だったのだろう。  災いの日に、真っ先に害を受ける人もいれば、逆に、災いの中心地にいても害が素通りして行く人もいる。 それは、全能の主を拠り所とする人(詩篇91篇)、また、忍耐して主の言葉を守る人である。(黙示録3:10) オルナンの性質は、まさにそうだった。彼はエブス人でありながら、(1)素晴らしい信仰者であり、(2)権威に忠実で、そして(3)躊躇なく自分のものを主に捧げる性質の持ち主だった。彼はダビデが来るのを見ると、すぐ地にひれ伏した。ダビデが彼に、この土地を十分な金額で買いたい、と申し出ると、オルナンは言った。

「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のために捧げます。わたしは皆これを捧げます」(21-23節)

オルナンは何から何まで捧げる、と、ダビデに申し出た。その言葉が発せられた瞬間、確かにその地はオルナンの手を離れ、主のものとなった。しかしダビデは、自分が費用をかけずに主に捧げるなどとんでもないと、50シェケルで打ち場と牛を買い(2サム 24:24)、後には600シェケルでモリヤ山全体を買い取った。

モリヤ(ラアー(見る)+主(ヤハ))は、主が絶えず目を留めておられる地、人が主に捧げるかどうかを見ておられ、捧げたなら、その人に豊かに加えて備えられる地である。主は「礼拝の地」に目を留めておられる。 主はそこで、イサクを捧げたアブラハムに対して備えられ、全財産を捧げたオルナンに対して備えられた。

こうしてダビデはその所で捧げ物を捧げると、主は天から火を下して答えられ、御使いは剣を鞘に収めた。

ダビデは、主から驚く程の祝福を受けたが、自分のステータスを数え、自分を誇ろうとした結果、災いが起きて、減らされてしまった。しかしオルナンは、躊躇なく自分のものを捧げたら、増し加えて与えられた。

私達は、主が祝福して下さってからは、自分のステータスはどれほどかを心配したりせず、誇ったりせず、はじめから「万軍の主」により頼んでいれば良いのだ。そして、与えられたものを自分のものと主張せず、いつでも主に捧げる心を持っているなら、どんなに困難な時代でも守られ、増し加えられ祝福されるのだ。 そのようにこの時代、大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

集会での詩篇(詩篇40篇)
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主に心を向け、耳を傾ける人が、いかに幸いであるか。ダビデはその経験を、集会の中で宣言している。

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
40:1 わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
40:3 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。

主は、どのような人を、滅びの穴や泥沼から引きあげ、足を岩の上におき、歩みを確かにされるのか。
それは、耐え忍んで主を待ち望む人であると書いてある。
また主は、どのような人の祈りに、耳を傾けられるか。
それは、以下に記されている事を、心して行う人である。

40:4 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
40:5 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。

主がその祈りを聞いてくださる人とは、自分の道を、罪や虚しい事へと向けない人、主の良くして下さった事と恵みのわざを思い起こし、それを忘れない人だ。

そして6-10節は、この詩篇の心臓部とも言えるべき所である。
特に6節は、旧新約の色々な所で引用され、また、これと同じ事は色々な箇所に記されている。

詩篇40:6 あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。

ヘブル10:5 あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。

詩篇では「耳を開かれた」となっているが、ヘブル書での引用では「からだを備えて下さった」となっている。
耳は、それほど礼拝において重要な器官のだ。
たとえ体が礼拝に参加していても、耳を御言葉へと傾けないなら、それは無意味である。
耳を傾けること、それこそ私達の最高のいけにえであり、主が求められる事だと、サムエルも言っている。(1サムエル記15:22)

詩篇40:7 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。
40:8 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

書の巻、すなわち聖書に、まさしくわたしたちの事が記されている!
このとても不思議な体験を、私達クリスチャンはしている。
ダビデは1節で、主はわたしの叫びを聞かれた、と言っているが、主がその祈りを聞いてくださる人とは、主に耳を傾けて聞く人、主のことばを求め、その通りを守り行う人だ。
また、「あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」とダビデが言っている通り、御言葉を心の内に刻みつける人、すなわちテフィリンする人である。

詩篇40:9 わたしは大いなる集会で、「救についての喜びのおとずれ(ツェデク:義)」を告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。
40:10 わたしはあなたの「救(ツェデカ:義)」を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを「告げ示し(アマール、KJV: declared)」ました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを/大いなる集会に隠しませんでした。

口語訳で「救についての喜びのおとずれ」と訳された語は、ヘブライ語では「ツェデク(義)」、英語のKJVでは「righteousness」の一語である。
ダビデは、主の義について、心の中に隠しとどめておかず、大集会を前に大声で告げ知らせた。
イエス様が、ともしびは枡の下には置かない、と言われたように、私達も、主が良くして下さった事を、心に秘めて置く事なく、人々に告げ知らせるべきである。

11節以降は、ダビデの祈りと願いになる。

詩篇40:11 主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって/常にわたしをお守りください。

「あなたのあわれみ」「あなたのいつくしみとまこと」とある通り、憐れみ、恵み、まことは、主から来るのであって、自分から来るのではない。これらが欲しいなら、ダビデのように、主に求めるべきである。

詩篇40:12 数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。

私達も、自分の身から出た錆的な災いに、追いつかれてしまう事が多々ある。
その場合は、ダビデのように、ただ主の憐れみと恵み、まことが成る事を祈るしかない。

詩篇40:13 主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。
40:14 わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもを/ことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもを/うしろに退かせ、恥を負わせてください。
40:15 わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを/自分の恥によって恐れおののかせてください。

ダビデは特に、敵から救われる事を、主に求めている。
敵から救っていただくためには、すべてを主に持っていく事である。
自分の犯した罪、自分の弱さ、どうしようもなさを。そして主の御胸に反した所が示されたなら、それを悔いて改める事である。

誰でも、自分の犯してきた罪々は、自分の髪よりも多い。
主に持っていかないなら、そして悔い改めて主にきれいにしていただかないなら、それらは追いついて絡みつき、見上げる事すら出来なくなって、心が消え失せるばかりになってしまう。
だからダビデは、主に尋ね求めるように、そして自分を助けて下さるようにと、この祈りを閉じている。

詩篇40:16 しかし、すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/常に「主は大いなるかな」ととなえるように。
40:17 わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。

主にすべてを打ち明け、悔い改めるなら、主は豊かに赦して下さる。
この素晴らしい主を体験し、多くの人々の前でこの素晴らしい主をあかししていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

地上では誠実に生活し、志は天国民として歩め(エレミヤ29:4-14)
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エレミヤ29:4 「万軍の主、イスラエルの神は、すべて捕え移された者、すなわち、わたしがエルサレムから、バビロンに捕え移させた者に、こう言う、
29:5 あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。
29:6 妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。

1コリント7:30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。
7:31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

2テサロニケ3:6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。
3:7 わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、
3:8 人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。
3:9 それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。
3:10 また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。
3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。
3:12 こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。

エレミヤ29:7 わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。

1テモテ2:1 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
2:2 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。

エレミヤ29:8 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。
29:9 それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる。

エレミヤ29:20 わたしがエルサレムからバビロンに送ったあなたがたすべての捕われ人よ、主の言葉を聞きなさい、
29:21 『わたしの名によって、あなたがたに偽りを預言しているコラヤの子アハブと、マアセヤの子ゼデキヤについて万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、見よ、わたしは彼らをバビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。王はあなたがたの目の前で彼らを殺す。
29:22 バビロンにいるユダの捕われ人は皆、彼らの名を、のろいの言葉に用いて、「主があなたをバビロンの王が火で焼いたゼデキヤとアハブのようにされるように」という。

エレミヤ29:10 主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。

エズラ2:59 次にあげる人々はテル・メラ、テル・ハレサ、ケルブ、アダンおよびインメルから上って来た者であったが、彼らはその氏族とその血統とを示して、そのイスラエルの者であることを明らかにすることができなかった。
2:60 すなわちデラヤの子孫、トビヤの子孫、ネコダの子孫で合わせて六百五十二人。
2:61 祭司の子孫のうちにはハバヤの子孫、ハッコヅの子孫、バルジライの子孫があった。バルジライはギレアデびとバルジライの娘たちのうちから妻をめとったので、その名で呼ばれることになった。
2:62 これらの者は系譜に載った者たちのうちに自分の名を尋ねたが見いだされなかったので、汚れた者として、祭司の職から除かれた。

エレミヤ29:11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

ダニエル9:2 すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。
9:3 それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。
9:4 すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、
9:5 われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。

創世記50:24 ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。
50:25 さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた。
50:26 こうしてヨセフは百十歳で死んだ。彼らはこれに薬を塗り、棺に納めて、エジプトに置いた。

ヘブル11:22 信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

ヘブル11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

雅歌書の中に見出すイエス様との親密な愛の交わり(雅歌1:1-4)
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雅歌1:1 ソロモンの雅歌

雅歌(シール・ハ・シーリーム)は日本語の漢字では、雅やかな歌、と当てられているが、原意は「歌たちの中の歌」である。
花嫁と花婿の詩、娘たちの合唱が呼び交わされる形式で、男女の婚約した時から、結婚に至り、初々しい夫婦生活から、その成熟に至るまでの、男女間の愛の喜びに溢れた表現で描いている。
雅歌書は、聖書の中でも異色の本といえる。
聖書の他の書は、神と人との愛の関係が記されるのが多いものの、雅歌書のように、人同士の、それも男女の愛をうたっている箇所はほとんどないし、また他の書は、感情表現ぬきで淡々と真理が示されている箇所は多いものの、雅歌書に限っては、ふんだんに感情表現がされている。
また、聖書の他の箇所では、神を称え賛美する箇所は多いものの、雅歌書のように、誰か人を、それも、異性をほめ讃える表現は、他の書では皆無だ。
この雅歌書から私達は何を読み解いていくべきか。

日本語で言う所の「愛」は、ギリシア語には4種類がある。
すなわち、フィレオの「友愛」、エストロゲの「親子愛」、エロスの「男女の恋愛」、そして、アガペーの、「神の完全なる究極的な愛」。
フィレオの愛は友愛、エストロゲの愛は親子愛、エロスの愛は男女の恋愛、そして、アガペーの愛は、神の完全な究極的な愛であるが、この雅歌では、主に、エロスの愛を描いている。
このエロスの愛は、強く情欲を駆り立て、うきうきさせる力があるが、自己中心的で、自分が満足したり、自分が気持ちよくなったり、時には奪ったりするものである。
もし相手に性的な魅力を感じなくなってしまったら、いとも簡単に離れてしまう。

世の中には多くの歌があるが、おそらく半数以上は、男女の愛をテーマにしたものではないだろうか。
しかもその愛の歌の中には、心をうきうきさせるよりも、切なくさせたり、悲哀感情へと浸しこませたりするものも、たくさん見受けられる。
神の愛・アガペーは、それらとは方向性が真逆で、人のした悪を思わず、自分が得る事を思わず、ただ人を大切にする愛である。

このエロスの愛で満ちている雅歌書は、聖書的に意味が無いのかというと、そうではない。
この世の有様は、全て天の実体の陰であり、男女の愛も、そうである。
雅歌のこの愛の模様は、私たち教会、すなわち、キリストの花嫁と、キリストと言うまことの花婿との関係の雛形として見ていく時、雅歌書はキリストと教会の関係において、非常に豊かな示唆を与えてくれる。
しかしもしキリストなしにこの雅歌書を読むなら、ただの恋愛ドラマや、官能小説と変わりはなくなってしまう。

この書は、あまりに男女の愛の喜びを楽しみを赤裸々に散りばめているので、これが果たして聖書の一巻としてふさわしいのかどうかと言う議論も成された。
しかし、神の国には当然、愛し愛されるゆえの喜びがあり、楽しみが存在する。
世の宗教では、男女の愛を何か汚れたものとして見る所もあるが、キリストにあっては、捨てるべきものは何一つ無い。
キリストを交えて見るなら、この雅歌書はとても美しく、麗しい、好ましいものである。

雅歌1:2 どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり、
1:3 あなたのにおい油はかんばしく、あなたの名は注がれたにおい油のようです。それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。

最初から早速、官能的な表現で始まるように見えるが、この「口づけ(ナーカシュ)」、もともとの意味は結びつける、(武器などを)装着する所から、「口づけ」になった。
私たちはここから、キリストの花嫁としての立ち位置、キリストを装着し、キリストを着たい、キリストと一体化したい、という感情を共有する事ができる。
イエス様が、私とひとつになってくださったら良いのに、と感情として思うのは、正常なキリスト者の願いである。
そのイエス様の愛は、ぶどう酒よりはるかに優れた心地よさだ、という感覚を、理解できるだろうか。
私達が「イエス様」と呼ぶたびに、イエス様の愛を感じ、その麗しさ、甘さが、香り高い香油のように、喜ばしさをともなって心に満ち満ちていく。
その感覚は、正常なキリスト者の感覚である。それを理解できない、とするなら、単にキリスト教を宗教として生きているだけである。

雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。

ここに、私達とキリストとの正しい立ち位置が記されている。
私たちはイエス様のあとを従って行くものであり、決してその逆ではない。
イエス様が行ったなら、私達は彼から離れずに、急いで彼についていく。それがイエス様との正しい位置関係である。

普段は自分の好き勝手にやって行って、何か困った時だけ、神を取り出して助けてもらおうとしたり、あるいは自分が願う事を叶えてもらうためだけに神を持ち出すような、そんなふうに、神を何か便利な四次元ポケット的なものとみなすのは、イエス様を主とした歩みではない。
イエス様は、この雅歌書の乙女にとって大好きな男性のように、私達にとってうるわしい主人であり、私達はただ彼の後からついて行き、彼の願われる事を行い、彼がしてはならないと言われた事はしない、そして、彼がしなさいと言われた事を行う。
それが正しい私達の歩みであり、その歩みをするならば、イエス様は私たちを「奥の間」へとエスコートし、そこで親密な愛の交わりへと導いて下さる。

そこには、「楽しみ喜び」があり、それは、ぶどう酒に遥かにまさるものだと書いてある。
ここの「楽しみ」と訳されたヘブライ語ギール(あるいはグル)は、元の意味は「くるくる回る」、そこから嬉しさ、喜びのあまりに踊り上がる事をあらわし、「喜び」と訳されたヘブライ語サマハ(ク)は、顔が喜びにぱーっと輝く様をあらわしている。
子犬が主人に久しぶりに会った時、ぴょんぴょん飛び跳ね、くるくる回って喜び叫び踊るような感覚である。

女性が、慕い求めている男性に、エスコートされ、奥の間に親密な愛の交わりへと連れて行かれる時、まさに、このギールやサマクの感覚ではなかろうか。
私達がキリストに対して描く感覚も、同じである。
イエス様に伴われ、普段の人には到底入れない聖なる所での、聖なる親しい交わりへと導かれて行く事は、キリスト者にとって、この上もない喜びである。

神を礼拝する場所、神殿や幕屋には、至聖所と呼ばれる「奥の間」がある。
そこは絶対的に聖なる領域で、普通の人間は決して入れない。
しかしイエス様は、十字架の上で、ご自身のからだを裂かれる事により、私達にそこへの道を開いて下さった。

私達は「肉体」という外面を持っており、それに対し「霊」という「奥の間」を持っている。
神は霊であるから、私達は霊とまことによる礼拝をする事を求められている故に、私達はこの肉体だけを礼拝に参加させるのではなく、霊とまことをもって主を礼拝するべきである。

そうであるなら、たとえ体は礼拝する場ではない所に、例えば職場や不信仰に満ちた家の中にいたとしても、霊においては主と交わっていて、「奥の間」における主との交わりにある。
その時、どこでも主にある喜び、楽しみに入る事ができる。
たとえ、私達を殺そうとする迫害者に取り囲まれている時でも、決して揺るがされるものではない。
ステパノがまさに、殉教される直前、キリストとの霊における奥の間の交わりに入っていた。

イエス様との正しい位置関係を持ち、イエス様の後から急いでついて行って、奥の間へと導かれ、そこにで霊における親密な愛の交わりに入って、世の何者にも決して揺るがされない平安と喜びの内を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

モリヤ - 礼拝の地、主に捧げる地、そして主から備えられる地(1歴代誌21:1-22:1)
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1歴代誌21:1 時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。
21:2 ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエルシバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。
21:3 ヨアブは言った、「それがどのくらいあっても、どうか主がその民を百倍に増されるように。しかし王わが主よ、彼らは皆あなたのしもべではありませんか。どうしてわが主はこの事を求められるのですか。どうしてイスラエルに罪を得させられるのですか」。

1サムエル記17:45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。
 17:46 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
 17:47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。


1歴代誌21:4 しかし王の言葉がヨアブに勝ったので、ヨアブは出て行って、イスラエルをあまねく行き巡り、エルサレムに帰って来た。
21:5 そしてヨアブは民の総数をダビデに告げた。すなわちイスラエルにはつるぎを抜く者が百十万人、ユダにはつるぎを抜く者が四十七万人あった。

イザヤ54:5 あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。

1歴代誌21:8 そこでダビデは神に言った、「わたしはこの事を行って大いに罪を犯しました。しかし今どうか、しもべの罪を除いてください。わたしは非常に愚かなことをいたしました」。
・・・
21:16 ダビデが目をあげて見ると、主の使が地と天の間に立って、手に抜いたつるぎをもち、エルサレムの上にさし伸べていたので、ダビデと長老たちは荒布を着て、ひれ伏した。
21:17 そしてダビデは神に言った、「民を数えよと命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪い事をしたのはわたしです。しかしこれらの羊は何をしましたか。わが神、主よ、どうぞあなたの手をわたしと、わたしの父の家にむけてください。しかし災をあなたの民に下さないでください」。

出エジプト記32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
32:33 主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。

1歴代誌21:18 時に主の使はガデに命じ、ダビデが上って行って、エブスびとオルナンの打ち場で主のために一つの祭壇を築くように告げさせた。
21:19 そこでダビデはガデが主の名をもって告げた言葉に従って上って行った。

2歴代誌3:1 ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。

創世記22:2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

1歴代誌21:20 そのときオルナンは麦を打っていたが、ふりかえってみ使を見たので、ともにいた彼の四人の子は身をかくした。

詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。

黙示録3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

1歴代誌21:21 ダビデがオルナンに近づくと、オルナンは目を上げてダビデを見、打ち場から出て来て地にひれ伏してダビデを拝した。
21:22 ダビデはオルナンに言った、「この打ち場の所をわたしに与えなさい。わたしは災が民に下るのをとどめるため、そこに主のために一つの祭壇を築きます。あなたは、そのじゅうぶんな価をとってこれをわたしに与えなさい」。
21:23 オルナンはダビデに言った、「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のためにささげます。わたしは皆これをささげます」。

ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

1歴代誌21:24 ダビデ王はオルナンに言った、「いいえ、わたしはじゅうぶんな代価を払ってこれを買います。わたしは主のためにあなたのものを取ることをしません。また、費えなしに燔祭をささげることをいたしません」。
21:25 それでダビデはその所のために金六百シケルをはかって、オルナンに払った。

創世記22:10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、
22:11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。
22:12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
22:13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

1歴代誌21:26 こうしてダビデは主のために、その所に一つの祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげて、主を呼んだ。主は燔祭の祭壇の上に天から火を下して答えられた。
21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。
21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
21:29 モーセが荒野で造った主の幕屋と燔祭の祭壇とは、その時ギベオンの高き所にあったからである。
21:30 しかしダビデはその前へ行って神に求めることができなかった。彼が主の使のつるぎを恐れたからである。
1歴代誌22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。
22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。
 

「沈黙は金なり」が真ではない場合の見分け方(詩篇39篇)
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聖歌隊の指揮者エドトンによってうたわせたダビデの歌
39:1 わたしは言った、「舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み、悪しき者のわたしの前にある間は/わたしの口にくつわをかけよう」と。
39:2 わたしは黙して物言わず(KJV: even from good: トーブ)、むなしく沈黙を守った。しかし、わたしの悩みはさらにひどくなり、
39:3 わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った。

ダビデは、口で罪を犯さないようにするために、悪者を前には、口を閉ざしておこう、と決心したが、すればするほど痛みがひどくなっていった。
口を閉ざすべき時もあるが、黙ってはならない時もある。
ダビデの悩みがひどくなったのは、良いこと(トーブ)をさえ、口から出さず、黙っていたからだ。

トーブというヘブライ語、それはパーフェクト、ビューティフル、グッドの意味で、神の天地創造の6日間で6回、ご自身の創造のみわざに対して神が評価された言葉であり、そして神の混じりけのない御言葉は、トーブそのものである。
悪者を前にして、神のトーブな御言葉と、神のトーブな御業を黙っているなら、ますます悪が調子に乗って、はびこり、同時に、トーブを口に出さなかった本人の中には、悩みが火のように燃え上がってしまうのだ。

ダビデがトーブな言葉にも黙っていた結果、思い知らされたのは、自分も含めた「人間のはかなさ」である。

詩篇39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも/息にすぎません。〔セラ

はびこる悪におもねって、10年や20年、命を永らえたとしても、結局それは、はかないものである。
この卑屈にながらえた期間は、むなしさと痛みの日々にすぎない。
ダビデは、自分も含めた人間というものの「むなしさ」を味わった故に、次のように結論する。

詩篇39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために/騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

ダビデは、彼自身の望みは、ただ主である、と結論した。
まことの神から離れた人の世界の中にも、人と人との間にも、そして、自分という人の中にも、結局は、むなしさしか以外には何も見いだせない。
そんな人間が、永遠なる神を抜きにして、10年20年ながらえた所で、一体何になるだろうか。
結局ダビデは、わが望みは決してすたれる事の無い、永遠に価値ある御方、主である、と、思い知るに至ったのだ。

私達は、イエス様にならうべきである。
イエス様は、悪しき者に取り囲まれ、よってたかって「偽り」の言葉に囲まれた時、それらに対しては、一切口を開かなかった。
しかし、真理の言葉については大いに口を開いた。

マタイ26:59 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。
26:60 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、
26:61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。
26:62 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。
26:64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

イエス様はこれ故に十字架刑が確定したが、イエス様はいつも真理に立って、心安らかであった。
キリスト者も、偽りに対して一切くちびるで関わらず、ただ、真理の言葉を発するなら、後ろ暗さが一切無く、心安らかで、たとえ迫害され殉教に至るとしても、聖霊が助けてくださり、世の何者にもまさる平安に満たされ、主の栄光をあらわす事が可能なのである。(使徒7:54-60)

詩篇39:8 わたしをすべてのとがから助け出し、愚かな者にわたしをあざけらせないでください。
39:9 わたしは黙して口を開きません。あなたがそれをなされたからです。
39:10 あなたが下された災を/わたしから取り去ってください。わたしはあなたのみ手に打ち懲らされることにより/滅びるばかりです。

ダビデは自分自身の罪や愚かさに由来する災いを、取り去って下さいと願う。
随分都合の良い願いだが、しかし罪の赦しと、聖霊による造り変えは、罪穢れを除き、ゆるしてくださる主へと向かっていき、主に自分の罪を言い表し、悔い改め、主と関わりを持とうとする人々に、与えてくださる。

詩篇39:11 あなたは罪を責めて人を懲らされるとき、その慕い喜ぶものを、しみが食うように、消し滅ぼされるのです。まことにすべての人は息にすぎません。〔セラ

人が、主を抜きにして喜び楽しむ世の楽しみや栄華は、結局、しみが食うように消し滅ぼされてしまう。ソロモンがまさにそうだった。
彼は前半人生は主に従っていたものの、人生の途中から驕り高ぶり、主を抜きにして歩み、富も権威も地上の頂点に立った時、妻を700人、妾を300人囲ったが、結局、それら得たものは全てが虚しい、と言う以外にはなかった。(伝道者の書)
ダビデは、この詩篇の最後を、祈りで締めくくる。

詩篇39:12 主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。
39:13 わたしが去って、うせない前に、み顔をそむけて、わたしを喜ばせてください」。

この短い祈りの中に「わたし」という言葉が6回も出てくる。
彼は、「わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、、、」と主に嘆願し、わたしにかまってほしいと、主との関係を求めたのだ。
主との親密な関係を求める事こそ、罪が赦され、パラダイスへ行くコツである。
イエス様と共に十字架につけられた強盗は、イエス様に「わたしを思い出して下さい」と、関係を求めた事によって、その日、イエス様と共にパラダイスに行った。

結局、以下の告白こそ、人間世界のむなしいやりくりから脱出できる言葉である。

詩篇39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

主イエス様に望みをかけ、真理の御言葉とあかしを宣言し、主に対して一切の後ろ暗い所が無い、永遠に充実した「生」を生きる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

ベエル・シェバを得る人に欠かせない大事な事(創世記22:1-19)

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成田エクレシア礼拝 音声


 この新年が、信仰者にとって大いに祝福の年となりますよう、主イエスキリストの御名によって祝福します!

昨年に続き、今年も「ベエル・シェバ」を得て、そこで豊かな祝福を得る事が示されていた。ベエル・シェバとは、信仰の父アブラハムが井戸を掘り、ぎょうりゅうの木を植えて開拓した地で、敵が入り込んで来る事なく安心して産んで増て行ける地であるが、金曜の礼拝でさらに大事な事を発見したので、分かち合いたい。



年末の主日は創世記21:33から、アブラハムがぎょりゅうの木を植え、そこに礼拝の場を構築した箇所より、ベエル・シェバを得る方法・そこを管理する方法を学んだ。ベエル・シェバのキーワードが次に登場する所は22:19であるが、この、ベエル・シェバのキーワードでサンドイッチされた箇所に、全ての信仰者にとって最重要とも言える場面が挿入されている。すなわち、アブラハムが最愛の子イサクを捧げる場面である。

主は、アブラハムが100歳にしてようやく生まれた子、神が約束しておられた子を、「全焼のいけにえとしてわたしに捧げなさい」と言われた。神は「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのに、なぜ、そのイサクを殺すような事を、アブラハムに言われたのか。矛盾している、と思われがちだが、彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:17-19)

このテストを彼がクリヤした結果、神は「誓って」、アブラハムとその子孫の祝福を約束する(17-18節)。

神が誓われた祝福の内訳は、4つあり、まずは?「大いに祝福する(バラクの反復による強調)」事。

バラクの原意は「ひざをかがめる」で、神ご自身が、あたかも親が子にひざをついてあらゆる便宜を図るように、あらゆる便宜を図ってくださる事である。次に?「大いに子孫を増やす」事で、それも、天の星のよう、海辺の砂のように増し加えるのである。信仰の子達は、天の星のように輝き(ピリピ2:15)、肉の子も、海の砂のように大いに増えていくのだ。さらに、?子孫(単数形)は、敵の門を打ち取り、?地のもろもろの国民は、アブラハムの子孫(単数)によって、祝福を得るというのだ。これが、最愛の子イサクを捧げた事による祝福であり、こうして彼はその後、あらゆる面で祝福された(創世記24:1)。

神は、ケチなお方ではない。一度捧げたら、本人の手元には何も残らないまま、というような事は、決してなさらない。天地の全てのものは、神のもので、神は太っ腹にじゃんじゃん与える事の出来るお方である。



聖書全体は、神の全人類・全被造物を救うための計画書でもある。全人類は元来、神の似姿として、神に祝福(バラク)され、生んで増えて地に満ち、地を支配しつつ、神と共に永遠を生きるものだった。しかし、敵であるサタンがそれを台無しにしてしまった。そこで神は、一人の人アブラハムを召し出し、彼が信仰によって、その子を捧げるようにし、そして、捧げられた子よって、この世に救いをもたらす土台を得たのだ。

人が神に何かを捧げるなら、神は、その捧げものを通して、この世界に介入し、御業を働かせる「取っ掛かり」を得られる。その実例として、少年がわずかなお弁当をイエス様に捧げた結果、イエス様はそのお弁当を通して5千人以上を満腹させたし、ハンナは、自分に生まれてくる子を捧げた結果、その子は偉大な預言者・キングメーカーである、サムエルとなった。さらにハンナは祝福され、多くの子達も与えられた。

アブラハムの場合も、彼がイサクを捧げた事により、神はイサクから生まれる子孫を通して、全人類・全被造物を贖う「とっかかり」を得たのだ。それでアブラハムの子孫(単数形)を通し、全人類は贖われ救われる。

この単数形の子孫が、イエス・キリストである。彼こそ、アブラハム対する約束の通り、全人類の敵・サタンの門を打ち破り(?)、囚われている人々を開放させ、全民族・全国民は彼によって祝福される(?)。信仰者は夜空の星々のように輝き(?)、アブラハムの霊的子孫であるキリスト者は、大いに祝福されるのだ。(?)

「ベエル・シェバ」は、サンドイッチ型キアズム構造の「パン」にあたり、イサクを捧げる出来事が「中身」として挟まっている。この構造で大事なのは「中身」であり、すなわち、ベエル・シェバを得る人にとって決して欠かせない事は「主に捧げる事」である。いかに自分にとって最愛のものであっても、また、たとえ神様がようやく与えて下さった、最も大事なものであっても、それは、主に捧げられたものとすべきだ、という事である。

それをするなら、主はその「捧げもの」に機会を得、世に介入し、御業を為し、暗闇の世界をひっくり返して祝福に輝く世界へ造り変える事が出来る、のみならず、その捧げた本人自身も、大いに祝福されるのだ。

この新年、ベエル・シェバをわがものとし、与えられた全ては、主に捧げ、そうして、主の御業をこの世に運び込み、自身も大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

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