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 ※ この日は、林/川合牧師がカンボジアへ出張する関係で、横浜天声キリスト教会では小林伝道師が、成田エクレシアでは林パスターが礼拝の担当をしました。そこで今回は、横浜の礼拝をYoutube動画で、成田エクレシア礼拝は文書でメッセージをお分かちします。

横浜天声キリスト教会主日礼拝「主の器をになう者の品性−あなたの隣人を愛しなさい(ルカ10:25-37)」
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成田エクレシア主日礼拝「思い巡らすことばを管理せよ(2コリント10:4-6)」

前回、サタンがダビデにイスラエルの兵力を数えさせようという思いを吹き込み、ダビデはそれに乗ってしまって、イスラエルに災いをもたらした所を見た(1歴21:1)。もし悪魔がキリスト者を操るとするなら、それは、キリスト者の中に生じた欲につけこんで「偽り」を信じこませる事によって、である。だから、私達の戦いの領域は「思い」の中にこそある。サタンは人の思いに偽りを吹き込んで、人を操るため、今回は特に、思い巡らす内容を管理する事の重要性と、思いの領域に投げかけて来るサタンの攻撃に対処する術を学びたい。
 
  私達の思いの中には常時、何かの「言葉」が電光掲示板のように流れているが、その思い巡らす言葉の内容を、管理し、支配すべきだ。なぜなら私達は、内外に流れる「ことば」に影響を受けながら「人となり」が形成されて行くからだ。サウル王は、健全な主の言葉に耳を傾けず、気分に流されるまま、「妬み」「怒り」「殺意」など、サタン好みの言葉をいつも思いの中に流し続け、それに浸し込まれていたため、どんどんサタンの性質を帯びるようになり、滅びの性質をどんどん身につけ、やがて、自分の身を滅ぼしてしまった。
 『サウルはギベアで、やりを手にもって・・・おり、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(2サム22:6)
 ここではサウルの人格の崩れ度合いが、かなり進行している。槍は人を殺める武器で、サタンなど敵に用いるべきなのに、部下を威圧するため、あるいは気に食わない者に投げつけるため、いつも手にしていた。
 『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。…わたしの子がわたしの僕をそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない。』(8節) 彼はすごい被害妄想に憑かれている。誰も心配してくれない、みんな自分に敵対している、と。信仰の逆・「疑い」をいつも抱き続ける人は、こうなってしまい、人が喜び笑う顔を見ると「自分が嘲られた」と思ってしまうものだ。
 サウルは既に、主から王位を退けられたのに、ずっと王座にしがみつき、主に油注がれたダビデを殺そうと付け狙って、いつも主に敵対していた。王座は、自分が座るものではなく、唯一イエス様が座るべき所だ。
もし人が「王座」を主に明け渡さないなら、「王座」に支配され、振り回され、ついに王座に滅ぼされてしまう。
 
 そういうわけで私達は、思いの中に常時流れている「ことば」を支配・管理すべきだ。人は罪の「とげ」がささっているため、どうしても、不品行や好色、魔術、憤り、党派心、妬みなどを燃え立たせる系の話に弱い。
しかしサウルのように、気分に任せるまま、それらを頭の電光掲示板に流し続けるなら、サタンに似た者、滅びの体質を身につけた者になってしまう。こうした思いが、思いの思考パターン化してしまった「要塞」は、肉に従って戦うとするなら、太刀打ちできない。しかし、その要塞を打ち破る効果てきめんな方法がある。
 『私達の戦いの武器は肉のものではなく、神の為には要塞をも破壊するほどの力あるものである。私達は様々な「議論(ロギスモス:理屈、自分の計算)」を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる「障害物(エパイロー:高慢)」を打ち壊し、全ての「思い(ナイマ:謀、所存)」をとりこにしてキリストに服従させ、そしてあなた方が完全に服従した時、全て不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリ10:3-6)
 すなわち、自分の中で握りしめようとする自分の理屈、計算、御言葉に逆らって立つあらゆる高慢、謀、所存を、全て「逮捕」し、キリストへと連行するのだ。そして私達自身は、キリスト(御言葉)に服従するのだ。
ダビデもよく、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と、自分に言い聞かせた。私達もたましいに言い聞かせ、その服従が完全になる時、全ての不従順を処罰する用意が整い、私達の中の要塞は破壊されるのだ。
 
 結局、全て人生をややこしくし、世界を不幸に陥れている原因は、エデンで食べてしまった「善悪判断」である。自分が王座に座っていたい、自分はこういう所存です、自分の立てた計算に従いなさい、などなど、自分が神のようになりたい欲求は、全て、死へとつながる。私達は御言葉といういのちの木をこそ捕えるべきだ。『知恵は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人は幸いである。』(箴言3:18)
 自分のたましいに言い聞かせる事は、確かに大事だが、いちいちそれをしていると、骨が折れる。
結局一番ラクな方法は、御言葉をそのまま暗記し、自動思考パターン化・行動パターン化させる「テフィリン」である。日本の部活や会社などでは、自分の理屈や所存を持っている人は「できない人」で、昇進しない。いち早くそれを捨て、場の空気に従う人が、ぐんぐん成長する。私達は人の奴隷ではなく天国民である故に、いち早く自分の所存を捨て、御言葉に従う者となり、神の子としてぐんぐん成長する者でありたい。

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
神のスーク(囲い)をいただくために(ヨブ記1:6-12)
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心の電光掲示板に流れる言葉を管理せよ(2コリント10:3-6)
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2コリント10:3 わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。
10:4 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、
10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。

1サムエル記22:6 サウルは、ダビデおよび彼と共にいる人々が見つかったということを聞いた。サウルはギベアで、やりを手にもって、丘のぎょりゅうの木の下にすわっており、家来たちはみなそのまわりに立っていた。
22:7 サウルはまわりに立っている家来たちに言った、「あなたがたベニヤミンびとは聞きなさい。エッサイの子もまた、あなたがたおのおのに畑やぶどう畑を与え、おのおのを千人の長、百人の長にするであろうか。
22:8 あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。わたしの子がエッサイの子と契約を結んでも、それをわたしに告げるものはなく、またあなたがたのうち、ひとりもわたしのために憂えず、きょうのように、わたしの子がわたしのしもべをそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない」。

詩篇42:10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに/わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言う。
42:11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
 

鹿が水の流れを慕うごとく(詩篇42篇)
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詩篇42篇からは詩篇の第二巻にはいる。
詩篇の第二巻のテーマは、開放と贖いについてであり、モーセ五書の出エジプト記に当たる。
モーセ五書は神の命令の書であるが、それに対し詩篇五巻は、律法の生活適用篇で、いかに具体的に日常生活の中で神との関わりを持っていくべきか、このようなケースではどう祈って対処して行くべきか、記されている。
出エジプト記の最初は、奴隷状態にあるイスラエルから始まった。
それと同様、詩篇第二巻も同様に、神の宮から遠く離れて敵に好き放題されている状況から、主を慕いあえいでいる作者の心情吐露の詩によって始まる。

詩篇42篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌」

マスキールとは、32篇8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり、またアモス書5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある。(聖書注解)
コラの子による、と表題にあるが、学者達の間では、作者はダビデで、サウル王あるいはアブシャロムによって追い回されている状況、とも考えられている。

詩篇42:1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。

作者は、何らかの理由で、主を礼拝する場所・エルサレムから、かなり地にいて、礼拝が出来ない状況の中から、主を礼拝したいという切望があらわれている。
ダビデがアブシャロムに追われている場面であるとするなら、ちょうど第二サムエル記15章の状況であろう。

2サムエル記15:24 そしてアビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。
15:25 そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。

ダビデはアブシャロムにエルサレムを明渡して都落ちして行くが、彼は信仰によって、必ずこの場所に再び戻り、再び主の箱の前で礼拝が捧げられる事を信じて、箱をエルサレムに戻すように指示した。
彼は、絶望はしていなかった。ただ、全て自分の状況を、全面的に主に委ね、主に望みを置いたのだ。

詩篇42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。
42:3 人々がひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は/わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

ダビデは、アブシャロムから逃げる道すがら、ずっとシムイという者に呪いの言葉を浴びせ続けられ、石を投げられ続けた。
ダビデはその中でも告白している。

2サムエル記16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
16:12 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」

ダビデは、自分が好き放題に呪われている状況にあっても、全てを見て聞いて知っておられ、そして、やがて正しく報いて下さる主に、全てを委ねた。

詩篇42:4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に/群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。

主を喜ぶ兄弟姉妹と一緒に、主の宮にのぼる時のうきうき感は、本当に、主を慕い求めている人にはよくわかる喜びの感覚である。ダビデもまさにそうだったし、全て礼拝する事に喜びを見出す人にはそうである。
そして、その慕い求める主が、礼拝できない時の飢え渇きがいかほどであるか、ちょうど、鹿が、水が無くて谷川を慕い求めるかのような感覚である事も、聖徒達が共有できる感覚である。

42:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

彼はうなだれ、心は思い乱れている状況であるが、彼自身ではその心の状況を、そのまま放置する事はしていない。
自分のたましいに向かって「神を待ち望め」と言い聞かせている。
確かに心配やいらだちで心乱れている状況では、賛美は到底自分からは出てこない状況だが、そんな状況だからこそ主をほめたたえよう、と、彼は絞り出すように告白している。

私達も自分のたましいを、主にあって支配していくべきである。
乱れた心は、そのまま放置するのではなく、自らのたましいへの言い聞かせによって支配する事が、信仰者には必要だ。なぜなら、信仰告白した内容によって、状況は動くからだ。

詩篇42:6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
42:7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波は/ことごとくわたしの上を越えていった。

この詩篇の作者は、体は宮からはなれ、礼拝に参加できないが、彼がいるヘルモンの山々に流れる川や滝から、また昼と夜の諸々の自然現象の中から、主の御手によるわざを見出して、主に心を向け思いを馳せている。

詩篇42:8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる/祈がわたしと共にある。
42:9 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって/悲しみ歩くのですか」と。
42:10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに/わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言う。

敵は相変わらず彼を悩ませている状況である。
しかし彼は、昼には主の恵みを覚え、夜には主へと捧げる歌をささげ、主を「わが岩なる神」と言って切に求めている。

主が必ず礼拝の場へと戻してくださる。
その確信を奮い立たせ、そして信仰の宣言で祈りを終わらせる。

詩篇42:11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

主は、主を呼び求める神の民が虐げられたまま放って置かれる事は、なさらない。その祈りを聞き、必ず御手を伸ばして助けてくださる。
出エジプト記がまさにそうであった。
出エジプト記は、主へ叫び求める声を主は聞いてくださり、神の民の敵にさばきを降し、礼拝へと導き、そして、礼拝する場所が建設されて終わった。

神の民は、礼拝する民である。
礼拝の場で、神との出会うことを切望する神の民の呼び声を、主は必ず聞いてくださる。

福音宣教者の動機(1テサロニケ2:1-12)
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真っ黒なぶどう畑の見張りから栄光の花嫁へのシンデレラ・ストーリー(雅歌1:5-8)
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1:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。

彼女は、自分が黒くなってしまったと言っている。その理由が6節。

1:6 わたしが日に焼けているがために、日がわたしを焼いたがために、わたしを見つめてはならない。わが母の子らは怒って、わたしにぶどう園を守らせた。しかし、わたしは自分のぶどう園を守らなかった。

日に焼けて黒い。なぜそうなったか。それは自分の肉親の子達、すなわち兄や姉がいきりたって、無理矢理彼女に、彼らの葡萄畑の見張り人に仕立てられたからだ。
「しかし彼女は自分の葡萄畑たちを見張ることができませんでした。」と言っている。
畑が複数形、という事は、兄や姉たちの畑たちを見張らなくてはならなかった。
それでいて、自分の(単数形の)葡萄畑の面倒を見る事はできなかった。
それで彼女が黒くなってしまった。というのが、彼女の状況。

日に焼けて黒くなって、女性としての魅力がなくなってしまった、と彼女は思って、それで、私のことをそんなに見つめないでください、と言っているのかもしれない。

しかし「日がわたしを焼いた(シャザフ)」は、直訳すると、わたしは太陽に見つめられた、と訳せる。
本来、自分の葡萄畑を見張って面倒を見るべきが、無理やり他人の葡萄畑を見張るようにされてしまった。自分のぶどうは面倒を見ることも、実らせることもできないまま、ただどんどん黒くなっていくだけ、というのが、彼女の今までだった。

しかし彼女は、黒いけれども美しいと言っている。
美しいとは「似合っている」という意味である。

彼女は、自分のぶどうの面倒を見ることができなかったかもしれない。ただ黒くなってしまったかもしれない、しか少なくとも彼女は、ずっと太陽に見つめられつけていた。
義の太陽であられるイエス様は、彼女をずっと見つめて続けておられた。あの間も、この間も。
そして彼女は、ついに、将来の夫の目に留まり、そこへ嫁いでいく。

まさにシンデレラストーリーである。シンデレラは元々、過酷な継母の元で灰をかぶる程に強制的に働かされ、真っ黒になったのと、意地悪な継母が「cinder(灰)」の娘、シンデレラ、と揶揄したのが元々であるが、やがて王子様に見初められ、王家へと嫁ぎ、素晴らしい王宮に入り、以前の古くて汚い、せまい働き場は全くもって過ぎ去る。
地上で神のために働く全ての「僕(ディアコノス=ディア(くぐる)+コノス(灰))」達は、皆、この壮大なシンデレラストーリーにあずかるのである。

花婿は黒くなった彼女のことを、女性の中でも最も美しい、と言う。
彼女は自分で自分のことを黒い、恥ずかしい、と思ったが、それは花婿とは違う価値観だった。

私たちも同様である。
自分で自分を見つめる評価は重要なのではない。むしろ、真の花婿にどう見られているか、彼がどう私たちを評価するのかこそ大事である。
私たちはいつまでも、他人の葡萄畑を見張り続けているわけではない。
やがて王の王であられるお方、まことの夫であられるお方が、より素晴らしい所へと導いて下さるのだ。

以前は、彼女の母の子供たちが、彼女よりも上の立場、力強い立場だったかもしれない。それで彼女の時間やエネルギーを搾取する事ができた。
しかしそれよりもさらなる上なるお方、王の中の王であられるお方に見初められ、嫁がれて行くなら、もはや以前の支配者たちは、手放さざるを得ない。

だから私達は、まことの夫へと引き寄せられる日に備え、日々しっかりと与えられたことをなすべきである。
私たちも世の中において、あるかもしれない。
世の人たちが、いきり立って、神の子達をこき使い、肝心の自分の畑、自分の家庭を全然見張ることができず、ただ無理やり他の兄弟姉妹の畑の面倒ばかりを見せられ、ただ黒くなってシミやそばかす、シワの類だけが増えて、あたかも無駄に時間をつぶしているかのように感じる事が。
しかしイエス様は変わらず、全部を、ずっと見つめ続けておられる。
主が私たちを呼び出し、召し出して下さるなら、もはや誰かに身勝手に押し付けられる労働や苦労から解放され、愛する方に召し出され、奥の間の交わりへと導かれて行く。

そのために私達がなすべき事が一点ある。
それは、夫なる方に、呼びかける事である。

1:7 わが魂の愛する者よ、あなたはどこで、あなたの群れを養い、昼の時にどこで、それを休ませるのか、わたしに告げてください。どうして、わたしはさまよう者のように、あなたの仲間の群れのかたわらに、いなければならないのですか。

私の愛する方、イエス様、どうか教えてください、どこであなたは羊を飼い、どこで休ませているのですか、なんで私だけさまようような事をしなくてはならないのでしょうか、と。

呼び求めるなら、主は教えて下さる。
私たちを罪の飲み食いから、黒くならざるを得ないところから解放される方法を、そして、花嫁として整えますます美しく仕立てられて行く術を。

黙示録に書いてある。夫のために飾られる花嫁は、天から降って来た、と。
花嫁が整えられる場所は、天である。私達のこの身は地上にいるかのように見えても、主に導かれるなら、私達の霊は天にあり、そこでは世の者は決して触れる事はできない。
この身は地上に居ながらにして、霊は御国におり、御国の平安、安息の内に、主に養われ、御国へと嫁いで行く花嫁として整えられ、飾られて行くのである。

何も私たちが、主に気に入られるために宝石やゴールドを買って飾るのではない。
私たちは主にあって、天的な養いを受け、宝石や首飾りなどで花嫁として美しく
飾られていくの。

そのためには、花婿に呼び求め、その言葉に聞き従っていかなければならない。

1:8 女のうちの最も美しい者よ、あなたが知らないなら、群れの足跡に従っていって、羊飼たちの天幕のかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。
 
主は語られる。羊の群れの足跡に従ってついてきなさい、と。
私達も、主の羊たちが歩んだ道、すなわち、信仰の先輩たちの足跡ならい、まずついていくことから始まる。
4節にある通り、私を引き寄せてください、私はあなたの後から急いで参ります、と言う姿勢で。
イエス様、私の後についてきて困った時に助けてね、と言う姿勢ではなく、私たちの側が、主のあとについていく、という歩みをしていくべきなのだ。

主について行って、その場所に到達したなら、羊飼いの住まい(ミシュカン)の傍らで、あなたの子山羊を買いなさい、と言われる。
山羊は羊よりもグレードが低いような、角が生えていた逆らう性質があり、前か悪かと言えば、どちらかというと悪に思えるような気もするが、しかし、その子山羊を飼いなさい、と言われる。羊飼いのミシュカンの傍らでう。

ミシュカンとは幕屋、テントの意味だが、モーセの時代以降の礼拝する所もミシュカンという。
私たちが子山羊を買うようなことがあっても、主の天幕(ミシュカン)のそばでそれを飼っているならば、主は私たちを、子山羊飼いから羊飼いにして下さる。
山羊は成長すれば、目がきつくなっていき、 あばれたり突進して来たりするが、子山羊のうちであるならば、主への捧げ物になる。

私達はまず、まことの羊飼いであられる主の羊たちの群れの足跡に、ついていかなくてはならない。ダビデは、主がまことの羊飼いで、私達はその羊だと言った。
だから私達も、ダビデやヨシュア、カレブのような信仰の先輩たちという主の羊達の足跡について行き、まことの羊飼いの幕屋、すなわち礼拝場所の傍らで、主が言われる通りに、子山羊を飼うのだ。それをしっかりとしていくならば、主はさらなる次の整えへと入らせていく。

どうか、ますます世の罪の飲み食いから離れ、キリストの花嫁として整えられ、飾られ、美しくされ、主の麗しい交わり、奥の間での交わりへと導かれていく皆さんでありますように。
イエス様の名前よって祝福します!

災いが避けて行く人の性質と、災いに追いつかれてしまう人の性質(詩篇91篇)
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詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。

1サムエル記17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」

詩篇91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。

1サムエル記17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

1列王記22:32 戦車長らはヨシャパテを見たとき、これはきっとイスラエルの王だと思ったので、身をめぐらして、これと戦おうとすると、ヨシャパテは呼ばわった。
22:33 戦車長らは彼がイスラエルの王でないのを見たので、彼を追うことをやめて引き返した。
22:34 しかし、ひとりの人が何心なく弓をひいて、イスラエルの王の胸当と草摺の間を射たので、彼はその戦車の御者に言った、「わたしは傷を受けた。戦車をめぐらして、わたしを戦場から運び出せ」。

詩篇91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。

1歴代誌21:20 オルナンが振り返ると御使いが見えた。彼とともにいた彼の四人の子は身を隠し、オルナンは小麦の打穀をしていた。

詩篇91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者を”すまい”としたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。

黙示録3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、”地上に住む”者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

詩篇91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。
 

病の時の祈り(詩篇41篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
41:1 貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。

詩篇41篇は、詩篇第一巻の最後であるが、その最初である詩篇1篇と同じ書き出しである。
1篇の幸いな人は、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人で、あったが、41篇の幸いな人は、貧しい人をかえりみる人である。
1篇では能動的な祝福が、すなわち、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉もしぼまず、そのなすところは皆栄えるという祝福が約束されていた。
しかし41篇では、悩みの日や病の時に守られる、という、受動的祝福が約束されている。
貧しい人をかえりみる事は、主に貸すことであり、主がその善行に報いてくださるのだ。(箴言19:17)

申命記15:7 あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
15:8 必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。
15:9 あなたは心に邪念を起し、『第七年のゆるしの年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に対し、物を惜しんで、何も与えないことのないように慎まなければならない。その人があなたを主に訴えるならば、あなたは罪を得るであろう。
15:10 あなたは心から彼に与えなければならない。彼に与える時は惜しんではならない。あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、手のすべての働きにおいて祝福されるからである。
15:11 貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。

ヨベルの年になると、負債を免除してやらなくてはならないのだが、それが近づいたと言って、惜しんではならないと主は命じられる。
なぜなら貧しい人を助けるという神の働きに参加するためであり、そして主は、その、施しによって失った分を、補填してあまり余らせて下さるからだ。

41:2 主は彼を守って、生きながらえさせられる。彼はこの地にあって、さいわいな者と呼ばれる。あなたは彼をその敵の欲望にわたされない。
41:3 主は彼をその病の床でささえられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる。
41:4 わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。

人は、弱い。
罪の楽しみへの誘惑に負けて、罪を犯したゆえに、サタンが追いつき、病が災いが追いつく事がある。
敵であるサタン、あるいは悪辣な者達に、あざけられてしまうきっかけを作ってしまう事がある。
ダビデもそうであった。

ダビデはこの詩篇を記した時、病んでいたが、この病の原因は、罪にある、と、ダビデは真っ先に告白している。

41:5 わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
41:6 そのひとりがわたしを見ようとして来るとき、彼は偽りを語り、その心によこしまを集め、外に出てはそれを言いふらす。
41:7 すべてわたしを憎む者は/わたしについて共にささやき、わたしのために災を思いめぐらす。
41:8 彼らは言う、「彼に一つのたたりがつきまとったから、倒れ伏して再び起きあがらないであろう」と。
41:9 わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも/わたしにそむいてくびすをあげた。

ダビデは王である故に、彼の周りには、表向き彼にへつらっているものの、心では全く敬っておらず、ただ利益を得るために利用しようとして来る者がいる。
イスカリオテのユダも、イエス様に対してそうだった。事実、9節は、ユダの事を預言した言葉である。(ヨハネ13:18)
そしてそのような者達は、いざという時に裏切り、敵となって責め立てて来るものである。

しかし、普段からの主に対する信頼と、貧しい人への憐れみが、御前に貯金となって積み立てられており、災いの時、主に呼び求めるなら、主は助けてくださる。

詩篇91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

また、8節で「たたり」と訳された語は、ヘブライ語でベリヤアル、元の意味は「価値がない者」である。
私達は、主イエス・キリストにあって、高価で尊い者であるが、それにひきかえ、裏切る者達や責め立ててくるサタンは、まったくもって「価値が無い者」である。
私達は御言葉に立つ時、キリストにあって価値ある者となり、価値が無いベリヤアル、サタンごときが、どうして責め立ててくるのか、と、正統に対抗できる。

41:10 しかし主よ、わたしをあわれみ、わたしを助け起してください。そうすればわたしは彼らに報い返すことができます。
41:11 わたしの敵がわたしに打ち勝てないことによって、あなたがわたしを喜ばれることを/わたしは知ります。
41:12 あなたはわたしの全きによって、わたしをささえ、とこしえにみ前に置かれます。

12節でダビデは「わたしの全き」と言ったが、私達すべての人間には、全き所は、まったく、無い。
この「全き」は、どういう事だろうか。

私達に罪がある時は、私達の罪をはるかに上回る主のゆるしへと、また病の時は、病から起こして床を畳ませて下さる癒やし主なる主へと、立ち返る事。
状況に関係なく、いつもわたしに与える恵みが常に大きい主を信じ、彼へと立ち返り、まことなる御言葉を信仰をもって宣言する事。
それこそ、「わたしの全き」であり、「わたしの義」である。

ローマ4:18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
4:19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
4:20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
4:21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
4:22 だから、彼は義と認められたのである。

詩篇第一巻の最後は、祝祷で終わっている。
同様に、詩篇のそれぞれの巻の終わりは、このような祝祷で終わる。

41:13 イスラエルの神、主は/とこしえからとこしえまでほむべきかな。アァメン、アァメン。

アーメンが反復されている。
アーメンとは、そのとおりです、それは真実です、そうなりますように、という意味であるが、これこそ、私達に御言葉が与えられた時の、正しい応答だ。

主日礼拝

主の目が絶えず注がれる礼拝者の地・モリヤ(1歴代誌21:1-22:1)

English Service

 

前回はベエル・シェバの箇所をキアズム構造解析し、サンドイッチ・キアズムの中心部分、すなわち、アブラハムがイサクを捧げる場面こそが重要である事を見た。その場面が私達に教える事は、主が奇跡的に与えて下さった人、モノ、事は、我が物として握りしめず、さらに主へと捧げて行くなら、主はそれを足がかりにこの世へどんどん介入できるようになり、その捧げものを主が用いて、この曲がった世を正す、だけでなく、その捧げた人には何倍もの祝福(それも、海の砂粒の数倍・空の星数倍!)を返して下さる事を学んだ。

アブラハムがイサクを捧げるように主が指定された地は、モリヤの地であったが、今回、このモリヤとベエル・シェバの2つが交錯する第一歴代誌21章から、主に捧げる事がいかに素晴らしい結果をもたらすか、逆に、与えられたものを我が物とする事がいかに損であるかを、今一度学んでいきたい。

『時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエル・シェバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。』(1歴代誌21:1-2) サタンがイスラエルに災いを降す「とっかかり」となったのは、イスラエルの中に芽生えて来た罪であり、ダビデに芽生えてきた傲慢だった。

ヨアブはダビデを諌めたのに、ダビデは聞かず、イスラエルを数えさせた。果たして、合計157万という数字が出た。ダビデは、その具体的な数値を聞いて、罪を犯した事を悟った。なぜなら、数えていない内は「万軍の主」(イザヤ54:5)が彼の力だったのに、数えた瞬間から、彼の力は「157万の人間」に成り下がってしまったからだ。彼がこの事を犯したゆえに、エルサレムは3日間、主のつるぎに打たれる事になる。

彼は、自分が罪を犯したのだから、災いを彼らに向けないで、自分と自分の家に降して下さい、と執り成し祈った所、主は、エブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くようダビデに命じた。実はその場所は、過去と未来の礼拝者達をつなぐ、とても重要な場所である。そこはモリヤ山と言われる地、すなわち過去、彼らの先祖アブラハムがイサクを捧げた所であり、後にソロモンの手で神殿が建てられる所である。(2歴代誌3:1)

『その時オルナンは麦を打っていたが、ふり振り返って御使いを見たので、共にいた彼の四人の子は身を隠した。』(1歴代誌21:20)

御使いはオルナンの打ち場で災いをもたらしていたのに、オルナンは何の害も受けず、麦を打っていた。災いのまさに中心地にいたのに、なぜ全然無事だったのだろう。  災いの日に、真っ先に害を受ける人もいれば、逆に、災いの中心地にいても害が素通りして行く人もいる。 それは、全能の主を拠り所とする人(詩篇91篇)、また、忍耐して主の言葉を守る人である。(黙示録3:10) オルナンの性質は、まさにそうだった。彼はエブス人でありながら、(1)素晴らしい信仰者であり、(2)権威に忠実で、そして(3)躊躇なく自分のものを主に捧げる性質の持ち主だった。彼はダビデが来るのを見ると、すぐ地にひれ伏した。ダビデが彼に、この土地を十分な金額で買いたい、と申し出ると、オルナンは言った。

「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のために捧げます。わたしは皆これを捧げます」(21-23節)

オルナンは何から何まで捧げる、と、ダビデに申し出た。その言葉が発せられた瞬間、確かにその地はオルナンの手を離れ、主のものとなった。しかしダビデは、自分が費用をかけずに主に捧げるなどとんでもないと、50シェケルで打ち場と牛を買い(2サム 24:24)、後には600シェケルでモリヤ山全体を買い取った。

モリヤ(ラアー(見る)+主(ヤハ))は、主が絶えず目を留めておられる地、人が主に捧げるかどうかを見ておられ、捧げたなら、その人に豊かに加えて備えられる地である。主は「礼拝の地」に目を留めておられる。 主はそこで、イサクを捧げたアブラハムに対して備えられ、全財産を捧げたオルナンに対して備えられた。

こうしてダビデはその所で捧げ物を捧げると、主は天から火を下して答えられ、御使いは剣を鞘に収めた。

ダビデは、主から驚く程の祝福を受けたが、自分のステータスを数え、自分を誇ろうとした結果、災いが起きて、減らされてしまった。しかしオルナンは、躊躇なく自分のものを捧げたら、増し加えて与えられた。

私達は、主が祝福して下さってからは、自分のステータスはどれほどかを心配したりせず、誇ったりせず、はじめから「万軍の主」により頼んでいれば良いのだ。そして、与えられたものを自分のものと主張せず、いつでも主に捧げる心を持っているなら、どんなに困難な時代でも守られ、増し加えられ祝福されるのだ。 そのようにこの時代、大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

集会での詩篇(詩篇40篇)
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メッセージ音声

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主に心を向け、耳を傾ける人が、いかに幸いであるか。ダビデはその経験を、集会の中で宣言している。

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
40:1 わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
40:3 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。

主は、どのような人を、滅びの穴や泥沼から引きあげ、足を岩の上におき、歩みを確かにされるのか。
それは、耐え忍んで主を待ち望む人であると書いてある。
また主は、どのような人の祈りに、耳を傾けられるか。
それは、以下に記されている事を、心して行う人である。

40:4 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
40:5 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。

主がその祈りを聞いてくださる人とは、自分の道を、罪や虚しい事へと向けない人、主の良くして下さった事と恵みのわざを思い起こし、それを忘れない人だ。

そして6-10節は、この詩篇の心臓部とも言えるべき所である。
特に6節は、旧新約の色々な所で引用され、また、これと同じ事は色々な箇所に記されている。

詩篇40:6 あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。

ヘブル10:5 あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。

詩篇では「耳を開かれた」となっているが、ヘブル書での引用では「からだを備えて下さった」となっている。
耳は、それほど礼拝において重要な器官のだ。
たとえ体が礼拝に参加していても、耳を御言葉へと傾けないなら、それは無意味である。
耳を傾けること、それこそ私達の最高のいけにえであり、主が求められる事だと、サムエルも言っている。(1サムエル記15:22)

詩篇40:7 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。
40:8 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

書の巻、すなわち聖書に、まさしくわたしたちの事が記されている!
このとても不思議な体験を、私達クリスチャンはしている。
ダビデは1節で、主はわたしの叫びを聞かれた、と言っているが、主がその祈りを聞いてくださる人とは、主に耳を傾けて聞く人、主のことばを求め、その通りを守り行う人だ。
また、「あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」とダビデが言っている通り、御言葉を心の内に刻みつける人、すなわちテフィリンする人である。

詩篇40:9 わたしは大いなる集会で、「救についての喜びのおとずれ(ツェデク:義)」を告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。
40:10 わたしはあなたの「救(ツェデカ:義)」を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを「告げ示し(アマール、KJV: declared)」ました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを/大いなる集会に隠しませんでした。

口語訳で「救についての喜びのおとずれ」と訳された語は、ヘブライ語では「ツェデク(義)」、英語のKJVでは「righteousness」の一語である。
ダビデは、主の義について、心の中に隠しとどめておかず、大集会を前に大声で告げ知らせた。
イエス様が、ともしびは枡の下には置かない、と言われたように、私達も、主が良くして下さった事を、心に秘めて置く事なく、人々に告げ知らせるべきである。

11節以降は、ダビデの祈りと願いになる。

詩篇40:11 主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって/常にわたしをお守りください。

「あなたのあわれみ」「あなたのいつくしみとまこと」とある通り、憐れみ、恵み、まことは、主から来るのであって、自分から来るのではない。これらが欲しいなら、ダビデのように、主に求めるべきである。

詩篇40:12 数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。

私達も、自分の身から出た錆的な災いに、追いつかれてしまう事が多々ある。
その場合は、ダビデのように、ただ主の憐れみと恵み、まことが成る事を祈るしかない。

詩篇40:13 主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。
40:14 わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもを/ことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもを/うしろに退かせ、恥を負わせてください。
40:15 わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを/自分の恥によって恐れおののかせてください。

ダビデは特に、敵から救われる事を、主に求めている。
敵から救っていただくためには、すべてを主に持っていく事である。
自分の犯した罪、自分の弱さ、どうしようもなさを。そして主の御胸に反した所が示されたなら、それを悔いて改める事である。

誰でも、自分の犯してきた罪々は、自分の髪よりも多い。
主に持っていかないなら、そして悔い改めて主にきれいにしていただかないなら、それらは追いついて絡みつき、見上げる事すら出来なくなって、心が消え失せるばかりになってしまう。
だからダビデは、主に尋ね求めるように、そして自分を助けて下さるようにと、この祈りを閉じている。

詩篇40:16 しかし、すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/常に「主は大いなるかな」ととなえるように。
40:17 わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。

主にすべてを打ち明け、悔い改めるなら、主は豊かに赦して下さる。
この素晴らしい主を体験し、多くの人々の前でこの素晴らしい主をあかししていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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