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人の栄光化は不幸をもたらし、主の栄光化は喜びをもたらす(雅歌3:6-11)
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今回の箇所は、ソロモン王の贅沢で華やかな有様が記してある。
最近も、セレブの豪奢な日々をつづったドラマは視聴率を得ているが、しかし世においては、そのような贅沢に暮らしている人の裏には、多くの悲しむ人達がいるものである。
ソロモンはこの時、王妃は既に六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。(雅歌6:8)
さらに後には、七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。(1列王記11:3)

このソロモンという男性の背景をみるに、気分が悪くなるような、また、彼に嫁いでいく女性たちを思うに、ある種の切なさを覚えるかもしれない。
しかし私達は、この書を、単に昔の豪華な人達の愛の歌、として読むべきではない。
聖書は、旧約も、新約も、イエスキリストを中心に記されている。
もし聖書を、人間にフォーカスを当てて読むとするなら、人の罪の有様に気分が悪くなっていくが、イエスキリストを中心に見据えてこの書を読んで行くなら、これは私達の喜びと期待、そして私達にとって希望に溢れるものとなる。


ソロモン王が花嫁を迎える有様は、とても豪勢な成り立ちであった。

3:6 没薬、乳香など、商人のもろもろの香料をもって、かおりを放ち、煙の柱のように、荒野から上って来るものは何か。
3:7 見よ、あれはソロモンの乗物で、六十人の勇士がそのまわりにいる。イスラエルの勇士で、
3:8 皆、つるぎをとり、戦いをよくし、おのおの腰に剣を帯びて、夜の危険に備えている。

7節で「乗り物」と訳されているのは、KJVではベッド、NKJVではカウチと訳されている。
つまり屈強な人々に担がれながら、ソロモンはで女性と一緒にその移動式ベッドにねそべって移動していたのだ。
ソロモンは屈強の勇士60人をかかえて来る。ダビデの時代は戦争がたくさんあったが、彼についていたのは30勇士だった。しかしソロモンは、平和の時代なのに、60人もの勇士を抱えている。
ソロモンの時代は平和であるので、夜襲に備えての屈強な勇士達は元々いらないはずだが、それでも60人も武装したボディーガードがいつもついている、という事は、ソロモン自身、後ろ暗い所があったのかもしれない。
3:9 ソロモン王はレバノンの木をもって、自分のために輿をつくった。
3:10 その柱は銀、そのうしろは金、その座は紫の布でつくった。その内部にはエルサレムの娘たちが、愛情をこめてつくった物を張りつけた。
9節にも輿と言う言葉が出てくるが、これは7節とは違う輿であり、KJVではチャリオット、すなわち戦車である。

ソロモンは、自分のために豪華な戦車をつくり、そこを飾る織物は、エルサレムの娘たちが愛情をこめてつくったものである。

3:11 シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見よ。彼は婚姻の日、心の喜びの日に、その母の彼にかぶらせた冠をいただいている。

多くの娘たちの愛がこめられている戦車や、屈強な男たちに担がれた移動式カウチに乗って移動する。このような、豪華絢爛な有様で女性を迎えに来る光景は、華やかさがあり、人々の羨望の眼差しがあるかもしれないが、果たしてソロモンの周囲の人々は全員が全員、喜びにあふれていただろうか。
ソロモンは、若い頃は純粋な信仰持っていたが、周りから担がれている内に、そして女も金もふんだんに手に入って行く中、彼は、多くの女たち、エジプトの女や、いろいろな国々の女たちを抱え、彼女たちの声を聞いていくうちに、どんどん彼は霊性が汚されて行く。
列王記や歴代誌は語る。彼がイスラエルの神に背く行いをしていった結果、祝福は離れ、人々は重税に苦しみ、敵対する者が現れていった。

私たちがは、ただ御言葉に聞くべきである。異邦の女を囲うのではなく、御言葉に基づいた叱責をしてくれる人をこそ囲い込み、御言葉に基づいた歩みをしていないならば、ソロモンのようになってしまう。
この記述は、表向きはきらびやかで豪華絢爛であっても、その背後を見ると、多くの女性たちの、また多くの子供たちの悲しい思いが秘められている。

この地上では、1人の男に、複数の女性が嫁ぐなら、必ず不公平と怒り、悲しみがつきものである。聖書を見ると、その事に例外はなかった。
しかしキリストにおいては、それはない。

キリストはやがて、私達を迎えに来る。
ソロモンより遥かに多くの天の軍勢を従え、はるかに光り輝く栄光に包まれて。

1テサロニケ4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
私たちは、その日その時、一挙に引き上げられる。空中に引き上げられ、雲の中で、キリストと対面する。そして、まことの婚礼と導かれていく。

ソロモンの車は、エルサレムの多くの娘たちの愛情が込められた飾りで飾られていたが、私たちは今、イエス様を愛する心をもって、良い行いという飾りを作っているようなものである。
私達が御霊にあって良い行いをする時、そして愛、喜び、平安など、御霊の良い実を結んで行く時に、イエス様を美しい飾りで飾らせていくのだ。

雅歌書は、キリストを除いて読むなら、セレブの祭りに参加してる恋愛小説のようになってしまうが、その裏では、多くの涙や悲しみがあった。
ソロモンの周りでは、ドロドロの恋愛愛憎劇や、性的に汚れた有り様が展開されているかもしれない。
しかしキリストにあっては、ただ栄光に満ちた喜びしかない。

ソロモンは、多くの女性を抱えていたが、多くの女性や子供たちが涙を流し、悲しみ、叫んだ。
しかし、キリストの花嫁である教会には、世界中の多くの人々がいるが、彼ら全ての涙はすっかり拭われ、誰も悲しんだり叫んだり苦しんだりする事は無い。永遠の天国において、永遠の慰めを得るのである。

私たちの花婿キリストは、完全なるお方である。
ソロモンは女性を捨てたりする事があるかもしれないが、私たちの花婿キリストは決して見放すさず、見捨てない。

それ故、私達はキリストと言うまことの夫を意識し、まことの結婚式に向けて、自分自身を整えなくてはならない。
イエス様はよく、天の王国を、結婚にたとえた。

花婿を待ち望む10人の花嫁のたとえの中では、5人は愚かで、5人は賢かった。
花婿が迎えに来る時のために、彼女たちはともしびを整えていたが、5人は愚かで、油を用意しておかなかった。
賢い花嫁たちは、花婿がいつ来ても良いように、油も用意していた。

キリストはきっとまだ来ないだろう、と思って、ぼんやり過ごしていたりする人は多いが、ぼんやりしていてはならない。平和な時は、ぼんやりしている時ではなく、備えをすべき時である。
花婿が来られた時、どうしたら花婿が喜ぶだろうか、花婿がいつ来ても良いように備えをしよう、と、いつも考えているべきである。それをしていないなら、いざ花婿が来るときに、慌てふためくことになる。

賢い乙女と愚かな乙女の違いは、何だったか。
愚かな乙女たちは、自分の時間で動き、自分の考えで動いていた。
それに対し賢い花嫁は、花婿の時間、花婿のために動いていた。

私も、花婿を中心に考えるなら、今なすべきことがわかるはずである。どうすれば花婿が喜ぶか。花婿がいつ来るか、その間何を整えるべきか。

私達は、まことの花婿キリストを迎えるまで、しっかり御言葉に親しみ、花婿の喜ばれる飾りを身につけて、みことばの灯を掲げておくべき。
御言葉には、聖霊の油と言う燃料が必要である。聖霊によってみことばを語るのでなければ、ただの剣である。
その油は、自分をおろし主を第一にする事によって、どんどん溜まって行く。ゲッセマネは、油絞りと言う意味だが、イエス様はそこにおいて自分の心ではなく父の御心が成りますように、と祈った。
私達も、この「油絞り」の祈りによって、日々、油は貯蓄されていく。

かの日は、必ず来る。その日が来た時、慌てないように、日々しっかりと自分をおろし、祈りを捧げ、賛美を捧げ、花婿は今日にでも来るかもしれないと言う意識を持ち、そうして油を貯金して歩むべきだ。
御言葉を蓄えましょう。真心込めて口から告白する時、キリストは、ああ、また一歩花嫁として整えられた、と喜んでくださる。
イエス様の喜びは何か、どうしたら花婿を喜ばせられるか、という思いを持ちつつ、キリストの花嫁として整えられていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

無言の立ち居振る舞いという強力なことば(エステル記4:9-5:5)
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エステル4:9 ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、
4:10 エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、
4:11 「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。
4:12 エステルの言葉をモルデカイに告げたので、
4:13 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
4:14 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。
4:15 そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、
4:16 「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。
4:17 モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。
エステル5:1 三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。王は王宮の玉座に座して王宮の入口にむかっていたが、
5:2 王妃エステルが庭に立っているのを見て彼女に恵みを示し、その手にある金の笏をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった。
5:3 王は彼女に言った、「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。
5:4 エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、きょうわたしが王のために設けた酒宴に、ハマンとご一緒にお臨みください」。
5:5 そこで王は「ハマンを速く連れてきて、エステルの言うようにせよ」と言い、やがて王とハマンはエステルの設けた酒宴に臨んだ。

1テモテ2:9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
2:10 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。

ルツ記3:3 それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。
3:4 そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう」。
3:5 ルツはしゅうとめに言った、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」。

悔いた心をもって進み出る人々の祈りを聞いてくださる主(詩篇51篇)

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続いてダビデが祈り求めたのは、「新しいい、正しい霊」「聖なる霊」「自由の霊」である。(10-13節)
そして、それらを求める以前に必須な事が、5-9節の「きよめの祈り」である。
主の霊は、きよい霊であり、まず、きよめを求めなくてはならない。次のように書いてある。
 
ヘブル12:14 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。
イザヤ59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
 
だから、もし主から何かを頂きたいのであるなら、くださいと求める以前に、まず自分自身の罪を、悔い改めと告白によって主の前に取り扱わなければならない。
もし主に祈っても、求めても何も答えが無い、ただ沈黙しかない、とするなら、自分の罪をそのまま放置したまま、ただ「下さい、下さい」と言って空を打っているに過ぎない。
遠藤周作は「沈黙」という小説を書き、神は沈黙していて何も具体的な助けをしない、と暗にほのめかしたが、彼はそんな小説を書く前に、まず自分の罪と正面から向き合い、それを神の前に告白して悔い改めるべきだった。そうすれば神は決して沈黙の神ではなく、力強く働かれる主であることを体験しただろう。
彼はその著作で書いた。『私はひたぶるに神を求めることはなかったが、生涯のんびり、ゆっくり楽しみながら神を求めたと言えるかもしれぬ。』(心の夜想曲)
ここにあるように、彼は熱烈に主に求めた事はなく、自分の気のむくまま、のんびりと求めていたため、自分の罪を悲しみいたんで悔い改める事はなかったのだ。
 
そして彼の「神観」の、致命的な所は、次の言葉である。
『もっと早く気づけばよかったのだ。神とは存在ではなくて、働きであるということに。そしてその働きを私は自分の人生のなかで色々な形で感ずることができた。たとえば本格小説を書いている時、稀れではあるが自分が書いているのではなく、誰かに手を持って書かせられていると思う箇所が私にもある。』(万華鏡)
 
神は言っておられる。『わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)。』(出エジプト記3:14)
この神の「イェヒエ」は、ハヤーの一人称単数未完了形である。
ヘブライ語の未完了形は、動作が未だ終わっておらず、ずっと続いて行く事であり、すなわち神の「ある」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
神は、ご自身で存在されるお方であり、そして、私達を存在させるお方だ。
 
イエス様もまた、ご自身を幾度も「わたしは有る(ギ:エゴ・エイミー)」と言われ、人を活かす者・いのちを有らせる者としてご自身を証された。
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
イエス様が言われる通り、「神が存在する」「イエス様が存在する」事を信じないなら、その人は、自分の罪のうちに死ぬ事になる。
 
そして悪霊は、身勝手な、なまぬるい神観でいる者に働きやすい。
彼は「たとえば本格小説を書いている時、稀れではあるが自分が書いているのではなく、誰かに手を持って書かせられていると思う箇所が私にもある。」(万華鏡)と言ったが、イエスがキリストである事を否定する霊は、悪霊である。
彼は小説の中で、イエス様を単なる無力な善人のように仕立て上げる事によって、イエスがキリスト(メシヤ)である事を否定したからには、彼は、悪霊に導かれて小説を書いたといえる。
世間は彼を「キリスト教文学者」と評しているかもしれなが、とんでもない。「アンチ・キリスト文学者」と言ったほうが良い。
 
遠藤周作は「沈黙」において、殉教者たちに働く聖霊の働きを完全に無視したが、ダビデは、その聖霊を求めるために罪を悔い、涙と苦悩をもって主の御前に出た。
 
詩篇51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり(バラー:創造する)、わたしのうちに「新しい(カダシ)」、「正しい(クーン)」霊を与えてください。
 
彼が求めた霊の第一は「新しい、正しい霊」である。
「新しい(カダシ)」とは、全く新しく再構築する、それも、全く最新のものへと取り替える意味である。
彼は生まれながらに罪を抱える自分を、全く新しくしてほしいと願った。
 
次に彼は、「正しい霊(クーン)」を求めた。
ここのクーンは「そそり立つ」「確固とする」のNiphal(再帰態)が用いられているので、彼は、彼を確固とさせ、彼を立たせて下さる霊を求めたのだ。
 
私達も、聖霊が与えられなくては、罪について、義について、さばきについてわからないし(ヨハネ16:8-11)、キリスト者として立つことはできないし、神の働きを担う事もできない。
 
詩篇51:11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
 
二番目に彼は、聖なる霊が取り上げられないように、と願った。
サウルは、王権が彼から取り上げられ、主の霊が去った事をサムエルに宣言された時、悔い改める事をしないで、むしろ、人々の前での体裁を気にし、サムエルが自分と一緒に帰ってくれるように、というまことにあさってな事を懇願した。
ダビデは聖霊がサウルから取り上げられた後のその有様をずっと見続けていたので、ダビデは聖霊が取り上げられる事をもっとも恐れた。
 
詩篇51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。
 
彼が求めた三つ目の霊は、自由の霊をもってわたしを支えて下さるように、そうして主の救いの喜びをかえしてください、という事である。
主が私達に与えてくださった霊は、奴隷にさせる霊ではない。力と愛と、つつしみの霊である。
 
詩篇51:13 そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
 
ダビデは、自分は人々に教えるために、その霊を与えてください、と願った。
多くを赦された者は、多く愛するようになる。そうして主の深い恵みと、罪の苦々しさを、より人々に教える事ができるようになる。
 
詩篇51:14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
 
続いてダビデは、賛美の口が開かれるように求めた。
彼は元々、主を賛美することがが大好きだったが、彼が罪を犯して以来、ずっと賛美する事ができなかった。
賛美は、心の直ぐな人たちにふさわしいからであり(詩篇33:1)、罪を犯した者が、自らをきよめないままの人が、賛美をするなど、できないものだ。
それで彼は、大好きだった神を賛美する事を回復させ、神との正常な関係が戻って来るようにと祈った。
 
詩篇51:16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
 
主は、心砕かれた者の祈りを、「あなたは罪を犯したからもう祈りは聞かない」などと、ぞんざいにするお方ではない。
イエス様も、たとえ話の中で言われた。
 
ルカ18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 
パリサイ人は、人と自分を比較して、自分を正しいとする自慢話を、とうとうと神にむかって並べた。
それにひきかえ、取税人は、遠く離れて顔を天に向けようともせずに、自分の胸をたたいた。この行動はすなわち、彼は、自分は罪人だと自認して、それを悲しんでいたのだ。
主から義とされたのは、収税人のほうだった。
それは彼も、ダビデのように、自分の罪を告白し悲しみ、神の一方的なゆるしを乞い願ったからだ。
 
神は、そのような祈りを、さげすまず、受け入れて下さる。
 
詩篇51:18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵み(ラツォン:好意、喜んで受け入れられる)を施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。
 
ダビデは「エルサレムの城壁を築きなおしてください」と祈ったが、城壁とは、外部から身をまもり、敵に対抗するものである。
私達もダビデのように、自分の人生に罪の誘惑が入って来ないように、しっかり対抗できるように、城壁を築き直してください、と、聖霊に祈るのだ。
その時、聖徒は主に捧げ、主もそれを受け入れる「礼拝」の回復がなされる。
 
詩篇51篇は、私達も罪を犯した時、主に立ち返る祈りの、良きモデルである。
この詩篇をいつも身近に置いてすぐに出せるようにしておき、罪を犯したならば、都度、悔い改め、神との関係を良好に保ち続け、後ろ暗くなく主と共に歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「負ける思考パターンからの脱出方法(民数記13:25-14:11)」
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 今年新たに頂いた約束、すなわち、自分が建てなかった大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、自分が植えたのでない畑を得る約束(申命記6:10-11)を得るための条件と、注意すべき事を学んでいる。今回も、それを得られる人・得られない人の思考パターンを、民数記から学びたい。

 

 主が用意して下さった祝福の地を逃してしまう人の思考パターンが、民数記13:31〜14:4に幾つかある。

祝福を逃してしまう思考パターン・その1は、先週も学んだ通り、目の前の敵や状況を見る時、共におられる主を度外視して、ただ自分と相手を比較する事である(13:31)。思考パターン・その2は、主が備えて下さった莫大な良い祝福に目を向けず、できない言い訳を考え、それを誇張し、悪くいいふらす事である(32節)。思考パターンその3は、目の前の問題を巨大化し、自分を「いなご」などと縮小化する事である(33節)。

 民衆は今まで、主がして下さった素晴らしいわざの数々を見ておきながら、一切学ぶ所が無かった。今までモーセが全部、信仰の指導をして、いざ、一人一人が信仰の行いを実践しなくてはならない段になった時、それを実践しなかった。パターンその4は、信仰の行いの報酬も、奇跡も、ただ受けっぱなしで、自分が実践するべき段になると、尻込みして、「それはわたしの仕事じゃありません」などと拒否する事である。

 パロのレンガ造りに明け暮れる日々から脱却して、主のための価値ある仕事へとシフトする時が来ている。

これらの「負けの思考パターン」から脱却する方法は、一体何か? 2コリント10:3-6に具体的な答えがある。

 

 それはまず、「逮捕」する事から始まる。逮捕する相手は、目の前の問題や敵を頭の中でぐるぐる巡らす「さまざまの思弁(ロギスモス:議論、理屈、自分の計算)」だ。「この問題はイエス様も対処できないのでは」などと「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり(エパイロー:高慢、障害物)」など、全ての「はかりごと(ナイマ:思い、所存)」を「とりこにして(アイクマロティゾー:捕らえて連行する)」、キリストの言葉に服従するのだ。

 その服従が完成した時、敵が構築したあらゆる「城壁」は、打破される。事実、ヨシュア達がエリコの城壁を崩したのは、武力ではなく、主の御言葉への服従が「7」という完全数に満ちた時だった(ヨシュア記6章)。

 勝利者の行動パターンは、いつも、主と主の御言葉を思い巡らし、口ずさむ事である。(申命記6:4-9)

思いの中を、御言葉の柵をめぐらしてガードする時、世的な強さや栄光は色あせ、ただ主の力強さが現実を上回る、と確信できるようになるのだ。ヨシュアとカレブは、神がなして下さった素晴らしい御業の数々をいつも思い巡らしていた。先週学んだ「能動態の”ビーン(悟り)”」を持っていたのである。つまり彼らは、自分から積極的に主を知ろうと、主のわざを注視し、観察し、考慮し、より主を理解しようと、務めていたのだ。

 

 ヨシュアとカレブは、エジプトへ逆戻りしようと言い出した群衆に、叫んだ。これから入ろうとしている、主の約束の地は、素晴らしく良い地だった。私達が主の御心にかなうなら、主はあの地へと導き入れて下さる。

ただ、主に背いてはならない。彼らを恐れてはならない。彼らの守りは取り去られており、私達には万軍の主がおられ、彼らは私達の「えじき」となるのだ、と。そんな彼らに民衆は、石を投げようとした。しかし主はヨシュア達に軍配を上げ、彼らを守り、逆に主は、約束の地を悪くいいふらした者達を打たれた。(14:7-38)

 ヨシュアとカレブは、主の約束の地を仰ぎみる信仰を、40年もキープし続けた。40年後、カレブは85歳になったが、40年前と変わらない信仰を宣言し、ヨシュアの祝福を受けると、たちまちにして巨人がはびこる山地を平定した。85歳が、巨人が守る城壁の町々を、いとも簡単に打破したのだ!(ヨシュア記14章)

 

 そういうわけで、目の前にある問題や敵、城壁を見て、頭の中が「もうだめだ」という「議論」でぐるぐるし出した時、まずすべきは、主イエスの御名によってその「議論」を逮捕し、次に「能動態のビーン」をするのだ。

すなわち、主が為して下さった力あるわざを一つ一つ思い返し、御言葉によって主を観察し、考慮し、今までの経験と御言葉とから、主を理解しようと務めるのだ。そして、主へのビーンと御言葉への従順が完全になった時、頭の中の要塞は打ち砕かれ、そして、目の前の現実の問題・敵の城壁も、実際に崩れ去るのだ。

 もし私達が、日頃から主と主の御言葉を口ずさみ、思い巡らす事(申命記6:4-9)をしているなら、祝福の法則に乗っかっている。今、私達は祝福の法則に乗り、たとえ目の前に敵や城壁が立ちはだかっても、主の言葉への服従と信仰によって打ち破る皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

 

世の初めからメシヤであられたイエスと、信じないユダヤ人との、決して交わらない平行線(ヨハネ8:48-59)
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ヨハネ8:48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」。
8:49 イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。
8:50 わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
8:51 よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。

ヨハネ8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
ヨハネ8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

ヨハネ8:52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。
8:53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。

マタイ22:29 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
22:30 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
22:31 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。

8:54 イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。
8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

創世記15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫(単数形)はあのようになるでしょう」。
15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

創世記22:15 主の使は再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、
22:17 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫(単数形)をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫(単数形)は敵の門を打ち取り、
22:18 また地のもろもろの国民はあなたの子孫(単数形)によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。
22:19 アブラハムは若者たちの所に帰り、みな立って、共にベエルシバへ行った。そしてアブラハムはベエルシバに住んだ。

ヘブル11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

8:57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
8:58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。

エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

ヨハネ8:59 そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

1ペテロ1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。
1:10 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。
1:11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。
1:12 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。

イエス様の言葉が入っていかない・わからない・受け入れられない人がいるのはなぜか(ヨハネ8:31-47)
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ヨハネ8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
8:33 そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
8:35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。
8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。
8:38 わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。
8:39 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。
8:40 ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。
8:41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。
8:42 イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。
8:43 どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。
8:44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
8:45 しかし、わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない。
8:46 あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
8:47 神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。

御父が共におられる事を繰り返し証されたイエス様(ヨハネ8:12-30)
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8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
8:13 するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。
8:14 イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。
8:15 あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。
8:16 しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。
8:17 あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。
8:18 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。
8:19 すると、彼らはイエスに言った、「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。
8:20 イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。
8:21 さて、また彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない」。
8:22 そこでユダヤ人たちは言った、「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができないと、言ったのは、あるいは自殺でもしようとするつもりか」。
8:23 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。
8:24 だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。
8:25 そこで彼らはイエスに言った、「あなたは、いったい、どういうかたですか」。イエスは彼らに言われた、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。
8:26 あなたがたについて、わたしの言うべきこと、さばくべきことが、たくさんある。しかし、わたしをつかわされたかたは真実なかたである。わたしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである」。
8:27 彼らは、イエスが父について話しておられたことを悟らなかった。
8:28 そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。
8:29 わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」。
8:30 これらのことを語られたところ、多くの人々がイエスを信じた。

ヨハネ14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
14:21 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

死者の復活とキリストの再臨(1テサロニケ4:13-18)
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1テサロニケ4:13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
4:14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4:15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
4:18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

1コリント15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
15:6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
15:7 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、
15:8 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。

1コリント15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
15:23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
15:25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
15:26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
15:27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
15:28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

1コリント15:42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
15:43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
15:44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

1コリント15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。

1コリント15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

2コリント5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

エルサレム崩壊を前に、諸々の証書を保管せよと命じられた主の真意(エレミヤ32章)
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エレミヤ32:1 ユダの王ゼデキヤの十年、すなわちネブカデレザルの十八年に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。

2列王記25:1 そこでゼデキヤの治世の第九年の十月十日に、バビロンの王ネブカデネザルはもろもろの軍勢を率い、エルサレムにきて、これにむかって陣を張り、周囲にとりでを築いてこれを攻めた。
25:2 こうして町は囲まれて、ゼデキヤ王の第十一年にまで及んだが、
25:3 その四月九日になって、町のうちにききんが激しくなり、その地の民に食物がなくなった。
25:4 町の一角がついに破れたので、王はすべての兵士とともに、王の園のかたわらにある二つの城壁のあいだの門の道から夜のうちに逃げ出して、カルデヤびとが町を囲んでいる間に、アラバの方へ落ち延びた。
25:5 しかしカルデヤびとの軍勢は王を追い、エリコの平地で彼に追いついた。彼の軍勢はみな彼を離れて散り去ったので、
25:6 カルデヤびとは王を捕え、彼をリブラにいるバビロンの王のもとへ引いていって彼の罪を定め、
25:7 ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った。

エレミヤ32:2 その時、バビロンの王の軍勢がエルサレムを攻め囲んでいて、預言者エレミヤはユダの王の宮殿にある監視の庭のうちに監禁されていた。
32:3 ユダの王ゼデキヤが彼を閉じ込めたのであるが、王は言った、「なぜあなたは預言して言うのか、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはこの町をバビロンの王の手に渡し、彼はこれを取る。
32:4 またユダの王ゼデキヤはカルデヤびとの手をのがれることなく、かならずバビロンの王の手に渡され、顔と顔を合わせて彼と語り、目と目は相まみえる。
32:5 そして彼はゼデキヤをバビロンに引いていき、ゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいると主は言われる。あなたがたは、カルデヤびとと戦っても勝つことはできない』と」。
32:6 エレミヤは言った、「主の言葉がわたしに臨んで言われる、
32:7 『見よ、あなたのおじシャルムの子ハナメルがあなたの所に来て言う、「アナトテにあるわたしの畑を買いなさい。それは、これを買い取り、あがなう権利があなたにあるから」と』。
32:8 はたして主の言葉のように、わたしのいとこであるハナメルが監視の庭のうちにいるわたしの所に来て言った、『ベニヤミンの地のアナトテにあるわたしの畑を買ってください。所有するのも、あがなうのも、あなたの権利なのです。買い取ってあなたの物にしてください。これが主の言葉であるのをわたしは知っていました』。
32:9 そこでわたしは、いとこのハナメルからアナトテにある畑を買い取り、銀十七シケルを量って彼に支払った。
32:10 すなわち、わたしはその証書をつくって、これに記名し、それを封印し、証人を立て、はかりをもって銀を量って与えた。
32:11 そしてわたしはその約定をしるして封印した買収証書と、封印のない写しとを取り、
32:12 いとこのハナメルと、買収証書に記名した証人たち、および監視の庭にすわっているすべてのユダヤ人の前で、その証書をマアセヤの子であるネリヤの子バルクに与え、
32:13 彼らの前で、わたしはバルクに命じて言った、
32:14 『万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、これらの証書すなわち、この買収証書の封印したものと、封印のない写しとを取り、これらを土の器に入れて、長く保存せよ。
32:15 万軍の主、イスラエルの神がこう言われるからである、「この地で人々はまた家と畑とぶどう畑を買うようになる」と』。
32:16 わたしは買収証書をネリヤの子バルクに渡したあとで主に祈って言った、
32:17 『ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです。あなたのできないことは、ひとつもありません。
32:18 あなたはいつくしみを千万人に施し、また父の罪をそののちの子孫に報いられるのです。あなたは大いなる全能の神でいらせられ、その名は万軍の主と申されます。
32:19 あなたの計りごとは大きく、また、事を行うのに力があり、あなたの目は人々の歩むすべての道を見て、おのおのの道にしたがい、その行いの実によってこれに報いられます。
32:20 あなたは、しるしと、不思議なわざとをエジプトの地に行い、また今日に至るまでイスラエルと全人類のうちに行い、そして今日のように名をあげられました。
32:21 あなたは、しるしと、不思議なわざと、強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事をもって、あなたの民イスラエルをエジプトの地から導き出し、
32:22 この地を彼らに賜わりました。これはあなたが彼らの先祖たちに与えようと誓われた乳と蜜の流れる地です。
32:23 こうして彼らは、はいってこれを獲たのですが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法を行わず、すべてあなたがせよと命じられたことをしなかったので、あなたはこの災を彼らの上にお下しになりました。
32:24 見よ、塁が築きあげられたのは、この町を取るためです。つるぎと、ききんと、疫病のために、町はこれを攻めているカルデヤびとの手に渡されます。あなたの言われたようになりましたのは、ごらんのとおりであります。
32:25 主なる神よ、あなたはわたしに言われました、「銀をもって畑を買い、証人を立てよ」と。そうであるのに、町はカルデヤびとの手に渡されています』」。
32:26 主の言葉がエレミヤに臨んだ、
32:27 「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。
32:28 それゆえ、主はこう言われる、見よ、わたしはこの町をカルデヤびとと、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取る。
32:29 この町を攻めているカルデヤびとがきて、この町に火をつけて焼き払う。屋根の上で人々が、バアルに香をたき、ほかの神々に酒をそそいで、わたしを怒らせたその家をも彼らは焼く。
32:30 それは、イスラエルの人々とユダの人々とは、その若い時から、わたしの前に悪いことのみを行い、またイスラエルの民はその手のわざをもって、わたしを怒らせることばかりをしたからであると主は言われる。
32:31 この町はそれが建った日からきょうまで、わたしの怒りと憤りとをひき起してきたので、わたしの前からこれを除き去るのである。
32:32 それは、イスラエルの民とユダの民とが、もろもろの悪を行って、わたしを怒らせたことによるのである。――彼らの王たちと、そのつかさたち、祭司たち、預言者たち、またユダの人々とエルサレムの住民たちが皆そうである。
32:33 彼らはその背中をわたしに向けて顔をわたしに向けず、わたしがたゆまず教えたにもかかわらず、彼らは教を聞かず、またうけないのである。
32:34 彼らは憎むべき物を、わが名をもって呼ばれている家にすえつけて、そこを汚し、
32:35 またベンヒンノムの谷にバアルの高き所を築いて、むすこ娘をモレクにささげた。わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく、また彼らがこの憎むべきことを行って、ユダに罪を犯させようとは考えもしなかった。
32:36 それゆえ今イスラエルの神、主は、この町、すなわちあなたがたが、『つるぎと、ききんと、疫病のためにバビロンの王の手に渡される』といっている町についてこう仰せられる、
32:37 見よ、わたしは、わたしの怒りと憤りと大いなる怒りをもって、彼らを追いやったもろもろの国から彼らを集め、この所へ導きかえって、安らかに住まわせる。
32:38 そして彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
32:39 わたしは彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせる。これは彼らが彼ら自身とその後の子孫の幸を得るためである。
32:40 わたしは彼らと永遠の契約を立てて、彼らを見捨てずに恵みを施すことを誓い、またわたしを恐れる恐れを彼らの心に置いて、わたしを離れることのないようにしよう。
32:41 わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える。
32:42 主はこう仰せられる、わたしがこのもろもろの大きな災をこの民に下したように、わたしが彼らに約束するもろもろの幸を彼らの上に下す。
32:43 人々はこの地に畑を買うようになる。あなたがたが、『それは荒れて人も獣もいなくなり、カルデヤびとの手に渡されてしまう』といっている地である。
32:44 人々はベニヤミンの地と、エルサレムの周囲と、ユダの町々と、山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々で、銀をもって畑を買い、証書をつくって、これに記名し封印し、また証人を立てる。それは、わたしが彼らを再び栄えさせるからであると主は言われる」。
 

愛する方の手を握って奥の間へと導くまで(雅歌3:1-5)
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この箇所では、花嫁たる女性が、夜床についても、それでもなお、彼女の愛する方、花婿を探し求める姿がある。

雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。

原文では、「私の魂が愛する方」を、私は探しています、とある。
彼女は、夜、床についているが、魂が愛し慕い求め、安息できるお方が、すぐとなりにいない状態である。
この状況は、今、私達が魂が愛するお方・イエス様を慕い求める姿勢にも似ている。

私たちは、夜眠れない時、平安を求めてもなかなか見つからない時、どうすべきか。

雅歌3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。

彼女は実際に、探しに出かけて行ったが、行った先は「町をまわり歩き、街路や広場」で、そこを探しても、見つからなかった。
私達もまた、御言葉の根拠なしに、あるいは聖霊の助けなしに、真理を探し求めても、見つからない。
彼女のように、ただ通りや広場をフラフラさまよい歩いているようなものである。

そしてもし、イエス様以外に目を向けて、安息を求めようとしても、過去のあの事この事が思い出され、怒りがこみ上げて来たり、悲しい思いを繰り返したり、自分の至らなさを繰り返し見たり、あるいは将来の不安が大きくなったりと、とにかく夜、イエス様以外を思いめぐらすなら、必ず良くない思いが、湧き立っていく。

詩篇63篇に、夜における「正しい思い巡らし方」が記されている。

詩篇ユダの野にあったときによんだダビデの歌
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。

ダビデはこの時、ユダの荒野にいたが、彼の人生の闇夜の時、慕い求めたのは、主だった。
彼は、何を求めて気を失うばかりだったかと言うと「あなたを慕い求めて」気を失うばかりだった、と告白した。

詩篇63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:6 (5節に合節)
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。

雅歌の女性が、夜、たましいが慕い求めるお方を探しに行ったように、ダビデもまた主をあえぎ求め、慕い求め、聖所という礼拝の奥の場へと進んだ結果、彼の渇きは癒やされ、不安は取り除かれ、喜びの賛美が溢れるようになった。
そしてダビデは、女性が男性の懐の中で腕にくるまれている時のような安心感を得た。

私達も、夜闇の不安な時は、主を慕い求めるのである。
彼女は慕わしい方を探し求める行動をした結果、町を行き巡る夜回りに見つけられる。

雅歌3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。

街を行きめぐる夜回りが私を見つけました。私の愛してる人を見かけになりませんでしたか?
普通ここで夜、夜回りに見つけられたなら、不審者として捉えられるところでしょうけれども、しかし彼女は、正当な探し求め方をしていた。彼女が夜回りに行き当たった後、まもなく、彼女は見つけることになる。彼女の慕い求めている人。この夜回り、見張り人は、一体何者だろうか。
イザヤ書62章の6節から。

"エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。
主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。
取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」"
イザヤ書 62章6〜9節

ここにも、見張り人がいた。
彼らに対する命令は、昼も、夜も、決して黙っていてはならない。主に覚えられている者よ、黙り込んではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない、というものだった。
主に覚えられている者であり、主が慰めて建て上げ栄誉を回復させるまで、決して黙り込まず、主に叫び続ける者。それは、取り成す者である。
現代の私達にとって、私達が建て直され回復するまで昼も夜も休まずに主に叫び続ける者は、聖霊である。

そして私たちも、黙っていてはならない。この時代の、この国の、見張り人として。
この時代が、この国が、霊的なはずかしめを受けている状況から回復し、建て直されるまで取り成し祈り続けるべきである

3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、「わたしを産んだ者のへや(ヘデル・ホラティ)」にはいった。

彼女は、その夜回りの見張り人に会った直後、彼女の慕い求めるお方をついに見つけた。
私達も、主をしたい求めて歩くなら、いつも見張っておられる聖霊が私たちを見つけ、そしてまことの夫であられるキリストの元へと導いてくださる。
主は、全て慕い求めるたましいがいないかどうかを、夜昼見張り、そして彼らに聖霊を遣わして、真の救い主の元へと導いて下さるのだ。
そのようにして、まことのたましいの救い主、イエス様の所へと導かれた私達は、安息を得、さらに私達自身も働き人となって、この国のために、この時代のために、昼となく夜となく、主に祈り求め、執り成して行く祭司となっていくのだ。

彼女は、この御方をつかんで手放さず、ついに「わたしを産んだ者の部屋(ヘデル・ホラティ)」へと導いた。
ヘデルは「(最奥の)小部屋」、ホラティ(原形ハラハ)は「妊婦になる」「身ごもる」の意味である。
彼女は愛する花婿を、女性の最奥の小部屋、いのちを産み出す小部屋へと導いて、そして言う。

3:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
(KJV: I charge you, O ye daughters of Jerusalem, by the roes, and by the hinds of the field, that ye stir not up, nor awake my love, till he please.)

KJVで見ると、「愛」が人格を持っているかのようで、愛なるお方が目覚めたいと思うその時まで、かきたてたり、目覚めさせたりしないで、ずっとそのままで置いてください、というようなニュアンスも感じる。
男性と女性とは、このように愛の営みをし、いのちを生み出す営みをして、代々、いのちを繋いで行って、今、こうして私達がいる。

これは霊的な面においても、そうである。
私達キリスト者にも、かつて、私達を霊的に産み出した霊的な”母”がいて、彼女がイエス様を自分の最奥の間へと導き、そこでイエス様との親密な交わりと祈りによって、私達・新しいキリストにあるいのち達が生み出されていった。
そして私達もまた、イエス様との愛の交わりの内に、また、うめきの祈りによって、さらに新しい霊的ないのちを生み出して行くのだ。

イエス様は言われる。

黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。


今回の箇所では、女性の側が一方的に主人である男性を求め、行動し、そしてついに出会い、奥の間へとお連れして、そこで親密な交わりに至った。
私たちも彼女のように、あるいはダビデのように、真の夫であられるお方を熱心に求め、探し、この御方を見つけたなら、決して手放さず、いのちを生み出す親密な交わりへと導き、いのちを生んで増えて地に満たしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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