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共におられる主 ジェホバ・シャンマ(詩篇23:4b)
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「あなたがわたしと共におられるからです。」(詩篇23:4b)

主が共におられる、それは聖書のいたる所に見られる主のご性質である。
特に「共にいます主・Jehovah Shammah(ジェホバ・シャンマ)という名は、エゼキエル書の最後に登場する。
『町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。』(エゼキエル48:35)
これはエゼキエル書の最終章・最終節であるが、そこは、主が示して下さった新しい神殿の寸法を測り終え、いのちを生かす水が川となって流れ出て、その川の両岸を潤し、その町にはイスラエル十二部族への配分が割り当てられた、という箇所である。
黙示録の最後も同様に、天から降ってくる新しいエルサレムの記述があり、その町の門はイスラエル十二部族の名がつけられ、いのちの水が流れる。
その新しいエルサレムの特徴は「神が共にいます」という言葉につきる。

「主が共におられる」という言葉は、聖書の至る所に登場する。
例えば、心細い旅をしていたイスラエルの父祖・ヤコブに対して、主は「ともにいる」という事を強調するために、夢に現れた。

『さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。』(創世記28:10-11)
この場面は、イスラエル民族の父祖ヤコブが、兄エサウの祝福をだまし取ったゆえに、兄から命を狙われる事となり、たった一人、おじのラバンの所へ逃避行する途中の旅路である。

『時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。』(創世記28:12-15)

ここの主の言葉、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る、と言っておられる。ここも、ジェホバ・シャンマのご性質が良く表れている場面である。
わたしがともにいる、だから、恐れる事はない、と。

ダビデも告白した。
ヤコブも、イザヤも、またそのほか信仰の先人たちは皆、主が共にいるから恐れない、と告白した。
それは現代の私達も同じである。
インマヌエル(主が共におられる)であられる主イエス様がおられ、導いて下さる。
イエス様は、このヤコブの場面と同じ事を言った。

『また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。』(ヨハネ1:51 )

このはしごは、天から地に向けてかけられている。
イエス様、すなわちインマヌエルなる主は、天から降りてこられ、私達が天に上れるように、はしごをかけて下さった。
私達は、イエス様という「狭い門」を通してのみ、天国に行ける。
救いの門は、イエス様のみ。そういう意味では狭いかもしれないが、しかしその門を通った先の道は広々としていて、かぐわしい花が咲き乱れた道、贖われた者だけが通る道、一切の愚かな者や滅ぼす者が迷い込む事の無い道である。(イザヤ35章)

『ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。』(創世記28:16-19)

ヤコブは兄から命を狙われ、そこから逃げる旅路で心細くあるヤコブ自身、主がともにおられる、という事で、その地をベテル(神の家)と呼んだ。
この体験が、ヤコブにとって、信仰のはじまりだった。
『ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。』(創世記28:20-22)

ずっと後、彼がベテルで礼拝を捧げた時、彼は一人ではなく、二人の妻と二人の妾、そして12人の子供たちが彼とともにあった。
彼は確かに主から祝福を受け、日毎のパンや着物に困る事が全くないほどまでに富ませ、無事に帰らせてくださったにもかかわらず、すぐに礼拝をささげなかったゆえに、娘ディナに不幸な事が起きたり、息子達がとんでもない事をしたりした。
そうした色々紆余曲折があったものの、主からの促しにより、このベテルに戻って礼拝を捧げた時、諸国の間で、彼に対する恐れが芽生えた。(創世記35章)

主が共におられる、その場所を離れてしまうなら、良くない事が起きる。
しかし、一人ひとりにとっての「主が共におられる」場所にとどまるなら、そこは天の御国となる。
そこは、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂る場所である。
エゼキエル書のジェホバ・シャンマと呼ばれた町も、黙示録に出てきた天国も、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂った。
ダビデも、共におられる主、羊飼いなる主にともなわれ、いこいの水のほとりへ、緑の牧場へと導かれて行った。
信仰の先輩たちはみな、地上の歩みにおいてジェホバ・シャンマを経験したのだ。

ヨハネ10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。

イエス様こそ、天からかけられたはしご、唯一、天と地を結び、唯一、人を天国へと至らせる門である。
その門の向こう側は、祝福の道であり、ジェホバシャンマなる主がいつも共におられる道である。

私達もこの人生において、ジェホバシャンマなる主と共に歩み、また自分の家族や仕事に対して、祝福を宣言するものでありたい。

早天礼拝
信じようとしない人達とイエス様について行こうとする人達(ヨハネ6:60-71)
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ヨハネ6:60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
6:61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
6:62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
6:64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
6:65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。

エペソ2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

6:66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
6:67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
6:69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
6:70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。
6:71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

2テモテ2:23 愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
2:24 主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
2:25 反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
2:26 一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。

ルカによる福音書 講解説教 水曜夕礼拝
人の行先を象徴的に示す十字架の場面(ルカ23:32-48)
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エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
偽預言者達に対して(エレミヤ23:9-24)
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 エレミヤ23:9-24

2歴代誌18:12-27

2テモテ4:1-5

悪しき者の企みを見破る知恵と啓示の霊を求めよ(1列王記2:13-25)
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1列王記2:13 さて、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテシバのところへきたので、バテシバは言った、「あなたは穏やかな事のためにきたのですか」。彼は言った、「穏やかな事のためです」。
2:14 彼はまた言った、「あなたに申しあげる事があります」。バテシバは言った、「言いなさい」。
2:15 彼は言った、「ごぞんじのように、国はわたしのもので、イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。しかし国は転じて、わたしの兄弟のものとなりました。彼のものとなったのは、主から出たことです。

箴言16:17 悪を離れることは正しい人の道である、自分の道を守る者はその魂を守る。
16:18 高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。

1列王記2:16 今わたしはあなたに一つのお願いがあります。断らないでください」。バテシバは彼に言った、「言いなさい」。
2:17 彼は言った、「どうかソロモン王に請うて、――王はあなたに断るようなことはないでしょうから――シュナミびとアビシャグをわたしに与えて妻にさせてください」。
2:18 バテシバは言った、「よろしい。わたしはあなたのために王に話しましょう」。
2:19 バテシバはアドニヤのためにソロモン王に話すため、王のもとへ行った。王は立って迎え、彼女を拝して王座に着き、王母のために座を設けさせたので、彼女は王の右に座した。
2:20 そこでバテシバは言った、「あなたに一つの小さいお願いがあります。お断りにならないでください」。王は彼女に言った、「母上よ、あなたの願いを言ってください。わたしは断らないでしょう」。
2:21 彼女は言った、「どうぞ、シュナミびとアビシャグをあなたの兄弟アドニヤに与えて、妻にさせてください」。
2:22 ソロモン王は答えて母に言った、「どうしてアドニヤのためにシュナミびとアビシャグを求められるのですか。彼のためには国をも求めなさい。彼はわたしの兄で、彼の味方には祭司アビヤタルとゼルヤの子ヨアブがいるのですから」。
2:23 そしてソロモン王は主をさして誓って言った、「もしアドニヤがこの言葉によって自分の命を失うのでなければ、どんなにでもわたしを罰してください。
2:24 わたしを立てて、父ダビデの位にのぼらせ、主が約束されたように、わたしに一家を与えてくださった主は生きておられる。アドニヤはきょう殺されなければならない」。
2:25 ソロモン王はエホヤダの子ベナヤをつかわしたので、彼はアドニヤを撃って殺した。

ヘブル4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

エペソ1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
 

早天礼拝
祝福に帰るための「のろいの明細」(申命記28章)
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死の陰の谷を歩むとも災いを恐れない - ジェホバ・ニシ(主はわが旗)(詩篇23:4a)
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「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4a)

この有名な言葉の中には、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。
このジェホバ・ニシという主の御名が登場する箇所は、出エジプト記17:15 で、そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時のことである。

アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。
彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)

『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)

モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄のものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。
モーセは、祈りの重要性をよく認識していた。
だからアマレクが襲って来た時、主から特に指示される前に、祈りの手を上げたのだ。

『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が、戦いを左右した。
事実、祈る教会と、祈らない教会とは、大きな違いが出てくる。
教会と世の組織との違いは、祈りがあるか、ないか、と言って良い。
世の人は、ただ肉弾戦で戦おうとするが、しかし教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威が与えられているのである。

祝福の手を挙げる事は、どれほど重要か。
アロンとフルは、その重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えた。
それで彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
そしてヨシュアは、丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来た。
この経験が元で、ヨシュアは後に、積極的に祈って勝利へと導く指導者となる。
彼が指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、槍をずっとその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュア8:26)。
また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めて、イスラエルの敵が滅ぼされるまで、太陽と月は沈まなかった。(10:12)

手を上げて祈る事は、すなわち、主の旗を掲げる事である。
『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』(出エジプト記17:14-16)
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。
それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。
つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。
手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。
そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。

ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。
その祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。
『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8)
『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)

モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。

新約の教会、エクレシアの中において、私達はそれぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く集いでありたい。

主日礼拝
祝福に入るための3つの動詞(申命記28:1)
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成田エクレシア礼拝 音声

 出エジプト記は、神の民が、神の敵である不当な者達の下で奴隷状態となっている所を、主が救い出して下さる記述であった。主は圧倒的な力でエジプトを打ち、神の民を脱出させて下さった内容を、先週見たが、脱出したらそれでハッピーエンドかというと、そうではない。むしろ、もっと長い旅路のスタートなのだ。
私達は、エジプトやパロなど、「目に見える敵」に対する勝利や解放が達成したら、これでもう大丈夫、あとは好きにやって良い、と思ってはならない。エジプトを脱出しても、神が約束した地に入れたのは、わずかだった。むしろ私達の中に身についている、滅びに至らせる奴隷根性や、貧乏ぐせ、縮こまった考え方、恐怖してしまう思考パターンから「脱出(エクソダス)」してこそ真の解放であり、祝福のパターンに入るのだ。
神の国から離れた所(エジプト、世)で身につけてしまった奴隷根性といった「滅びぐせ」を拭い去るために、主が用意された所が「荒野」である。荒野はヘブライ語で「מדבר(ミッドバル)」、「דבר(ダバル:言葉)」に場所を表す前置詞「מ(メム)」がついて、この言葉となった。だからヘブライ語的には、荒野は「言葉」が場所取りをする所で、この荒野での40年の行程を記したのが、民数記(ベミッドバル:「荒野にて」)である。
民数記は、まことにダバル(言葉)と密接に関わる書である。民数記10章までは、人間ダバルは一切無く、ただ神のダバルのみで、何の事件も起きていないのに対し、11章以降、神のダバルを人間ダバルで押しのける人々が打たれたり死んだりする事件が起こり始める。災いに遭う人は、例外なく、神の言葉を退けて人間言葉を主張した人々だ。結局人は、どの言葉を場所取りさせるかによって、生か死かを決定する。
主が約束して下さった地に至る途上、私達が身につけてしまった奴隷根性などの「滅びぐせ」を抜き取るために、主が用意された場所がミッドバル(荒野)で、そこは、御言葉を聞いて従う場所である。そこは、御言葉を「聞いて」「従う」なら、生きる。しかし、神の言葉ではなく「人間言葉」を聞いて従うなら、死ぬ。
今回の韓国コーエンでは、カン先生からは申命記を、キム先生からはマタイ福音書を学んだが、マタイ福音書全体をあらわすのは、申命記28章で、特に、以下の1節が重要な箇所である、という事だった。
『もしあなたが、あなたの神、主の声に「よく聞き従い」、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを「守り」「行う」ならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。』(申命記28:1)
申命記28章は、祝福と呪いの宣言章であるが、祝福の最たる条件が、以下の三つのとても重要な動詞、「聞く(שָׁמַע シャマー)」「守る(שָׁמַר シャマール)」「行う( עָשָׂהアサ)」から成り立っている。

1.「よく聞き」: この原文はシャマー(聞く)の2回繰り返しの強調「シャモア・ティ・シャマ」である。ヘブライ語は反復する事で強調の意を表す。神の民が祝福を受けるためには、真っ先に、神の言葉を「聞く」事だ。『信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。』(ローマ10:17)
2,「守る」: このヘブライ語シャマールは、茨など棘のついた生け垣で囲う、という意味が転じて「守る」という意味になった。御言葉を聞いたなら、その御言葉を巡らし囲う事によって、世とサタンから守るのである。
御言葉という防御が無い人は、世の有毒な情報や、心を傷つける悪意ある闇の言葉、そして、サタンの誘惑や攻撃が、そのまま入って来てしまう。しかし思いと心を御言葉で垣根を巡らしているなら安全である。
3,「行う」; アシャーは「する」の意味の他、「つくる」、「(実を)結ぶ」の意味があり、天地創造の創世記1章では、7回も使われている。私達に蒔かれた御言葉という種は、「行う」事によって、実が結ばれるのだ。
種まきのたとえにおいては、私達人間は土地であり、御言葉を聞いてそれを守り行う(アシャーする)人は100倍、最低でも30倍の実を結ぶが、聞いても守り行わない人は、道端、岩地、茨の地のような人である。
4つの土地の人は全員、神のことばを「聞いた」のであるが、それを行ったのは「良い地」の人だけであった。
『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) この御言葉で示されている通り、種まきのたとえで、唯一実を結ぶ人には、この祝福される三つの動詞「シャマー(聞く)、シャマール(守る)、アシャー(行う、結ぶ)」がある。
どんな岩地のような、茨のような人でも、聞いて、守り行うなら、最低30倍の実を結ばせる事ができる。私達は、約束の安息の地に入るまでの途上、荒野(ミッドバル)を通って行かなくてはならない。そこでは、ただ神のダバルを聞いて守り行っていくなら、速やかに入る事ができるが、もし人間言葉にまみれ、御言葉を守り行わないなら、入れない。御言葉のテフィリンで囲い、良い地に入っていくみなさんでありますように!

主日礼拝
否定される事への恐れを取り扱われる主(出エジプト記7章-12章)
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成田エクレシア礼拝 音声

 主の民が、主の敵である不当な者達の下で奴隷となっているのを、主が救い出して下さる箇所が出エジプト記である。主は今の私達も「世」というエジプトから、「サタン」というパロから救い出して下さる。今回も、私達に奴隷を強いる者から、そして、私達自身が身につけてしまった奴隷根性や貧乏ぐせ、縮こまった考え方や、特に今回は、否定される事への恐怖からエクソダス(出エジプト)させて下さる主の導きを学びたい。

主は、恐れて弱気であったモーセを徐々に鍛えられた。彼がパロと対面し、主の言葉を伝える度に、主のわざは誠実に成され、しかしパロはなおも頑固になり、主の民を奴隷として虐げる事を止めず、主を認めない。それで次々と災いに遭って行く。反対に、モーセと神の民は、ますます主にあって自信を得て行く。
結局モーセは、パロとの交渉において9回もパロに断られる。普通、9回も拒否されれば、凹むところだが、この箇所を読んでいると、拒否された所で心のダメージはあまり無く、むしろ「ああ、また拒否した。本当に学習しない人だなあ、今度は主はどんな事を起こされるのだろう」と期待するようになって来る。
私達もそうである。奴隷状態だった時に身に着けてしまった、すぐ凹む心、「どうせ言っても無駄だ」「拒否されたくない」「だから、やらない」「勇気出してやってみた、けどやっぱり拒否された」「また傷が一つ増えた」「もう引き籠もろう」といった心のパターンも、主はその傷を癒やし、回復し、自信をつけさせ、大胆にさせて下さり、ついには、積極的に主の言葉を伝え、主のわざを積極的に為す者へと造り変えてくださる。
主に造り変えられるなら、相手がどんなに断ったとしても、心が傷つけられる事なく、むしろ、主はこの状況をどのように最善へ変えて下さるのだろう、という「期待」を持つようになって行く。モーセがそうだった。
第一の災いの場面においては、主は、モーセが直接対決する形にはせず、兄のアロンに命じる事によって災いを降らせ、怖がり屋のモーセでも、主のわざが出来るようにして下さった。第二の「かえるの災い」では、パロがモーセにかえるを取り除くよう、祈りの要請をするようになり、第三の災いでは、モーセに対抗する呪法師の口から「これは神の指です」と言わせるまでになった。第四・第五の災いは、モーセの言葉によって災いが降るようになり、そして主は、神の民とエジプトとを明確に区別しておられる事を示された。第六の災いでは、呪法師達にも腫物が現れ、彼らはもうモーセと張り合う事を止めた。
第七の「雹の災い」以降、モーセが杖を向ける事によって災いが降るようになって行く。しかも、モーセの警告を聞いて主の言葉を恐れたエジプトの家臣達は、彼らのしもべや家畜たちを避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者達は避難させず、甚大な被害を被った。第八の「いなごの災い」の予告場面では、家臣達のほうからパロに進言し、彼らに主に仕えさせて下さい、とお願いするまでになる。
第九の「闇の災い」の時には、パロは「行け。主に仕えよ。ただお前達の羊と牛は、留めておけ。幼子はお前達と一緒に行ってもよい。」と言ったが、モーセは大胆にも「あなた自身が私達の手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私達の神、主に捧げさせなければなりません。私達は家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。」と交渉をし、それが決裂しても、悠然と退出した。(10:24-29)
そして最後の災いの直前には、主は、エジプトにイスラエルに好意を持つようにされ、モーセもエジプトの民や家臣から非常に尊敬されるようになった。そして最後の災い、エジプトの全ての初子が死ぬ災いを宣言する時、モーセは怒りに燃えてパロの所から出ていき、パロは黙って見送るしか無かった。

このようにモーセは、主の御業を為す事に段々自信を持つようになって行き、最後は、エジプトの民からも尊敬され、そして彼らが出ていく時、ユダヤ人は大胆にエジプト人に金銀財宝をねだり、エジプト人は喜んで彼らに与えた。主はまことに、働き人を段々と力づけ、主の働きをする事に大胆にならせて下さる。
最初、モーセは、「やっても無駄だ」「もっと悪くなった」「もうやりたくない」といった思考パターンだったが、最後には「パロがあんなに拒否してくれたお蔭で、こんなに良くなった」と、むしろ拒否してくれて感謝しているのではないだろうか。それは「主の御業が多くなり、主が真実である事を私達が知るため」だ。(11:9)
私達も、御言葉を行う事ゆえに、夫や妻、子供、友人から拒否されるかもしれない。しかし御言葉を伝えるなら、あとは主が全てを「良し(トーブ)」へと導いて下さるのだ。たとえ拒否されたとしても、むしろ、主はどんな方法の最善へと導いて下さるのだろう、と、希望が湧いてくるのだ。そして私達は、どんどん貧乏根性や縮こまった考えから解放され、勇気づけられ、大胆になって行き、大いに用いられるようになって行く。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
悪魔との戦いは、相手を殺す戦いではなく、場所取りの戦い(黙示録12:7-11)
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黙示録12:7 さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、
12:8 勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。
12:9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
12:10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
12:12 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。

マタイ12:43 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。
12:44 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
12:45 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
25:8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
25:9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
25:12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。


マルコ5:1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5:3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5:5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
5:6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
5:7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
5:8 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
5:10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
5:11 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
5:13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。

コロサイ3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。
 

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