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アンテオケ教会が栄えて行った秘訣(使徒11:19-30)
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11:19 さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。

それまでの経緯において、主の御胸は、異邦人にも福音を伝える事だと示されたのだが、相変わらずユダヤ人以外に御言葉を語っていなかった。
しかし、異邦人にも語った人達もいた。

11:20 ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。
11:21 そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。

ギリシヤ人に、すなわち、異邦人にも福音を伝え始めた時、主の御手が彼らと共にあった、とある。
主の御胸の通りに行って行き、立てられた教会が、アンテオケ教会である。
そこには、今までの考えに囚われず、主の御胸を為していこうという人々が集まって、活気があった。。

11:22 このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。
11:23 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
11:24 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。

このアンテオケ教会について、13章には次のように書いてある。
13:1 さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。
13:2 一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。
13:3 そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。

色々な国語、民族、色々な肌の色の人が、そこにいて、そして彼らは共に礼拝を捧げ、断食と祈りに専念していた。
そのような彼らは、これからますます発展して行く。
使徒行伝の前半は、ユダヤ人12弟子が主体であったが、後半はパウロを中心とする異邦人宣教者に主役の座をゆずり、エルサレムのユダヤ人教会はどんどん廃れていく。事実、エルサレム教会はAD70年に崩壊してしまい、エクレシア達の活躍のステージはヨーロッパへ移行して行く。

11:25 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、
11:26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。

クリスチャンという言葉、元々は「キリストきちがい」と、揶揄するような言葉で呼ばれていたが、しかし彼らはキリストきちがいであると呼ばれる事をむしろ喜び、自称クリスチャンと呼ぶようになって行った。
アンテオケの教会が、最初にクリスチャンと呼ばれる栄誉に預かったのは、彼らが今までの既定の考えに固執せず、主が「これが道だ」と言われる道に速やかに入る人々で満ちていたからであり、そして彼らは、礼拝と祈りに専念し、また、ユダヤ人とギリシヤ人の違いを超え、また、言語や肌の色が違いを超えて、共々、キリストにある交わりに専念していたからだ。
そのような交わりを、主は大いに祝福される。

11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。
11:28 その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
11:29 そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。
11:30 そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。

アンテオケの教会は、世界中にききんが襲った時代でも、エルサレムの教会を物資援助する程に、物質面でも富んでいた。
しかしエルサレム教会は、既定の考えに囚われ、自分達の交わりから出ることをせずにいたため、どんどん廃れてしまった。

私達もアンテオケ教会のように、自分の既定の考えにとらわれず、主の御胸に忠実に歩み、国や言語、文化の違いを超えてキリストにあって一致し、大胆に福音を語る者達でありたい。

主の前に心わだかまり無く大胆に出られる人のたしなみ(詩篇26篇)
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ダビデの歌
26:1 主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。

詩篇26篇は、ダビデの人生の中で、いつの時期に書かれたのかという手がかりは無いが、その内容から、彼が悪しき者を前に攻められる所があった時に、主に祈ったものと思われる。

26:2 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。
26:3 あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、わたしはあなたのまことによって歩みました。

ここを読むと、ダビデはよくもそこまで自信たっぷりに主に告白できるものだ、と思うかもしれない。
むしろ、その逆の告白をしたい人が、多いのではなかろうか。
主よ、わたしをさばいかないでください。わたしは誠実に歩んでおらず、迷い、主に信頼していません、主よ、わたしをためさないで下さい、わたしを試みないで下さい、わたしの心と思いに今触れないでください、と。

ダビデはなぜここまで大胆に、主に告白できたのか。
それは彼が主の前に、一切、やましい所が無かったからだ。
ダビデは、主の前に「やましさ」無く歩む事の達人だったが、どうすれば、主の前にやましさが無くなるのか。
詩篇32篇を見たい。

32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

人は誰しも罪を犯す。ダビデとて、そうだ。一体どうしたら、その罪が主の前に覆われ消されるのか。

32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

ダビデは、自分の罪を言い表さなかった時は、苦しみ、うめき、骨は衰えた。昼も夜も、主の御手が重くのしかかったからだ。
しかし、主の御前に罪を告白し、悔い改めたなら、主は彼の罪を赦してくださった。

人は、特に災い続きでなかったり、あるいは特段に責められる所が無い限りでは、意識に登っていない罪を、わざわざほじくり返して探す必要は無い。
もし心責められる所がある時には、主の言葉を前に自分を降ろし、罪を告白して悔い改めるべきである。
自分のしたい事と、御言葉とが競合するなら、自分を降ろし、御言葉のほうを優先させる人は、主に対して誠実な人であり、そのように、主に対して誠実な人は、いつも心にわだかまり無く、神との関係を健全に保ちつづける事ができる。

26篇を記した時のダビデは、まさにそのようなやましさが無い状態だったから、ここまで大胆になれたのである。

26:4 わたしは偽る人々と共にすわらず、偽善者と交わらず、
26:5 悪を行う者のつどいを憎み、悪しき者と共にすわることをしません。

キリストにあって歩む人は、ますます罪の交わりが耐えられなくなって行くものである。
以前は罪の飲み食いを楽しみ、人を陥れる噂話や下品な冗談に大いに盛り上がっていたとしても、キリストを信じた時以来、そうした物事の中にいる事に、やましさを感じるようになってくるものであるが、そうではなく、相変わらずキリストを受け入れる以前の状態、罪の飲み食いを平然と行っているとするなら、その信仰には問題がある。

1コリント15:33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
15:34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

私達もまた、自らをきよく保つために、そのような悪い交わりに迎合するべきでなく、むしろ一線を置き、そして彼らを十字架の「こちら側」へと引き込むために福音を伝えべきだ。
6節以降は、ダビデの積極的な表明がある。

26:6 主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、あなたの祭壇をめぐって、
26:7 感謝の歌を声高くうたい、あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。
26:8 主よ、わたしはあなたの住まわれる家と、あなたの栄光のとどまる所とを愛します。

祭壇は自分の罪のだめに犠牲が捧げられ、その香りが御まえに立ち上っていく所だが、彼はまことに主を慕い求め、祭壇の周りをゆっり歩きつつ感謝を主に捧げたいと思っていた。
彼は主の中に麗しさ、慰めを見出し、主の宮にいる一日が千日にもまさる思いであった。
このような主との親しさも、ダビデが御前に大胆に進み出られる理由のひとつであった。主もまた、主に親しい聖徒がご自身の所に慕い求めて来る事を望んでおられる。

26:9 どうか、わたしを罪びとと共に、わたしのいのちを、血を流す人々と共に、取り去らないでください。
26:10 彼らの手には悪い企てがあり、彼らの右の手は、まいないで満ちています。

ダビデは、罪人が受ける災いをその者達と一緒に受ける事が無いように、と願った。
確かに強盗団のアジトに一緒にいたら、その者達が受けるべき災いを一緒に受けてしまう。

彼らは、悪いことを悪い事と知りながら、敢えてそれを行っているのである。

ヘブル10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。

私達は、罪を犯す人達の交わりから出たなら、もはや、その者達の報いを受けないように、そして、主にある聖徒の交わりの中で、共に主からの報いを得られるよう、求めるべきである。

26:11 しかしわたしは誠実に歩みます。わたしをあがない、わたしをあわれんでください。
26:12 わたしの足は平らかな所に立っています。わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。

ダビデは告白した。誠実に歩みます、と。
結局、主に対して誠実な人こそ、主に対して心責められる所無く、やましさがなく、健全に神との関係を保ちつづける事ができるのだ。

主日礼拝 

たましいを刈り入れる時が来た(ヨハネ 4:31-38)

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 今日は収穫感謝祭である。主は、私達が食べるようにと、大地の良き実りを与えて下さった。本日はそれを主に感謝する日である。土地が実らせる実りは、私達にとって喜びであるが、主が喜ばれる”実り”がある。
また、大地の実りを刈り入れる収穫があるように、天におけるまことの刈り入れと収穫がある。主が喜ばれる実りとは、私達人間が結ばせるものであり、そして天における収穫とは、人のたましいの収穫である。
 
 主の喜ばれる実り、主の食べる食物とは何か。
 
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34) 
 
 主が喜ばれる実りは、私達が御心を行い、そのわざを成す事である。主はさらに続けて、刈り入れの事を仰せられる。
 
『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。』(35-36節)
 
 この時、イエス様は前もって、サマリヤの井戸で一人の女性と会い、彼女にイエス様の言葉という”種”を蒔いておいた。種付けられた彼女は、居ても立ってもいられなくなり、町へ出て行って人々にイエス様の事を伝え始めていた。彼女の口から出た御言葉の種は、その地方へと広まって行き、御言葉が種付けられた人々もまた居ても立っても居られなくなり、彼女の導きで、団体でイエス様の所に押し寄せて来る事になる。
 この事を指して、イエス様は、畑は色づき、刈り入れを待っている、と言われた。
古くから不信仰の町と言われていたサマリヤ、しかしメシヤを待ち望み、先祖ヤコブ由来の伝統を守っていたこの町に、イエス様が来られ、御言葉という種が蒔かれた事により、大いなる刈り入れが近づいている、と。
 
 人が思う刈り入れ時と、主の刈り入れ時とは違う。人は収穫までまだだろう、と思い込んでいても、私達は思い込みに従ってはならない。霊の目を開けて、見るべきである。刈り入れを待ち望んでいるたましい達に目を向けるべきだ。天の刈り入れで刈り取られるのは、人であり、人がイエス様を救い主として信じる時、たましいは収穫され、天国という倉に納められる。つまり、人それぞれが、主に捧げられるべき供え物なのだ。
 
 『そこで、『一人がまき、一人が刈る』ということわざが、ほんとうの事となる。わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。』(37-38節) 
 
 人々が救いを求めて飢え渇き、押し寄せて来る時こそ私達・主の弟子達の出番である。彼らにイエス様を伝えて、彼らが受け入れるなら、天の「刈り入れ」が成就する。
 
 天的な刈り取りシーズンが来ようとしている。いや、もう来ている。中国では一日に万単位の人々が救われ、それを脅威に感じた共産党が迫害にかかっている。アフリカは既に四方八方に教会が建っている。
 アマゾンも奥地に教会が既に1万箇所はあり、キム先生の弟子が、1000人の牧師を集めますので来て下さい、と言われても、1万人を1週間集めて寝起きさせる場所や経済がないから、今は行けない、という。
アメリカではユダヤ人600万人中、250万人が既にイエス様を信じている。ムスリムも、ユダヤ人も、イエス様に直接出会って救われる人が続々起こされており、先週も茨城の働きでイラン人2人が洗礼を受けた。
 
 私達は、働かなくてはならない。人々のたましいに救いへの飢え渇きが起こり、私達の元に来る時、彼らを、唯一満たして下さるイエス様のほうへと、一歩、背中を後押しして進ませるのだ。恐れてはならない。
 私達はそのためにこそ、遣わされたのだ。私達が労苦して種まいて育てたものを刈り取るのではない。主は、「わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」とまで言われた。私達はどうして、この救いのわざの「上げ膳据え膳」に、乗らないでおられようか。私達自身が、主の倉に納められるにふさわしい者となり、そして主の倉を、救いに飢え渇くたましい達でいっぱい満たして行くべきなのだ。
 
 今、日本だけが、不思議な現象が起きている。統計的に、殉教者が出た所は、必ず福音が栄えるはず、なのに、日本だけがその恩恵には「まだ」あずかっていない。日本は沢山の殉教者を出しているので、必ずこの国に、天的な刈り取りの時が来るはずだ。
 
 畑は色づき、刈り入れを待つばかりになっている。準備は出来ているだろうか? 刈り入れの時が来た時、その大いなる働きに、大いに用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

全ての問題解決を神に求める行動パターンを根付かせるための詩篇(詩篇25篇)
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詩篇25篇は、アルファベットの詩篇であり、1-22節の最初が、ヘブライ語のアルファベット(アレフ、ベート、ギメル、、、タウに至るまで)で開始される。
アルファベット順に並んでいるのは、単なる語呂遊びではない。覚えやすくなっているから覚えなさい、という事である。
いつも飢えている人には、飢えては魚を与え、飢えては魚を与え、を繰り返すより、魚釣りの方法を教える事のほうが恒久的な解決であるかのように、この詩篇を覚える事は、人生のどんな問題に対しても解決の糸口を見いだせる「釣り道具」を得たかのようである。

この詩篇には、敵が立ちはだかった時、道に迷った時、罪の問題に悩まされる時、苦しみが大きくなった時、それぞれの時々に祈るべき、祈りのし方が示されている。
ギリシア思考で歩む人は、このような問題が目の前にある毎に、誰か、他の人間に解決の糸口を見出そうとする。
しかし、この詩篇を暗唱したユダヤ人は、おのおの神に直接問題を持っていき、祈りによって、また神との交わりによって慰めを得、そして神ご自身から直接解決をいただく。
私達も、この詩篇を、暗唱とまでは行かなくても、いつも身近に置いて口ずさむ祈りとするべきである。

詩篇25篇 ダビデの歌
25:1 主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
25:2 わが神よ、わたしはあなたに信頼します。どうか、わたしをはずかしめず、わたしの敵を勝ち誇らせないでください。
25:3 すべてあなたを待ち望む者をはずかしめず、みだりに信義にそむく者をはずかしめてください。

ダビデはまず、自分は主に対してどのようなスタンスであるのか、という宣言から始めている。
自分は「主」を仰ぎ望み、主に信頼する者だ、その主から直接、問題の解決を得る者だ、と。
そして、敵と相対する時、恥を見ることが無いようにと、まず祈っている。

25:4 主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。
25:5 あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。

彼はさらに、主の大路、主の道、そこにおける導きを求めている。ここに共通するキーワードは、「道」「導き」である。
私達も大なり小なり、常に歩むべき道の選択に直面しているが、迷った時、常に主に向かって祈り求めるべきである。
それによって主は、歩むべき道を教えてくださる。
たとえ、すぐには実体としての答がないように見えても、祈った時は平安を得られる。
そして、長い目で見たら、主は確かにあの時、私達の知り得なかった所で道を備えておられたのだ、と分かる。

続く祈りは、罪の問題についてである。

25:6 主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
25:7 わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。

若い時は、激情の強さゆえに、あるいは、無知と軽率さゆえに罪を犯してしまう事がある。
そのように犯してしまった罪を、「思い出さないでください」とは、まことに都合の良い祈りのように見えるが、そのように求める事ができる根拠は、「あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって」である。

25:8 主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
25:9 へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
25:10 主のすべての道はその契約とあかしとを守る者には/いつくしみであり、まことである。
25:11 主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

子供が親に、まことに都合の良いお願いをして、親はそれを聞いてやるのは、子供が不完全で弱い事を知っているからである。
それだからこそ、子供は成長できる。
同じように、父なる神は私達の弱さをご存知であり、なにか罪や過ちを犯してしまった時は、速やかに親に戻って赦しを乞い願う事を、求めておられる。
ダビデはまことに、父なる神と、親子のような親しい関係にあるからこそ、大胆に「都合の良い」祈りで求める事が出来たのだ。
ペテロも、イスカリオテのユダも、共に湯を裏切ったが、イスカリオテのユダは自ら命を絶って、永遠に神との関係を絶ってしまった。しかしペテロは、恥を忍んでも主との関係を保ったゆえに、聖霊を受け、力強い主の働き人へとつくりかえられて行った。

続く箇所では、主を恐れ敬う人に主はどうしてくださるのかが示されている。

25:12 主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
25:13 彼はみずからさいわいに住まい、そのすえは地を継ぐであろう。
25:14 主の親しみは主をおそれる者のためにあり、主はその契約を彼らに知らせられる。
25:15 わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるからである。

主を恐れ敬う人に、主は、道を示して下さる。
主は、一人一人に、道をあらかじめ用意しておられる。

自分の願望や考えで頭の中がいっぱいな人は、目が曇らされて主の道を見ることができない。
しかしそれらを降ろして、主を主とする人、主の言葉に自らを従わせる人には、主の用意して下さった最良の道を見る事が出来、そこを歩む幸いを得る事ができ、そのような人こそが、あらゆる悪意ある罠から救われ、主の安全な道を歩む事ができるのだ。

続く箇所は、主に対する、ダビデの祈りである。

25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。
25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。
25:19 わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもって/わたしを憎んでいるかをごらんください。
25:20 わたしの魂を守り、わたしをお助けください。わたしをはずかしめないでください。わたしはあなたに寄り頼んでいます。
25:21 どうか、誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。わたしはあなたを待ち望んでいます。
25:22 神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。

ダビデはいつも主に目を向け、心を向けている。
そのような人は、いつも主から直接、助けを引き出す事ができる。

この祈りを暗唱しているユダヤ人は、なにかある毎に、この詩篇の通り、すぐにダイレクトに主に向かい、祈り、主から直接的な助けを得ている。
私達はなにかある毎に、主を除外した思考でもって、誰かから何かの助けを、物を、お金を引き出そうとするが、それは一時的に解決を得たと思ってもすぐにまた別の問題に取り囲まれてしまう。
この詩篇の通りに、いつでも主に向かう思考パターン、行動パターンとなる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
 

主を礼拝する者のあり方(詩篇24篇)
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詩篇24篇 ダビデの歌
24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。
24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。

詩篇24篇には、主はいかなるお方であるのかと、主を礼拝する神の民のあり方が記されている。
まずダビデは、主は、この世のすべてのものは、主のものであると宣言した。
そうである。
ヨハネ1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
・・・
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

この、全てを創られ、全てを存続させておられるお方を受け入れる者は、神の子とされる特権が与えられる。
それだから、このお方に対し、大いに「耳」や「目」、「心」という門を開いて受け入れる人は、幸いである。

24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。

私達は、主の山に登るだけでなく、立たなければならない。
立つ事は、敬意を表する行為であり、そのためには、モーセのように、履き物を脱ぐ必要がある。
それまでの、自分の”くせ”で生きて来た生き方、やり慣れた方法でなく、御言葉が示された「主の方法」「主の手段」によって、礼拝するべきだ。

24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

ここは、礼拝を捧げる人の姿が記されている。

主の山には、だれでもが登れるものではなく、礼拝するために選ばれた人、主が指名した人が、登る事ができる。
美容師の中で、指名される人とは、腕がいい人、接客態度がいい人であるのと同じように、私達も、主からの指名を受けるために、常日頃から主を敬う態度を示し、日ごと御言葉を口ずさみ、主の道を歩み続けるべきである。
人の側が常日頃、「最上の礼拝を捧げたい」という志を持つなら、主の側も「この人から礼拝を捧げられたい」「この人の捧げる香りをかぎたい」と、聖なる主の山へと召して下さるのだ。

24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

イスラエルがヤコブだった時、彼は主と相撲を取り、もものつがいが外れる経験をした。
それ以降、ヤコブは、びっこを引いて歩くようになり、最後には、つえに寄りかかって主を礼拝した。
私達も、祈りによって主と相撲を取るべきである。
真剣に主の前に立つ時、主は、私達のそれまでの悪いクセをへし折って下さり、それまで平気でしていた悪い事をできなくしてくださる。
そして、主により掛かかって生きるようになって行き、そうして、霊的イスラエルへと創り変えられて行く。

24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。

戦いに力ある主、とダビデは告白した。
私達は、この世を歩み続ける上で、諸々の戦いがあるが、もし私達の中の御言葉が的確であるなら、主は、戦いに力ある主として、諸々の問題に戦って下さり、解決と勝利を与えて下さる。

24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ

私達も、主に対しての門を、すなわち耳を、目を、この口を、主に向かって大いに開いて、主を受け入れるのだ。
もし御言葉が来る時、うつむいていたなら、門は閉じた状態のままで、それは王なるお方を迎え入れる姿勢ではない。
主を迎える時は、うつむくのではなく、頭を下げるのではなく、れっきとして、迎えます!どうぞ!という姿勢を示すべきだ。
顔を伏せるのは、主を敬っていない「カインの礼拝」である。

4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

私達はアベルの礼拝を捧げるべきである。

4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。

彼は、主を普段から敬い、初物と最良のものを捧げた。
私達も、祈りにおいてしっかり声を出して祈るべきであり、賛美の捧げ物において、心の底からの感謝と喜びを捧げるべきなのだ。

詩篇講解説教
詩篇23篇の最後を信仰告白で飾ったダビデ(詩篇23:6)
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『わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしは
とこしえに主の宮に住むでしょう。』(詩篇23:6)

ダビデは最後の6節を、自分の主に対する信仰告白で飾った。
聖書の最後も、聖徒の信仰告白で飾られている。

信仰は、表現されなければならない。
内に閉じこめているものは、信仰とは言わない。もし信仰があるというなら、表現しなくてはならない。
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

ダビデは5節までは、自分が信じている神のご性質を表現して来たが、この6節で彼は彼自身の信仰を告白し、この神に対し、自分はこれからどうして行きたいのかを表明した。
「Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life・・・」
わたしの人生の全体に、と、ダビデは、告白した。
一生の間、主の「いつくしみ」と「恵み」が追いかけてくるだろう、と。
恵みといつくしみは、英語ではgoodness and mercy、ヘブライ語ではトーブ טוב と ヘセド ד ח ד סד である。

「 טוב トーブ」は「良し」という意味であり、創世記1章にて主が創造の御業を行った都度、それについて評価した言葉である。
主の創造の御業は常にトーブであり、主と共に歩むなら私達もいつもこの主のトーブを獲得できる。

このトーブには、
1,Perfect! パーフェクト!
2,Beautiful! ビューティフル!
3,Good! グッド!
の意味がある。

続く「恵み ד סד  ヘセド」は、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。

主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、人間がその主の言葉に対して返した、御言葉に対する反逆の結果は、ことごとくその逆、すなわち、不完全であり、醜悪であり、バッドであった。
その結果もたらされた呪い、病、死の中にうめきつつ生きなくてはならなくなってしまったが、その状態の中にある人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造の良きわざが与えられること、それがすなわち「恵み(ヘセド)」である。
例えば、堕落した生活ゆえに病になってしまった時、主の癒やしが行われたなら、その癒やしが、恵みである。

恵みは、主の創造のトーブに対し、人間がしてしまった罪による破壊、その破壊ゆえに人には病や死が入ってきてしまった、この破壊、死、病に対し、主の側が、一方的に再建を、いのちを、癒やしを与えて下さった事である。
恵みとは一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に天から与えられる良きわざである。

主の家に住まう事、それはすなわち、トーブとヘセードを、両腕にかかえて生きる人である。
共にいます主の創造のトーブのわざがいつも共にあり、もし主から離れて、罪ゆえの破壊が起きてしまったとしても、主に立ち返るなら、主のヘセドがそれを癒やしてくださる。
ダビデはいつも、そのトーブとヘセドに囲まれた人生であった。
それで彼は告白したのだ。
トーブとヘセードがずっとわたしを追いかけてくるから、生涯、わたしは主の家に住もう、と。

男女関係においても、告白が無いなら、関係は成立しない。
その点、雅歌書は愛の告白で満ちているからこそ、愛の甘さ酸っぱさの感覚で溢れている。

雅歌2:3 私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。
2:4 あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
2:5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。
2:6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。

雅歌書の男女は、相手がいかなる方であるのか、自分は相手にどうして欲しいのかという告白で満ちているから、この関係が甘く麗しい関係である事が分かる。
私達も、主がいかなるお方であるお方であるか、どのようにして欲しいのかを常に告白するべきである。
そうすれば、主との関係がどんどん甘く麗しいものになって行く。

トーブとヘセドを送ってくださる主。
わたしを緑の牧場へと導いて下さった主、死の陰の谷も守り導いて下さった主。
敵の前で宴を設けて下さった主。

わたしを愛して下さった、わたしの愛する主の家に住む。それは何と甘くうれしい日々、エデンの園で過ごすかのような幸いな日々だろう。
私たちもダビデのように告白し、トーブとヘセドを私達の人生に結びつけたい。

イエス・キリストという門(ヨハネ10:7-16)
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ヨハネ10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

黙示録4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。

黙示録3:7 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
3:13 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

聖別する主 ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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メッセージ音声

_______________ 
23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

5節には8つ目の主の御名のご性質、Jehovah Mekaddishkem(ジェホバ・メカディシケム)が込められておいる。
それは「わたしのこうべに油をそそがれる」の所であり、ジェホバ・メカディシケムの意味する所は「聖別する主」である。

主は、油を注いで聖別し、任職して下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う主の民を、主がご覧になる時、主は、主を敬う側に御顔を向け、彼らを、敵の面前で食宴を設け、そして油を注いで下さる。

この幸いを呼びこむために必要な事は「主を羊飼いとすること、主を敬う事」だ。
ちょうど主が、アベルの捧げものに目を留め、アベルとその捧げものに対して敬意を表した(NKJV: Respect)のと同じように。
それに対しカインとその捧げ物に対しては、主は目もくれず、一切のリスペクトを表さなかった。それは彼が、主への敬いも、主への正しい態度もなしに、ただ捧げものをポンと持ってきたからだ。

「ジェホバ・メカディシケム」という主の御名が出てくる箇所は、出エジプト記である。
『「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:13)

ジェホバ・メカディシケムが現れるためのキーワードは、「安息日」である。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日に、世の諸々の事を止め、しっかり礼拝する人をこそ、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。

また、出エジプト記の続く節には、次のように記されている。

『それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記31:14 )
ずいぶん恐ろしい事が書かれてある、と思うかもしれない。
しかし私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。
主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息せずに、世の仕事、世の飲み食いを好んで続けるとするなら、その限りでは、主の聖、主の安息には、入れてもらえない。
私達は天国人である、からには、それにふさわしく生きるべきだ。

また、この言葉が与えられる直前の所では、主はある人々に、特別な使命を名指しで与えている。
『主はモーセに言われた、「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。』(出エジプト記31:1-5)

主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀、その他、主を礼拝する建物や集いを構築するために、全て必要なものを備えて下さる。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、精巧に手を動かすわざも与えられるのだ。
その理由は、共に「キリストのからだを建て上げるため」であり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。

現在は、教会が礼拝の集いである。その教会の立てあげのために、主は聖霊の油を注いで下さる。
『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるためにおのおのに御霊の現われが与えられているのです。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、
からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』(1コリント12:4-12)
『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(エペソ4:11)

大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
『あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。』(出エジプト記28:36-38)

主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分である。
もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
だから私達は、「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。

神が用いられる器は、きよい器である。きよくなければ、聖霊は働かない。
祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。

罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しをして行くなら、主はますます尊い事へと用いられる。
自らをきよくし、ますます聖霊の油が注がれ、主の働きへと大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝


主が愛する者に与える信仰の訓練 (1サムエル記23:1-13)


English Service

 
 
 先週の日本コーエンは、朝から夜までみっちりと学んだ1週間だった。1サムエル記から、またエリヤとエリシャの時代について1列王記から、そして、夜は聖書に基づいた東洋医学を学んだ。多岐に渡る恵みを頂いたが、今日特に分かち合いたいのは、主がダビデを偉大な王とならせた「主の訓練」についてである。
 サウルは王になるまで訓練を受けていなかったため、シェオル(地獄)になってしまったが、ダビデは油を注がれてから王になるまで10年以上の訓練を受け、偉大な王となった。私達も、訓練は受けるべきなのだ。
 
 彼はサウル王から命を狙われるようになってから、人が続々と集まって来た。といっても、集まって来たのは、問題を抱えている人(マツォク)、借金を負って逃げてきた人(ナシャ)、心傷ついて苦々しい人(ネフェシュ・マラ)だった。ただでさえ王に追い回されて、助けが必要なのに、問題を抱えた人ばかり集まって来た。
そんな彼らの面倒をみるために、日々、食料を調達し、また諸々のいざこざを解決しなくてはならない。
 
 私達は思うかもしれない。今すぐ目の前の困難が取り除かれてほしい、少しでも多くのお金が必要だ、少しでも能力ある人が来て、助けてほしい、と。しかし主の助けは、優れた物資や人を送る事ばかりではない。
 実は、この困難な状況で彼らの面倒を見る事が、主から送られた「助け」であり、同時に「訓練」だったのだ。
 
 そんなダビデの元に、さらに一報が届く。ケイラというイスラエルの町が、ペリシテに攻められている、と。
本来国を守るのはサウル王の仕事のはずだが、サウルはそっちのけで、無実のダビデを追い回している。
 ダビデは毎日、危険と窮乏にさらされ、やっとその日を生きているので、誰かを助けている場合ではない。
けれども、ほうっておけないのが、ダビデの王であるゆえんだ。彼は主に伺った。助けるべきでしょうか、と。
 主の答えは、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」であった(2節)。しかしダビデの部下は非常に常識的な意見をする。今は人の助けをしている場合ではない、むしろ自分達の身を案じるべきだ、と。
 
 私達は信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。主の御心は「行け」なのに、自分の状況を、常識的に判断したり、人から「行くな」と言われたりし、その狭間で揺れる事が。
 主の助けの方法は、世の方法とは全く違う。世は、親も学校も、神なしの生き方・思考パターンを教育し、自分の英知と力で問題を解決するよう教えるが、その思考からは、全能なる神が、全く除外されている。
この思考(ギリシア思考)で塗られた世は、神に伺おう、とか、祈りで解決しよう、とかが、全く理解できない。
 聖書は、神中心の生き方(ヘブライ思考)で歩む信仰者が、神の方法によって生きる術が記されている。
その方法は、世の考え方ではあまりに無意味な、愚かな方法に見えるが、しかし、神を信じ、従順して行く時、実体として勝利が、祝福がもたらされる。ここに、世を取るか、神の言葉を取るかが試される戦いがある。
 
 ダビデは、神の言葉と人間の声との狭間で揺れ動いた時、もう一度主に伺った。『主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。
 ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(4-5節) 
 人の思いとしては「止めたほうがいい」と見える事でも、主の言葉どおりにした所、圧倒的に勝利し、敵の家畜や食料も分捕り、戦わない場合よりも、遥かに良い結果となった。
 こうして一気に物持ちになったダビデ達。ところがサウル王は、ダビデがケイラを救ったと聞いて、ダビデもろともケイラを滅ぼそうと、大軍を率いて向かって来た。それを聞いたダビデは、再び主に伺う。
 ダビデはこれ以降、「主に伺う」事が、彼の人生の基本路線となり、そして主に伺わず行動したら、必ず失敗した。
 主の答えは、サウルは来る、そしてケイラの住民は、無情にも、ダビデをサウルに渡す、というものだった。
 本来ケイラが襲われた時、救うべきは、サウルだったはずなのに、国王から追われているダビデが救った。
それなのにサウルは、国敵ペリシテは放置し、国を救ったほうのダビデを追い、しかも、自国の町ケイラを襲ってまで、ダビデを滅ぼそうとしている。
 ダビデとしては、どうして自分は良い事をしているのに、報われず、サウルも、ケイラも、善を悪で返すのだろう、と思えた事だろう。しかし主は見ておられ、人も見ている。
 人はことごとくダビデがした良い事に、悪で返したが、主は常にダビデの味方であり盾であった。ダビデはこのような訓練をしっかり受けたからこそ、今も偉大な王と尊敬されているのだ。
 
 私達も、訓練を受けている時は悲しく思えるが、これによって訓練された人は、後には決して揺るがされない平安な義の実を結ばせるようになる(ヘブル12:1-11)。
 
 いつも失望せず耐え忍び、大いに用いられる皆さんでありますように!

 

主日礼拝
テフィリン - 神の民とは(出エジプト記13:1-10)
English Service

 神の民は、エジプトで430年もの間、奴隷状態だったが、神がエジプトに10の災いを降して彼らを解放したのが、出エジプト記12章までの箇所だった。その次の13章で、神は重要な命令をされた。それが、テフィリンの命令である。ユダヤ人は今も、御言葉の入った箱を手に結びつけ、目の間に記念として置いている。その「紐付きの箱」が「テフィリン」と言われるものである。本日、この「テフィリン」について学びたい。
テフィリンの箱の中は、4つの部屋に区切られていて、それぞれの部屋には、御言葉が記された小さな羊皮紙が入っている。その内の最初の箇所が、この出エジプト記13:1-10の箇所である。『その日、あなたの子に告げて言いなさい、「これはわたしがエジプトから出る時に、主がわたしになされた事のためである」。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(13:8-9)
テフィリンの4つの御言葉に共通している命令が、「これを手につけてしるしとし、目の間に置いて記念とする」「子ども達によく教え込む」事である。敬虔なユダヤ人は、朝明けの祈りと共にテフィリンを手と額に結びつけ、日没までそれを身につけている。このように、御言葉を自分自身に縛り付け、昼も夜もそれを口ずさみ、思い巡らし、行い、子供を教育する。この「御言葉を体質化」する一連の教育がテフィリン教育である。
彼らがテフィリンの箱に入れた4つの箇所は、何について記されているのか?それは、神の民とはいかなる者であるかを示す重要な箇所であり、私達神の民のアイデンティティでもある。一つ一つを見ていきたい。

1番目の箇所は、出エジプト記13:1-10で、ここは、神の民とは「贖われた者達」である事を示している。
ユダヤ人は、自分達は神によって特別に救われた者である、という意識を強く持っている。事実「ヘブル人(エブリー)」の元々の意味は、「川を渡って来た者達」「境を超えて来た者達」の意味である。私達も、キリストにあって贖われた者達、水のバプテスマを通って、世を乗り超えて来た者達、買い戻された者達である。
2番目の箇所は、出エジプト記13:11-16であり、ここは、神の民は「捧げる者達」あるいは「捧げられた者達」である事を示している。神によって贖われた。だから、自分達・神の民は主に礼拝を「捧げ」、与えられたものの初物や十分の一を捧げる事を子供に教えている(14-15節)。ユダヤ人達は、赤ちゃんの時から徹底して捧げる「くせ」がついている故に、神が彼らに押入れ揺すり入れして与えられるのだ。(ルカ6:38)
3番目の箇所は、申命記6:4-9で、神の民は「神に従順し、服従して歩む民」である事を示している。
『イスラエルよ聞け(シェマー イスラエル)。われわれの神、主は唯一の主である。』(6:4) これはユダヤ人にとって最も大事な戒めで、イエス様も「最も大切な命令」だと言った。そして6-8節の中には「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛する」(5節)ための、具体的方法が4つ伝授されている。
1つ目は心に「刻みなさい(ハヤー:存在を表すBE動詞)」(6節)で、すなわち神の言葉を心に存在させ、その御言葉の存在が、溢れ出るようにせよ、という事である。2つ目は「子どもたちによく教え込み(シャナン:刻む)なさい」、3番目の言葉は『これについて「語らなければならない(ダバル:話す)」』である。ユダヤ人は、互いに議論して分かち合う「ハブルタ(友達という意味)」の教育法で、御言葉について互いに議論し合うくせがついている。4番目が「手に結びつけ」「額に結びつけなさい」という「テフィリン」の命令である。
4番目の箇所は、申命記11:13-21で、ここは、上記3つを守り行った神の民が、その結果受けるべき大きな祝福の約束が記されている。『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(13-15節)
主は創世当初、人を、そのように祝福された存在として創造した。生んで増えて、地を支配するように、何不足なく満ち足りて生きるように、と。創世当初、人には罪がなく、神の御言葉に100%従順する存在だったので、エデンにおいて当然のごとく祝福を享受していたが、人が善悪を知り、各自の善悪判断で動いて神の御胸に逆らい始めたため、その祝福は途絶え、エデンの外で労苦して生きねばならなくなってしまった。
神の創造の本分から外れた、本来的でない歩みをする人で満ちてしまったのが「世」である。私達はキリストの贖いによって神の民とされ、神に捧げられた者となり、神の言葉に従順し、そして本来受けるべき祝福を受け、世の人々とは格段に違う、世と罪とは分離した「神の民」として生きる皆さんでありますように!

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