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霊的城壁を再建するネヘミヤと聖霊(ネヘミヤ記7-10章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前回、ネヘミヤが城壁を再建させた記事から、私達を建て直して下さる聖霊のご性質を学んだ。続く箇所は、霊的に安定した生活を定着させるよう奮闘した記事が記されている。いかに城壁が回復し、生活水準が上がっても、御言葉に従わず霊的に堕落した生活を続けているなら、城壁は再び壊されてしまうからだ。今回、ネヘミヤ記7章以降より、私達の霊的生活を回復させて下さる聖霊のご性質を学びたい。

城壁が再建されて後、ネヘミヤが真っ先にした事は、適切な指導者を任命した事で、その基準は「忠信な(エメス:堅実な、真実な)、神を恐れる者」(7:2)である。ネヘミヤの前任者は、兄弟姉妹から搾取したり奴隷にするような、神を恐れない人だったため (5章)、その者達は外し、神の基準に立った正しい統治をさせたのだ。さらに神は、ネヘミヤの心に、指導者や代表者の「系図」を調べる思いを入れられた。(7:5)
それは、系図によって出所の裏付けが取れた、正しい人が働きをするようにするためである。
自分自身のアイデンティティである系図を失っていた者は、祭司職から外された(7:64)。聖霊が教会において働かれる時も、同じように、霊的に正しい人を奉仕の任に就かせ、そうでない者は降ろす働きをされる。
聖霊は私達の中の異邦的な価値観を取り除き、思いを清め、人生の采配が正しくできるようにして下さる。

8章では、人々が自ら進んでエズラに御言葉を求めた記事が記されている。『彼らはその書、すなわち神の律法を明瞭に読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。』(8:8) 聖霊もまた人の心に、御言葉への飢え渇きを起こし、御言葉が自分に言わんとする所を、理解させる。(エペソ3:16-19)
人々が御言葉を理解した時、彼らが最初に示した反応は「悲しみ」だった(7:9)。エズラがその時宣言したのはモーセ五書であり、そこには祝福と呪いの法則があり、それに照らすなら、今まで自分達が歩んできた道がまさに「呪われる道」に一致していた事を、御言葉から知ったのだ。千年以上前に書かれた御言葉に、まさに今の自分達の事が書かれてあり、今この呪われている理由が、実に的確に記されていたのだ。
聖霊は私達に、自分の罪の現状を思い知らせ、悲しみと悔い改めの心を起こさせる。(ゼカリヤ12:10)
しかし、ネヘミヤ(慰め主)はこの時言う。悲しんではならない、今は喜びなさい、と。『彼らに言った、「あなた方は去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのない者には分けてやりなさい。この日は我々の主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶ事はあなた方の力です」。』(ネヘミヤ8:10)
御言葉を知った当初、罪の悲しみが起きるが、聖霊は畳み掛けるように責める事はなさらず、まず、良いものを食べ飲みなさい、憂うのではなく、主を喜びとしなさい。それこそあなたの力だから、と言われる。
  『こうして民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。』(8:12) この時、御言葉に従って行った仮庵祭は、非常に大きな喜びであった。(8:13‐18) 聖霊は罪を示し、悲しませるが、御言葉を行う事の喜びで、大いに喜ばせて下さる。

こうして大きな喜びの中で仮庵祭を祝ったが、祭りが終わった二日後、彼らは悔い改めの集会を開いた。
これは、エズラやネヘミヤに促されてでなく、自発的に行ったのだ。祭りの間は喜ぶべき時であって、悔い改めの断食をすべきではない。しかし彼らは、祭りの間も、罪に対するけじめをきっちりつけなければ収まりがつかなかったのだろう。9章は、御言葉に基づいた背信の告白と、悔い改めの内容が記されている。
聖霊もまた、良いものを食べさせて元気づいたなら、悔い改めるべき事のけじめをつけるように導かれる。
今までの呪われる性質に、きっちりけじめをつけなければ、またすぐに城壁や生活が破壊されてしまうのだ。
9章は、ただ自分達が主に罪を犯して来た事と、それ故今自分達は苦しみの中にいる告白で終わり、「つきましては救って下さい」という願いは無い。ただ、この事は決して忘れません、と告白する。(10:29-30) 
それで彼らは決心する。今後異邦人と結婚しない事(10:30)、主の安息を守り(31)、礼拝を守る事(32‐39)を。
聖霊もまた、私達に、霊的で清い生活をして行くよう、決心を促す。もはや異邦的な考えに混じり合う事なく、主への安息を守り、礼拝する事を途絶えさせないように、と。
このような「霊的な城壁」の再建なくしては、物理的な城壁は全く意味を為さない。主が共におられるのでなければ、城壁を見張るのも空しく、早く起きて遅く休んで仕事をするのも空しいのだ。しっかりと霊的城壁を築き、安息と主の備えが豊かにされる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

なくなる食物のためでなく「わたしはある」なるお方のために(ヨハネ6:16-27)
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6:16 夕方になったとき、弟子たちは海ベに下り、
6:17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
6:18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
6:19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
6:20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ(エゴ・エイミー=わたしはある)、恐れることはない」。

出エジプト記3:13 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

ヨハネ6:21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。

コロサイ1:13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

ヨハネ6:22 その翌日、海の向こう岸に立っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなく、またイエスは弟子たちと一緒に小舟にお乗りにならず、ただ弟子たちだけが船出したのを見た。
6:23 しかし、数そうの小舟がテベリヤからきて、主が感謝されたのちパンを人々に食べさせた場所に近づいた。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った。
6:25 そして、海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。
6:26 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。

コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
1:19 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、
1:20 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。

ヨハネ6:66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
6:67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
6:69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。

ルカによる福音書 講解説教 水曜夕礼拝
失われるいのちと失われないいのち(ルカ21:1-19)
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エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
頑として自分の計画に従い、悪い頑なな心のままを行う者(エレミヤ書18:11-23)
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主により頼む者に与えられる保証(詩篇11篇)
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 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
11:1 わたしは主に寄り頼む。なにゆえ、あなたがたはわたしにむかって言うのか、「鳥のように山にのがれよ。

詩篇11篇は、ダビデがサウル王から逃れていた時のものとされている。
ダビデにアドバイスする人は言う。「鳥のように山にのがれよ。」と。なぜなら、以下のたくらみがあるからだ。

11:2 見よ、悪しき者は、暗やみで、心の直き者を射ようと弓を張り、弦に矢をつがえている。
11:3 基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか」と。

無垢な人と悪をたくらむ人とが相対する時、どうしても正しい者のほうが弱く見られがちである。
ことさら、闇からひそかに正しい者を狙い撃ちするような、卑怯な手段を取る場面を想定させられてしまうなら、人は結局、何の為す術もないかのように思わされてしまう。
しかし、このアドバイスをする人の根底に流れているのは「恐怖」であり、この言葉を受けた人に恐怖生み出させ、それに従うなら、根本解決無き、ただ悪者に振り回される生き方を送る以外に無い。

ダビデは、既に結論を出している。
「わたしは主に寄り頼む。」と。
暗闇由来の矢を防ぐために、ダビデは、最善の方法をとったのだ。

エペソ6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
6:14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
6:15 平和の福音の備えを足にはき、
6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

暗闇からの火矢を消すのは、信仰の大盾であり、そして矢を放つ者に対する攻撃の武具は、御霊の剣、すなわち神の言葉である。
ダビデは4節以降、神はいかなるお方であるかを告白し、闇に対して御言葉の剣を差し突きつける。

11:4 主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。

ダビデがより頼む主は、聖なるご性質であり、天に御座を据えておられる。全宇宙も、この御方をお入れする事はできない。
神こそ、全宇宙が存在する前から存在し、これらを創造したお方だからだ。
その神が、全地をあまねく見渡し、心が主に向かっている人を探し求められる。

11:5 主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
11:6 主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。

主は確かに悪者の上に災いを降り注がれる。(詩篇105:32; 創世記19:24; 出エジプト記9:23-24; エゼキエル38:22)
ダビデは御言葉を信仰を混ぜて宣言し、敵に剣を差し伸べ、そして信仰の大盾をかかげ、心が刺し貫かれる事が無いよう防御を張った。
すると実際、その通りになり、ゆえなくダビデを追い回したサウル王は倒れ、代わりにダビデが王となった。

11:7 主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。

「直き者」が受け継ぐ分と、悪しき者が受け継ぐ分について、ダビデは37篇でも記している。

37:35 わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
37:36 しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37:37 全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
37:38 しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。

一見すると、悪しき者と直き者が相対した時、悪しき者のほうが強いように見えても、実際、残って子孫が増えていくのは直き者で、悪しき者は絶たれて子孫も残らない。
もし世界が、邪悪な者の卑劣と悪辣さが強い者が勝ち残って行く法則であったとするなら、とうの昔に人類はいなくなっている。
ところが今なお人類が生きているのは、悪しき者が必ず滅びるように、そして正しい者が必ず報われるように、世界の均衡を保っておられ法則を定めておられるお方が、正しく力をもって統治をしておられるからだ。
御言葉の法則によるなら、正しい者や柔和な者が地を相続し、彼らは永遠に主と共に統べ治める事になっている。

黙示録2:26 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
2:27 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。

ダビデにアドバイスした人は、悪者の強大な罠から、ただ逃れるようにと言った。
しかしダビデは、全てを支配しておられる主を拠り所とし、御言葉の剣を差し出した。
その結果、ダビデが宣言した通りになった。

全てを見ておられる主の御前で、主により頼み助けを求める者に対し、闇から矢を射掛けようなどと思う者は、牝熊を目の前にしながら子熊をさらって行こうとするような者である。
その者は確かに打たれ、主により頼む者は確かに助けを得るのである。

ネヘミヤを呼び覚ましたハナニ(ネヘミヤ記7:1-4)
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ネヘミヤ記7:1 城壁が築かれて、とびらを設け、さらに門衛、歌うたう者およびレビびとを任命したので、
 7:2 わたしは、わたしの兄弟ハナニと、城のつかさハナニヤに命じて、エルサレムを治めさせた。彼は多くの者にまさって忠信な、神を恐れる者であったからである。

ネヘミヤは、城壁が再建された直後のエルサレムを、ハナニとハナヌヤに任せた。
ネヘミヤの名前の意味は「神は慰め」、ハナニは名前の意味は「恵み深い」、ハナヌヤは「神は恵み深い、神は好意を寄せて下さった」。
そしてハナニは、ネヘミヤをエルサレムへと呼び覚ました者である。

1:2 わたしの兄弟のひとりハナニが数人の者と共にユダから来たので、わたしは捕囚を免れて生き残ったユダヤ人の事およびエルサレムの事を尋ねた。

神の慰めが呼び覚まされるためには、まず、神の恵みがありきである。

神は、壊れ果ててしまった城壁を、人生を見た時、深くうめき、なんとか助けたいと思われる主である。

創世記1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

ルカ10:29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
10:30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
10:37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

ルカ15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

詩篇51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

悪者の人生の前提条件=「神はいない」(詩篇10篇)
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詩篇9編では、国々への正統なさばき、即ち、主の慰めが宣言されていたのに対し、10編は、神の民の間に入り込んでいる悪者を訴える祈りが記されている。
詩篇10編は表題が無く、9編と形式・用語に共通点が見られるためか、70人訳では、9編と10編が1つの詩篇とされている。
そうだとするなら、10編もダビデが記したものである。

この詩篇10篇は、きれいな「起承転結」を形成しており、その「起」の部分、すなわち1-2節は、主に対する訴えによって始まる。
10:1 主よ、なにゆえ遠く離れて/立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。
10:2 悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます。どうぞ彼らがその企てたはかりごとに/みずから捕えられますように。

悪しき者が、貧しい者を激しく攻め立てていて、何ら裁かれる事なく、のさばっている。
彼らはいかなる者で、どんな事をしているか。
続く「承」にあたる3-11節に記されている。

10:3 悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる。
10:4 悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて「神はない」という。

「神はない。」
これこそ、悪者の行動規範であると言って、過言ではない。
つまり全能者への恐れや、神の正しいさばきの概念が、欠如しているのだ。

高慢が顔面にそのまま凝り固まってしまったような人がいるが、彼らがいつも自信たっぷりであるのは、恐れを克服するために鍛錬したからではない。
彼らにはそもそも、主を恐れるという感覚が欠如しているのだ。

10:5 彼の道は常に栄え、あなたのさばきは彼を離れて高く、彼はそのすべてのあだを口先で吹く。
10:6 彼は心の内に言う、「わたしは動かされることはなく、世々わざわいにあうことがない」と。

平気で万引きができる人は、「見つからない」「裁かれる事は無い」という、根拠なき思い込みがあるからだが、悪しき者が持っているその「自信たっぷり感」は、正しいさばきをされる神という概念が存在しない事に拠る。
それだから彼らは、躊躇なく、罪の大海へとダイブできてしまうのだ。それは実に愚かな事である。
主を知っている人は、主は全能であり、いつも見ておられ、正しく裁かれる、という前提がその心にあるから、罪の大海へおいそれとダイブなどできない。

10:7 その口はのろいと、欺きと、しえたげとに満ち、その舌の下には害毒と不正とがある。

条件反射的に口汚い言葉、下品な言葉、のろいの言葉、人をしいたげる言葉を発する人は、舌の下という隠れた所に害毒と不正を潜ましているのが原因である。

10:8 彼は村里の隠れ場におり、忍びやかな所で罪のない者を殺す。その目は寄るべなき者をうかがい、
10:9 隠れ場にひそむししのように、ひそかに待ち伏せする。彼は貧しい者を捕えようと待ち伏せし、貧しい者を網にひきいれて捕える。

彼らは、神の民の集会の真ん中には決して入って来ない。
いつもはずれの方、ひそかな所に座し、そこで「貧しい者(アニィ:悩む人、落ち込んだ人)」を捕らえようと、うかがっている。
彼らが神の民の中に入り込んでいるのは、一緒に礼拝したり賛美したりするためでなく、弱っている人、悩みに落ち込んだ人を食い物にするため、すなわち、獅子が獲物となるべき弱い獣を待ち伏せするのと同じ動機をもって、じっくり「人」をうかがうのである。

10:10 寄るべなき者は彼の力によって/打ちくじかれ、衰え、倒れる。
10:11 彼は心のうちに言う、「神は忘れた、神はその顔を隠した、神は絶えて見ることはなかろう」と。

このようにサタンに類する人は、悩む人、落ち込んだ人をいつも探し回り、その人を見つけたなら闇の自分の所に引き寄せ、食い物にしてしまう。
だから私達は、不安や悩みを思い巡らして心に場所取りしないように、祈りによって対処すべきだ。

ダビデは心配ごとをよく主に申し立て、彼を追求する敵を主に訴えていた。
12節から15節が、起承転結の「転」の部分で、主に対するの訴えの祈りが綴られている。

10:12 主よ、立ちあがってください。神よ、み手をあげてください。苦しむ者を忘れないでください。
10:13 なにゆえ、悪しき者は神を侮り、心のうちに/「あなたはとがめることをしない」と言うのですか。
10:14 あなたはみそなわし、悩みと苦しみとを見て、それをみ手に取られます。寄るべなき者はあなたに身をゆだねるのです。あなたはいつもみなしごを助けられました。
10:15 悪しき者と悪を行う者の腕を折り、その悪を一つも残さないまでに探り出してください。

主は、みそなわされるお方、見ておられるお方である。悪者は、主は見ていない、というが、いや、生きておられる神は、全ての物事を見ておられるのだ。
密室で話されたことも、人の心の内のめぐらされた言葉も、全部知っておられる。
そして主は、正しくさばきを行われ、悩み苦しむ人を見て御手を差し伸べられる。
寄るべなき者は主に身をゆだね、いつもみなしごを助けられる。

そして結論部分は、主が正当にさばいて下さる事の確信の祈りである。

10:16 主はとこしえに王でいらせられる。/もろもろの国民は滅びて/主の国から跡を断つでしょう。
10:17 主よ、あなたは柔和な者の願いを聞き、その心を強くし、耳を傾けて、
10:18 みなしごと、しえたげられる者とのために/さばきを行われます。地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう。

こうして、祈りによって悪人に対する患いは解消された。
私達も、心配ごとが頭の周りを飛び回っている時、祈りによって対処すべきだ。

ピリピ4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
 4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

思い煩いは、私達の頭と心を、そして体を傷つける。
それを守る、唯一の方法が、祈る事なのだ。

ネヘミヤの働きから見る聖霊の働き(ネヘミヤ記1-6章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前回、ネヘミヤ記とナホム書から、聖霊のご性質、すなわち人を慰め、建て直す一面を学んだ。ネヘミヤの名はナハム+ヤ(慰め+主)、名前そのものがまさに「慰め主」であり、彼がした事を学ぶ事は、すなわち聖霊のわざを学ぶ事と同じである。今回もネヘミヤ記から、聖霊の慰め主としての性質を細かく学びたい。

1,うめきと執り成し ネヘミヤ記1章は、エルサレムの城壁が破壊されてしまった状況を聞いたネヘミヤがうめき、執り成し祈った様が記されているが、このうめきと執り成しこそ、聖霊様のご性質である。
『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、私達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉に表せない切なるうめきをもって、私達のためにとりなして下さるからである。』(ロマ8:26)
2,王から権威を得て派遣された ネヘミヤは、主に祈りつつ王に願い求めた所、王は彼を派遣する事を快諾し、援助してくれた(2:1-8)。同じように聖霊も、天の王であられる父なる神様から遣わされた。それはイエス様が、十字架の死と復活によって栄光をお受けになり、御父に願った故である。(ヨハネ14:16)
3,修復すべきものを隅々まで探る ネヘミヤは到着すると、早速破壊されている所をくまなく調べ、探りまわった(2:9-16)。同様に聖霊も私達の内側をくまなく探り、掃き清めながら、失われている価値を探す。そしてその人が悔い改め、価値あるものを見出したなら、御使いと共に大いに喜ばれる。(ルカ15:8-10)
4,回復の励ましをされる ネヘミヤは、エルサレムが長らく瓦礫のような状況の中で生活し、もはや復旧する気持ちが萎え果ててしまっている彼らに言う。『あなたがたの見るとおり、われわれは難局にある。エルサレムは荒廃し、その門は火に焼かれた。さあ、われわれは再び世のはずかしめをうけることのないように、エルサレムの城壁を築こう』(2:17) 聖霊は、罪に汚れた心を、きよい状態へと回復させ(詩篇51:10)、無秩序状態から秩序を回復させる思いを吹き込んで下さる。そして働こうとする人を、励まして下さる。
5,志と力を与え、事を行わせて下さる ネヘミヤ記3章は、ネヘミヤによって心突き動かされた人達が、エルサレム城壁の40工区を、約41のチームで分担し、工事を開始した様が記されている。このように神は一人一人に志を立てさせ(ピリピ2:13)、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊で満たして下さる(出エジプト記31:2-3)。何をして良いのか分からない時、志を立てさせて下さるよう求めるべきである。
6,敵の脅しに心萎えてしまった人達への適切な対処 4章では、再建が進んで行くのを敵が歯ぎしりして脅しかけて来る様があり、また働き人達も、城壁が崩れている現状を見て心萎えてしまった様がある。
ネヘミヤは彼らのために、敵を一手に引き受けて代理戦争はしない。その代わり、各々に武器を持たせる。
「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい。」(4:14) 聖霊も同様である。聖霊は私達に代わって代理戦争するのではなく、私達に御霊の武具を持たせ、そしてすすめる。主の大能の力を得て、全ての聖徒のために忍耐の限りを尽くして、戦いをしなさい、と。(エペソ6:10-18) 敵はそれで、あっさりと引くものなのだ(ネヘミヤ4:15)。
6,悔い改めへの導き 5章では、エルサレムの中で異邦人のごとき搾取がはびこり、兄弟が兄弟を奴隷状態にしていた事が発覚する。その時、飢饉(3節)が起きた理由は、搾取された兄弟姉妹達の叫びが天に届いたからだ(ヤコブ5:4)。ネヘミヤはそのような事をしていた者達を叱責し、全ての借金を免除してやった。
聖霊もまた同じ事をして下さる。聖霊が来ると、罪について、義について、さばきについてその誤ちを認めさせ(ヨハネ16:8)、不正な事をする性質・祝福を阻む邪悪な性質を指摘し、改めさせ、回復させて下さる。
7,敵のはかりごとを見破る 6章に入り、完成が間近になると、敵のそそのかしが一層頻繁になって来る。
この再建の働きは、王に対する反逆だ、と言いふらされている、だから来て相談しよう、と持ちかけて来たり、また預言者を買収し、律法に違反させようとそそのかして来たりするのを、ネヘミヤは見破り、それを逆に主に訴えた(6:1-9,10-14)。私達も預言の霊が与えられる時、人の隠し持っている罪が示され、心の秘密があらわにされ、示された相手は、神が確かにおられると言って礼拝するようになる。(1コリント14:24-25)

こうして城壁は五十二日を経て完成した。敵がこれを聞いた時、恐れ、大いに面目を失った。彼らはこの工事が、神の助けによって成就したことを悟ったからである(6:15-16)。ネヘミヤが来て以来、驚く程のスピードで工事が完成したように、私達も聖霊の働きに委ねる時、驚くような建て直しが行われる。
その時、敵の面目は失われ、私達には、城壁がそこに存在する事による心の平安が与えられるのだ。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
旧約で開示された新約の教会に与えられる慰めと特権(イザヤ66章)
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国々を正当にさばかれる主と、「言いつけ上手」「訴え上手」なダビデ(詩篇9篇)
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9編の表題は「聖歌隊の指揮者によってムツラベンのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌」である。
ムツラベンのしらべは、どのようなメロディだったのだろう。
ムトは「死」、ラ・ベンは「息子の」の意味であり、また16節には「ヒガヨン・セラ」という、聖書中ここにしかない「セラ」があるが、ヒガヨンの意味は「荘厳な」「瞑想」の意味である。
以上を考えると、ムツラベンのしらべは、荘厳で重々しいメロディだったのだろう。
その荘厳な雰囲気の中でダビデが歌わせた詩篇9編のテーマは、主は正当に裁かれるお方である、という内容である。

9:1 わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざを/ことごとく宣べ伝えます。
9:2 いと高き者よ、あなたによって/わたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名をほめ歌います。

ダビデはまず最初に、主への感謝と賛美で始める。
彼を憎んで滅ぼそうとする者達や国々があるのだが、それを訴える前に、主の素晴らしい御業と正当なさばきをほめたたえている。

9:3 わたしの敵は退くとき、つまずき倒れてあなたの前に滅びました。

わたしの敵、イコール神の敵である。
ダビデはいつも、主の御言葉が成る事、御胸の成る事を求めていたからだ。

9:4 あなたがわたしの正しい訴えを/助け守られたからです。あなたはみくらに座して、正しいさばきをされました。

ダビデはここでも自分の訴えを「正しい」としているが、その根拠はどこにあるのか。それは、彼が主に寄り頼んでいる事である。
主に尋ね求める者こそ、正しいとされる。

子供が人の家のガラスを割ってしまった場合、子供は親に泣きついて訴える時、親は代理で謝罪し、償いをし、そして子供のガラスを割ってしまった事は、相手の前で赦される。
同様に神は、罪を犯してしまった人類のためにイエス・キリストを遣わし、彼が代理で罰を受け、償いをし、父なる神をなだめた。
だから、イエス様に泣きついてくる人々、すなわち、イエス様を主とする人を、神は赦し、義として下さるのだ。

親の助けをよく呼び起こす子供とは「言いつけ上手」「訴え上手」の子であるが、ダビデはまったく主に対して「言いつけ上手」「訴え上手」である。
悩んだ時も、喜んだ時も、家庭の問題も、国家の問題も、なんでもかんでも主に持って行った。

9:5 あなたはもろもろの国民を責め、悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。
9:6 敵は絶えはてて、とこしえに滅び、あなたが滅ぼされたもろもろの町は/その記憶さえ消えうせました。

歴史の闇へと葬り去られた国や民族、人々は、多々ある。
特に、主に従わない者、御民をいじわるする者は、そのようにされる。アッシリヤやバビロン、ペリシテ人、イドマヤ人などはまさにそうだった。
主は正当なさばきをされる事が、7-9節に記されている。

9:7 しかし主はとこしえに、み位に座し、さばきのために、みくらを設けられました。
9:8 主は正義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9 主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。

さばきは恐ろしげに聞こえるかもしれないが、正しい人にとっては、神の正しいさばきは、実は慰めである。
ナホム書という書が聖書にある。
ナホムの名前の元は「ナハム(慰め)」、そのまま「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのだろう?
アッシリヤは、残虐さを売り物に、各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。
一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、神に挑戦する程になった(イザヤ36-37章)。
それで神はアッシリヤを処罰する。アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は手を叩いて喜んだ。
誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたから、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。

9:10 み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨てられたことがないからです。

ここが9扁の中で重要な節である。
ダビデは、主に寄り頼み、主に尋ね求める事によって、正しいとされた。
主をより頼む者の幸いについて、詩篇34編に記されている。

34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。

ダビデは、主に求めた。
すると主は答え、彼を全ての恐れから助け出された。

34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
34:9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
34:10 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

主を尋ね求める者は、ますます主の恵み深きことを味わい、乏しい事はなくなり、良いものにかける事は無い。
主を仰ぎ見るなら、光を得、恥じる事はなくなる。
苦しむ時、主を仰ぎ見て呼ばわるなら、主は聞いて、悩みから救い出して下さり、主は御使いに命じて、その人の周りに陣営を巡らし、助け出される。
このように、主を尋ね求める人、仰ぎ見る人は幸いを得るのだ。

それでダビデは、御前に大胆に進み出て、賛美し、礼拝できたのだ。
ダビデは11節以降、賛美している。

9:11 シオンに住まわれる主にむかってほめうたい、そのみわざをもろもろの民のなかに宣べ伝えよ。
9:12 血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。

ダビデは連戦連勝の王、強く富んだ王の中の王、というイメージがあるかもしれない。
しかし詩篇を見ていると、どうも彼は貧しくて弱くて、悩み苦しみが多い人なのではないか、と思えるような記述がたくさんある。
ダビデについて何の前知識もない人が、はじめて詩篇を読んだとするなら、彼は貧しくて弱い者ではないか、と思われるかもしれない。
しかし、それ程彼はいつも「心の貧しさ」を覚えていた、という事の証左であり、それこそ、ダビデが偉大でありつづけた所以である。

以下のように書いてある。
マタイ5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

「こころの貧しい人」とは、直訳的には「霊がこじきである者」「霊がからっぽな者」である。
彼は、主なくしては何も出来ない「霊の貧しさ」を、いつも覚えていた。
他の王達は、神から祝福され、富や力を持ち始めると、それを誇って神から遠ざかって行ったが、ダビデは違った。
彼も確かに王として栄えたその頂点で罪を犯したが、しかしその罪を指摘された時、すぐに悔い改め、しばらくは涙の日々を送って行った。
彼は生涯、霊における貧しさをいつも覚えており、いつも神に求めていたからこそ、彼は主から愛され、主によっていつも高められていたのだ。

9:13 主よ、わたしをあわれんでください。死の門からわたしを引きあげられる主よ、あだする者のわたしを悩ますのを/みそなわしてください。
9:14 そうすれば、わたしはあなたのすべての誉を述べ、シオンの娘の門で、あなたの救を喜ぶことができましょう。

シオンとはエルサレムの神殿の丘、すなわち神を礼拝する場所である。
彼の心はいつも、そこにあった。だから彼は、いつでも主との交わりを持っていた。

9:15 もろもろの国民は自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕えられる。
9:16 主はみずからを知らせ、さばきを行われた。悪しき者は自分の手で作ったわなに捕えられる。〔ヒガヨン、セラ

16節には「ヒガヨン、セラ」という、聖書中ここにだけ出現する言葉が記されているが、ヒガヨンは「荘厳な、瞑想」である。
セラはモードチェンジのサインだが、「荘厳にムードチェンジせよ」という意味であろうか。
だから17節以降は、厳かな心持ちで読むべきである。
17節以降は、神と人との、そして神と国々との、恒久的な法則が記されている。

9:17 悪しき者、また神を忘れるもろもろの国民は/陰府へ去って行く。
9:18 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。

現代に至るまで、数多の国々・民族が栄えては衰え、ある国や民族は、歴史の闇へと葬り去られて行ってしまった。
どんなに大国と呼ばれる国であっても、弱く貧しい者や苦しむ者を顧みず、神の御胸に反する事を続ける国は、必ず長続きせず、歴史の闇に葬り去られてしまうのだ。

アッシリヤのように、暴力や残虐さを売りにして他を恐れさせ君臨する国は、一時期栄えても、必ず滅んでいった。多くの人々の叫びが沸き起こるから、神が栄えさせないのである。
そして主は、神の御胸どおり歩もうとする国を祝福し、栄えさせて下さる。
ローマ帝国は、聖書の教えに忠実に歩んでいる内はどんどん祝福され栄えて行ったが、欺瞞がはびこり、聖書では明らかに悪と見える事が蔓延しだした時から暗黒時代に突入した。
アメリカも建国当初、聖書を中心として国家運営を成そうとして行ったため、建国以降の短期間にキリスト教国として大いに栄えたが、しかし1960年代以降、色々な宗教を取り入れて当初のスピリットを忘れてしまったため、その栄えに黒雲が立ち込めてしまっている。

9:19 主よ、立ちあがってください。人に勝利を得させず、もろもろの国民に、み前でさばきを受けさせてください。
9:20 主よ、彼らに恐れを起させ、もろもろの国民に/自分がただ、人であることを知らせてください。〔セラ

19,20節の「人」はエノーシュ、「死ぬべき人間」という意味である。
人は、覚えるべきである。自分がはかない存在である事を。
主こそ王であり、正しくさばきをし、この主により頼む者こそが、幸いである事を覚えるべきだ。

ダビデは歴史を支配しておられ、正当にジャッジされる主を覚えよ、と、国々に警告した。
キリストにあって王とされ、祭司とされた者として、王のため、国々のために執り成し、祈るべきだ。
世の中のあらゆる事を、ダビデのように、何でも主に言いつけ、主との交わりを深めつつ、身の回りを正当に治めつつ歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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