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クリスマスの主人公たちが共通して持つ性質:従順(マタイ2:9-15)
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主日礼拝
メシヤのしるしを見極め、時を算出した東方の博士たち(マタイ2:1-12)
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English Service:
The Oriental Wise Men who discerned the signs of the Messiah and calculated the time (Mat2:1-12) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドベント第4週目となった。イエス様が赤ちゃんとなって来られた当時、救い主のご到来を心待ちにしていた人々は、残念ながら、とても「少数」だった。むしろ当時の人々は、救い主など、来てもらっては困る状態だった。実際当時、イスラエルを支配していたヘロデ王は、救い主を示す星が現れた事を聞いた時、恐れ惑い、エルサレム中の人も王と同様であった(マタイ2:3 )。
キリストがお生まれになった時、この赤ちゃんこそ万民の救い主である、と、シメオンやアンナを通して告げ広められたのに、その赤ちゃんも両親も、人々から厚遇される事は無かった。シメオンが言ったように「イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また反対を受けるしるし」なのだ(ルカ2:34)。
しかし、少数ながらでも、救い主が来て、エルサレムが贖われるのを待ち望んでいた人たちは、確かにいた(2:38)。しかも、イスラエルから東へ遠く離れた異邦の地にも存在した。それが、東方の博士たちである。
「博士」の原文は「マゴス」、ペルシャ系の占星術の祭司で、しかも高位の祭司であったと考えられている。
異教の占星術師…。それはイスラエルでは最も忌み嫌われるはずの人達であった。しかし彼らは、前回の栄光の系図に加えられたあの女達のように、まことの神と、救い主メシヤを、強烈に憧れていた。それで彼らは、救い主メシヤのお生まれ示す星が上がったのを見て、エルサレムへの遠い旅路をやって来たのだ。
それにしても彼らは、どうしてそれが「メシヤの星」だと断定できたのだろう。よほど確信が無ければ、忙しい中、危険を冒して、メシヤへ捧げる高価な捧げものを携え行ったりはしない。それがメシヤの星だと確信できたのは、彼らは御言葉を熱心に調べ、メシヤの来られる時期と前兆について綿密に調べていたからである。メシヤが来られる時、一つの星が出現するという預言は、旧約・民数記に1節だけ登場する。(24:17)
メシヤが来る時、しるしとなる程の星が出現する事を、彼らは、数多ある御言葉の中から見逃さなかった。
それにしても、ひときわ輝く星など、歴史の中でいくらでもあったはずなのに、どうして”この星”がメシヤの星だと特定できたのか。それは彼らは、メシヤの来られる時間(タイム)も、御言葉の中から手がかりを掴んでいて、そのご到来はもう間近だと算出していたからだ、と、推測できる。その算出の手がかりは、博士達の国・ペルシアにかつていた、ユダヤ人の偉大な預言者・ダニエルが書き残していた。
ダニエルが残した文献によると、彼は、メシヤ到来の時期とその役割について、天使ガブリエルから示されたという。ダニエル書9:20-27によると、メシヤに油が注がれる時は、エルサレム再建の命令が出てから七週プラス六十二週。しかしその後、メシヤは絶たれ、町と聖所は破壊されるが、最後には、荒らす憎むべき者に絶滅が降りかかる…。その「時」は、歴史上で正確に成就して行く…。ペルシャのアルタクセルクセス王の第20年(BC455年)、ネヘミヤが王にエルサレム再建の願いをして、聞き届けられた(ネヘミヤ2:1)。
その時点で、メシヤ到来のカウントダウンが動き出す。それから、7+62=69週目、すなわち483日目。この「日数」を「年数」に変換し足し算すると、メシヤに油が注がれる時は、AD28年。それはまさに、イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた時期、すなわち、メシヤに聖霊の油が注がれた時期である。
博士たちは、律法や預言者の残した巻物をつぶさに調べ、研究し、さらに御言葉から「時」を計算し、もう今、メシヤがお生まれになっていてもおかしくはない時期だ、と悟り、心を備え、天を見上げていたのだ。
博士達はヘロデ王に言った。私達はメシヤを「拝みに(プロスクネーオ)」参りました、と。プロスクネーオは「プロス(前に)」+「クオン(犬)」、犬が喜んで主人の手をしきりに舐める様子から、ひれ伏す、拝む、礼拝する、の意味となった。彼らは、喜んでひれ伏す心をもって、宝物を用意し、東方からはるばる来たのだ。
主は、そのような志をもって礼拝に来る、この異邦の博士たちに、無事にメシヤの元にたどり着けるよう、星に彼らを先導させ、宇宙を動かして、彼らを導いたのだ。それを見た彼らは、この上ない喜びで、喜んだ。
心を尽くして主を呼び求め、聖書を調べ、時をはかって準備し、たとえ遠くでも、また忙しくても、捧げものを携えてメシヤを探し求める者に対し、主は、宇宙を動かしてでも導き、メシヤと出会わせて下さるのだ。
イエス・キリストの系図に、本来入るはずもない異邦の女達が系図に入り、異邦の占星術師たちも、誠実と熱心によって、メシヤと出会う幸いを得た。今、この時代、マタイ24章の記述からすると、主の来られるタイムは、間近に近づいている事が分かる。私達も今、博士たちのように、心を尽くして主を求め、御言葉を調べ、主から宇宙規模の導きをいただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇講解説教
鬱々としてオチが無い詩篇、か?(詩篇88篇)
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この詩篇88篇は、はじめから終わりまで、鬱々として暗い雰囲気に終始しており、他の詩篇のように、「しかし」つきのV字回復や、感謝、賛美なしに終わる。
暗い雰囲気で始まる詩篇は沢山あるが、ほぼ、「希望のオチ」で終わる。
けれども、この詩篇には、そうした「オチ」が無い。
世のブルースや演歌は、はじめから終わりまで恨み節、という曲は多いが、しかしこの詩篇が、それらと違うのは、はじめから終わりまで、主を呼び求める「祈り」で終始している事である。
人生の価値は、順境か逆境か、楽しいか苦しいか、喜んでいるか悲しんでいるか、などで計れるものではない。
「主と向き合っているか、いないか」
それによって、計られる。
どんなに順境で、楽しく、喜びの毎日であっても、主と向き合っていないなら、その人生には価値は無く、逆に、どんなに逆境が続いて、苦しくて、悲しんでいても、主と向き合っているなら、偉大な価値を持った人生なのだ。
いつも喜んでいなさい、と書かれてあるけれども、悲しむべき事が降り掛かってしまう時も、人生の中では、ある。
だから、絶えず祈りなさい、と書いてあるのだ。
絶えず主に祈るなら、どんな場面でも、どんな状況でも、いのちの主、光の主、そして、全てを益と創り変えて下さる主と、出会うことができるからだ。
詩篇88篇表題:聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
この詩篇の作者はヘマンである。
彼は、預言者サムエルの子孫で(1歴代誌6:33)、またダビデの時代、琴と立琴とシンバルをもって預言する者とされた。(1歴代誌25章)
彼の名前の元のヘブライ語は「エムナー」、その意味は、忠実、誠実、堅実、安定、また信仰。
それが、彼の性質である事は、この詩篇のはじめから終わりまで終始されている祈りの中から分かる。
88:1 わが神、主よ、わたしは昼、「助け(イエシュア)」を呼び求め、夜、み前に叫び求めます。
88:2 わたしの祈をみ前にいたらせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
彼は、昼も、夜も、主の御前に「祈り」をもって向かっている。
まさに、主を待ち望む「アドベント」の人である。
そして彼は、主を「イエシュア(救い)の神」と呼んでいる。
イエシュア、すなわちイエス様の御名を呼び求める者は、その救いにあずかる事ができるのだ。
88:6 あなたはわたしを深い穴、暗い所、深い淵に置かれました。
88:7 あなたの怒りはわたしの上に重く、あなたはもろもろの波をもって/わたしを苦しめられました。〔セラ
彼の祈りは、ヨナを彷彿させる。
ヨナのように、深淵の底に降り、また、波が次々と襲いかかっているかのような状況である。
ヨナは、魚の腹の中から主に祈った。
「救は主にある(イエシュアーター・ラ・アドナイ)」と。
ヨナは、「救(イエシュア)は主にある」と言って、イエシュアの名を呼ぶと、三日目の復活を経験し、多くの人々を主に立ち返らせる偉大な働きをした。
私達の希望はイエシュア、イエス様であり、彼に向き合い続けるなら、三日目の復活を私達も経験するのである。
88:8 あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9 わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10 あなたは死んだ者のために/奇跡を行われるでしょうか。なき人のたましいは起きあがって/あなたをほめたたえるでしょうか。〔セラ
彼も、ヨブのように、友人からも難癖つけられているが、しかし少なくとも、彼は日ごと、主を呼んでいる。
主に向かって両手を差し伸べている。
彼は実に、その名のとおり、誠実また忠実である。
主は、主に向かって誠実を貫いて、いつも主に手を差し伸べているる人には、必ず、報いて下さる。
88:11 あなたのいつくしみは墓のなかに、あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。
88:12 あなたの奇跡は暗やみに、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13 しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
(NKJV: And in the morning my prayer comes before You.)
彼には、希望がある。
その根拠は、彼は日夜主に叫んでおり、また、朝明けには、自分の祈りは、あなたの御前に行く、と、信仰をもって宣言している所である。
ユダヤ人の世界観は、「夕があり、朝があった」である。
それにひきかえ、世の中の思考は、「朝」があって「夕」になる、である。
はじめは希望、後には絶望。
それが、世の思考であるが、神の民は、絶望の後に、永遠の希望があるのだ。
イエス様も、復活の「朝」の前に、十字架という闇夜を経験した。
しかしイエス様は、復活の朝を迎え、今や、光に満ちた天において、永遠に統治しておられる。
私達も、イエシュア、すなわちイエス様にあって、そうなのである。
88:14 主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15 わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。あなたの脅かしにあって衰えはてました。
88:16 あなたの激しい怒りがわたしを襲い、あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。
88:17 これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、わたしを全く取り巻きました。
88:18 あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました。(新共同訳「わたしに親しいのは暗闇だけです」)
彼は、若い時から苦しみ続けていた。
主の脅かしや怒りに、ずっと襲われ続けているかのようだった。
友人たちも、彼から遠ざかり、親しいのは、暗闇だけ。
こうして、この詩篇は終わる。
「希望のオチ」が、一切無い。
一見すると。
しかし、彼の人生は、そこで終わった訳ではない。まだまだ続く。
私達も、「今」という瞬間、暗闇と絶望のどんぞこで、「光のオチ」が永遠に無いかのような状況が、あるかもしれない。
もしかすると、若い時から、今まで、ずっとそうだったかもしれない。
では、ヘマンは一体どこに落ち着いたのか。。。
実は、他の箇所から、彼が落ち着いた先を探る事ができる。
彼は、ソロモンと比べられる程の知恵者となり(1列王記4:31)、
次のように呼ばれるようになる。
「神がご自身の約束にしたがって高くされた王の先見者ヘマン」
また神は、彼に、男の子十四人、女の子三人を与えられた、と記されている(1歴代誌25章)。
彼の誠実も、彼の祈りも、全部主に聞かれ、神様は彼に大いに報いられた、という事である。
主は、いつまでも責めておられるわけではない。
主は、祈り求める民には、必ず、闇から光へ、悲しみから喜びへチェンジさせて下さる。
イエス様は言われた。
Joh 16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
Joh 16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
Joh 16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
Joh 16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
Joh 16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
「救い(イエシュア)」であられるイエス様を呼び求め続ける者は、やがて、イエス様の十字架の御手によって、全ての涙はすっかり拭われ、もはや死もなく、悲しみ、叫びの無い、永遠の光と喜びに満ちた天国で、彼と共に住むのである。
インマヌエルとはどういうお方?(イザヤ7:10-14)
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詩篇講解説教
全世界の救われた人々の本籍地シオン(詩篇87篇)
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コラの子の歌、さんび
詩篇87:1 主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。(NKJV: His foundation is in the holy mountains.)
詩篇87篇は、シオンが全世界の本籍地になるという預言的なシオン賛歌であり、シオン(צִיּוֹן)とはエルサレムの別名で、特に、神殿のある町、聖なる神の都を意識する時、この呼び名が用いられる事が多い。
本篇の1節では、この都を「聖なる山」と呼び、3節では「神の都」と呼んでいる。
主はシオンを、イスラエルの他の町々よりも、特別扱いし、もろもろの栄光ある事を、語られた。
87:2 主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
87:3 神の都よ、あなたについて、もろもろの栄光ある事が語られる。〔セラ
シオン、すなわち、エルサレムの城門を通って、諸国の人々や王たちが都へと入って来る事が、黙21章にも記されている。
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
確かに、全世界にとって、イスラエル十二部族は「門」であり、十二使徒は「土台」である、といえる。
なぜならイスラエルを通して、この世界に神の法則(律法)が入って来たのだし、また彼らを通して、イエス・キリストがこの世に送り出され、そして使徒たちを通して、福音が全世界へ伝えられたのだから。
神は、イスラエル十二部族の名が記された「門」を愛され(詩篇87:2)、そして、イエス・キリストの十二使徒を、愛しておられる。
私達も、福音を宣教し、救った人達にとって「使徒」となるなら(1コリント9:2)、主は私達を「救いの門」とし、主からこよなく愛され、その宣教の働きを守り、導いて下さるのだ。
詩篇87:4 わたしはラハブとバビロンを/わたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。
ラハブとは、エジプトの事である。(イザヤ30:7、51:9)
これらの国々は、以前はイスラエルの敵として、罪深い者として、歩んできた。
しかし神は、そんな彼らとも和解し、「神の都で生まれた者」として数え、「ここで生まれた者」として登録し、市民権を得させて下さる、というのである。
それはまさしく、イエス・キリストの福音である。
主は、諸々の国民に対して、和解の手を差し伸べるが、シオンについては、特別扱いされる。
詩篇87:5 しかしシオンについては「この者も、かの者もその中に生れた」と言われる。いと高き者みずからシオンを堅く立てられるからである。
87:6 主がもろもろの民を登録されるとき、「この者はかしこに生れた」としるされる。〔セラ
この者も、かの者も、シオンで生れた、と言われるようになる。
すなわち、シオンが、全世界の母のような存在となることを表している。
それは、「シオン」という名のヘブライ文字から、霊的意味を導き出すと、納得できる。
シオンのヘブライ語はצִיּוֹןであるが、最初の字のツァディצは「釣り針」、次のユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、最後のヌンןは「魚」を意味する。
すなわち、シオンの霊的意味は、イエス様の十字架の「釘」打たれた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、意味する。
イエス様の十字架という釣り針に引っかかった魚たち、、、それはまさしく、私達キリスト者の事である。
エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
ただし、この都には、誰も彼もが無条件で入れるわけではない。
入る権利のある者が、黙示録22:14にあり、そして都から追い出されてしまう者が、黙示録22:15にある。
黙示録22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
いかに以前は罪深い者であったとしても、イエス様を信じ、自分の着物を洗った者、すなわち、その行いをきよくした人々を、主は「この民はここで生まれた」(詩篇87:6)とし、天国の市民権に登録されるのだ。
ヘブル12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
詩篇87:7 歌う者と踊る者はみな言う、「わがもろもろの泉はあなたのうちにある」と。
泉(マヤーン)は、「源」とも訳せる。
救われた人にとって、喜びと幸いの源は、神の都にある。
私達も、救われた者にふさわしく、天のエルサレムに入る日、すなわち、キリストの花嫁として小羊の婚姻に入る日まで、自分の行いという「着物」をきよくし、多くの人々を十字架の釣り針で、釣って、救いへと入れて行くべきである。
黙示録19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
主日礼拝
積極的に主を待ち望む信仰の家に来て下さる主(マタイ1:1-17)
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English Service: Who is the happiest person in the world?(Luke1:26-45) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
主イエスキリストのご降誕を待ち望むアドベント第三週目となった。救い主キリストは、赤ちゃんとなってこの世に来られたが、それを記す福音書のはじめに、イエスキリストの系図が記されている。系図は「家」を明かすもので、この系図を調べると、イエス様はどういう家柄を通してこの世に来られたのか知る事が出来る。
そのイエス・キリストに至るまでの系図に刻まれた一人一人を見ると、神は実に、信仰を持つ人々を通して歴史に介入して来られた事を知る事ができる。私達はこの時代、いかに生きるべきか、系図から学びたい。
系図は、信仰の父祖・アブラハムから始まっている。彼が75歳になった時、神は彼に「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われ、アブラハムはそれに従った。神に呼び出された時、自分の生来の生き方を離れ、神のことばに導かれる生き方へと入る…。これこそ、私達の救い主、イエス・キリストの栄光の系図への参加方法であり、そして、私達個人の救いと、贖いの歴史の始まりなのだ。
このマタイの系図の特徴的な所は、本来なら入れるはずもない異邦の女達も、系図に加えられており、また、本来なら系図に「いる」はずなのに、名前が除外されてしまった人達もいる点である。本来なら系図に入るはずが無いのに加えられた女性に共通している性質は、神の民に入ろうという情熱と信仰がある事で、除外されてしまった人達に共通しているのも、やはり「信仰」の無さで、主の言葉を軽んじていた点である。
ユダの時代、アブラハム以来の信仰の継承が絶えそうになった時、その血筋を何としても絶やすまいとしたタマル(3節)は、遊女の格好までしてユダとの間に子をもうけた。しかし子を残す営みを侮った異邦の女の子供達は、絶えてしまった。 ラハブ(5節a)は本来、滅ぼされるべきカナンの女だったのに、神の民にあこがれていた。天から彼女の志を見ておられた神は、二人の斥候を彼女の家に遣わし、その内の一人が、後に夫になるサルモンだった。彼女はイスラエルの神こそ神であると告白し、命がけで彼らを守った故に、彼女とその家族は救われ、栄光の家系へと加えられた。 ルツ(5節b)も本来、イスラエルに入れるはずもないモアブの女だったが、彼女もイスラエルの神にあこがれを持って、神の民へと「割り込んで」来た。ルツ記最後の「ペレツの系図」の意味は、「割って入る者の歴史」「裂け目から侵入して来た一族」であった。
以上のように、何としても神の国に入りたいと願って割り込む事こそ、私達・信仰者の本質である。主は全人類一人一人の思いを読んでおられ、その心が主と全く一つになっている人に、救いを現して下さるのだ。
系図から除外されてしまった人達は、主の言葉に逆らって主を捨てた者達であるが、系図に載っている王達の中には、除外されてしまった者達より、はるかに性質の悪い王達の名もある。そのような王達が続いた後、バビロン捕囚となり、それ以降、王権は剥奪されてしまった。小悪党は、名前さえ連ねてもらえず、大悪党は、「呪いの代名詞」として記録されてしまったのだ。しかし、たとえどんな「大悪党」の子孫であったとしても、主に聞き従う世代以降は、イエス・キリストを生み出す家系に戻してもらえる所に、主の恵みがある。
『アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である』(17節) 「十四」はヘブライ語ゲマトリアではダビデの数字で、ダビデの名の意味は「愛された者」である。つまり主は、アブラハムからダビデの時代も、主に反逆し続けた王達の時代も、バビロン捕囚の暗黒の時代も、主の民をずっと愛し続けておられたのだ。
系図の中の何人かは、名前しかわからず、どんな人生を経験し、どんな時代のドラマを生きたのかも分からない。しかし彼らは、それぞれの時代、信仰によって結婚し、信仰によって子を産み、信仰の子育てをし、そうして子から孫へと信仰を継承して来た。どんな時代であっても、信仰を継承する事こそ最も偉大な事である。信仰の先人達のように、積極的に主に求め、信仰によって生きる家にこそ、主は訪れて下さるのだ。
主は今まで、主を待ち望む者たちや、主の御旨を行う者達を通して、歴史に介入し、歴史が動いてきた。
そして、主を待ち望む家系の末裔に、イエス様は来て下さった。今、私達は、信仰が無い人々の中、地震や疫病など、諸々の艱難の時代の中を生かされている。しかし、この時代の中でも、信仰の先人たちのように、信仰によって生きるなら、主は来て下さる。 彼らにならい、聖なるプライドを持ち続け、邪悪なこの世代に対して聖さと高貴さをもって勝利し、私達も、あの栄光の系図、『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図』に連なって、「〇〇は、信仰によって2021年を高貴にふるまった」と、天の書物に書き記され、栄光の冠を勝ち取っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!