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主日礼拝
神様が最もお喜びになる年とするために(ルカ4:16-21)
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週報/メッセージ(説教)概要
主の恵み(デクトス)の年を告げる…。今回の御言葉は、2022年開始と同時に行われた新年礼拝で示された御言葉である。「恵み」と訳されたデクトスの意味は、聖書によく登場する「恵み(カリス:優しさ、思いやり)」とは違った意味で、「快く受け入れられる」「気に入る」「歓迎される」、といった意味がある。つまりデクトスの年とは、「神様が最もお喜びになる年」、「最も適切な年」という意味だ。神様が最もお喜びになる年を、告げ知らせる事…。それが、イエス様の役割であり、油注がれた主の働き人の役割でもある。なぜなら、今回の引用元の聖句であるイザヤ61:3には、「彼らは」義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれる、と書いてある。「彼ら」、と、複数形で書かれてあるからには、その役割をするのは、イエス様お一人の専売特許ではなく、聖霊の油が注がれた私達も、デクトスの年、恵みの年を告げる働き人となって行く、という事だ。
デクトスの年、つまり神様が最もお喜びになる年とは、どういう年か。その内訳が18節に書いてある。
「1,貧しい人々に福音を伝える」、「2,捕われ人には赦免を告げ知らせる」、「3,心の傷める者を癒やす(多くの訳で省かれているが原典に存在)。」、「4,盲人に目の開かれる事を告げる」、「5,虐げられている人々を自由にする」。これらを、私達が為す時、主の最も喜ばれる年、受け入れられる年になる。
主は、願っておられる。私達が、たましいに幸いを得ているように、全ての点でも幸いを得、また健康であるように、と。だからまず私達自身が、1,福音によって富んだ者となり、2,捕われ状態が赦免され、3,心の傷が癒やされ、4,霊的盲目状態から解放され、5,虐げられている状態から自由になる必要がある。
そうなるためには、イエス様が十字架上で宣言された言葉、「完了した」を適用するのだ(ヨハネ19:30)。
私達は、イエス様が十字架で「完了した」を宣言された時、一緒に「死んだ」のであり、真理の上では、罪の借金も、呪われるべき負債も、全て「支払い済み」「完了済み」となった。そう「仕分け」するべきである。
『このように、あなた方自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である事を、「認む(ロギゾマイ:仕分けする)」べきである。』(ローマ6:11) 私達はその真理を宣言するのだ。
1,貧しさは完了し、イエス様にあって、富んだ自分が始まった! 2,捕われ状態は完了し、赦免を受けた!
3,心の傷は完了し、癒やされ、健やかになった! 4,見えなかった状態は完了し、見えるようになった!
5,虐げられ状態は、完了し、自由になった! これらを、十字架上で主イエスが完了したと「仕分け」し、その前提で生きて行くなら、それらは有効化され、実体化され、恵みの年が、効力を得て、始動するのである。
引用元のイザヤ61:2には、「主の恵みの年」に加えて、「神の復讐の日を告げ」る事が書いてある。復讐とは、何への復讐か。それは、1,貧しくさせられた事に対する復讐であり、2,捕われ状態だった日々に対して 3,心に傷を負わされた事に対して 4,盲目にさせられていた事に対して 5,虐げられてきた年月に対しての復讐で、つまり全て、悪魔サタンに対する報復である。 エジプトで430年も奴隷とされていたイスラエルの民が、きっちり430年分の報復として金銀宝石を要求して、それらを携えてエジプトから出たように、私達もきっちり、イエスの御名によってサタンから搾り取った上で、奴隷状態から脱出して行くのだ。
イエス様は言われた。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:21) 英語KJVでは、This day is this scripture fulfilled in your ears. すなわち、「今日は、この御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」となる。主のことばは「in your ears:耳の内側」で成就する。つまり、耳で聞いただけではだめで、耳のさらに内側、心の中に入り、御言葉を信仰によって自分自身と混ぜ合わせた時、成就する。
ところが、この良き知らせである福音を聞いても、実体化しない人は、確かにいる。事実、イエス様からこの「恵みの年」の宣言を聞いたナザレの人々は、それを信じなかったばかりか、イエス様を崖から突き落とそうとした。なぜだろう。それは、彼らが聞いた御言葉を、信仰によって結び付けなかったからだ。『彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。』(永井訳 ヘブル4:2)
聞いた御言葉を、信じて服従するなら、安息に入る。しかし、出エジプトした民の大部分のように、聞いても信じず、頑なに御声を退けるなら、安息に入れずに、滅んでしまう。 安息日の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る(ヘブル4:10)。信じて、神の安息に入り、主の恵みの年を成就させ、栄光の働き人となっていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
酸い人生から甘い実りを結ばせる人生へ(イザヤ5:1-7)
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酸い人生から甘い実りを結ばせる人生へ(イザヤ5:1-7)
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主日礼拝
全ての面で豊かで健康であれという祝福の挨拶(3ヨハネの手紙2節)
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週報/メッセージ(説教)概要
新年おめでとうございます!御言葉を聞いて信じた皆様の生活に、主の恵みの年が実現しますように!
今年より、月初めのメッセージ箇所は、お配りしたカレンダー聖句のその月の箇所から養いをいただく事となった。今月の箇所は、第三ヨハネの手紙2節である。『愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべての事に恵まれ、また健やかであるようにと、わたしは祈っている。』
ヨハネは、1節の挨拶で「愛している(アガペートス)」、「親愛なる(アガパオー)」と、2回も「愛する」という言葉を用いた。2節も、「愛する者よ(アガペートス)」と呼びかけている。アガペーは無償の、完全な、捧げ尽くす「愛」で、昔日本に来た宣教師は、これに該当する日本語が中々見つからず、「ご大切」と訳した。
今年最初の主日である今日、私達は、聖徒同士の交わりの中に、また互いの挨拶の中で、真っ先に、「ご大切」を込めるべき事が示されている。裏表のない、相手を大切に思う愛で、互いに関わるべきだ。
そして今回の御言葉で、ヨハネが、愛する聖徒に「こうなってほしい」と願い、2回も用いた動詞は「ユーオドー」である。その意味は、「道が開ける」「順調である」「繁盛する」「成功する」で、もう一つ、彼が願った動詞は、「健康である(フギアイノー)」、意味は、「健康で、健全である」、「適切である」事だ。
ヨハネは、聖徒の「魂(プシュケー:思い、意思、感情)」がいつも満ち足りているのと同様に、あなたが全ての面においてもそうでありますように、と願ったが、クリスチャンが安定した信仰生活を送っていくなら、当然のように、「内面」は恵まれ繁栄して行く。しかし、「内面」が健やかでも、「外面」が不健全だったり、貧乏だったり、というのは、願わしくない状態で、キリスト者は、その状態を受け入れたままであってはならない。
もし私達が、何度も同じ罪を犯してしまったり、同じ失敗を何度も繰り返してしまう、といった「くせ」があるなら、「自分はそういうキャラだから」とか「衰えたから」などと言い訳したり、納得して受け入れてはならない。
そのような不健全な「くせ」は、叱りつけ、私達の中から追い出すべきである。
私達キリスト者は、不信仰や不従順など、御言葉に反する”死”がはびこる時、いのちの御言葉で上塗りしなくてはならない。また、そのような「くせ」を持った人が、強く主張したからといって、それに合わせてもいけない。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」のは、不信仰な者と共に信仰を捨てる事ではないし、臆病な者と一緒に臆病になる事でもない。もしヨシュアやカレブが、臆病な者が強く主張したからといって、一緒に臆病になっていたら、約束の地に入れなかった。私達はむしろ、真理で偽りを上書きし、健全な御言葉で不健全さを上書きし、神の無限な豊かさでもって貧乏を豊かさへ上書きして行くべきなのだ。
キリスト者は本来、何についても「ユーオドー」、すなわち道がひらけ、順調で、成功して、然るべきである。
なぜなら、圧政的に支配する悪を、神の民が支配権を奪還し、神の国を広げなくてはならないからだ。
この「ユーオドー」の内容は、新年礼拝の祝祷の後に捧げられた「ヤコブの祝福」という賛美と、まさに一致している。これは、ヤコブがヨセフに与えた祝福(創世記49:22-26)が元で、互いに祝福し合う賛美である。
「どうかあなたが、主の若枝のように垣根を越え、限界を超え、支配領域を広げていきますように。」
「どうか、御父の約束どおり、全ての面で押し入れ、揺すり入れして与えられ、満ち溢れますように。」
「あなたは激しい嵐にも、主の力で勝つ事ができます。」「アルファでオメガなる主が、あならの盾・やぐらです。」「あなたは神の人、選ばれた神の民です。」「わたしはあなたのために、主に祈ります。行く手に幸あれと。」「あなたは神の者、愛らしい若枝です。御胸に従って豊かに花咲く、枝となりますように・・・。」
私達は、この賛美のように、互いのために、神の国を広げる道が、開かれ、成功し、順調に繁盛して行くよう、互いに祝福のあいさつをし合うべきである。聖徒の交わりの中ではもちろん、親子関係や、夫婦関係、職場の関係においても。ボアズがききんの時代、有力者として地位が上がって行ったのは、麦畑という「職場」で、祝福のあいさつを交わしていたからだ(ルツ記2:4)。祝福のあいさつをせず、立てあげる言葉ではなく破壊する言葉、分裂する言葉で、互いにあいさつしあっているなら、互いの間で滅ぼされてしまう。
今年、私達はますます愛(アガペー)をもって祝福のあいさつをし、貧乏や不健全さは、「ユーオドー(道を開く、順調である、繁盛する、成功する)」で上塗りし、内面のみならず、外面においても、あらゆる面においても健全で健康となって行くこの年の皆様でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ニューイヤーズ・イブ礼拝
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さあ、再建の仕事に取り掛かろう(ネヘミヤ2:17-20)
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詩篇講解説教
神の民による永遠の賛美(詩篇89:1-18)
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詩篇89篇表題:エズラびとエタンのマスキールの歌
この詩篇の作者はエタンで、彼は、前章の作者・ヘマンと同じく、ソロモンと比べられる程の知恵者で(1列王記4:31)、また、聖歌隊指導者の1人として記されている。(1歴代誌15:19)
エタンの名の意味は、「永遠の」「恒久的な」で、その名前どおり、彼はこの詩篇において、永遠的に主の栄光をあらわしている。
この詩篇では、特に、神様がダビデと結んで下さった契約において示された主の恵みと真実を賛美している。
エタンはまず、1-2節において、彼の信仰を告白し、宣言した。
詩篇89:1 主よ、わたしはとこしえにあなたのいつくしみを歌い、わたしの口をもってあなたのまことを/よろずよに告げ知らせます。
詩篇89:2 あなたのいつくしみはとこしえに堅く立ち、あなたのまことは天のように/ゆるぐことはありません。
いつくしみ(ヘセド)は「恵み」、まこと(エムナー)は「真実」とも訳されるが、それらキーワードがこの詩篇で繰り返され、神様の恵みと真実が強調されている。
詩篇89:3 あなたは言われました、「わたしはわたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓った、
詩篇89:4 『わたしはあなたの子孫をとこしえに堅くし、あなたの王座を建てて、よろずよに至らせる』」。〔セラ
ここは、2サムエル記7章にて主がダビデと結ばれた契約を指している。
主はダビデに、「あなたの子孫(単数形)」をとこしえに堅くし、王座を建てて、よろずよに至らせる、と約束された。
その、ダビデから出る「単数形の」子孫は、私達の救い主イエス・キリストである。
私達はなぜ、エタンが言ったごとく、「永遠に」主を賛美できるのか。
それは、ダビデの子孫として来られたイエス・キリストの、十字架の贖いのゆえである。
イエス様が、私達の身代わりとなって処罰を受け、私達のいのちを買い戻して下さった。
それを信じる者は、聖別され、永遠のいのちが与えられる。
それゆえに、私達・聖徒は、とこしえに主を褒め称えるのである。
5節以降には、主が為して下さったくすしいわざへの賛美が捧げられている。
詩篇89:5 主よ、もろもろの天/にあなたのくすしきみわざをほめたたえさせ、聖なる者のつどいで、あなたのまことをほめたたえさせてください。
そう、天は、主を賛美しているのだ。
太陽も、月も、星々も。
そして、御使いたちも。
そして、地においては、「聖なる者のつどい(直訳:聖なる集会)」の中で、賛美が捧げられている。
聖徒の集会における賛美は、天における御使い達の賛美に匹敵する、すばらしい体験なのである。
詩篇89:6 大空のうちに、だれか主と並ぶものがあるでしょうか。神の子らのうちに、だれか主のような者があるでしょうか。
詩篇89:7 主は聖なる者の会議において恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって/大いなる恐るべき者です。
詩篇89:8 万軍の神、主よ、主よ、だれかあなたのように/大能のある者があるでしょうか。あなたのまことは、あなたをめぐっています。
そう、天でも、地でも、私達の主に、比べうるものはいない。
啓示録においても記されている。
天の御使いが、こぞって賛美する、のみならず、天と地と、地の下と、海の上の、あらゆる造られたものが、さらに、その中に生息している全生物が、賛美するのだ。
黙示録5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
この、天的な賛美においては、父なる神と、ほふられた小羊とに、賛美が向けられている。
神の小羊キリストが、その十字架の血潮をもって、全被造物を贖って下さったからである。
9-13節においては、被造物に見られる主のみわざの栄光が、賛美されている.
詩篇89:9 あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められます。
詩篇89:10 あなたはラハブを、殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある腕をもって散らされました。
ラハブは、前章でも見たように、エジプトを象徴的に表している。
エジプトは、神の民イスラエルを束縛し、奴隷化し、虐げた。
しかし主が、それを打ち砕き、神の民を解放して下さった。
同じように主は、神の民である私達キリスト者を束縛し、奴隷化し、虐げるような、あらゆる勢力を打ち砕き、そこから解放して下さる。
詩篇89:11 もろもろの天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、世界とその中にあるものとは/あなたがその基をおかれたものです。
詩篇89:12 北と南はあなたがこれを造られました。タボルとヘルモンは、み名を喜び歌います。
詩篇89:13 あなたは大能の腕をもたれます。あなたの手は強く、あなたの右の手は高く、
ここに、2つの山がでてくる。
1つ目のタボル山は、いわゆる変貌山と呼ばれる山で、また、アブラハムが戦争で勝利した際、メルキゼデクが彼に現れ、アブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げた山である。
現在、メルキゼデクの記念碑と、イエス様の変貌記念教会がある。
2つ目のヘルモン山は、豊かに水をもたらす山としてよく聖書に出てくる。
2000m級の非常に高い山々で、サタンはイエス様をそこに連れて行って、全ての国々の栄光を見せた所(マタイ4章)、また、人間を捕獲し、バベルの塔を建てた、ニムロデの城が発掘されている。
しかし主は、悪い者に高慢な事に用いられた所であっても、変わらず、力ある御腕を現して下さる(13節)。
詩篇89:14 義と公平はあなたのみくらの基、いつくしみと、まことはあなたの前に行きます。
義(ツェデク)と公正(ミシュパート)は、主のご性質である。
しかし、私達・罪ある人間は、義と公正なる主の前に立てない。
しかし、主が「恵みとまこと」(ヘセドとエメス)を先立せて下さった。
それで私達は、おりにかなった助けをいただくために、大胆に御前に進み出る事ができるのだ。
15-18節には、主を賛美する民の幸いが語られている。
詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、
詩篇89:16 ひねもす、み名によって喜び、あなたの義をほめたたえます。
「主の御顔の光」は、主の恵みと平安の祝福である。(民数記6:21-27)
主を賛美する民は、その祝福の中を歩む。
詩篇89:17 あなたは彼らの力の栄光だからです。われらの角はあなたの恵みによって/高くあげられるでしょう。
詩篇89:18 われらの盾は主に属し、われらの王はイスラエルの聖者に属します。
主のご恩寵によって、私たちの角(力と勢いの象徴)が、高く上げられる。
そして、ダビデもよく言っているように、主が、私達・主の民の「盾」となって下さるから、私達は守られる。
それゆえ私達も、とこしえに、主を賛美するのである。
主日礼拝
ヨセフの模範にならって(創世記50:15-21)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年最後の主日礼拝となった。今年も変わらずコロナの脅威が厳然として存在し、また最近は、ごく普通にしていた人が突然、無差別テロのような事件を起こす事も増えて、荒んだ時代が継続している。人の心に怒りや妬み、恐れなどの負の感情が鬱積して来ると、ある人は事件という形で、ある人は事件にはならない形で発散させ、その周りは荒んだ雰囲気となり、恐れや不安、絶望のサイクルを引き起こさせて行く。
ヨセフの兄たちは、妬み・憎しみに燃えて、弟ヨセフを奴隷として売るという「事件」を起こし、ポテファルの妻も、彼に無実の罪を着せて、彼を獄屋に入れてしまった。しかし、彼の主であり、私達の信頼する主は、人の闇や時代の闇がいかに深くても、それら全部をひっくり返して「益」に変えて下さる力強いお方である。
ヨセフは、悪に対して悪で報いず、かえって善をもって対応したゆえに、神は彼の為す事全てを成功させ、むしろ彼を、エジプトの総理大臣にされた。ヨセフは、その主から託された権威を、復讐する事に用いず、また莫大な富を自分のために用いず、むしろ、神様から与えられた「役割」を忠実に果たすためにそれらを用いて、神の民・イスラエルを大民族へと、そして国家へと成長させるための、土台づくりを整えた。
かつて、妬みに燃えてヨセフを売り飛ばした兄たちは、ずっと後悔や恐れに苛まれて生きてきた事が、今回の箇所から分かる。彼らは、父ヤコブが死んだ時、ヨセフに、父の遺言だと言って、ヨセフに赦しを願い出たが、ヨセフはそれを聞いて、泣いた。ヨセフはもう、とうの昔に、主から慰めをいただいて、兄達から受けた仕打ちも、主が忘れさせて下さっており、十分祝福され、癒やされた。なのに、兄達はずっと、17歳だった時のヨセフにしてしまった事を、ずっと後悔し、悩まされ続け、恐れ続けて来たのだと、知ったから。
そういうわけで、私達も、ヨセフの性質を身につけるべきであり、また、かの兄たちのように、瞬間的な妬みや怒りをぶちまけるような性質や行動を、捨て去るべきなのだ。私達も、主の前に日々、誠実を養って生きるなら、心の傷や、経済の傷などは、全て主が癒やし、忘れさせ、むしろ主が引き上げて下さるのだから。
私達は今年から、不正や悪を行う者に腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養ったヨセフの模範にならう宣言し続けて来たが、昨年の今頃と比べて前進はあっただろうか?続けてきた聖徒達には、大いにあった。
ヨセフは兄達に、やさしく語りかけた。『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(創世記50:20)
ハシャブは「織り込む、染み込む」の意味、レトバー(トーブ)は「パーフェクト、ビューティフル、グッド」である。私達の主は、人のした悪をさえ、パーフェクト、ビューティフル、グッドに変えて下さるのだ!だから私達も、ヨセフのような性質を身につけ、主に用いられる「器」となる必要がある。主はいつの時代も、人という「器」を通して、時代に介入されて来たからだ。今、私達に悪を企んで立ち向かって来るものが多い時代だ。
コロナという悪意、人の心を荒ませる悪意など。それは、時代(アイオーン)に働く、空中の権威を持つ支配者・サタンが仕掛けて来るもので(エペソ2:1-7)、その悪意に侵食されてしまった”犠牲者”が、諸々の事件を起こしている。 パウロは言っている。私達が格闘するべき相手は、血肉を持った人ではなく、主権、力、この暗闇の世界(アイオーン)の支配者達、また天にいる諸々の悪霊に対するものだ、と(エペソ6:12)。
そのために霊的な武具を身に着け、絶えず目をさまし、忍耐しつつ御霊によって祈りなさい、と命じている。
私達は日々、真理の宣言によってそれをしているなら、守られ、祈りが聞かれ、開かれないように見える道も、次々と開かれて行くのである。主は、願っておられる。主が時代に介入できる「器たち」の現れを。
私達は今年、大きな事に用いられた主の「器」を、幾人か学んできた。ヨセフ、ヨシュア、クロス王、ロックフェラーなど。彼ら全員に共通していた事は、主から示された御言葉をそのまま実行した事、また、主から託された大きな権力や富を、我がものとはせず、ただ神の国の拡大のために用いた事である。今、この荒んだ時代を変革するために、主が用いられる器とは、彼らのように、御言葉に従順な人であり、神から富や権力が託されても、それを私有化し占有せず、神の国の実現のために用いる、心の整えられた人である。
私達はますます、主に用いられるべき器を目指そう。たとえ世界に、悪事をたくらむ人がさらに多くなったとしても、それら全部を、トーブに変えさせて下さる主に用いられ、来る年も、神の国の拡大のために大いに活躍して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!