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あなたの拠り所はどこですか?(詩篇18:30-34) 早天祈祷会 2026年1月23日(Fri)
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- pastor 2026-1-23 15:00
あなたの拠り所はどこですか?(詩篇18:30-34) 早天祈祷会 2026年1月23日(Fri)
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【概要】
人生の岐路に立って心が揺らぐ時、どこに身を寄せますか? ダビデは幾度も死の淵から救われた後、力強く叫びました。 「主こそ我が盾、我が岩、我が砦!」 私達もいかに弱くても、主はあなたの道を完全にし、力を帯びさせ、敵から守り、揺るぎない安全へと導く。 この驚くべき真実が、あなたのものとなるには?
【聖書箇所】
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詩篇18:30-34
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詩篇18:1-3
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箴言18:10
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創世記15章(アブラムへの宣言)
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創世記17章(アブラハムへの宣言)
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マタイ7章(山上の垂訓)
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マタイ16章(教会の土台)
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2コリント12章(主の恵みと力)
【励ましの言葉】
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主はすべて身を避ける者の盾となってくださいます
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主が私たちの道を完全にしてくださいます
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主は私たちの足を鹿のようにし、高いところに立たせてくださいます
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主は私たちの腕を鍛え、青銅の弓をも引けるようにしてくださいます
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主の力は弱さの中で完全に現れます
【勧めの言葉】
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主を個人的な避け所、盾として宣言しましょう
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自分が完全になってから神に近づくのではなく、まず神に逃げ込みましょう
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主と共に歩み続けましょう
【AIによる文字起こし】
今日恵みをいただく御言葉は詩篇18編です。詩篇18編30節から34節、まず30節から32節を一緒に宣言しましょう。
詩篇18:30-32
「神、その道は完全。主の御言葉は純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかに誰が神であろうか。私たちの神を除いて、誰が岩であろうか。この神こそ私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる」
アーメン、ハレルヤ。まことに主よ、あなたこそ我が盾、我が岩、我が櫓、我が砦、主よ、あなたこそ私たちの避け所です。その主にあって、私たちは決して揺らぐことがないことを感謝いたします。聖書時代の先人たちにならい、私たちも今この時代において、主を避け所とし、決して揺るがされることのない安全に預かる私たちとならせてください。
ハレルヤ、シャローン。主の平安が皆さんのうちにありますように。主が皆さんの避け所となってくださるのであるならば、皆さんは平安、シャロームですね。皆さん自身、生身の体で戦いの前線に立つ時は不安かもしれませんが、しかし主が盾であるということが、今日の箇所において書いてありますね。主はすべて彼に身を避けるものの盾です。
今、皆さんはどんな場所に立っているでしょうか。人生の中でどんな分かれ道に皆さん今立っているでしょうか。そこは安心できるところでしょうか。それとも足元が揺れるような、そういう不安を抱えているでしょうか。
この詩篇の18篇は、ダビデが、今週月曜からずっとダビデとゴリアテの戦いについて話してきましたけれども、このダビデがすべての命の危険から救い出された後に歌った賛美ですね。彼の人生には、何度も何度も危険な状況が訪れましたね。もう明日は命がない、そういう危険な日々が何日も続きましたけれども、何日も守られ続けていきました。特に18篇はサウルに追われて、それでサウルから救われた時に歌った賛美と書いてあるんですけども、サウルに追いかけ回されて、もう逃げるしかないんですね。
敵がゴリアテであったり、ペリシテ人であったら戦って相手を打ち負かすということができますが、なにしろ相手が、油注がれた主から油注がれた王であるとなると、もう主を襲うことをダビデとしては逃げるしかないんですね。もうただ逃げて逃げて、追い詰められて、もうダメだと思った。その時、彼はいつも神様に呼び求めて主を避け所としました。人生に危険が迫りくるたびに、主に助けを求める、主に叫ぶ。これがダビデのこの日頃の嗜みだったんですね。
この18編の1節から3節も、皆さんと一緒に宣言したいと思います。
詩篇18:1-3
「主、我が力、私はあなたを慕います。主は我が岩、我が砦、我が救い主、身を避ける我が岩、我が神、我が盾、我が救いの角、我が櫓、褒め称えられる方。この主を呼び求めると、私は敵から救われる」
アーメン、もうこのダビデほどですね、主を私の相続地、主が私の相続財産、主が私のご褒美ですね。この「わが、わが、わが」って、もう何度も何回あるでしょうね。ちょっと数えてないんですけども、本当に何度もですね、主は私のなんとか、主は私のなんとか、本当に個人的な関係、交わりをダビデは何度も何度も宣言しておりますね。
主は我が力、主は我が岩。本当にこの岩、決して揺るがされることない盤石の岩、大きな岩の上において、決して私は揺るがされることがない。主は我が砦、我が救い主。本当にここまで主が私にこんなにも関係するお方なんだ、こんなにも主は私の主なんだということの、この宣言告白、これがダビデを偉大にした源です。
皆さん、偉大になるとするならば、主を皆さんのプライベートな岩、プライベートな自分の助け、救い主、そういうふうに宣言してください。主がここまで語ってくるダビデに対して、ここまで語ってくる皆さんに対して変わらないはずがないんですね。なぜなら皆さんはイエス・キリストにあって主に近いものとされたからです。このイエス・キリストこそが皆さんの救いです。神と人との間の仲保者イエス・キリストにあって、私たちは大胆に時にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるんです。
アーメン、ダビデはいつも自分の強さでなく、神様の強さを誇りました。30節において「神、その道は完全。主の御言葉は純粋。主はすべて彼に身を避けるものの盾」とありますね。
盾。神様はアブラムにも宣言しましたね。「私はあなたの盾である。私こそがあなたにとっての大いなる報酬である」って宣言しましたね。ダビデ自身も告白しました。主はすべて彼に身を避けるものの盾である。
盾、これは攻撃のための道具ではありませんね。身を隠すための、身を守るためのものです。矢が飛んでくる時、剣が迫ってくる時、この盾を構えて盾の後ろに隠れるならば、ただ守られます。自分を前にさらしません。盾を前に進めて、自分は前に進みません。自分は盾の後ろにあるものです。
だから皆さんが、主を置いてけぼりにして、さっさと先に行くとするならば、盾なしで戦うようなものです。ひとたまりもありません。だから主は我が盾なんですね。ダビデは告白しましたし、主はアブラムにも宣言しました。「私があなたの盾である」と。本当にこの主こそが私たちにとっての盾であり、岩であり、私を救い出す方である。
この主に、主の御名がね、堅固な櫓、正しいものはそこに走り込み、救われると箴言の18章10節にも書いてあります。
箴言18:10
「主こそが堅固な櫓、正しいものはそこに走り込んで、そして救われる」
主がシェルターですね。核シェルターってありますね。核爆弾が落ちたら核シェルターに逃げ込むように、何かあるたびに主のもとに走り込んで逃げ込む。それならば、そこが堅固な櫓となって、皆さんは安全なんです。
また31節、宣言しますけども、
詩篇18:31
「まことに、主のほかに誰が神であろうか、私たちの神を除いて、誰が岩であろうか」
アーメン。「誰が、誰が」というふうに続きますね。もうですからダビデは、ここで他にはいないって。他に神はいない、他に岩はいない。
岩、堅固な岩、守られる岩。本当に周りにはたくさんの神々というものが呼ばれるものがありますね。神と呼んではいないけれども、お金だとか、この何かだとか、そうした神様以上になんか自分の守りにしている、それを神と、まあいわば神と言っております。このような周りにはたくさんの神々がいるんですけども、けれども誰が岩となってくださるお方か。神様、ただお一人だけだ。主だけです。そういうふうにダビデは言っております。
主こそ岩。岩は決して動きません。揺るがされません。感情で揺るがされたり、状況で崩されたりということは一切ないのが岩ですね。
このイエス様も同じことを言っておられます。「私の言葉を聞いて、それを守り行うものは、岩の上に建てた人に似ている」。あの山上の垂訓で言っていましたね。そしてまたイエス様は言われましたね。「あなたはペトロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」。
アーメン、アーメン。教会はハデスの門を打ち破る存在ですね。祈りの中において、昨日の夜も祈りましたね。ハデスの門も打ち破る力があるのが皆さん、教会、エクレシア、皆さんお一人お一人です。ハデスの門よりも強いんです。教会は、このイエス・キリストを救い主として告白した、その上に今、教会を建てる、と言いました、イエス様は。
だからこのイエスこそ生ける神の御子キリストですというこの告白の土台の上に立つ者は決して揺るがされることなく、ハデスさえも揺るがすことができないんです。アーメン。
このダビデはさらに続けるんですけども、
詩篇18:32
「この神こそ私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる」
アーメン。ここでダビデは、主が自分の道を完全にされると告白しました。ダビデが告白した順番、これ注目してください。自分自身が整えられたら、神様に近づけるんではないんですね。自分が完全になったら、ようやく神様が認めてくださるんじゃないんですね。逆です。
神様が皆さんの道を完全にされる。神様が皆さんに力を帯びさせてくださる。ですから、自分が整ってから神に近づくんではないんです。神様に身を避けた時、神様が皆さんを完全にされるんです。神様に皆さんが身を避けた時、神様が道を整えてくださるんです。この順番、気をつけるべきですね。
まず神様に逃げ込む。まず神様により頼む。神様を盾とするならば、神様が皆さんを完全にし、道を完全な道を歩ませてくださるんです。
主はアブラハムにも仰せられましたね。冒頭で宣言したんですけども、アブラハムが99歳になった時、主が彼に現れて言われたのは、「私は全能の神エル・シャダイである。あなたは私の前を歩み、完全なものとなりなさい」。
完全なものとなるためには、主と共に歩むこと。一歩一歩主と共に歩んでいくのであるならば、皆さんは徐々に徐々に完全なものへと完全なものへと近づいていくんです。なぜなら主はエル・シャダイ、全能の神だから、何でもできるから。だから、この神により頼む皆さんが共に歩むのであるならば、完全なものになるんです。皆さんお一人では決してなれません。主と共に歩んでこそ、完全なものになっていくんです。アーメン。
ただ、ダビデはこの「神こそ私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる」と言いましたし、そしてアブラムに対しても主は、「私は全能の神である。あなたは私の前を歩み、全きものであれ、完全なものであれ」と言われました。
さらにダビデは言うんですね。33節を一緒に宣言します。
詩篇18:33
「彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高いところに立たせてくださる」
アーメン。足を鍛えてくださり、雌鹿のようにしてくださる。雌鹿は岩場を飛び跳ねるように高いところに行くことができますね。敵はなかなかそういうところには行けません。この岩の上、高いところ、見晴らしが良くて、また多くの物事が見える場所、そして安全な場所です。
私たちも同じです。何か問題が消えなくても、敵を打ち負かせない時でも、主は立つ場所を変えてくださる力を与えてくださるんです。雌鹿の足、岩場の上に立たせてくださる、そのような力、神様が雌鹿のような力を与えてくださる。何も敵と真正面から戦うべき時ではないような時は、主は雌鹿の足を与えてくださるんですね。
立つ場所を変える力が与えられます。今この方法でもなかなか物事が進まないという時は、雌鹿の足を与えてくださって、立つ場所をもっと高いところへと行く力を与えてくださるんですね。
そして主は徐々に私たちを鍛えてくださり、敵を打ち負かす力をも主は私たちに備えさせてくださるんですね。続く34節に書いてあります。
詩篇18:34
「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を、青銅の弓をも引けるようにされる」
アーメン。もう青銅の弓なんて、まあ普通の人はなかなか引けるもんではないですね。けれども、主が鍛えさせてくださると書いてあります。
主は、ただ単に雌鹿の足で逃げさせて終わりではありません。主は鍛えさせてくださり、そして守ってくださり、守りの後には、攻める力、敵を打ち負かす力、青銅の弓でもうバーンと敵を打ち負かす力をも備えさせてくださる。そして私たちのこの敵に勝利する術を、力を、手の力、足の力を持って、主は備えてくださるんです。
主は言われます。2コリント12章において、「皆さんがたとえ弱かったとしても、私の恵みはあなたにとって十分である。私の力は弱さの中で完全に現れる」。
アーメン、ですから、たとえ皆さんが弱いとしても、力強い主が皆さんを救ってくださり、また皆さんを徐々に鍛え、青銅の弓をも引ける、そういう力をも備えてくださるお方です。
【結論】
主こそが皆さんにとっての力であり、盾です。身を避ける盾。この主の翼の影に、主という盾の内に囲まれていくうちに、皆さんはどんどん強くなっていくんです。主の翼の影、主の岩の上においては、そこは決して揺るがされない岩です。
この主こそが皆さんの足を雌鹿のようにし、また皆さんの腕を鍛えて青銅の弓をも引けるようにしてくださるお方です。主は何も強くなってから来なさいとは言いません。完全なものになってから来なさいとは言いません。「私と共に歩みなさい。私を避け所とし、私を盾とし、私と共に歩みなさい。するならば、あなたは完全なものになっていく」。主は言われました。
まことに主のほかに一体誰が神でしょうか。この主により頼み、この主を避け所とし、そして主と共に歩み、完全なものになっていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン、ハレルヤ。
愛する主よ。あなたこそ我が盾、我が岩、我が砦。あなたに信頼するものは、決して揺るがされることがないことを感謝いたします。主よ、それゆえに、今日もあなたを避け所とします。目の前の諸々の問題が、岩のごとく山のごとく、ゴリアテのごとく立ちはだかる時に、主よ、あなたこそ我が盾とし、我が避け所といたします。
主よ、あなたと共に歩むものはなんと幸いでしょうか。完全なものになっていくからです。決して敵に打ち負かされるものではなく、主がガードしてくださり、そして主にあって守られる。主にあって敵に勝利するからです。
主よ、今日またあなたと共に歩ませてください。あなたにあって進みゆくこのお一人お一人が、あなたというこの完全なガードを体験しますように。また、敵を打ち負かすために、青銅の弓をも引く力をあなたが与えてくださいますように。そして勝利する組、Victory組として、この時代、多くの若者たち、子どもたちを育み育て、主とつなげていき、またその親たちをも主とつなげていく私たち共々でありますように。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
この世界は、神のことばによって創造されました。神のことばであられるイエス・キリストは、世界を創造するほど力あるお方であり、あなたの人生を「再創造」することがおできになるお方です。
天地を創られ、宇宙を創られ、「光があれ」ということばで光を創られたお方は、あなたの人生を、光に満ちた人生へと創りなおすことができるのです。今日は、人生が再創造された人の事例を見たいと思います。
昔、イスラエルのエリコという町に、バルテマイと呼ばれる人がいました。バルテマイは彼の名前ではなく、「テマイの子」 という意味です。というのは、彼は生まれつき目が見えず、父テマイは、彼は名前を与えるにも値しない、と、名前を与えなかったからです。 成長した彼は、物乞いとして生きるしかありませんでした。
毎朝大通りに行って座り、人々から何かを恵んでもらうしかありません。多くの人が彼を見下ろして通り過ぎて行きます。馬車やらくだは、パレスチナの乾いた土を巻き上げ、時には、ふんを落として行ったでしょう。 彼自身、思ったでしょう。 自分はなぜ目が見えずに生まれついたのか…。なぜ自分は、ただ恵んでもらうだけで、恵む側にはなれないのだろう…。でも彼は自分の人生が変わるとは思えず、あきらめていました。
――ある日、彼は、ひとつの噂を耳にします。
それは、どんな人をも癒し、救うことができる、ダビデの子として来られる救い主・イエス・キリストの噂でした。彼はその噂を聞いた時、「このお方なら、癒してもらえるかもしれない」「彼に会えたなら、人生が変わるかもしれない」と思いました。 しかし、どうすればイエス様に会えるのか分かりませんでした。 そうして来る日も来る日も、大通りに行っては恵んでもらう、という変わらない日々が、厳然とただ繰り返されていました。
ある日のことです。町の空気がいつもと違うことに気づきました。――何か、喜ばしいような。何か、興奮しているような。。。 彼は、通りの人に尋ねます。すると答えが返ってきました。「ナザレのイエスがもうすぐここをお通りになる!」 その言葉を聞くやいなや、バルテマイはすぐに立ち上がって、大声で叫びました。
「ダビデの子イエスよ、どうか、私をあわれんでください!」
人々は驚き、彼を叱りつけました。「うるさい!黙れ!」「静かにしろ!」 しかし彼は、もっと大きな声で叫び続けます。 「イエスさま!私のところに来てください!」 「どうか、私をあわれんでください!」
イエス様は、彼の叫び声を聞いて、立ち止まりました。そして言われます。「あの人を呼んで来なさい」
すると黙らせようとしていた人々は、言うしかありません。「安心して立ちなさい。あなたを呼んでおられる。」
バルテマイはそれを聞くと、自分の上着――物乞いとしての着物――を投げ捨てて、
イエス様がおられると思われる方へ、手探りで一歩一歩進んで行きました。
何歩目を進んだ時でしょうか。彼は、イエス様のことばを聞きます。 「わたしに何をしてほしいのか?」
イエス様はすべてをご存じでした。目が見えないことも、名も与えられなかった人生も。長い日々の苦しみ・悩みも。それでもイエス様は、彼自身の口で語らせ、ことばでの個人的な交わりを求めておられるのです。
バルテマイは答えました。「わたしの偉大な先生、目が見えるようになることです。」
すると、イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った。」
その瞬間―― 彼の闇は、上と下に真っ二つに裂けて、人生初めての光が彼に差し込みました。
彼は、自分を救ってくださったお方が見えるようになり、天と地が見え、涙が地に落ちるのが見えました。
イエス様は、目を癒しただけではありませんでした。聖書はこう続けます。「すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」と。彼はもう、元の物乞いには戻らず、その上着は着ませんでした。
彼は単に、「目が見える普通の人」として生きるのではなく、「主に従う者」として生きる道を進んだのです。
彼は、人から恵みをいただいていた人生から、多くの人々にイエス様の恵みを証しする者へと変えられ、名前すら与えられていなかった彼を、イエス様は、永遠の書物に書き記される者へと再創造されたのです。
私達も、イエス様にあって、バルテマイのようになれます!イエス様は今も生きて働かれる神の御子です。
イエス様が、通り過ぎようとしておられる時、彼を叫び求めてください。彼は立ち止まり、尋ねられます。
「あなたは、わたしに、何をしてほしいのですか?」 この問いに、私達は、何と答えるでしょうか?
どんなに「自分は変わらない」と思えたとしても、また、闇の中で座り込んでみじめに思っていたとしても、世界を創造し、光を創られた「おことば」なるお方イエス様は、今、あなたの人生を創りなおすのです!
「ザアカイ」という名に秘められた意味と、彼が真に解放された理由とは??(ルカ19:1-10) 早天祈祷会 2026年1月16日(Fri)
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- pastor 2026-1-16 7:20
「ザアカイ」という名に秘められた意味と、彼が真に解放された理由とは??(ルカ19:1-10) 早天祈祷会 2026年1月16日(Fri)
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【概要】
取税人の頭ザアカイは、イエスがお通りになられると聞いて、ぜひ、会いたかった。 けれど、嫌われ者の自分が“救い主”に近づけるはずがない… でも、、、それでも、どうしても見たかった。 群衆に押し返され、嘲笑され、ついに彼はいちじく桑の木へ――。 その時。通り過ぎるはずのイエスが立ち止まり、見上げて告げる。 「ザアカイ…急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしてある!」 なぜ、あの方は、わたしの名を知っているのか? なぜ、名を呼ぶのか?
【聖書箇所】
ルカ19:1-10(特に19:5)
【励ましの言葉】
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イエス様は今も生きておられ、一人一人を救いたいと願っておられる
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どんな問題も、罪の問題も、イエス様にあって解放される
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イエス様は皆さんの名前を呼び、皆さんの内に留まりたいと願っておられる
-
心の中の神様にしか満たせない空白を、イエス様が満たしてくださる
【勧めの言葉】
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イエス様が通り過ぎる前に、イエス様を追いかけるべき
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イエス様の名を呼び、イエス様を求めよう
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イエス様を受け入れよう
【悔い改めの促しの言葉】
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ザアカイは過去の罪を償い、財産の半分を貧しい人に施し、騙し取ったものを4倍にして返すと宣言した
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名実ともに清いものになりたいという思いが、真の悔い改めを生む
【AIによる文字起こし】
今日、恵みをいただく御言葉は、ルカによる福音書の19章1節から10節です。はじめに、19章の5節をみんなで一緒に宣言しました。
ルカ19:5「イエスはちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしてあるから。』」
今日もイエス様は私たちのところに来てくださり、私たちの方を見てくださり、私たちの名前を呼んでくださっています。イエス様が今日も一人一人に訪問しておられることを感謝します。
御言葉の時は、セレブレーション、お祝いなんです。主イエス様をお祝いするこの時です。イエス様は今まさに生きておられます。あの聖書の時代、およそ2000年前だけにおられたお方ではなく、今まさに生きておられ、神の御子として皆さんに来て、そして皆さんお一人お一人を救いたいと願っておられます。
皆さん一人一人は救われるべき罪の問題や、また地上における生活の問題、苦難もろもろありますけれども、このイエス様に向かうのであるならば、どんな問題も、罪の問題も、また本当に自分自身の良くないところからも解放されるんです。このイエス様にあって。
今日は、ザアカイという人について見ていきたいと思います。このザアカイ、エリコという町に住んでおりました。ザアカイ、名前の意味は、清いとか潔白な、あるいは正しい、無罪のもの、義と認められたものという意味があるんです。ヘブライ語のザッカーという意味が、ザアカイというふうに、お父さんお母さんは名前をつけたんです。
幼い頃、このザアカイがまだ小さい頃は、お父さんお母さんから愛された子でしょう。「ザアカイ、あなたはそのような名前にふさわしい者に成長しなさい。清い潔白な者として、神様の御前において正しく歩んで、神様を喜ばせる者になりなさい。あなたはアブラハムの子孫なんだから、それらしく信じる者として歩みましょう」というふうに言われながら、きっと育ったことでしょう。きっとお父さんお母さんもそのように祈っていたと思うんです。
それなのにザアカイ、ティーンエイジャーになり、またお友達と遊ぶようになり、そして世の中の仕組みを徐々に理解し始めていきました。この世の中はどうも、信仰によって進むよりも、何か目の前のお金だとか力、パワーが現実なんじゃないか。ローマ帝国のその力ある様を見るに、どうも神の民としてよりもローマ帝国のそのパワーの方がもっと魅力的だと映ったんです。信仰で生きるこのイスラエル民族は何か抑圧されてるんじゃないか。むしろ力を持って圧倒する方が何か栄えてるじゃないか。
今の世の中の現実もそのような節があるかもしれません。信仰者のお父さんお母さんは子供を信仰によって育てることの難しさを覚えているかもしれません。本当に何か世の中は金が全てであるかのような、パワーが全てであるかのような、その方面にティーンエイジャーになったらどんどん傾いて、映画とか漫画とかパワーが全てであるかのような、そういう情報に溢れておりますね。
ザアカイもいつしかお父さんお母さんのその教えを捨てて、むしろ自分自身で、結局お金が全てじゃないか。だったらこのパワーがあるローマ帝国の犬と呼ばれてもいいから、とにかくこのパワーを手に入れて自分の地位を確立したいんだ。お金、生涯困らないようになりたいんだということで、ローマ帝国に属する、その税金を取り立てる者になったんです。イスラエル民族の人々からお金を取り立ててローマに納めるという仕事を行うようになりました。
人々からは、「あれは裏切り者だ、自分の魂をローマに売ったんだ、神様を捨てた者だ」というふうに散々言われる、陰口叩かれるようになっていきました。でもそれでも、彼は心に迷いを覚えつつも、そのように日々を暮らしておりました。
彼はお金持ちになっていきました。どんどん、そして取税人の頭、リーダーにもなって上り詰めたんです。でも彼は人々から「ザアカイ」と呼ばれるたびに思い起こしたかもしれません。親がつけた名前、「あなたは正しいもの、潔白なもの」。ところが今、自分がやっていることはどうだろうか。確かにお金持ちにはなった。取税人の頭、ローマ帝国にもある程度認められるようにまでなったけれども、心の中が乾いて乾いてしょうがなかったんです。
空白の部分があったんです。その空白の部分は本来、神様にしか埋められない空白なんです。皆さんにもそのような心の中に神様しか満たせない空白があります。神様と共に歩んでいる人は、いつもそこが満たされてはあるんですけれども、けれども神様から離れ、そして世の中のそういう教えに従って歩む人は、やはり心の中がいつも乾いているんです。ザアカイはいつも心の中が乾いておりました。
そして、けれども、このエリコという町の中において、ある程度の地位を築き、お金を取り立てて、そしてものには不自由しない生活をしてはいたんですけども、けれども、どこか心の中に空白を覚えていたんです。
そんなある日のことでした。このエリコの町が、何か騒がしいんです。何か興奮気味であるかのような、何か喜ばしいかのような、そういうざわざわざわざわした有様でした。これは一体どういうことなんだろうか。ザアカイはそこにいる人が、互いが話している声に聞き耳を立てたんです。「どういうことですか」って聞くことを恐れたことでしょう。自分は取税人の頭として人々から嫌われ者になっております。で、聞き耳を立ててみました。「どういうことだろう、このざわつきは」
人々が互いに言ってます。「ナザレのイエス・キリストがこの町をお通りになるぞ」「彼は、あの預言者だと言われている彼か」「彼は何でも病の人を癒し、悪霊を追い出し、また罪人を、それを清める、罪ある人を赦す権威があるお方だということだぞ」「いやいや、そうじゃない。あれはそういうふうに自称しているだけだ。神の子ではなく、あれは異端だ」
そういうふうに、人々が騒いでいる声を耳にしたんです。ザアカイもイエス様の噂は聞いておりました。そして気にかかっておりました。「彼こそメシアではないか」という救い主。救い主だとしたら私は本当に罪人の頭のようなものだ。私とは関係ないんじゃないか。でも彼は聞いていたんです。彼は本当に罪ある人のところに行って、その罪を赦す権威のあるお方、罪を清め、そして立ち返らせ、人生180度変わったよという人の噂も聞いている。
ぜひこのお方に会いたい、いや会えないにしても、こんな自分、イエス様と話を、もしメシアだとしたら、こんな自分とは程遠い存在だ、話すことはできないにしても、見ることはしたい、そういうふうに思っていたんです。
だからザアカイは、このイエス様がお通りになるという噂を、これを耳にした時、何としてでも見たかったんです。そして、そのイエス様がお通りになるというところに行ってみました。けれどもザアカイ、背が低かったんです。人々の群衆が壁のようにして立ちはだかっていて、どうしても見ることはできない。「ここでは見ることもできない。じゃああっちに行けば人が少ないだろうか」って言ってあっちに行ってみるんですけども、けれどもやはり人々がどこもかしこもいっぱいだ。ちょっとでも人が少ないところ。「ここだったら見れるだろうか」本当にジャンプしてでも見ようとしているところです。
人々は後ろを見ると「あ、ザアカイだ。こんなやつに、嫌がることをしてやろう」ということで、「お前なんかにはイエス様を見せてやらないぞ」というような感じで、「あっち行け、この汚れたもの、この異端者」、そういうふうに、イエス様のことを見ることを何としても人々は邪魔をするんです。
ザアカイは「このままではイエス様が通り過ぎてしまう。イエス様のことを見れないまま、イエス様は行ってしまう」危機感を覚えました。
皆様、イエス様が通り過ぎる前に、本当にイエス様を追いかけるべきなんです。ザアカイは追いかけたんです。そしてそこに、イチジクグワという木がそこに生えておりました。このイチジクグワは非常に葉っぱが生い茂っていて、子供でも登りやすい木で、そしてイチジクほどではないにしても、甘みを実らせる、そういう木です。
ザアカイは、ここぞとばかりその木を登り始めました。人々は何かイチジクグワの木がざわざわしているので、見上げてみたら、あの小さいザアカイが木を登っている。もう嘲笑ったことでしょう。「見ろ、あの取税人の頭がなんと木に登っているぞ。なんとみっともない」あははは、嘲笑われたことでしょう。
ザアカイは、そんな嘲笑われてもいいから、とにかくこのイエスというお方を見てみたいんだ、そういう思いで、木に登って、そしてそのお方が通り過ぎるのをじっと待ちました。
イエス様が、その一行が徐々に徐々に近づいてくるのが見えました。「あれが噂に聞くイエスというお方か」しげしげと見ました。しかもその方が、どんどんどんどん自分のところに近づいてくるんです。群衆が割れて、そのお方をお通しする。そして彼が、どんどんどんどん近づいてきて、そしてなんとそのお方はザアカイのことを見上げるんです。
そしてそのお方が言われました。「ザアカイ」
彼は胸が止まったことでしょう。自分の名前を知っているんです。そしてザアカイという意味、潔白なもの、正しいもの、清らかなものという意味です。ザアカイ。このあのお方が自分のその名前を呼びました。胸が止まりました。何と言われるんだろうか。この方、私のことを知っている。私が今までしてきたことを全部知っているに違いない。この方、やっぱり預言者だったんだ。この方はやっぱりただ者ではないんだ。何を言われるんだろうか。今までしてきたあのこととこのことが、一瞬思い浮かんで冷や汗をかいたことでしょう。
ところが、あの方はこういうふうに言うんです。
ルカ19:5「急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に留まることにしているから」
なんと。ザアカイ、名前を呼ばれて、何か罪を指摘されるんじゃないんです。「あなたの家に泊まることにしているから」ザアカイ、無罪潔白という名前の意味です。そして、私の名を呼んでくれたこの方こそ本当に救い主に違いない、この方こそまことにメシアに違いないって彼は確信したんです。
彼は罪を指摘されたのではなく、「あなたのところに留まることにしているから」とその言葉を聞いて大喜びで降りていきました。イエス様は、こんな罪人である私、罪人である皆さんのうちに宿りたいと、「今日はあなたのところに留まることにしているよ」というふうにここにいる皆さんにも語りかけます。イエス様は皆さんの中に留まりたいお方なんです。
ザアカイは本当に大喜びで、心軽やかになりました。降りていきました。けれども人々はつぶやくんです。群衆たちのなんかざわざわし出す声があまりよろしくないような感情です。「あの方は罪人のところに行って客となられた」そういうふうに群衆たちが言っております。
けれどもザアカイはこのイエス様の御前において本当に心が軽やかになりました。罪赦す権威のあるお方が自分の名前を呼んでくださって、そして私のところに留まってくださるということで、喜んで言うんです。
ザアカイはアブラハムの子孫です。そして律法を知っている人です。ザアカイは律法を思い巡らしました。自分がしてきたこと、このことを思っていたので、こういうふうに言うんです。
ルカ19:8「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また誰からでも私が騙し取ったものは4倍にして返します」
4倍にして返す。騙し取った人からは。彼は律法を知っていたんです。律法を心にかけていたんです。だからこの時にこの律法の言葉、もし悪意を持って騙す心を持って、盗み心を持って、羊を盗んだものは4倍にして償わなければならないという律法を知っていたんです。思い出したんです。
確かにザアカイはそれまでもう意図的に悪意を持って騙すつもりで人を騙し、そして人々から搾取してきました。お金に困っている人、弱い立場の人、そのような人たちからも税金を取り立てて、ローマからは100万円が税金だと言われたら、120万円が税金だと嘘ぶいて、人々から取り立て、その差分の20万を自分の懐に入れてということをずっとそれまでしてきました。だから、騙し取ったことについては4倍にして償うという、この御言葉を思い出して、そして本当にそれがパッと出たんです。
償いたい、清くなりたい、本当に名実ともにザアカイの名前にふさわしいもの、お父さんお母さんがつけてくれたこの素晴らしい名前に値するものになりたいと思ったんです。それで、そのように言ったんです。
とてもお金持ちで、なおかつ裕福だったんです。財産の半分を施してもなお、自分が騙し取った人々に4倍にして償えるだけの財力を彼は持っていたんです。彼はなんと有用な神の働き人に、これからなっていくことでしょうか。与えられている賜物、タラントを活用して、本当にこれからイエス様のためにイエス様の御用のために用いて、また困っている人々には本当に償って、そして人々には「過去私はこんな罪人だった。裏切り者だった。お父さんお母さんがこんな素晴らしい名前をつけてくれたにもかかわらず、それにふさわしくない人生を歩んできた。けれどもイエス様と出会った。イエス様は私の名前を呼んでくれた。私のところに来てくれた、私の家に宿ってくれた。そこから私の人生は転換したんだよ」というそういうふうにザアカイは人生本当に変えられていったことでしょう。
皆さんも変わることができるんです。
イエス様はザアカイに言われました。
ルカ19:9-10「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は失われた人を探して救うために来たのです」
アーメン。このイエス様は今この時代、この2026年という今も生きておられ、皆さんお一人お一人を訪ね、皆さんの家に、皆さんのうちに留まりたいと願っておられるイエス様です。
イエス様は今日もあなたに向かって歩んでいきます。皆さんも本当にこのイエス様の名を呼びましょう。イエス様を求めましょう。もしイエス様が遠く離れているとする、そういう思いのある人は、皆さんにとってのイチジクグワに上りましょう。イエス様は皆さんのところに来て、皆さんの名前を呼んで、あなたのところに今日留まりたい。イエス様を受け入れましょう。
このイエス様は、たとい、イエス様が100匹の羊を飼っているとしても、1匹が迷い出たら99匹を置いて捜し求める、そういうお方です。このイエス様に期待しましょう。イエス様をお迎えしましょう。そして救いの喜びが皆さんの内に豊かに沸き起こりますように。
【結論】
イエス様は今も生きておられ、一人一人の名前を呼び、私たちの内に留まりたいと願っておられる。ザアカイのように、たとえ過去にどんな罪を犯していたとしても、イエス様と出会い、イエス様を受け入れるなら、人生は180度変わる。イエス様は失われた人を探して救うために来られたお方である。私たちもイエス様の名を呼び、イエス様を求め、イエス様をお迎えしよう。そうすれば、救いの喜びが豊かに沸き起こる。
神にあって無駄なことは一つもない(1コリント15:58) 早天祈祷会 2026年1月15日(Thu)
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- pastor 2026-1-15 6:40
神にあって無駄なことは一つもない(1コリント15:58)
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全き者になる方法 - 霊的経営者意識(創世記17:1)
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17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。
主の約束から離れた所から正しい立ち位置へ戻るには(創世記16章5–10節)2026/01/14 水 昼礼拝
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- pastor 2026-1-14 15:10
主の約束から離れた所から正しい立ち位置へ戻るには(創世記16章5–10節)
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**「そこでサライはアブラムに言った。
『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。
私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、
彼女は自分がみごもっているのを見て、
私を見下げるようになりました。
主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』アブラムはサライに言った。
『ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。
彼女をあなたの好きなようにしなさい。』
それで、サライが彼女をいじめたので、
彼女はサライのもとから逃げ去った。」**
アブラムは、かつて主から
「恐れるな。わたしはあなたの盾。
あなたへの報酬は、はなはだ大きい」
という言葉を受け取り、
神の臨在の中で、素晴らしい体験をしました。
しかし、ひとたび、その臨在の場から離れたとき、
神の臨在を体験していない人の「リアルな言葉」に触れると、
人は簡単に、神からいただいた約束を貫き通せなくなります。
そして、
世の人のリアルに飲み込まれてしまう。
それが、今日の箇所で起きていることです。
その危険を防ぐための、非常に有効な手段がありました。
それがテフィリンです。
テフィリンとは、単なる暗記ではありません。
神様のことばが、「心の底から溢れ出るまで」そこに存在させ続けていく手段です。
せっかく神様の言葉をいただき、
素晴らしい体験をしたにもかかわらず、
神様の言葉を思いめぐらさず、
神様の素晴らしさを期待せず、
神様と交わらずにいるなら、
私たちは、いとも簡単に
世の言葉になびき、
現実の声に流され、
飲み込まれてしまいます。
そして、もし
神の民である私たちが、
世の中の方法に媚びへつらうなら、
世の中の方が、
私たちを舐め、軽んじ、
やがて支配するようになります。
アブラムの妻サライは、
世の方法に頼った結果、
惨めになってしまいました。
何年たっても妊娠しなかった自分。
ところがハガルは、一瞬でみごもった。
すると、このエジプトの女ハガルは、
エジプトの根性が燃え上がり、
女主人を見下げる態度を取り始めました。
一方、アブラムはどうだったでしょうか。
人生で初めて
「自分の子」ができたことで、
それを放置し、
正しく治めることをしませんでした。
ここに、非常に大切な学ぶべき事があります。
神の国の組織運営において、
世の人、特にエジプト流の価値観を持つ人を、
要職につけてはならない事。
そうしてしまうなら、必ず不和が起き、組織はズタズタにされ、神の国が損なわれます。
実際、このハガルの子とサラの子の問題は、
その後のイスラエルの歴史に、大きな影を落とすことになります。
サライは言いました。
「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」
自分で提案しておいて、それはないのでは?
と思うかもしれません。
しかし、最終的な責任は、
主人であるアブラムにあったのです。
サライは、次世代という一大事において、
神の方法を捨て、世の方法を選びました。
アブラムもまた、神の約束に留まらず、
正しく支配し、治めることをしませんでした。
私たちも同じです。
神の国の主人公として、神様の言葉に留まらず、世になびいてしまうなら、
それは私たち自身の責任となります。
もし、自分がその罠に陥ったと気づいたなら、
放置してはなりません。
正しい上下関係、
正しい立ち位置に戻るべきです。
アブラムはサライに権限を戻し、サライは厳しく対処しました。
それは残酷に見えるかもしれません。
しかし、本来の秩序を回復するための行為でした。
ハガルは、神の民が犯した過ちの、いわば被害者です。
もちろん、彼女自身も高慢の実を刈り取りました。
しかし、神様は、そんなハガルさえも見捨てませんでした。
身重のまま、やるせない思いで逃げていたハガルに、
主の使いが現れます。
「サライの女奴隷ハガル。
あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」
天は宣言します。
あなたはしもべだと。
するとハガルは、自分の立場を正しく認め、
自分はサライの女奴隷である事を答えました。
そのとき、主は彼女に語られます。
「あなたの子孫を、
わたしは大いに増やす。」
私たちも同じです。
与えられている立場、正しい主従関係のもとに正しく身を置くなら、
そこに祝福があります。
しかし、自分の領域を守らず、立場を越えるなら、
追い出され、闇に閉じ込められることが聖書で厳しく語られています。
今日の結論です。
私たちは、
神様から与えられた御言葉、
神様が与えてくださった約束に、
しっかりと留まるべきです。
そこを超えてはならない。
そのために有効なわざが、テフィリンです。
もし世に妥協してしまえば、人は必ず惨めになります。
万一そうなってしまったなら、放置せず、正しい立ち位置に戻りましょう。
身を低くすべきときは、身を低く。
治めるべきときは、神の国の権威をもって、正しく治める。
そこに、回復と祝福が用意されています。
世の方法に流されないために(創世記16:1-4) 2026/01/14 水 早天礼拝
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- pastor 2026-1-14 7:10
世の方法に流されないために(創世記16:1-4)
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1.約束を受け取った“その後”に起こること
創世記16章は、15章の直後に続く場面です。
アブラムは、はっきりと主のことばを受け取りました。
「恐れるな、アブラムよ。
わたしはあなたの盾。
あなたへの報酬は、はなはだ大きい。」
これは、ただのみことばではありません。
神の臨在の中で、約束を直接受け取った、非常に霊的で濃い体験でした。
けれども――
その直後に起きたことが、今日の箇所です。
2.神の臨在から離れたとき、聞こえてくる「リアルな声」
16:1
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。
彼女にはエジプト人の女奴隷ハガルがいた。
16:2
サライはアブラムに言った。
「どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。」
ここで語られている言葉は、
一見すると「現実的で」「合理的で」「責任感がある」ように見えます。
しかし、この言葉には
神との交わりから生まれた重みがありません。
神の臨在を体験していない人の
「世の中ではこうする」というリアルな声です。
そして、人は一度でも神の臨在の場から離れると、
驚くほど簡単に、
その世のリアルに飲み込まれてしまうのです。
信仰の父アブラハムでさえ、そうでした。
3.なぜ約束を貫けなかったのか
私たちは問うかもしれません。
なぜ、あれほど素晴らしい体験をしたのに、
なぜ約束を貫けなかったのか。
答えは、こうです。
体は離れても、心がまだ離れていなかった。
アブラムは、
本土、親戚、父の家を「体としては」離れました。
しかし、
「考え方」「価値基準」「判断の軸」は、
まだ世のまま残っていたのです。
だから――
神の臨在をまだ知らないサライの口から出た
世の方法を聞いたとき、
そちらに流されてしまったのです。
4.神のことばを“思いめぐらす”という信仰
私たちは、神からいただいた約束を
いつも思いめぐらす必要があります。
それは、単なる暗記ではありません。
申命記6章6節には、こう書かれています。
「これらのことばを、あなたの心に置きなさい。」
これは、
神のことばが心に満ちあふれ、あふれ出る状態を意味します。
それが、ティフィリンの本質です。
神のことばが心からあふれ出て、
そのことばの洪水が、
自分の家も、生活も、判断も、
すべてを飲み込んでいく。
それが本来の信仰の姿です。
5.神のことばを思いめぐらさないと、どうなるか
しかしもし、
-
神のことばを思いめぐらさず
-
神の素晴らしさを期待せず
-
神と交わることをやめてしまうなら
人は、いとも簡単に
世の言葉に流されていきます。
そしてそのとき、
「問題」に見えていなかったものが、
急に“解決しなければならない問題”に変わるのです。
アブラムとサライにとって、
「今、子どもがいない」という状況は、
本当は問題ではありませんでした。
神はすでに
「星の数のような子孫」を約束していたからです。
必要だったのは、
解決策ではなく、待つ信仰でした。
6.世の方法に頼ると、何が起こるのか
16:4
ハガルはみごもった。
そして自分の女主人を見下げるようになった。
世の方法に頼った瞬間、
世は神の民を尊重しません。
むしろ、
舐め、見下し、支配し始めます。
神の民が、
嘘や不正や世の方法に頼れば、
世の側はそれを十倍にして返してきます。
サライは、
どれほど惨めだったでしょうか。
何年も子が与えられなかった自分。
一瞬で妊娠した女奴隷。
見下げられる自分。
神の民が世に媚びると、
必ずこのような惨めさが生じます。
7.されよ、去りなさい
神は、はっきりと言われます。
「去りなさい。」
ヨセフは、誘惑の場から
衣を捨ててでも逃げました。
それは敗北ではありません。
勝利の選択です。
神のことばに敵対する状況で、
まだ自分の内側に
神のことばが満ちあふれていないなら、
その場所を去ることは、
信仰の後退ではなく、
信仰を守る行為なのです。
8.どこに留まるのか
神の臨在がない場所に留まり続け、
世の言葉が好き放題に語られている中で、
それに従って生きるなら、
人はどんどん惨めになっていきます。
今日、私たちは問われています。
-
どの声を聞いているのか
-
どの言葉を思いめぐらしているのか
-
どこに留まっているのか
9.結び
神は、すでに約束を語られています。
問題がないところに、
私たちが勝手に問題を作る必要はありません。
必要なのは、
世の方法ではなく、
神の時を待つ信仰です。
神のことばが、
皆さんの心からあふれ出るまで。
そのことばに、
人生のすべてを支配していただきましょう。
わたし・主が、あなたのはなはだ大いなる報酬である(創世記15章) 2026/01/13 火 早天礼拝
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- pastor 2026-1-13 6:40
わたし・主が、あなたのはなはだ大いなる報酬である(創世記15章)
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『これらのことの後に、主の言葉が幻の中で(アブラム)に臨んだ。「恐れるな、(アブラム)よ。わたしは(あなた)の盾であり、(あなた)への、はなはだ大いなる報酬である。」』(創世記15:1 逐語訳)
神様は、アブラムに向かってこう語られました。
「わたしが、あなたの報酬だ」と。
物でも、成功でも、地位でもなく、
主ご自身が報酬である──
これは、聖書の中でも非常に大胆で、深い約束です。
まずは、宣言から始めましょう
この宣言には、ぜひご自分の名前を入れて読んでみてください。
イエス様が__のご褒美です!
イエス様が__の相続財産です!
イエス様が__の相続地です!
イエス様が__のお給料です!
イエス様が__の盾です!
イエス様にあって__が受ける報いは、非常に大きい!
このイエス様が、わたしの主です!
イエス様のお名前によって宣言します。アーメン!
宣言は、信仰を現実に引き寄せる霊的な行為です。
それでも、心には「まだ不安」が残る
神様が「わたしが報酬だ」と言われたあと、
アブラムは正直な心を主に差し出します。
「神、主よ。
私に何をお与えになるのですか。
私にはまだ子がありません。」(15:2)
約束を聞いた。
信じようとしている。
けれど、現実は変わっていない。
アブラムが主に差し出したのは、
子孫に関する切実な現実でした。
これは、不信仰ではありません。
信じたい者の、正直な祈りです。
神は、具体的に答えられる方
主は言われます。
「あなた自身から生まれ出て来る者が、
あなたの跡を継ぐ。」(15:4)
そして、夜空へと連れ出し、こう語られました。
「天を見上げなさい。
星を数えられるなら、数えなさい。
あなたの子孫は、このようになる。」(15:5)
ここで書かれていることは、とても重要です。
「彼は主を信じた。
主はそれを、彼の義と認められた。」(15:6)
行いではありません。
完璧な理解でもありません。
信じたこと、それ自体が義と認められたのです。
これは昨日学んだ通り、
「神が遣わしたお方を信じること」
──それが、私たちにできる唯一の神のわざです。
信じていても、100%でなくていい
それでもアブラムは、こう言います。
「それが私の所有であることを、
どのようにして知ることができましょうか。」(15:8)
信じている。
しかし、まだ100%ではない。
私たちも、同じではないでしょうか。
そして主は、
「叱る」のではなく、
「具体的なステップ」を示されます。
信仰には、従う行動が伴う
主はアブラムに、具体的な指示を与えられました。
犠牲を用意し、
それを裂き、
主を待ち続ける。
途中で猛禽が来ても、
追い払い続ける。
ここに、大切な霊的原則があります。
-
主のことばを、実際に行う必要がある
-
犠牲を伴うことがある
-
すぐに主が現れるとは限らない
-
約束をついばむものが先に来ることもある
-
主が来られるまで、目を覚まして待つ必要がある
主は、暗闇の中でも語られる
深い眠り、
暗黒の恐怖。
その中で主は、
未来の歴史を具体的に語られます。
苦難、
解放、
祝福、
そして平安な最期。
信仰とは、
「楽な未来」だけを約束されることではありません。
それでも、主の計画は途中で止まらないのです。
見える形で、契約を結ばれる神
ついに、主ご自身が
煙のかまどと燃えるたいまつとして現れ、
裂かれたものの間を通られます。
そして言われました。
「わたしはこの地を、
あなたの子孫に与える。」(15:18)
境界線まで、
民族名までも、
驚くほど具体的に。
神は、
抽象的な希望ではなく、
現実に触れられる約束を与えられる方です。
暗い所を照らす、ともしびとして
新約の言葉で、この章は私たちにこう語りかけます。
「確かな預言のみことばを、
暗い所を照らすともしびとして、
それに目を留めていなさい。」(�競撻謄�1:19)
夜が明けるまで。
心の中に、明けの明星が昇るまで。
主のことばは、
今日も、あなたの人生を照らしています。
主ご自身が、
あなたの盾であり、
あなたの報酬であるからです。
全てが虚しい?そうなる原因はこれ!(伝道者の書1:12-14) 2026/01/12 月 早天礼拝
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Ecc 1:13 私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。
Ecc 1:14 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
ソロモンは、この天の下で行われる一切のことについて、知恵を一心に尋ね探り出そうとした、と言っています。
みなさん、神様抜きで、キリスト抜きでこの世のありさまを観察するとき、
皆さんは死体を見たことありますか。
皆さんは死体をじっくり調べて、死体の博士になって何の益があるでしょうね。
これをじっと見て、これは人間の子らが労苦するように神が与えた辛い仕事だ、とソロモンは言いましたが、そうじゃありません。
人々はこうイエス様に質問しました。
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざ(仕事)です。」
だから、このソロモンのように、この世のありさま、滅んでいく人間、人間の愚かさ、狂気、、、
また、ソロモンは、伝道者の書の続く14節でこう言ってます。
Ecc 1:14 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
聖書の他の箇所、伝道者の書以外の書では、「むなしい」ということばは、ここまで繰り返されていません。
この伝道者の書だけです、この虚しいという言葉が何回も何回も言われているのは。
14節の後半のところに「全てが虚しいことよ、風を追うようなものだ」と書いてあります。
肉である人間は、肉を超える事はできず、霊を理解する事はできません。
だから、風、すなわち霊が思いのままにする事は、ただ苛立たしいのです。
答えは、イエス様にあって、新しく生まれる事です。
イエス様はおっしゃいました。
Joh 3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
Joh 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
Joh 3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
Joh 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
だから、全部の答えは、イエス様にあるのです。
イエス様を信じること、イエス様を見つめること、イエス様の十字架とともに、自分自身の肉は、死に明け渡し、霊にあって新しく生まれる事。
それによってこそ、これら全ては、乗り越えることができるのです。
