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偉大な預言者エリヤをたった一言で萎えさせたイゼベル(1列王記19:1-8)
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『アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記19:1-2)

いつも尻に敷いている夫・アハブ王の口から聞いたエリヤのわざ、すなわち、主の偉大な御業は、残念ながら彼女の心に響かなかった。
アハブがイゼベルに言ったのは「エリヤのしたすべての事」と、「彼がすべての預言者を刀で殺した事」の二点であったが、彼女は、エリヤを通して働かれた主の御業については一切、触れなかった。
彼女が抱え込んで来た、無能なバアルやアシェラの預言者が、この3年半、いかに「何の益ももたらさなかったのか」についても、また、バアルによっては何も起きず、ただ主の御名によって火が降り、再び恵みの雨が再び戻り、そして主の雨の恩恵に与れた事についても、一切触れず、ただ、彼女が抱えてきた預言者達が殺された事に怒り心頭し、エリヤを殺してやる、と、直情的・非論理的で、全く道理を外した行動に出た。

イゼベルは、兵隊をいきなりエリヤに送って捕らえ殺すような事は、しなかった。
エリヤは、もしも兵隊に囲まれても、うまく立ち回っただろう。実際、後にエリヤを囲もうとした兵士達には火が下され、全員焼け死んでしまった事が二度あった。(2列王記1章)
しかしイゼベルは、軍隊を送るよりも、はるかに効果的に、預言者の心を萎えさせる事に成功した。

エリヤは長年、主に熱心に仕え、忍耐をもって御言葉を伝え、悔い改めを促し、そしてようやく主のわざが人々の前に起こされ、人々は「主こそ神です」と叫び、ようやく雨が戻って来た、というのに、たった一人の女、それも、その場に参加せず、イスラエルのために努力する事も一切しなかった女、それも、感情的で、短絡的で、非論理的な一人の女の叫びによって、してきた事全部がひっくり返されてしまう。
御言葉を伝える主の働き人にとって、どれ程心萎えてしまう瞬間だろう。
努力せず、現場に参加せず、実際に働いて来た人々の長い間の努力を、直情的・非論理的に一瞬にしてひっくり返してしまうような権威者が一人でもいるなら、その集団には、前進は望めない。どんなミニストリーでも、会社でも。

主は、イゼベルを速やかに処罰する事をされない。なぜなら主は、あのイゼベルにさえ、悔い改めの機会を与えられるからだ。
しかし、それでもなお行いを改めないなら、その最後は、とても無残なものとなってしまう。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)

イゼベルのように、無残な最後へと至ってしまう者の特徴は、主の力ある御業が示されても、なお自分が欲する事を頑として曲げず、悔い改めず、ただ自分の思い通りに行かなかった事を怒り、逆に主の働き人を殺そうとするような者だ。
主は、イゼベルについては速やかには扱わない。
しかし主の民、主のしもべに対しては、倒れてしまわないように速やかに助けの手を延べられる。

『そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。』(1列王記19:3-4)
ベエル・シェバは、そこからおよそ130キロ南、ユダの領地である。
エリヤは国外へと逃亡し、死を願うまでになってしまった。
イゼベルの言葉は、なんと功を奏した事だろう。

ベエル・シェバはアブラハムゆかりの地であり、また、彼がこれから行こうとしているシナイ山は、モーセゆかりの地である。
彼は、信仰の先祖達を意識したようである。
彼は「わたしは先祖にまさる者ではありません」と言ったが、あいにく、自分という人間を評価するのは、自分ではないし、誰か他の人間でもない。
それは、主である。

エリヤは新旧約にも登場する、預言者の代表格として、イエス様と共に、変貌山で現れた。
彼は自分の死を願ったが、あいにくエリヤは、死を味わった事が無い者として聖書に記されている。
一時的な感情の荒波の内に、絶望感に満たされ、一時はマイナスな祈りをしたとしても、全て人の心の傷も弱さも全部ご存知である主は、その一時の言葉どおりに受け取る事はなさらない。
主は、主に熱心な働き人が傷心の時には、必要な助けを差し伸べる。

『彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。』(1列王記19:5-6)
主が御使を通してエリヤに送ってくださったものは、彼の願った死ではなく、パンと水だった。

心打ちひしがれ、主の慰めも、人の慰めも耳に入らない傷心の人には、どんな言葉よりも、ただ焼いたパンをそっと差し出すほうが、遥かに慰められるものだ。
イエス様も、傷心の弟子達に、同じ事をされる。
十字架のイエス様を前に、逃げ出してしまった弟子達は、イエス様が復活した後、手をこまねいて昔の仕事である漁に戻った事があった。
イエス様はそんな弟子達に現れ、一切、叱責する事なく、ただ、炭火で焼いた魚とパンを差し出された。(ヨハネ21:9-13)

主のために働いて来たのに、弱さの故にあやまちを犯してしまった、傷心の弟子達に、主は現れ、自ら焼いて下さった魚とパンを、そっと差し出された。
また主は、熱心に働いた末に心折られ、死を願うほど疲れ切ってしまったエリヤに、主は御使いを遣わし、焼いたパンを与えてくださった。
主はそのようなお方である。
そして、それらの主からの直接的な養いは、主のために労して働く「働き人」の特権である。

『主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(1列王記19:7-8)
御使いが二度目にパンと水をエリヤに与えた時、「道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」と言った。
あなたにはまだまだ、行くべき道がある、だからこれを食べて、元気づけて、行きなさい、と。

エリヤは、それを主からいただくと、四十日四十夜行って、神の山ホレブに向かった。
主が与えてくださるパンは、ただ日毎の空腹を満たすためのもののみならず、人間業ではとうて出来ないような主の働きをするに足りる元気を与えてくださるためでもあり、それを頂くなら、どんな険しく長い道程でも、進み行く事ができるのだ。

エリヤは、神の山ホレブに到着し、主の御前に立つ。
主と出会い、祈るためだ。
主は私達が弱り果て、心萎えてしまった時でも、主は直接的な食物を与え、再び主の前に立てるようにしてくださる。

この時代、主の働きをする人は、心へし折られてしまいそうな事柄が沢山あるが、それら全ての中にあっても、エリヤのように主に養われ、強められ、神と人との前で凛々しく働く力が与えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

サウルの密かな企みから守られるダビデ(1サムエル記18:17-30)
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週報/メッセージ(説教)概要

 どういう性質が主の目に価値があり喜ばれるのか、ダビデという人物から学んでいると同時に、どういう性質が主に嫌われ退けられてしまうのか、サウルからも学んでいる。サウルは神の民の敵・ペリシテが打たれた事も、イスラエルが救われた事も喜ばず、ダビデが勝利し、愛され、主が共におられるのを妬み、恐れた。
このサウルの性質は、サタンの性質そのものである。サタンは元々は、音楽で主を褒め称える、極めて美しい天使だったが、分を超えて驕り高ぶり、神の王座に登ろうとして神に反逆し、天から落とされ、そして神の似姿として創られて愛されている人間を、妬み、滅ぼそうとしている。(イザヤ14章、エゼキエル28章)

サウルは、主のために、そしてイスラエルのために、自分が王座から退く考えは無く、自分がそれまで主の御声に反して来た事を悔いる事もなく、主に用いられているダビデをさらに妬み、殺意を募らせ、密かに彼の命を狙う行動に出る。サウルは、自分の娘・メラブを妻として与える代わりに、主(エホバ)の戦いを勇ましく戦いなさい、と命じる。その裏は、彼をペリシテ人の手で殺させよう、と思ったからだ。(17節)
サウルは確かに、部下に勇ましく「主の戦い」を戦って欲しかったろう。イスラエルに平和が来る事や、主の敵が打たれる事を望んではいたであろうが、彼がそれ以上に望んでいたのは、ダビデを抹殺する事だった。
それで彼は、主エホバの御名を用いて、策を弄するのだが、そのような策を、主が成功させるはずがない。
イエス様の名前を用いて、主の聖徒達を騙そうとする企みは、人の心を全てご存知である主が、覆えす。
ダビデはサウルの申し出を断った。自分は身分の低い者だ、どうして王の婿になれるだろう、と。そもそもダビデは、ゴリヤテを倒した時点で、メラブと結婚する事は出来ていた筈だが(17:25)、サウルはその約束を反故にしていた。ダビデは、その事を全く主張せず、ただ命じられるまま、部下を率いて戦って来た。彼は自分の身をわきまえていた。王族の身分は人の賞賛や推薦によるのではなく、主が与えて下さるものだと。
サウルやサタンは「高慢」という性質だが、その逆、謙遜こそ、主に喜ばれる性質である。『互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さる。』(1ペテロ5:5-6)
ペテロは、この箇所で勧めている。自ら進んで、委ねられた羊達を牧しなさい、それも、利得を求める卑しい心ではなく、権威をふるって大上段にではなく、むしろ群れの模範となりなさい、と。(1ペテロ5:2-11)
ダビデは元々、サウルの娘との結婚や、人々の名声などは眼中になく、ただ、「良き羊飼い」をずっと続けて来たのだ。ダビデに委ねられた兵士達を牧し、育て、権威を振るわずにむしろ群れの模範となって、誰よりも先に敵陣へ切り込んで行った結果、兵士達から絶大な信頼と人気を得たのだ。
羊のために命をかけて守り、養う羊飼いの性質こそ、イエス様の性質であり、主に喜ばれるものだ。

サウルは自分が言った事を土壇場で覆し、メラブを別の男に嫁がせる。メラブという褒美をちらつかせても、ダビデは中々死なない、むしろ勝利して、このままではサウル王権が危うくなる、と思ったのかもしれない。
しかし、もう一人の娘・ミカルがダビデを愛している事を知らされた事をサウルは喜んだ。彼女もダビデを死なせる事に利得できる、と思ったからだ。彼は元々、娘達の幸せは全く考えておらず、ダビデが死んでくれるなら、娘が未亡人になってもかまわなかったのだ。自分の保身・願望・欲望に心縛られてしまうと、永遠なる神の事も、家族の幸せも、見えなくなってしまう。速やかにその握りしめているものは手放すべきである。
サウルは兵を通してダビデに伝える。『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる。』(25節) サウルはこれで、ダビデが屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、と思ったが、主にあって、またダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は当然過ぎる事だった。ダビデは百どころか二百を獲て帰ってきて、そしてついにサウルは、娘ミカルをダビデに与える。
一国の王がいかに権威や金銀、人脈を背景に、少年を騙し陥れようとしても、主が守るなら守られ、その企みは決して届かない。たとえ本人を騙したと思っても、主は騙せず、主がその罠から助けだして下さる。
人は、身につけようとする。力を、地位を、お金を、謀の能力を。しかしそれら以上に求めるべきは、主に愛される性質である。なぜなら主は、主を敬わない王を退け、主を愛する羊飼い少年を守られるから。
主を愛し、主を敬う人は、敵が多いかもしれない。悩みも多いかもしれない。しかし主は、主を愛し敬う人の、その全ての敵や災いから守り、ちょうど良い時に、その人を引き上げて下さるのだ。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
十字架で私達の全てを飲み尽くしてくださったキリスト(ヨハネ19:23-30)
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主の喜ばれるいけにえは、耳を開いて聞くこと(詩篇40篇)
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音楽と悪霊とルシファーの関係(1サムエル記16:14-23)
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ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
天国民としてふさわしく(ピリピ3:17-21)
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イスラエルに注いだ3年半ぶりの大雨(1列王記18:36-46)
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バアルの預言者達と、主の預言者エリヤとの戦いは、本人同士の戦いではなく、彼らの背後の神同士の戦いだった。
私達も、人生の戦いの場面で、自分対相手という戦いからは降りて、天地を創られた主を背後につけて戦っていただく事のほうが、断然得である。
いかに、こちらがたった一人で弱くあっても、そして、相手がどんなに大人数で、歴戦の強者で権力や財産があったとしても、主につく側が勝利するのだ。

バアルの預言者達は、朝から踊ったり血を流し合ったりしてまで、バアルを呼び求めたものの、何も答える者は無かった。
それなのにエリヤは、たった一回の祈りで、事を終わらせる。
『夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。』(1列王記18:36-38)

主こそ生きておられ、力強き神である事が証明された瞬間だ。
エリヤは、主に定められた時、主の御名を置いた祭壇を築き直し、主に呼ばわって祈った。
主の御旨に適った時、方法、言葉で祈るなら、主は一発でその祈りを聞かれるが、主の御旨に叶っていないものは、何度祈っても、踊り狂って血を流しても、無意味なのだ。

この、3年半も天から雨が降らないという、大掛かりな「しるし」は、何のために起きたか。
それは、人々が主を信じるようになるために他ならない。
人々が主を信じるようになるために、主は、人に望ましくない事を送られる事がある。
それを起こされる目的は、その人を罰して滅ぼすためではなく、その人を永遠に救うためであり、彼がどんなにむなしいものを求めていたのか、彼がどんなに主の前に失礼を犯して来たか、彼がどんなに無力であるのかを、とことん味わわせた後、主へと立ち返らせるためだ。

エリヤが祈った結果、天から火が降ってきて、主の前に置かれたいけにえだけでなく、水さえもその火は焼きつくしてしまった。
これ以上、主が生きておられる事の明確なしるしはない。これを見、また聞いておきながら主に立ち返らず、心頑なにするなら、そのような者は、もう救いようがない。
だから私達も、もし主のしるしを求めるとするなら、気をつけるべきである。

『民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。エリヤは彼らに言った、「バアルの預言者を捕えよ。そのひとりも逃がしてはならない」。そこで彼らを捕えたので、エリヤは彼らをキション川に連れくだって、そこで彼らを殺した。』(1列王記18:39-40)
バアルやアシェラの預言者達が除かれた後、恵みの雨が戻って来る。
イスラエルに不信仰を助長させていた者達がいなくなると、恵みの雨が降るのと同じように、私達の生活を主の御前で堕落させるような、有害無益な習慣や言葉が除かれるなら、恵みの雨が近づいて来る。

『エリヤはアハブに言った、「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい」。』(1列王記18:41)
エリヤには聞こえた。雨の音が。
私達も、主の前に、あるいは御言葉を前に、明らかに取り除くべき事を、取り除くなら、それまで何年も降っていなかった恵みの雨音が、聞こえてくるようになるのだ。
そして、その雨が実体となるまでは、なお祈りと行動を続けるべきである。

『アハブは食い飲みするために上っていった。しかしエリヤはカルメルの頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れていたが、彼はしもべに言った、「上っていって海の方を見なさい」。彼は上っていって、見て、「何もありません」と言ったので、エリヤは「もう一度行きなさい」と言って七度に及んだ。七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」。エリヤは言った、「上っていって、『雨にとどめられないように車を整えて下れ』とアハブに言いなさい」。』(1列王記18:42-44)
エリヤは最後まで、祈りの手を緩めなかった。
私達も、主から確信が与えられても、なお行動し、祈り続けるべきなのだ。
望みをもって為して行く事を続けるなら、最初は手のひら程の小さな雲であっても、やがては恵みの大雨となる。

『すると間もなく、雲と風が起り、空が黒くなって大雨が降ってきた。アハブは車に乗ってエズレルへ行った。また主の手がエリヤに臨んだので、彼は腰をからげ、エズレルの入口までアハブの前に走っていった。』(1列王記18:45-46)
こうして、3年半ぶりに、イスラエルに大雨が降り注いだ。
それまで人々は主を軽んじ、無視していた。
しかしこのききんの3年半、主が遣わされたエリヤの言葉を人々はもはや無視できず、彼を「イスラエルに災いをもたらすもの」と言っていたものだが、結局これら一連の事を通して、イスラエルに災いをもたらしていたのは、実は自分たちであった、自分たちこそ、まことの神である主を退け、主に失礼な態度を取り、自分こそ災いを招いていた元であった事が、否応なく示された。
私達も、災いを招いていた原因が、実は自分の主に対する不従順であったという事は無いだろうか。
私達自身が悔い改め、心をつくし行いをもって立ち返るなら、恵みの雨が戻ってくるのだ。

エリヤは、祈ると天が閉じ、再び祈ると天が開いたが、彼は私達と同じ人間である。
私達も主にあって歩み、主が定められた通りに礼拝し、主に捧げ、祈るなら、主は雨を降らせて下さる。

この干魃のような時代の中、エリヤのように、この時代に対し霊的潤いをもたらす事に大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書 講解説教メッセージ
主の栄光のために創られた、高価で尊い「あなた」(イザヤ43:1-7)
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二人で万を打ったヨナタン(1サムエル記14:1-15)
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無意味なパフォーマンスをするバアルの預言者達と、人々に捧げものをさせたエリヤ(1列王記18:22-35)
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バアルの預言者たちをイゼベルは飼っていたが、結局、長いききんの間、「豊穣の神バアル」はイスラエルに何の豊穣をもたらしてはくれなかった。
エリヤは人々に、主につくのか、それともバアルにつくのかをはっきりさせよ、と言ったが、人々は何も答えられなかった。
そこでエリヤは、具体的な提案を示す。

『エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。』(1列王記18:22-24)
人々は「どの神を信じるのか」という言葉には何も答えなかったが、具体的にこれこれの事をして、このようにされる神こそまことの神である、と、具体的に示さると、人々からは「それがよい」と答えがあった。
言葉だけで分からない人々には、行動としるしが必要である。

こうして、聖書の中でも名場面の1つである「エリヤとバアルの預言者との戦い」が始まる。
それは、実に不思議な戦いである。
肉弾戦や兵器による戦いではなく、舌戦でも心理戦でもない。人数は一切関係無く、対戦相手と対面すらしない。
戦いの方法は、ただ自分の神に呼ばわり、その神に動いて頂く、というものである。
そしてそれは、私達が、世に対し、サタンに対して戦う方法でもある。(エペソ6:12-18)
『わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。』(エペソ6:12)

『そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。』(1列王記18:25-26)
バアルの預言者達は、先にバアルを呼び出す事を始めたが、何をどう呼びかけても、何の答えもなかった。
彼らはついに、踊り回り始めるのだが、それでも答える者が何もいない。
朝からずっと見物していた人々は、きっとしびれを切らして来た事だろう。

『昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。』(1列王記18:27-29)
エリヤのほうは、自分の神である主に祈り求めたような行動は、一切していない。
なぜなら、「主に定められた時」ではなかったからだ。
身勝手な時に、身勝手な方法で、身勝手な熱心に基づいて行なう礼拝は、全く無駄なのだ。

バアルの預言者達は、叫び踊っていたばかりでなく、互いを刃物で傷つけ、血を流すまでになった。
何百人もの人々が踊り狂いながら、刃物で血を流し合う。
なかなかの壮観だったろう。
見ていた人々は、今度こそ、何か起こるのではないか、という気がしたかもしれない。
しかし、「何もおきない」という事実が厳然と残るのみで、人々のバアルに対する期待は失望に変わり、やがて怒りへと変わっていく。
そうこうしている内に、主が定められた「夕暮れの捧げ物」の時刻が近づき、そして、エリヤが動き出す。

『その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。』(1列王記18:30)
主の御名は今までずっと軽んじられっぱなしで、その時、主の祭壇は壊れたままだった。
祭壇も、主の家も、礼拝の場である。
生活を良い方に立て直したいのなら、まず、礼拝の立て直しから始めるべきである。

その人の中で、主を礼拝する「祭壇」が壊れたままなら、働いても働いても、なお暮らしは楽にならない状態なのだ。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。』(ハガイ1:4-8)
礼拝の立て直しを始めるなら、その時から主が動いて下さり、実生活の立て直しが始まるが、礼拝が壊されたまま放置しているなら、どんなに血を流すほどの熱心があっても、バアルの踊りと同じように、何も起きないのだ。

『そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、』(1列王記18:31)
十二の石を取る事は、モーセも、ヨシュアも行なった。(出エジプト記24:4,ヨシュア記4章)
これは、エホバであられる主にあって為している事のあかしとして行なっているのだ。
私達も、どなたを神としているのか、その所在を明らかにしておく必要がある。
一体、今、どなたを礼拝しているのか。「どの神」にあって、今、この事を行っているのかを。

『その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。』(1列王記18:32-33)
雨が降らない時期の水は、とても貴重であるが、エリヤは、それを主の祭壇に注げ、と、人々に言う。
水を注いだら、火がつくのがもっと困難になってしまうばかりでなく、貴重なものを注ぐわけだから、ちょっとやそっとの覚悟では出来ないが、人々はそれをした。
エリヤはさらに、それを2度せよ、3度せよ、と言った。
こうして、イスラエル部族の数と同じ、合計十二杯の水が祭壇に注がれた。

全く、バアルの預言者とは違った方法だ。
バアルの預言者達は、朝から熱心に騒ぎ立てながら祈ったのに、エリヤは、定められた時が近づくまで行動を起こさなかった。
バアルの預言者達は、派手なパフォーマンスをして人々にエンターテイメント性を感じさせる事を行なったのに対し、エリヤは人々を楽しませる事は一切せず、むしろ、貴重な水を主の祭壇に注がるという「捧げもの」をさせた。
礼拝とは、人間のエンターテイメントではない。人がサービスを受けるものではない。
礼拝とはサーヴィス、すなわち、仕える事や捧げる事を意味するものであり、主をエンターテインさせる(喜ばせる、もてなす)事である。

このように、人の側が主を敬い、主に捧げる行動をとる時、主は物事を動かされる。

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