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わたしは主である(イザヤ41:1-20)
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先週もコーヘン博士課程で学ぶため韓国に行って来た。今回は特にイザヤ書とレビ記から学んで来た。
主は毎回、素晴らしい御言葉の奥義を与えて下さっておられるが、今回は御言葉においても実体においても、主から「押入れ、ゆすり入れ」しての祝福が与えられた。まことに主は、主を愛し、御言葉に従って歩む人を特別扱いし、あらゆる良きものを与えようとして取り囲み、これもあれもあげようと待っておられるのだ。
天声では毎回、御言葉を自分自身に当てはめ、自分の名前を代入して宣言しているが、それは聖書の勝手な乱用ではなく、御心に適った事である。聖書は新旧約の合計66巻、すなわち、「旧契約」と「新契約」から成り立つ「契約」の書である。旧約聖書は、神がアブラハムの子孫、すなわちイスラエル民族に対して結ばれた契約であるが、彼らはそれをないがしろにし、破ってしまった。
そこで、神の救いは、イエス・キリストを通して全人類へと及ぶ「新契約」として制定され、こうして、全人類が救われるべき対象となり、イエス・キリストを信じる者には誰でも救いが与えられるようになった。
では、旧約聖書は私達と関係が無いのか?『もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。』(ガラテヤ3:29) キリストにあってアブラハムの子孫、であるからには、旧約は私達に大いに関係がある。トラー(モーセ五書)には248の「しなさい」と、365の「するな」の、合計613の命令がある。これは命令形の動詞で、神の命令形動詞には従順が要求される。
もし命令に不従順なら、何もおきないのではない。呪いが足音を立ててやって来るのだ。しかし従順するなら、奇跡が起きる。救いは確かに福音書に示されているが、その人生が祝福されるか呪われるかは、100%、命令に従うか、従わないかにかかっている。クリスチャンはこれをしっかり把握しなくてはならない。世の人と違って、従順するなら誰より祝福され、しないなら誰より呪われてしまう。それは、特別だからだ。
契約書を交わす時、必ず双方が自分の名を記し、サインまたは印鑑を押して、「これは確かである」というしるしを残す。神は、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」と宣言し、あなた達を「贖い」、「神の民とし」、「あなた方は神を知り」、「素晴らしい地を所有する」という4点を「アニ・ヤーウェ」の元に宣言し、そして最後に再び「アニ・ヤーウェ」を宣言して、この約束は確かである、とした。(出エジプト記6:6-8) ユダヤ人達はこの「アニ・ヤーウェ」を、神ご自身の自己署名(サイン、または印鑑)であるとし、また、この一連の御言葉を、神の天国経営のマニフェストと語っている。
つまり、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」という言葉が出てくる時、そこに記されてある内容は、主が「ハンコ」を押した、重要かつ確かな内容であり、主の側が「契約を交わそう」と言っておられる場面である。
「さあ、あなたとこの御言葉をもって契約を結ぼう、既にわたしの側は「アニ・ヤーウェ」のサインをした、あとはあなたの側が、信仰をもって「アーメン」の捺印をし、この言葉の祝福を、ただ受けとる番だ」と。
イザヤ書41章も「アニ・ヤーウェ」が4回も出てくる重要な章である。「海沿いの国々、東の地」(1-2節)の「アブラハムの子孫よ」(8節) と呼びかけられている言葉は、まさしく、キリストにあって霊的アブラハムの子孫とされた、東の地、海沿いの地域に住む”私達”に呼びかけられている場面とすべきだ。
なぜなら、主の側が、アニ・ヤーウェの言葉をもって、私達に迫って来ておられるからだ。
私達は、その行く所で勝利をもって迎えられ、諸々の国々を征服し、諸々の王達を足下にし、足の踏んだ事のまだ無い道を安らかに過ぎて行くという、1-2節の言葉を感謝し、信仰のサインを記すべきである。
また9節からは、私達は主に連れ出され、「__は、わたしのしもべ。わたしは__を選んで、捨てなかった。」という言葉をそのまま信じ、自分のものとし、自分の名前を__に入れ、自分のものとすべきである。
「恐れるな。わたしは__とともにいる。たじろぐな。わたしが__の神だから。わたしは__を強め、__を助け、わたしの義の右の手で__を守る。」(10節) 本当に、主の側からの、しつこい程の促しである。
恐れるな、たじろぐな、わたし、エホバが、あなた__とともにいるのだ、わたしエホバが4回もアニ・ヤーウェのサインしただろう、あなたのために。 主の側がこれ程までに、信仰をもって契約せよ、せよ、と言っておられるからには、どうして私達はそれを感謝して受け取らない事があろうか。受け取らない事はどれほど失礼な事だろう。私達は、信じないで退く者ではなく、信じて進み行き、栄光を勝ち取るものでありたい。
モーセ - 一家の大黒柱の働き(出エジプト記17:8-16)
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今日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。父の存在は一家の中で最も大きい。男性は家では大抵無口なので、あまり目立たないかもしれないが、父がいるというだけで、妻も子供も安心感を得ているものである。今回、かの有名な人物、モーセから、父親像を見たい。
モーセは父としてのイメージはあまり無いかもしれないが、彼がイスラエルに成した事はとても偉大である。
そんなモーセも、最初から偉大な性質の持ち主だったわけではなかった。主から召命を受けた時、彼はただの80歳の口下手な羊飼いだった。最初は、神様から言われた事を「できません」と何度も断って神様を怒らせたり、やっとパロの前に出ても怖気づいて神様から示された通りに正しく出来なかったりもした。
しかし、曲がりなりにも、神様から示された通りにしたら、それはことごとく驚くべき結果になった。彼はそうした一つ一つの小さな従順の積み重ねで、徐々に神様に信頼を置く事の確信を得ていく。そうしてついにはエジプトに決定的な災いが降され、全イスラエルはようやくエジプトを脱出する。主と歩むなら、実に有り得ない事の連続である。主に依り頼まず自分の力に頼って挫折し、そのまま歳を重ね、口下手な80歳になってしまっても、主に依り頼み始めたその時点で、その性質は徐々に変わって行くのである。
エジプトは戦車や騎兵で追って来た。しかしモーセが主から指示された通りに、杖を海に向けて差し伸べると、主は海を分けて、イスラエルを通れるようにし、エジプトに対しては海を閉じて滅ぼした。
この偉大な事が為されてからわずか3日後、民は、モーセに文句を言い出す。マラという所に来たのだが、その水は苦くて飲めなかったのだ。(出15:22-27) 父というものは、何年がかりの偉大な事業を成し遂げても、目の前にちょっと不足が生じると、たちまち家族から非難の矢が飛んで来てしまうものだ。家族の中でいつも一番心砕いて家族を導いているのに、どう頑張っても、必要なものが得られないという時がある。
その時、家全体を守らなくてはというプレッシャーのみならず、一番助けてもらいたい家族からも非難を受けて、窮地に陥る事もあるが、その時こそ、一家の長たる父は、主に叫ぶべきである。(出22:25)
モーセは主に叫んだ所、一本の木を主から示され、それを水に投げ入れてみると、その水は甘くなった。
こうして彼らは12の水の泉と70本のなつめやしの木がある「エリム(丈夫な木という意味)」へと辿り着いた。
私達の人生においても、苦労の末に辿り着いた所は、苦い所だった、という時こそ、主に祈って叫び、「キリストの十字架という木」を、そこに投げ込むのだ。そうすると、そこは甘い場所になるのだ!
主は彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出し、食料の心配を除いて下さったが、時に、外敵・アマレクが戦いを仕掛けて来た。彼らは疲れ弱っている人達を攻め打ったのだ。(申命記 25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9)
モーセはそれまで、困った事が起きる度に主に叫んでいたが、今回彼は「主は必ず助けて下さる」と積極的に信じ、彼の従者ヨシュアに戦うよう指示して、モーセ自身はあの杖を持って、丘の上に立った。
『モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。…アロンとフルは、一人はこちら側、一人はあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。』(出エジプト記17:11-12)
ヨシュアは前線に出て戦っていたが、戦いの勝敗を切り分けたのは、モーセの執り成し祈りであった。
父は一家の長として、そして祭司として、家全体のために祝福し祈る者である。アブラハムもイサクもヤコブも、ダビデも、家族のために祈る祭司だった。そして、執り成し祈りという格闘を続けていると疲れも出てくる。
そんなモーセを助ける「手」となったのが、アロンとフルだった。一家の長が、家族のために働く時、そして執り成す時、疲れも出てくる。その時こそアロンとフルのような、助け手が必要である。助けが無い家、ただ文句ばかり言う家族しかない家は、一家の大黒柱が倒れ、全体が倒れてしまう。
ヨシュアは、モーセが丘の上に立って取り成して祈る姿を見て、安心して戦えた。父の祈りと励ましによって、妻も子供も安心して出入り出来る。そして主は彼らの旗となって導き、その家を勝利へ導いて下さるのだ。普段から家族のために骨折っている父達を、その家族を、イエス様の名前によって祝福します!
救いを求める人には御使いを、伝える人に聖霊を遣わし、両者を会わせて下さる主(使徒10章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-6-17 8:59