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ダビデの人生をあらわす象徴的な詩(2サムエル記22:1-9)
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ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の終わり近くに、サムエル記の筆者は、ダビデの代表的な詩を一つ紹介している。
この詩は、詩篇18編とほぼ一致している。
数多くあるダビデの詩の中から、筆者が特にこの詩を選び、サムエル記に挿入したからには、この詩は、ダビデの人生を象徴的に表す詩とも言えるのだろう。
『ダビデは主がもろもろの敵の手とサウルの手から、自分を救い出された日に、この歌の言葉を主に向かって述べ、彼は言った、』(2サムエル記22:1-2)
ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だったが、それ以降の、彼の王としての四十年、ダビデにはサウル以外にも「もろもろの敵」が立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、あるいは、親しい友や肉親からの突然の敵対、そして、悪魔からの誘惑など、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
皆さんは、主はどのようなお方ですか、と尋ねられて、すぐに答えられる言葉があるだろうか。
ダビデは、主がどのようなお方であるかを、次のような言葉で表現している。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、/わが高きやぐら、わが避け所、/わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる。わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:2)
主がどのようなご性質であられるか、詩の冒頭から幾つも記されている。
ダビデは様々な敵が立ちはだかる都度、主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行く内に、この詩篇が練られて行ったのだろう。
ダビデはこれら一つ一つの主の性質に、主は「わが・・・」「わたしの・・・」と宣言し、主のそれらのご性質は、皆「わたしのもの」という告白を添えている。
私達も、それにならうべきである。
主は、アブラハム・イサク・ヤコブの主であるばかりでなく、ダビデの主であり、そして今現在、これを読んでいる「あなた」自身の主でもあるのだ。
主は人類歴史において、主を「私の主。私の神。」と呼ぶ、全ての人にとって「主」となって下さるのだ。(ヨハネ20:28)
『わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:4)
ダビデは主を「ほめ讃えられるべき方」としている。
彼は、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせている。
ダビデが中で多くの苦しみと死の危険を通って来た事は、サムエル記から既に見てきた。
その都度、彼は主に呼び求め、主から助けをいただき、ここまで来れたのだ。
『死の波はわたしをとりまき、/滅びの大水はわたしを襲った。陰府の綱はわたしをとりかこみ、/死のわなはわたしに、たち向かった。苦難のうちにわたしは主を呼び、/またわが神に呼ばわった。主がその宮からわたしの声を聞かれて、/わたしの叫びはその耳にとどいた。』(2サムエル記22:5-7)
ここの箇所は、次のヨナの祈りによく似ている。
『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)
ヨナは大魚に飲み込まれ、海の底の魚の腹の中、という絶望的な状況から、主を呼び求めた。
彼の場合、その苦しみは、彼の不従順によって来た。
しかし、その自らの不従順の苦しみの中からでも、ダビデのように主の宮を思い焦がれた。そして主はそれを聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再び彼のミニストリーに戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自分の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りさえ、漏らさず聞いて下さるのだ。
主は、待っておられる。私たちが主に立ち返り、主を呼び求める事を。
『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれると”すぐ”、あなたに答えてくださる。たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。』(イザヤ30:18-20)
ここを見ると、主はあたかも私達に「主よ助けて下さい」と言う事を今か今かと待っておられ、呼び求めるなら、直ぐにでも恵みを与えよう、と、いつでも準備しておられるかのようだ。
主はいつでも、恵もうと待っておられるのだ。
肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-11-2 23:00
肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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『ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。』(2サムエル記21:15)
ペリシテ人はまたしても巨人を動員してイスラエルに戦争を仕掛けて来たので、ダビデは部下を引き連れて戦いに出た。
ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。
『時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。』(2サムエル記21:16-17)
ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。
ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。
私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。
『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。
ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。
サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。
私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。
キリスト教は、伝道はする事は頑張っても、信仰を子々孫々へと継承して行く事をおろそかにして来てしまったため、せっかくリバイバルが起きたとしても、残念ながら次世代へと中々つながらないケースが、世界各地に見られる。
それに引き換え、ユダヤ人は、離散してから2000年経っても決して信仰は廃れず、およそ二千年ぶりに失った国土を回復するまでになったのは、ひとえに主から頂いた御言葉を大切にし、信仰を子々孫々に継承する事を徹底して守り行って来たからだ。
『イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(申命記6:4-9)
私達の戦いは、血肉によるものではない。御言葉や信仰を武具とした、霊の戦いである。
ダビデの体が老いて行ったように、私達の体も、日々衰えるが、主に信頼する者は、力を得、鷲のように登っていく事が出来、内なる人は日々、新たにされて行く。
パウロは最後まで「わたしにならう者となってください」と言って、彼について行った弟子たちに立派な”背中”を見せつつ、信仰の道を走り通し、義の栄冠を勝ち取った。
私達もパウロのように、生涯現役の信仰の勇士として信仰の戦いを果敢に戦い、子々孫々に信仰を継承して行く者でありたい。
十字架を嫌々ながらでも負う事でもたらされる祝福(マタイ27:32)
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週報/メッセージ(説教)概要
この度も、コーヘン神学大学から多くの有益な学びを得た。今、主にある働き人達が世界でいかに福音を伝え、主ご自身がいかに世界各地で働かれておられるか、同時に、悪魔がいかに最後の悪あがきをしているかを知ることが出来た。そして、ヘブル思考による聖書の直接的学びからは、特に「行いを伴った信仰」の重要性を、マタイの福音書やハバクク書、ヤコブ書から学んだ。ルター達の宗教改革以来の500年、教会は信仰義認を全面的に出し、行いを伴った信仰と、それによる祝福を、ないがしろにして来た。
この、「信仰だけで救われる」という教えの無力さに行き詰まりを覚えているクリスチャンは多く、また、行いを軽んじて来たヨーロッパ教会の凋落ぶりも、激しくなって来ている。今回コーヘンで学んだ行いの信仰」の中から、特に、クレネ人シモンの行い、それも、嫌々ながらであっても十字架を負う事の祝福を学びたい。
『彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を「無理に:アンガレオー(徴用する、強制的に使役する。蛇足:韓国語でアンガレヨは「行きたくない」)」負わせた。 』(マタイ27:32)
イエス様は、ゴルゴダの丘の十字架刑場まで、最後まで十字架を負って行く事ができず倒れてしまった。彼は前の晩から、ピラトの前で、釘や石が仕込まれた鞭を打たれ、既に大量の血を流していたからである。
そこを、たまたま通りがかったクレネ人シモンが、ローマ兵の目にとまり、徴用(アンガレオー)されたわけである。彼は、田舎から出てきた(マルコ15:21)、黒人(使徒13:1)であったため、強靭そうに目えたのだろう。
シモンは突然、罪人の死刑道具である十字架を負わされ、彼の妻も、息子・アレキサンデルとルポスも、父そして夫が突然、このような事になってしまったのを見て、どうなるのかと泣きながらついて行った。
しかし、シモンの嫌々ながらのこの徴用(アンガレオー)は、彼と彼の家族に、多くの祝福をもたらした。
彼としては、誰とも知れない死刑囚の十字架を突然、無理矢理負わされ、とんだとばっちりだ、私は違います、一緒に行きたくない、と思ったかもしれない。しかし、この十字架を負っていたイエスという人と同行する内に、この人の趣きは、死刑に当たるような人ではない事に、むしろ、彼の聖なる品性に、気づいて行く。
彼には、大勢の女達が泣きながらついて来ている。イエス様の弟子達は一人残らず逃げてしまった為、無力な女だけが残って、十字架の後を従って来ていたのだ。そんな彼女達は、シモンに声をかけたであろう。
「本当に、ありがとう。」「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。」「でも、力が無いので出来なかった。」「イエス様の十字架を一緒に負ってくれて、本当にありがとう。」
ゴルゴダの刑場に至った時、シモンは十字架を降ろした。もはや即刻、家族と家に帰っても良かったはずだったが、彼も、彼の家族も、イエス様の十字架上の成り行きに釘付けになり、最後まで見守った。
群衆の罵声の中、彼らはイエス様の十字架上の7つの言葉を聞き、そして、彼が息を引き取った時に起こった色々な天と地のしるし(マタイ27:51-54)を見た。その時、百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と言ったが、この時、シモンも、彼の家族も全員、イエス様を信じるようになった。
そしてイエス様の復活以降、彼らは家には帰らず、弟子達と共に120人の集い(使徒1:15)の中でペンテコステを迎え、共に聖霊を受けた。それから彼らは、主と共に生きようと決心し、家に帰って全ての財産を整理して、主のために生きよう、と、パウロと一緒にアンテオケに行く。使徒13:1を見ると、ニゲル(黒人)と呼ばれるシモンが、アンテオケ教会の指導的立場として、礼拝を導いている様が記されており、そして、シモンの息子・アレキサンデルは、クレネの牧会者になり、後の、使徒パウロの後任者になったそうである。
シモンがあの十字架を負ってから30年後、シモンの妻と子のルポスは、ローマ教会の指導者となっている。
シモンの妻は、パウロから「お母さん」とも呼ばれるようになった。 ロマ書16章13節で、パウロは記している。「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」パウロに「母」と言わしめるからには、彼女はどれ程、パウロを祈り、パウロの応援者として霊肉共に支えて来た事だろう。
さらには、歴史家ヨセフスによると、彼の11代目の孫は、ローマ帝国においてキリスト教を自由にした、コンスタンティヌス皇帝であるとされている。これが、無理矢理に十字架を背負わされた祝福である。
今、嫌々ながらでも主の仕事をしている時、この内容を思い出すべきだ。たとえ強制的にであっても、後にはこんなにも大きな栄光があるのだ、と。シモンのように、今背負っている十字架によって、自分自身や家族に、子や孫に、大きな恵みをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
汚れた思いを吹き込んでくる根源を攻撃する方法(2コリント10:4-6)
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前回、悪魔サタンはどのような存在であるかを学んだ。暫く、この悪魔やサタンなどの敵について学びたい。
悪魔(ディアボロス)は、訴える者、告発し、誹謗中傷する者で、サタンは「敵」であるが、私達キリスト者と、これに類する者共とは権威的上下関係にあり、私達のほうが圧倒的に格上、悪魔サタンは格下である。
もし悪魔がキリスト者を操るとするなら、それは「偽り」をキリスト者に信じこませる事によってである。
だから、私達の戦いの領域は、自分の「思い」の中にこそある。サタンは、思いの中に偽りを吹き込んで、人を操るが、今回特に、この「思い」の領域に仕掛けて来るサタンの攻撃に対抗する方法を学びたい。
思いの中に悪魔が踏み込む足場を作ってしまった人に、悪魔はそこを足がかりとして火矢を飛ばして来る。
サタンは、ダビデにイスラエルの兵力を数えさせようという思いを吹き込み、ダビデはそれに乗ってしまってイスラエルに災いをもたらした(1歴21:1)。これはダビデの「高慢」にサタンが足場を得たケースである。
マリリン・モンローは、人々の注意をひきたいという願望が悪魔につけこまれ、礼拝で賛美が流れる度に、着ているものをみんな脱ぎ捨て、礼拝中、神と人とに裸を見せたい、という衝動に駆られたそうである。
彼女は、受け入れられる、という事が無かったため、白日夢によって自分を元気づけていたと回顧している。
つまり、普段から「思い」の中で悪魔と会話していた、という事だ。だから、寂しさを紛らわすために独り言が多かったり、誰もいないのに会話したり、突然笑い出したりするような「くせ」がある人は、注意した方がいい。
空中には邪悪な者がおり(エペソ2:2)、独り言を言うと、空中にいる者がそれを聞いていて、寂しさなら寂しさの霊を、怒りなら怒りの霊を、淫乱なら淫乱の霊を引き寄せ、そのような邪悪な色(思い)に染められた霊と交わり、一つとなり、支配されてしまう足がかりを作ってしまうからだ。
彼女の場合、恐らく「人々の注意を引きたい」という願望を、夢(霊)と会話する内に告白してしまい、そこに悪魔が足がかりを得、聖なるものを汚す形で発散させたい衝動を吹き入れられ、彼女はそれを自分由来と思って、ますます、自分は聖なる者に対抗する淫らな者だ、と自己認識を強化して行ったのだろう。
騙されてはならない。汚れた思いは、自分に由来するものではなく、悪しき者の由来である。
思いの中に汚れ事を吹き込んで来る悪魔に対抗する方法がある。『私達は様々な「議論(新共同訳:「理屈(イマジネーション)」 )を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる「障害物(新共同訳:高慢)」を打ちこわし、すべての「思い(新共同訳:思惑(考え))」を「とりこ(逮捕)」にしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリ10:4-6)
つまり、この「思い」の中に仕掛けてくる議論、理屈、イマジネーション、あらゆる障害物や高慢が来た時は、それを「逮捕」してキリストの所に持って行き、そして、私達自身はキリスト(御言葉)に服従する事だ。
この服従が完全になる時、全ての不従順な者が処罰される用意が、整うのである。
すなわち勝利の方法とは、私達自身を御言葉なるキリストに服従させ、御言葉の前に身を委ねる事である。
『神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』(ヘブル4:12)
敵は、目に見える兄弟姉妹ではなく、目に見えないサタンである。
サタンは、物陰から矢を射掛けて人を攻撃しては隠れ、攻撃を受けた人は振り向いた時たまたまそこにいた人を攻撃し、攻撃された人はわけも分からずに、攻撃されたのでやり返す・・・といった、本質から逸れた空回りの内紛を、私達兄弟姉妹の間に起こさせる。空中の権威も、暗闇の支配も、悪の諸霊も見る事はできないが、私達が戦うべき相手は血肉(人間)ではなく、これら、見えない闇の存在なのだ。(エペソ6:12)
もし今、誰か具体的に兄弟姉妹へ憎しみを募らせているなら、あるいは、穢れた思いに囚われているなら、目に見える兄弟姉妹ではなく、あるいは自分自身のせいにするのでもなく、攻撃の大元である物陰から矢を射掛けて来た悪しき者を、御言葉のサーチライトで照らし、御言葉の剣によって攻撃するべきである。
攻撃の矢を防ぐ事ができるのが、救いのかぶとや義の胸当て、信仰の大盾であるが、ただ、防いで耐えるだけでは能が無い。御言葉の剣を取り、囚われている自分を、兄弟姉妹を解放し、勝利の道を歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ゲツセマネの祈り - 杯とは(マタイ26:36-46)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2015-10-24 17:05
飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-10-23 19:37
飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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サウル王は民族意識が昂じて平穏に信仰生活していたギブオン人を虐げた結果、ダビデの治世に飢饉がもたらされ、しかも、その罪がなだめられるためには、サウル自身の子孫七人が、主の前で木にかけられ、晒し者にされなくてはならなくなってしまった。
主の約束を軽んじ、ふにゃふにゃの民族意識を昂じさせ、手前勝手な熱心を振り回して善良に暮らしている民族を弾圧する者は、その累が自身の子孫へと及んでしまうのだ。
『しかし王はサウルの子ヨナタンの子であるメピボセテを惜しんだ。彼らの間、すなわちダビデとサウルの子ヨナタンとの間に、主をさして立てた誓いがあったからである。』(2サムエル記21:7)
ダビデはヨナタンに、彼の子孫には恵みを施す誓いを、主の前でしていたため、ヨナタンの子・メフィボシェテを守るために、別のサウルの子孫達を選別した。
『王はアヤの娘リヅパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメピボセテ、およびサウルの娘メラブがメホラびとバルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、彼らをギベオンびとの手に引き渡したので、ギベオンびとは彼らを山で主の前に木にかけた。彼ら七人は共に倒れた。彼らは刈入れの初めの日、すなわち大麦刈りの初めに殺された。』(2サムエル記21:8-9)
アヤの娘・リツパは、元々サウル王のそばめで、サウル王に二人の子・アルモニとメフィボシェテを産んでいた。
サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女をめとる事によって、自分に実権があるという事を全イスラエルにアピールしたが、アブネルも程なくヨアブによって殺されてしまった。(2サムエル3章)
そんなリツパにとって、この二人の子は、生きがいであっただろう。
しかし彼女の子達は、大麦の刈り入れの始め頃(過越祭の時期)、山の上で木に掛けられ殺されてしまった。
『アヤの娘リヅパは荒布をとって、それを自分のために岩の上に敷き、刈入れの初めから、その人々の死体の上に天から雨が降るまで、昼は空の鳥が死体の上にこないようにし、夜は野の獣を近寄らせなかった。』(21:10)
彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天からの雨を降らせる時まで、そこを離れず、猛禽や獣から息子たちの遺体を守り続けたのだ。
ここまで徹底した愛、子が死体となって晒されても、なお守ろうとする「母の愛」。
これ以上の愛は、人には無い。
子がぐれて悪くなり、皆からは「死人」のように見なされても、それでもその子をいつも想い、守り、執り成す。
母とは、そういうものである。
しかし、それよりももっとすごい愛が、この世に存在する。
それは、神の愛である。
『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 』(イザヤ49:15-16)
世の中には、自分が産んだ子をあわれまないような母親は、滅多にない。
しかし、たとえ母が子を忘れるような事があっても、それでもなお私達をいつも気にかけ、「言いようもない深いうめき」によって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。
たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになったとしても、それでもなお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまで、執り成しておられる。
『アヤの娘でサウルのめかけであったリヅパのしたことがダビデに聞えたので、ダビデは行ってサウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシギレアデの人々の所から取ってきた。これはペリシテびとがサウルをギルボアで殺した日に、木にかけたベテシャンの広場から、彼らが盗んでいたものである。ダビデはそこからサウルの骨と、その子ヨナタンの骨を携えて上った。また人々はそのかけられた者どもの骨を集めた。』(2サムエル記21:11-13)
リツパのその行動は、ダビデ王の心を動かした。
『こうして彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のゼラにあるその父キシの墓に葬り、すべて王の命じたようにした。この後、神はその地のために、祈を聞かれた。』(2サムエル記21:14)
長年の間、忘れ去られていたサウルとヨナタンの骨も、また、この度主の前で犠牲となったサウルの子孫達の骨も全て、彼らの故郷・父キシュの墓へと葬るように、ダビデはさせた。
リツパが若い時にサウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。
しかし、彼女がその遺体を守り続けた事によって、ギブオン人はなだめられ、神はなだめられ、日照りと乾燥の中ずっと遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの、恵みの雨が降り注いだのだ。
その雨は全イスラエルを潤し、イスラエルの多くの民にパンをもたらした。
私達もまた、父アダムの罪の故に、呪いが定められてしまっていたが、キリストもまた大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者とされ、神と人との前で晒しものとされた事によって、父なる神はなだめられ、彼を通して、全人類に恵みと慰めの雨が降り注いだのだ。
大きな愛は、人の罪と弱さを覆い、人を回復させ建て上げ、多くの人を潤し、恵みへと導く。
このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至って広まりつつあるのである。