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主、褒め讃えるべきお方(2サムエル記22:47-51)
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ダビデの人生を象徴的に表す詩の、最終部分である。
ダビデは詩の最後で、彼をずっと守り、全てを良いほうへ導いて下さった主を褒め称えている。

『主は生きておられる。わが岩はほむべきかな。わが神、わが救の岩はあがむべきかな。
(NKJV: "The Lord lives! Blessed be my Rock! Let God be exalted, The Rock of my salvation!")』(2サムエル記22:47)
主は、まさに生きておられる。
ダビデの時代のみならず、今も生きておられ、そしてダビデのみならず私達を、すなわち、主を「救いの岩」とするすべての人達に対し、生き生きと働いておられる。
この素晴らしいお方を知れば知る程、褒め讃えずにはおられないのである。

『この神はわたしのために、あだを報い、/もろもろの民をわたしの下に置かれた。』(2サムエル記22:48)
ダビデの時代、かつてなかったほどに多くの国々をダビデは平定し、諸々の国民はダビデを恐れ、そしてダビデの背後におられるイスラエルの神・主への恐れが湧き起こり、多くの異邦人たちがダビデの信じる主に立ち返った。
ダビデは、改心した異邦人に対しては隔てをもうけず、彼の周りには、彼を慕って集まる異邦人たちも多かった。(2サムエル記15:18-22)
それで、多くの異邦人達もダビデを助け、ダビデのために戦い、ダビデと共に礼拝し、共に主を賛美し喜び踊ったのだ。

『またわたしを敵から救い出し、/あだの上にわたしをあげ、/暴虐の人々からわたしを救い出された。』(2サムエル記22:49)
主は、主に信頼するすべての人を、敵の手から、ことに「暴虐の人々」から救い出し、彼らの地位を、敵よりも上げさせてくださるのだ。
エレミヤも同じ事を言っている。

『わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)
ここの「敵」とは、預言者エレミヤが主の警告を伝えても主の言葉を軽んじ、かえって彼を迫害する同国人たちの事だ。
同国民であろうと、外国人だろうと、主はいかなる「敵」からも守り、救い出して下さる。

エレミヤもダビデと同じく、主と主の言葉は自分にとって喜びである事を告白した。
『わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。』(エレミヤ15:16)
私達は、御言葉を「喜びの食物」として、進んで摂り入れているだろうか。
そうであるなら、主もまた私達を喜びとし、進んで守り、養い育てて下さる。

私達は、自分自身をきよく保つために、主をないがしろにする人達とは一線を画す事も、また大事である。
『わたしは笑いさざめく人のつどいに/すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもって/わたしを満たされたからです。・・・それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。』(エレミヤ15:17-19)
主がここで言っているように、世の享楽にうつつを抜かして主を敬わない人々に、私達が合わせたり、彼らに混じりに行く必要は、無い。
つまらない言葉を止め、主の貴い御言葉を口に上らせるなら、その口は「わたしの口のようになる」と、主は言われる。

だから、主に召しだされた私達は、世の人や世の価値観に媚びたり卑屈になったりしてはならない。
むしろ、世のほうを、御国の価値観に染めさせ、御国の救いへと入れさせるべきだ。
そのようにして自らを清く保ち、信仰を貫く人々を、主は、次のように扱って下さる。
『わたしはあなたを、この民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)

ダビデはこの詩の最後も、主への賞賛で満たしている。
『それゆえ、主よ、わたしはもろもろの国民の中で、/あなたをたたえ、/あなたの、み名をほめ歌うであろう。主はその王に大いなる勝利を与え、/油を注がれた者に、ダビデとその子孫とに、/とこしえに、いつくしみを施される」。』(2サムエル記22:50-51)
彼は主に守られ、異邦人はそんな彼を恐れ、そして彼は、そんな異邦人に主を伝えた。
そして彼は、さらに国々の民の中で、主を讃え、主の御名を褒め歌った。

異邦人が主に立ち返り、主を褒め称えるようになるのは、御心に叶った事である事を、パウロも、聖書の色々な箇所を引用して証明している。
『わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、/「それゆえ、わたしは、異邦人の中で/あなたにさんびをささげ、/また、御名をほめ歌う」/と書いてあるとおりである。
また、こう言っている、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。また、/「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
またイザヤは言っている、/「エッサイの根から芽が出て、/異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。』(ローマ15:8-13)

福音はついに、東の果てに住む異邦の国、この日本にも届いた。
私達も、ダビデのように主に望みを置き、大いに主を喜び、共に賛美する特権が与えられたのだ。
ダビデのように、この素晴らしい主をほめ讃え、賛美し、大いに主からの守りと祝福を豊かにいただく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主が与えて下さる勝利に妥協してはならない(2サムエル記22:38-46)
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ダビデは、それまで経験して来た戦いについて、そして敵に対し、主がどのようにされて来たかを、今回記している。
『わたしは敵を追って、これを滅ぼし、/これを絶やすまでは帰らなかった。わたしは彼らを絶やし、彼らを砕いたので/彼らは立つことができず、わたしの足もとに倒れた。あなたは戦いのために、わたしに力を帯びさせ/わたしを攻める者をわたしの下にかがませられた。あなたによって、敵は/そのうしろをわたしに向けたので、/わたしを憎む者をわたしは滅ぼした。』(2サムエル記22:38-41)

もし、敵と言われている相手が、救われる可能性のある人間であるなら、その人のために執り成し祈るべきである。
しかし「敵」が私達の内に潜む罪、愚かさ、自堕落な性質であるなら、ダビデがしたように追いかけ、徹底的に砕き、二度と立つことができないまでに、滅ぼし尽くすべきである。
そうしないと、追い払ってもすぐにまた戻ってきては悩まされ、それを繰り返す内に慣れてしまい、その内、ちょっとやそっとの「追い払い」では出て行かなくなり、ついには居座って出て行かなくなってしまうからだ。

ギデオンは、三百人で十万以上の敵に勝利する、という快挙を成し遂げた直後、それで安住せず、休まずそのまま追撃しに行った。
彼らは疲れていたにも関わらず、また、同国民から気落ちさせるような事を言われたりされたりしたにも関わらず、なお追撃し、川を超え、敵が一息ついている所を急襲し、滅ぼし尽くした。
それで敵は、二度と立ち上がれなくなり、その後の彼の生涯は、ずっと安泰だったし、そして、彼が生きていた間のイスラエルも、ずっと平安が続いた。(士師記6-8章)
私達も、ダビデやギデオンのように、滅ぼし尽くすべき敵、すなわち、罪や愚かさを、徹底的に滅ぼし尽くすべきである。
それをするなら、その後の人生は安泰となるからであり、そして主も、そのような人には惜しまず助けを施して下さる。

しかし、彼が死んだ後のイスラエルは、再び罪の性質に妥協するようになり、滅ぼすべき者達を迎合し、悪い性質や、悪い民族を招き入れてしまった故、敵が力を得て、ほしいままにはびこって蹂躙されてしまう日々が続いてしまった。
士師記はまさに、災いが延々と続いてしまう書であるが、その原因は、滅ぼし尽くすべき敵を、徹底して滅ぼさない事ゆえである。

ヨシュアの場合、邪悪な先住民たちを滅ぼし尽くす事については、主は、太陽や月の動きを止めてまでヨシュア達を助けられた。(ヨシュア記10章)
私達も、自分の肢体に住みついている罪の性質という「先住民」を滅ぼし尽くす努力をし、追撃するなら、主は、太陽や月さえ動かす程の力で助けて下さるのだ!

『彼らは見まわしたが、救う者はいなかった。彼らは主(エホバ)に叫んだが、彼らには答えられなかった。わたしは彼らを地のちりのように/細かに打ちくだき、/ちまたのどろのように、踏みにじった。』(2サムエル記22:42-43)
いざという時に主に助けを叫んでも、何の助けも無く、救い出してもらえないケースは、聖書に何度か出てくる。
主に助けを叫んでも、無視されてしまう人達に共通している性質は、普段から主を敬わず、主を恐れる事を好まず、主の御業を見ておきながらそれを軽んじ、主の叱責をことごとく侮るような人である。

サウル王は、人生最大の危機に面した時、主に伺おうとして祭司や預言者に聞いたのに、主からは何の導きが得られず、そうと見たサウルは、さっさと口寄せに導きを求に行ってしまった。
サウルはかつて、自分の思い通りにならないからと、エポデを着た祭司を85人も殺し、また、実行こそしなかったが、預言者サムエルさえ殺そうとする勢いだった。
彼はそのように、主の代弁者である預言者サムエルの言葉をないがしろにし、神と人との間に立って執り成す祭司を不当に扱い、そうやって主を軽んじて来た。
だから、サウルに恐怖と災難が襲った時に、主を呼んでも主はサウルに答えず、苦難と苦悩が下った時、主を捜し求めても、彼らは見つける事ができなかったのだ。(箴言1:27-30)
しかし、ダビデのように普段から主を恐れ敬う人は、この詩の通りに、主が盾となり、救いの岩となって下さり、彼が主に助けを呼び求める時、主は天を押し曲げて降りてこられ、速やかに救い出して下さるのだ。

『あなたはわたしを国々の民との「争い(競争、コンテスト)」から救い出し、/わたしをもろもろの国民のかしらとされた。わたしの知らなかった民がわたしに仕えた。異国の人たちはきてわたしにこび、/わたしの事を聞くとすぐわたしに従った。異国の人たちは、うちしおれて/その城からふるえながら出てきた。』(2サムエル記22:44-46)
ダビデのように主の栄光のために生きるなら、主は、コンテストなどの仲間内の競争にも勝たせ、かしらとさせて下さる。
実際、スポーツや、あらゆるコンテストなどで、クリスチャンが優勝し、主に栄光を捧げている場面はよく聞くし、よく目にする。
主が彼らを勝利させて下さるのは、彼らが勝利した時に、彼らは主に栄光を捧げるという事を、主が知っておられるからであり、もし、自分の欲や名誉のために「優勝させて下さい」と願うなら、それは虫が良すぎる願いである。

ダビデは主に信頼し、主に守られるたびに主に感謝を捧げ、詩と賛美をつくって主を褒め称えた。
ダビデは、勝利すれば勝利する程、彼は主に栄光をささげ、主の栄光が増し加わって行った。それだから主も、ダビデをもっともっと勝利させて行ったのだ。
そうして、あらゆる外国人はダビデを恐れるようになり、そして、ダビデが仕える主を恐れ敬う心が、国々へと広がって行った。
私達も、主に信頼して歩むなら、相手がいかに強者であったとしても主は勝利させて下さり、まだ見ぬ敵さえ恐れさせ、ますます主の栄光のために用いられて行くのだ。

神、その道は完全。主のみことばは純粋。(2サムエル記22:31-37)
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『この神こそ、その道は非のうちどころなく、/主の約束は真実である(the word of the LORD is tried)。彼はすべて彼に寄り頼む者の盾である。』(2サムエル記22:31)
人の意思は移ろいやすく、神様に喜ばれる生き方を守ろうとしても、罪を犯してしまう事があるし、完全さを保とうとしても、どこかしら弱さが出てしまう。
しかし、主の道の完全さ、御言葉の確実さは、決して変わる事ない。それ故、自分に頼る道を捨て、主に依り頼む生き方をして行くなら、決して失望させられる事は無い。
ダビデは、人生を積み重ねていく内に、ますますそれを体験として実証して行ったのだ。

ダビデは、御言葉の純粋さについて、別の詩篇でも表現している。
『主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。 』(詩篇12:6)

銀は、土の炉で何度もためす内に、どんどん純化され、強度も光沢も増して行くように、御言葉を私達という「土の炉」でよく咀嚼し、「ためす」なら、それは私達の内でどんどん光を放ち、強靭さを増して行く。
そのような、信仰のある人が宣言する御言葉には、剣のような鋭さがあり、力と権威と威力がある。
あるいは、そのような人が信仰を混ぜて口から語る御言葉には、癒やしがあり、愛と憐れみが満ち、物事の解決や、必要の満たし、奇跡さえ起こる事もある。
しかし、信仰の無い人が宣言する御言葉には、何の力も無く、かえって、なまくらな御言葉を宣言した故に、火傷を負ってしまう事さえあるのだ。(使徒19:11-17)

『主のほかに、だれが神か、/われらの神のほか、だれが岩であるか。この神こそわたしの堅固な避け所であり、/わたしの道を安全にされた。』(2サムエル記22:32)
ひと度本物を味わってしまったなら、他の偽物は一切受け入れられなくなってしまうものであるが、まことの神である主は、そんな、取り換え可能な存在ではない。
この御方の完全な力と愛、憐れみに、ひと度ひたされてしまったなら、もはや、他に何も頼りにすべきものが必要なくなってしまう。(マタイ13:44)

私達も、主を頼りとするなら、主から守られるばかりでなく、私達自身も、力が増し加わって行く。
『わたしの足をめじかの足のようにして、/わたしを高い所に安全に立たせ、わたしの手を戦いに慣らされたので、/わたしの腕は青銅の弓を引くことができる。』(2サムエル記22:34-35)
雌鹿は、岩山さえも難なく飛び跳ね登って行くが、同じように、主は人生のいかなる岩場をもたやすく乗り越える力を与えて下さり、決して揺るがされない土台に立たせ、高い所へと導いて下さる。

青銅の弓を絞るにはかなりの力が要るが、弓を扱うためには、力ばかりでなくコントロールも必要である。
「罪」(ハマルティア)の元々の意味は「的外し」であるが、主に信頼するなら、私達を力強くして下さるばかりでなく、的を外して来た罪の歩みを卒業させ、的をきれいに射抜くような真実な道を歩ませて下さるのだ。

『あなたはその救の盾をわたしに与え、/あなたの助けは、わたしを大いなる者とされた。』(2サムエル記22:36)
主を頼りとしている人の人生は、救いの盾を得ているようなものであるが、そうでない人は、盾なしの丸腰で人生を戦っているようなものである。

『あなたはわたしが歩く広い場所を与えられたので、/わたしの足はすべらなかった。』(2サムエル記22:37)
御言葉に従順して行くなら、その人生は、広い所へと導かれていく。
なぜなら、その「服従」は、あらゆる敵に対し、要塞をも破る力のあるものであり(2コリント10:4)、そのように日々、御言葉に服従し実行して小さな要塞を打ち破って行くなら、自由な領域はどんどん拡大して行くものである。

私達は、何か狭い領域の中で、窮屈をおぼえて暮らしていないだろうか?
御言葉に記されている通り、主に従って行くなら、あらゆる事から守られ、力が増し加わり、ますます仕事が出来るようになり、それが楽しくなり、コミュニケーションも活発にできるようになって、より広い領域へと踏み出し、そうして、その人の「領域」はますます広く、増し加わって行くものだ。

この世界は、完全で純粋な「御言葉」によって構築された。
だから、私達の内に、その神の御言葉を取り込み、その言葉が私達の内にますます組み込まれて行くなら行くほどに、私達は世界の成り立ちをわきまえるようになり、物事を分別する理解と知恵が与えられ、力が増し加わっていく。
そういうわけだから、銀を求めるよりも、主の御言葉を求めたほうが、はるかに得なのだ。(箴言16:16)

御言葉を蓄え、力も知恵も富も権威もさらに増し加わって行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

大いなるお門違い者、サタン(ゼカリヤ3:1-5)
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賛美集会~第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
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週報/メッセージ(説教)概要

悪魔(ディアボロス)は、元々、訴える者・告発・誹謗中傷する者である事を既に学んだが、悪魔のこの訴える性質と、それに対する主の配慮ついて、象徴的に描かれている場面が、ゼカリヤ3章に記されている。
『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。』(ゼカリヤ3:1) 大祭司ヨシュアは、イスラエルがバビロン捕囚から帰ってきた時の大祭司で、罪ゆえに落ちぶれてしまったイスラエルを、これから再建しようとしている時の中心メンバーの一人である。

ゼカリヤの幻の中でヨシュアがサタンに訴えられているが、実際的に、バビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民は神殿を再建している時、雑多な宗教を信じるサマリヤ人達に妬まれ、訴えられ、再建がストップしていた時期があった。(エズラ記4章) 彼らが時の王に訴えるために書いた訴状内容は、イスラエルの民は王に反逆するためにこの事をしている、実際、この町は反逆して来た歴史があり、この町が滅ぼされたのはそのためだ、調べればすぐに分かる、というものだった。(15節)
残念ながら歴史を紐解くと、イスラエルが反逆して来たのは、事実である。預言者エレミヤは、バビロンには手向かわずに、素直に連行されるよう預言したのに、時の王・エホヤキムも、その次のゼデキヤもそれを聞かず、バビロンに反逆し、結果、エルサレムの都は破壊し尽くされてしまった。(2列王記24章)
過去の悪い行いのゆえに、訴えられる口実を受けても、仕方がない、という事はある。謂れなき罪、ではなく、謂れある罪を持ちだされ、尊い礼拝やミニストリーの立直しが邪魔されたり中止してしまったりする事が。
そのような時は、ただ主の前にへりくだって悔い改め、御言葉を開いて導きを求めながら、主の御旨が明らかにされるまで忍耐するしかない。そして、主のゴーサインが出たなら、恐れなく御旨どおり行うべきである。
当時のイスラエルも、預言者ゼカリヤ達を通して「恐れる事なく神殿を再建せよ」という主の御旨が示された時、彼らは時の権力者や妨害者を恐れる事なく再建を始めた。結果、彼らは逆に時の権力者たちに支持され、神殿再建の費用礼拝のための経費も国庫から捻出され、反対者達は恥を見た。(エズラ記5-6章)

ゼカリヤに与えられた幻の中で、大祭司ヨシュアはサタンに訴えられていた。祭司は神と人との間に立っていけにえを捧げ、罪の清めをや執り成しを祈ったりする聖なる職であるが、彼は、よごれた服を着ていた。
人は誰でも、罪のとげが刺さっており、罪を犯しながら生きざるを得ない。それは大祭司も牧師も人間である限り同じであり、そしてもし、何かしらの罪の行いをするなら、訴える者に告発されても仕方がない。
そこで私達は全て、罪の身代わりとなって死んだ小羊キリストの血によって清められ、そのキリストにあって神の御前に立つ事が出来るのだが、ここで一つ、理にかなっていない事を指摘して置かなくてはならない。
なんで神の敵であるサタンが、大祭司ヨシュアを神に訴えようとして、ヨシュアの右に立っているのだろうか。
私達は罪を犯すゆえ、神に訴えられても仕方は無い。しかし、サタンが私達の右に立つような謂れも、サタンに訴えられるような謂れも、無い。主は、人ではなくサタンを訴えて下さる。主の御前にのこのこ出て行って、人をさばいたり、嘲ったり、中傷したりする者に対し、主は、おまえを咎めている!と。(ゼカリヤ3:2)

そもそもの話である。元々罪が無かった人間をそそのかし、人類全体に罪を導入するきっかけを作ったのは、誰だったか?母の胎に宿った時から罪ある者と定めされなくてはならない不条理を人間に導入したのも、神と人との間に立って執り成す祭司が汚れた服を着て御前に立つよう仕向けたのも、誰だったか?
そう、サタンこそ訴えられるべきである。人ではなくサタンを訴えた主は、非常に理に適っておられるのだ。
私達は自分の犯して来た罪や汚さを見て、自分はだめだ、と考えがちだが、本来主は、人を全く罪なく創られた。そこをサタンが壊してしまった。だから神様は、人を贖い救い出すご計画を立てられたのだ。
なぜ神様は、ひとり子イエス様の命を投げ出してまで、人を救おうとされたのか。
それは、神はひとり子をお与えになる程の価値ある存在として、人を創造されたからである。
どういうわけか、ひとり子の命を投げ出すまでの価値ある者として、神は人を、見なしている!
サタンは、大いなるお門違いを要求して来た。本来訴えられるべき加害者のサタンが逆に訴え、被害者であるほうの人間が逆に訴えられている。だから私達は、サタンを、イエス様の名によって訴えるべきだ。
御言葉の真理によって勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会

神の喜ばれる霊的な礼拝とは(ローマ12:1-2)
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早天祈祷会

大宣教命令の決して外してはならない真意(マタイ28:18-20)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ

わざと逮捕されたイエス・キリスト(マタイ26:47-56)
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イザヤ書講解説教メッセージ

ツロに対する宣告 - 搾取システムにより富を得た海の商人の災い(イザヤ23:1-9)
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AIによる要約

【概要】

本日の御言葉は、イザヤ書23章に記された、海と貿易・権力の交錯の中で神の戒めと救いを語る預言です。聖書の記録を通し、今の社会の中での富や権力の乱用、そして神に全てを委ねる信仰の大切さが説かれています。

【聖書箇所】

・イザヤ23:1-9

・エゼキエル28:16

・第一テモ6:17

・黙示録18:7-13

【戒めの言葉】

・自分の富や権力に誇り、高慢になってはならない。

・人々からの富や利益を不正に得ようとする行為は、神の御心に反する。

【励ましの言葉】

・主に信頼し、御国の価値観に生きる者は、決して飢えることも不足することもない。

・たとえこの世のしくじりであっても、神は真心を尽くす者に恵みと祝福を注がれる。

【悔い改めの促しの言葉】

・今一度、私たち自身が追い求める「楽して得る富」の誘惑から離れ、神に立ち返る心を持つべきです。

・この堕落した取引や不正な経済活動を捨て、神の御前に正しい歩みを示すよう懇願しましょう。

【勧めの言葉】

・日々、神の御言葉を学び、己の心を清める努力を怠らず、真の豊かさを追求しましょう。

・隣人を思いやる実践的な愛のある生き方に回帰し、互いに助け合う社会こそ、神の国の姿です。

【***詳細***】

本日、私たちはイザヤ書23章1節から9節を中心に、海と港を舞台にした古代の貿易の現状と、そこに見られた神の戒めについて学びました。イザヤ書23章では、かつて繁栄した港町、ツロおよびその周辺の地域が栄え、富と権力を背景に商いを行い、多くの民の生活を左右していた現状が語られています。「通路に対する宣告。タルシュの船を泣きわめけ、通路は荒らされて家も港もなくなったと」とあるように、これらの繁栄は決して永続するものではなく、神の定めによって打ち砕かれる運命にあると預言されました。

説教の中盤では、当時の海洋貿易の仕組みについて詳しく触れ、ツロやシドン、さらには地中海沿岸の他の都市が果たしてきた役割が語られました。かつて、遠隔地の珍しい物資―動物、穀物、特産物など―を取り引きし、その富を蓄えた商人たちは、自己の利益のために国家や民衆を犠牲にする存在となりました。しかし、神はこのような不正な商い、自己中心的な富の追求に対して厳しい警告を発されています。実際、この堕落した貿易システムは、単なる経済活動を超えて、国家や政治、さらには宗教の領域にも影響を及ぼし、世の中の不正義に満ちた構造を生み出しました。

さらに、説教では、豊かさを得るために働く者たちの生活や、彼らの生活基盤がどのようにして崩れていくのかも示されました。人は自分自身が労苦して作り上げたものに、自信と誇りを抱くものですが、その裏には神の御摂理に逆らった結果、自己中心的な生き方に陥る危険性が潜んでいます。イザヤ書の預言は、言わばこの現実への戒めであり、単に古代の物語として終わるのではなく、現代の私たちにも多くの示唆を与えています。現代においても、企業や政治家が富や権力を追求するあまり、正しい道から逸れてしまうケースは多々見受けられます。私たちは、そのような時代にあって、いかにして神の御心に沿った行動を取るべきかを問い直さねばなりません。

また、説教の中盤から後半にかけては、エゼキエル書28章の一節(特に16節)や第一テモテ6章17節、そして黙示録18章の記述にも触れています。エゼキエル書28章では、かつて高慢と自己満足に満ちた存在が、いかにして神の裁きを受けるかが描かれています。この預言を通して、誇り高ぶる者は決して神の御前に立つことができず、また、その地位は一時的なものでしかないという真理を告げられています。さらに、第一テモテ6章17節は、お金持ちに対して、どのような態度であってはならないかを具体的に指示しており、神に信頼し、決して富に希望を置かないようにとの戒めが含まれています。

そして、黙示録18章では、堕落と不正に基づいた繁栄が突如として打ち砕かれる様子が鮮明に描かれています。商人たちがかつて享受した繁栄や誇りも、神の正義の前では無価値なものとなり、全世界の権力者たちがその転落を目の当たりにすることになります。これらの聖書箇所は、ただ単に古代の歴史の一片として読むのではなく、現代社会において、道徳的・霊的な価値観の混乱から逃れるための警鐘として受け取るべきです。

さて、説教の中で強調されるのは、我々が単にこの不正な取引や富の追求に染まるのではなく、神の国に基づいた生き方を選ぶことの重要性です。現代社会では、企業が利益追求のために従業員をただの資源と見なす風潮があり、富の偏在が大きな社会問題となっています。このような状況下で、私たちは神から与えられた、本来の豊かさ―すなわち、隣人への愛、互いに助け合う心、そして日々の生活の中にある細やかな恵み―に目を向ける必要があります。

具体的には、私たちは以下の点を心に留めるべきです。まず、自分自身が誇り高ぶり、自己中心的になっていないかを日々省みること。富や成功を得ても、それを神の賜物として受け取り、感謝の心を忘れずにいること。第二に、他者を搾取するような考えや行動に走らないこと。経済活動やビジネスにおいても、真摯な努力と誠実さを持って取り組み、隣人や社会のために貢献することを目指すべきです。そして第三に、もし自分が今までの生き方において誤った方向に向かっていたならば、悔い改め、神に立ち返る決意を新たにすることです。これは、決して恥ずべきことではなく、むしろ神の恵みによって新たな歩みを始める大切な機会なのです。

私たちがこのような神の御言葉に耳を傾け、心から悔い改めるならば、神は必ずや我々を正しい道へと導いてくださいます。実際、多くの信仰者たちは、日々の試練や富の誘惑に打ち勝ち、神への信仰を中心に据えた生活を送っています。これは、単に経済的な成功や社会的地位を超えた、本来の人間の幸福であり、神の国に生きる者の真の豊かさなのです。

最後に、私たちはこの御言葉を胸に刻み、日々の生活の中で実践することの大切さを再認識しましょう。商いによって得られる一時の富に惑わされず、神が与えてくださる実りある愛と恵みに従い、謙虚で正しい道を歩むことが、真の安らぎと幸福へとつながるのです。今一度、私たちはこの戒めと励ましを心に留め、社会の中でどのように生きるべきかを熟考し、それを実践していく責任を持たねばなりません。神の国の価値観に基づき、互いに愛し合い、ともに豊かな実りを結ぶ共同体として生きることが、私たち一人一人に課せられた使命であると信じます。

【結論】

私たちは、古代の預言に示された通路や港の栄光とその崩壊から、富や権力に溺れる危険性と、神への信頼の大切さを学びました。日々の生活の中で、神の御心に従い、謙虚かつ誠実に生きることで、真の祝福と安らぎの中へと歩んでいくよう努めましょう。主イエス・キリストのお名前によって、皆さまが神の恵みと平安に満たされますように。

主に後ろ暗い所が無い人の幸い(2サムエル記22:21-30)
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『主はわたしの義にしたがってわたしに報い、/わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされた。それは、わたしが主の道を守り、悪を行わず、/わが神から離れたことがないからである。そのすべてのおきてはわたしの前にあって、/わたしはその、み定めを離れたことがない。わたしは主の前に欠けた所なく、/自らを守って罪を犯さなかった。それゆえ、主はわたしの義にしたがい、/その目のまえにわたしの清きにしたがって、/わたしに報いられた。』(2サムエル記22:21-25)
2サムエル記を読んで来た方なら、よくもダビデは「わたしは主の前に欠けた所なく、自らを守って罪を犯さなかった。」などと言えたものだ、と思われたかもしれない。

ダビデにしても、そして私達にしても、人生トータルで見るなら、誰一人、欠けが無い者はなく、罪を犯さなかった者もいない。
人は誰でも、どこかで悪を行い、その悪を敢えてそのまま留め置いて「呪われモード」となってしまう事がある。
しかしその都度、悔い改め、主に立ち返るなら、恵みと憐れみと赦しに富まれる主は、その人との関係を回復させて下さり、その人を「祝福モード」へと転換させて下さる。(レビ記26章、申命記28章)
ダビデはそれを信じていたから、大胆に告白できたのだろう。

『そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。』(詩篇32:1-5)

実際ダビデは、サウル王に追われていた時、状況的にはいつ殺されてしまうか分からない圧倒的不利だったにもかかわらず、ただ主にのみ頼り主にのみ望みを置いていたため、主との関係は絶好調で、実はものすごい「祝福モード」に入っていた。
その時期、主はダビデを二度もサウル王を簡単に殺せるチャンスに置かれたが、ダビデは主の故に敢えてそれをせず、そしてサウル王に次のように言っている。
『ダビデは答えた、「王のやりは、ここにあります。ひとりの若者に渡ってこさせ、これを持ちかえらせてください。主は人おのおのにその義と真実とに従って報いられます。主がきょう、あなたをわたしの手に渡されたのに、わたしは主が油を注がれた者に向かって、手をのべることをしなかったのです。きょう、わたしがあなたの命を重んじたように、どうぞ主がわたしの命を重んじて、もろもろの苦難から救い出してくださるように」。』(1サムエル記26:22-24)
私達も、主に聞き従い、主に対して何ら後ろ暗い所が無いなら、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを求める事が出来るのだ。(ヘブル4:16)
そして、もしも何か「呪われモード」に入っているような感じがしたなら、主に伺うべきだ。何が原因でそうなっているのかを。

『忠実な者には、あなたは忠実な者となり、/欠けた所のない人には、/あなたは欠けた所のない者となり、清い者には、あなたは清い者となり、/まがった者には、かたいぢな者となられる。』(2サムエル記22:26-27)
主は、ねじ曲がった者には、ねじ曲げる方である、と、ダビデは言っている。
主に対してねじ曲がった考え方をしている者に、主はどうされるか、イエス様は「ミナのたとえ話」の中で話しておられる。

『イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』』(ルカ19:12-13)
それで、あるしもべは1ミナで商売し10ミナを儲け、別のしもべは、1ミナで5ミナを儲けた。
しかし、主人に対してねじ曲がった考えを向けていたしもべは次のように言った。
『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。』(ルカ19:20-21)
このしもべは、1ミナという大金を主人から預かっておきながら、自分が働かなかった事を棚に上げ、主人を「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人」と、実際とは違う邪推をし、その邪推を根拠に、主人を「きびしい方」と責め、働かなかった事の言い訳をした。

それに対する主人の評価は次のものだった。
『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに。』(ルカ19:22-23)
このしもべは、主人に対してはわずかな「利息」さえも儲けさせるまいという心だったため、主人は、彼が「さばいた通りに、さばき返した」のだ
主は、ねじ曲がった者に対しては、ねじ曲げる方である。

『あなたはへりくだる民を救われる、/しかしあなたの目は高ぶる者を見て/これをひくくせられる。』(2サムエル記22:28)
これも、ダビデが人生を通して知った、主のご性質である。
ダビデは、別の詩篇で、次のように言っている。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)

『まことに、主よ、あなたはわたしのともし火、/わが神はわたしのやみを照される。まことに、あなたによって/わたしは敵軍をふみ滅ぼし、/わが神によって石がきをとび越えることができる。』(2サムエル記22:29-30)
結局、主こそ私達が助けられる源であり、ダビデの人生、色々な罪あやまちを犯して来たにも関わらず、主に愛され守られて来た秘訣は、ここにある。

主を敬わない東大卒の人と、主を敬う中卒の人と、主はどちらを守られ、どちらが最終的に永遠のいのちを勝ち取るだろう。
それはもちろん、主を敬う人、である。
確かに、勉強や肉体の鍛錬もいくらかは有益であるが、結局、信仰を育み育てる事のほうが、遥かに大事だ。
相手がいかに強くとも、頭が良くても、結局最後に勝利するのは、主に守られる人だ。

私達もダビデのように、主を敬い、主に守られる者として人生の道を歩んでいきたい。

主の助けは遥か上を行っていた(2サムエル記22:10-20)
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『彼は「天(複数形)」を低くして下られ、/暗やみが彼の足の下にあった。』(2サムエル記22:10)

主は、主に助けを叫び求める人を救うために「諸々の天」を押し曲げて、降りてこられる。
天には、三つの種類がある。すなわち、上を見上げると見える天(宇宙)と、暗闇の勢力の悪霊どもが棲家とする「空中」(エペソ2:2)と、そして、「第三の天」(2コリント12:2)すなわち天国である。

主は、主に助けを求める人の叫びを聞くと、諸天を押し曲げて、降りてこられる。しかも、暗闇を足の下にして。
主は天から降りて来られる時、主の敵である闇を足の下に踏みにじって下さるのである。

ダビデの目の前に迫り来る敵は、ゴリヤテのように強大あった事もあれば、サウル王のような国家の最高権威だった時もある。
また、アブシャロムのように愛するわが子だった時もあるし、地を満たすほどの大軍団だった事もある。
しかし主は、それら全ての遥か上を行っていた。
主は、天地を支配しておられる万軍の主である。
その素晴らしい主が、こんなにもちっぽけで取るに足りない自分に関わって下さるとは、なんと恐れ多く、そしてなんと素晴らしい事だろう。

『彼はケルブに乗って飛び、/風の翼に乗ってあらわれた。彼はその周囲に幕屋として、/やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた。そのみ前の輝きから/炭火が燃え出た。主は天から雷をとどろかせ、/いと高き者は声を出された。彼はまた矢を放って彼らを散らし、/いなずまを放って彼らを撃ち破られた。』(2サムエル記22:11-15)
敵が矢によって攻撃して来るなら、主は、いなずまの矢を放って敵を撃ち破られる。
主は火も水も操作し、大地を動かし、天を押し曲げ、物理法則をも押し曲げ、助けて下さる。
主の助けは、人間の力の及ぶ範囲や、人間の想像できる範囲の、はるか上を行っている。

『主のとがめと、その鼻のいぶきとによって、/海の底はあらわれ、/世界の基が、あらわになった。』(2サムエル記22:16)
主の息吹は、塵のかたまりにいのちを与えるし(創世記2:7)、死の大水を過ぎ去らせ、全地を覆った洪水の水をも乾かす。(創世記8:1)
主が風を送られると、海は右左に壁となって立ち、神の民にはその間を渡らせ、神の民を追い迫ってきたエジプト軍には、水の壁をその前に砕かせ、彼らを水中へと沈めさせた。(出エジプト記14章)
いかに人が力や権威、技術を駆使しても、到底太刀打ちできないような形で、主は助けて下さるのだ。

『彼は高き所から手を伸べてわたしを捕え、/大水の中からわたしを引き上げ、わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを救われた。彼らはわたしにとって、あまりにも強かったからだ。彼らはわたしの災の日にわたしに、たち向かった。しかし主はわたしの支柱となられた。』(2サムエル記22:17-19)
私達もいつも主と共に歩み、そして助けを求めるなら、迫り来る敵はどんなものでも、全て、主の御前に無力となる。
鼻で息を吸う人間も、自然環境や社会的環境、物理的な相手でも、霊的な相手でも、そしてまた、私達自身の内に打ち込まれている罪、欲深さ、強情さ、自我なども。
それらは、私にとっては、到底押し倒す事のできない強敵であっても、主を拠り所とし主に助けを求めるなら、主が圧倒的に勝利をされ、その勝利の行列に私達をも連ならせて下さるのだ。

『彼はまたわたしを広い所へ引きだされ、/わたしを喜ばれて、救ってくださった。』(2サムエル記22:20)
主はなぜ、ダビデを喜びとされ、彼を「ひいき」にされたのだろうか。
主はどのような人を喜ばれ、ダビデのように守られるのか。

『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。』(詩篇147:10)
すなわち主は、主を恐れる人(主を敬い重んじる人)、主のいつくしみを望み求める人を、喜ばれ、彼らを助け、ひいきにして下さる。

ダビデはまた、主は自分を広い所へ導き出して下さった、と告白している。
私達も、御言葉を守り行うなら、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を、主は踏みゆかせて下さる。

その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
いずれにせよ、御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になるのだ。
そして、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、閉塞していた心が開放され、出来なかった事が出来るようになり、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るのだ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)

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