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第一列王記概要(1列王記1:1)
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講解説教は、第一列王記に入る。
元々、サムエル記と列王記は共に一つの書だったが、ギリシャ語聖書の70人訳聖書の時に分割され、第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」とされている。
列王記は、歴代の王達の歴史であり、その間のおよそ400年のイスラエルの歴史である。
王権がダビデからソロモンへと継承される場面に始まり、このソロモン王以降に続く王達とイスラエルの歴史が、バビロン捕囚に至るまでのおよそ四百年の間の出来事が、記されている。
ダビデ王の子、ソロモン王の子、レハブアム王以降、イスラエルは南北に分断されてしまう。
この分断された王国は、それぞれ、北イスラエル王国、南ユダ王国と呼ばれ、それぞれの国に、王が立っては消え、それぞれの歴史を刻んで行くが、北イスラエルには合計十九人、南ユダには合計二十人の王達の歩みが、第一・第二列王記に記されている。
そして、それぞれの王の治世の記録には、必ず、その王が神に従った「良い王」であったか、それとも従わない「悪い王」であったか、そして、その統治は何年であったかが、記されている。
これら、王たちの歩み方を読み進めていくと、あるパターンをすぐに見出す事が出来る。
すなわち、王が神に従う人なら、その王が統治する時代は祝福され、栄えるが、王が主に従わないなら、その時代は呪われ、衰退する、というパターンであり、それは絶対的なものだ。
このイスラエルの歴史は、私達の人生という歴史にも、全く当てはまる。
私達はある意味、自分自身という人生の「王」ではあるが、自分の人生の「王」である自分が、主に従うなら、必ずその自分は祝福され、栄えるが、主に従わないなら、必ず衰退する。
だから、私達がこの書を読み進めていく時、私達も何をしたら祝福され、何をしたら呪われるのか、その祝福と呪いのパターンを読み解くべきである。
第一列王記は、1章から11章までは、ダビデの子ソロモンの活躍が記されている。
彼は神に従って歩んでいた間は祝福され、素晴らしい知恵が与えられ、世のあらゆる富と栄光を集めた。
彼はエルサレム神殿を建築し、豪華絢爛な宮殿も建てた。
彼は箴言を編纂し、伝道者の書、雅歌書もしたため、また彼には、合計千人もの正妻と妾がいた。
このように、イスラエルの誰よりも栄華を極めた彼だが、その栄華が極まった時、彼は驕り高ぶり、主を忘れ、主の道から離れてしまった。
彼は異教の妻にそそのかされ、偶像礼拝を導入し、イスラエル内に異邦の神々の神殿をつくり、主から警告が与えられたにも関わらず、主の目に悪とされる事を止めず、ついには呪いが確定してしまい、彼の子の代以降、イスラエル王国は分断されてしまう。
12章から16章までが、その分断された王国の歴史が記されている。
『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。
しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。』(1列王記11:12)
こうしてイスラエルは、北イスラエル王国、南ユダ王国に分断されてしまい、それぞれにおいて、悪い王と良い王が入れ替わり立ち代わり支配して行く荒んだ時代へと突入してしまう。
17章から最後の22章までは、イスラエル史上、最悪の王とも言われるアハブ王の統治の出来事が記されているが、この暗黒の時代、偉大な預言者・エリヤが現れる。
彼は、霊的に堕落し主から離れてしまったイスラエルを、主へと立ち返らせようと努力するのだが、アハブの妻イゼベルの故に、イスラエルは中々主に立ち返らない。
結局、エリヤの時代は主に立ち返らなかったが、それでも主の御心はイスラエルから離れず、イスラエルは見捨てられなかった。
主の主権は、時を超えても世代を超えても変わらず、主の憐れみのご計画は、必ず成就する。
結局、この列王記の歴史を通じて分かる事は、時代と王国を支配しているのは人間の王ではなく、主である、という事だ。
17章以降、イスラエルの国の主導権は王ではなく、預言者であるかのような感じを受けるが、しかし預言者エリヤも我々と同じ人間であり、王も、預言者も、結局主に任命され、主の御心を果たす役割が与えられているに過ぎない。
全てを支配しておられるのは、王の王、主なのだ。
主がイスラエルの歴史の初期に与えられた十戒の次のことばは、この一連の時代を、如実にあらわしている。
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:3-6)
列王記の数百年は、徹底して、この法則に従って動いていた。
これは私達の人生も全く同じである。
人は結局、主と共に歩み、御言葉に従って歩む以外に、祝福と幸いの道は無いのだ。
この列王記から、祝福のパターンと呪いのパターンを学び、祝福と栄光の王道を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデに買い取られたエブス人アラウナの打ち場(2サムエル記24:18-25)
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- 執筆 :
- pastor 2015-11-25 23:50
ダビデに買い取られたエブス人アラウナの打ち場(2サムエル記24:18-25)
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『その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。』(2サムエル記24:18)
主が、預言者ガデを通して祭壇を立てるように指図された、この「エブス人アラウナの打ち場」は、一体どういう場所なのか。
そこはとても重要な場所である。
ここは後に、エルサレム神殿が建立される場所であり、大昔、全イスラエル民族の先祖・アブラハムが、ひとり子イサクを捧げた、あのモリヤの山である。(2歴代誌3:1、創世記22:2)
『アラウナは見おろして、王とそのしもべたちが自分の方に進んでくるのを見たので、アラウナは出てきて王の前に地にひれ伏して拝した。そしてアラウナは言った、「どうして王わが主は、しもべの所にこられましたか」。ダビデは言った、「あなたから打ち場を買い取り、主に祭壇を築いて民に下る災をとどめるためです」。
アラウナはダビデに言った、「どうぞ王、わが主のよいと思われる物を取ってささげてください。燔祭にする牛もあります。たきぎにする打穀機も牛のくびきもあります。王よ、アラウナはこれをことごとく王にささげます」。アラウナはまた王に、「あなたの神、主があなたを受けいれられますように」と言った。』(2サムエル記24:20-23)
エブス人アラウナは、王に対し、また主に対してとても忠実な人物で、しかも、全ての財産を潔く喜んで捧げる、無私無欲な人であった事がよくわかる。
彼はまた、状況に左右されず、仕事に打ち込む人だったようだ。
彼は、自分の麦打ち場に立っている御使いがイスラエルに剣を向けていて、それで多くの人々が疫病に打たれ死んでいるのに、それを見ておきながらも麦を打つ事に専念していたのだ。(1歴代誌21:20)
イスラエルで多くの人々が打たれ倒れている傍ら、このエブス人と、その家族とには一切、害が及んでいない。
主は、主に忠実で、主が立てた権威に対しても忠実な人であるなら、いかにエブス人という異邦人であっても、災いで打つ事はせず、どんなに災いがはびこっている時代の中でも、守って下さるが、主と主の立てた権威に不従順な人は、いかに神の民イスラエルであっても打たれてしまい、災いの時代には真っ先に滅んでしまうのだ。
『しかし王はアラウナに言った、「いいえ、代価を支払ってそれをあなたから買い取ります。わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」。こうしてダビデは銀五十シケルで打ち場と牛とを買い取った。ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。』(2サムエル記24:24-25)
ダビデは「費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」と言ったが、その通りである。
犠牲なき礼拝には、意味が無い。
礼拝は、捧げることから始まる。
主が定められた日に、私達人間の側は、お金や時間、エネルギーなどを払い、礼拝すべき場所へとみずから赴き、そこで祈りと賛美、献金や奉仕を捧げるのである。
そのようにして”犠牲”を捧げるなら、主はその応えとして、御言葉による導きを、また日々の必要の備えを、そして、祝福を与えて下さるのである。
このような、神と人との双方向のコミュニケーションこそ礼拝である。
この、礼拝における私達の分は、まず、私達自身の体(ソーマ:霊、魂、肉体)を生きた供え物として捧げる事である。(ローマ12:1)
アラウナが麦打ち場として所持していた所は、モリヤの山と呼ばれていた。(2歴代誌3:1)
すなわちそこは、かつてアブラハムがイサクを捧げた所で、イスラエル民族の父・アブラハムは、そこでひとり子イサクを捧げるという、究極の痛みを伴う礼拝を捧げた場所だった。
アブラハムが主から示された通りに、このモリヤの山へと登り、イサクをほふろうとして剣を振り上げたその瞬間、主はアブラハムを呼ばれ、イサクに手をかけてはならない、と命じれた。
アブラハムの主に対する信仰が、この「行い」によって実証された故に、主はイサクの身代わりとなる一頭の雄羊を得させて下さった。
こうして、捧げられて死ぬべきだったイサクは、主が備えられた身代わりの雄羊の故に、命拾いしたのである。(創世記22章)
異邦人アラウナは、アブラハムがかけがえのないひとり子・イサクを捧げたのと同じ場所で、彼が所有していたこの土地や牛、脱穀機などの全財産を「全部捧げます」と言って、ひと度、所有権の一切を、ダビデへと手放した。
しかし彼は、次の瞬間、ダビデの「いいえ、買い取ります」という言葉によって、彼は相当の代価を得て財産を失う事は無かった。
ちょうど、アブラハムがイサクを捧げる時、主が、イサクの身代わりに捧げられる雄羊を備えて下さったように。
アラウナの信仰による行いもまた、アブラハムと一緒だったのである。
異邦人といえども、心から主に捧げるなら、それは大いに主に用いられるものとなる。
ちょうど無名の少年が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に捧げた所、主を求めて来た人達五千人以上を養ったのと、同じように、彼が捧げたその土地は、後に神の民イスラエルにとってもっとも重要な土地となって行く。
信仰をもって捧げる事こそ、私達に求められている「礼拝」であり、それをする聖徒には、主は豊かに備えて下さるのである。
それは、アブラハムも、異邦人アラウナも、私達も同じである。
『ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。 』(2サムエル記24:25)
これが、第二サムエル記の最終節である。
ダビデは、アラウナの打ち場を買い取って、そこで犠牲のいけにえを捧げた。
そうして、全イスラエルの罪に対する罰は、止んだ。
後に来られるまことのダビデ、イエス・キリストも、この神殿の丘の傍らに位置するゴルゴダの丘で、十字架に掛けられ、全人類の身代わりの羊として犠牲となり、それ故、彼を信じる人は、罪赦され、処罰は止み、救いを得るのだ。
そして、このお方に捧げる全ての礼拝者は、異邦人であっても、イスラエル人であっても、「主の山からの備え」を頂く事が出来るのだ。
サムエル記は、ダビデがこの土地を買い取って、犠牲の捧げものを捧げる礼拝で終わった。
それは、後のイスラエルにとって重要な出来事であるばかりでなく、私達キリスト者にとっても、非常に意義深い出来事である。
私達もアラウナのように、礼拝の場所において、全身全霊をまことのダビデである主イエス様に捧げるなら、全ての必要と祝福を得、そして、捧げられたものは大いに神の国・神の民のために用いられて行くのだ。
人の罪の結果さえ用いて最善へと造り変えて下さる主(2サムエル記24:10-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-11-23 23:50
人の罪の結果さえ用いて最善へと造り変えて下さる主(2サムエル記24:10-17)
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『しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、「わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました」。』(2サムエル記24:10)
ダビデは部下の静止をふりほどいて民の数を数えたが、調査結果が出て、有限であるその数字を聞いた時、心を責められた(原意:ダビデの心が彼(ダビデ)を打った)。
全能であり無限である主を差し置いて、有限の、目に見える自分の資力に頼りを置き、周囲と自分とを比較している人は、いつも、自分の有限な力にも頼って生きなくてはならない焦燥感に追われ続けて生きていかなくてはならない。
この生き方は、無限であられる主から、無限の安全と無限の保証を得て生きる「信仰生活」に比べれば、とてつもなく不安定な生き方である。
ダビデは、自国の民を数えてその数を知った時、その保証の源と平安とを失ってしまったのだろう。
しかし、彼が良心の咎めを受けた時、彼はすぐに主の御前に出て、自分の罪を告白した。
ダビデは、さすがである。
『ダビデが朝起きたとき、主の言葉はダビデの先見者である預言者ガデに臨んで言った、「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、「わたしは三つのことを示す。あなたはその一つを選ぶがよい。わたしはそれをあなたに行うであろう」と』」。ガデはダビデのもとにきて、彼に言った、「あなたの国に三年のききんをこさせようか。あなたが敵に追われて三か月敵の前に逃げるようにしようか。それとも、あなたの国に三日の疫病をおくろうか。あなたは考えて、わたしがどの答を、わたしをつかわされた方になすべきかを決めなさい」。』(2サムエル記24:11-13)
主は今回、ダビデが犯した罪の報いとして、3つの選択を与えた。
4番目の選択は無いし、何事のペナルティもなく放免されるという事も無い。
その選択肢は、いずれも、ダビデには辛いものだった。
私達もあるかもしれない。
過去に犯してしまった罪故に、非常に少ない選択肢の中から、どれかを償いとして選択しなくてはならない事が。
しかし、その「償い」を御前で成し遂げた後に、主は、さらなる最善の道を歩ませ、幸いを返して下さる。
『ダビデはガデに言った、「わたしはひじょうに悩んでいますが、主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください。わたしを人の手には陥らせないでください」。』(2サムエル記24:14)
ダビデは、「ききん」とか「敵」とか「疫病」とか、具体的には答えず、主の手に陥らせて下さいと言って主に委ね、それで主は「疫病」を下される。
1歴代誌21:12の並行箇所を見ると、「主(エホバ)のつるぎすなわち疫病」、と記されてあって、疫病にのみ「主(エホバ)」の御名が付されている。
ダビデは、ききんという自然の脅威や、敵という人間の手に陥るよりは、主の御手に陥る事を選んだのだ。
『そこで主は朝から定めの時まで疫病をイスラエルに下された。ダンからベエルシバまでに民の死んだ者は七万人あった。』(2サムエル記24:15)
ダビデが犯した過ちは、イスラエルの多くの人々の死をもたらした。
一体主は、ダビデ一人の犯した罪ゆえに、関係の無い罪なき人々を死なせるという事を、されるのだろうか?
よく読むと、これはダビデ一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題だったようである。
この事件の最初は、次のように始まっている。
『主は再び”イスラエル”に向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。 』(24:1)
『時にサタンが起って”イスラエル”に敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。 』(1歴代誌21:1)
これら、冒頭の言葉を見ると、どうやらダビデというより”イスラエル”に問題があり、ダビデが代表して罪を犯したような感じである。
実際、3つの災いの内容は、3つとも、イスラエル全体に災いをもたらすものである。
では主は、罪なき人を、故なく打たれるのであろうか?その逆である。
いと高き方の隠れ場に住み、全能なる主の陰に宿る人は、たとえ戦や病が起こって、傍らに千人が、右手に万人が倒れるような状況でも、災いは近づかないと記されている。(詩篇91篇)
民数記でも度々起きたが、主に信頼を置いている人は病や災いから守られるが、そうでない人は災いに追いつかれてしまうのだ。
主は信仰者とそうでない者を「ふるい」にかけ、イスラエル全体が霊的怠慢に陥っている所に、揺さぶりをかけたのだろう。
主は、好きこのんで、人々に災いを下されるお方ではない。神罰は誰にも彼にも降されたわけではなく、主と王とに忠実な人は、たとえ災禍の中心地にいても災いは降されなかった。
イスラエルの人々とダビデが苦しんでいるのを見て、主は災いを思いなおされる。
『天の使が手をエルサレムに伸べてこれを滅ぼそうとしたが、主はこの害悪を悔い、民を滅ぼしている天の使に言われた、「もはや、じゅうぶんである。今あなたの手をとどめるがよい」。その時、主の使はエブスびとアラウナの打ち場のかたわらにいた。ダビデは民を撃っている天の使を見た時、主に言った、「わたしは罪を犯しました。わたしは悪を行いました。しかしこれらの羊たちは何をしたのですか。どうぞあなたの手をわたしとわたしの父の家に向けてください」。』(2サムエル記24:16-17)
主は、祈りを聞いて下さるお方であり、大上段からばっさりと一方的に命令を下されるお方では、決してない。
ダビデは主に執り成し、主はそれを聞かれたし、アブラハムも主に執り成し、主はそれを聞かれた。
さて、この度イスラエルに災いを降している御使いが立っていた場所は、エブス人・アラウナの麦打ち場だった。
実は、この場所はとても特別な場所である。
そこは「モリヤ」と呼ばれる山(2歴代誌3:1)であり、すなわち、アブラハムがイサクを捧げた場所だ。
しかもこの場所は、後に、エルサレム神殿が建てられる所である。
モリヤの地、神殿の丘。
そこは、礼拝を捧げる地であり、罪の身代わりの備えがあり、身代わりの犠牲が捧げられ、死ぬべき罪人の罪が赦され、生かされる地である。
主のご計画は、実に計り知れない。
ダビデは確かに間違いを犯し、イスラエルは打たれたが、主は、そんな罪の結果の苦しい刈り取りさえ、「最善」へと方向修正なさるお方である。
私達は、この主のなさる事は、理解できない。私達の想像を遥かに超えて働かれるお方なのだ。
ただ、この無限であられる主に信頼し、無限の安心と保証の内に歩んでいく私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
悪霊の性質と対処方法(エペソ6:10-18)
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週報/メッセージ(説教)概要
暫く悪魔・サタンなど、「敵」についての学びをしているが、今回はその中で「悪霊」について学びたい。
一般の人は、悪霊について、何も対抗できない超自然的力であるかのように恐れるが、キリスト者は恐れる事は無い。既に学んだ通り、悪しき者はキリストによって砕かれ、キリスト者より権威的に「格下」だからだ。
ただ、その者共が投げかけてくる偽りを信じこまされたり、あるいは自由意志を用いて敢えて「同意」してしまう時、その者どもが居座る足場を渡してしまったり、あるいは支配されてしまったり、という事はある。
悪霊は、単体で働く事もあるが、特徴として、人に憑くものである事が、聖書に記されている。
偶像礼拝や不実な事が盛んに行われている所で悪霊の働きは顕著であり、空しいもの、悪い事に心を向けたり執着したりする人に、悪霊は好んで入る。だから偶像礼拝をする人によく入っている。悪霊に憑かれた人の特徴は、ぼーっとしていたり、目があちこちに浮動したり、臭かったりする。真理が理解できず、場が読めなかったり、失礼であったり、恥知らずであったり、権威を侮ったり否定したり、秩序を壊したりする。
神によって生まれた方(キリスト)の囲いに入っている人は、悪しき者は触れる事は出来ない(1ヨハ5:18)が、ひと度キリストを信じ悪霊が追い出された人でも、その囲いを離れ、神の武具(救いの兜や義の胸当て、信仰の大盾など:エペソ6章)を身に着けず、依然として罪を犯し続けるなら、前よりもっと悪い状態になる。
救われた後、心を救いや義や信仰で満たさず、空き家状態にし、敢えて罪を犯し続けるなら、それは悪霊が好む飾り(コスメオー)となり、もっと質の悪い悪霊どもに入り込まれてしまうからだ。(マタイ12:38-45)
聖書には、色々な種類の悪霊が登場する。
邪悪な霊(evil spirit ルカ7:21)は、人を邪悪にする。良い事が行われている場を乱したり反対したり、調和を破壊したり、清いもの・聖なるものを汚したい衝動に駆られ、人を怒らせるツボを、巧妙に突いて来る。
また、汚れた霊(unclean spirit マルコ5章)は、人を汚なくする。心も体を洗わず臭っても平気であったり、汚物にまみれても平気であったりする。この霊に憑かれるなら、心も体も汚くなる。
また、偽りの霊、惑わす霊(foul spirit 1テモテ4:1、1ヨハネ4:6)は、偽りを言って人を混乱させ、真理から遠ざける。人は誰しも嘘をつくが、習慣的に嘘をつくと、この霊は好んでその人に入り、嘘が悪賢く、巧妙になって行き、最終的には虚言癖となって、誰にも相手にされなくなる。
また、ものを言えなくする霊(Dumb spirit マルコ9:17) は、言葉を伝えられなくする。確かに口の利かない人はいるが、この霊はことさら、御言葉や祈りなどの「真理」を言えなくさせる。真理を伝えなくてはならないここぞという時、悪霊追い出しの祈りをしなくてはならない時に、言葉を出させなくする。
趣味の事や物の金額や人の悪口はすらすら出てくるのに、御言葉や祈りとなると、頭が真っ白になるのだ。
これは、良い事にも黙っている人や、真理について「わたしにはできません」を言い続ける人が、陥り易い。
耳しいの霊(deaf spirit)は、ものを言えなくする霊とセットで(マルコ9:25)、真理を「聞かせない」ようにする。
実際に耳が聞こえない人はいるが、この霊はことさら、御言葉や祈りなどの「真理」を聞けなくさせる。
例えば、御言葉が語られている時だけ、強烈に眠気が襲い、眠ってしまう人は、まさにそれである。
確かに疲れていたり、一時的に注意が散漫になって聞けなくなる時はあるが、それを敢えて習慣的にしてしまうと、その霊に好まれ、霊に引っぱられてしまう。
また、聖書には「よく知っている霊」(占い・口寄せの霊:familiar spirit 1サムエル記28章)が出てくる。
占い師や口寄せは、普通人が知らない事を言い当てるが、それは、自ら進んでこのような悪霊と契約し接合したからであり、心身に変調を来してしまう。なお、彼らはキリスト者を恐れ、言い当てられなくなる。
また、惑わす霊(seducing spirit 1テモテ4:1) は人を惑わし、特に信仰者に働いて世のもの、お金や地位へと惑わし、真理から信仰から離れ去せてしまう。世のものをじっと見ると、惑わしの霊がついてしまう。
先にも書いた通り、これらの霊から守られるには、キリストの救いの囲いに入り続ける事であり、エペソ6章の霊的な防具で武装する事、すなわち、真理で、義で、平安で、信仰によって自分自身を満たす事である。
そして、攻撃する場合は、御霊の与える剣である神のことばを、信仰を混ぜつつ宣言する事である。
一切の悪しき者どもから守られ、信仰を混ぜた御言葉によって追い出し、神の御霊に満たされて平安と勝利の内に歩み続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
全世界の荒廃の預言 - 全ての人は等しくなり格差は破壊される(イザヤ24:1-13)
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- 執筆 :
- pastor 2015-11-21 19:05
種まきのたとえ:どんな土地でも、たちまち実を結ぶ良き地になるには(マタイ13:18-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2015-11-21 19:03