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礼拝説教メッセージ音声:信仰が落ちていく世代の中で、ひときわ輝く信仰の人達(士師記1:8-21):右クリックで保存

イスラエル12部族には、取るべき地を獲得するという、為すべきつとめがあるのに、それを為さないまま放置し、段々妥協と堕落へとゆっくり落ちていく有り様が士師記には記されているが、そのような中において、ユダ族のカレブの行動は、ひときわ輝いていた。
今回のこの箇所は、ヨシュア記15章と重複する内容だが、士師記の記者は、そんな時代の中でひときわ輝いていたカレブ達の信仰を強調するために、彼らの話を再び挿入したのであろう。

カレブは、信仰によって進み行き、積極的に勝ち取るくスピリットを、他の者達にも奮い立たせている。
『カレブは言った、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、わたしの娘アクサを妻として与えるであろう」。カレブの弟ケナズの子オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを妻として彼に与えた。』(士師記1:12-13)

このオテニエルは、単にその地を勝ち取って、カレブの娘を得たばかりではない。
彼は、カレブの娘アクサを通しても、カレブにもっと求めている。
『アクサは行くとき彼女の父に畑を求めることを夫にすすめられたので、アクサがろばから降りると、カレブは彼女に言った、「あなたは何を望むのか」。アクサは彼に言った、「わたしに贈り物をください。あなたはわたしをネゲブの地へやられるのですから、泉をもください」。それでカレブは上の泉と下の泉とを彼女に与えた。』(士師記1:14-15)

オテニエルが彼女を通して求めたのは「畑(KJV: a field、一つの畑)」であったが、彼女は一つの畑どころか、パレスチナ地方ではとても貴重な「泉(KJV: springs of water:数々の泉)」を父カレブに求め、そうして見事、上の泉と下の泉とを得たのだ。
私達も、主の御言葉に留まり、キリストにつながっているなら、御言葉が約束している祝福を、どんどん求めて良いのである。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:7)
『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)

天の御国の良きものは、彼ら族のように、激しく襲って奪い取ろうとする者にこそ、多く与えられるのだ。
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。・・・このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』(マタイ7:7-11)
オテニエルは、そのような精神だったからこそ、後に士師の第一号となる栄誉を得ている。
そして彼の活躍の背後には、妻アクサの存在も大きかった事だろう。

『主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。人々はモーセがかつて言ったように、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の子を追い出した。ベニヤミンの人々はエルサレムに住んでいたエブスびとを追い出さなかったので、エブスびとは今日までベニヤミンの人々と共にエルサレムに住んでいる。』(士師記1:19)
カレブ達は積極的な信仰によってヘブロンに住んでいた巨人たちを追い出したのにひきかえ、他の者達は、平地に住んでいたカナン人の鉄の戦車に恐れをなして、そこを追い出すことをしなかった。

主は、強大と見える敵と相対するに際しては、どうするように言われていたか。
『あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。あなたがたが戦いに臨むとき、祭司は進み出て民に告げて、彼らに言わなければならない、
『イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである』。』(申命記20:1-4)

主は、敵の馬や戦車や、大勢の軍隊を見ても、恐れてはならない、と言われた。
なぜなら、戦って下さるのは主であり、その人自身の力で戦うのではないからだ。
その人自身の力は、何に費やすべきか。敵と戦うために費やしても無駄である。そうではなく、主に対する従順にこそ力を注ぐべきなのだ。
そうするなら、主が約束しておられる通り、主ご自身が戦い、勝利して下さるのだ。
実際カレブは、85歳であったのに、そうしてアナクの巨人たちに打ち勝ち、ヘブロンという良き地を得た。

現代も含め、いつの時代も光と闇とが交差しているが、恐れをなして退く者は、闇に飲み込まれてしまい、悔いのみが残る。
しかし、カレブ達のように、信じて進み行くなら、闇は必ず光によって飲み込まれ、死は必ずいのちで飲み込まれ、呪いは必ず祝福に飲み込まれていく。
なぜなら、私達の主イエス様は、光であられ、いのちの君であられ、祝福の主であられるからだ。

礼拝説教メッセージ音声:崩れ始める主にある秩序(士師記1:1-7):右クリックで保存

本日より士師記の講解説教に入る。

士師記はヨシュアの死から始まり、それ以降のおよそ400年、イスラエルが遍歴した道が記されている。
この時代は、モーセやヨシュアのような、イスラエル全体を霊的に正しく治める指導者はおらず、イスラエルの人々はおのおの、自分の目に正しいと見える事を行っていた。
それで、イスラエルの歴史の中でも、かなり無秩序な、荒んだ時代となってしまった。
イスラエルの人々が主から離れ、偶像礼拝を行い、その結果、律法に記されていた通りの災いが降り、それに懲りたイスラエルは主に助けを求め、それで主は「士師」と呼ばれる指導者(ヘブライ語でshaw-fat、判断する人、治める人の意味。「裁き司(さばきつかさ)」という訳が原意に近い。)をおこしてイスラエルを救い、そうして平和が戻り、生活も安定すると、再びイスラエルは堕落して災いが降り、、、という、繰り返しの歴史である。

1章から3章までの所に、そのような時代に入るまでの成り立ちが記されており、そして士師記のメインともなる士師たちの活躍が、3章から16章までの所に記されており、そして17章以降にはイスラエル諸部族をめぐる事件が記されているのだが、その事件の内容を見ると、当時のイスラエルがいかに荒んだ霊的状況であったかが伺える。

士師記は、ヨシュアの死から始まったが、偉大な指導者が死んだ途端、人々はめいめい好き勝手な事をし出して、混乱の時代へと突入するというのは、人類歴史では何度も見てきた事である。
日頃から人間の指導者に極度に頼ってしまうなら、ある日突然その人がいなくなってしまうと、混乱を来たしてしまうのは、当然である。
だから、私達が日々頼りとすべきは、決して死ぬこともなく、指示を誤る事も無い、完全なる指導者イエス様であり、私達が日々指針とすべきは、決して変わる事の無い真理の御言葉である。

『ヨシュアが死んだ後、イスラエルの人々は主に問うて言った、「わたしたちのうち、だれが先に攻め上って、カナンびとと戦いましょうか」。主は言われた、「ユダが上るべきである。わたしはこの国を彼の手にわたした」。ユダはその兄弟シメオンに言った、「わたしと一緒に、わたしに割り当てられた領地へ上って行って、カナンびとと戦ってください。そうすればわたしもあなたと一緒に、あなたに割り当てられた領地へ行きましょう」。そこでシメオンは彼と一緒に行った。』(士師記1:1-3)
ヨシュアが死んだ直後は、それほど混乱は無いものの、イスラエルの秩序が崩れ始める兆候が、早速現れている。
物事を行う前に、主に伺いを立てるのは良い事である。
しかし、ユダは主から指名されたというのに、彼らは、指名されてもいないシメオン族を戦いに加えている。

戦いとは、命がけのものであり、そこに二つの部族が関与してしまうなら、戦いの方法や分捕りの配分、捕虜の扱いなど、色々な事について諍いが発生しやすくなり、色々な人の意見を折衝していく内に、どんどん主の御胸から離れて行ってしまいがちである。
この「御言葉への混ぜ物」は、最初はほんの些細な事かもしれない。
主も、彼らが少しでも命令を超えたから、即座に罰したわけでもなかったが、このような「ちょっとした事」は、さらに多くの「ちょっとした不従順」をばらまき、それが積もるなら、「大きな反逆」へと成長してしまうものである。

ユダとシメオンの連合軍は、確かに大勝利した。
しかし、王アドニベゼクをしばらく生かしておいた。
『アドニベゼクは逃げたが、彼らはそのあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り放った。アドニベゼクは言った、「かつて七十人の王たちが手足の親指を切られて、わたしの食卓の下で、くずを拾ったことがあったが、神はわたしがしたように、わたしに報いられたのだ」。人々は彼をエルサレムへ連れて行ったが、彼はそこで死んだ。』(士師記1:6-7)

主は、生け捕りにした王を、現地の風習に従ってなぶりものにせよ、とは言っていない。
むしろ主の命令は、カナンの住人は全て聖絶せよ、というものである。(申命記20:16-18)
それなのに彼らは、王をしばし生かしておき、しかも、生け捕りにした王の手足の親指を切り取るという、その地方で行われていた残酷な風習を取り入れている。
もしかしたら、ユダ族やシメオン族の、その場のノリや勢いでした事かもしれない。しかし、少しずつ、主の御言葉に混ぜ物をする事も、カナンの風習も、少しずつ入り込んで来てしまっている。

士師記を一言で言い表す御言葉は、『そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。』(士師記17:6、21:25) である。
世の人がそれを見る時、一体その事のどこが良くないのか、と思うかもしれない。世の人は普通に、おのおの自分たちの目に正しいと思うことを行っているからだ。
しかし神の民は、御言葉を退けて自分の目に正しいと思う事を行うのは、あらゆる災いの元であり、それは、アダムとエバの時代以来、変わっていない。
私達・神の民は、自分の目に正しいと見える事に歩むのではなく、御言葉に従って歩む者達なのだ。

サライ、そしてサラへ(創世記18:1-15)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

前回主がアブラハムに現れてからさほど時間が経っていない頃、主は、三人の旅人に身をやつしてアブラハムの所を訪れた。アブラハムは旅人姿の彼らを見ると、もてなすために走り出て迎え、豪勢な接待をした。
その地方ではそうする事が美徳であり、それによって、その人やその家の品格が知れるものであった。
私達も、世で”美徳”と言われるものを、ないがしろにしてはならないし(ピリピ4:8)、主は、幻や奇跡といった「非日常」にしか現れないと思ったら大間違いである。むしろ、主は日常の内に、盗人のように思いがけず現れる(ヘブル13:2)。実際、アブラハムは知らずに主をもてなし、主からの養いを受けた。

アブラハムが彼らに給仕している時、彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
見ず知らずの旅人のはずなのに、「サラ」という、主に与えられたばかりの名を呼んで来たので、彼は驚いただろう。そして、次の言葉は、もっと驚くものだった。「来年の春(直訳:命の時)、わたしは必ずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう。」(10節)
サラは、彼らのやり取りを、後ろの天幕の入り口で、つまり、彼らの背中側から隠れて聞いていた。
この時点、サラは既に89歳で、生理はもう止まっていた。ハガルによって生まれたイシュマエルもすくすく育ち、それにひきかえ自分は老いて、子を産む事についてはもはやあきらめ、何もかも置いてけぼりにされたような、卑屈な信仰になっていたのだろう。だからこそ、このただならぬ客人の言葉を聞いても、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」と心で言い、力なく笑ったのだ。
しかしその時、彼らは言った。『「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春(直訳:命の時)、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。』(13-15節)

主は、信じて歩もうとする聖徒には、「命の時」を備え、帰って来て下さる。その時、人がいかに諦め果てていようとも、いかに絶望していようとも、主が約束して下さったなら、必ず命と喜びと、笑いとを与えて下さる。
「あなたの妻サライは、名前をサライ(Sarai)ではなく、サラ(Sarah)と呼びなさい。・・・わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創世記17:15-16)
サライも、サラも、両方「王女」という意味ではあるが、前回見たように、名前の最後に「ハーラフ(歩む)」の「ハ」が付けられ、彼女は「ただの王女」から、「主と共に歩む王女」というアイデンティティが付された。
しかしながら、彼女は「主と共に歩む王女」とは程遠い心境で、年寄りで見向きもされない、もう何も望めない、みじめな者と自己認識していたために、あの客人達の只ならぬ言葉にも、思わず笑ってしまう程だった。だからこそ主は、わざわざ旅人の姿で現れ、彼女を多くの国民の母として、王女として相応しい信仰者へと整えるためにサラを名指しし、ひと度約束された事を再度、彼女にも直接言われたのではなかろうか。
こうして彼女は否応もなく信じ、もはや、年齢が盛りを過ぎていたのに、子をもうける力が取り戻され、そればかりでなく、他国の王から召し入れられてしまう程の美貌まで取り戻し(20章)、約束どおり、彼女から多くの子孫が生まれるようになるのである。(ヘブル11:11-12)

12-15節の間には「笑い」というキーワードが、4回も出てくる。一年後に彼女が産むべき子は「イサク(彼は笑う)」という名前で、彼女はイサクの名を呼ぶ度に、この時の出来事を思い起こした事だろう。
イサクを生み出す一年前までは、老いて希望も無く、自嘲の笑いしか無かったのに、主は来て、むなしい年寄り女から、主と共に歩む王女へと、信仰を整えて下さり、腹の奥底からの笑いを与えて下さった、と。
世の女性が憧れる「王女」は、「サライ」のように、歳を経ると何の喜びも無くなってしまう。
しかし「主と共に歩む王女・サラ」は、いかに八十九歳であろうとも、若く力ある女さえも主にあって出し抜き、自嘲し卑下した笑いを、命の喜びに満ち満ちた腹の底からの笑いへと、造り変えられ、いかに「自分は笑わない」と否定的であろうとも、主は「いや、あなたは笑う」と、肯定して下さるのだ。
主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように若くされ、翼をかって上ることができるのだ。(イザヤ40:31)
サラのように、卑屈な信仰から主と共に歩む王女の信仰へと造り変えられていく皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
傷んだ葦を折る事をせず(マタイ12:9-21):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
結婚できない人や貧しい人はただ虚しいだけなのか(伝道者の書9:9-12):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書9章9-12節を基に、人生の意味と神の愛について語る説教。

【聖書箇所】

伝道者の書9章9-12節

【励ましの言葉】

主を愛し、主の戒めを守る人は、神に愛され、豊かな人生を送ることができます。

【戒めの言葉】

この世の価値観や自分の力に頼るのではなく、神の国とその義を第一に求めましょう。

【***詳細***】

今日の箇所は伝道者の書9章9節から12節です。水曜日の昼礼拝では伝道者の書を1章から順に学んでいます。

「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが生きている間に日の下であなたがする労苦による。あなたの受ける分であるあなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしている黄泉には、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」(伝道者の書9:9-10)

伝道者の書は聖書の中でも特異な書物です。「むなしい」という言葉が最も多く使われており、旧約聖書全体で「むなしい」という言葉が使われる回数よりも、この伝道者の書だけで使われる回数の方が多いのです。なぜ聖書の一部である伝道者の書にこれほど「むなしい」という言葉があるのでしょうか。それは、著者であるソロモンが神から離れ、人間の知恵を追求した結果だと考えられます。

ソロモンは人類史上最も知恵があり、IQの高い人物でした。しかし、神から離れて知恵や力を追求した結果、すべてが「むなしい」という結論に至ったのです。これは世の中の哲学や仏教の思想とも似ています。すべてのものは無常で、移り変わり、同じところに行き着くという考え方です。

しかし、キリストにある者の人生は全く異なります。聖書の他の箇所は希望に満ち、愛に満ち、喜びに満ちています。信仰者が目指すべきは、ソロモンのようなむなしさではなく、神の国です。

「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。」(伝道者の書9:9)

ソロモンは人生の楽しみを妻との生活に見出していますが、実際には700人の妃と300人の側室、合計1000人もの妻を持っていました。その結果、彼は「女は死よりも苦々しい」と告白しています(伝道者の書7:26)。これは神から離れた生き方の結果です。

私たちクリスチャンは、エペソ人への手紙に記されている夫婦関係の模範を目指すべきです。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)

「あなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。」(伝道者の書9:10)

ソロモンは自分の力で物事を成し遂げることを勧めていますが、信仰者である私たちは違います。自分の力ではなく、イエス・キリストの知恵と力に頼るべきです。ある姉妹は、この箇所を次のように読み替えました。「あなたの手元にあるなすべきことは、イエス様の知恵と力でしなさい。あなたが行こうとしているところは、死も涙も痛みも傷も何一つない神の国の中にあるからです。」

私たちがなすべきことは、自分の力ではなく、イエス様に委ねることです。イエス様が羊飼いとなって私たちを導いてくださいます。たとえ死の陰の谷を歩むようなことがあっても、私たちには恐れる必要はありません。

「私は再び日の下を見たが、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇者のものではなく、またパンは賢い人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでもないことがわかった。」(伝道者の書9:11)

ソロモンはすべてのことを時と機会のせいにしていますが、信仰者である私たちは違います。戦いは主のものであり、パンは主から与えられ、富も主のものです。すべてはイエス・キリストのものなのです。

私たちは神の国とその義をまず第一に求めるべきです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

主に愛される人とは、イエス・キリストを愛し、その戒めを守る人です。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)

【結論】

私たちは、ソロモンのような罠に陥ることなく、世の価値観ではなく神の価値観に従って生きるべきです。すべての不条理を御言葉によって塗り替え、幸いと命へと人生を変えられていく者となりましょう。神の国とその義を第一に求め、イエス・キリストに愛され、導かれる人生を歩んでいきましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
真の割礼とは(ローマ2:28-29):右クリックで保存

栄光の王とは誰か(金曜昼祈祷会)

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その他音声
執筆 : 
pastor 2014-8-30 11:20

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
栄光の王とは誰か(金曜昼祈祷会):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:移り行く世代、そして、決して移り変わりの無いお方(ヨシュア記24:29-33):右クリックで保存

『これらの事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ、人々は彼をその嗣業の地のうちのテムナテ・セラに葬った。テムナテ・セラは、エフライムの山地で、ガアシ山の北にある。イスラエルはヨシュアの世にある日の間、また主がイスラエルのために行われたもろもろのことを知っていて、ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた。』(ヨシュア記24:29-31)
偉大な指導者、ヨシュアも、いよいよ死んだ。
彼が生きていた間、また、彼と共に戦った長老の世代が生きていた間、イスラエルが主から離れず主に使えていたのは、ひとえに、ヨシュアが主に従順する事を徹底して指導していた事が大きいだろう。
偉大な指導者ヨシュアは死んだが、私達にとっての指導者・まことのイエシュアは、決して死ぬ事の無いお方・イエス様であり、どんな指導者よりも優れたお方である。

『イスラエルの人々が、エジプトから携え上ったヨセフの骨は、むかしヤコブが銀百枚で、シケムの父ハモルの子らから買い取ったシケムのうちの地所の一部に葬られた。これはヨセフの子孫の嗣業となった。』(ヨシュア記24:32)
このヨシュア記では、古く昔から定められていた、色々な約束の成就があった。
彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤクブに対する約束、すなわち、このカナンの地を与えるという、何百年も昔に主が約束された事の成就があり、ヨセフが子孫に約束させた事の成就があり、そして、この世代のイスラエルに定めて下さった敵に対する勝利と、この地を受け継ぐという約束も、ことごとく成就した。

イエス様もまた、世の始まる前から定められていた遠大なご計画を、私達に対して成就させて下さる。
すなわち私達は、天地の造られる前からキリストにあって選ばれ、御前できよく傷なき者となるために、神の子としての身分をいただけるという、途方も無く素晴らしいご計画を、今、キリストにあって私達に対し成就して下さるのだ。(エペソ1:3-5)
それを私達が引き出すためには、御言葉を信じ、その信仰に裏打ちされた行動を取る事が必要である。
ヨシュアの時代のイスラエルが、ヨシュアを通して与えられた御言葉を信じ、それに忠実に行動した結果、勝利と祝福を得たのと、全く同じである。

『アロンの子エレアザルも死んだ。人々は彼を、その子ピネハスに与えられた町で、エフライムの山地にあるギベアに葬った。』(ヨシュア記24:33)
大祭司エルアザルは、ヨシュア記の中ではあまり登場しなかったが、彼もまた、怒涛の時代を駆け抜けた立役者の一人だった。

大祭司アロンの三男であった彼は、その兄達は、聖所において不敬を犯したために主の火によって焼き滅ぼされたのを見ている。
また、コラがモーセに反逆した時、それに追従した二百五十人は、主の火によって焼き滅ぼされたが、エルアザルは主の命令を受け、まだ煙くすぶる二百五十もの焼死体の手から、二百五十の火皿を回収し、それを延べ板として、祭壇の着せ金を造った。(民数記16:38)
このような、強烈な経験をして来た彼は、きっと、大祭司の家系の子々孫々に、きびしく教育したに違いない。
主の前に出る時は、決して分を超えたり、思い上がったりしてはならない、と。
実際、エルアザルの子ピネハスは、素晴らしい信仰の行いをした。(民数記25章)

偉大な指導者ヨシュアも、大祭司エルアザルも死んだ。
人には寿命があり、そして、世代は交代していく。
しかしまことの指導者であり、まことの大祭司であるイエス様は、もはや決して死ぬ事はなく、眠る事もまどろむ事もなく、常に私達と共におられ、常に父なる神様の御前で私達のために執り成し、間違った指導は決してする事も無いお方。
まことに主の主、王の王、まことの大祭司であられる。

偉大な信仰の指導者がいなくなった途端に、信仰から落ちてしまうのは、ありがちな事であり、実際イスラエルは、この直後、信仰から落ちてしまう。
私達がそうならないためには、私達個人個人が、直接、まことのイエシュアであるイエス様を主とし、イエス様と直接関わり、直接導きを受け、聞き従う事である。
パウロも言っている。
『わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』(ピリピ2:12-15)

人間はやがて死ぬし、間違った指導もする。
だからこそ私達は、まことの大祭司であり、まことの指導者であるイエス様につながる事こそ、何より大事なのだ。
私達は生ける限り、ヨシュア記の世代のように、主に服従し、多くを勝ち取り、分捕り、幸いな一生を送る者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの最後のメッセージ(ヨシュア記24:1-28):右クリックで保存

『ヨシュアは、イスラエルのすべての部族をシケムに集め、イスラエルの長老、かしら、さばきびと、つかさたちを召し寄せて、共に神の前に進み出た。』(ヨシュア記24:1)
いよいよヨシュア記の最終章である。
ヨシュアは死を前にして民を御前に集め、最後のメッセージをした。

ヨシュアが民を呼び集めたシェケムという場所は、イスラエルの父祖達にとって、特別な地である。
アブラハムが主の召命を受けて、故郷を出てカナンに入った時、主が「あなたの子孫にこの地を与える」と言って最初に現れた場所であり、アブラハムはそこに祭壇を立てた。
また、アブラハムの孫ヤコブが、ベテルへと出立する際に、自分達の中から外国の神々を捨てた場所でもある。

2節から13節までは、主がヨシュアを通して語られたメッセージであり、アブラハムの父・テラの代から、何百年という単位でイスラエルが主と共に歩んで来た歴史である。
主は、一人の人アブラハムから、イスラエルという民族を起こしたが、元々、アブラハムの父の家は偶像崇拝をしている家であった。
主は、その偶像礼拝の家からアブラハムを導き出し、彼を祝福して子孫を増やし、敵から救い出し、敵に対しては災害を与え、勝利させ、その地を占領させ、あらゆる面で守り、多くの良きものを与えて下さった事を、ここで思い起こさせている。

そして、このメッセージで特徴的な事は、主がイスラエルの歴史を語る上で、民が主に不従順し反逆した点については、一切触れていない事であり、モーセの最後のメッセージとは対照的である。
このメッセージからは、主はいかにイスラエルに良くして下さったか、いかに主が素晴らしいお方であるのかがよく分かるが、しかしヨシュアは言う。
『いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。』(ヨシュア記24:14)

ヨシュア記を読んでいると、主を捨て去って外国の神々に向かう、などとは、とんでもない事と思えてくる。
なにしろ、アカンの失敗の時も、またルベン族やガド族達が祭壇を造った時も、イスラエルは非常に断固とした態度で臨んだからだ。
それなのに、ヨシュアはここで、「他の神々を除き去って、主に仕えなさい。」と言っているという事は、もしかしたら、イスラエルの心は慢心して、次第に偶像礼拝へと傾きつつあった事を、ヨシュアは察知していたのかもしれない。

『もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。』(ヨシュア記24:15)
ここはヨシュアの、とても有名な宣言である。
ヨシュアは明確に、我が家と我は、主に仕える、と告白した。
それに対し、民は答えて言った。
「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、われわれの前から追い払われました。それゆえ、われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです。」(ヨシュア記24:16-18)

それでもなお、ヨシュアは重ねて問いただす。
『「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。もしあなたがたが主を捨てて、異なる神々に仕えるならば、あなたがたにさいわいを下されたのちにも、ひるがえってあなたがたに災をくだし、あなたがたを滅ぼしつくされるであろう」。
民はヨシュアに言った、「いいえ、われわれは主に仕えます」。
そこでヨシュアは民に言った、「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である」。彼らは言った、「われわれは証人です」。』(ヨシュア記24:19-22)
こうしてヨシュアは、民の口から三度、自分達は主に従う、という意向を引き出させ、そして確かにこの世代は主に従い通した。
私達も、兄弟姉妹を見た時に、信仰が弱りかけたり、誘惑に陥りかけている事に気づいたなら、本人の口から信仰告白を引き出させ、罪に陥る事から守らせる、という事も必要である。

人は、弱いものである。
ペテロも、イエス様がポンテオ・ピラトの元へ引き出される日の晩、自分は死んでもあなたについて行きます、と、イエス様に宣言しておきながら、その夜が明けない内に、三度もイエス様を知らないと人前で宣言してしまった。
ある瞬間は感情が燃えていたとしても、いざとなると、肉は弱いのだ。
イエス様は、そのような失敗をしたペテロに現れ、「あなたはわたしを愛するか」と三度、問いかけられ、フォローされた。
私達も、イエス様のように、またヨシュアのように、霊的に弱っている兄弟姉妹を、フォローするべきである。
主は、傷んだ葦を折る事をせず、くすぶる灯心を消す事のしないお方であり、私達もそれに習うべきなのだ。

『ヨシュアはまた言った、「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。民はヨシュアに言った、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。』(ヨシュア記24:23)
ヨシュアは重ねて言った。異なる神々を除き去りなさい、と。
もしかしたら、異なる神々への思いが、彼らの中に入り込んでいたのかもしれないが、少なくともこの世代は、ヨシュアのフォローによって守られた。

『こうしてヨシュアは、その日、民と契約をむすび、シケムにおいて、定めと、おきてを、彼らのために設けた。ヨシュアはこれらの言葉を神の律法の書にしるし、大きな石を取って、その所で、主の聖所にあるかしの木の下にそれを立て、ヨシュアは、すべての民に言った、「見よ、この石はわれわれのあかしとなるであろう。主がわれわれに語られたすべての言葉を、聞いたからである。それゆえ、あなたがたが自分の神を捨てることのないために、この石が、あなたがたのあかしとなるであろう」。
こうしてヨシュアは民を、おのおのその嗣業の地に帰し去らせた。』(ヨシュア記24:25-28)

このようにして、ヨシュアは最後のメッセージを終えた。
その最後は、偶像礼拝に気をつけるようにという事と、他の神々に行くのではなくただ主にのみ仕えなさいという事を、彼らの口で告白させ、そして証拠を残す事だった。
こうして、この世代は守られた。
私達も、兄弟姉妹に大事な事を伝えたい時は、本人の口から信仰告白を引き出す事が有効である。
その口の告白によって、彼らは守られるからだ。

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