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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主がお入用なのです(ルカ19:29-40):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
生まれた日と死ぬ日、どちらが勝るか(伝道者の書7:1-14):右クリックで保存

【概要】

生まれる日より死ぬ日が勝る理由と、知恵ある者の生き方について教える説教。

【聖書箇所】

伝道者の書7:1-14

【戒めの言葉】

愚かな者の笑いや楽しみを追い求めるのではなく、知恵ある者の叱責を聞くべきである。

【勧めの言葉】

日々永遠を念頭に置きながら生き、知恵を求めて歩むべきである。

【***詳細***】

今日の箇所は、伝道者の書7章1-14節です。ここで語られている重要な教えは、「良い名声は良い香油に勝る。死の日は生まれる日に勝る」という言葉に集約されています。

私たちには誰しも死ぬ日が訪れます。人生は長いと思われがちですが、その終わりの時があります。日本人の平均寿命は約80歳ですが、その長い人生の中で何をしたのかが、永遠の未来を決定する上でとても重要です。

イエス・キリストを信じた人は誰でも天国に入れるというのは真実です。しかし、イエス様を信じてからも不品行の道を歩み続けた人と、以前の行いを悔い改めて歩んだ人とでは、その終わりはまったく違います。コリント人への手紙第二や黙示録にも記されているように、私たちは地上で行ったことによって裁かれるのです。

ソロモンは「宿縁の家に行くよりは、喪中の家に行く方が良い。そこにはすべての人の終わりがあり、生きているものがそれを心に留めるようになるからだ」と述べています。死を意識して歩むことの大切さを教えているのです。

また、「知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのに勝る」とあります。私たちは二通りのタイプに分かれます。知恵ある人の叱責を聞こうとする人と、愚かな者の歌声を聞きに行く人です。皆さんは、どちらの道を選びますか?

しかし、知恵も注意が必要です。「しいたけは知恵ある者を愚かにし、マイナイは心を滅ぼす」とあります。ここでのマイナイは賄賂のことです。知恵を学んでいても、悪しき者がその知恵を取り除こうとすることがあります。また、賄賂によって心が滅ぼされることもあります。

「軽々しく心を苛立たせてはならない。苛立ちは愚かな者の胸にとどまるから」という教えもあります。怒りに駆られることは良くありません。平安であることが知恵ある人の道なのです。

「どうして昔の方が今より良かったのかと言ってはならない。このような問いは知恵によるのではない」という言葉もあります。過去を懐かしむのではなく、今を大切にし、未来をより良いものにしようと努力することが大切です。

パウロは第二テモテ4章で、自身の人生の終わりについて語っています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているだけです」と述べています。私たちも、パウロのように人生の終わりに自信を持って語れるような歩みをしたいものです。

【結論】

私たちには生まれる日と死ぬ日があります。どちらが勝っているかは、その人の日々の歩みによります。生まれた日よりも死ぬ日の方が勝っていると言えるような人生を送りましょう。信仰の戦いを走り抜き、義の栄冠を受け取れるよう、日々知恵を求めて歩む者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様の弟子たる者の特典(マタイ10:16-33):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
テラの性質(創世記11:31-32):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:救われた途端に来る敵からの攻撃(ヨシュア記10:1-7):右クリックで保存

『アモリびとの五人の王、すなわちエルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王は兵を集め、そのすべての軍勢を率いて上ってきて、ギベオンに向かって陣を取り、それを攻めて戦った。』(ヨシュア記10:5)
ギブオン人達は、欺いた事によって曲がりなりにもイスラエルと和平を結び、神の民からは滅ぼされない、という確約を手に入れたが、早くも敵は、そのギブオンに向かって攻撃を仕掛けて来た。

罪深い不品行の者達から離れ、神の民と和平を結び、救いに入った途端、元々属していた罪深い者達から攻撃を受ける。
それは、今を生きる私達も、救われた時によく経験する事である。
キリストにあって神と和解し、暗闇の王国から神の光の王国へと救われた途端、以前属していた暗闇の勢力が歯ぎしりし、再び暗闇へ引きずり戻そうと攻撃を仕掛けて来る。
『過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。』(1ペテロ4:3-5)

以前属していた暗闇の者達が攻撃を仕掛けて来た時は、まことのヨシュア(イエシュア)であるキリストに助けを叫び求めるべきである。
『ギベオンの人々は、ギルガルの陣営に人をつかわし、ヨシュアに言った、「あなたの手を引かないで、しもべどもを助けてください。早く、われわれの所に上ってきて、われわれを救い、助けてください。山地に住むアモリびとの王たちがみな集まって、われわれを攻めるからです。」』(ヨシュア記10:6)
ギブオン人達は、ヨシュアに助けを求めた。

イスラエルからすれば、ギブオンは元々、和を講じるつもりのないカナン人で騙された形で和を講じたので、心情的には、救いたくはなかったかもしれない。
そのギブオンが、今、敵であるカナン人によって攻め立てられている。
このまま放置して、自分達の手を汚さず厄介払いする、という選択肢も、あったかもしれない。
しかしヨシュア達はそうせず、戦士達を率いて、ギブオン人達を助けに上って行った。(7節)

ヨシュア達のいるギルガルからギブオンまでは、およそ35km、傾斜地を登って行く形となる。
骨折れる行軍であり、気が進まない戦いかもしれないが、それでもヨシュア達は、一度立てた誓いに忠実に従って、戦闘に行った。
一度立てた誓いは変えない、それが、主の民たる品性であり、性質だからである。
『主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。』(詩篇15:1-5)

ギブオン人のように、ついこの間まで罪深い敵だったのに、だまされて、和平を結んでしまったような相手を、骨折って助けに行くのは、心が進まないだろう。
しかし、そんな人であっても、彼らが主の元に助けを求めて来るのであるなら、いくら気乗りしなくても助けるべきである。

ひと度、主の御前で約束した事が、後になって損だと思うようになり、後悔し、やりたくない役回りに奔走するような事があるかもしれない。
しかし御前で約束した事を、忠実に従う聖徒を、主は、全面的にバックアップして下さり、大いなる御業を見させて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの中で主に守られたギブオン人達(ヨシュア記9:16-27):右クリックで保存

イスラエルの人達は、盟約を結んで3日後、実はこの者達は、盟約を結んではならないカナンのギブオン人であった事が分かった。
『長たちは皆、全会衆に言った、「われわれはイスラエルの神、主をさして彼らに誓った。それゆえ今、彼らに触れてはならない。われわれは、こうして彼らを生かしておこう。そうすれば、われわれが彼らに立てた誓いのゆえに、怒りがわれわれに臨むことはないであろう」。長たちはまた人々に「彼らを生かしておこう」と言ったので、彼らはついに、全会衆のために、たきぎを切り、水をくむものとなった。長たちが彼らに言ったとおりである。』(ヨシュア記9:19-21)

欺かれたとはいえ、イスラエルは彼らに手を出さない、と、主の御前に誓いを立ててしまった故に、彼らは手を出せなかった。
主の前で立てた誓いを翻して主の怒りが降る事を、恐れたからである。

『ヨシュアは彼らを呼び寄せて言った、「あなたがたは、われわれのうちに住みながら、なぜ『われわれはあなたがたからは遠く離れている』と言って、われわれをだましたのか。それであなたがたは今のろわれ、奴隷となってわたしの神の家のために、たきぎを切り、水をくむものが、絶えずあなたがたのうちから出るであろう」。』(ヨシュア記9:22-23)
カナン人からすれば、奴隷となる事は「呪い」に見えるかもしれない。
しかし、彼らの命は救われ、神の民の中に住む事が出来、そして、真の神の家に仕える事ができるのは、むしろ、幸いではなかろうか。

欺いてまで盟約を結んだ理由を、ギブオン人達は以下のように説明している。
「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この地をことごとくあなたがたに与え、この地に住む民をことごとくあなたがたの前から滅ぼし去るようにと、お命じになったことを、しもべどもは明らかに伝え聞きましたので、あなたがたのゆえに、命が危いと、われわれは非常に恐れて、このことをしたのです。われわれは、今、あなたの手のうちにあります。われわれにあなたがして良いと思い、正しいと思うことをしてください。」(24-25節)

彼らは確かに「うそ」をついてイスラエルの中に入ってきた、しかし彼らがそれをしたのは、主への恐れがあったからだ。
そして彼らは、自分達の生殺与奪の権を、ヨシュア達にゆだねた。
『そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。」(26-27節)

ギブオン人は確かに、最初は「うそ」でイスラエルの中に入ってきた。
しかし彼らは、少なくとも、以前の不品行や偶像礼拝などは、捨て去ったはずだ。もしイスラエルの会衆の中で、相変わらず不品行や偶像礼拝など主の忌み嫌われる事を続けたとしたなら、誰であれ、イスラエルから即刻絶たれると律法にあるからだ。
そして彼らは日々、神の家のために、イスラエルの会衆のために奉仕をし続けた結果、良い方向へと造り変えられて行ったようだ。

主は後の時代、正当にギブオン人達の側に立って、イスラエルをさばいている。
『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである。」そこで王はギベオンびとを召しよせた。ギベオンびとはイスラエルの子孫ではなく、アモリびとの残りであって、イスラエルの人々は彼らと誓いを立てて、その命を助けた。ところがサウルはイスラエルとユダの人々のために熱心であったので、彼らを殺そうとしたのである。』(2サムエル21:1)

神は、ヨシュアの時代に結ばれた誓いをずっと覚えておられ、手前勝手な熱心によって盟約違反をしたサウル王をさばき、ギブオン人をかばった。
主に対して忠実な者は、ギブオン人であれ、誰であれ、主はかばって下さり、その忠実な人を害した者は、いかにイスラエルの王であっても、主は害する。

『ダビデはギベオンびとに言った、「わたしはあなたがたのために、何をすればよいのですか。どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」。』(2サムエル21:3)
ダビデ王は、このききんの原因が、ギブオン人による、主に対する叫びが元であったと判明したので、「どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」と、丁重にギブオン人に聞いている。
『ギベオンびとは彼に言った、「これはわれわれと、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、われわれが殺そうというのでもありません」。・・・「われわれを滅ぼした人、われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人、その人の子孫七人を引き渡してください。われわれは主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」。王は言った、「引き渡しましょう」。』(2サムエル記21:4-6)

ギブオン人達は、金銀のつぐないを求めるではなく、命に対して命を取る事を求めるのでもなく、「主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」と、あくまで「主」の問題である事を言っている。
ここに、彼らの主に対する信仰が、いかにイスラエルの中で培われたかを見ることができる。
だから、この時代に至るまで彼らはイスラエルの中で守られ、主から、正当なさばきを行使していただけたのだ。

キリスト者の中にも、はじめは「うそ」をついて、教会の集まりへと入ってくる人はいる。
表向きは信仰を装っておきながら、実は、外国人と会話がしたいとか、教会の中の女性が目当てだとか。
しかし、最初の動機がどうあれ、教会のために、聖徒のために奉仕をしていく内に、きよい性質へと造り変えられ、真に救われて行く人は多い。
重要なのは以前の事ではなく、主の交わりの中において、いかに以前の邪悪な性質を捨て去り、いかに主への奉仕を忠実に行ったか、である。

礼拝説教メッセージ音声:ギブオン人達の、救われるための策略(ヨシュア記9:1-15):右クリックで保存

『さて、ヨルダンの西側の、山地、平地、およびレバノンまでの大海の沿岸に住むもろもろの王たち、すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの王たちは、これを聞いて、心を合わせ、相集まって、ヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。
しかし、ギベオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイにおこなったことを聞いて、自分たちも策略をめぐらし、行って食料品を準備し、古びた袋と、古びて破れたのを繕ったぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古ぐつを足にはき、古びた着物を身につけた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、砕けていた。』(ヨシュア記9:1-5)

カナン人の王達は相集い、ヨシュア達とあくまで戦おうとしていたが、ギブオンの住人は、戦うためではなく、和を講じるために策略をめぐらした。
彼らは、身にまとうもの全て、古びたぼろぼろのものを身につけ、いかにも遠い国からやって来たかのように装ったのだ。
『彼らはギルガルの陣営のヨシュアの所にきて、彼とイスラエルの人々に言った、「われわれは遠い国からまいりました。それで今われわれと契約を結んでください」。しかし、イスラエルの人々はそのヒビびとたちに言った、「あなたがたはわれわれのうちに住んでいるのかも知れないから、われわれはどうしてあなたがたと契約が結べましょう」。』(ヨシュア記9:6-7)

イスラエル人は、遠い国とは和を講じる事は出来ても、カナン人とは和を結ぶ事は出来ない。
次のように命じられているからだ。
『もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。・・・遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。 すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。』(申命記20:11-17)

イスラエルの人々は、その有り様を怪しいと感じたのであろう。
『イスラエルの人々はそのヒビびとたちに言った、「あなたがたはわれわれのうちに住んでいるのかも知れないから、われわれはどうしてあなたがたと契約が結べましょう」。 』(ヨシュア記9:7)
そこでギブオン人は、ヨシュア(イエシュア)に、直談判する。
『彼らはヨシュアに言った、「われわれはあなたのしもべです」。ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたはだれですか。どこからきたのですか」。彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、「主(エホバ)」の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。』(ヨシュア記9:8-10)

彼らのこの言葉は、遊女ラハブが、救われるための交渉を、ヨシュアの斥候に対して仕掛けた時の言葉と、よく似ている。
彼女も、主がエジプトやエモリ人の二人の王にされた事を聞き、主を恐れ、自分達を救ってくれるように、お願いをしたものだった。
『そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ、主のさしずを求めようとはしなかった。そしてヨシュアは彼らと和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた。会衆の長たちは彼らに誓いを立てた。』(ヨシュア記9:14-15)

ヨシュアが主の指示をあおがず、さっさと彼らと和を講じてしまったのは、早計だったと見えるかもしれない。
しかし私は思う。主は、このギブオン人達を、かばいたかったのではないか、と。
聖書の他の箇所が示す所では、主は憐れみ深いお方であり、その御翼の陰に助けを求める人は、どこの国の人でも、豊かに救って下さったからだ。
カナン人の遊女ラハブもしかり、モアブ人ルツもしかり。
彼女たちは、「主(エホバ)」を信じる信仰のゆえにイスラエルの中に入ってゆき、ダビデ王家の栄光の家系に連なった。

全ての国民は、主を恐れ、捧げ物を携えて主の大庭入るようにと、詩篇96篇で命じられている。
『もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。』(詩篇96:7-10)
ここの9節には、「聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。」とある。
ギブオン人達は、屈強な戦士であり、その町も大きく堅固であった(ヨシュア記10:2)のにもかかわらず、彼らは主の民と戦おうとせず、彼らの前に身を低くし、ぼろぼろの服を身につけ、御前におののいた。
主の御前に聖なる装いとは、自分を飾らず、へりくだって身を低くし、ただ主のあわれみにすがる事である。
そのようにしたからこそ、主は、彼らを救わせたのではないだろうか。

人は外見を見るが、主は心を見る。
ギブオン人がヨシュアに直談判し、神の国と和を講じて、滅びを免れたように、私達も、まことのヨシュアであるイエス(イエシュア)に直談判し、救いを求めるなら、救われるのである。

テラ - 歩みを途中で止めてしまった者(創世記11:27-32)
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セムの子孫達、すなわち、神をおそれ敬うべき一族は、神の前に罪深いハムの子孫達が治める地、シヌアルの地に定住し、そこで彼らは結託してバベルの塔を築こうとしたが、神によって言葉が混乱させられ、その野望は見事に砕かれ、それで人々は全地へ散って行った事を前回見た。
さらに代が下り、セムから数えて9代目の子孫、テラの歴史が、11章27節から32節の5節の内に記されている。テラは、聖書の中で最重要人物の一人 であるアブラム(後のアブラハム)の父である。
今回は、聖書上の歴史がわずか5節で終わってしまった、このテラについて見て行きたい。

『テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。』(創世記11:31)
カルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝や不品行が盛んな町で、ヨシュアは次にように言っている。
『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていた』(ヨシュア記24:2)
テラは元々、他の神々に仕えていたが、その罪深い地を出て、カナンに向かっていった。主は「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主」(15:7)と言っているので、もしかしたら、アブラムが主から示しを受けて、父テラと妻と甥のロトを連れ出したのかもしれない。
ところがテラは、どういう訳か、目的地であるカナンまでは行かず、途中のハランで足を止めてしまい、そこに定住し、結局そのハランで骨を埋める事となった。(創世記11:32)
どういう訳でテラがそこに住み着いたのか分からないが、神の御心は、セムの子孫はカナンへ行くべし、というものだった事が、聖書の後の歴史を見るとわかる。

『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。』(創世記12:1-2)
私達も、神様から行けと命じられた時は、行くべきである。
いかに親や子が、家族が、そこに留まろうとも。そこが不品行と偶像礼拝に満ちているなら、なおさらである。
もちろん、さっさと家族を捨ててしまえという事ではない。明確な主からの召命が無い限りは、家族の元に留まって、家族の救いのため労するべきである。アブラムも、75歳まで父の元に留まった。
しかし、どうしても家族が主の御言葉に従わないなら、やがて主から「離れなさい」と言われる「時」が来る。
テラはカナンという目標があったのに、ハランで歩みを止めてしまい、結局そこで死んだ。それで、テラの歴史は、聖書ではたった5節で終わってしまった。
ずっと後のイスラエルの民も、カナンへ行きなさいと言われたのに、行きたくないとか、エジプトに帰りたいとか言い続け、やがて時が来てしまい、彼らは約束の地を見る事なく、荒野で死ぬ事となってしまった。

神様から「これをしなさい」「ここに行きなさい」と、道が示されているのに、それをしないまま、生まれながらの罪深い所や、自分の好む所に留まり続けるなら、次の道は、神様から決して示されない。
神様が右へ行けと言われ、右へ行くなら、はじめて、次の道が示される。それが神様の導き方である。
人がどうしても左が好きで、右に行かないなら、神様はその次は決して示されない。しかも人は、左の次へ行きたいのに、神様は中々、次の道を開いて下さらない、と、文句を言うものである。
しかし御心が右であるなら、その人が方向転換して右に行かない限り、次の道は決して示されないのだ。
主の御言葉は「足のともし火」とある通り、御言葉は先々を照らす強い光ではなく、足元を照らすだけの光である。人はその光の弱さを見て、心細い思いがするかもしれないが、むしろ、それで充分である。
なぜなら人は、主のご計画の遠い将来まで見てしまったら、その道は嫌だと言うのが関の山だからだ。
もしアブラムに、予め、子供ができるのは25年後で、その子は捧げなければならず、しかも生きている間に相続できるのは、マクペラの洞穴だけだ、と言われていたなら、彼も父の家を出ないでいたかもしれない。
御言葉のともし火にただ導かれ、その一歩一歩を信仰によって進み、その都度、導きを頂いて、着実に祝福の人生を歩んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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生ける石として、霊の家に築き上げられよ(1ペテロ2:1-10):右クリックで保存

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ノアはなぜハムではなくカナンを呪ったかの謎(創世記9:18-29):右クリックで保存

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