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向かう所敵なし状態になるための秘訣(ヨシュア記11:10-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
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- pastor 2014-7-19 13:52
礼拝説教メッセージ音声:向かう所敵なし状態になるための秘訣(ヨシュア記11:10-23):右クリックで保存
『その時、ヨシュアはひきかえして、ハゾルを取り、つるぎをもって、その王を撃った。ハゾルは昔、これらすべての国々の盟主であったからである。』(ヨシュア記11:10)
ハゾル(ハツォル)は、ガリラヤ湖の北15kmほどの町で、周辺地域の首都的な場所だった。
エリコの時のように、ハツォルの町を攻撃した時は、人も全て家畜も聖絶し尽くしたが、その他の町々は、アイの時のように、人は聖絶し尽くしても家畜は分捕って良いとされた。
『主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。』(ヨシュア記11:15)
私達も、御言葉が示されたなら、その通りに守り行うべきであり、御言葉に対して付け加えたり、除いたりしてはならない。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
『ヨシュアはこれらすべての王たちと、長いあいだ戦った。』(ヨシュア記11:18)
これら王達との戦いは、どのくらい続いたのか。
士師記の1章を見ると、ヨシュア達の後の世代のイスラエル12部族は、それぞれの領地で先住民を聖絶し尽くさず、そのわずかに残った先住民が仇となって、士師記の荒んだ時代が始まった。
つまり、このヨシュア記11-12章の戦闘で、敵に壊滅的なダメージを与えたものの、生き残った者達(ヨシュア記10:20)を徹底して滅ぼず事をせず、残したままにしてしまったのだろう。
『ギベオンの住民ヒビびとのほかには、イスラエルの人々と和を講じた町は一つもなかった。町々はみな戦争をして、攻め取ったものであった。彼らが心をかたくなにして、イスラエルに攻めよせたのは、もともと主がそうさせられたので、彼らがのろわれた者となり、あわれみを受けず、ことごとく滅ぼされるためであった。主がモーセに命じられたとおりである。』(ヨシュア記11:19-20)
これらの住民の心を頑なにしたのは、主である。(ローマ9章) エジプトのパロの時も、そうであった。
それは、彼らは主の恵みが示されてたのに、悔い改める事をせず、かえって恵みと憐れみを放縦に変えてしまい、ほしいままに罪深いことを行っても、中々裁きが下されないので、いい気になって、四百年もの長きに渡って神の民を圧迫し、弱い人達を圧迫し続け、その叫びが天に達したために、ついには憐れみの時は尽き、主は彼らを滅ぼすために、心を頑なにされたのだ。(創世記15:16、19:13、出エジプト記3:7-9、7:3)
『こうしてヨシュアはその地を、ことごとく取った。すべて主がモーセに告げられたとおりである。そしてヨシュアはイスラエルの部族にそれぞれの分を与えて、嗣業とさせた。こうしてその地に戦争はやんだ。』(ヨシュア記11:23)
以上、ヨシュア記11章までは、ヨシュア達がカナンをほぼ平定するまでの戦いが概略的に記されており、12章以降では、戦いや土地の分配についての詳細な記録が続く。
ヨシュアが生きている間は、向かう所敵なしの、連戦連勝状態だったが、その秘訣はやはり、次の御言葉だろう。
『主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。』(15節)
ヨシュアは主に命じられた通り、御言葉から右にも左にもそれなかったがために、ことごとく勝利を得、誰もヨシュアの前に立ちはだかるものがいないようにされたのだ。
全ては、主がヨシュア記1章で約束して下さった通りである。
『あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。
ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(ヨシュア記1:5-8)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主のしもべの義務と特権(イザヤ書49章):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
わたしは剣をもたらすために来た(マタイ10:34-42):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
地上の歩み方と聖徒の歩み方(伝道者の書7:15-20):右クリックで保存
【概要】
知恵の追求と神との歩みについての教え
【聖書箇所】
伝道者の書7:15-20
ガラテヤ人への手紙5:16-17, 24
創世記17:1
【戒めの言葉】
この世の知恵に頼るのではなく、神の知恵を求めましょう。
【勧めの言葉】
神と共に歩み、御霊に導かれて生きる者となりましょう。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書7章15節から20節です。ソロモンはこの世の中で様々なことを見てきて、次のような結論に達しました。「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない、愚かすぎてもいけない。」
一見すると、これは賢明な助言に聞こえるかもしれません。しかし、私たちクリスチャンにとって、これは神の望まれる生き方ではありません。
神は、アブラハムに「私はエル・シャダイである。あなたは私の前を歩み、全きものであれ」(創世記17:1)と言われました。また、イエス様も「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」(マタイ5:48)と教えられました。
では、罪ある人間である私たちはどうすれば良いのでしょうか。それは、神と共に歩むことです。エノクもノアも「神と共に歩んだ」と聖書は記しています。神と共に歩む人は、全き者となることができるのです。
ガラテヤ人への手紙5章16-17節には「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」とあります。
私たちクリスチャンは、御霊によって歩む者です。御霊に導かれて生きる時、私たちは神の知恵を得、神の聖さにあずかることができます。
ソロモンは「正しすぎてはならない、知恵がありすぎてはならない」と言いましたが、これは神の知恵ではなく、この世の知恵です。私たちは逆に、神の知恵を求め、神の御言葉をむさぼるように学ぶべきです。御言葉は私たちを霊的に健やかにし、成長させてくれます。
イエス・キリストこそが真の知恵です。ヨハネの福音書の冒頭で、イエス様は「ロゴス(言葉、理性)」と呼ばれています。このロゴスなるお方が私たちと共に住まわれることこそ、究極の知恵であり、私たちの命そのものなのです。
【結論】
私たちは、この世の中庸を行く知恵ではなく、神の知恵を求めましょう。イエス・キリストと共に歩み、御霊に導かれて生きる時、私たちは真の知恵を得、神の聖さにあずかることができます。永遠を見据えて、神の御前を歩む者となりましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
旅人であり寄留者である私達(創世記12:4-9):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:人の兵器を打ち壊される主(ヨシュア記11:1-9):右クリックで保存
ヨシュア率いるイスラエルによって、死海西岸地域がほぼ制圧された事が、周辺地域に知れ渡った。
『ハゾルの王ヤビンは、これを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、およびアクサフの王、また北の山地、キンネロテの南のアラバ、平地、西の方のドルの高地におる王たち、すなわち、東西のカナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、山地のエブスびと、ミヅパの地にあるヘルモンのふもとのヒビびとに使者をつかわした。そして彼らは、そのすべての軍勢を率いて出てきた。その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった。』(ヨシュア記11:1-4)
ハゾル(ハツォル)は、ガリラヤ湖より北側の都市である。
10章は、死海の西から南西地域にかけての戦いの記録であったが、この11章は、そこからさらに北方での戦いの記録である。
「その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった。」と記されているからには、敵は、装備も数もかなり揃えて、イスラエルに攻めて来たのだろう。
装備と数だけを見るならば、イスラエルは圧倒的に不利に見えたかもしれないが、主は再びヨシュアを励まして下さる。
『「彼らのゆえに恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らを皆イスラエルに渡して、ことごとく殺させるであろう。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼かなければならない」。そこでヨシュアは、すべてのいくさびとを率いて、にわかにメロムの水のほとりにおし寄せ、彼らを襲った。主は彼らをイスラエルの手に渡されたので、これを撃ち破り、大シドンおよびミスレポテ・マイムまで、これを追撃し、東の方では、ミヅパの谷まで彼らを追い、ついにひとりも残さず撃ちとった。』(ヨシュア記11:6-8)
主は今回、”いつ”までに敵を渡されるかは示されたものの、アイの時のように”方法”は示されなかった。
しかしヨシュア達はすぐさま、敵を打ち破るために、普通に出て行った。
今回の戦いでは、主が特に奇跡的な事を起こされた記述は無いが、それでも彼らは大勝利を収めた。
人は何かと、自分でプランを立て、その計画どおりに進む生き方に慣れているため、”方法”を知りたがるものであり、また、前回は主は雹を降らせて下さったから、今回もそうして下さい、と、過去に主がして下さった事を期待しがちであるが、主の方法は人の思い計りに囚われるお方ではないし、ワンパターンなお方でもない。
主は、主の御声に聞き従う人には、どんな方法であっても勝利させて下さるのである。
『ヨシュアは主が命じられたとおりに彼らに行い、彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた。』(ヨシュア記11:9)
これもまた不思議な命令に見えるかもしれないが、主は、馬の力を喜ばず(詩篇147:10-11)、戦車や軍馬のような、人を攻撃し殺めるような”兵器”を喜ばれない。
今までカナンの地で人々を蹂躙して来た馬や戦車などは、この地にはもう必要ない物であり、これからは、そうした兵器に頼るのでなく、ただ主にのみ頼って生きるのが、この”約束の地”での生き方ある。
主の救いは、馬や兵器によるものではなく、むしろ、ひとりのみどりごによって、もたらされるのだ。
『すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:5-)
主は、人々が編み出した兵器を火の中に投げ込み、人々の罪や傲慢の結果である悲惨を打ち壊し、人の目から涙をすっかり拭い去って下さり、とこしえにダビデの王座について、平和の統治をして下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:連戦連勝の理由(ヨシュア記10:28-43):右クリックで保存
28節から39節までは、「ヨシュア達は**の町を攻め寄せ、主がそこを手に渡されたので全ての住人を聖絶した」といった記述が7回続き、じつに、とんとん拍子に勝ち進んで行った事がわかる。
行く町々を聖絶していく、というのは、残酷なように思えるかもしれないが、一体なぜ神は、こんなにもイスラエルに味方し、徹底的にこの地の住人を滅ぼさせたのだろうか。
ヨシュア記の戦いは、力づくで他国を自分色に塗り替えたり、富や利権を分捕ったり、欲しいままに略奪したり殺したりして、所有欲や破壊欲を満足させるような「世の戦争」とは、全く違う。
主が「約束の地」「乳と蜜の流れる地」と示した地は、主の御心が常に注がれている地であるにもかかわらず、その地に住んだ住人は、端から端まで暴虐や不品行に満ちており、その町々の叫びは天にまで届き、ついにのそ悪は、主の憐れみの目盛りを超えてしまったために、主は、イスラエルの民を用いて、その地の悪い者達を滅ぼされたのだ。(創世記15:16、申命記9:4)
『あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。』(申命記7:6)
主は、主の民を「聖なる民」「自分の宝の民」とされた。
聖なる主の宝の民であるからには、先住民がそこで行っていた汚れに染まってはならず、その痕跡を、残してはならなかったのだ。
それはキリストにある私達も同じであり、以前の暗闇の生き方を捨て去るべきだ。
私達の内から滅ぼし尽くすべきものは、肢体に宿る、主に敵対する欲望である。
『地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)
私達の内に巣食う、とめどもない情欲や、頑固に定着してしまった罪深い行動パターンを見るに、これらと戦っても、絶対にかないそうにない、と思うかもしれない。
ちょうど、イスラエルの民が当初、先住民を見て「絶対かなわない」と、しりごみしたように。
しかし、私達がまことのヨシュア(イエシュア)であるイエス様に従順し、その御声に聞き従い続けるなら、御霊が働いて下さり、私達の内に巣食う情欲や不品行などを殺し、今まで自分には到底入れなかったような、きよい、安息の領域へと、やすやすと入って行けるのである。
「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)
私達の人生の中に巣食って来た邪悪な強敵、不品行と暴虐の”カナン人”を打ち取るためには、私達自身も自ら信仰の戦いに参加する必要がある。
ちょうど、ヨシュア達の軍隊が、剣を実際に手に取り、敵陣へと足を用いて走って行ったように。
御言葉に聞き従って行動を起こすなら、敵陣に石を降らせ、太陽や月の動きを止めてまで、イスラエルに味方して下さった主が、私達にも味方して下さり、私達の内外で苦しめて来た邪悪な”カナン人”と戦って、勝利して下さるのだ。
『イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った。』(ヨシュア記10:42)
ヨシュア記10章の快進撃を読んでいると、とても弱い敵と戦っていたかのように見えるが、決してそうではない。
これら7つの民は、イスラエルよりも数多く、強かったし、実際に40年前、彼らの父の世代は「こんな強い民とは戦えない」と恐れ、夜通し泣き明かし、エジプトに帰ろうとまで言い出した程だった。
しかし、父たちの世代があんなに恐れたカデシュ・バルネア以北の国々は、いとも簡単に制圧された。
それは「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われた」(42節)おかげである。
『そしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、ギルガルの陣営に帰った。』(ヨシュア記10:43)
このギルガルは、主がヨルダンの水を枯らして下さった所を、ヨシュア達が渡って最初に降り立った地であり、そこには、川底から持ってきた12の石の記念碑が建てられている。
そして、40年来、無割礼だった状態を脱却し、割礼を受けて、肉を切り捨てた所であり、最初の過越祭を祝った地でもある。
ギルガルはいわば、信仰の原点の地である。
主が大勝利させて下さった後、彼らは勝利に浮かれる事なく、分捕りに奔走してむさぼる事なく、すぐに信仰の原点へと帰ったのだ。
私達も、大勝利した直後こそ、初心に帰るべきである。
礼拝説教メッセージ音声:敵を足の下に踏ませて下さる主(ヨシュア記10:16-27):右クリックで保存
今回の戦いは、主ご自身が直接戦って下さり、敵の上に石を降らせて下さったばかりでなく、地球まで動かして、敵を追撃する事を助けて下さった。
敵にとってはさんざんな、味方にとってはまことに頼もしく喜ばしい戦いだったろう。
『かの五人の王たちは逃げて行って、マッケダのほら穴に隠れたが、五人の王たちがマッケダのほら穴にかくれているのが見つかったと、ヨシュアに告げる者があったので、ヨシュアは言った、「ほら穴の口に大石をころがし、そのそばに人を置いて、守らせなさい。ただし、あなたがたは、そこにとどまらないで、敵のあとを追い、そのしんがりを撃ち、彼らをその町にはいらせてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからである」。』(ヨシュア記10:16-19)
この戦いは、敵の王将を討ち取れば、それで終わり、というものではない。
主の命令は、元々、この地の者達を聖絶し、邪悪な神々の像を破壊し尽くして、平定する事にある。
だからヨシュアは、その王達はそこに閉じ込めておき、他の皆で残りの敵を追撃するようにと命じたのだ。
この戦いの始まりは元々、偽って同盟を結んできたギブオン人が「襲われているので助けて欲しい」と嘆願して来たのが発端で、イスラエル人からすれば、なんでギブオン人なんかのために、という思いもあったかもしれない。
また、ギルアデからギブオンまでの、およそ35kmの道のりを、夜通し急行して戦い、しかも、太陽は一昼夜沈まず、その間もずっと戦っていたため、彼らには確かに疲れはあったかもしれないが、彼らは倒れる事は無かった。
何より、地球の動きを止めてしまう程の偉大な主が、自分達を助けて下さるためにそれを為して下さり、その主が味方となって戦って下さるとは、どれ程の栄誉、どれ程の幸いだろうか。
私達は、日々の主との歩みにおいて、そのような栄誉と幸いを、果たして感じているだろうか。
私達は、時に疲れを覚え、今為している事の働きの意味を見失ってしまうことがあるかもしれない。
「なんでこんな人のために、休まずに働かなくてはならないのか」と思える時も、あるかもしれない。
しかし、今働いている事が、神の国のための働きであり、着実に御霊の実を結び続けているのであるなら、たゆまずそれを続けるべきである。
『人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。』(ガラテヤ6:5-10)
『ヨシュアとイスラエルの人々は、大いに彼らを撃ち殺し、ついに彼らを滅ぼしつくしたが、彼らのうちのがれて生き残った者どもは、堅固な町々に逃げこんだので、民はみな安らかにマッケダの陣営のヨシュアのもとに帰ってきたが、イスラエルの人々にむかって舌を鳴らす者はひとりもなかった。』(ヨシュア記10:20-21)
一体誰が想像しただろうか。
この広大な死海西岸地域を、わずか数日で、一気に平定してしまう事を。
もはやこの戦いは、当初の、ギブオン人を助けるという小さな枠組みを超え、主の偉大な御旨を一気に成就させるためのものであり、主の栄光が一気に広まるものとなった。
『かの五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王を、ほら穴から彼のもとにひき出した。この王たちをヨシュアのもとにひき出した時、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、自分と共に行ったいくさびとの長たちに言った、「近寄って、この王たちのくびに足をかけなさい」。そこで近寄って、その王たちのくびに足をかけたので、ヨシュアは彼らに言った、「恐れおののいてはならない。強くまた雄々しくあれ。あなたがたが攻めて戦うすべての敵には、主がこのようにされるのである」。
そして後ヨシュアは彼らを撃って死なせ、五本の木にかけて、夕暮れまで木の上にさらして置いたが、日の入るころになって、ヨシュアが命じたので、これを木からおろし、彼らが隠れていたほら穴に投げ入れ、ほら穴の口に大石を置いた。これは今日まで残っている。』(ヨシュア記10:23-27)
主がイスラエルのために戦い、石を降らせ、太陽まで止めて、この5人の王に打ち勝たせ、足の下に踏ませて下さった。
イスラエル人達は、どれほど勇気づけられ、敵は、どれ程恐れおののいた事だろうか。
私達も、御言葉に従順となり、善にさとく、悪にうとくあるなら、主は速やかに、私達の足を用いて、悪しき者どもを足の下に踏ませて下さるのだ。
『あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。』(ローマ16:19)
主の敵は、どんなにおごり高ぶっていようとも、必ず滅ぼされ、主に信頼して歩む者は、驚くべき主の御力によって守られるのだ。
「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります。」(黙示録15:3-4)
アブラム - 主と共に歩む人(創世記12:1-9)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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アブラム、後のアブラハムは、聖書の中の最重要人物の一人であり、彼は、肉においてはイスラエル民族・アラブ民族の父であり、霊的には、信仰によって救われる全ての人の父であり、信仰の父と呼ばれている。
アブラムの名は「父が高められる」という意味であり、後の名、アブラハムは「多くの国民の父」の意味である。
今回から、アブラムと、彼をとりまく周囲の人物とに焦点を当てて見て行きたい。
『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』(創世記12:1-2)
主は、アブラムを「祝福」すると仰せられた。この1-3節に、祝福という言葉が5回も出てくる。
祝福には条件がある。すなわち、まず父の家を「出る(ハーラフ)」事、そして、主が示す地へと行く事だ。
この「(ハーラフ:歩む、歩き回る)」という語は今回の箇所(1-9節)だけで5回用いられている。(1,4,5,9節)
アブラム、すなわちアブラハムの人生について回る重要なキーワードは、「祝福」と「ハーラフ」である。
神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
アダム系図の中で、エノクとノアの二人は「神と共に歩んだ(ハーラフ)」と記されており(創世記5:22-24, 6:9)、アダム系図の中で、特に際立った信仰の持ち主であるこの二人に、共通した性質である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、アブラムに「アブラハム」という新しい名が与えられる時も、主は「ハーラフ」を命じている。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」(創世記17:1)
アブラムが身勝手に自分の考え・自分の力で奴隷女ハガルとの間に子供イシュマエルをもうけた後、13年もの間、霊的空白期間が続いてしまったが(創世記16:16-17:1)、いよいよアブラムの肉の力が尽き、生殖機能はもう死んだも同然の99歳の時、主が特に強調して命じられた事が、(自主的に)主の前に歩む事、全き者となる事だった。
ここの「歩み」なさいという要求には、ヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われており、すなわち、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に「歩みなさい」、と命じられているわけである。
私達も、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に、主と共に歩もうとする事こそ、重要である。
「あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」私達も、自発的に主と共に歩むなら、「全き者」となる。
その「全き者」とは、道徳基準における完全さの事ではない。私達は罪があり、義において完全な者など、一人もいないが、アブラハムのように、ただ信仰によって、神と共に歩む事によってのみ、「全き者」となる事が出来るのである。頑張って良い子になるよりも、神と共に歩む事こそ、主が望んでおられる事なのだ。
『だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。・・・このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。・・・律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:7-11)
『アブラムは主が言われたように「いで立った」。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを「出た」時七十五歳であった。アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとして「いで立ち」、カナンの地にきた。』(4-5節、「」内がハーラフ。)
アブラムの信仰のはじめの歩みは、神と共に「歩む」事の連続だった。失敗も当然あったが、彼は神と共に歩む道から離れなかった。それに対し、彼の父テラは、共に歩む事を途中で止めてしまった。
「テラは・・・カナンの地へ「行こうと(ハーラフ)」カルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。」(創世記11:31) 神と共に歩む事を止めてしまうと、その人にとっての「永遠の時」はそこでストップしてしまう。しかし、神と共に歩むなら、その人は永遠に生きるのだ。(黙示録21:3)
アブラハムのように主と共に歩み、主の前に全き者となり、主と共に永遠に生きる皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:宇宙をも動かしたヨシュアの祈り(ヨシュア記10:8-15):右クリックで保存
ヨシュア達からすれば、気乗りしない戦いだったかもしれないが、それでも、彼らが主の前に立てた誓いの故に行動を起こした時、主は言葉をかけて下さった。
『その時、主はヨシュアに言われた、「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らのうちには、あなたに当ることのできるものは、ひとりもないであろう」。』(ヨシュア記10:8)
人が主に対して忠実に行動するなら、主はそれを全面的にバックアップして下さる。
それも、人々があっと驚くような形で。
『ヨシュアは、ギルガルから、よもすがら進みのぼって、にわかに彼らに攻めよせたところ、主は彼らを、イスラエルの前に、恐れあわてさせられたので、イスラエルはギベオンで彼らをおびただしく撃ち殺し、ベテホロンの上り坂をとおって逃げる彼らを、アゼカとマッケダまで追撃した。
彼らがイスラエルの前から逃げ走って、ベテホロンの下り坂をおりていた時、主は天から彼らの上に大石を降らし、アゼカにいたるまでもそうされたので、多くの人々が死んだ。イスラエルの人々がつるぎをもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった。』(ヨシュア記10:9-11)
イスラエル人達が夜通しギブオンまで急行した所、主ご自身が戦って下さった。
天から雹の石を降らせる事によって。
しかも、イスラエルの人達が倒した数より、雹で打たれて死んだ数の方が多かったのだ。
あまりに出来過ぎた話であり、人はこれを「うそだ」とか「たまたまだ」と言うかもしれないが、主は、主に信頼して御言葉に従って歩む人には、自然現象を通しても、あるいは自然を超越した現象を通しても、働かれるのだ。
『主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、/「日よ、ギベオンの上にとどまれ、/月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。民がその敵を撃ち破るまで、/日はとどまり、/月は動かなかった。これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。
これより先にも、あとにも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。』(ヨシュア記10:12-14)
これは、聖書の中でも、最も大いなる奇跡ランキングのトップスリーに、紛れも無く入る出来事だろう。
日が沈まずにそのまま留まる、という事は、その時だけ地球の自転が停止したか、地軸が傾いて白夜のようになったか、とにかく、宇宙規模の何かが起こったわけである。
実は、この出来事は、NASAの科学者達によって、実証されている。
人工衛星を打ち上げるにあたり、過去や未来の太陽・月・惑星などの位置を計算するのだが、太陽や地球が一日の例外もなく、普通に回って来た事を前提として計算すると、どうしても、計算が合わなくなってしまうのだ。
そこで、科学者の一人が、聖書の中のこのヨシュア記から、一日太陽が沈まなかったという記述を発見して、一日太陽と月の動きが止まった事を計算に入れた所、計算結果はかなり精度が良くなったという。
しかし、まだ誤差があって、計算が合わない。
そこで、さらに聖書の記述を調べた所、ヒゼキヤの時代に、神がヒゼキヤの祈りを聞いて日時計が10度傾いた記述(2列王記20:9-11)も発見し、それも計算に代入した所、全てのつじつまがぴったり合ったというのだ。
一人の人の祈りが、地球を動かす。人はそれを到底信じられないかもしれない。
しかし神様は、人が御心に適った祈りをするなら、いかに地球を動かすような宇宙規模の内容であれ、聞いて下さるのだ。
それはひとえに、主が栄光をあらわすためである。
なぜなら、全被造物は、主の栄光のために創られているからだ。
『日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。いと高き天よ、天の上にある水よ、主をほめたたえよ。・・・火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、・・・彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。』(詩篇148編)
私達は、太陽や月が明日も必ず上って沈む事を、何の疑いもなく信じているが、よくよく考えると、それも不思議だとは思わないだろうか。
何万年、何億年と、太陽や月が毎日、たがわず律儀に上ったり沈んだりして来たのだ。しかも、たった2回の例外を除いて。
それも、それらの例外は、ちょうどヨシュアの軍団にとって都合よく、神の民の敵に対して都合悪いタイミングに。また、ちょうどヒゼキヤが祈り願ったタイミングに。
実に不思議であるが、もっともっと不思議な事は、この地球や太陽を含む森羅万象の源であられ、それら全てを支配しておられるイエス・キリストが、こんなちっぽけな私達の内に、宿っておられる事だろう。
『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。』(ヨハネ14:20-21)