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御言葉朗読(民数記7:10-88):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:省かれる事の無い捧げ物の目録(民数記7:10-89):右クリックで保存
この民数記7章は、聖書の中で2番目に長い章であり、そしてその中には、イスラエル12部族が主のために捧げた捧げ物の細かな内容が記されている。
主は、イスラエル12部族が捧げものをする上で、一日に一部族ずつが捧げるように、命じられた。
『第一日に供え物をささげた者は、ユダの部族のアミナダブの子ナションであった。
その供え物は銀のさら一つ、その重さは百三十シケル、銀の鉢一つ、これは七十シケル、共に聖所のシケルによる。この二つには素祭に使う油を混ぜた麦粉を満たしていた。また十シケルの金の杯一つ。これには薫香を満たしていた。また燔祭に使う若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の小羊一頭。罪祭に使う雄やぎ一頭。酬恩祭の犠牲に使う雄牛二頭、雄羊五頭、雄やぎ五頭、一歳の雄の小羊五頭であって、これはアミナダブの子ナションの供え物であった。』(民数記7:12-17)
このように第一日はユダ部族の代表が捧げた、そして第二日、第三日と、一部族ずつそれぞれの部族の代表が捧げて行くのだが、おのおのの部族が捧げた内容は、全て同じで、しかも、その数も、重さも、器の中に満たしたものも、全て一緒である。
ユダ部族が一番多く、マナセ族はその半分以下だが、ユダ部族は多く捧げ、マナセ族は少ないという事も一切なく、全て一緒である。
この箇所は、あたかもコピーペーストした内容をひたすら繰り返し読んでいるように、内容に起伏が無く、長い箇所なので、朗読する側も、聞く側も、飽き飽きしくるかもしれない。
しかし、各部族が捧げた物がいかに同じであったとしても、「以下同文」などと省かれる事はなく、一つも漏らさず記された。
同じように、私達が主に捧げたものも、奉仕も、全て、天の書物に正確に記録され、一切省かれるものが無いのだ。
私達は、主イエスにあって祭司である。
一つ一つの恵みを数えて感謝し祈る事や、家庭や職場を執り成す日々の祈りは、時に、あまりに同じ文句を祈っているようで、飽き飽きして来る事もあるかもしれない。
しかし、私達はそういう事に、飽きてはならない。
主の働き人も、もし誰かから献金や献品をいただいた場合、それが、わずかな食事の一杯であったとしても、ないがしろにせず、主に感謝し、その人のために主に執り成して祈る事を、省くべきではない。
これらイスラエル各部族が捧げた品々は、尊い器で、尊い事に用いられた。
将来の不信仰な王の時代に、強国への貢物にされてしまったり、バビロンの捕囚先ではベルシャツァル王によって、これら神殿の尊い器が宴会のさかなにされたりもしたが、主は真実なお方であり、そのような悪い者への報いはきっちり果たされ、そしてさらに将来、エズラによって、これら器は、再びエルサレムの神殿へと返された。
私達は、主の器であり、また、聖徒を導く人は、主の器を運ぶ者である。
私達は自分自身が尊い事に用いられる器として、日々自分を整えるべきであり、そしてまた、主から託された尊い器を、主の御元に納められるその日まで、しっかり管理するべきである。
礼拝説教メッセージ音声:奉仕者の便宜を思った献品(民数記7:1-9):右クリックで保存
『モーセが幕屋を建て終り、これに油を注いで聖別し、またそのすべての器、およびその祭壇と、そのすべての器に油を注いで、これを聖別した日に、イスラエルのつかさたち、すなわち、その父祖の家の長たちは、ささげ物をした。彼らは各部族のつかさたちであって、その数えられた人々をつかさどる者どもであった。』(民数記7:1-2)
モーセが幕屋を建て終わって聖別した日は、出エジプト記40:17によると、第二年目の1月1日であるので、時間的に少し遡った時の事を記している。
この民数記7章は、その日、イスラエル12部族の代表達の捧げ物について詳細に記している章で、聖書全体の中では、2番目に長い章である。
今までは捧げ物というと、動物のいけにえ等、直接主に捧げるものが多かったが、彼らはこの時、主の働き人にとって、「これがあるととても便利なもの」を捧げた。
『彼らはその供え物を、主の前に携えてきたが、おおいのある車六両と雄牛十二頭であった。つかさふたりに車一両、ひとりに雄牛一頭である。彼らはこれを幕屋の前に引いてきた。 』(民数記7:3)
彼らが捧げたものは、幕屋のもろもろの道具を運搬するための、車だった。
モーセが幕屋を建て終わり、イスラエルの民は、主の働き人達にとって便利なものは何だろう、と考えて、それらを準備したのだろう。
直接的な礼拝も主に喜ばれるが、主の働き人のために便宜を考え、それを捧げる事も、立派な礼拝である。
パウロも、彼らのために便宜をはかってくれたピリピの人達を喜んで、それは主が喜んで受けて下さる供え物だ、と書いている。
『私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:18-19)
これらの車は、ゲルション族に二両、メラリ族に四両渡され、ケハテ族には一両も渡されなかった。(民数記7:7-9)
なぜなら、ゲルション族は幕屋の幕、布製品など、比較的軽いものを運ぶ担当で、メラリ族は、板や土台など、重いものを運ぶ担当であったが、ケハテ族が運ぶものは聖所の中の尊いもの、直接担いで運ばなければならないからであり、それらを必要としなかった、いやむしろ、それらを用いてはならなかったからだ。
聖徒の献品には、ある奉仕者には非常に助かるものもあるが、別の奉仕者にはそれが全く必要ない、むしろ、それを用いてはならないタイプのものもあるのだ。
ダビデの時代、ケハテ族が担いで運ぶべき契約の箱を、車を用いて運ぶという、「してはならない事」をした事があった。
ダビデも民も、神の箱が自分達の都に来る事を、大いに喜び踊ったが、牛車の牛が車をひっくり返そうとし、その時、ウザが箱を支えた所、ウザは聖なる箱に触れたため、主に打たれて死んでしまった。
ダビデ達の主を喜ぶその志は、人の目には良いものだったかもしれない。ウザのした事も、なぜ悪いのか、と人は思う。
しかし、主の法則を外した形で「主の契約」や「主の御言葉」が運ばれるのは、良くないのだ。
もしこの事件が無かったら、民の興奮と盛り上がりの中、律法はなおざりにされたままになっていたであろう。
しかし、この出来事の故に、ダビデはおそれをもって律法を調べ、正しい方法で契約の箱を運ぶ事となり、ますます恐れをもって主に仕えるようになった。
私達も奉仕する時、正しく御言葉にそっているかどうかを、常に点検すべきである。
栄光の家系の女達 – ラハブ1 城壁の町で身売りする日々から(ヨシュア2:1−7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イエス・キリストの系図に登場する二人目の女性は、ラハブである。
タマルの時代から下る事およそ五百年、死海北岸付近の、岩砂漠に囲まれたエリコという城塞都市である。
彼女は、イスラエル人が結婚するなどとんでもないとされている、カナン人で、しかも、遊女であった。
カナン地方は不道徳な地域で、弱肉強食の世界で、戦争も多かったが、それでも、彼女がエリコという堅固な城塞都市に住めた、という点では、生きて行く上では若干、有利な立場を得ていたかもしれない。
しかし決して、裕福な家に生まれた訳ではなかった。「将来、遊女になりたい」などと希望する子供など、いないだろうし、自分の家族が遊女になって欲しいなどと思う者は、いないだろう。
それでも彼女が身売りをしなければならなかったのは、それでも、生きて行かなくてはならなかったからだ。
先祖代々、補強して来た城壁の、その壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた、好きでもない男達に身を売り、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
彼女が「神殿娼婦」だったとしても、彼女が仕えるカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活を良い方向に変えるわけでも、生き方が改善するわけも、全然無かった。彼女の信じる神々も、決して変わる様子も無い膨大な日々も、ただ、彼女から若さと将来と希望を、削ぎ取って行くだけだった。
そんな彼女は、ある噂を聞いていた。すなわち、力ある唯一の神と、その神に導かれている民族について。
その民族は神の民と呼ばれ、神から与えられた律法を有し、優れた道徳と規律を持っている。
その民はエジプトを徹底的に敗退させ、海を割って渡り、水も食物も無い荒野で四十年もの間、超自然的に養われ、川向こうの強力な王達を滅ぼし、そして今、このエリコをも滅ぼそうと、近くまで来ているという。
過酷な要求ばかりする神々に搾取され、ただ過酷なだけのこの現実の日々は、もうすぐ、その正しき神とその民の制裁によって、崩壊するかもしれない。それも良いかもしれない。ただ願う事なら、自分達もその神の憐れみにすがって、救われたい。でも、彼らとコンタクトを取ろうにも為す術はなく、どうにもならない。
しかし、彼女のその心は、全能なる神に届いていた。なぜなら主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださるからだ。(2歴代誌16:9)
そんなある日、彼女の元に、二人の男性が来た。彼らは今までのどんな男とも違い、分別と秩序があった。
彼女は直感した。彼らこそ、あの神の民で、斥候としてこの地を探りに来たのだと。
エリコの王が彼らを捕らえる為、兵士達を遣わし、家の戸を叩いた時、彼女は究極の決断を迫られた。
すなわち、エリコの側につく者として彼らを差し出し、王からいくばくかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか。それとも、神につく者として、彼らをかくまい、神の民に入るための交渉を仕掛けるか。
彼女は、神につく決断を下した。リスクを犯して彼らを屋上に連れて行って、穂の束の間に彼らを隠した。(ヨシュア2:1-7) そうして彼女は、栄光の家系に入るチケットを手にした。
城壁の町で身売りをする日々から救われて神の民に入りたいと願っていたラハブに、神は目を留め、使いを送られたように、コンクリート砂漠の壁の中で、身売りをしつつ虚しく日々を過ごしている私達全てに、主は目を留めておられる。そしてもし、主に救いを求めるのであれば、神の国からの使いが直接訪ねて来る。
その時、決断しなければならない。滅び去っていくべき、罪にまみれた生活を捨て去り、新しい、きよい生き方へと飛び込むか。それとも、今まで通り、城壁を頼りに身売りしつつ漫然と生きていくか。
不道徳に満ちたこの世界の終わりが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う人は多いが、救われるためには、イエスキリストを主とする決断をし、そして、実際の行動が必要である。
『信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、「不従順な(アペイセオー:服従しない、逆らう)」者どもと一緒に滅びることはなかった。』(ヘブル11:31)
彼女が救われ、栄光の家系に加えられたのは、信仰によってである。そして、彼女とその家族以外が滅びたのは、力強き神の噂を聞き、神の民が近くまで来ていたのに、それでも逆らい服従しなかったからである。
神様に助けを求め、救われたいと願い、主を呼び求める事、それが救いの第一歩である。イエス・キリストこそ唯一の救い主とし、この御方に自分の支配権を全て委ねるなら、その人は必ず救われるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
祝福とは(民数記6:22-27):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エズラの血の気を失わせた事(エズラ記9:1-4):右クリックで保存
【概要】
エズラ記9章1節から4節を通して、イスラエルの民が異邦の民と結婚し、神の戒めを破ったことに対するエズラの深い悲しみと悔い改めの促しについて学びます。
【聖書箇所】
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エズラ記9章1節から4節
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ネヘミヤ記13章23節から27節
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新明記7章1節から4節
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第2コリント6章14節から18節
【戒めの言葉】
異邦の民との結婚や連合は、信仰を損なう危険があるため、神の民としての清さを保つことが求められます。
【勧めの言葉】
日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送り、誘惑に負けないように注意しましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
過去の過ちを悔い改め、神に立ち返り、清い生活を送ることを心がけましょう。
【***詳細***】
エズラ記9章1節から4節では、イスラエルの民が異邦の民と結婚し、神の戒めを破ったことが記されています。エズラはこの知らせを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛と髭を引き抜き、色を失って座り込んでしまいました。彼のショックは、神の民が異邦の民と混じり合うことが、神に対する重大な罪であることを示しています。
ネヘミヤ記13章23節から27節でも、同様の問題が記されています。ネヘミヤは、異邦の女をめとったユダヤ人たちを厳しく戒め、彼らの子供たちがユダヤの言葉を理解できないことを問題視しました。これは、異邦の文化や信仰がイスラエルの民に影響を与え、神の言葉から遠ざける危険性を示しています。
新明記7章1節から4節では、神がイスラエルの民に対して異邦の民と結婚しないように命じています。異邦の民との結婚は、神から引き離され、他の神々に仕えることにつながるため、神の怒りを招くと警告されています。
第2コリント6章14節から18節では、「不信者と釣り合わぬくびきを一緒につけてはいけません」とあります。信者と不信者が一緒になることは、光と闇が交わるようなものであり、神の宮と偶像が一致することはないと教えています。
エズラは、異邦の民との結婚が神に対する重大な罪であることを理解し、深い悲しみを覚えました。彼の姿勢は、私たちが日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送ることの重要性を示しています。
【結論】
異邦の民との結婚や連合は、信仰を損なう危険があるため、神の民としての清さを保つことが求められます。私たちは、日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送り、誘惑に負けないように注意しましょう。過去の過ちを悔い改め、神に立ち返り、清い生活を送ることを心がけましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第七の封印 - 七つのラッパの災い(黙示録8章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祝福とは(民数記6:22-27):右クリックで保存
前回に続き、祭司に与えられたこの祝福の命令をもう少し詳しく見て行きたい。
祝福という言葉は、聖書では良く出てくるし、教会でも良く使われ、クリスチャンもよく「祝福を下さい」と祈るが、そもそも祝福とは一体何だろう。
祝福は、必ず神様を通して与えられるものであり、神様を除外した人間が、身勝手な善悪判断によって定めた「これが私にとっての祝福」というものは、実は、自分も他人も、そして自然界をも、不幸に陥れてしまうものだ。
祝福のヘブライ語「バーラフ」の元々の語意は「ひざをつく」で、意味としては、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、ほめたたえる」である。
このバーラフが聖書で最初に登場するのは、聖書の最初の書の、最初の章からである。
『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを”祝福”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。・・・神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。』(創世記1:27-31)
世界に罪が入る以前、神は、アダムと全生物が大いに生んで増えて行くようにと、主が自らがひざをついて便宜を図り、いのちが増え広がって行く様を応援した。
そして神様がその様をご覧になったところ、「はなはだ良し」と評価された。
しかし、アダムが神の言葉に背いて、善悪判断をしだした所、全被造物は呪われてしまった。
それ以来、被造物は神の子たちの現れを、うめきながら待っているのである。(ローマ8章)
神は、御言葉に服従し罪の問題を解決した人達が、繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を望んでおられ、そのような人達を、ことさら祝福しようとされるのである。
事実、神は、罪を知らない時のアダムになされた、あの「生めよ、増えよ」の祝福を、ノアにも、アブラハムにも為された。
そして私達も、イエスキリストを信じる信仰によってアブラハムの子孫となるなら神の子とされ、神がアダムやノア、アブラハムに与えられたあの祝福で、私達を覆って下さるのである。
主が、祭司アロンを通して命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』(民数記6:24)である。
ここに出てくるシャーマルという言葉は「守る」という意味のほか、見張る、気をつける、という意味がある。
主の御心は、主の民とされた聖徒達が、生んで増えて行く事だった。
それ故、この第一の祝福は、あの創世当初の「はなはだ良かった」時のように、御心にかなった人達が、生んで増え広がって行くそのいのちを、主ご自身が見守り、サポートされますように、という祈りである。
第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』(民数記6:25)である。
ここの恵む(ハーナン)という言葉は、憐れむ、情けをかける、という意味で、それは、具体的な行動がともなった同情で、新約のギリシヤ語の「スプランキニゾマイ」に相当し、それは字義通りには「はらわたがちぎれる思いで、かわいそうに思う」である。
つまり、ここの祝福は、主が輝いた表情をあなたに照らし、主のはらわたがちぎれる程の深い憐れみによって、情けをかけて下さるように、という祈りである。
第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安(シャローム)を賜わるように』(民数記6:26)である。
「向け」という言葉は、「上げる」「支持する」という応援的な意味があり、また、シャロームという言葉には広範な意味があって、祝福の総称とも言える。
シャロームは挨拶の言葉であり、平和と安息を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄や、健やかである事や、また、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、そして知恵に満たされ、あらゆる悪や災いから救われ、敵や悪に対して勝利する事を、願い求める言葉でもある。
つまり、主がその眼差しを向けて支持し、家庭も経済も、知恵も力も、あらゆる面で充足し、健やかであり、平安で、あらゆる面で守られ、勝利するよう、主があらゆる面で応援して下さるように、という祈りである。
この民数記6:24-26の祝福は、何世紀にも渡って祭司がイスラエルの民を祝福し、また、キリスト者達が互いに祝福してきた、優れた言葉である。
私達も、キリストにあって祭司という立場を得たからには、大いにこの祝福の祈りを、家族に、仕事に、人生のあらゆる場面に対して、宣言するべきである。
しなければ損である。
礼拝説教メッセージ音声:祝福する祭司として(民数記6:22-27):右クリックで保存
『主はまたモーセに言われた、「アロンとその子たちに言いなさい、『あなたがたはイスラエルの人々を祝福してこのように言わなければならない。』(民数記6:22-23)
主は、祭司が民を祝福するべき言葉を、具体的に示された。
レビ記が学科であるとすれば、民数記は実技であるが、その実技教習は、いよいよ「祝福の仕方」にまで至った。
今までの実技教習の内容を、振り返ってみよう。
まずは「神の民」「神の部隊」としての登録が1章でなされ、ただの「荒野の民」から、登録された「神の民」へと転換し、2章では、神の部隊として、どの部族がどの位置に配置されるべきかが示され、秩序と規律をもって進み行くべきことを示された。
また、3章では、元々は、長男が「主のもの」とされていたのが、レビ人に転換され、主のものとされたレビ人への奉仕分担が4章で示された。
そして5章では、神が住まわれるイスラエルの宿営の中から、汚れを締め出す事が命じられ、また、最も親しくあるべき夫婦関係の中から、不信を取り除く方法が示された。
6章では、主にまったき献身を誓うナジル人に関する規定が示され、そしていよいよ6章の後半で、いかに民を祝福すべきか、という、祝福のことばの制定が為された。
主は順を負って、神の民としての整えを着実に為しておられるが、この順番は、キリスト者が神のものとされた時から始まる成長に良く似ている。
キリスト者が洗礼を受け、神のものとしてしるしを受けた後、生活のあらゆる面で、神の民としての秩序がどんどん与えられて行く。
次に、神の奉仕者としての役割が与えられ、その奉仕を忠実に為して行く内に、自らの中から汚れを取り除くようになり、さらなる献身へと導かれ、そして遂には、神の代理人として、人々を祝福するものとされていく。
「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
この祝福の文言は、何世紀にも渡って祭司によって宣言され、また、キリスト教界でも、何世代にも渡って、この言葉によって多くの聖徒達が祝福を受けてきた。
主の祝福の最たる事は、「主が共におられる」事である。
荒野での金の子牛の事件の時、モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無いという確約はとりあえずいただいたが、最初、主は、民と一緒には行かないと言われた。(出エジプト記33:1-3)
主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほど主を知らない者であり、よほどの恩知らずである。
主が共におられ、主の祝福があり、主の守りがあるという事は、全宇宙を創られた万能なる神が共におられるという事であり、主の守りの内に最善の道を歩ませ、主の最高教育の内に導かれて行く、という事である。
主は、驚くほどの憐れみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。
私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。
『こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」。』(民数記6:27)
ここは英語の聖書(KJV)では、イスラエルの子らの上に「わたしの名を置く」なら、わたしは彼らを祝福する、と記されている。
祭司が、イスラエルの会衆の上に「主の名を置き」、そうして祝福する。
それはあたかも、ハンコを押すようなものだ。
主は「わたしはある」と言われた。
主の名は「ある」である。
英語では「I AM THAT I AM」、すなわち、神は「存在する」という名前であり、在りて在る者、それが主のアイデンティティである。
英語で I am ○○ と言う時、わたしは○○である、という意味であるが、神はその○○の部分に、何でも入るお方だ。
主は全能であり、偏在であり、はじめであり、終わりであり、永遠である。
その素晴らしき主の名をハンコのように押された、という事は、世のどんな大統領のサインよりも遥かに強力な権威を持っている、という事であり、まさに、何でも持っている状態である。
この祝福の言葉は、何世紀にも渡って、祭司によって祝福されてきたが、私達キリスト者も、祭司という立場であり、家族のため、仕事場のために、祝福の祈りをする立場である。
そうであるからには、いたる所に、いたる場面で、偉大なる主イエスの御名によってハンコを押し、祝福すべきである。
礼拝説教メッセージ音声:ナジル人の誓い(民数記6:13-21):右クリックで保存
『これがナジルびとの律法である。聖別の日数が満ちた時は、その人を会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そしてその人は供え物を主にささげなければならない。すなわち、一歳の雄の小羊の全きもの一頭を燔祭とし、一歳の雌の小羊の全きもの一頭を罪祭とし、雄羊の全きもの一頭を酬恩祭とし、また種入れぬパンの一かご、油を混ぜて作った麦粉の菓子、油を塗った種入れぬ煎餅、および素祭と灌祭を携えてこなければならない。』(民数記6:13-15)
ナジル人が主に捧げている期間が満了した時、彼らは所定の捧げ物をする。
すなわち、罪のための犠牲を捧げて自らの罪を清め、また、焼き尽くす捧げ物を捧げて献身の思いを新たにし、また、和解のいけにえを捧げて、神と祭司と同じテーブルのごちそうにあずかる。
この和解のいけにえの際、その聖別した頭の髪を剃り、それを和解のいけにえの火にくべる。
ナジル人としての期間が短ければ、この時の髪はわずかで、期間が長ければ長いほど、それは結構な分量となるだろう。
そうして、所定の務めを主に果たした後、彼らは一般人のように、ぶどう酒を飲む事ができるようになる。
こうして見ると、ナジル人の生活にはかなりの制約があり、好きな事もあまり出来ず、期間が終っても、多くの捧げ物を捧げなければならずで、神を知らない人には、どうしてわざわざそんな立場に身を置くのか、と思うかもしれない。
しかし、キリストにあっていのちを得た人にとって、主に捧げられ、主のものとされている期間は、実に幸いである事を、経験しているはずである。
その人の所属先は、神にあり、守りの根拠も、必要の満たしの源も全能者にあり、しかも、神は決して変わる事の無い愛で愛され、全ての事を最善へと導いて下さるお方だ。
この御方に捧げている限り、決して物事を間違え無駄に過ごす事はなく、揺るがされない事も、心が飢える事も、渇く事も無い。
私達キリスト者は、キリストにあって神に捧げられた者達であるため、その大いなる祝福にあずかっているのである。
中には、自分を誇るため、人々から「すごい」と思われたいがために、断食したり、ナジル人のようになりたがる人もいるかもしれない。
しかし、断食や、ナジル人へと身を投じる事は、本来、主に対して自ら「聖別」する事である。
それは初めから終わりまで「主のためになすべき」ものであり、自分の誇りは一切入ってはならない。
断食や誓いは、むやみにすべきでない。御心でない断食や誓いは徒労以外の何者でも無いからだ。
パウロがエルサレムでユダヤ人達に捕らえられた時、ユダヤ人のうち、40人以上の者達が、パウロを殺すまでは飲み食いをしない、という誓いを立てた。(使徒23章)
しかし、神の御心は、パウロを生きながらえさせ、彼をローマへと連れて行き、カイザルや王達の前で、主イエスの証をする事だった。
結局、主は、パウロがみすみす殺されるような事は許されず、ローマ兵470名の護衛と、車つきで、パウロを安全な所へと護送した。
いかに多くの人間が、熱心や感情の高ぶりによって、パウロを殺すまでは飲食を断つ、という固い誓いを立てたとしても、主の御心に沿っていないなら、それは虚しく、徒労に終わるのだ。
『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。』(詩篇127:1-2)
私達も、主の御心がどこにあるかを必ず探り、自分の心の動機をよく確かめ、御心でない誓いや、御心でない断食は、やめるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:主に捧げられた者が気をつけるべき事(民数記6:1-12):右クリックで保存
民数記6章は、神に特別に誓願を立ててその身を主に聖別した人、「ナジル人(ナーザル:聖別する、分離する)」についての規定である。
聖書には、特別に主に捧げたこのナジル人が、何人か登場する。
ナジル人になる人は、普通、ナジル人としての期間を自由意志で決められるが、サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネなど、親や主から生まれながらにナジル人として捧げられた人もいる。
彼らに共通している事は、神業としか思えないような働きを為している事であるが、その力の秘密は、忠実に「捧げ尽くし」「身を聖別している」事である。
神は何ゆえか、人間に神の御国の事業に参加する事を願っておられる。
それも、人が捧げたら捧げた分、明け渡したら明け渡した分、神は人を通して働かれる機会を得、人が捧げたらそれ以上に、大いに御業を為される。
人が自分のものとして握り締めている領域には、主は働く事は出来ない。
しかし、手放せば手放す程に、その領域において主は働く事が出来る。
だから、ナジル人のように主に捧げ尽くした人であるなら、主は、その人を通して、大いなる御業を働かれるのだ。
ナジル人は、世とは分離し、主に聖別されているため、以下の事で、他の人と区別されている。
すなわち、その食物において、イスラエルの民は日常的に食べる「ぶどう」のものを、一切食べてはならなず、飲んではならない。(民数記6:2-4)
また、ナジル人としての誓願を立てている間は、頭に剃刀を当ててはならない。その身を主に聖別した日数が満ちるまで、彼らは聖なる者として、髪の毛をのばしておかなければならない。
また、彼らは死体に触れてはならない。
『身を主に聖別している間は、すべて死体に近づいてはならない。父母、兄弟、姉妹が死んだ時でも、そのために身を汚してはならない。神に聖別したしるしが、頭にあるからである。彼はナジルびとである間は、すべて主の聖なる者である。もし人がはからずも彼のかたわらに死んで、彼の聖別した頭を汚したならば、彼は身を清める日に、頭をそらなければならない。すなわち、七日目にそれをそらなければならない。』(民数記6:6-9)
もし死体に触れるなら、意図的・自主的に死体に触れたのでないとしても、たとい、死体が向こうからぶつかって来るような事があったとしても、罪のためのいけにえを捧げなくてはならない。
そして、それまでの捧げて来た期間はリセットされ、彼らの頭にある聖別のしるしは無効とされてしまい、定められた捧げものを捧げてから、再度、ナジル人としての期間を開始しなくてはならない。
死体が向こう側からぶつかって来るような事は、人生で滅多に無いであろうが、状況的にそれに似たケースが、サムソンの場合である。
サムソンは、イスラエルには女が大勢いるのに、よりによって、ペリシテの女デリラを愛し、妻に迎えた。
そこで、サムソンによって悩まされていたペリシテ人たちは、デリラを銀で買収し、サムソンの力の秘密を探らせた。
『女はサムソンに言った、「あなたの心がわたしを離れているのに、どうして『おまえを愛する』と言うことができますか。あなたはすでに三度もわたしを欺き、あなたの大力がどこにあるかをわたしに告げませんでした」。女は毎日その言葉をもって彼に迫り促したので、彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ。
彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。デリラはサムソンがその心をことごとく打ち明けたのを見、人をつかわしてペリシテびとの君たちを呼んで言った、「サムソンはその心をことごとくわたしに打ち明けましたから、今度こそ上っておいでなさい」。そこでペリシテびとの君たちは、銀を携えて女のもとに上ってきた。
女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。』(士師記16:15-20)
サムソンは、自ら髪を切ったわけでも、自らぶどう酒を飲んだわけでも、なかった。
しかし、彼が聖別のしるしを汚す事になってしまった原因は、異邦の女に身も心も委ねてしまったからである。
汚れが偶発的に向こうから降って来る事は、まず無いであろう。
ただし、汚れが降りかかりそうな所に身を置かないようには、注意すべきである。
たとい自分は強いと思っていても、誘惑になりそうなものは避け、味見すらしない事である。
ペリシテ人の屈強な戦士は、サムソンを苦しめる事は決して出来なかったが、妻デリラは、サムソンを死ぬほど苦しい目にあわせる事が出来、結局、サムソンは聖なるものの与奪の権利を、彼女に渡してしまった。
異邦の女と結婚した事、そのような、つまづきのとっかかりとなる事を、初めからしていなければよかったのだ。
サムソンも、ソロモン王も、まんまんとその罠に陥ってしまい、人生を転落させてしまった。
私達キリスト者も、いわば主に「捧げられた者達」である。
私達も、つまづきになりやすいものを近くに置くべきでない。