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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
自分と家族と預言者を養う(1列王記17:1-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
次から次へと降り注ぐ祝福の元(エズラ7:11-28):右クリックで保存

【概要】

絵面記7章11節から28節では、アルタシャスタ王が祭司であり学者であるエズラに与えた手紙を通じて、イスラエルの民がエルサレムに戻るための支援が描かれています。神の御手がエズラの上にあり、王の心を動かして特別な便宜を図らせたことが強調されています。

【聖書箇所】

  • 絵面記 7:11-28

【慰めの言葉】

神は時に応じて私たちに必要な助けを与えてくださいます。

【励ましの言葉】

信仰を持ち続けることで、神の計画が私たちの人生に現れることを信じましょう。

【戒めの言葉】

神の立法を知り、それを守ることの重要性を忘れないようにしましょう。

【勧めの言葉】

神の御手が私たちの上にあることを信じ、日々の歩みを続けましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

神の計画を信じられずにいたことを悔い改め、信仰を新たにしましょう。

【***詳細***】

絵面記7章11節から28節は、アルタシャスタ王がエズラに与えた手紙の内容を記しています。エズラは主の命令の言葉とイスラエルに関する主の掟に精通した学者であり、祭司でした。アルタシャスタ王は、エズラに対してエルサレムに戻ることを許可し、さらにイスラエルの神の宮のために銀と金を捧げるよう命じました。

この手紙は、エズラが神の立法に従ってユダとエルサレムを調査するために使わされていることを示しています。王とその義官たちは、エルサレムの神に捧げるための銀と金をエズラに託し、エルサレムの神殿のために必要なものを調達するよう命じました。

アルタシャスタ王は、エズラに対して神の知恵に従って裁判官を任命し、神の立法を知らない者には教えるよう命じました。また、神の立法と王の立法を守らない者には厳しい罰を与えるよう指示しました。

エズラは、これらのことが主の御手によるものであることを認識し、主を褒め称えました。彼は、主がエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、王の心を動かしたと理解していました。

【結論】

絵面記7章は、神の御手がエズラの上にあり、アルタシャスタ王を通じてイスラエルの民に特別な便宜を図らせたことを示しています。私たちも、神の計画が私たちの人生に現れることを信じ、信仰を持ち続けることが大切です。神の御手が私たちの上にあることを信じ、日々の歩みを続けましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あかしの故に殺された人達と殺した人達(黙示録6:9-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:軍務につく者として登録する(民数記1:1-19):右クリックで保存

『人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、【主】はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。』(民数記1:1)
イスラエルの民は、エジプトの国を出て二年目の第一月から第二月までの間、レビ記という「学科授業」を主から受けた。
そして第二月の一日以降、危険な荒野を編隊を組んで進み行き、約束の土地カナンを占領するという「実地訓練」を受けなくてはならない。

約束の地は、ただ口を開けて待っていれば、棚からぼた餅が降ってくるかのように与えられるものではない。
荒野を進むにも、約束の地に入るにも、危険があり、戦いがある。
そこで、主が真っ先に命じられた事は、イスラエルの中から軍務につく事の出来る者達を、登録する事だった。
『イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。』(民数記1:3)

イスラエルの男子は、二十歳を超えたなら、自動的・強制的に、軍務につく者として登録される。
私達のこの世の信仰の歩みも、荒野を行軍して行くのと同じで、必ず、試練と戦いがあり、それは、信仰者であれば誰もが自動的かつ強制的に通らされるもので、それに対し、いつまでも逃げまわったり、安全な所でぬくぬくとしていられるものではない。

私達は、主キリストに対しては妻という立場で、イエス様を主人とすべきだが、世に対して、サタンに対しては、男子として、勇者として、立ち向かい戦うべきなのだ。
信仰を用い、御言葉に服従して進み行くのであれば、その戦いは、必ず勝利するものである。
「神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ4:7)
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・・御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:11-17)

そして、軍事行動は、個人プレーではなく、チームワークである。
誰か一部の人達だけが戦っていて、他の人は逃げまわったり兵舎で寝食してばかりしている、などという事は、ありえない。
イスラエルが荒野の行程の終わりに、ヨルダン川の東側を制圧した時、ガド族とルベン族は、既に得たこの東側の良き土地を下さいと言った時、モーセは言った。
「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。あなたがたの先祖も、わたしがカデシ・バルネアから、その地を見るためにつかわした時に、同じようなことをした。すなわち彼らはエシコルの谷に行って、その地を見たとき、イスラエルの人々の心をくじいて、主が与えられる地に行くことができないようにした。」(民数記32:6-9)

ある人が戦い、ある人は既に得たものに安穏とする。ある人は働き、ある人は安穏として、それを食いつぶす。それは、戦う人、働く人の意気を挫き、全体を良くない思いへと引っ張っていく事である。
教会も、キリスト者も、信仰をもって戦うよう召されたのであればみんな戦うべきであり、働くよう召されたのであれば、みんな働くべきである。
結局、ガド、ルベン族は、ヨルダン川を渡った先でも、先陣を切って戦った。
私達も、キリストにある群れ全体が安息を得るまで、共に戦うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:民数記概要(民数記1:1-2):右クリックで保存

『エジプトの国を出た次の年の二月一日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋で、モーセに言われた、「あなたがたは、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を、ひとりびとり数えて、その総数を得なさい。』(民数記1:1-2)
モーセ五書の第四番目の書、「民数記」は、ヘブライ語では、この書の冒頭の言葉、「ベミドバル(荒れ野に、という意味)」であるが、七十人訳ギリシア語聖書では「アリスモイ」、すなわち、「数」という意味、英語では「ナンバーズ」である。
「数」という言葉が名前に入るのは、主は真っ先にイスラエルの全会衆の数を数える事を命じられ、また、荒野での生活の終わりにも、主は人口の数を数えるよう命じられたからであろう。

この書には、エジプトを出てから二年目の二ヶ月目以降、荒野での生活を終え、いよいよ安息の地・カナンに入る直前の、ヨルダン川東に至るまでの、荒野での三十九年間ほどの長き行程が記されている。
一〜十章は、荒野の旅の準備の命令と記録で、一章の人口調査に始まり、荒野での行軍の各民族の配置や、レビ人のそれぞれの奉仕分担が記されている。
十一〜十二章は、イスラエルの民の不満と、アロンとミリヤムがモーセに反対する場面もあり、そして、十三〜二十章までは、安息の地にすぐに入るチャンスを失ってしまったあの大きな失敗、十二人の斥候によるカナン偵察の出来事あり、さらにイスラエル民族の中からの反逆と、荒野での放浪が記されている。
二十一〜二十五章には、バラムの事件が記されており、それから第二回目の人口調査(二十六章)、ヨシュアの任命(二十七章)、その間、諸々の規定の制定や事件などが記され、三十三〜三十六章は、荒野での全行程が記されている。

この書は、言ってみれば、安息の地・カナンへの歩みではあるが、その内容は、恐ろしさを感じるものである。
よく、旧約聖書は怖いという人はいるが、しかし結局、愛と憐れみに富んでおられる主を、怖くさせてしまった原因は、人の側にあり、人の不従順にある。
エジプトを出て約束の地へと向かったのは、男子だけでも六十万以上いたが、そこに入れたのは、たった二人のみ。
それは、イスラエル民族の失敗中の失敗と言え、彼らとしては、記録に残したくない事であろう。
しかし、それらの事が記されたのは、私達への教訓のためである。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。・・・これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:1-6)

民数記は、私達はどうすれば失敗するのか、どうすれば神を怒らせ、どうすれば安息の地に入れないか、それらが克明に記されており、中にはもしかしたら私達に当てはまり過ぎて、目を背けたくなる記事もあるかもしれないが、私達は決して目をそむけてはならない。
それは、私達も彼らにならって、失敗しないためにである。

『だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。』(ヘブル3:7-11)
ここに記されている通り、安息に入れない者とは、主の御業を見ておきながら、それでもなお心をかたくなにし、さらに主を試み、ためすような者である。
また、不従順な者、不信仰な者こそ、安息に入れない者の特徴である。(同18-19節)

『兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』(ヘブル3:12-14)

礼拝説教メッセージ音声:主のもの(レビ記27:26-34):右クリックで保存

レビ記の最後で、主は、捧げ物としてはならぬ「主のもの」を示しておられる。
『しかし、家畜のういごは、ういごとしてすでに主のものだから、だれもこれをささげてはならない。牛でも羊でも、それは主のものである。』(レビ記27:26)
全てはじめに胎を開くものは主のものである、と、イスラエルがエジプトを出る直前で、主は既に言われていた。(出エジプト記13:2)
つまり、人も動物も、初子は元々主のものであるので、人が自ら進んで捧げる捧げ物とする事は出来ない。それだとダブルブッキングになってしまう。

『ただし、人が自分の持っているもののうちから奉納物として主にささげたものは、人であっても、家畜であっても、また相続の畑であっても、いっさいこれを売ってはならない。またあがなってはならない。奉納物はすべて主に属するいと聖なる物である。またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。』(レビ記27:28-29)
ここは、必ず滅ぼし尽くさなくてはならないもの、いわゆる「聖絶のもの」についてのおしえである。

「聖」とは元々、主なる神の、絶対的かつ排他的な、決して犯してはならぬ性質のものである。
主が「聖絶すべし」としたものを、人がとやかくしてはならず、それを犯してしまうと、その人は必ず尋常でない死に方をした。
例えば、アカンは聖絶のものに手を出してしまい、自分のみならず、イスラエル全体に災いを招いてしまったし、サウル王も、聖絶のものを見て自分の善し悪し判断を混ぜ込んでしまい、主から見放され、王座を奪われてしまった。
主が聖絶すべきとしたものは、人はただそれを滅ぼし尽くすのみ、それ以外は災いをもたらすのである。

『地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。もし人がその十分の一をあがなおうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。』(レビ記27:30-31)
地の産物の十分の一も、主のものであると主は主張されている。そうであるからには、人がことさら「進んで捧げる捧げ物」とする事はできない。
本来的には、「全地は主のもの」(詩篇24:1、詩篇95篇)であるはずだが、しかし主はあえて、人に、その十分の一を主のものとして捧げるよう命じられ、人の側がそれに従うのであれば、その人は、神と人との主従関係を行動をもって示した事になるのだ。

『牛または羊の十分の一については、すべて牧者のつえの下を十番目に通るものは、主に聖なる物である。その良い悪いを問うてはならない。またそれを取り換えてはならない。もし取り換えたならば、それと、その取り換えたものとは、共に聖なる物となるであろう。それをあがなうことはできない』」。』(レビ記27:32)
家畜の中で、どれを十分の一の聖なるものとして選別するか。
そのやり方は、家畜の群れに牧者のつえの下を通らせて、その十番目に通るものが、聖別すべきものである、と、主は定められた。
そして、その十番目に通るものについて、人は、とやかく言ったり判断したりしてはならない。
十番目に通ったものの善し悪しを見て、取り替えてはならず、取り替えようとするなら、両方を「聖なるもの」として、捧げなくてはならない。

『これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。』(レビ記27:34)
このレビ記において、主は私達に、何を求めておられ、どうなる事を望んでおられ、どのようになる事を忌み嫌われるか、そして、主の忌み嫌われる事を続けていると、どうなるか等を、はっきりと示され、イスラエルの民は、それを学習した。

レビ記で学んだ主の命令は、全て、法則である。
幸いを得る法則に従えば、必ず幸いになるが、呪いの法則に従えば、必ず呪われる。それ以上でもそれ以下でもない。
レビ記が学科であるなら、その次の民数記は、実技試験の記録である。
イスラエルの多くは、早くも学科で学んだ事を大いに違反し、災いを招いてしまったが、中には、少数ながらも主に従って幸いを得た人もいた。
主の法則にはシンプルに従い、幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:土地の評価価値(レビ記27:16-25):右クリックで保存

『もし人が相続した畑(土地)の一部を主にささげるときは、あなたはそこにまく種の多少に応じて、値積らなければならない。すなわち、大麦一ホメルの種を銀五十シケルに値積らなければならない。』(レビ記27:16)
土地の価値をはかる上で、基準とするものは、広さではなく、立地でもない。
「蒔く事の出来る種の量」である。
つまり100ヘクタールのいばらや岩だらけの土地よりも、20ヘクタールのよく耕された土地のほうが、価値がある、という事も、十分有り得るのだ。
この事から、神の御前に価値ありとされるのは、その人の生い立ちでもなく、教会にいた年数でもなく、その人がいかに、御前に良き「実」を結べるか、であると分かる。

私達は、神の畑である。(1コリント3:9)
何年教会に通っていても、使う言葉がいかにもクリスチャンっぽくても、「実」が無いとしたら、御前に価値は無い。

私達は、ガラテヤ5:22-23 にある「実」を結んでいるだろうか。
兄弟姉妹や隣人への「愛」があるだろうか。
喜んでいるだろうか。
平安だろうか。
寛容だろうか。
親切だろうか。
善意にもとづいて行動しているだろうか。
誠実だろうか。
柔和だろうか。
自制があるだろうか。
これらの実が、少しずつでも実って来ているなら、その人は御霊にあって成長している人である。
しかし、何年たっても変わらず、それらの実が全然増し加わっていないなら、キリスト者としての根本的なあり方を見直さなくてはならない。

『もしその畑をヨベルの年からささげるのであれば、その価はあなたの値積りのとおりになるであろう。もしその畑をヨベルの年の後にささげるのであれば、祭司はヨベルの年までに残っている年の数に従ってその金を数え、それをあなたの値積りからさし引かなければならない。』(レビ記27:17-18)
土地を主の御用のために捧げるにあたっては、ヨベルの年までの年数も、関係して来る。
私達はあたかも、まことのヨベルの年、すなわち、全ての罪の負債が帳消しにされ、まことの故郷である天に還る日に向かい、日々、歩んでいるようなものである。
このまことのヨベルの年に至るまで、いかに御前に有用な実を結ぶか。そのような心がけで日々歩むべきである。

『もしまた、その畑をささげる人が、それをあがなおうとするならば、あなたの値積りの金にその五分の一を加えなければならない。そうすれば、それは彼のものと決まるであろう。しかし、もしその畑をあがなわず、またそれを他の人に売るならば、それはもはやあがなうことができないであろう。その畑は、ヨベルの年になって期限が切れるならば、奉納の畑と同じく、主の聖なる物となり、祭司の所有となるであろう。』(レビ記27:19-21)
約束のカナンの地で、主からゆずり受けた土地は、本来、その人とその子孫のものであり、いかに経済的に落ちぶれ、誰かに売ってしまおうとも、ヨベルの年には、その人の元に還ってくるのが基本だったが、ここに記されていたように、永久に、その人の手から放れてしまう、という事があるようである。
すなわち、その土地を「神様の御用のために」捧げた人が、ヨベルの年になってもその土地を買い戻さず、むしろ、その土地を他の人に金で売るとしたら、もはや、その土地は永遠に手放した事になってしまう。

ヨベルの年の前の年になっても、金を使い果たしてしまっていて買い戻しが出来ないのか、あるいは、主からゆずり受けた土地よりも、現金のほうが大切なのか、とにかく、その人の心が、主から受けたゆずりの地を軽んじて油断していると、永遠にそこを失ってしまうのだ。
エサウは、一杯の豆の煮物と引き換えに長男の権利を永遠に手放してしまった。
同じように、キリスト者の中にも、ひと度主に贖われ、主のものとされておきながら、世の一時的な金銭を得たいがために、ゆずり受けるべく神の国を、自ら永遠に手放してしまうような人がいるが、そういう事があってはならない。

『すべてあなたの値積りは聖所のシケルによってしなければならない。二十ゲラを一シケルとする。』(レビ記27:25)
神様のために捧げるものの値積もりは、私達に属する量りではなく、神に属する量りによって、量られなくてはならない。
人の量りでは重くても、神の量りには軽く値積もられ、その逆に、神の量りは重くても、人の量りでは軽く値積もられてしまうような事がある。
しかし私達は、世間の解釈や世間のはかりによってではなく、天の、神の国の、永遠に変わらぬ聖なる「はかり」によって、はかるのが本来である。

礼拝説教メッセージ音声:家畜と家の評価価値(レビ記27:9-15):右クリックで保存

続いて、主の御用のために、家畜や家を捧げる場合について。
『主に供え物とすることができる家畜で、人が主にささげるものはすべて聖なる物となる。』(レビ記27:9)
「聖なるものとなる」、すなわち「聖別」とは、所有権が人から神へと完全に移行した、という事であり、それを人が手出しすると、災いを免れない。(ヨシュア記7章、1サムエル15章)

『ほかのものをそれに代用してはならない。良い物を悪い物に、悪い物を良い物に取り換えてはならない。もし家畜と家畜とを取り換えるならば、その物も、それと取り換えた物も共に聖なる物となるであろう。』(レビ記27:10)
つまり「これを主の御用のために捧げた」と、一度決めておきながら、後からそれを「惜しい」と思って、より悪い物に取り替えたり、あるいは、一度これを捧げると決めておきながら、後から「そういう事ならもっと良い物にしておけばよかった」と思い直したりする事は、良くない事であると主は示している。

主は捧げ物について、純粋さ、シンプルさを求められる。
ひと度、神の所有にしたのであれば、それに対して人が「思い巡らした事」や「善し悪し判断」を、を混ぜ込んではならない。
人が後から、ああでもない、こうでもないと、あれこれ思い巡らした有形無形の成果物を混ぜ込んでしまうと、ほぼ、より物事を悪くする。
それをしてはならない。

捧げ物の善し悪し判断は、捧げる人がするべき事ではない。
『祭司はその良い悪いに従って、それを値積らなければならない。それは祭司が値積るとおりになるであろう。』(レビ記27:12)
ここにある通り、捧げ物の善し悪し判断は、祭司がする事であり、それは家畜の場合もそうであるし、家を主の御用のために捧げる場合も同じである。(同14節)

私達にとって、善し悪し判断をしてくれる祭司とは、まことの大祭司なるキリストである。
全ての評価は、私達ではなく、キリストがする事である。
私達は、主から何か大きな事を任される時、「自分はそんな奉仕なんて、とても出来ない」「自分にはそんな価値は無い」「能力外だ」と思うことがあるが、私達がどう思うかは重要ではなく、主が、私達にどのような御心を持っておられるかが重要であり、私達の考えた事が成るのではなく、主の御心が、必ず成るのである。
主がGOサインを出したのであれば、いかに能力外であろうと、いかに小さくつまらない者であろうと、それは、可能なのである。

そして、その逆の事もある。
すなわち、主の御心でもないのに、「自分こそ、その奉仕の適任者だ」などと言って、その事を為そうとするなら、必ずうまく行かない。
むしろ主のストップがかかり、強制的にその座から降ろされ、別の適任者にゆずる事になり、大恥をかいたりする。
『誇る者は主を誇るべきである。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。』(2コリント10:17)

人はむやみに「主に捧げる」と言うべきではないし、コミットメントもなしに奉仕者になるべきではない。
『もしその人が、それをあがなおうとするならば、その値積りにその五分の一を加えなければならない。』(レビ記27:13)
ひと度、主に捧げたものを思い直し、やっぱり自分のものにしようとすると、後々ペナルティがつくのは、法則である。
それは家畜の場合もそうだし、家を主の御用のために捧げる場合も同じであり(同15節)、そして私達も、ひと度主への奉仕を決心しておきながら後にそれを思い直してしまうとしたら、何かしらのペナルティが主から来るのは、法則である。

それ故、私達は主の奉仕、主への捧げ物については、自分の「善悪判断」は捨て去るべきであり、主の御心を求め、主の判断に従うべきである。

神様は無限大

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 主日礼拝
執筆 : 
pastor 2013-7-21 21:33

本日、天声では愛知からはるばる来て下さった柿本ひかる先生と、その五人のお子さん達が、礼拝の奉仕をして下さいました。

神様は無限大(2コリント12:9):右クリックで保存
柿本先生一家による特別礼拝:右クリックで保存

先生の娘さん達は、ワーシップ&ダンスの奉仕をしておられましたので、私が帰って来た時はみなさん素敵な衣装に身を包んでおられ、また、天声の姉妹達も、今日は夏らしく浴衣を着て参加しようと申し合わせて来ておりましたので、私が入って来た時は、とても華やかな様相(?)が展開されていました。

柿本ファミリーは、ホームスクーリングで聖書を土台として育てておられますので、世の中で育った子供と比べ、とても思慮分別があってしっかりしており、今日の礼拝でも十分な働き人として元気に奉仕しておられました。

神様がプレゼントして下さった何より素敵な事は、今回、ひかる先生の旦那さんである満先生が、本当はは仕事で参加できないはずだったのに、主の特別なはからいにより、昨日も、今日も、この交わりと礼拝に合流できた事です。
満先生は本当に主を愛していて、今日の集会に参加したいと切に願っていた祈りを聞いて下さり、しかも、礼拝を導く時間も、賛美し祈り、証する時をも、十分与えて下さいました。

私・林のほうは、今日初めて横浜華僑教会でのメッセージの奉仕をさせていただきました。
キリストのいのちを二世へ三世へと正しく引き継がせ、多くのクリスチャンホームや働き人を生み出している、成熟した、素晴らしい教会でした。
賛美も司会も中国語で慣れない中でしたが、主は、私のメッセージも、通訳の方も、御霊で支配して下さり、無事、御言葉を送り届ける奉仕を、為させて下さいました。
礼拝の動画は、じき横浜華僑教会ホームページで見れるようになると思います。
http://www.yoccc.jp/

この日のそれぞれの奉仕が祝福されるよう、日々祈っておりましたが、主は本当にお腹いっぱいに、これでもかという程の祝福を与えて下さいました。
いのちの養いと喜びと笑いで溢れた一日を与えて下さった主に感謝です!

礼拝説教メッセージ音声:人身の評価価値(レビ記27:1-8):右クリックで保存

レビ記最後の章は、民が自ら進んで捧げる捧げ物についてのおしえであり、今回の箇所は、「その人自身」を捧げる場合についてである。
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『人があなたの値積りに従って主に身をささげる誓願をする時は、あなたの値積りは、二十歳から六十歳までの男には、その値積りを聖所のシケルに従って銀五十シケルとし、女には、その値積りは三十シケルとしなければならない。 』(レビ記27:1-4)

主にその身をささげる、という特別な誓願をする場合の値積もりは、成人男性の場合は銀五十シケル、女性の場合はそのおよそ半分、そして、未成年者であっても、また、乳幼児といえども、しっかり評価値が定められている。
例えば、サムエルの母ハンナは、まだ子供がいない時、もし男の子が生まれたらその子を神様に捧げるという誓願を主に立てていたが(1サムエル1−2章)、彼女がサムエルを捧げた時、サムエルは五歳未満の男子という事で、値積もりは5シェケル、という事だったのだろう。

子供だからといって、まだ乳幼児だからといって、侮ってはならない。
主の御前に捧げられたからには、いかに子供であっても「主の働き人」なのだ。
実際、サムエルは10歳にも満たない年頃だったのに、年齢も経験も豊富な祭司エリでさえ聞けなかった御声を聞く事が出来、エリにさえ示されなかった預言を示された。

サムエルやエフタの娘のように、親によって主に捧げられた人がいるし、また、自ら誓願を立てて自ら主に捧げる人もいるし、そして、バプテスマのヨハネやサムソンのように、生まれる以前から主に捧げられた人もいる。
いずれにしても、主にその身を捧げる、という特別な誓願は、軽い気持ちで立ててはならない。

『神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。
あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。 』(伝道者の書5:1-6)

人が誰かを値積もって、誰々の人間的な付加価値は幾ら幾らだ、と、計算する人は多い。
イエス様さえ、人々から三十シェケルと値積もりされた。
天地はイエス様のために創られ、この御方にあって成り立っているのに、そのお方さえ、人間は銀30枚(およそ100日分の日当)と値積もったのだ。
それ程に、人が人を値踏みする評価は、愚かで当てにならず、そんな評価を気にする必要は一切無いのだ。

さて、私達の価値は、幾らだろうか。
キリストにあって神の子とされた私達は、天と地の主であられるイエスキリストのいのちと同等の値段が、付与されている。
それ故、誰かが私達を品定めしたり、計ったりする「評価」は、無益である。
『自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。しかし、わたしたちは限度をこえて誇るようなことはしない。むしろ、神が割り当てて下さった地域の限度内で誇るにすぎない。』(2コリント10:12-13)

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