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礼拝説教メッセージ音声:のろいの苦い水(民数記5:11-31):右クリックで保存

この章は、イスラエルの宿営の中から汚れを取り除く命令であるが、神の共同体の中で、最も根幹を為す「夫婦関係」という、絶対に親密であるべき信頼関係において、夫が妻の貞節を疑うという「汚れ」が生じた場合、たとい妻が無実であったとしても、夫のために、必ず取り扱かわなくてはならず、その方法を、主は示しておられる。
『「イスラエルの人々に告げなさい、『もし人の妻たる者が、道ならぬ事をして、その夫に罪を犯し、人が彼女と寝たのに、その事が夫の目に隠れて現れず、彼女はその身を汚したけれども、それに対する証人もなく、彼女もまたその時に捕えられなかった場合、
すなわち、妻が身を汚したために、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあり、または妻が身を汚した事がないのに、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあれば、夫は妻を祭司のもとに伴い、彼女のために大麦の粉一エパの十分の一を供え物として携えてこなければならない。ただし、その上に油を注いではならない。また乳香を加えてはならない。これは疑いの供え物、覚えの供え物であって罪を覚えさせるものだからである。』(民数記5:12-15)

ここには女性に不貞の疑いが生じた場合が記されているが、聖書には、男性が不貞を犯した場合の指示は、記されていない。
なぜなら、夫の「主人」は、全てを見ておられる全能の主であり、彼が不貞を犯す場合は、ダビデの場合のように、主ご自身がその罪を露わにされるからである。
しかし、妻の主人は、全能ではない男性であり、彼は妻が本当に不貞を犯したかどうかが分からないため、それを明らかにするために主はその方法を示された。

『その女を主の前に立たせ、女にその髪の毛をほどかせ、覚えの供え物すなわち、疑いの供え物を、その手に持たせなければならない。そして祭司は、のろいの苦い水を手に取り、女に誓わせて、これに言わなければならない、「もし人があなたと寝たことがなく、またあなたが、夫のもとにあって、道ならぬ事をして汚れたことがなければ、のろいの苦い水も、あなたに害を与えないであろう。
しかし、あなたが、もし夫のもとにあって、道ならぬことをして身を汚し、あなたの夫でない人が、あなたと寝たことがあるならば、―― 祭司はその女に、のろいの誓いをもって誓わせ、その女に言わなければならない。――主はあなたのももをやせさせ、あなたの腹をふくれさせて、あなたを民のうちの、のろいとし、また、ののしりとされるように。また、のろいの水が、あなたの腹にはいってあなたの腹をふくれさせ、あなたのももをやせさせるように」。その時、女は「アァメン、アァメン」と言わなければならない。』(民数記5:18-22)

こうして、女はその「のろいの苦い水」を、主の御前で飲む。
もし彼女が潔白なら、その水は害を与えず、かえって、彼女は子を宿すようになる。
そうでなく本当に彼女が不貞を犯したなら、その女のももは痩せ細り、腹がふくれ、彼女はのろいのしるしとなる。
通常、男が他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も殺されなければならないが(レビ記20:10)、この場合、彼女は「のろいのしるし」として、共同体の中で生きなければならない。

不貞の疑いがかけられている間、妻にとっては苦しみの時であるが、主が、彼女の潔白を明らかにされ、それで夫の愛が以前にも増して戻って来て、しかも、子を宿すようになるからには、この「呪いの苦い水」は、後の彼女には幸いである。
同じように、私達も、主から試され、心の隠れた思いが明らかにされるために、御前で苦い水を飲まされるような時がある。

私達キリスト者は、男も女も全員、主の御前には「妻」という立場であり、他の神々を拝む事は、霊的姦淫である。
のろいの苦い水を飲んだ不貞の女は、腹が膨れ、ももがやせたように、私達も、主に対して隠れた不貞がある時、私達の健康や、経済、あるいは外見などに、必ず何かしらの変調が現れる。
その時は主に罪を告白し、悔い改めるべきである。主は、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが自分の罪を主に認めた時、それを赦して下さったし、イエス様も、姦淫の現場で捕らえられた女を罪に定めず、「これからは決して罪を犯してはならない」と言われた。

主が、敢えて私達を苦々しい試練に遭わせられるのは、私達の心の中が明らかにされるため、私達が全き心で主に従い通すかを、探るためである。
『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)

のろいの苦い水には、聖所のちりが混ぜられたが、私達も、試練に会った時は、口をちりにつけ、主の御前でおとなしく、自分が「ちり」である成り立ちを思い返すべき時である。
『主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。 』(哀歌3:28-33)

のろいの水の試練にあって、潔白が証明された時、夫の愛が戻って来て、以前にも増して愛され、さらに、子を生むようになった。
同じように私達も、主から試され、苦い試練を通され、そしてそれをパスしたなら、主からの寵愛は以前よりも増し、健康や経済など、いのちの祝福は増し加わるのだ。
だから私達は日々、主に対して、全き心であり続けるべきである。

栄光の家系の女達 – タマル4 祝福を掴む執念(創世記38:27-30)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

世の中のお父さんとお母さんの馴れ初め話を聞くと、心和むものや、聞いていて嬉しくなる話は多いが、必ずしもそうでない場合もある。ユダとタマルという父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。(ルツ4:12)
いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。
イエス様を受けいれた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子となる全権が与えられた。
その人は、親の血統や肉欲は一切関係なく、ただ、神によって全く新しく生れたのである。(ヨハネ1:12)
では、タマルの子ペレツは、なぜ祝福の代名詞になったのか。その鍵は、祝福を掴む執念である。

『さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。』(創世記38:27)
助産婦は、最初に出てきた赤子の手に「こちらが長男だ」という印として、真っ赤な糸を結びつけたが、その子は、お母さんのお腹のほうが居心地良かったのか、戻ってしまい、その間に、もう一方の子が先に生まれ出てきた。その、先に生まれてきた子はペレツ(割り込む)、手だけ先に出して、長男としての真っ赤な印をつけられながらも、後から出て来て、長男ではなくなってしまった子は、ゼラフ(輝き)と名付けられた。
ゼラフも、手を引っ込めたりせず、そのまま長男として出ていれば、王族の家系を継ぐものとされていたものを、それを逃し、割り込んで先に生まれ出たペレツが長男とされ、このペレツから王族が出る事となった。
この事は、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。
ひと度、栄光の世界に一歩足を踏み入れ、祝福のしるしがつけられたのに、肉の中にいる事のほうを良しとし、その中へと引っ込んでしまうなら、その王族の家系の権利は別の人に奪われ、永遠に逃してしまう。
ヤコブの兄・エサウも、長子の権利を軽んじ、それを奪わんと虎視眈々と狙っていた弟によって、長子の権利も、祝福も、奪われてしまった。彼は、一杯の食物によって、長男の権利そのものを売ってしまった。
『一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』(ヘブル12:16-17)

御国が私達に向かって手を差し伸べている時、天国への道が開かれている時、臆病になってはならない。『臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙21:7)
黙示録のこの箇所では、第二の死へと向かう筆頭は、「臆病者」で、その次が「信じない者」である。
なぜ、邪悪な「人殺し」とか、神を知らぬ「偶像礼拝者」を差し置いて、「おくびょう者」が筆頭なのか?
それは、御国に入るチャンスが与えられ、その前味わいまでしたのに、捨て去るべき以前の世と決別する段になって、おくびょうになり、捨てきれないからだ。
ポンテオ・ピラトをかわいそう、と言う向きもある。イエス様を敬う心を少し持っていたのだから、赦してあげればいいじゃないか、と。しかし、イエス様を敬う心を持っていながらに、最後には臆病の故にイエス様を捨てて世に従ってしまう、これは、最初からイエス様に敵対していたパリサイ人達よりも、たちが悪い。
なぜなら、イエス様が真理であり王の王であると知った上で、なお、拒否したからだ。

『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12) 神の国の権利は、それを奪おうとする人が勝ち取り、自分は大丈夫だと安穏として肉に浸り続け、そこから動こうとしない人は、祝福の権利を奪われてしまう。
パリサイ人達は、ヨハネのバプテスマはどこから来たのか、と、イエス様から質問をされた時、人前で臆病になり、「わかりません」と答えた。そこで主は、あなたがたよりも取税人や遊女の方が、先に神の国に入っている、と、宣言された。(マタイ21:23-32)
イエスの血潮という、救いの「赤い印」が与えられたなら、それを決して離さず、神の国を熱心に求め、執念深く祝福を奪い取って行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主の住まわれる集会の清め(民数記5:1-10):右クリックで保存

『「イスラエルの人々に命じて、らい病人(原語:ツァラアト)、流出のある者、死体にふれて汚れた者を、ことごとく宿営の外に出させなさい。男でも女でも、あなたがたは彼らを宿営の外に出してそこにおらせ、彼らに宿営を汚させてはならない。わたしがその中に住んでいるからである」。イスラエルの人々はそのようにして、彼らを宿営の外に出した。すなわち、主がモーセに言われたようにイスラエルの人々は行った。』(民数記5:2-5)

ツァラアトに罹っている人や、流出のある人等は、宿営の外に隔離し、そこで生活しなければならないという事を、主は既にレビ記で命じられていた。
その命令が出された時点で、自主的に出て行った人も、出て行かなかった人もいたのだろう。
そしてここで主は、明示的に「ことごとく宿営の外に出させなさい」と命じ、こうしてツァラアトに罹っている人や流出のある人たちは全て宿営から出て行った。

この事は、現代の民主主義・人権主義の観点からは、ひどいよう見える。
しかし、忘れてはならない。神の民は、「民主主義」ではなく「神主主義」、「人権主義」ではなく「神権主義」で生きるべき事を。
主は、イスラエルの宿営を「わたしがその中に住んでいる」と言われた。
聖なる主が、宿営の中に共に住んでおられるからには、一切の汚れをその中から除き去るべきである。
現代は「人権」を不自然に重んじるあまり、殺人者や未成年者の「人権」が歪んだ形でまかり通ってしまい、本来あるべき善悪の概念や、清さと汚れの概念が、混乱を来たしていて、罰するべきを罰さず、罰さぬべきを罰してしまうような事が、まかり通ってしまっている。
民主主義や人権主義は、罪過ちのある不完全な人間を主体とする所に、致命的な欠陥がある。人は結局、神を主として生きる事こそ、最善と幸いがあるのだ。

自分の中に、他人を汚してしまうような罪や汚れがある時は、周囲の人達を汚したり不愉快にしてしまうだけであるので、人の集まりから出て、主と一対一で向き合い、主にこの罪や汚れを対処して頂くうべき時だ。
『ひとりの重い皮膚病人(ツァラアト)がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病(ツァラアト)は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)

また主は、和解すべき紛争を和解し、解決すべき問題を解決し、そうして、イスラエルの宿営の中から平和を乱す種を除き去るよう命じておられる。
『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない。』(民数記5:6-7)
ここはKJVでは「When a man or woman shall commit any sin that men commit,」と始まる。
罪にコミットする事、すなわち、「罪」状態に入る事は、人に損害を与えるだけでなく、「主に罪を犯す事」と記されている。

その解決のために、犯した罪を告白し、損失を与えた相手がいる場合には、五分の一を加えて償いをし、償いをすべき相手がいなければ、主に対して償わなければならない。
私達が罪を犯す事によって、主も、兄弟姉妹たちも、心に傷を受ける。だから、単に物品の償いをすれば良いという問題ではなく、相手の心のためにも、主のためにも、ある程度のペナルティを自分が受ける必要があるのだ。

イスラエルの会衆は、このように、共同体の中から汚れを除き去り、主の住まわれるイスラエルの宿営を清めた。
私達も、主から除き去るべき罪、解決すべき問題が示されたなら、早急にそれを除き去り、私達が属する主の集会を清めるべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
口に気をつけるよりも心の中を入れ替えよ(ヤコブ3:2-12):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
尊い器を運ぶ責任(エズラ記8:24-36):右クリックで保存

【概要】

エズラ記8章24節から36節において、エズラが神殿への奉納物を運ぶ際の信仰と責任について語られています。彼は神の守りを信じ、断食と祈りを通じて旅の安全を求めました。

【聖書箇所】

エズラ記8章24節から36節

【励ましの言葉】

神は信頼する者を守り、導いてくださいます。私たちも神に頼り、祈りを通じて日々の歩みを守っていただきましょう。

【戒めの言葉】

祈った後も、私たちは自らの責任を果たし続ける必要があります。神に託されたものをしっかりと管理し、守り続けましょう。

【***詳細***】

エズラ記8章24節から36節は、エズラが神殿への奉納物を運ぶために選ばれた祭司たちとレビ人たちに対して、どのようにその任務を遂行するべきかを指示する場面です。エズラは、祭司長たちの中から十二人を選び、彼らに銀650タラント、金100タラント、その他の貴重な器類を託しました。これらはイスラエルの神の宮への奉納物であり、非常に重要なものでした。

エズラは彼らに、「あなた方は主の聖なるものである。この器類も聖なるものとされている。この銀と金はあなた方の父祖の神、主への進んで捧げる捧げ物である」と告げ、エルサレムの主の宮の部屋で、祭司長たち、レビビトたち、イスラエルの一族の長たちの前で、計るまで寝ずの番をして守るように命じました。

エズラたちは、第一の月の十二日にアハワ川を出発し、神の御手が彼らを守り、敵の手から救い出してくださいました。こうして彼らは無事にエルサレムに到着し、神の宮に奉納物を届けました。彼らは、王の命令書を川向こうの総督たちに渡し、民と神の都に援助を与えました。

この物語は、神の守りを信じることの重要性を教えています。エズラは、神に頼り、断食と祈りを通じて旅の安全を求めました。彼は、神の守りを信じることが、世の力に頼ることよりも重要であると考えました。

私たちも、神に託されたものをしっかりと管理し、守り続ける責任があります。祈った後も、私たちは自らの責任を果たし続ける必要があります。神に託されたものをしっかりと管理し、守り続けましょう。

【結論】

エズラ記8章24節から36節は、神の守りを信じることの重要性と、神に託されたものをしっかりと管理し、守り続ける責任を教えています。私たちも、神に頼り、祈りを通じて日々の歩みを守っていただきましょう。そして、神に託されたものをしっかりと管理し、守り続ける責任を果たしましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第二のしゅろの日(黙示録7:9-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:御国のオーケストラ奏者である神の奉仕者(民数記4:34-49):右クリックで保存

『モーセとアロン、およびイスラエルのつかさたちは、レビびとを、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、会見の幕屋にはいって務の働きをし、また、運ぶ働きをする者を、ことごとく数えたが、その数えられた者は八千五百八十人であった。彼らは主の命により、モーセによって任じられ、おのおのその働きにつき、かつその運ぶところを受け持った。こうして彼らは主のモーセに命じられたように数えられたのである。』(民数記4:46-49)

こうしてレビ族のうち、幕屋の奉仕が出来る人々が数えられ、登録された。
コハテ族の二千七百五十人は、アロンの子エルアザルが指揮をとり、ゲルション族の二千六百三十人・メラリ族の三千二百人は、アロンの子イタマルが指揮をとる。

神の奉仕者達には、必ずそれぞれ従うべき権威があり、その指揮の元に、各自の奉仕が割り当てられ、秩序正しく奉仕を遂行していく。
レビ以外の部族は、20歳以上が戦う者として登録されたが、ことに神の務めは、若い情欲や血気盛んさが抜けて、ある程度大人として成熟してからでないと、奉仕できる者として登録されない。

神の奉仕は、オーケストラのようであり、奉仕者は自分のやりたい事を捨て、指揮者であるキリストのタクトをよく見、その導きに従い、全体で、キリストのからだという美しいハーモニーを奏でるために、それぞれに与えられた賜物という楽器を演奏するものである。
誰か一人でも、目立ったり注目してもらいたいと、身勝手に指揮されてもいない事をするならば、全体のハーモニーを台無しにしてしまう。
祭司の奉仕も、レビ族の奉仕も、一歩誤ると、神に打たれて死んでしまう。だから神の奉仕は本来、信仰がある程度成熟していなくては、任せられないものである。

旧約時代は、ただ祭司だけが聖所の奉仕が許されているのみで、いかにコハテ族といえども、聖所の器物を見る事さえ許されていなかった。
しかし現代、キリスト者は、キリストにあって隔ての幕は打ち壊され、王族の祭司とされ、聖所の覆いは取り除かれている。
キリストにあるなら、誰もが、大胆に恵みの御座に近づき、おりにかなった助けを得ることができる。
新約の現代、キリストにあって自らを清める人は、ますます、尊い事に用いられる器とされていく。
『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。』(2:20-22)

このように、主の奉仕者は、汚れから離れ、自らを清めていく必要があり、そのための「清め」は、私達のがんばりによるのではなく、主の導きに従って行く事による。
『去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの/しんがりとなられるからだ。』(イザヤ52:11-12)
若い時の情欲から離れ、成熟した者として自らを清め、主に有用なものとされ、ますます尊い事に用いられて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ゲルション族、メラリ族の奉仕(民数記4:21-33):右クリックで保存

今回の箇所では、ゲルション族、メラリ族の奉仕分担について命じられている。

『ゲルションびとの氏族の務として働くことと、運ぶ物とは次のとおりである。すなわち、彼らは幕屋の幕、会見の幕屋およびそのおおいと、その上のじゅごんの皮のおおい、ならびに会見の幕屋の入口のとばりを運び、また庭のあげばり、および幕屋と祭壇のまわりの庭の門の入口のとばりと、そのひも、ならびにそれに用いるすべての器を運ばなければならない。そして彼らはすべてこれらのものについての働きをしなければならない。』(民数記4:24-26)
ゲルション族が運ぶべき幕屋の器具は、幕や覆い、皮などの布製品で、幕屋を覆うもの、折り曲げ可能なものである。

それに対し、メラリ族が運ぶべき幕屋の器具は、立て板や土台などの、幕屋の骨格みをなす部分で、大きく硬いものである。
『彼ら(メラリ族)が会見の幕屋でするすべての務にしたがって、その運ぶ責任のある物は次のとおりである。すなわち、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、庭のまわりの柱、その座、その釘、そのひも、またそのすべての器、およびそれに用いるすべてのものである。あなたがたは彼らが運ぶ責任のある器を、その名によって割り当てなければならない。』(民数記4:31)

彼らが取り扱うものは、ケハテ族のような聖なる祭具でなく、板や布など、霊的レベルの低いものを運ぶ奉仕、と思われがちだが、それらが無くては、幕屋は成り立たない。
イエス様も、神殿と神殿の黄金に貴賎の区別をつけているパリサイ人を「愚か」だと叱責している。
『盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。』(マタイ23:16-17)

ゲルション族やメラリ族が運ぶべきものは、出エジプト記26,27章で主が示されている幕屋の寸法を見ると、結構な大きさのものである事が分かる。
幕屋全体を覆う幕は、1.78mx12.5mほどの布を基本構成とし、それを10枚つなぎあわせ、大きな一つの幕としている。さらに、そのような大きさの幕が、合計4層に渡って覆われている。
幕屋の壁は、4.45mx0.66mのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
そればかりでなく、外庭の寸法は、およそ22mx44mであるが、その外庭と外界を区切る架け幕、およそ2mほどの感覚で立てられた立板と、それを支える青銅の土台もある。
このように、幕屋全体の器物となると、結構膨大な量となり、それを解体したり運んだり組み立たりするとなると、とても数人でできるものではない。

幕屋から臨在の雲が離れてのぼった時、すなわち、主がその場所から行くようにとのGOサインが出た時、まず、祭司が至聖所と聖所の器物を梱包し、それが終わったら、エルアザルがケハテ族にそれらを運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルがゲルション族に布製品を解体して運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルはメラリ族に骨組みと土台を解体して運び出すよう指示し、そうして、幕屋が荒野を移動する準備が整うのである。
これら全ては、秩序正しく為されなければならない。
神の国の奉仕も同じで、それぞれが身勝手になってはならず、主にあって秩序正しく為されなければならない。

礼拝説教メッセージ音声:コハテ族の奉仕(民数記4:1-20):右クリックで保存

『「レビの子たちのうちから、コハテの子たちの総数を、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、務につき、会見の幕屋で働くことのできる者を、ことごとく数えなさい。』(民数記4:2-3)
3章では、生後一ヶ月からのレビ族の男子が数えられたが、4章ではさらに、幕屋の奉仕に携わる事のできる、三十歳以上・五十歳以下の、働き人の数を数えるように、命じられている。
レビ人の幕屋の奉仕は、幕屋の器物を実際に運ぶ事だが、それらの多くは、金や銀、アカシヤ材などで出来た重量物であり、また、全て主の礼拝に用いられる聖なる器物であるから、この奉仕に当たるのは、ある程度成熟した男性でなければならない。

『宿営の進む時に、アロンとその子たちとは、まず、はいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをもって、あかしの箱をおおい、その上に、じゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にさおをさし入れる。』(民数記4:5-6)
主の臨在の雲が立ち上がり、イスラエルが進むように導かれた時、幕屋は解体して、荒野を運んで行かなくてはならないが、解体するにあたって、まず、祭司であるアロンとその子達が解体して梱包し、担ぎ棒を通し、運べる状態にし終わってから、初めて、レビ人達の手に委ねる事が出来る。

この、幕屋の聖なる器物には、それぞれ、梱包する手順も、主から定められている。
まず、あかしの箱の場合は、聖所と至聖所を仕切る幕で覆い、次はじゅごんの皮で、そして一番外側は、青色の布で覆う。
供えのパンの机と、それに属する祭具の場合は、まず青布で覆い、次は緋色の撚り糸の布、そして一番外側は、じゅごんの皮で覆う。
燭台や金の香壇など、その他に聖所の務めに用いる道具は、全て、まず青布で覆い、その上にじゅごんの皮で覆う。
つまり、レビ人がそれらを運搬する際は、契約の箱は、青布で包まれた神輿のようなものとなり、それ以外の祭具は、じゅごんの皮で包まれたものとなる。

これら聖なる祭具は、少しでも中身を晒してはならない。
それらは、あまりに聖であるため、主の許しの無い人が触れてしまうと、死んでしまうためであり、それは、いかに祭具を運ぶ役割が与えられたケハテ族のレビ人であっても、それを直接見るなら、死んでしまうのである。(15,20節)

これらの中身は、尊き神の聖なる器具ではあるものの、ケハテ族にとっては、それは単に、じゅごんの皮で包まれた、見栄えの良くない、運ぶには重たく難儀するもの、と、思えるかもしれない。
そのように、外見的・表面的な事で、奉仕を見てしまうと、自分達は、つまらない、きつい、地味すぎる奉仕ばかりやらされている、と、良からぬ思いで満ちて行ってしまう。
だからいつも、自分達は尊い器を運ぶという、尊い奉仕をさせていただいている、という、感謝を忘れぬべきである。
しかし、聖なる祭具を運ぶ役割が与えられているコハテ族のコラは、モーセとアロンに逆らった。

『ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。』(民数記16:1-3)
彼らの言い分は、全会衆はことごとく聖なるもので、主がその内におられるのだから、モーセとアロンだけが人の上に立って祭司として偉そうにしているのはおかしい、というものだ。
その言い分は、現状の立ち位置に不満のある人々には、もっともに聞こえ、ある種の自己実現欲をくすぐるものである。
ここにいる、名のある二百五十名も、その欲望をかき立てられて、コラと共に立ったのだろう。

モーセは、そんな彼らに、本来的な事を思い起こさせようと、説得する。
コラ達コハテ族は、主の御そば近くで栄誉ある務めに任じられており、それは小さなことではなく、特別な事である。
それで満足せず、なお祭司の職務を求めるのは、主に敵対する事だ、と。
しかし、彼らはモーセの説得を突っぱねた。

そんな彼らの末路は、とても恐ろしいものであった。
『エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラムである。このダタンとアビラムとは会衆のうちから選び出された者で、コラのともがらと共にモーセとアロンとに逆らって主と争った時、地は口を開いて彼らとコラとをのみ、その仲間は死んだ。その時二百五十人が火に焼き滅ぼされて、戒めの鏡となった。ただし、コラの子たちは死ななかった。』(民数記26:9-11)

コラの子達は、父が滅びるまさにその時、その天幕から離れて、滅びを免れていたようである。
恐らく彼らは、父よりも主を恐れ、父の陰謀から離れていたのだろう。
そして、そのコラの子孫たちは、詩篇において、素晴らしい信仰告白をいくつも残している。
『聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。』(詩篇42:1-2)
いかにコラの子といえど、主を慕いあえぐ心をもって、主の奉仕を感謝しつつ望むなら、後に大きな栄誉に与るのである。

私達の奉仕も、もしかしたら、じゅごんの皮の重たいものを運んでいるかのような、地味なものであるかのように見えるかもしれない。
しかし、その中身は、主の尊い事に用いられる、聖なる器である。
その事をいつも忘れずに、主を慕いあえぎつつ感謝を持って、奉仕に当たっていく皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの長男の数(民数記3:40-51):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「あなたは、イスラエルの人々のうち、すべてういごである男子の一か月以上のものを数えて、その名の数を調べなさい。また主なるわたしのために、イスラエルの人々のうちの、すべてのういごの代りにレビびとを取り、またイスラエルの人々の家畜のうちの、すべてのういごの代りに、レビびとの家畜を取りなさい」。』(民数記3:40-41)
イスラエルにおいて、長男は主のものである。
その長男を主に捧げる代わりに、レビ人をその代わりとするため、イスラエルの長男の数を数えるよう、命じられている。
面白い事に、家畜の初子も、同じように、レビ人が所有する家畜の代わりとせよ、と言われている。
レビ人の持ち物も、イスラエル民族の持ち物の代表として、神に捧げられている、という事だろうか。

『またイスラエルの人々のういごは、レビびとの数を二百七十三人超過しているから、そのあがないのために、そのあたまかずによって、ひとりごとに銀五シケルを取らなければならない。すなわち、聖所のシケルにしたがって、それを取らなければならない。一シケルは二十ゲラである。あなたは、その超過した者をあがなう金を、アロンと、その子たちに渡さなければならない」。』(民数記3:46-48)
イスラエル全体の長男の数を数えてみた所、長男の数のほうが、レビ人の数より273人多い事が分かり、『一か月から五歳までは、男にはその値積りを銀五シケルとしなければならない。』(レビ記27:6) という規定に従って、その人数分の贖いの銀を主の元に納め、そうして、イスラエルの初子の贖いを完済した。

『その数えられたういごの男子、すべて一か月以上の者は、その名の数によると二万二千二百七十三人であった。』(民数記3:43)
イスラエル全体の長男の数は、22,273人。それに対し、イスラエル全体の男子の数は、レビ族を除いて、603,550人。(1:46)
全男子の数を、長男の数で割ると、イスラエルの一家の平均的な男子の数となるが、その数、およそ27!
驚きである。
ひと家庭に、男子が27人いたという事は、男女比率が1:1だとすると、一家庭に、60人近くの子供がいた、という事だろう。
それは、現代日本の常識では想像もできないが、ギネスブックによると、18世紀のロシアの農民ヒョードル・ワシリエフの妻が、1725年から1765年にかけて、27回の出産で、双子16組、三つ子7組、四つ子4組の、計69人を産んだ記録があるそうだ。
イスラエルは、エジプトに滞在した400年で、70人から六十万以上に増えた。エジプトがイスラエルを脅威に感じたのも、うなずける。

カナンの地で穫れたぶどうは、あまりに大きく、そのひと房を、大人が二人がかりで担いだ(民 13:23)とか、七日間イスラエルの民がエリコを廻ったら城壁が崩れたとか、ヨシュアが祈ると地球の自転が一日止まったとか(ヨシュア10:12)、聖書は、現代の常識では考えられない記述の連続である。
しかし、考古学の発掘で、エリコの城壁は内部から外部へと不自然な崩壊の仕方をしている事が発見され、宇宙物理学でも、地球は確かに過去、一日自転が止まった事が証明されているそうである。

聖書の記述は、現代を生きる私達にとって、あまりに想定外のため、多くの人が信じられないと言っているが、主は、天地を創られ、物理法則を定められた、不可能の無いお方であり、信じる者には、力強き助けの御手を伸ばして下さるお方である。
イスラエルの民に注がれたのと同じ祝福を、いや、それ以上の祝福さえ、私達・信じる者に与えて下さると、私達も大いに信じるべきである。
『イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』(マルコ9:23-24)

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