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栄光の家系の女達 – タマル3 王族としての整え(創世記38:20-26)
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皆さんは、印鑑や一族のしるしを、誰とも分からぬ遊女に報酬の抵当として預けたりするだろうか。イスラエル王族の父祖・ユダは、それをしてしまう程、霊的に落ちぶれていたが、主はそこから立ち直らせて下さる。
ユダが、遊女の報酬のやぎを送ろうとしたのは、遊女にさえ律儀に約束を守るため、というより、大事な自分の印と紐、つえを取り戻すためだった。しかし、彼女は探しても見つからなかった。(創世記38:20)
それらの三品は、本人証明に使える程の大事なものであるにもかかわらず、それを持っている”遊女”を徹底的に探す事をしなかったのは、ユダにとって、自分のした事は、恥だったからである。(23節)

『ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言った、「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。』(24節)
この場面はタマルの危機というより、ユダの危機である。ユダは、タマルが姦淫したという事で死刑に定めたが、彼自身こそ、3ヶ月前、密かに遊女を買い、それを隠しおおせたつもりが、主はそうは行かせない。
『彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。』
ユダは、うやむやに葬り去ろうとした諸々が、全て、明るみに出されてしまった。
自分と家族が主から離れている事をうやむやにし、タマルに夫を与える約束をうやむやにし、神様の御心である産んで増えて行くという事をうやむやにしつつ、自分は遊女と遊び、その事も秘密裏に葬り去ろうとした結果、それら全てが結実した実は、自分の赤ちゃんという、誰にも申し開き出来ないものだった。
神に属する一族は、罪の問題やいのちを生む事、悔い改める事など、神に果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウトする事など、出来ないのだ。

本来、かけがえのないはずの自分の赤ちゃんが、恥である時、その人自身には必ず 罪がある。
しかし、いかに人の罪の行いの結果生まれたいのちであっても、いのちは例外なく主の御前に尊い光であり、人が隠しおおせるものではなく、そのいのちを疎む者を、主は疎まれる。ユダはどう対応しただろうか。
『ユダはこれを見定めて言った、「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」。彼は再び彼女を知らなかった。』(26節)
彼は試されたが、主の前に正しい対応をした。すなわち、自分の罪を認め、悔い改め、罪の行いを離れた。
もしこの時、頑固になって怒り狂い、タマルを焼き殺し、自分の赤ちゃんのいのちまで奪っていたとしたら、彼もオナンのように、主に打たれていたのではなかろうか。
彼の子孫・ダビデ王も、姦淫の結果のいのちの事で、犯した罪が示された時「私は主に対して罪を犯した」と正直に非を認め、正しい判断をした。それで主は、ダビデを打たれず、罪を見過ごして下さった。

罪ある事を主から示された時、正直に認め、悔い改め、罪に戻らない事。それこそ、王族の対応である。
ユダはずっと後、エジプトの宰相となった弟・ヨセフから濡れ衣を着せられた時、一切の言い訳をせず、告白した。『われわれはわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうしてわれわれは身の潔白をあらわし得ましょう。神がしもべらの罪をあばかれました。』(44:16)
ユダは、主からの懲らしめと恥を受けた事により、罪を指摘された時は断然、正直になって悔い改めるようにと、また、伴侶選びと女性に関してはくれぐれも気をつけるようにと、自分と子孫達を教育した事だろう。
それでユダの家は、多くの失敗を事前に防げた事だろう。こうしてユダ族は、支配者として整えられて行き、ついには、罪なき身であるのに、罪人の身代わりとなって、その身を差し出すという、主イエスにも似た、黄金のように気高く尊い性質を帯びるまでになった。(創世記44章)
そうしてユダは、後に、兄弟の中で一番の祝福を父ヤコブから受けた。『つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(49:8)
一度は、肉欲のために手放してしまった支配者の杖だが、タマルという主の懲らしめの杖を真正面から受け入れ、悔い改めた結果、もはや支配の杖は、彼から決して離れる事は無くなったのだ。
罪を正直に認め、悔い改め、王族の高貴な性質を帯びるようになって行く皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:神の奉仕者として登録される(民数記3:14-39):右クリックで保存

「あなたはレビの子たちを、その父祖の家により、その氏族によって数えなさい。すなわち、一か月以上の男子を数えなければならない」(民数記3:15)
一般のイスラエル部族が登録される場合は、二十歳以上の成人男性が数えられたが、レビ族に限ってはそうではなく、生後一ヶ月以上の男子を数えなければならない、とされた。
レビ族は、神殿や幕屋で、神の奉仕をする部族である。
つまり、神の奉仕者は、たとい、生後一ヶ月の、母に抱かれている乳幼児であっても「神の奉仕者」としてカウントされており、彼らは子供の頃から働き人として教えこまれ、育てられるのである。

『レビの子たちの名は次のとおりである。すなわち、ゲルション、コハテ、メラリ。』(民数記3:17)
レビ族にはこの三部族がおり、それぞれの部族ごとの役割は、21-39節で示されている。
まず、ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる事で、神の幕屋の西側に宿営する。
ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる事で、幕屋の南側に宿営する。
メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる事で、幕屋の北側に宿営する。

そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)

主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。

教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。

『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。

実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。

ところで、16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の印が押されるために(黙示録7:1-8):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愛する人への心構え(雅歌3:1-4):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民の聖なるプライド(エズラ記8:1-23):右クリックで保存

【概要】

エズラ記8章では、バビロンからエルサレムへの帰還を目指すエズラとその同行者たちの名簿が記されています。彼らは神の導きと守りを求め、断食と祈りを通じて信仰を示しました。

【聖書箇所】

エズラ記8章1-23節

【励ましの言葉】

神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下します。

【戒めの言葉】

神を捨てる者には、その力と怒りが下ります。

【勧めの言葉】

神に属する者として、信仰を持って行動し、神の守りを信じましょう。

【***詳細***】

エズラ記8章は、バビロンからエルサレムへ帰還するエズラとその同行者たちの名簿から始まります。彼らはアルタシャスタ王の命令を受け、神殿の再建と立法の教えを広めるために帰還の旅に出ます。

エズラは、アハワ川のほとりでレビ人がいないことに気づき、レビ人を集めるために使者を送りました。神の恵みの御手が彼らの上にあったため、レビ人や宮に仕える者たちが集まりました。エズラは、神の立法を調べ、実行し、教えることを心に定めていました。

エズラは、道中の無事を神に願い求めるために断食を布告しました。彼は、王に護衛を求めることを恥じ、神の守りを信じることを選びました。エズラは、神の御手が彼らを守ると信じ、断食と祈りを通じて神に願い求めました。神は彼らの願いを聞き入れ、道中を守られました。

この箇所は、信仰を持って神により頼むことの重要性を教えています。エズラは、神の名誉を守るために、神の力により頼むことを選びました。私たちも、神に証を立て、信仰を持って行動することが求められています。

【結論】

エズラ記8章は、信仰を持って神により頼むことの重要性を示しています。私たちは、神に属する者として、信仰を持って行動し、神の守りを信じることが求められています。神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下します。私たちも、神に証を立て、信仰を持って行動することを心がけましょう。

礼拝説教メッセージ音声:代表選手がした事は(民数記3:1-13):右クリックで保存

この章は、レビ族の務めと役割分担が記されているが、その、主が命令されている内容から、主の定められたルールの特徴と傾向を見る事ができる。

『主がシナイ山で、モーセと語られた時の、アロンとモーセの一族は、次のとおりであった。アロンの子たちの名は、次のとおりである。長子はナダブ、次はアビウ、エレアザル、イタマル。これがアロンの子たちの名であって、彼らはみな油を注がれ、祭司の職に任じられて祭司となった。
ナダブとアビウとは、シナイの荒野において、異火を主の前にささげたので、主の前で死んだ。彼らには子供がなかった。そしてエレアザルとイタマルとが、父アロンの前で祭司の務をした。』(民数記3:1-4)
祭司は民を代表して主の御前に立つものであり、その代表である大祭司が違ったことをするなら、イスラエル全体に罪を運んでしまうため、責任重大である。
主の前に異なった火を捧げたナダブとアビフは、主に打たれてしまったため、その弟達であるエルアザルとイタマルが代わりに祭司の務めを為す事となった。
しかし、彼ら祭司たちだけでは、天幕の務め全体を担い切る事はできない。
そこで主は、レビ族を特別に召しだされ、神の奉仕に当てるために召しだされた。(同9節)

『レビの部族を召し寄せ、祭司アロンの前に立って仕えさせなさい。彼らは会見の幕屋の前にあって、アロンと全会衆のために、その務をし、幕屋の働きをしなければならない。すなわち、彼らは会見の幕屋の、すべての器をまもり、イスラエルの人々のために務をし、幕屋の働きをしなければならない。・・・あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう』(民数記3:6-10)
この所から、主の御前に仕える事が許されているのは「主が定めた人のみ」であり、それ以外は、決してそれを為してはならない事が分かる。

『主はまたモーセに言われた、「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」。』(民数記3:11-13)
ここからも、動物も人も、全ての「初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる、という主のルールも、ここから読み取る事が出来る。

罪は、私達人生全員の代表選手・アダムひとりによって罪が入り(最初に罪を犯しアダムを唆したのは妻エバだが、アダムが代表であり、彼が罪を犯した事になる)、こうして一人の人を通して人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
このアダムは、きたるべきお方・キリストの型である。

『しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか・・・。
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか・・・。
このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。』(ローマ5:15-19)

イエス様を信じ、神の子とされた私達にとって、今や、イエス様が長男であり、代表選手である。
そのイエス様がして下さった事は、私達もした、と、見なされる。
すなわち、キリストが受けた裁きと罰も、キリストが死んで下さった「死」も、キリストがよみがえって下さった「よみがえり」も、キリストが律法を成就して下さったその成果も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と、主の御前で見なされる。
私達は、十字架に架けられた記憶は無いし、罪が処罰された記憶も無い。律法を成就した記憶も、キリストが行った素晴らしい行いを行った記憶も無い。
しかし私達は、キリストにあって、神の御前には、私達も「した」と見なされているのである。
どれほど都合の良い話しであろうか!
そう、福音は都合が良すぎて、にわかに信じがたい事である。

『神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に”御子のかたちに似たもの”としようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で”長子”とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。』(ローマ8:28-30)

礼拝説教メッセージ音声:荒野を覆う巨大な生きた十字架(民数記2:1-34):右クリックで保存

『主はモーセとアロンに言われた、「イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。 』(民数記2:1-2)

民数記2章は、六十万以上のイスラエルの部隊が荒野を行進して行く上で、どのように秩序立って進んでいくべきかが、命じられている。
この荒野の行軍は、誰もがが好き勝手に、無秩序に好きな所へ行って良い、というものではない。
主が定められた配置どおりに進み、主が定められた場所に留まらなくてはならない。
そして、この六十万以上の宿営の中心は、神の幕屋、すなわち、神を礼拝する所である。(17節)

現代を生きるキリスト者の歩みも、約束の地を目指して荒野を行軍して行くイスラエルの民のようなものである。
私達も、彼らと同じく好き勝手に進んではならず、それぞれが立つべき立ち位置につき、主が定められた所に住まい、導きに従って進退しなくてはならない。
主の臨在が進んだなら、私達も進み、主の臨在が留まったなら、そこに留まる、という、主を中心とした歩みをしていくべきである。

荒野を行軍して行く際は、それぞれの部族の旗印にしたがい、宿営すべき場所が主から定められている。
すなわち、神の幕屋を中心として、その東側にはユダ、イッサカル、ゼブルンの3部族、合わせて十八万六千四百人が宿営し、その南側にはルベン、シメオン、ガドの3部族、合わせて十五万一千四百五十人が宿営し、その西側はエフライム、マナセ、ベニヤミンの3部族、合わせて十万八千百人が宿営し、そして北側には、ダン、アシェル、ナフタリの3部族、合わせて十五万七千六百人が宿営する。

さて、この隊形は、天から見ると、どんな形になるだろうか。
それはちょうど、西側を頭とした十字架の形となるはずだ。
イスラエル民族は、普通に天幕生活したり、行軍したりしているつもりでいて、実は、彼ら全体で十字架を表現していたのだ。

私達キリスト者の歩みも、荒野の天幕生活のようである。
その日々の歩みには、キリストの十字架は見えにくいかもしれない。
しかし、天から見れば、そして永遠の視点から見れば、主があちらこちらに配剤されており、そして、私達の「人生」という綾織物が完成した時、実は、この人生の全体を通してキリストが表現されていた事に気づくだろう。
いや、今もすでに人生を振り返った時、人生のあの時この時でキリストが練り込まれていた事に、既に気づいている方が、おられるのではないだろうか。

そういうわけで、私達が人生という荒野の旅路を行軍して行く際、中心とすべきは、主を礼拝する事である。
主が定められた、それぞれの立ち位置につき、主の導きに従って行動すべきである。
主が「東を守れ」と言っているのに、自分の好き勝手で、南西を守っていたら、その人自身も、そして全体にも、支障が来される。
世に出て働く人は、与えられた場所でしっかり働き、主の奉仕が割り当てられている人は、しっかりその務めをなし、そうして私達おのおのは、キリストのからだの各部分として有機的に機能し、全体を通してキリストを表現して行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:レビ人の兵役免除(民数記1:47-54):右クリックで保存

イスラエルの成人男性は皆、戦いに出られる者として登録されたが、レビ人だけは、そうされなかった。
なぜなら、彼らには神の幕屋に関わる、特別な奉仕があるからである。
『「あなたはレビの部族だけは数えてはならない。またその総数をイスラエルの人々のうちに数えあげてはならない。あなたはレビびとに、あかしの幕屋と、そのもろもろの器と、それに附属するもろもろの物を管理させなさい。彼らは幕屋と、そのもろもろの器とを持ち運び、またそこで務をし、幕屋のまわりに宿営しなければならない。』(民数記1:49-50)

神の幕屋の事柄で働くレビ人は、その数を数える事は、許されていない。
人は何か仕事をする時、人数を数え、仕事の量を計算し、配分を決めてとりかかるものだが、主の奉仕に限っては、人間のそうした「計算」は必要ない。
主はちゃんと必要を満たし、働き人を備え、多すぎず、少なすぎずに、全てを配分して下さるのだ。

レビ族は、兵役が免除され、神様の御そば近くで仕えていられる。
その特権ともいえる立場に、皆さんもなりたいだろうか。
それなら、レビ族がその特権とも言える立場を主から任じられたきっかけを知るべきである。
彼らは実は、他の部族が断念した戦いに自ら参加し、そして、勝利したのだ。
すなわち彼らは、親や子に逆らってでも主の命令に従順せよ、との主の命令に、従い通した。(出エジプト記32:25-29)

モーセが世を去る前にイスラエル十二部族を祝福した時、レビについては、以下のように祈っている。
『「あなたのトンミムをレビに与えてください。ウリムをあなたに仕える人に与えてください。かつてあなたはマッサで彼を試み、/メリバの水のほとりで彼と争われた。彼はその父、その母について言った、/『わたしは彼らを顧みない』。彼は自分の兄弟をも認めず、/自分の子供をも顧みなかった。彼らはあなたの言葉にしたがい、/あなたの契約を守ったからである。
彼らはあなたのおきてをヤコブに教え、/あなたの律法をイスラエルに教え、/薫香をあなたの前に供え、/燔祭を祭壇の上にささげる。主よ、彼の力を祝福し、/彼の手のわざを喜び受けてください。彼に逆らう者と、/彼を憎む者との腰を打ち砕いて、/立ち上がることのできないようにしてください」。』(申命記33:8)

神の幕屋の奉仕は、私情を挟んではならない。親や兄弟よりも、主の命令のほうを、優先させなくてはならない。
彼らは、そのような特別な責任を果たしたからこそ、主の特別な栄光の奉仕が任されるようになったのだ。

それは、新約の今においても、同じである。
『大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。』(ルカ14:25-27)
私達も、世にあっては自分を捨て、自分の十字架を負い、そうしてキリストについて行くなら、主の幕屋にて永遠に仕える事が出来るのである。

「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。(黙示録7:14-17)

礼拝説教メッセージ音声:部族ごとの数(民数記1:20-46):右クリックで保存

『そしてイスラエルの人々のうち、その父祖の家にしたがって数えられた者は、すべてイスラエルのうち、戦争に出ることのできる二十歳以上の者であって、その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。』(民数記1:45-46)

今回の箇所は、荒野の生活の第二年目に行われた、第一回目の人口調査の結果であり、イスラエル12部族それぞれの中から、軍務につく事のできる二十歳以上の男子の数が記されている。
尚、ヤコブが産んだ子たちの内、レビとヨセフは除外され、代わりに、ヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねている。
それは、レビ人は、全ての十分の一が与えられている代わりにゆずりの地は無く、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
また、ヨセフの二人の子は、ルベンやシメオンのようにヤコブの直属の子とされたからである。(創世記48:5-6)

講解説教を創世記から順番に、一昨年からから続けているが、当初、イスラエル民族は、年をとって死んだも同然のアブラハムたった一人だった。
そのアブラハムが100歳の時、イサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、そして、ヤコブから12部族の父祖たちが生まれ、創世記の終わりにごろには、七十名にまで増えた。
それから四百三十年経った時は、男子だけで六十万を超えるまでになった。
主がアブラハムに与えられた約束、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように増し加える、という約束を、主はまさしく成就して下さった。
主は、約束の確かさを知らしめるために、数えなさい、と言われたのだろう。

主が、与えられた恵みを数えなさい、と言われた時には、数え、主がどんなに祝福して下さったかを喜び、感謝すべきであり、誇るべきではない。
そこまで祝福して下さったのは主であって、自分の何かによるものではないからだ。

ダビデはイスラエルの軍団の数を数えたが、主はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。(1歴代誌21章)
それは、この「数えたい」という願いは主からのものではなく、サタンからのもので(第1歴代誌21:1)、その動機が、主が祝福して下さった恵みを数えて主を褒め讃えるためではなく、自分に属するもののステータスを知りたいと、自分の栄光を誇るためであったからだ。
主は確かに祝福して下さる。しかし、その祝福が主からのものであり、主が祝福して下さった子孫や金銀、権威などが主のものである事を忘れ、身勝手に自分のものとして数えるのは、罪である。

最初の調査からおよそ40年後、イスラエルの民がいよいよカナンに入ろうとしている時、主は、二度目の人口調査を命じられたが(民数記26章)、その時の数も、最初の時と同じ、六十万台であった。
数としてはあまり増減していないが、その中身は、がらりと入れ替わっている。
民数記1章の時点で、二十歳以上だった人は六十万以上いたが、40年経った後にはなんと、わずか二人しか残っていなかった。
神に属する軍団に登録されたからといって、その全員が、約束の地に自動的に入れるわけではない。この事は、現代を生きる私達への警告である事は、以前学んだ通りである。

民の数を見てみると、最初の時点で既に民族の数には差が出ているし、二回目の人口調査の数値と比べると、増加した部族があれば減少してしまった部族もある事が分かる。
ユダ族は一回目も二回目もトップを誇り、マナセ族は最初の調査時点で最も数が少ないが、荒野の四十年におけるマナセ族の増加率は最も高く、プラス64%である。
また、シメオン族は、最初は59300人と結構多かったのに、後には37100人、マイナス63%の減少である。
シメオン族は、二回目の人口調査の直前の、ペオルの事件(民数記25章)で、長の一人であるジムリが率先して罪を持ち込んだが、部族の多くの者が主に打たれる要素を密かに育てていた故に殺されてしまったのかもしれない。

第二回目の人口調査の時の数によって、割り当て地の査定がなされた。
査定の直前まで、いかに数が多くとも、最後のほうに罪を犯すのであれば、あっという間に査定が減らされてしまう事も、ありうる。
今、私達が生きているこの世界は、永遠に受け継ぐべきものを、どれほど任せられるかという査定を受けている期間である。
だから、どんな小さな事でも忠実になり、全ての事を主に対してするかのように、心からするよう、日々、心がけたい。

栄光の家系の女達 - タマル2(創世記38:12-23)
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イエスキリストの系図の中で、ユダは、アブラハム、イサク、ヤコブにつぐ重要人物である。
ユダとタマル、すなわち義理の父と義理の娘との間に生まれた子から、キリストへと続く王族が生まれ出た。
一族成り立ちの初めから、人の愚かさ、罪深さで満ちているが、主の憐れみと導きは、それを遥かに超えている。主は、そんなユダの家系を、王族の家系へと整えるために、まず、家の清めから始める。
すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。
『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
また、シュアという名には「叫び」という意味があり、ユダの名には、「褒め称える、賛美する」の意味がある。
つまり、この節は、字義通りに訳すなら「”叫び”の娘は死に、その後、”賛美”は慰められた」となる。
主を褒め称えるべき人(ユダ)が、神の家族から離れ、叫びの娘(シュアの娘)をめとってしまうと、その家の中は、どんどん人間的な「叫び」が大きくなり、主を褒め称える口は、かき消されてしまう。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。

ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)
タマルのこの行動は、理解し難い。ユダと出会えるか分からないし、出会っても遊女として買ってくれるか分からないし、買ってくれても身篭るかも分からないし、いずれにしても、悪い結果以外が想像できない。
一体どうして彼女はそのような行動に出たのか。
タマルは、自分の夫達が主の怒りを買い、主に打たれて死んだのを、二度も、生々しく見ている。
ユダと共におられる主に逆らう事が、いかに恐ろしいか。人間の好き嫌いや、良し悪し判断を優先させ、アブラハムの子孫を生まない事が、いかに災いを招くか。それを、身をもって、二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それはオナンと同じ罪、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らう罪であり、このままでは、どんな恐ろしい災いが主から降されるか、分からない。
それで彼女は、一見愚かで、確立のとても低い、そして、命がけの、大胆な行動に出たのかもしれない。

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、「遊女を買うため」の交渉を始める。
タマルは報酬の抵当として、ユダに「印と紐と、つえ」を要求したが、なんと、ユダはそれらを彼女に預け、そして彼女の所にはいった。(創世記38:17-18) ユダが遊女の報酬の抵当として預けた3つの品々は、いずれも、持ち主本人を特定できるもので、むやみに他人に手渡してはならぬ貴重品の類である。
まず「印」は、指輪のように指にはめられる「印鑑」で、その人そのものを表明するしるしである。
「紐」は聖書の他の箇所を見ると、飾りや服、エポデなどを固定させるためのもので、持ち主の特徴が出る。
そして「つえ(matteh)」は、杖や棒の意味のほか、旗ざお、権標、部族という意味まである。
つまり、これらは、一族の支配と権威の象徴である。そんなに大切なものを、ユダはなんと、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。中身はタマルではあっても、ユダにとっては「異邦の遊女」である。
主を褒め讃えるはずのユダは、異邦人の価値観に染まり切り、神の民としてのアイデンティティが地に堕ちてしまったのが伺える。しかし主は、そんなユダを、懲らしめのむちによって、地の底から救い出して下さる。

ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類は皆、する事は、主の御前に最低である。しかし、いのちの主は、全ての人間の罪と死を、いのちの中へと飲み込んで下さる。
人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。しかし、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪こそ犯されなかったものの、人と共に生き、人としての貧しさ悲惨さを全て味わい、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の罪に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良きご性質だけが、ただひときわ際立つ。

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