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エズラの性質(エズラ記7:1-10):右クリックで保存
【概要】
エズラ記7章1節から10節において、エズラがどのようにして神の御手の守りを受け、イスラエルの民を導くためにエルサレムに登ったかを学びます。
【聖書箇所】
エズラ記7章1節から10節
【励ましの言葉】
エズラのように、神の御言葉を調べ、実行し、教えることを心に定めるならば、神の御手が私たちの上にあり、道を守られるでしょう。
【***詳細***】
エズラ記7章1節から10節は、エズラという人物がどのようにして神の御手の守りを受け、イスラエルの民を導くためにエルサレムに登ったかを記しています。エズラは大祭司アロンの末裔であり、モーセの立法に通じた学者でした。彼は神の御手が彼の上にあったため、ペルシアの王アルタシャスタからの願いをすべて叶えられました。
エズラは、主の立法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心に定めていました。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあったため、彼はバビロンからエルサレムまでの長い旅路を無事に終えることができました。エズラの旅は、神の御手が彼の上にあったからこそ、盗賊や獣に襲われることなく、無事に終えることができたのです。
エズラの成功の秘訣は、彼が主の立法を調べ、実行し、教えることを心に定めていたことにあります。彼は御言葉を調べ、実行し、そしてそれを人々に教えることを心に定めていました。このようにして、彼は神の御手の守りを受け、イスラエルの民を導くことができました。
私たちもエズラのように、神の御言葉を調べ、実行し、教えることを心に定めるならば、神の御手が私たちの上にあり、道を守られるでしょう。第一ペテロ3章10節から13節には、「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」とあります。私たちが善を行い、主の御言葉を守り行うならば、主は私たちの祈りに耳を傾け、私たちの道を守られるのです。
エズラのように、主の御言葉を調べ、実行し、教えることを心に定めることが、私たちの生活においても神の御手の守りを受ける秘訣です。私たちが主の御言葉を調べ、実行し、教えることを心に定めるならば、神の御手が私たちの上にあり、道を守られるでしょう。
【結論】
エズラのように、神の御言葉を調べ、実行し、教えることを心に定めるならば、神の御手が私たちの上にあり、道を守られるでしょう。私たちもエズラのように、主の御言葉を調べ、実行し、教えることを心に定め、神の御手の守りを受けることを目指しましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第一から第四の封印(黙示録6:1-8):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:呪いの囲いによって祝福へと導かれた主(レビ記26:40-46):右クリックで保存
『しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。』(レビ記26:40-42)
人々はどうして、愚かにも、呪いへとまっしぐらに進む事を止めないか。それは「心に割礼が無いから」だと書いてある。
すなわち、心が「あれをやりたい」「これをやりたい」という肉の思いで覆い尽くされていて、それを取り除ける気が、一切無いからである。
その無割礼の心が砕かれ、取り除かれて、主が与えられた罰を正当とし、その罰を甘んじて受けようとする人達に、主は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こす、と言っておられる。
不従順の罰を受けたイスラエルの民が、自らの罪と、先祖たちが主に反逆した事とを告白し、主の元に立ち返るのを、主は、いつも忍耐深く待っておられる。
受けている呪いや罰を乗り越えるには、自分に罪がある事を認め、それを正直に主に告白する必要があるのだ。
そして、その向こう側で、主は、恵みと憐れみをの手を広げて待っておられるのだ。
人が主に背き、罰が与えられても、なお悔い改めず、さらに七を七倍、そのまた七倍の罰が与えられても、なお悔い改めないような人であっても、主はなおその人をあきらめず、その人に恵みと慈しみを施そうとしておられる・・・。それは、何と驚くべき忍耐、なんと驚くべき愛だろうか!
主はなぜ、この章に記されているほどの災いを用意されるか。
それは、愛しているからであり、死のパターンに陥らないようにと、懲らしめを与えられるからだ。
『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。・・・すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(ヘブル12:5-11)
人は思う。裏切り者に、そこまで義理立てする必要が、果たしてあるのか、と。
しかし主は、裏切り者にさえ「友よ」と呼びかけられたお方である。(マタイ26:50)
主は、愛がそのご性質であられ、それは昨日も今日、いつまでも変わらない。
『それにもかかわらず、なおわたしは彼らが敵の国におるとき、彼らを捨てず、また忌みきらわず、彼らを滅ぼし尽さず、彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。わたしは彼らの先祖たちと結んだ契約を彼らのために思い起すであろう。彼らはわたしがその神となるために国々の人の目の前で、エジプトの地から導き出した者である。わたしは主である』」。』(レビ記26:44-45)
主は、その民を、呪いの道には行かせないように、死へと向かわせないようにと、強制的に「災い」という囲いを用いて呪いへの道を閉ざし、守り、祝福へと門を開いて下さっている。
私達は盲目で、好き勝手な道を歩もうとしていても、主は無理矢理に祝福の道へと導いて下さる。
まさに、押入れゆすり入れして与えて下さる”不可抗力の”守りと祝福であり、踏んだり蹴ったりの祝福である。
主の愛は、完全で的確な愛。なおかつ、ねたむ程の激しい、熱い、強い愛。
その愛によって、私達は主から愛されているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:のろいの明細 末期的段階(レビ記26:30-39):右クリックで保存
主への不従順がもたらす災いの末期的段階として、自分の息子や娘の肉を食べるまでの深刻な食糧難がある事を、前回見た。
しかしそれだけには終わらない。
『わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の祭壇を倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を投げ捨てて、わたしは心にあなたがたを忌みきらうであろう。』(レビ記26:30)
主は、あらかじめ人に「この不従順を行えば、この災いが下る」と警告を与え、そして人が不従順を行った場合、驚くほどの正確さで、その災いを実行される。
ただし、その執行までは、かなりの時間的隔たりがあり、人間にとっては「遅すぎる」と思える事がある。
主がそこまで時間を持たれるのは、忍耐をもって人が正しい道に立ち返るのを待たれるからだ。
このレビ記の時代(BC1500~1300年頃、諸説あり)から数百年経った、レハブアム王の時代(前930―913年)、北イスラエル王国と南ユダ王国は分裂したが、その北イスラエル王国の最初の王・ヤロブアム(口語訳:ヤラベアム)の時代に、次の事が起こった。
『ヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。』(1列王記12:26-28)
レビ記を学んで来た皆さんは、この王はとてつもなく恐ろしい罪を犯した事を知って、心震えるだろう。
彼はイスラエルを災いへと導くような決断をしてしまったが、主は憐れみ深く、一人の神の人(預言者)を彼に遣わした。
『神の人は祭壇にむかい主の命によって呼ばわって言った、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。その名をヨシヤという。彼はおまえの上で香をたく高き所の祭司らを、おまえの上にささげる。また人の骨がおまえの上で焼かれる』」。その日、彼はまた一つのしるしを示して言った、「主の言われたしるしはこれである、『見よ、祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ出るであろう』」。』(1列王記13:2-3)
この預言者は、具体的に「ヨシヤ」というまだ生まれていない王の名前を挙げ、やがてこの王が、この偶像の祭壇の上にその祭司たちの死体を焼いて汚すという、レビ記で約束されている通りの事を行うであろう、と預言をした。
その時、実際に祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ、ヤロブアム王は差し伸ばした手が萎え、主への恐れが起こったが、残念ながら、ヤロブアム王はそれで悔い改めなかった。
そして、そのおよそ350年後、この預言者の言葉が成就し、実際にヨシヤという名の王が生まれ、彼によって、この事が為された。(2歴代誌34章)
主は真実な方であり、大昔から立てられたご計画を実行されるお方である。
真実な神は、私達にも、大昔から祝福の約束を与えておられる。
私達が生まれる前から、キリストにあって天にあるもろもろの霊的祝福によって祝福し、私達を御前で清く傷なき者として、定めておられた。
それが定められていたのは、世界の基の置かれる前から、である。
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)
まことに主のはかりごとは遠大過ぎて、私達には及びもつかない。
『わたしはまたあなたがたの町々を荒れ地とし、あなたがたの聖所を荒らすであろう。またわたしはあなたがたのささげる香ばしいかおりをかがないであろう。わたしがその地を荒らすゆえ、そこに住むあなたがたの敵はそれを見て驚くであろう。』(レビ記26:31-32)
民が不従順を犯すと、主は自ら「聖」と定められた神殿さえ、荒らされるままにされた。
ソロモンの時代に建てられた神殿は、これ以上は無いというくらい金銀がふんだんに使われた豪華絢爛なもので、主の栄光もその中に満ち満ちて、祭司もその栄光のために仕えられなくなった程に臨在が濃厚になった事さえあった。
その時代の、一体誰が想像出来たであろう。
この聖なる場所が、異邦人に蹂躙され、全ての宝物が奪われ、破壊されてしまう様を。
ソロモンは、その時代に不従順の罪を犯してしまい、レビ記で記されてあったのろいを早くも実現する土台をつくってしまった。
主は、神殿などの「場所」に宿るのではない。人々の従順さの内に宿るのである。
どこか場所や建物が神殿だと思ったら、間違いである。
私達キリスト者こそ神殿であり、その人が不従順になるなら、主の栄光と臨在は、そこから去ってしまうのだ。
結局は、既に聞いている通りである。御言葉に服従する事、それが全てである。
礼拝説教メッセージ音声:のろいの明細 2(レビ記26:23-29):右クリックで保存
あくまで頑なになって主の御声に聞き従わず、自分の好き勝手を貫き通そうとする者に、主は段階的に災いを降され、立ち返るよう促される事を見ている。そして前回までの所で、その第三段階目までを見た。
それでもなお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、第四段階目の呪い、すなわち、戦争と疫病、食料不足の災いが降りかかる。
『わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう。あなたがたが町々に集まる時は、あなたがたのうちに疫病を送り、あなたがたは敵の手にわたされるであろう。わたしがあなたがたのつえとするパンを砕くとき、十人の女が一つのかまどでパンを焼き、それをはかりにかけてあなたがたに渡すであろう。あなたがたは食べても満たされないであろう。』(レビ記26:25-26)
この災いでも、なお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、食料不足は最悪の状態になり、自分の息子や娘の肉を食べるまでになる。(27-29節)
そのような深刻な食糧難は、預言者エリシャの時代のサマリヤにおいて、バビロン捕囚前後のイスラエルにおいて、また、イエス様を十字架につけた世代のイスラエルで、実際に起こった。
その時の王や民は、主に対してどのような態度で、どのような霊的状況だったのかを、2列王記6-7章から知ることが出来る。
『この後スリヤの王ベネハダデはその全軍を集め、上ってきてサマリヤを攻め囲んだので、サマリヤに激しいききんが起った。すなわち彼らがこれを攻め囲んだので、ついに、ろばの頭一つが銀八十シケルで売られ、はとのふん一カブの四分の一が銀五シケルで売られるようになった。』(2列王記6:24-25)
銀一シケルが日雇い労働者の日当の3~4倍相当であるから、食料価格のとてつもない暴騰である。
そこに、ある女が、王に次の訴えをしている。
『「この女はわたしにむかって『あなたの子をください。わたしたちは、きょうそれを食べ、あす、わたしの子を食べましょう』と言いました。それでわたしたちは、まずわたしの子を煮て食べましたが、次の日わたしが彼女にむかって『あなたの子をください。わたしたちはそれを食べましょう』と言いますと、彼女はその子を隠しました」。』(同28-29節)
親が子の肉を食らう状況、実際にレビ記にて、あらかじめ主が予告していた災いである。
訴えとしては「詐欺」とか「約束破り」を王に訴えているのだろうが、常軌を逸した内容を、それも、恥も外聞も無しに、大勢の前で大声で訴えて、もはや人間性のかけらもない状態となっている。
『王はその女の言葉を聞いて、衣を裂き、――王は城壁の上をとおっていたが、民が見ると、その身に荒布を着けていた―― そして王は言った「きょう、シャパテの子エリシャの首がその肩の上にすわっているならば、神がどんなにでもわたしを罰してくださるように」。』(同30-31節)
この王の言葉に注目してほしい。
彼は、衣服は裂いてその身に荒布を着けていて、外見上は、あたかも悔い改めて身を慎んでいるように見えるが、その実、神が遣わされた預言者エリシャを殺そう、と言っているのである。
王は、自分の衣を裂くよりも、むしろ、神の御言葉に背いた事を悔い、自分の臣下にこのような災いを招いてしまった事を、心を裂いて悔い改めるべきなのに、それをせず、頑として、災いを預言した預言者が悪い、だから殺してやる、という意向なのだ。
また、王の使者もエリシャに言っている。
「この災は主から出たのです。わたしはどうしてこの上、主を待たなければならないでしょうか。」(同33節)
それに対しエリシャは、幸いが来る預言をした。
『エリシャは言った、「主の言葉を聞きなさい。主はこう仰せられる、『あすの今ごろサマリヤの門で、麦粉一セアを一シケルで売り、大麦二セアを一シケルで売るようになるであろう』」。時にひとりの副官すなわち王がその人の手によりかかっていた者が神の人に答えて言った、「たとい主が天に窓を開かれても、そんな事がありえましょうか」。エリシャは言った、「あなたは自分の目をもってそれを見るであろう。しかしそれを食べることはなかろう」。』(2列王記7:1-2)
このように、王の副官も、主に期待しない心で「主はそんな事はなさらない」と、不信仰告白をしている。
これほどの災いを下す主はひどい、災いの預言をした預言者は殺してやる、主には期待なぞしない、主は幸いをなさらない、そのような、頑なな心を悔い改めない、主に期待しないような心が、あらかじめレビ記に記されていた呪いを引き起こし、多くの人達ともども災いへと導いたのだ。
皆さんは、このような王の統治下にいたいだろうか。あるいは、皆さんが、王の地位にいるとしても、臣下をこのような不幸な暮らしへと導きたいだろうか。
私達は、頑なさを捨てるべきである!
御言葉によって悔い改めが促されたら、即、自分を下ろして悔い改め、御言葉を信じ、主が良きお方である事を期待して主に求め、速やかに幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:のろいの明細 1(レビ記26:14-22):右クリックで保存
14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)
祝福を受ける条件もわずか二節のみであったが、呪いを受ける条件も二節のみ、非常にシンプルではあるが、人は、シンプルであれば守れる、というものではないようである。
アダムとエバの時も、たった一つの「してはならない」さえ守らなかった。
そして主はまた、アダムとエバの時のように、「してはならない」をしてしまったら何が起こるかを、詳細に、具体的に示された。
呪いが振りかかる場合、少しでも「してはならない」を破ってしまったら、即座にありとあらゆる災いが降りかかるものではなく、徐々に、段階的に災いの度合いが重くなっていくものである。
主の御声に聞き従わないなら、まず、これこれの災いが降りかかり、それでも聞き従わないなら、七倍重い災いが降りかかり、それでも聞き従わないならもっと重く、、、といった形で、五段階に渡る災いが、ここで示されている。
そのまず第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。
『人の霊(ルアッハ:神の息)は病にも耐える力があるが/沈みこんだ霊(破綻してしまった神の息)を誰が支えることができよう。』(箴18:14 新共同訳)
人の内で神の息がしっかり息吹いているなら、どんな病にも耐えぬく力があるが、その、全能者の息が破綻してしまっていたら、どんな些細な事でも恐怖し、すぐに心がしおれてしまうものである。
アダムとエバは、善悪を知る木から取って食べた時、息吹かれていた神の息が破綻し、恐怖に襲われ、神との正常な関係が持てなくなってしまった。
そこから救われるには、「神から離れた善悪判断」を止め、与えられている御声に聞き従い、イエスキリストにあるいのちの路線へと回帰する事である。
そのような災いに遭っても、懲りずに主の御声に聞き従わないなら、第二段階の呪い、すなわち、「作物の不作」が来る。
『それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう。あなたがたの力は、むだに費されるであろう。すなわち、地は産物をいださず、国のうちの木々は実を結ばないであろう。』(レビ記26:18-20)
ここの「七倍重く罰する」は「七倍(七回)懲らしめることを増し加える(繰り返す)」という意味である。
主に対して心頑なで、有用な御霊の実を実らせない者に対しては、天もその人に対して頑なに雨を降らせないようになり、土地もその人に対して頑なになって実りを与えないようになる。
それでも懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、第三段階の呪い、すなわち、「野獣」が横行する。
『もしあなたがたがわたしに逆らって歩み、わたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪に従って七倍の災をあなたがたに下すであろう。わたしはまた野獣をあなたがたのうちに送るであろう。それはあなたがたの子供を奪い、また家畜を滅ぼし、あなたがたの数を少なくするであろう。あなたがたの大路は荒れ果てるであろう。』(レビ記26:21-22)
実際、サムソンの時代やヤロブアム王の時代などの不従順な世代では、獅子や熊が横行し、往来を行き来するのも危険であった。
結局、自分の中から頑なさを降ろし、神から離れた善悪判断を止め、主の御言葉に従順し、服従するに限る。
それでも聞き従わないとしたら、主はさらなる災いが下ることを、あらかじめ示されている。
栄光の家系の女達 - タマル1(創世記38:1-11)
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新約聖書は、いきなりイエス・キリストの系図で始まる。何とも初心者に不親切と思えるが、この系図に名を連ねている人々の成り立ちは、知れば知るほど、人の罪深さと、主の憐れみ深さを知り、いかに、どうしようもない人であっても、栄光の家系に連なる事ができるのだ、という希望が湧いて来る。
これから、この系図に登場する「女性たち」に焦点を当て、何度かに分けて見て行きたい。
系図の中で最初に登場する女性は、タマルである。(マタイ1:3) ユダとタマルによってパレスとザラが生まれた、とあるが、ユダとタマルは、夫婦ではない。タマルは、ユダにとっては、息子の嫁、という関係である。
ユダはイスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系の家長だが、その大切な一族の初期の段階から、既に人の罪が渦巻くドラマがある。一体なぜ、このような事になってしまったのか。
『そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名を「シュアというカナンびとの娘」を見て、これをめとり、その所にはいった。』(創世記38:1-2)
事の発端は、ユダが、神に召された家族の元を離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を見て、それを妻とした所に始まる。神の子達が兄弟姉妹の元を離れ、異邦人を見染めて妻を迎え入れると、必ず多くの悲しみや、時間やエネルギーの多大なロスを生み出す元となってしまうのは、ノアの大洪水前からそうである。
この異邦人の女との間に最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けたようである。(同3-5節) 異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなり、異邦人の娘の影響力がますます大きくなって行ったのだろう。
『ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。』(同6節)
ユダの妻である「シュアの娘」は、出所は「カナン人」であると記されているのに、名前は聖書に一切記されていない。それに対し、タマルは全く逆で、名前は明確に記されているのに、出所が一切記されていない。
という事は、タマルはアブラハムの家系だったのかもしれない。いずれにせよ彼女は、ユダの子孫を残す事の大切さをユダより意識しており、ユダも、しっかりした彼女によって息子が改善するのを望んだ事だろう。
しかし長男エルは、異邦人の母の影響を多大に受け、主を畏れる心は育たず、主を怒らせるようになり、ついには子供を残さないまま、主に殺されてしまった。
ユダは、次男のオナンに「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」と命じたが、彼は、子が自分のものとならないので、兄に子を得させまいと、行為の度に子種を地面に流した。
それは「生んで増えて地に満ちる」という神の御心にも、また、父の命令にも、反抗する事だったため、主は彼をも殺された。神にも父にも反抗してまで、自分を貫きたい、という者を、主は打たれるのだ。
ところで、ユダを含め、ヤコブの12人の子達は、カナン人に劣らず罪深い行いを沢山したのに、主に打たれていない。それは、主は、罪深い人を打つというより、主に反抗する者を打たれるからである。
息子が二人死んでしまったので、ユダはタマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、書いてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男シェラも、主に打たれて死ぬ要素が、十分にあった事を、ユダ自身認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠ざけるよりも、自分達の内にある神に嫌われる性質を遠ざけるべきだったのに、それをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやって、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとした。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神へ果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に神と人の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
ちょっとした信仰の妥協は、大きなロスと悲しみを生み出し、果たすべき謝罪や悔い改めを、先延ばしにすればする程、後に受ける恥も災いもどんどん膨れ上がっていく。その詳細は、次回にゆずりたい。
主の御声は、どんなささやかなものでも、正確に聞く耳が開かれ、その導きに従って歩み、時間も、いのちも、ロスする事なく歩んで行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:祝福の明細(レビ記26:1-13):右クリックで保存
26章は祝福とのろいの約束である。
その祝福を受けるための条件は、1-2節に記されており、その時受けるべく祝福はどのようなものであるかが、3節から13節の所に具体的に記されている。
また、主の命令を守り行わず、呪いを受けるとしたら、それはどのようなものであるのかも、14節から39節にかけて、詳細かつ具体的に記されている。
この章は、「こうすればこうなる」という約束の目録であるが、読んでみると、あたかも旧約聖書のイスラエルが辿った歴史を読んでいるかように思える程、そまんまの祝福とのろいがイスラエルに起きている。
祝福を受けるための条件は、以下の二節である。
『あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。』(レビ記26:1-2)
ここでは特に、偶像の禁止と、安息日の尊守の二点が命じられているが、それらは、十戒の中でも特に重要なものである。
偶像とは天地を創られたまことの神以外の「神」であり、偶像礼拝とは、まことの神と自分との間に「別の何か」を置いて、それにより頼む事である。
その「別の何か」とは、何も、神社仏閣にある偶像とは限らない。お金も、仕事も、異性も、そして自分自身も、偶像になりうる。
祝福の第一条件は、偶像の禁止、すなわち、神と私達との間に、何も置かない事である。
また、「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。」と言われており、つまり主は、「主が定めた日」と、「主が定めた場所」とを重んじ、敬うべきだと言っている事がわかる。
キリスト者の中には、礼拝は「何も主日ではなくても良い」「教会でなくてもどこでもできる」と言って、主日以外の日、教会以外の場所で礼拝を行う人がいる。
確かに、主を礼拝するのは、いつでも、どこでも出来る。事実、迫害下にあった時のキリスト者はそのように行った。
だからと言って、特にやむを得ない理由も無いのに、敢えて主日礼拝に行かないとしたら、それは、自分の好き勝手を優先させているのであり、主が定めた日、主が定めた場所を軽んじる事である。
『もしあなたがたがわたしの定めに「歩み」、わたしの戒めを「守って」、これを「行う」ならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。』(レビ記26:3-4)
祝福は、主の定めに歩む事、主のいましめを「守り行う事」によるのであり、聞いて頭の中に留めておくだけでは、与えられない。
しかし主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。
『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。
『わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。』(レビ記26:6)
イスラエルの近辺は、聖書にも幾度か記されている通り、古くから戦争の多い所で、熊や獅子などの獣も出没する所である。
そのような危険な場所にあっても、主の御言葉を守り行うのであれば、それら全ての危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。
また、敵への勝利の約束が与えられている。
『あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:7-8)
実際聖書には、主に忠実なわずかな人数が、圧倒的多数の敵に勝利した記事が、幾つもある。
『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。
そして、何よりの祝福は、以下である。
『わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。わたしはあなたがたの神、主であって、あなたがたをエジプトの国から導き出して、奴隷の身分から解き放った者である。わたしはあなたがたのくびきの横木を砕いて、まっすぐに立って歩けるようにしたのである。』(レビ記26:11-13)
主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。
それこそ、何にもまさる祝福である。
主はイスラエルをエジプトから救い出し、奴隷のくびきの横木を砕いて、祝福の道へと導いて下さったように、私達をも、希望なき世から救い出し、罪の奴隷状態から開放し、罪のくびきを打ち砕いて下さった。
この主と共に歩むこと、主が共に住んでいて下さる事の幸いが、どれ程であるのかを、ますます知り、ますます拠り頼んで歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!