メッセージ - 最新エントリー
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
栄光の家系に入るために(ルツ2:1-3):右クリックで保存
祈りと御言葉:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第二神殿の栄光(エズラ記6:13-22):右クリックで保存
【概要】
エズラ記6章13節から22節における神殿再建の物語を通して、神の御言葉の確実な成就と、信仰に基づく従順の重要性を学びます。
【聖書箇所】
エズラ記6章13節から22節
【励ましの言葉】
神の御言葉は決してむなしく地に落ちることはありません。どんな困難があっても、神の計画は必ず成就します。
【戒めの言葉】
神の訪れを知らずに拒むことは、神の祝福を失うことにつながります。私たちは常に神の御言葉に従順であるべきです。
【勧めの言葉】
私たち一人ひとりが神の宮であり、イエス・キリストを心に迎え入れ、従順に歩むことが求められています。
【***詳細***】
エズラ記6章13節から22節は、ダリオス王の命令により、ユダヤ人たちが神殿を再建する様子を描いています。彼らは多くの妨害を乗り越え、預言者ハガイとゼカリヤの言葉に励まされて神殿を完成させました。この神殿の完成は、ダリオス王の治世の第6年、アダルの月の3日でした。
神殿の再建は、イスラエルの人々にとって70年越しの念願でした。多くの妨害がありましたが、神の御言葉は決してむなしく地に落ちることはありません。神の言葉は、雨が地を潤し、植物を育てるように、必ず成就します。
この箇所では、川向こうの総督タテナイやシェタルボズナイが神殿の建設を妨害していましたが、最終的には彼らも神殿の建設を手伝わざるを得なくなりました。これは、ダリオス王が神殿の建設を命じたからです。神の御業が行われるとき、どんな妨害があっても、神の御心が成就することを示しています。
神殿の完成後、イスラエルの人々は大いに喜び、神殿の奉献式を行いました。彼らは牛100頭、お羊200頭、子羊400頭を捧げ、イスラエルの部族の数に従って親子12頭を罪のための生贄として捧げました。彼らはまた、エルサレムでの神への奉仕のために、祭司とレビ人を任命しました。
この第二神殿は、ソロモンが建てた第一神殿に比べて見劣りするものでしたが、神は預言者ハガイを通して「この宮のこれから後の栄光は、先の者より勝ろう」と語られました。これは、神が求めるのは生贄の数ではなく、御言葉に従う心であることを示しています。
イエス・キリストがこの第二神殿を訪れたことにより、その栄光はさらに増しました。私たちも神の宮であり、イエス・キリストを心に迎え入れることで、神の栄光を表すことができます。
しかし、エルサレムの人々はイエス・キリストを拒否し、その結果、神殿はローマ軍によって破壊されました。これは、神の訪れを知らずに拒むことの危険性を示しています。
私たちは、神の御言葉に従順であり続け、イエス・キリストを心に迎え入れることが求められています。そうすることで、私たちは神の祝福を受け、永遠の命に至る道を歩むことができます。
【結論】
神の御言葉は必ず成就し、私たちはその御言葉に従順であることが求められています。イエス・キリストを心に迎え入れ、神の宮としての役割を果たすことで、私たちは神の栄光を表すことができます。常に神の御言葉に耳を傾け、従順に歩むことを心がけましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ほふられた小羊(黙示録5章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹が身売りしてしまったら(レビ記25:47-55):右クリックで保存
ここでは、イスラエル人の誰かが貧しくなり、しかも、自分自身を「在住異国人」に身売りしてしまう程に落ちぶれてしまった場合の教えである。
『あなたと共にいる寄留者または旅びとが富み、そのかたわらにいるあなたの兄弟が落ちぶれて、あなたと共にいるその寄留者、旅びと、または寄留者の一族のひとりに身を売った場合、身を売った後でも彼を買いもどすことができる。その兄弟のひとりが彼を買いもどさなければならない。あるいは、おじ、または、おじの子が彼を買いもどさなければならない。あるいは一族の近親の者が、彼を買いもどさなければならない。あるいは自分に富ができたならば、自分で買いもどさなければならない。』(レビ記25:47-49)
神の民の領域居住地の中で、異邦人が栄え、その傍らで神の民イスラエルが貧しくなり、身売りしてしまう。それは実に、嘆かわしい事態である。
そのような場合は、その人のなるべく近い近親者が買い戻すように、命じられている。
このことは、現代を生きる私達キリスト者も、気をつけるべき戒めである。
もし、主にある兄弟姉妹の誰かが、霊的に落ちぶれてしまったら、なるべく近親のキリスト者が、霊的に立ち直るまで養いをするべきであり、そしてもし、そのような養いが出来るほどの霊性に富んだ人が近くにいないとしても、同じキリスト者が、その人を霊的に養うべきである。
世に身売りしてしまうほどに霊的に落ちぶれてしまったキリスト者がいたなら、なおさらである。
『その時、彼は自分の身を売った年からヨベルの年までを、その買い主と共に数え、その年数によって、身の代金を決めなければならない。その年数は雇われた年数として数えなければならない。なお残りの年が多い時は、その年数にしたがい、買われた金額に照して、あがないの金を払わなければならない。またヨベルの年までに残りの年が少なければ、その人と共に計算し、その年数にしたがって、あがないの金を払わなければならない。』(レビ記25:50-52)
この事がイスラエルの領地の中で起こった事であれば、在住異国人であってもイスラエルの神が定められた法が、すなわち、ヨベルの年を基準とした計算法が、適用されなければならない。
だから、イスラエルの中にいる限りでは、たとい近親者で誰も買い戻せる人がいないにしても、イスラエル人の誰かに助けてもらえる望みはあり、最悪でも、ヨベルの年には、開放されることができる。
『イスラエルの人々は、わたしの「しもべ(直訳:奴隷)」だからである。彼らはわたしがエジプトの国から導き出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記25:55)
イスラエルの人々はかつて、エジプトの奴隷だった。しかし、主が力強い御手によって、贖って下さった。
彼らは主によって買い取られ、主のものとされた故に、主のしもべである。
それは、主が人々を奴隷としてこき使うためではなく、むしろ愛して下さり、世の奴隷状態にある人達を憐れんで下さったからだ。
『わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする。 あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。 』(イザヤ43:3-4)
イスラエルの所有権はエジプトから主へと移ったように、キリストを信じた私達の所有権も、世から主へと移った。
私達は主のもの、主の民である。
私達も霊的に落ちぶれる事が無いよう、日々互いに励まし合い、たとい、落ちぶれた人がいたとしても、その人をしっかりと霊的な養いを与える事が出来る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹が貧しくなったら(レビ記25:35-46):右クリックで保存
イスラエルの中で誰かが落ちぶれて暮らして行けなくなった場合は、その近親の人が扶養し養わなくてはならず、その際は、困っている兄弟姉妹の足元を見て利息を取ったり、利得を貪ったりしてはならない事が命じられている。(レビ記25:35-37)
家族や近親者から利息を取ったり利得を貪ったりするような事は神の民のする事ではない。
『わたしはあなたがたの神、主であって、カナンの地をあなたがたに与え、かつあなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの国から導き出した者である。あなたの兄弟が落ちぶれて、あなたに身を売るときは、奴隷のように働かせてはならない。彼を雇人のように、また旅びとのようにしてあなたの所におらせ、ヨベルの年まであなたの所で勤めさせなさい。その時には、彼は子供たちと共にあなたの所から出て、その一族のもとに帰り、先祖の所有の地にもどるであろう。』(レビ記25:38-41)
イスラエル民族は皆、同じアブラハムから生まれ出た「兄弟姉妹」であり、同じアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に、拠り頼んでいる者達である。
そして共に奴隷の国エジプトから導き出された者達であり、素晴らしきゆずりの地・カナンが共に主から与えられたのだ。
だから、彼らの誰かが落ちぶれたとしても、奴隷のようにしてはならない。
むしろ雇い人のようにしてしっかり働かせ、蓄えさせ、ヨベルの年には、しっかりと独り立ちできるようにさせなくてはならない事が命じられている。
もし困っている兄弟姉妹の足元を見て、隷属的に扱うならば、主が黙っていない。
ヤコブが身を寄せた、彼のおじ・ラバンは、ヤコブを少ない報酬で何年もこき使ったり、幾度も報酬をだましたりして、ヤコブは何の蓄えもできずにずっといたが、主が祝福の御手を動かして下さったために、ヤコブの持ち物は祝福され、ラバンは逆にどんどん衰退していった。
『彼らはエジプトの国からわたしが導き出したわたしのしもべであるから、身を売って奴隷となってはならない。あなたは彼をきびしく使ってはならない。あなたの神を恐れなければならない。』(レビ記25:42-43)
彼ら(イスラエルの民)は「わたしのしもべ」だと、主は言われた。故に、主にある兄弟姉妹は、人間の奴隷になってはならない。
これらの命令は、信仰によってアブラハムの子孫となった私達にも命じられている事である。
主にあって私達はもはや人の奴隷ではなく、罪の奴隷でもなく、キリストにあって自由とされた。
そして同時に私達は、キリストの血の代価で買い取られた、キリストの奴隷である。
『主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。』(レビ記7:22-23)
礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの権利(レビ記25:23-34):右クリックで保存
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
これは、全ての人が持つべき価値観である。
全地は主のものであり、私達はこの地上において、仮に住まわせて頂いている者である。
私達は、不動産買った時、その土地は自分のものであるかのように錯覚しがちだが、元々、土地は本来主のもので、私達は主から土地をお借りして、そこに住まわせて頂いたり、そこで作物の実りを頂いているに過ぎない。
そしてその事は、土地や畑のみならず、今置けれている環境も、与えられている子供も、自分自身の体さえも、主から借り受けているものである事を忘れてはならない。
だから、それらを身勝手に用いたり、粗末に扱ったりしてはならないし、また、貪欲に富を増し加えようとして人の土地を買い漁ったり、労働者をこき使ったりしてはならない。
『貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからである。』(箴言22:22-23)
富む者も貧しい者も、両方創られたのは主であり(箴言22:2)、主は、それぞれが分かちあい、助けあって、共に生きるよう創られたのだ。
『あなたがたの所有としたどのような土地でも、その土地の買いもどしに応じなければならない。あなたの兄弟が落ちぶれてその所有の地を売った時は、彼の近親者(ゴエル)がきて、兄弟の売ったものを買いもどさなければならない。』(レビ記25:24-25)
ここで「ゴエル」とは、ただ「親類」という意味ではない。
「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」とも訳す事が出来、ルツがボアズに訴えた言葉である。
『「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」』(ルツ3:9 新共同訳)
『人が城壁のある町の住宅を売った時は、売ってから満一年の間は、それを買いもどすことができる。その間は彼に買いもどすことを許さなければならない。満一年のうちに、それを買いもどさない時は、城壁のある町の内のその家は永代にそれを買った人のものと定まって、代々の所有となり、ヨベルの年にももどされないであろう。しかし、周囲に城壁のない村々の家は、その地方の畑に附属するものとみなされ、買いもどすことができ、またヨベルの年には、もどされるであろう。』(レビ記25:29-31)
城壁のある町の中の住宅については、買い戻しできる権利は、一年と決まっている。
城壁は、人の手による守りであり、多くの人がその中で売り買いして生活す場所で、その中には大地の実りは無く、主の守りも主の保証も、あまり無いものである。
『レビびとの町々、すなわち、彼らの所有の町々の家は、レビびとはいつでも買いもどすことができる。レビびとのひとりが、それを買いもどさない時は、その所有の町にある売った家はヨベルの年にはもどされるであろう。レビびとの町々の家はイスラエルの人々のうちに彼らがもっている所有だからである。ただし、彼らの町々の周囲の放牧地は売ってはならない。それは彼らの永久の所有だからである。』(レビ記25:32-34)
レビ人は、主の御前で仕える奉仕が割り当てられ、全ての十分の一が与えられている代わりに、彼らへのゆずりの地は無い。なぜなら、主ご自身が彼らのゆずりの地である。(民数記18:20-21)
そのレビ人の放牧地は、売買してはならない、と定められている。
主の御前に仕えるレビ人は、本来、民の十分の一で養われているはずであり、貧しくなって土地させも手放すという事は、そもそもあってはならないからだ。
世に満ちるもの全ては、主のものであり、私達はその中に仮住まいさせていただいている者達である。
そして私達は、自らの罪の故に落ちぶれ、破産したような者達であったが、私達はまことのボアズであるキリストによって買い戻され、キリストに嫁ぐ者とされ、栄光の家系へと加えられる栄誉に預かった。
主イエスこそ、私達を絶やさぬ責任のある方であり、私達もルツのように、イエス様こそ自分の主人であると訴えるべきである。
そして、そのように訴えるからには、イエス様を主として歩むべきである。
礼拝説教メッセージ音声:安息させるための祝福(レビ記25:18-22):右クリックで保存
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ記25:20-22)
主は、人が当然のように心配する事について、どのようにフォローして下さるかを、先んじて教えて下さる。
事実、イスラエルの民が命じられた通りに、安息を守った時、前もって、三年分の祝福を与えて下さったのだ。
もしそうでなかったとしたら、イスラエルの民は、とっくの昔に滅んでいただろう。
主は、マナを与えて下さった時も、同じような指示をされ、イスラエルの民がしっかり「安息」を守って主を覚えるようにと、安息日の前には、二倍の祝福を与えられた。(出エジプト記16章)
主は人に、一気に何年分もの食い扶持を与える事は、滅多にしない。
何年分も先の食料を貯められ、たましいに安心を宣言した者に、主は愚か者と言われた。
『「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」』(ルカ12:21)
主が、この先何年分も暮らしていけるような金銀や食料を一気に与えない事が多いのは、祝福が与えられて、なお主への忠実さを失わない人よりも、むしろ傲慢になって、主を軽んじてしまう人のほうが、多いためだ。
『貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。』(箴言30:8-9)
私達は、先々も安心して暮らせる金銀を求める事にたましいを使うのではなく、日々、主を求め、御言葉をしっかりと守り、毎日を主と共に歩む事を求めるべきだ。
地は主のものであり、金銀は主のものである。
主は、御言葉を守り行う人には、地に三倍の実りを命じて下さるお方であると同時に、主を軽んじた世代には、三年半の間雨を降らせる事をしなかったお方でもある。
だから私達は、主こそ第一とすべきである。
『あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。』(ルカ12:29-34)
要塞をも打ち破る力を得るには(2コリント10:1-8)
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2コリント10章以降は、コリントにいるパウロの反対者達への、パウロの勧めである。
彼はその書き出しを、「キリストの優しさ、寛大さをもって」勧めている。
反対者達は、「面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」とパウロを 評しているが、反対者の視点から見るこのパウロのあり方から、逆に、キリスト者のあるべき姿を学ぶ事が出来る。
パウロは事実、聖徒と面と向かっている時は、「優しさ」と「寛大さ」をもって接していたのだ。
「優しさ」と「寛大さ」は一見弱々しく見えるため、力強さや雄弁さに頼みとする反対者を強気にさせたのだが、御言葉の真理を語る時は、語調は柔和に、そして真理はそのまま語るべきだ。 『主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。 』(2テモテ2:24-26)
肉的な力を頼みとするパウロの反対者は、違ったイエスや異なった福音を伝えており(2コリント11:4)、しかも、コリントの聖徒達の顔を叩いたり、威張ったり、奴隷にしたりと、威圧的だった。(2コリント11:20)
肉に頼る者達は、威圧的・暴力的になる事によって、人を支配しがちである。
そのために彼らは、イエス様の有様を別様に変えてしまったり、福音をねじ曲げてしまう事さえするが、私たちの戦いの武器は、肉的な力でも、威圧でも、暴力でもなない。『わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。』(2コリント10:4)
私たちの武具は、エペソ6章にある霊的武器であり、そして唯一の攻撃の武器は、御言葉の剣である。
パウロの手紙は確かに重々しい。「主イエスの権能をもってサタンに引き渡す」(1コリント5:4)とか「私たちは御使いをも裁くべき者だ、ならばこの世の事は言うまでもない」(1コリント6:3)とか、実に重々しく見える。
しかしパウロは、自分の手紙をおごそかにするために、装飾として「イエスの権能をもってサタンに引き渡す」「私たちは御使いをも裁くべき者」などと言っているのではない。真実そのままを語っているだけなのだ。
御言葉は、そのままでは、実に突拍子もない事、あり得ない事のようにに聞こえるものもあるが、私達は、人に何と評価されようとも、御言葉はそのまま語るべきなのだ。
御言葉を、信仰を混ぜてそのまま語る事は、大きな力である。
ある人の御言葉の宣言は権威があって、天候も、世界情勢さえも動くのに、ある人の宣言には権威が無く、物事が全く動かない。それは一体、どういう事から来るのだろうか。それは、続く節にヒントがある。
『わたしたちは「理屈(イマジネーション)」を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる「高慢」を打ち倒し、あらゆる「思惑(考え)」を「とりこに(捕縛)」してキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。』(同4-6)
すなわち、御言葉の剣を、要塞をも打ち破るほどに研ぎ澄ますには、まず、自分自身の身勝手な理屈(イマジネーション)を、自ら打ち破り、神の知識に逆らう「高慢」を打ち砕く、という「下準備」が必須である。
次に、全ての「思い(考え)」を捕えて、キリストへと連行させるのだ。そうして、キリストに対する「その従順(女性形単数)」が完全になる時、あらゆる不従順を罰する用意ができ、その力は要塞をも打ち破るのだ。
結局のところ、自分の理屈や思惑、考えは一切降ろし、それらをキリストへと連行し、御言葉なるキリストに従順し服従しなければ、この偉大な武器に、効力を持たせる事はできない。もし私達が、御言葉の内容を知り、それに服従し、行動するなら、その時こそ、私達は力と権威を帯び、あらゆる敵を打ち破るのである。
そして、この武具の使用目的は、人を倒すためでない。人を建て上げるためである。(同8節)
全ての高ぶりを取り除き、あらゆる思惑をキリストに服従させ、そうして与えられたこの霊的武器を、神に逆らうあらゆる敵に行使し、そして、兄弟姉妹は建て上げる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ヨベルの年(レビ記25:8-17):右クリックで保存
『あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。』(レビ記25:8-10)
前回は、七年ごとに安息年を守るように、という命令だったが、その、七を七倍した安息年の、第七の月にはラッパを吹き鳴らし、その五十年目を特別な年「ヨベルの年」として聖別するよう、主は命じている。(「ヨベル」とは、角笛(ラッパ)を意味する。)
その時、イスラエルの中では、全て奴隷とされていた人は開放され、借金のある人も一切免除される。
国中のすべての住民に、自由と開放が告げ知らされ、元の所有地から離れていた人達はおのおのの地に帰り、家族の元に帰らなければならない。
イスラエルには元々、土地の永久所有権という概念は、無い。
『ヨベルの後の年の数にしたがって、あなたは隣人から買い、彼もまた畑の産物の年数にしたがって、あなたに売らなければならない。年の数の多い時は、その値を増し、年の数の少ない時は、値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは産物の数だからである。』(レビ記25:15-16)
すなわち、土地について売買できるのは「その土地で収穫できる回数」であり、それも、ヨベルの年を中心に考え、ヨベルの年まであと何年かによってその値段が決まる。
人がたとい貧しくなって、土地の「収穫権」を売ったとしても、ヨベルの年にはその土地は返され、そこに帰る事が出来る。
このように聖書には、明確に、負債の帳消しが、借金の免除が、記されている。
だから、どんなに凋落した一家でも、五十年に一度必ず訪れるヨベルの年には、全ての借金は帳消しになる事で、新たなやり直しがきくのである。
人が五十年生きるなら、誰でも、生涯に一度は負債取り消しのチャンスが巡ってくるのである。
主がヨベルの年を定めておられるために、お金を持った人は他人の土地を貪欲に買い漁って独占し続けたり、落ちぶれた人はずっと労働者として安い賃金で働き続けたり、といった事は、イスラエルの中では起こりえない。
物持ちはずっと物持ちのまま、落ちぶれた人はずっと落ちぶれたまま、という、貧富の差の固定的な状況を、神様はお許しにならないのだ。
主が定めて下さったこの命令は、ただ単に弱者救済というだけで制定されたのではない。
土地は元々人のものではなく、神のもので、人はそれをお借りしているだけである。
そして何より、ヨベルの年を定められた事により、やがて全被造物が改まる時に起きる出来事も、あらかじめ予表して示しておられたのだ。
ヨベルの年にはラッパが吹き鳴らされ、負債の取り消しが宣言され、それぞれ自分の故郷に戻る事が出来るが、同じように、主が再び来られ全被造物が改まる時、御使いの号令と共に、至る所でラッパが鳴り響き、キリストを信じていた人々は、罪の体を脱ぎ捨てて全く新しい体が着せられる。
神の国に属する人達は、罪からの開放と肉体からの自由が告げ知らされ、神の国へと帰り、そうでない人は、それぞれの行くべき所へと送還されていく。
ヨベルの年は、七を七倍した安息年の、第七月だったが、そのような「スリーセブン」が聖書には幾度か出てくる。
ヨシュア記では、七人の祭司が、七日目に七度、回った時、邪悪な都市・エリコの城壁は崩壊し、その中の赤い印がつけられた家の内に逃れていた人達は救われた。
黙示録でも、七つの封印が解かれ、七つのラッパが吹き鳴らされ、七つの鉢の災いが全て満ちた時、全てが成就し、聖徒達は真の故郷である天に入るのである。
私達は、この地上に住まいがあるのではない。だから、貪欲さを捨てて、まことの故郷である天を覚えつつ、天に相応しい歩みをする皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
