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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰を込めた御言葉の宣言(ヘブル4:1-3):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
昔からの主のご計画の通りに(エズラ記1章):右クリックで保存

【概要】

 

エズラ記1章の解説。ペルシャ王クロスによるユダヤ人帰還許可の背景と意義。

 

【聖書箇所】

 

エズラ記1章、エレミヤ書29:10-14、ダニエル書9章、イザヤ書44:24-28, 45:1-2

 

【励ましの言葉】

 

主の予言は必ず成就する。たとえ困難な状況にあっても、主を心から求め続ければ、主は必ず見出される。

 

【***詳細***】

 

エズラ記1章は、ペルシャ王クロスがユダヤ人の帰還と神殿再建を許可する場面から始まります。これは、預言者エレミヤが予言した70年の捕囚期間の終わりを示しています。

 

重要な点は、この出来事が単なる偶然ではなく、神の計画の成就であることです。**「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせた」**(エズラ1:1)という表現は、神がクロスの心を動かしたことを示しています。

 

さらに驚くべきことに、イザヤ書では、クロスの名が150年以上前に預言されていました。**「私はクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望むことを皆成し遂げる』と言う」**(イザヤ44:28)。この預言は、クロスがバビロンを征服する方法まで詳細に描写しています。

 

この状況の背景には、ダニエルの祈りがありました。ダニエルは捕囚の70年が満ちようとしていることを悟り、**「私は顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって願い求めた」**(ダニエル9:3)と記されています。彼の熱心な祈りと悔い改めは、神の計画の成就を促進したと考えられます。

 

このエズラ記の出来事は、エレミヤの預言の成就でもあります。**「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、わたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」**(エレミヤ29:10)。この預言は、イスラエルの民が苦難の中にあっても、神が彼らのために将来と希望の計画を持っていることを示しています。

 

この出来事から学べる重要な教訓は、どんな状況にあっても神を求め続けることの大切さです。**「もしあなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう」**(エレミヤ29:13)という約束は、今日の私たちにも適用されます。

 

ダニエルの例は、異国の地にあっても信仰を保ち続けることの重要性を教えています。彼は高い地位にありながらも、**一日に三度、エルサレムに向かって祈る**習慣を守り続けました。この忠実さが、神の計画の成就に大きな役割を果たしたのです。

 

【結論】

 

エズラ記1章の出来事は、神の予言の確実な成就を示しています。私たちも、どんな状況にあっても神を求め続け、御言葉に忠実であることの重要性を学ぶべきです。そうすれば、神は必ず私たちを見出し、その計画を成し遂げてくださるでしょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
圧倒的な主のご性質(黙示録1:9-20):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:きよい性質とは(レビ記11:13-23):右クリックで保存

今回は、主が定められた、食べて良い「きよい生き物」「きよくない生き物」の性質について、詳しく見て行きたい。
神はどのような性質をきよい、どのような性質をきよくないとされたのか。

まず、ひずめ、ひれ、うろこを持つ性質、後ろ足で跳躍する性質、それらを持つ動物を「きよい」とされた。
これらの性質に共通する事は、「地面(あるいは海底)に、直接、接しない」事である。
サタンの性質は、「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」(創世記3:14)、あるいは、「地を行き巡り、そこを歩き回る」(ヨブ2:2)ものである。
すなわち、きよい性質とは、地とは直接的に接しない、地に属さない性質である。

「地につくもの」は肉に属するもの、悪魔的なものであると、ヤコブ書3章で記されている。
そして、「上」に属する人、「地」とは距離を置く清い人の性質は、平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがないものである。(ヤコブ3:14-18)

また、「反芻」する動物はきよい動物、そうでない動物は、きよくない、とされた。
羊や牛などは、草をよく噛んで、胃で一部を消化し、それを再び口に戻してまたよく噛みしめ、また消化する、という事を繰り返すが、ここから、「反芻」する事が、主に喜ばれる性質である事を見る。
私達も、御言葉をよく噛んで咀嚼し、よく消化するなら、主に喜ばれる。
しかし、何でもかんでもそのまま鵜呑みにして消化不良になってしまう「豚」のような性質は、主に嫌われてしまう。

また、レビ記11章にて神がきよいとされた動物は、ほぼ、草食動物である事を見る。
実は、神が全被造物を創造されたはじめ、全ての動物は、皆、草食であった。
『神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。』(創世記1:29-31)

主の創世の当初は、どの生き物も、互いを害したり、食ったりする事などしない、「はなはだ良い」時代であった。
しかし、人間が堕落して早速、人は兄弟姉妹を傷つけたり殺したりするようになり、動物たちもいつしか、他の動物をとらえ、血を流し、捕食するようになってしまった。
鉤爪や牙で傷つけ、血を流し、他を食い物にしたりする性質は、神の性質ではなくサタンの性質、「汚れた」性質である。

創世の当初、全被造物は人によって正しく平和に支配されていたのに、人に罪が入って以来、全被造物は、呪いの下に束縛されてうめき(ローマ8章)、ノアの時代以降、全ての動物は、人間を恐れるようになってしまった。(創世記9:1-6)
しかし後に、預言者イザヤは、次のような平和な様を、幻で示されている。

『おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。』(イザヤ11:6-10)

この、創世当初のような平和な世界の鍵、それは、エッサイの根、すなわち、イエス・キリストによる統治である。
イエスキリストにより、全地が主を知る知識が海の水のように満ちあふれ、主の栄光があらわれるところには、もはや、互いに害する者も、食い物にし合う者もなくなるのだ。
私達キリスト者の中にも、以前は、ライオンやコブラ、ハゲタカのような性質の者達もいたかもしれない。
しかし皆、エッサイの子・イエスキリストによって、そうした肉食の性質、サタンの性質はすっかり抜き取られ、きよく平和な性質へと造り変えられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:私たち異邦人と律法との関わり(レビ記11:1-12):右クリックで保存

11章以降は、聖なるものと俗なるものの区別、きよいものと汚れたものの区別が示されており、いかに自らを清く保って主の民として歩むかというガイドラインが示されている。
そして、この11章では、食物に関する規定が示されている。

『「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。』(レビ記11:2)
『水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。』(レビ記11:10-12)

ここを読むと、私達日本人が普通に食べているものの中で、多くのものは、律法上では汚れたもの、食べてはならぬもの、と分かる。
では、私達日本人を含む「全異邦人」は、これらの規定と、どのような関わりがあるのだろうか。

そもそも、律法が特別にイスラエルの民に授けられた意義は、イスラエル民族がまだ一人の人だった頃、すなわち、アブラハムの時代にさかのぼる。
アブラハムがまだ、子供の無い75歳の一老人だった時、はじめて神から召命を受け、その時、子孫が与えられる約束がアブラハムに与えられた。
そして、その子孫を通じて、全人類を祝福へと入る約束が、与えられた。(創世記12:1-3)
つまり、神はアブラハムを特別に選び、彼の子孫、すなわち、イスラエル民族に神の規定を与え、神の基準を示し、神の存在と、神の聖なるご性質、そして、人類の救いの道を、全人類に表明するよう、祭司の民族として特別に定められたのだ。

祭司は自らを清め、世俗と分離する必要があるように(レビ記10:9-11)、祭司たる民族・イスラエルも、神が「汚れている」とされるものは摂ってはならず、そうして神の定めた律法を尊守し、世俗の民と区別する事によって、「祭司の民族」として、全人類を神へと導く務めを為すのだ。
そしてそれは、イエス・キリストのあらわれによって成就し、キリストを信じた者は、いかに「汚れている」とされている民であっても聖霊が与えられ、新しく造り変えられ、きよい、と宣言されるのだ。(使徒10章)
そして、エルサレム使徒会議にて、異邦人には、イスラエルの先祖たちさえ負いきれなかったくびき、すなわち、律法の数々の規定を、負わせない事が決議された。(使徒15章)

律法のもろもろの規定は、私達異邦人には適用されないものではあるものの、律法は、聖なるものと俗なるものの神の基準を知る事が出来、そして、これを守り行う人は、確かに祝福を受ける。
実際、これらを注意深く守り行ったイスラエル民族は、他と比べて伝染病にかかりにくく、平均寿命も長く、学力も社会ステータスも高かった。
ただ、律法を守り行う事によっては、いのちを得る事は出来ない。
結局、律法はあくまでキリストへと導く養育係であり、キリストを信じた事によって、私達も信仰によるアブラハムの子孫とされ、キリストがあらわれた以上、もはや「養育係」の下にいる必要は無いのだ。(ガラテヤ3章)

今や私達にとって、大切なのは、愛によって働く信仰である。
『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:1-6)

礼拝説教メッセージ音声:違反しても赦される人の特徴(レビ記10:12-20):右クリックで保存

『モーセはまたアロンおよびその残っている子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは主の火祭のうちから素祭の残りを取り、パン種を入れずに、これを祭壇のかたわらで食べなさい。これはいと聖なる物である。』(レビ記10:12)

あの恐ろしい事件の後、モーセは、アロンとその子達に、祭司たちが受けるようにと定められていた分を食べるよう言ったが、彼らはこの時、規定どおり行わなかった。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)

モーセが、エレアザルとイタマルに怒ったのは、彼らが食べるべきだったものは、「いと聖なるもの(most holy)」であり、祭司たちは、これを食べる事によって会衆の罪を負い、主の前にあがないをするものだから、である。

祭司たちは、その動物がほふられる様を見、血が流れる様を見、その上で食べ、味わうべきものなのだ。

罪祭は、キリストの予表である。
何の罪も無い動物が、会衆の罪を背負い、身代わりに命を絶たれたのと同じように、私達も、キリストが十字架上で裂かれた肉を、流された血潮を、しっかりと覚え、尊びつつ、感謝をもって頂かなくてはならないのだ。

『アロンはモーセに言った、「見よ、きょう、彼らはその罪祭と燔祭とを主の前にささげたが、このような事がわたしに臨んだ。もしわたしが、きょう罪祭のものを食べたとしたら、主はこれを良しとせられたであろうか」。モーセはこれを聞いて良しとした。』(レビ記10:19-20)

モーセは、アロンのこの言葉で、良しとした。
アロンとその子らも、主の言われた事を厳密には守らなかった。なのに、赦された。
ナダブとアビフとは、主に火で焼き滅ぼされてしまった。
一体、滅ぼされた者達と、赦された者達の違いは何だろう。おそらく、次の事によるのではなかろうか。

モーセが怒った対象は、二人の子に、であり、アロンに、ではなかった。つまり、咎めを負っていないアロンが、子達のために、執り成した形になる。
義人による執り成し。それによって滅びを免れたケースは聖書に多い。

また、アロンの言葉からは、自分たちは「分からないで」事を起こしてしまった事を伺う事ができる。
もしかしたら、あまりに恐ろしい出来事の直後で、気が動転していて、命じられた事をつい忘れてしまっていたのかもしれない。とにかく、彼等は故意に命令に逆らったのではなかった事は、確かである。
主は、知らないで犯してしまった罪を、執り成して下さる。イエス様は十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、知らないで犯す恐ろしい罪について、執り成してくださった。(ルカ23:34)
しかし、罪だと指摘され、知りつつも、なお主への捧げものを軽んじた、ホフニとピネハスは、主から下る災いによって、一日にして滅んだ(1サムエル2章)。
また、初代教会において、夫婦で共謀し、意図的に捧げものを偽った夫婦も、たちどころに主に打たれた。(使徒5章)
主は、知らずに犯した罪は憐れんで下さる。しかし、知りつつ意図的に主に逆らう者には、憐れみは無い。

そしてまた、祭司アロンは、自分達の側に非があった事を、認めている。
ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯した事を、預言者ナタンに指摘された時、「わたしは罪を犯した」と素直に認めた。
罪を指摘されても、言い訳と自己義を貫き通すような者は、サウル王のように、地位を剥ぎ取られ悲惨な末路を辿る。
罪を指摘されても、開き直って、神に反抗するような者は、カインのように追放され、人々から忌み嫌われ、さすらい人とされてしまうのだ。

罪を正直に告白し、言い表す人に対しては、神は真実で正しいお方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。しかしもし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とする者である。(1ヨハネ1:7-9)
私達も、自分の罪を認め、告白し、悔い改めて赦していただき、そうして、末永く祭司として主に仕える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:不従順を焼きつくす火(レビ記10:1-11):右クリックで保存

『さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。』(レビ記10:1-2)
前回は、「主がモーセに命じられたとおり」に祭司が行った結果、主が捧げものを受け入れる火が降り、全ての民はそれを見て力づけられたが、今回は、主が命じられなかった事を祭司が行ってしまった結果、その祭司を焼きつくす火が降り、全ての民はそれを見て、主の峻厳なる「聖」を恐れた。

なぜこのような事が起こってしまったのだろうか。
この出来事が起こった直後の9節に、「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。」と、唐突に「酒」についての命令が出てくるため、もしかすると、彼等は酒を飲み、酔った状態で主に近づいてしまったのかもしれない。
また、16章の1-2節によると、このふたりは、主の栄光が現れる贖罪蓋のある所、すなわち、年に一度大祭司が血を携えてしか入れない至聖所に、むやみに入ったようであり、そこで主の命じられていない異なる火を、身勝手にも捧げてしまったのかもしれない。

酒の故の事件や事故はよくニュースで聞くが、酒を飲むと、あらゆる事において気がゆるくなり、失敗をしてしまいがちである。
こないだの火柱すごかったな、たしか、捧げものには香がなんとかと言ってたぞ、俺たちもやってみよう、皆きっとびっくりするぞ、それで俺たちの格も上がるだろう、などと、酒を飲むと、してはならない領分を犯してしまうものだ。

『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)
彼らは、自分の考えで、身勝手な流儀で、主が命じられていない事を行い、自分の「肉」にまいて滅びを刈り取ってしまったのだ。
しかし、主をおそれ、主に命じられた事を正しく行う人には、前章でのように、主は栄光の形で現れて下さる。

『その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。』(レビ記10:3)
主は、人がどのように行なったとしても、栄光をお受けになられるお方である。
人が主を軽んじ、御言葉を侮るなら、その者がどのような災いに遭うかによって、人々は主の栄光を見る事になる。
また、主を敬い、主を信頼する人には、その人が主から助けを得、祝福を受ける事で、主はそれによっても栄光をお受けになる。

『モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。』(レビ記10:4-5)
2つの遺体は、服のまま運びだされた。
という事は、主の火によって焼かれたのは、彼らの体だけで、油注がれ聖別された祭司服は、焼けていなかったようである。
主はそこまで、ピンポイントに、災いにあうべき者と、そうでないものとを区別される。

『モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)

髪の毛を乱したり、衣服を裂くのは、イスラエルにおける悲しみの表現だが、なんと、アロンにとっての子供達が、また、エレアザルやイタマルにとってはお兄さんが、あれだけ悲惨な死に方をしたというのに、悲しみの表現をしてはならないというのだ。
その理由は、「死なないため」「主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないため」である。祭司がその任職中に、私情に走って、主の御前に誤った事をしてしまうと、その会衆全体に累が及んでしまうのだ。
主の祭司は、そこまで、私情をはさんではならないのだ。

イエス様も、ある弟子が「まず父を葬りに行かせて下さい」と言われた時、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と、厳しい事を言われた。
それ程、人々の上に立ち、神の国のつとめをする人は、人間的な感情や私情は、降ろさねばならないのである。
牧者や教師、賛美リーダーなど、人の上に立って導く立場は、感情や私情で簡単に動いてしまうような人がやってはいけないのだ。

『「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。』(レビ記10:9-11)

清められた良心を麻痺させ、霊的な感度を鈍らせる様々な「霊的アルコール」がある。
神の国の働きをする人は、世の価値観や、世のもろもろの楽しみに耽り過ぎる事は禁物である。
それらに浸り続けると、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの判断を、誤らせてしまうからだ。
アルコールを摂取した状態で車を運転する人への罰則は、かなり厳しくなっているが、霊的なつとめをする人は、車の運転よりもはるかに「重要ないのち」をあずかっている故、なおさら、そうしたアルコール類に気をつけるべきである。
王たるものに、酒は相応しくない。(箴言31:4)
むしろ、御霊に満たされて、詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心から賛美の歌を歌うべきである。(エペソ5:18-19)

聖霊を受ける備え:イエス様の証人となる(使徒1:3-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

主は天に挙げられる前、もうすぐ弟子達に聖霊のバプテスマが授けられる事を預言し、その時までの備えとして、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」と言われた。(使徒1:4)
エルサレム。その名前の意味は、「平和の土台」であり、神殿のある場所、礼拝者達が集う、神の都である。
私達も、聖霊が与えられるのを待ち望む時は、まず、平和という土台に立ち、主を礼拝する所から離れず、御言葉にとどまり続け、主がかねてから言われている約束を待ち望む事である。
聖霊は、扇動的な言葉によって高揚して得るものではない。御霊の実は、平安である。

続いて主は言われた。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)
バプテスマには2種類ある。一つは、ヨハネが授けた「水のバプテスマ」。これは、それまでの生き方を悔い改め、生来の自分を「死」へと渡すために、水へと浸しこむものである。もう一つは、主が授けて下さる「聖霊と火とのバプテスマ」(マタイ3:11)で、力を受け、全世界に対しイエスキリストの証人となるしるしである。
キリストの弟子としての条件は、ヨハネのバプテスマから、キリストの昇天まで、いつも行動を共にした者であり、「イエスの復活の証人」たる者である。(使徒1:22) つまり、キリストの弟子として聖霊を頂くには、悔い改めた者である事は必須条件であり、聖霊を受ける目的も、イエス・キリストの証人となる事である。

まもなく聖霊を受ける事を言われた弟子達は、イエスに問うて言った。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。(使徒1:6)
弟子達が望んでいた事は、イエス様が王権を取り、イスラエルがローマ帝国の支配から脱却し、支配される側から、支配する側となり、自分たちが栄える事であったが、主は彼らに言われた。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」(使徒1:7) 
イエス様はその直後、人の世の王座に座して君臨するのではなく、天に挙げられ、人々の目から見えなくなるのである。主が実権をもって直接世を支配されるその時は、父なる神が主権をもって定めておられるが、その前に、弟子達が、そして私達が、為さねばならない事がある。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒1:8)
弟子達が、そして私達が、主が実権をもって来られる前に、為さねばならない事、それは、地の果てにまで、イエス・キリストの証人となる事である!そのためにこそ、聖霊が与えられ、力を着せられるのだ。

「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。」(使徒1:9) まさにこの時以降、弟子達は、イエス様と顔と顔とを合わせて会う事が、もはや無くなる。
ある意味、8節の言葉が「最後のお別れの言葉」であったのだが、とてもそうとは思えない内容である。
他の福音書のイエス様の最後の言葉も、とても、お別れの言葉とは思えない。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ16:16)
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:20)
「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。」(ルカ24:50-51)
イエス様は「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」と言われた。真理の御霊が来る時、私達は知るのである。主が御父におり、私達が主におり、主が私達におる事を。(ヨハネ14:16-20)
そして私達は、地の果てまでイエス様の証人となる。イエス様をあかしする霊を宿し、全ての事について教えられ、イエス様が生きている事の証人として、地の果てまで出て行くのである!
平和の土台に立ち、主を礼拝する所から離れず、御言葉にとどまり続け、聖霊に満たされる事を待ち望む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

ある姉妹が、集中的に御言葉を学びたいという事で金曜から来ており、そこで、第二テモテの全4章を、三日がかりでじっくりと学んだのですが、その学びに同席した兄弟姉妹みんなが、たくさんの恵みをいただきました。

ある姉妹に示された御言葉が、別の姉妹を潤し、その分かち合いがまた別の兄弟を潤し、と、恵みが恵みを呼んで、もう涙、涙。もちろん涙ばかりでなく、喜びと笑いもいっぱいで、本当に、いのちの分かち合いでいっぱいの、祝福の時でした。

初めは、その姉妹のためにと始まった事でしたが、主から注がれた恵みの油が、周りへと滴って潤して行きました。

まさしく、詩篇133篇にある通りです。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。」

今、これから大勢で食卓を囲んで、楽しい夕食に入ろうとしている所です。

御言葉はまさしく、掘れば掘るほどざくざく出てくる、いのちの宝箱です。

礼拝説教メッセージ音声:コンシューマー・サービス(レビ記9:15-14):右クリックで保存

自分自身の贖いを済ませた祭司アロンが、次に為す事は、民のための贖いであり、そのために主から命じられている事は、罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事である。

真っ先に罪祭(罪のためのいけにえ)を捧げる所は、祭司の贖いと同じである。
民も、まず罪を取り扱わなくてはならない。
なぜなら、罪は神と人との隔たりとなってしまうからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやき、ひとりも正義をもって訴え、真実をもって論争する者がない。彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、害悪をはらみ、不義を産む。』(イザヤ59:1-4)

続いて捧げられるのが、燔祭(全焼のいけにえ)である。
燔祭は、自らを捧げる献身を意味し、献身なくば、祝福はいただけない。
「この時代において幾倍もの祝福を受け、来るべき世で永遠のいのちを受ける」者とは、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」であり(ルカ18:29-30) 、食べ物や着る物などがすべて添えて与えられる者とは、「まず神の国と神の義とを求め」た者である。(マタイ6:33)
主から祝福をいただくには、必ず、それなりの「献身」が必要だという事ある。

それに続いて捧げられるのは、素祭(穀物の捧げもの)である。
祭司の場合は、罪祭と燔祭のみだったが、祭司には土地の相続が与えられていない。
それ故、一般人は、自分達の相続地から得られた、勤労の実である穀物を捧げるのだ。

そして、最後に捧げられるのが、酬恩祭(和解のいけにえ)である。
酬恩祭は、以前も学んだとおり、神と、祭司と、捧げた人とが、共に同じ食物からいただくごちそうであり、同じテーブルに座って共に宴会をするかのような、神と人との楽しい交わりである。
これを捧げる事によって、神と人との平和が実現する事になる。
そして今や、キリストこそ、まことの和解のいけにえである。
『キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:14-16)

以上、これら全てのいけにえを捧げた後、アロンは祝福した。そしてアロンの祝福は神に受け入れられ、神の元から火がくだり、いけにえを受け入れられた。
『モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。そして主の栄光はすべての民に現れ、主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した。』(レビ記9:23-24)

主は、焼きつくす火である。(ヘブル12:29) 英語の聖書では、コンシューミング・ファイアーである。
最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは、お客様、消費者であり、コンシューマーを意識したビジネス展開が重要であるが、神こそ、真に私達のコンシューマーである。
人々の中には、色々な教会の礼拝を物色し、あっちの礼拝(サービス)は甘い、こっちのは辛い、などと、自分をコンシューマーとし、教会をサービス提供者のように思っている人がいるが、そのような人は、自分の立場が分かっていない。
神こそコンシューマーであり、私達はサービス(礼拝)を捧げる側である。

主を敬う心をもって正しく礼拝を捧げるなら、主は炎をもってその礼拝を受け入れて下さるが、身勝手に捧げるならば、主は、その人自身を焼きつくす火として現れる。
その事については、次回見て行きたい。

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