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常にいまし昔いまし後に来られる方(黙示録1:4-8):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主の栄光の歩みをするために(レビ記9:1-14):右クリックで保存
七日の任職期間を経、神と人との前に正式に大祭司となったアロンが、最初に為さねばならなかった仕事は、自分自身の贖いのために、祭壇でいけにえを捧げる事であった。
『八日目になって、モーセはアロンとその子たち、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、アロンに言った、「あなたは雄の子牛の全きものを罪祭のために取り、また雄羊の全きものを燔祭のために取って、主の前にささげなさい。』(レビ記9:1-2)
今、キリスト者である私達が、自らの全てを捧げる「祭壇」は、十字架である。
キリストは、十字架の上で、自分の意思を尽く御父の前に降ろし、十字架の上で、完全にご自身を捧げられた。
任職式においては、七という完全数が満ちるまで、日々、祭壇の贖いと、その人自身の贖いとが、毎日なされたが、同じように、私達も、主が量られた期間が満ちる時まで、日々、自分の十字架を負い、その上で主イエスについて行くべきである。
『それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』(マタイ16:24-25)
『あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは雄やぎを罪祭のために取り、また一歳の全き子牛と小羊とを燔祭のために取りなさい、また主の前にささげる酬恩祭のために雄牛と雄羊とを取り、また油を混ぜた素祭を取りなさい。主がきょうあなたがたに現れたもうからである』」。』(レビ記9:3-4)
自分自身の贖いが済んだ祭司が、次に為すべきは、民のための贖い、すなわち、民のために罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事であった。
これについては次回見て行くが、これらの事を為さねばならない理由は、明確に、次のように言われている。
「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」(レビ記9:6)
皆さんは、自分の生活の中に、職場に、家庭に、主の栄光を見たいと思うだろうか。主が直々に、生き生きと、皆さんの家庭や職場において、働かれるのを見たいだろうか。
そうであるなら、その主の臨在を呼びこむためのエッセンスが、このレビ記に記されている。
主の栄光が現れるための、第一ステップは、まず、罪祭と燔祭であった。
祭司は、神と人との間に立って執り成し、祈り、いけにえを捧げる者である。私達もキリストにあって祭司とされたからには、真っ先に、自分自身の罪を対処する必要がある。
もし私達の中に罪が手付かずにそのまま残っているとしたら、その罪が、神と私達との間に隔たりとなってしまい、どんな良き犠牲を捧げても、主は受け入れて下さらない。(イザヤ59:1-4)
だから真っ先に、罪を取り扱う必要があるのだ。
罪を対処した後に、捧げるべき捧げものは、全焼のいけにえである。
現在、私達が捧げる「全焼のいけにえ」とは、「私達自身」である。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)
そのように、まず、私達の罪を、イエスの血潮によって、御言葉の水の洗いによって取り扱い、続いて、私達自身の思いも意思も感情もキリストに服従させ、自分自身を主に捧げるなら、私達の執り成す祈りを、主は聞いて下さり、人々のための贖いも出来るようになり、主の栄光が現れて下さるのだ。
主の栄光の内を歩む事、主が共におられる事、これこそ、私達が「神の民」と呼ばれるゆえんである。
礼拝説教メッセージ音声:任職のための七日という期間(レビ記8:14-36):右クリックで保存
大祭司の任職において必要なもう一つ過程、それは、動物のいけにえである。
最初に捧げられるのは「罪のためのいけにえ」、その次は「全焼のいけにえ」、そして、「任職のいけにえ」と続くが、この順番は、とても意義深い。
私達も、神と人との間に立つ祭司として主に用いられるには、まず「罪の清め」を経なくてはならず、それを経て後は「全焼のいけにえ」、すなわち、思い、意思、感情全てを主に服従させ、全身全霊をもって主に献身する事が必要であり、そうしてこそ、祭司として相応しく整えられるのである。
任職の雄羊の「任職(mil-loo)」という言葉は、成就、聖別、献身とも訳す事が出来る。
「聖」とは、分離を意味する。故に、祭司に「任職」されるとは、俗なるものから聖なるものへと分離され、神へ全き献身する事を意味する。
私達キリスト者は、キリストにあって王族の祭司とされた(1ペテロ2:20)。
という事は、キリスト者は世と分離し、神へ献身する者、もはや世のためでなく、天のため、自分のためでなく、キリストのために生きる者達である。
『彼はまたほかの雄羊、すなわち任職の雄羊を連れてこさせ、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置いた。モーセはこれをほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつけた。』(レビ記8:22-23)
祭司の任職式で特徴的なのが、血を、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつける行為だが、「右」は力と権威を象徴し、「耳」は聞き従う器官、「手」は行う部位、「足」は、歩む部位である。
祭司の耳は、手や足よりも重要である。なぜなら、祭司は神の御声を正しく聞き、民の声を正しく聞く必要があるからだ。
『あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。』(レビ記8:33)
この七日の期間、任職のための特別なパンと肉を食べなくてはならない。それは特別なものであるため、他の人は食べてはならず、残ったら、火で焼き捨てなければならない。(レビ記8:25-32)
この七日という期間、世俗に戻る事は許されず、幕屋という聖なる場所にとどまり続け、主の庭に住み、主を思い続ける。
そして、思いも意思も感情も、体も、主の御用として用いられるにふさわしく清められる事に集中し、聖なる者とされる事に集中するのだ。
教会に住みたい、という人がいても、その理由が、さみしさを紛らわせたいとか、居ればなんとなく落ち着く気がするとか、あるいは、教会を何か慈善団体の簡易宿泊所のように思っているような人は、たとい何日教会に住んでも、何の変わる所は無い。
しかし、心のうちに、主を思い焦がれる思いがあるのなら、たとい、仕事などの事情で教会に来れない日が何日か続いても、その人は、どこにおいても主を認め、主に愛され、ますます霊的に成長して行く。
大事なことは、幕屋や教会といった「場所」よりも、その人自身の内に、主を慕い求める心、生ける神を喜ぶ心がある事である。
『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。』(詩篇84:5-7)
礼拝説教メッセージ音声:大祭司の任職式 - 聖別の油そそぎ(レビ記8:1-13):右クリックで保存
レビ記8章は、大祭司の任職式を実際に行った事の記録である。
『「あなたはアロンとその子たち、およびその衣服、注ぎ油、罪祭の雄牛、雄羊二頭、種入れぬパン一かごを取り、また全会衆を会見の幕屋の入口に集めなさい」。
モーセは主が命じられたようにした。そして会衆は会見の幕屋の入口に集まった。そこでモーセは会衆にむかって言った、「これは主があなたがたにせよと命じられたことである」。』(レビ記8:2-5)
この任職式には、イスラエルの全会衆が招集され、立ち会った。これは、神と人との前で公になされるべきものであり、そして、モーセが会衆に「これは主があなたがたにせよと命じられたことである」と宣言したように、これは誰か人間が勝手に考案したものではなく、主がせよと出エジプト記29章にて命じられていた事である。
祭司とは、誰も彼もが好き勝手になれるものではなく、また、努力して勉強すればなれるものでもない。それは、神から任命されるものである。(ヘブル5:1-5)
『モーセはアロンとその子たちを連れてきて、水で彼らを洗い清め、アロンに服を着させ、帯をしめさせ、衣をまとわせ、エポデを着けさせ、エポデの帯をしめさせ、それをもってエポデを身に結いつけ、また胸当を着けさせ、その胸当にウリムとトンミムを入れ、その頭に帽子をかぶらせ、その帽子の前に金の板、すなわち聖なる冠をつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。』(レビ記8:6-9)
祭司にはまず特別な装束を着せられるが、その前に必要な事、それは、水の洗いである。清められないままでは、聖なる装束を身にまとうべきではない。
現代のキリストにあって祭司とされた私達も、洗い清められなくては、祭司の職務に入るべきではない。
私達は、何によって清められるか?
それは、御言葉の水の洗いでもって、である。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)
私達は、御言葉に従順する事によって、清められる。たとい御言葉に記されている事が自分の望む事でなくても、それに服従する事によって、清められるのだ。
それでこそ、神から聖なる装束を着せられ、聖なる務めに相応しくなる事が出来る。
『モーセはまた注ぎ油を取り、幕屋とそのうちのすべての物に油を注いでこれを聖別し、かつ、それを七たび祭壇に注ぎ、祭壇とそのもろもろの器、洗盤とその台に油を注いでこれを聖別し、また注ぎ油をアロンの頭に注ぎ、彼に油を注いでこれを聖別した。モーセはまたアロンの子たちを連れてきて、服を彼らに着させ、帯を彼らにしめさせ、頭巾を頭に巻かせた。主がモーセに命じられたとおりである。』(レビ記8:10-13)
水で清められ、聖なる装束が着せられると、次は、聖別のための油が注がれる。
「聖」とは元々、「分離」とか「分かたれる」事を意味し、この、聖別の油が注がれる事によって、汚れた者から清い者へ、世俗から聖へと、分離するのである。
油は、聖書ではよく「聖霊」を意味する事で用いられる。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(1ヨハネ2:26-27)
もし私達の内に、聖霊の油が留まっているなら、何が神に喜ばれ、何が喜ばれないのか、全て、キリストの基準に適する事を、聖霊によって教えられる。
そうして全ての事について知り、ますます聖化される事を心から求め、望むようになって行き、ますます世とは「分離」した者となっていく。
一体どうしたら、この聖霊の油が与えられるか。
それは、「キリストにとどまっている事」である。
『そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。』(同28-29節)
大祭司であり、油注がれた方であるキリストに留まっているなら、かしらなるキリストから、聖霊の油がどんどん滴ってくる。
そして、キリストの御体なる教会に繋がっているなら、しあわせで楽しい交わりの内で、キリストからの油にますます浸され、とこしえのいのちの祝福の内に、どんどん潤って行くのだ。
『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』(詩篇133篇)
礼拝説教メッセージ音声:天の大宴会を予表する「酬恩祭」(レビ記7:22-38):右クリックで保存
全て動物の脂肪は、食べてはならない。(レビ記7:23-25)なぜなら、脂肪は、主の御前に焼き尽くし、煙にして捧げるべき「神の食物」(レビ記21:6)だからである。
また、血を食べてはならない(レビ記7:26)、という命令は、ノアの時代から既に告げられている。
血はいのちそのもので(創世記9:4-6)、それを犯してはならないからだ。
現代、いのちを粗末に扱ったり、いのちの領域を犯しているが故に、多くの呪いを招いている。
『イスラエルの人々に言いなさい、酬恩祭の犠牲を主にささげる者は、その酬恩祭の犠牲のうちから、その供え物を主に携えてこなければならない。』(レビ記7:29)
この、酬恩祭(和解のいけにえ)の内、胸の部分は、アロンとその子たちのものとし(31節)、右のももの部分は、いけにえを主に捧げる務めをした祭司の受ける分となる。(33節)
そして、前回見た通り、それ以外の部分の肉は、いけにえを捧げたその人が、その日の内に、あるいは、翌日の内に食べるものである。
このように、和解のいけにえは、同じ一つの動物から、神と、祭司と、民が、分けあって食べるものである。
家族や親しい友人が、同じ一つの食卓から、同じ食物を食べるように、一つの食事を分けあって食べる事は、親密な、楽しい交わりであり、そしてそれは、やがて天の御国における大宴会の、前味わいである。
『万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。』(イザヤ25:6-9)
父なる神は、御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしてほふり、共にこの食卓に与からせようと、私達を招いておられる事を、王子の結婚の披露宴を設けた王のたとえ(マタイ22:1-14)から知ることができる。
神は、破格とも言えるほどのそのような待遇によって、私達を招待しておられるのに、多くの人々は、それを軽んじ、ある者は畑に行き、別の者は商売に出て行き、ほかの者たちは、主のしもべたちをつかまえて、恥をかかせ、殺してしまう、というような事をしてしまうのだ。
そのような者達は、やがて滅ぼされてしまう。
『そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。』(マタイ22:8-10)
今や、この天の王国の大宴会には、良い人も、悪い人でも、あまねく招かれており、その招待に応じる人は、だれでも、宴会場に入る特権があるのだ。
しかし、礼服を身に着けていない者は、宴会場に入っても外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりする事となってしまう。
当時、王が披露宴に人を誘う時は、礼服も一緒に贈ったため、礼服を持っていないのは有り得ない。それ故、礼服なしに宴会に来たという事は、王がせっかく贈った服を敢えて拒否し、敢えて、自前の服を着て来た事になる。
礼服とはキリストご自身である。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26,27)
キリストを拒否して、宴会に与ろうとしても、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
このように、酬恩祭は、天の御国の大宴会を予表する。
それは、罪赦された事、神と和解した事、刑罰から救われた事を、喜ぶ宴会であり、神と大祭司キリストと私達が親しく楽しく共に同じ食卓に与る宴会である。
私達は既に、宴会への招きを受け、キリストという礼服の支給を受けており、それを身に着けて宴会に行くかは、各人次第だ。
神の支給された贖いの衣であられる、イエスキリストを身に着け、神の宴会に参加し、大いに楽しみ、赦された喜びをかみしめつつ、キリストの裂かれた体を共に味わう皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
主のしもべの道(ヨハネ21:18-25)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、「行きたくない(ethelo:「意図」しない)」所へ連れて行くであろう」。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』(ヨハネ21:18-19)
自分で帯をしめ、望む所へ行き、やりたい事を追求しているようでは、主のしもべとしてはまだまだ若く、未熟であるが、成熟すればする程、自分のやりたい事を主の御前に手放し、ただ主に導かれるままとなる。
物事を自分の思い通りに行かせようとする「未熟なしもべ」は、自由でいるようでいて、実はそうではない。
モグラ叩きのごとく、あちらこちらから噴出する問題を、ひたすら対処しなくてはならないからだ。
しかし、成熟したしもべは、全てをご存知で最善へと導いて下さる主の導きに両手離しで委ねるため、自分の思う通りに行かせようと奮闘する必要がなく、「楽」である加減も、安息の度合いも、非常に大きい。
たとい、その先に苦難や死が待っていると分かっていても、聖霊の促しによって、そうせざるを得ない衝動となり、進んで行う願望として、突き動かされて行くのだ。
パウロがエルサレムを目指して進んでいた時、行く先々の兄弟姉妹達は、パウロの行く道に苦難が待ち受けている事を、聖霊によって示され、「行かないでください」と涙ながらに懇願したが、パウロは言った。
「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ。」(使徒21:13)
人々の願いとしては、パウロが生きていて、いつもパウロからメッセージを頂いたり、導きを得る事だった。
彼らの指示どおり、もしパウロが行かなかったなら、確かに彼は安全に、安心に、生き延びる事が出来、そして各地にいる多くの兄弟姉妹達と、もっと一緒に、楽しく、交われる時間を長びかせられただろう。
しかし、聖霊に導かれる成熟したしもべにとって「御心」は強烈な拘束力であり、それは人間的でセンチメンタルな愛着を、振り払う。行かず、伝えずに生き延びるよりも、行って、伝えて死ぬほうが、御心であり、それで福音といのちが、さらに増え広がる事であるなら、成熟したしもべは、行かざるを得ないのである。
私達も、主に仕える者になれば、なるほど、そのように自身の望みを主イエスの名のために手放し、主の望まれるままに導かれていく事を、せつに願い求めるようになって行くのである。
ペテロは主から「あなたはこうなる」と言われた時、ヨハネを見て、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねた。
人は、どうしても、他人の事が気になるもので、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。」と主が言われたのに、他の弟子達は、その言葉を早速気にして、「ヨハネは死なない」と勝手な解釈をし、誤解の噂を早速広めてしまった程である。
主が言われた事を、自分の思い込みというフィルターを通して身勝手に解釈してしまうと、不健全な噂を広めたり、兄弟姉妹の間に混乱を招いてしまったりする。主が言われた事は、そのまま受け止めるべきである。
人がどう願うかは、さほど重要ではない。ただ、御父が定められた通りの御心が成っていく。
イエス様の「誰々はどうなって欲しい」という願いより、実はもっと重要な事がある。それは「あなたは、わたしに従ってきなさい。」という主の言葉であり(22節)、主に従っていく事こそ、誰彼の願いよりも重要である。
主がヨハネに生きていて欲しいと願ったように、主は、私達が生きて、幸いを得、健やかである事を、確かに願っておられる。しかし、いかに主が「死なない事」を願っていたとしても、福音のゆえに死ぬ事が定められている人は、死ぬのであり、主のしもべは、ただ自分に量り与えられた使命を、両手を広げて受け入れ、御霊の導きに委ね、そのまま生きるのみである。そしてその道は、平安と安息、栄光に満ちている。
私達が、自分の好きな帯を締め、やりたい事成した数々を、日記に書き記すなら、人に見せられる内容は、せいぜいわずか、むしろ、誰にも読まれたくない内容ばかりであるが、主イエスの御業は何もかも素晴らしく、それらを書物にして書き記すとすれば、この世界さえ、その文書を収めきれない程である。(25節)
そうであるからには、この御方に全てを委ねる事のほうが遥かに確実で、委ねない事のほうが、断然、損である。主に全てを委ね、平安と確実さと栄光に富んだ人生を歩んでいく皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:酬恩祭(和解のいけにえ)を共に食べる時は(レビ記7:11-21):右クリックで保存
和解のいけにえ(酬恩祭)の「和解(シェラミーム)」ということばは、平和な、調和ある、安全な、と訳すことが出来る。
この祭りは、神様との和解を喜び、あふれる感謝の祭りであり、神と民と、祭司とが「交わり」を持てる祭りである.
『主にささぐべき酬恩祭の犠牲のおきては次のとおりである。もしこれを感謝のためにささげるのであれば、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬ煎餅と、よく混ぜた麦粉に油を混ぜて作った菓子とを、感謝の犠牲に合わせてささげなければならない。また種を入れたパンの菓子をその感謝のための酬恩祭の犠牲に合わせ、供え物としてささげなければならない。』(レビ記7:11-13)
この祭りで捧げるものは、種入れぬ菓子(cakes)、種入れぬせんべい(ウェハース)、そして、種を入れたパンの菓子で、祭司はその中から一つづつを取り分として受け取る。
シンプルで飾り気のあまり無かった燔祭や素祭に対し、酬恩祭の捧げものは、楽しげなものである。
酬恩祭の捧げものには、三種の目的がある。
すなわち、「感謝」、「誓願」、「自発」であり、それぞれには、それぞれ食べて良い期間がある。
もし「感謝」のために捧げたものであるなら、捧げる人がその日のうちにその肉を食べなければならず、それが「誓願」あるいは「自発」の供え物であるなら、明くる日でも、食べることができる。
ただし、その肉の残りは、三日目には火で焼き捨てなければならない。(レビ記7:15-17)
もし、食べて良い期間を過ぎているのに食べるのであれば、その捧げものは受け入れられず、供え物と見なされず、かえって汚れた物となり、咎を負わなければならない。
このように、酬恩祭のいけにえは、食べて良い期限があるが、それぞれの内容には、意味がある。
感謝のためのいけにえは、その日のうちに食べるものであるが、もし私達が「主に感謝すべき事」を示されたのなら、その「感謝」は先延ばししたりせず、その日の内に為すべきである。
また、現代の私達の「交わり」にも、それが出来る期限がある。
たまに、礼拝が終わったと同時に帰ってしまう人や、交わりの時間になると突然何かの仕事をし出したりして、交わりに参加しない人もいるが、「交わるべき時」には、しっかり交わっておくべきである。
そうでないと、せっかく「霊的ごちそう」が用意されているのに、それをみすみす放っておいてしまうようなものである。
主が良くして下さった事を共に感謝し、主の素晴らしさを共に喜び、共に食卓を囲む。その「交わり」の一時は、とても楽しく喜ばしい、「霊的ごちそう」の一時である。
また、汚れを受けた人は、酬恩祭のいけにえを食べてはならない、とされている。
『その肉がもし汚れた物に触れるならば、それを食べることなく、火で焼き捨てなければならない。犠牲の肉はすべて清い者がこれを食べることができる。もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。また人がもしすべて汚れたもの、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた獣、あるいは汚れた這うものに触れながら、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:19-21)
現代でも、自ら良からぬ事を思いめぐらし、聖徒の交わり全体にその「汚れ」を撒き散らして、交わりを台無しにしてしまうような「汚れた人」がいる。
例えば、交わりの時間になると、狙い済ましたかのように、どうでも良い物事を押し付けたり、その場の全員を強烈に世的な話題に引きこもうとしたり、あるいは、大きな音をかき立てたり(皿をがちゃがちゃしたり、楽器を演奏するボリュームを大きくしたり、風邪を引いていないのに大げさに咳をしたり)などして、交わりの会話を台無しにしてしまう人もいるが、そのような「汚れ」の要素がある時は、全体の交わりには参加しないほうが良い。
むしろ、主の御前に一人で出て、イエスの血潮で自らの汚れを清めていただくか、あるいは、二人また三人による、親密な「御言葉」の水の洗いの中で、心の汚れを清めていただくべきである。