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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
容赦してはならぬ時(エステル記9:1-19):右クリックで保存
【概要】
本日の御言葉は、ユダヤ人が絶望の中から神の守りによって勝利を得られたエステルの御業と、エリシャを通して神の命令に従うことの大切さを示された列王記の御言葉により、神の御業と信仰に基づいた断固たる行動の必要性を教えています。
【聖書箇所】
エステル9:1-19
列王記13:14-19
【慰めの言葉】
どんなに暗く見える状況でも、神は常に御自分の民を守り、絶望の中にも導きと慰めをお与えになります。
【励ましの言葉】
私たちがおのおのの信仰に立ち返り、神から与えられた力と恵みに全幅の信頼を置くなら、どんな強大な敵にも立ち向かえると励まされます。
【戒めの言葉】
神の御命令に従うにあたり、決して妥協や曖昧さを許してはなりません。部分的な従順は、かえって敵を許すことにつながり、私たちの歩みを阻む罠となります。
【勧めの言葉】
教会の兄弟姉妹として、私たちは自らの信仰生活において、徹底的に主に立ち返り、時には勇気をもって敵と向き合い、取り除くべきものを徹底的に排除する態度を持つべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
もし私たちが世俗の妥協や怠惰に流れてしまっているなら、今こそ立ち返り、悔い改めの心を新たにして、神の御前に謙虚に立つことを促します。
【***詳細***】
今日、私たちが聞くのは「エステル9:1-19」の御言葉です。かつて、ユダヤ人の敵は彼らを滅ぼそうと狡猾な策略を巡らせ、王の命令によってユダヤ人が全土で打倒される危機が迫りました。しかし、神はその御手をもって事の流れを逆転されました。敵を害する意図を抱いていたものが、実際にはユダヤ人自身に対して敵対していた者たちを全力で打倒する結果となり、諸州の主官や王の役人までもが、神の力の前にひれ伏さざるを得なかったのです。エステルの勇気ある姿勢、王妃として王に助けを求めたその決断は、ただ単に自己の救いのために留まらず、民族全体の命運を変える重要な瞬間でありました。私たちはここで、障壁を打破し神が定められた救いを、敵に対して断固として立ち向かう決意から受け取るべきであるという教えを得ます。
この御言葉に現れる状況を振り返ると、ユダヤ人が集い武装して敵対勢力に立ち向かった様は、単なる歴史的事件にとどまらず、今日の私たちが信仰の戦いにおいても、神が与えてくださる権限と守りにより、立ち向かうべき敵の存在を象徴しているとも言えます。各人が家族や共同体を守るため、また純粋な信仰を保つために、断固たる姿勢で進む決意は、神が私たちに与えた聖なる使命そのものです。このとき、私たちは神の御名によって召された民として、「敵を徹底的に打倒せよ」という御命令を胸に刻み、現代における霊的戦いにおいても、迷いやためらいを捨てるべきであると教えられます。
また、「列王記13:14-19」に記されている、エリシャ預言者とイスラエルの王との出来事も、徹底した従順の大切さを今に伝えております。エリシャが王に、主の勝利をもたらす矢を掲げるよう命じ、その具体的な行為において徹底されるべき神の意向を示しました。もし、王がエリシャの示された回数通りに矢で地面を打たず、主の命令を完全に遂行しなかったならば、その結果は単なる戦術の失敗だけでなく、国全体に災いがもたらされたことでしょう。部分的な従順は、後に大きな悔いや災厄につながるとエリシャは厳しく戒めました。このことから、私たちは主の御命令を徹底的に実行することの重要性、決して曖昧な態度をとってはならないという戒めを学びます。
歴史の中で、エステルが王に対して恐れず訴え、大胆に敵対勢力に立ち向かったように、またエリシャが神の命令に忠実に対して容赦なく徹底行動を促したように、今日の私たちも神の民として、一切の妥協を許さず、霊的な戦いにおいては強固な姿勢を持たねばなりません。現代社会では、キリスト者に対する迫害や試練、また悪霊やサタンの勢力がまさに顔を出し、私たちの信仰を攻撃しようと試みる状況が見られます。これらの霊的な敵に対して、単なる受動的な姿勢ではなく、断固たる呪いの祈りと、神から賜る権限に基づいた積極的な行動をもって立ち向かうべきであるというメッセージを、私は強く心に刻みました。
ここで、私たちが思い出すべきは、エステル記におけるあの劇的な転換点です。かつて、敵がユダヤ人を侵略し滅ぼさんと企んだ法令が、結果としてユダヤ人に自らの敵を打ち倒すための法令に変わりました。王の命令において、彼らの敵対する者たちは一斉に滅ぼされ、彼ら自身が休みと祝宴の日を迎える結果となりました。神は常に、彼の民を守るための抜本的な変革をもたらされるのです。私たちも、もし心の中に神に敵対する思いや、妥協が存在するならば、むしろそれに立ち向かい、断固として排除する必要があります。そうすることで、私たちは神の完全な守りと祝福の下で、真の繁栄と平和を享受できるのです。
そして、エリシャが示されたエピソードは、私たちに「主の言葉に耳を傾け、忠実に従うこと」がどれほど重要であるかを改めて訴えかけています。王がわずかにしか従わなかったために、後になって多くの災いが起こったように、私たちもまた部分的な信仰や曖昧な従順では、結果として自らの霊的な安全と繁栄を損なってしまいます。聖書は私たちに、決して手を緩めず、主の敵、つまり私たちの心や家族、共同体に害を及ぼすあらゆる霊的な悪と戦い抜く決意を持つように求めています。
私たちは、エステルやエリシャ、サウル王や古のイスラエルの歴史から、神がどのようにして御民を救い、敵を徹底的に打倒されるかを知ることができます。これらの御言葉は、ただ歴史の記録としてではなく、今日の私たちの信仰生活に対する直接の教訓として、より明確に届けられています。もし、今私たちの心に何らかの障害や敵意、世俗への依存があるならば、それはすぐに取り除くべき対象です。神は、私たちが純粋な心で、まっすぐ神に従い、そして主の敵に断固として向かうようにと命じられています。
最後に、現代という時代においても、我々の周囲には信仰に逆らう勢力が渦巻いております。しかし、歴史の中で神が示された御業と、エステルやエリシャのような聖なる生き方が、今日の私たちへの強い励ましとなっています。私たちは、この御言葉にあるように、主の命令に従い、断固たる信仰と行動をもって、世の中の悪に立ち向かいます。そして、敵に対しては決して妥協せず、神から与えられた権限を信頼して、全力で取り除く努力を惜しまないよう誓いましょう。主がもし、私たちに具体的な行動を促されるならば、その御命令に即座に従い、内にある不信仰や妥協する心を断ち切るよう、真摯な悔い改めの姿勢を保つよう努めなければなりません。
このように、エステルの勇気とエリシャの厳しい戒めは、今日のクリスチャンにとっても普遍的な霊的戦いの模範であり、私たちの内に潜む霊的な障害を根絶するための確固たる指針となります。どんな時も主の導きに信頼し、逆境の中でさえも神の守りと戦いの力を信じ、歩み続けるその姿勢こそ、私たちが目指すべき真の信仰であると確信いたします。
【結論】
エステルとエリシャを通して示された御業は、私たちに神の守りと御命令に徹底的に従うことの大切さを改めて教えてくださいます。どんな困難や霊的な敵が現れようとも、主の力に信頼し、妥協せず徹底的に立ち向かう姿勢を持つならば、私たちは必ずや祝福と勝利の中に歩むことができるのです。アメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエスキリストのあかし(黙示録1:1-3):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祭司が受ける分(レビ記7:1-10):右クリックで保存
愆祭(罪過のためのいけにえ)は、罪祭と同様、祭司の食物とされる部分があり、それは「最も聖なるもの」とされる。
『祭司たちのうちのすべての男子は、これを食べることができる。これは聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物である。罪祭も愆祭も、そのおきては一つであって、異なるところはない。これは、あがないをなす祭司に帰する。』(レビ記7:6-7)
祭司は、一般人が捧げたいけにえの中から、受け取る分がある。
燔祭、すなわち全焼のいけにえは、まず皮が剥がれ、解体され、全て焼かれるものである事を1章で学んだが、その皮は焼かれず、祭司が受ける分として残された。(レビ記7:8)
キリストも、燔祭のいけにえのように、十字架という祭壇に捧げられる前、ローマ兵達によって身ぐるみ剥がされ、下着はくじでひかれ、衣は全て奪い取られた。(詩篇22:16-18)
私達も、罪ある邪悪な者達であったが、キリストの贖いの衣が与えられ、キリストを着る事によって、キリストと一つとされ、約束の相続人とされた。(ガラテヤ3:27-29)
素祭についても、祭司の食物とされる分がある。(レビ記7:9-10)
このように、主の宮で働く祭司には、捧げ物の中から受け取るべき分があるが、それは、新約においても同じである。
パウロはこう言っている。
『あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。』(1コリント9:13-14)
確かに、主のために宣教したり牧会したりするフルタイムの献身者は、聖徒達の献金によって生活する権利は与えられている。
しかし、献身者は、金銭を得る事を当てにして働くのではなく、「キリストの福音のために」働くのである。(1コリント9:12)
パウロは、「献金によって生活する権利」が、福音の妨げとならぬよう、また、自らの手でしっかり働くべきである事を身を持って示すために、その権利を手放し、自らの手で働きながら福音の働きをした。
『もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。』(1コリント9:11-12)
パウロはむしろ、聖なるプライドの故に、自らその権利を投げうった。
『しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。』(1コリント9:15)
献身者を目指す人の中には、厳しい社会で揉まれるのが嫌だから、比較的「優しい」人達が集うキリスト教業界の中から糧を得、ぬくぬくしようと、逃避的な動機で目指す人も中にはいるが、世の働きという「小さな事」さえまともに出来ない人は、神の国の働きという「大きな事」を担うべきではない。
主の働きは、一般社会での働きよりも、より大きな信仰が必要であり、より多くの忍耐と服従が求められるし、世の事業における責任よりも、永遠のいのちに携わる責任のほうが大きいからだ。
祭司が受ける分、献身者が受ける分は確かに与えられているが、それを当てにするのではなく、「キリストの福音のために」働く事が第一目的である事を忘れてはならない。
罪祭(罪のためのいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:24-30)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » レビ記
- 執筆 :
- pastor 2013-4-25 22:14
礼拝説教メッセージ音声:罪祭(罪のためのいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:24-30):右クリックで保存
『「アロンとその子たちに言いなさい、『罪祭のおきては次のとおりである。罪祭は燔祭をほふる場所で、主の前にほふらなければならない。これはいと聖なる物である。罪のためにこれをささげる祭司が、これを食べなければならない。すなわち会見の幕屋の庭の聖なる所で、これを食べなければならない。』(レビ記6:25-26)
ここでは、罪祭として捧げられた肉は、祭司が食べて良い、と言われているが、中には食べてはならないものもある。
すなわち、その血を会見の幕屋に携えて行き、聖所で贖いに用いた罪祭は、食べてはならない。(30節)
聖所へ血を携えて行って、贖いをするいけにえといえば、祭司や、イスラエルの会衆全体の罪のために捧げられた、雄牛である。(4:3-21)
それは、食べることが出来ないが、一般人や民の長のための罪祭は、聖所へ血が持ち込まれないため、食べることが出来る。
いや、むしろ、食べなくてはならない、と言われている。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)
それにしても、人々の罪を負って「罪」とされた動物を、食べていいものなのだろうか。
食べる事によって、罪をその身に負う事にならないのだろうか。
それにまた、罪祭の肉は「最も聖なるもの」と言われているが、一体なぜ、罪とされた動物の肉が、最も聖なるものなのだろう。
それは、私達の主、イエスキリストを見る時、合点がいく。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)
罪祭の犠牲とされる動物は、元々、罪がないのに、罪を犯した人間が手を置くことによって、罪として一体化される。
同じようにキリストも、元々、罪を知らないお方であったのに、私達の身代わりとなるため、「罪」そのものとされた。
私達は、その罪とされたキリストの肉を食べ、血を飲む事によって、罪を処罰されたキリストと一体化とされ、罪なき者、聖なる者とされるのだ。
『すべてその肉に触れる者は聖となるであろう。』(レビ記6:27)
普通なら、汚れた者の衣に触れる時、そのものは汚れ、また、聖なる肉を運んでいる人の衣が何かに触れても、それは聖なるものとはならない。(ハガイ2:12)
しかし、私達の罪を除くために、罪祭とならって下さったイエス様は、例外である。
12年間長血を患った女は、律法上は汚れていたが、彼女が信仰を持ちつつイエス様の衣に触れた結果、彼女はきよくせられた。
私達の主、イエス様に、信仰をもって触れるのであれば、私達も清くせられるのである。
『すべてその肉に触れる者は聖となるであろう。もしその血が衣服にかかったならば、そのかかったものは聖なる所で洗わなければならない。またそれを煮た土の器は砕かなければならない。もし青銅の器で煮たのであれば、それはみがいて、水で洗わなければならない。』(レビ記6:27-28)
罪の事や聖なる事に用いられた器は、そのまま、他の事に用いられてはならず、土の器は砕かれ、青銅の器はよく洗われなくてはならない。
また、罪祭のいけにえには、食べて良い「期間」があり、罪祭で流される血も、罪を贖う「有効期間」があるのだ。
過越の子羊は、祭りの日の、日の入りから日の出までの間に食さねばならず、朝になった時、それは火で焼かれなくてはならない。(出エジプト記12:10)
過越の子羊は、それ以外の期間に食べてはならないものであり、過越の日没から日の出までの間に、子羊の血が塗られた扉の外にいた者は、それにあずかってはならない。
なぜなら、過越の「夜」という期間はエジプトに対しては災いが下っており、イスラエルは守られており、その間に過越の子羊は食さねばならぬものであるからだ。
その期間が終わって朝になった時には、もう、イスラエルの民は約束の地へと出立し、エジプト人は、死の悲しみの中、エジプトに留まる他に無いのだ。
同じように、裁きの日が来た時、あらかじめ与えられている恵みの期間に、血潮のしるしの内側に入らなかった者は、死と滅びの中に留まり続け、恵みの期間にイエスの血潮によって清められ、滅びを免れた者達は、天の御国へと入れられるのである。
恵の時、救いの時には「期間」がある。
『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(2コリント6:1-2)
その恵みの期間に、主イエスを信じる者は、救いへと入れられるのである。
礼拝説教メッセージ音声:素祭(穀物の捧げもの)に関する祭司のつとめ(レビ記6:14-23):右クリックで保存
今回の箇所は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについて「アロンとその子たち」に命じている事である。
素祭の麦粉のうち、一握りを、油と乳香を共に取って「記念の分」とし、祭壇の上で焼いて香ばしいかおりとして主にささげなくてはならない。(レビ記6:15)
この、一握りの「記念の分」は、真っ先に焼き尽くされ、主の御前に香ばしいかおりとして捧げられるが、同じように、キリストも、私達の初穂として、長兄として、父なる神に捧げられ、その香ばしいかおりの故に、父なる神は、完全になだめられた。
素祭の残りの部分は、祭司の食物となる。
『これは種を入れて焼いてはならない。わたしはこれをわたしの火祭のうちから彼らの分として与える。これは罪祭および愆祭と同様に、いと聖なるものである。アロンの子たちのうち、すべての男子はこれを食べることができる。これは主にささげる火祭のうちから、あなたがたが代々永久に受けるように定められた分である。すべてこれに触れるものは聖となるであろう』」。』(レビ記6:17-18)
キリストは、素祭の記念の部分として、香ばしいかおりとして全て捧げられたが、それに続く私達は、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げる事によって、大祭司なるキリストの食物を整えるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
私達も、キリストにあって、祭司とされた。
祭司は、聖なる場所で種入れぬパンによって、特権的に養われたように、私達も、種を入れぬパン、すなわち「人間のおしえ」というパン種が一切入っていない、純粋な御言葉のパンによってのみ、特権的に養われるべきである。
『「アロンとその子たちが、アロンの油注がれる日に、主にささぐべき供え物は次のとおりである。すなわち麦粉十分の一エパを、絶えずささげる素祭とし、半ばは朝に、半ばは夕にささげなければならない。それは油をよく混ぜて平鍋で焼き、それを携えてきて、細かく砕いた素祭とし、香ばしいかおりとして、主にささげなければならない。』(レビ記6:20-21)
元々、素祭は、もみ殻がついたままではなく、殻が抜かれ、露わとなった実はさらに砕かれた状態で幕屋へ持ち込まれるのだが、アロンとその子たち自身が捧げるこの素祭は、そこからさらに油を混ぜられ、よく練り込まれ、フライパンで焼かれ、さらにまた細かく砕かれ、そして最後には、焼き尽くされる。
これは、まさしく徹底的に砕かれたキリストをあらわしており、また、主に捧げ尽くしたいというい献身者を表している。
真に油注がれた方、キリストは、油絞りの場、ゲツセマネの園で祈られた。
『「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。』(マルコ14:36)
キリストはゲツセマネで「わたしの思いではなく御心のままに」という祈りによって油塗りこまれ、ピラトの庭で砕かれ、ゴルゴダの丘の十字架上でも、徹底的に砕かれ、身も心も焼き尽くされる経験をされた。
私達も、主にあって献身者であろうとすればするほど、全く砕かれっぱなしとなる。
余分な殻は抜かれ、粉々に砕かれ、さらに油混ぜられ、平鍋の上で焼かれ、さらにまた砕かれていき、最後には、焼き尽くされる。
そうして行くうちに、自らのわざをさらに止め、さらに主に身を委ねて行くようになるため、ますます楽に、ますます甘く、麗しく、ますます栄光に富んだ経験となっていくのだ。
礼拝説教メッセージ音声:燔祭(全焼のいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:8-13):右クリックで保存
『アロンとその子たちに命じて言いなさい』(レビ記6:9)
1-5章までは、イスラエルの一般人が適用すべき、捧げものに関する規定だったが、今回の箇所からは、「アロンとその子たち」すなわち祭司たちが適用すべき命令となり、イスラエルの民から受け取った各種の捧げものを、どのように扱うべきかが、書かれてある。
『燔祭のおきては次のとおりである。燔祭は祭壇の炉の上に、朝まで夜もすがらあるようにし、そこに祭壇の火を燃え続かせなければならない。・・・祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。火は絶えず祭壇の上に燃え続かせ、これを消してはならない。』(レビ記6:9-13)
まず、燔祭(全焼のいけにえ)については、祭壇の上に朝まであるようにし、祭壇の火を常に燃え続けさせなければならない。
燔祭は、イスラエルの民の自由意思による捧げものだったが、それとは別に、朝ごと夕ごとに捧げられる全焼のいけにえがあり、それは以前、出エジプト記で命じられていた通りである。
『あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりである。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない。その一頭の小羊は朝にこれをささげ、他の一頭の小羊は夕にこれをささげなければならない。一頭の小羊には、つぶして取った油一ヒンの四分の一をまぜた麦粉十分の一エパを添え、また灌祭として、ぶどう酒一ヒンの四分の一を添えなければならない。
他の一頭の小羊は夕にこれをささげ、朝の素祭および灌祭と同じものをこれに添えてささげ、香ばしいかおりのために主にささげる火祭としなければならない。これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。』(出エジプト記29:38-42)
たとい、全焼のいけにえを捧げる人が、一人もいない日であったとしても、祭司は、日夜、全焼のいけにえを捧げなくてはならない。
そして、主の御前に絶えず捧げているのであれば、主は私達に会い、私達と語られるのである。
なぜなら、現代においては、私達・キリスト者こそ、祭司だからである。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(1ペテロ2:9-10)
祭司は、地上での土地の相続が無い代わりに、主ご自身が相続であり、主の宮で仕え、主への供え物を受け取れるなど、世俗の人に比べれば特権的ではあるが、しかし同時に、それなりの責任と、日々務めるべき任務がある事を忘れてはならない。
燔祭、すなわち主に対する全身全霊の捧げもの、それは祭司が、日々怠りなく主に捧げるべきものであり、たとい、周りに一人も主に自らを捧げる人がいないとしても、祭司とされた私達は、日々、自らを主に捧げるべきなのだ。
現在の私達も、キリストの十字架という祭壇の上に、日々、身も心もささげ、自分の意思を降ろしてキリストに服従させ、そうして日々主に仕えるのであれば、私達はますます聖なる器として用いられるようになり、私達が執り成す人々も、祝福されるのである。
Do you love me? (ヨハネ21:15-17)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ペテロはかつて、弱さのゆえに、三度、イエス様の事を知らないと公の前で宣言したが、イエス様はそんなペテロを、温かい食事のもてなしの後、個人的に取り扱われた。
「イエスはシモンペテロに言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝はこれらに勝りて我を愛する(アガパオー)や。彼に言ふ、然り、主よ、汝は我が汝をねんごろに(フィレオー)し参らすことを知り(エイドー)給ふ。彼に言い給ふ、我が羔(こひつじ)を飼へ。」(ヨハネ21:15 永井訳)
イエス様はここで、ヨナの子、すなわち、人から生まれたシモンよ、と語りかける。あなたは「これら」すなわち、この人達や、漁師という職業、住み慣れた土地、それら以上に、わたしを愛(アガパオー)するのか、と。
ギリシヤ語の「愛」には三種類ある。イエス様がペテロにチャレンジした「アガペー」の愛は、ただ与える愛。
見返りを求めず、惜しみなく捧げ尽くす愛、人を生かし、いのちを豊かにする愛である。それとは真逆の愛が「エロス」の愛、すなわち、見返りを求め、相手から奪う愛。相手の美しさや若さ、お金など、メリットが無くなったら即切れてしまうような、人から奪い、人のいのちを廃らせる愛である。そして三つ目はペテロが答えた「フィレオー」の愛、すなわち、常に交わりを持つ身近な人に自然に芽生える親近感や親愛の情である。
主は、人に、チャレンジする。あなたは、周りのあの人この人よりも、職業や地位よりも、見返りを求めず、わたしを「アガペー」の愛によって愛し尽くすか?と。
以前のペテロなら、何の躊躇もなく、得意げに「はい」と答えたであろうが、今の彼には「アガペー」で応える事に、躊躇があった。彼は、私があなたに親しみを持っている事を、知っておられるでしょう、と答えた。
イエス様は「私の子羊を飼いなさい」と言われた。ここの「飼う」は、食物を与えて守れ、という意味である。
イエス様の所有である、幼い羊。それに食物を与え、守るという資格が与えられるのは、イエス様をフィレオーによってでも、愛する人である。
「また二たびめ彼に言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝われを愛するや。彼言ふ、然り、主よ、汝は我が汝をねんごろにし参らすことを知り給ふ。彼に言い給ふ、我が羊(ひつじ)を牧(か)へ。」(ヨハネ21:16 永井訳)
シモンは繰り返し聞かれ、耳が痛かっただろうが、イエス様はなお訊ねた。私をアガペーするのか、と。
人間の子には、どんなに振り絞ってもアガペーの愛は出てこない事、主の基準には達しえない事を、思い知った事だろう。イエス様は今度は、「子羊」ではなく「羊」を、「飼いなさい」ではなく「牧し」なさい、と言われた。「牧す」とは、「飼う」よりも、より進んだ養いで、食べさせるだけでなく、訓戒し、治める事を意味する。
イエス様を「フィレオーする」と、なお重ねて告白する人には、羊を牧する資格が与えられる。
「三たびめは、彼に言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝われをねんごろにするか。」(ヨハネ21:17 永井訳)
イエス様は、三度目の質問では、ペテロの不完全な愛のレベルに降りてこられ、同情するかのように「あなたは私を、フィレオーするのか」と言われた。あたかも、小さい子供が悪い事をして泣いている所に、大人がしゃがんで子供と同じ目線に来て、なだめてくれるかのように。それでペテロは悲しくなって、言った。
「主よ、汝はすべての事を知り(エイドー)給ふ、汝は我が汝をねんごろにし参らすことを知り(ギノスコー)給ふ。」(ヨハネ21:17 永井訳)
私達には、完全な愛など無い。主の基準には、達し得ない。だから私達もペテロのように、主に告白するしか無い。「あなたは、私達が弱く不完全で、アガペーの無い者である事を、感覚的に知っておられ(エイドー)、客観的にも知って(ギノスコー)おいででしょう、それでも私は、あなたを親っている、それしかありません。」と。 私達は結局、主が私達を「知っておられる」事に、よりすがるしか無いのである。
主は、天を押し曲げて降りて来られ、私達と同じ「人」として住み、同じ目線に立って下さり、辛うじて「フィレオー」しか出来ない私達に、イエス様の大切な羊を飼うようにと、主の働きを託して下さるのだ。
その時は、辛うじてフィレオーとしか答えられないペテロだったが、主と共に歩んで行き、主の羊達を養う内に、彼は「持ち合わせていない」と思っていたアガペーを、自然に身につけて行ったようである。
伝承によると、ペテロは後に、捕らえられ殺されると知りながらもローマへと戻って、迫害されているイエス様の羊たちを養い、捕らえられ、自らのいのちを投げ出してアガペーの愛を体現した。神の国は、御言葉の種が蒔かれたなら、夜は寝て朝は起き、そうこうしている内に、その人の内で育っていくものである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
新しい衣、新しい革袋、ぶどう酒(ルカ5:33-39):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:愆祭 - 罪過のためのいけにえ(レビ記5:14-6:7):右クリックで保存
レビ記5章14節から6章7節までの箇所は、愆祭(けんさい)、すなわち、罪過のためのいけにえについての規定が記されている。
この愆祭(アーシャーム、英:trespass offering 罪過のいけにえ)は、罪祭(カッタース、英:sin offering 罪のためのいけにえ)と同じように、罪を犯した時に捧げなくてはならないいけにえであり、罪祭と愆祭のおしえは一つである(レビ記7:7)
罪祭に比べ特徴的な事は、愆祭には損害賠償の性質がある事、また、通常のいけにえにプラスして、さらに、五分の一を加える事である。
『「もし人が不正をなし、あやまって主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルに当る雄羊の全きものを、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。』(レビ記5:15-16)
ここでは、主に対して、罪だと知らずに犯した犯した不実に対する償いが規定されており、その場合、傷のない雄羊を捧げ、また、「聖なる物について犯した罪のために償い」として、その五分の一を加え、主に賠償しなくてはならない。
そうするならば、その人は赦される。
6章1-7節では、罪だと知りながらに罪を犯した場合が記されている。
『もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、すなわち預かり物、手にした質草、またはかすめた物について、その隣人を欺き、あるいはその隣人をしえたげ、あるいは落し物を拾い、それについて欺き、偽って誓うなど、すべて人がそれをなして罪となることの一つについて、罪を犯し、とがを得たならば、彼はそのかすめた物、しえたげて取った物、預かった物、拾った落し物、または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。
すなわち残りなく償い、更にその五分の一をこれに加え、彼が愆祭をささげる日に、これをその元の持ち主に渡さなければならない。』(レビ記6:2-5)
ここでは「もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、、、」という言葉で始まるが、その具体的な内訳を見ると、主に対しての不正というより、誰か人間に対して意図的に損害を与えているような内容である。
ここから分かることは、悪意をもって人の物をかすめたり、欺いたり、しいたげたりする事は、人に対してというより、主に対する不正だ、という事である。
アナニヤとサッピラの夫婦は、共謀して捧げものの代金を偽ったが、ペテロはそれを「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言った。(使徒5:1-4)
意図的に主のものをかすめる事は、人や教会に損害を与えたようで、実は、主に損害を与える事なのだ。
人のものを意図的にかすめるなどして主に不正をなした場合、そのかすめたものの全部、プラス、その五分の一を、罪過のためのいけにえを捧げる日に返さなくてはならない。
このように、人のものをかすめたり盗んだりするのは、損をする事、さらに財産を減らす事である。
愆祭のいけにえは、いずれも、傷のない雄羊一頭である。これはイエス・キリストをあらわしており、キリストこそ、まことの罪過のいけにえである。
私達は主に対し、莫大な借金を抱えているようなものだったが、主は赦して下さった。(マタイ18:23-35)
だから私達も、赦された者として、キリストにあって互いに赦しあうべきである。
礼拝説教メッセージ音声:必ずしなくてはならない罪の贖い(レビ記5:1-13):右クリックで保存
レビ記5章の1節から13節までは、罪祭の補足規定が記されている。
主は、人が犯す罪については、富んでいる人であっても、貧しい人であっても、徹底的に取り扱うべき事を示している。
羊を買う余裕の無い者に対しては、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を捧げるように、それさえ買えない人には、十分の一エパ(2.3リットル)の小麦粉を罪のためのいけにえとして捧げるよう定めている。
1節から4節までの所には、具体的な罪の事例が記されており、例えば、正しく証言しなくてはならない場面において、敢えて「言わない」事によって罪を犯した場合(1節)、また、気づいていても気付いていなくても、死体や人の汚れに触れる事によって、罪を犯した場合(2-3節)、また、軽々しくくちびるを用いて誓った場合(4節)など。
そのように、主から「してはならぬ」と言われている事の一つでもを犯した場合、自分自身の口で、その罪を告白しなくてはならず、それから、やぎでも羊でも、雌一頭を罪祭として捧げる事が命じられている。
人が死体に触れるたびに、あるいは、軽々しく誓いを立てた度に、主の御前に一つのいのちが捧げられ死ななければならないとしたら、いったい人は、一生の間、どれほどの命を身代わりの犠牲にしなくてはならないのだろうか。
それは守れる人はいないのではないかと思えるくらい、罪ある人間には厳しすぎる。
ある人は、解釈する。
この律法を守れる人は、ひとりもいない、だから罪の犠牲は必要なく、その代わりに主は、人が精一杯がんばって、なるべき清く、正しく生きる事を願っておられるのだ、と。
そうではない。人は罪を犯したら、確かに、犠牲の血をもって償いをしなくてはならず、そこには旧約も新約も、ユダヤ人もギリシヤ人も、富めるも貧しきも、変わりはない。
では人は一体、何によって罪から救われるのか。
動物の血によっては、人の罪を取り除くことは出来ず、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのみである。(ローマ3:20、ヘブル10:1-11)
『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。』(ローマ3:21-25)
『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。・・・これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。』(ヘブル10:14,18-19)
今や、私達の罪のために捧げられた、唯一完全なる犠牲、それは、イエス・キリストである。