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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
法則のカウンターパンチ(エステル8:9-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つまづかないよう守って下さる方(ユダの手紙22-25):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 民の指導者や一般人の場合(レビ記4:22-35):右クリックで保存
今回の箇所は、人々の上に立つ人、あるいは、一般の人々が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方である。
それは、祭司やイスラエルの人々全体が罪を犯した場合の捧げ方とは、若干異なる。
上に立つ人が罪を犯した場合、捧げられる動物は、傷のない雄やぎ(レビ記4:22-26)で、一般の人々の場合は、傷のない雌やぎ、あるいは雌羊とされている。(レビ記4:27-35)
今回の場合も、祭司や民衆全体が罪を犯した場合と同様、罪の身代わりとしてほふられる動物の頭の上に手を置いて罪を転嫁する点では同じだが、今回の場合、祭司が血を指につけて塗るのは、聖所にある香壇にではなく、外庭の出入り口の所にある、全焼のいけにえを焼く祭壇に、である。
祭司や民全体が罪を犯した場合は、聖所の中の香壇に血潮を塗るが、それは、最も聖なる至聖所の手前に置かれている。それ程、祭司や民全体が罪を犯した場合の深刻度は高く、主の御近くで罪を贖う必要があるが、一般人の罪のためのいけにえは、祭司の場合に比べて、より一般的、より日常に近いものとなっている。
全焼のいけにえを焼く祭壇は、主の大庭に入ると真っ先に目にするものである。
この、幕屋における祭壇の位置は、私達が主の御前に出る時には、主への捧げものを真っ先にすべきであり、罪の赦しを真っ先に得るべき事を、示している。
私達も、主に捧げたり、罪の赦しを祈る事は、日常的に、そして真っ先にすべきである。
罪のためのいけにえを捧げなくてはならなくなるきっかけは、「主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら」であり、民の指導者の場合も、一般人の場合も、全く同じ記述がなされている。(レビ記4:22-23、27-28)
自分たちが罪を犯した、という自覚が、たとい無くても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは主の御前に罪であり、それが明らかになったのであれば、それを正しく対処しなくてはならない。
その時は、指導者でも、一般人でも、それぞれに見合った「犠牲」を捧げなくてはならず、そして、罪の代価を支払うには、必ず、血が流されなくてはならない。
自分が育ててきた、傷のない動物を捧げる事、それは、心に痛みを伴うものだが、罪を贖うには、心の痛みが伴わなければならない。
イエス・キリストこそ、全ての人のために捧げられた、まことの罪祭のいけにえであるが、もし私達が、神の尊い御子キリストが苦しまれ、痛まれ、叫ばれ、神と人とに捨てられた事について、何の心の痛みも覚えないとしたら、それは問題である。
私達に罪が示されたなら、真っ先にそれを悔い改め、イエスの血潮で清めていただき、いち早く「罪あり」の状態から脱却し、サタンから訴えられる口実を、そして、神と隔てがある状態からいち早く脱出する皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:罪が明らかとされたなら(レビ記4:13-21):右クリックで保存
今回の箇所は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方で、前回の祭司が罪を犯した場合でのやり方と、ほぼ一緒である。
『もしイスラエルの全会衆があやまちを犯し、そのことが会衆の目に隠れていても、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをなして、とがを得たならば、その犯した罪が現れた時、会衆は雄の子牛を罪祭としてささげなければならない。』(レビ記4:13-14)
会衆が罪を犯した場合、その代表者である長老が主の御前に出て、犠牲の子牛の頭に手を置き、罪をその子牛に転嫁して、その子牛は主の前でほふられる。
祭司は、その血潮を携えて聖所に入り、指をその血に浸して、至聖所と聖所を仕切る幕の前で、主の前に七たび注がける。
また、その血を取って、聖所にある香壇の角にそれを塗り、血の残りは、ことごとく会見の幕屋の入口にある、全焼のいけにえを捧げる祭壇の土台に注がれる。(レビ記4:15-18)
捧げられる牛の脂肪の部分は、和解のいけにえのように、祭壇の上で焼かなければならず、このように、祭司が彼らのためにあがないをするならば、彼らの罪は、赦される。そして、その残りの肉は、宿営の外の灰捨場で焼き捨てられる。(レビ記4:19-21)
この残りの部分は、神に捧げたり、食べたりしてはならない。なぜなら、この牛は罪を負ったからである。
外に出されて捨てられる罪祭のいけにえは、イエス・キリストを意味している。
キリストも、都の外に出され、そこで十字架につけられ、神と人とから捨て去られた。
『わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。』(ヘブル13:10-13)
全会衆の犯した罪が人々の目に隠れていて、自分たちが罪を犯したという事に気付いていなくても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは罪であり、それが明らかになったのであれば、罪祭のいけにえを捧げる事が、定められている。
罪の意識が無いのに、それは罪だ、悔い改めよ、と言われても、良心が麻痺していて実感が沸かず、悔い改める気がさらさら無い人もいるが、自分が罪を犯したかどうかという判定は、御言葉の光によって罪が照らしだされてのみ知ることが出来、そして、自分が犯した罪を悔やみ、恥ずかしく思う気持ちなどは、聖霊の働きによって示される。
私達の内にある罪が明らかとされたなら、私達は、真正面からその罪に向き合って、対処しなくてはならない。
罪責感、それは、時間と共に薄れるものではなく、むしろ、対処しなければ、しない分だけ増し加わって行くものである。
なぜなら、罪がある状態では、神との隔てがそのまま残る状態であり、サタンに訴えられる口実をそのまま持ち続けるからである。
ある人が、イエス様を信じる前までは罪の認識が無かったのに、イエス様を信じた時、犯して来た罪の数々を示され、昔犯した罪も思い出すようになった事を、証していた。
その人は、戦後の食糧難の時、人の家で煮立っている食事を鍋ごと盗み、自分一人で食べた事を思い出し、主の御前に出る度に、その事がいつも心に残りとなり、ついには、いても立ってもいられなくなって、何十年も前の記憶を辿って東京のその家の場所へ行ったそうである。
そして、その家の門を叩き、出てきたその人に謝って、赦してもらい、とてもすっきりして帰って来たそうである。
彼のように、謝るべき相手が生きていれば、謝ったり償ったりする事は出来るが、しかし、もはやどうしようもないような場合もある。
そのような場合こそ、主の御前に出て、身代わりの犠牲となって下さった、イエス・キリストの血潮によって、扱うべきである。
「すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)
礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 罪のためのいけにえ(レビ記4:1-17):右クリックで保存
レビ記4章は、罪祭、すなわち、罪のためのいけにえについての規定が記されている。
1-3章のそれぞれのいけにえは、自分から進んで捧げる任意の捧げ物であったが、罪祭は、罪を犯した人が捧げなければならない義務的なものである。
この章は、3-12節では、油そそがれた祭司が罪を犯した場合について、13節以降は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合について、22節以降は、上に立つ者が罪を犯した場合について、27節以降は、一般人が罪を犯した場合について、それぞれ罪祭の捧げ方が記されている。
それぞれ、いけにえの動物に若干の違いはあるが、いずれも、人の罪を身代わりとなって引き受け、殺されるいけにえであり、これは、完全な罪祭のいけにえであるイエス・キリストを予表している。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)
この、罪祭による動物のいけにえは、人の罪を完全に清め去ることは出来ない。もし出来たのであれば、一度清められたなら再び捧げる必要はないが、実際はそうではなく、むしろ、捧げるごとに罪が思い出されるものである。「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(ヘブル10:1-4)
『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、/『神よ、わたしにつき、/巻物の書物に書いてあるとおり、/見よ、御旨を行うためにまいりました』」。』(ヘブル10:5-7)
ここで記されているのは、詩篇40篇からの引用で、この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。
耳で聞く事は、からだと同等に大切である。
私達は肉体を持った人間である以上、罪を犯す事は免れない。そこで、私達が罪赦されるのは、いけにえによるのではなく、罪のからだがキリストにあって清められ、新しくされる事によってであり、そして、からだが贖われるには、イエスキリストを信じる信仰によって、そして、信仰は耳を用いて聞く事から始まる。
聞く事、そして、従う事は、どんないけにえよりも大切である。
『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
それ程、耳は重要であり、耳で御言葉を聞き、従う事こそ、主が喜ばれるいけにえなのだ。
『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。』(ヘブル10:8-10)
祭司は、日ごとに同じようないけにえをささげるが、それらは、決して罪を除き去ることはできない。しかし、キリストは多くの罪のために、一つの、永遠のいけにえをささげた後、神の右に座された。彼は、自らの体を捧げられた事によって、私達を、清められた者として、永遠に全うされたのである。(ヘブル10:11-14)
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19-21)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
迫害者に囲まれつつ失わない大胆さ(使徒4章):右クリックで保存
圧倒的で繊細な主のご性質(ヨハネ21:1-14)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
復活のイエス様から「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられ、主の権威が与えられ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われていた弟子たちだったが、彼らがそのうちやり始めたのは、イエス様と出会う前にしていた世の仕事、「漁」であった。
復活後のイエス様の現れは、弟子たちと寝食を共に過ごした三年半のような現れ方ではなく、しばらく姿を現さなかったり、突然現れたり、突然見えなくなったりと、常人ならぬ現れ方だった。
イエス様から「わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたものの、その後何をして良いのか分からず、するべき事も見えず、間がもたなくて、以前していた「漁」をしに戻ったのかもしれない。
皆さんも、イエス様があたかも遠くにいるように感じて、世の手段に戻ってしまう事は無いだろうか。
彼らは漁に出たが、その初日、夜通し働いたのに、何も獲れなかった。
春から初夏にかけての夜が肌寒い時期、水に濡れつつ、一晩中網を打っても一匹も取れない状況である。
イエス様はこれからどう関わって下さるのか、分からないため、以前の職業だった漁師に久しぶりに戻ったというのに、魚は一匹も取れない。この夜の寒さと、疲れと、落胆と、心細さは、いか程だっただろう。
そんな夜が明け染めた時、岸辺に人影が見え、彼はこう言った。「子たちよ、何か食べるものがあるか」
この「何か食べるもの(プロスファギオン)」とは、パンに添えて食べるおかずのようなもので、この声の主は、パンだけ食べるには口が寂しいのだろう、それはあるか?と声をかけ、弟子達は「ありません」と答えた。
声の主は、「舟の右の方に網をおろして見なさい。」と言ったが、もし弟子たちが頑なな心だったら、「俺たちの苦労を知らないで素人が何を!」と怒ったであろう。しかし、弟子たちは、この誰とも知れぬ人の言葉の通り、舟の右の方に網をおろした所、網もやぶれんばかりの多くの魚がかかった。
ヨハネは、自分の「働き人」としての原点を思い出し、その声の主は「主イエス」だと気付いた。
彼らが漁に出たのは、単にパンに添えるおかずを手に入れたかっただけだったのかもしれないし、あるいは、本格的に世の仕事に戻ろうとしていたのかもしれない。
それは分からないが、いずれであっても、彼らが御声に従って引き揚げたのは、153匹の大きな魚という圧倒的な結果であり、それでも網は破けず、船も沈まなかった。
人はパンだけで生きるのではなく、主の御口から語られる一つ一つの言葉による、とあるが、私達は、主の御口から出てくる「言葉」に従ってこそ、地の産物を得、魚の収穫を得、世の仕事の成功を得るのである。
私たちが世に出て働く時、いかに何年も働いてきた職であったとしても、一晩中働いて頑張っても、何も取れない事がある。それは、人のプロフェッショナリティや寝ずの働きではどうにもならない。
その時は初心に返り、主の御言葉に聞き従い、怒らず恐れず、ただその通り行えば、物事は成るのである。
弟子たちのミニストリーの原点は、彼らがイエス様と出会う前の漁師をしていた時、イエス様のお言葉通りに実行したら、それまでの自分の経験や努力をあざ笑うかのような大漁を得た事と、「あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」というイエス様の言葉であった。
イエス様は、彼らに原点を思い起こさせ、主のご性質を思い起こさせて下さっただけでなく、必要な糧も同時に与えて下さったが、私たちにも、同じように現れて下さるのである。
イエス様は、確かに生きて働いておられる。目で見えなくても、手で触れなくても、たしかに私たちと共におられ、食べるものがない状況と奮闘している様を見て、そっと傍に立り、為すべき事を指示して下さる。
主のご性質は、人の経験や努力を遥かに越えた力を、一見それとは分からぬほど繊細に、静かに示され、
人間の力で寒い中、夜通し努力奮闘しても、何も取れなかった私達を、大漁で溢れさせ、しかも、陸地で暖かい炭火をおこし、石の上でパンと魚を焼いて、こおばしく温かい食事をもって、迎えて下さる。
しかも、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と、主のアドバイスに従って獲る事が出来た魚を用い、焼かれる。主のこの一連の振る舞い、その優雅なご性質は、どんなに心がほぐれる事だろう!
このように、温かいおもてなしによって、心を開かせ、生活の必要を圧倒的に満たし、その上で、福音の仕事への整えを、物質的にも、霊的にも、豊かに整えて下さるのが、私達の主である。
礼拝説教メッセージ音声:酬恩祭 - 和解のいけにえ(レビ記3:1-17):右クリックで保存
『もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。』(レビ3:1)
和解のいけにえ、すなわち酬恩祭は、捧げる人がその手をいけにえの頭に置く事や、いけにえをほふった血を祭壇の周りに注ぐ事、解体して火で焼く点では、全焼のいけにえと同じだが、ささげる動物は雄でも雌でも良い、とうい点で、全焼のいけにえと違う。
私達はキリストにあって神と和解した故、その救いには、男女の違いや、人種の違いなどは無いのである。キリストにあって皆、ひとつである。
『キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。』(ガラテヤ3:27-29)
もう一点、全焼のいけにえと違うのは、全焼のいけにえはからだの全てを火で焼いて捧げるのに対し、和解のいけにえは、内蔵や脂肪のみを焼いて主に捧げ、胸や足などの肉は、捧げた人や祭司が食することが出来る。(レビ記7:11-34)
つまり、和解のいけにえに関しては、神と人と、祭司とが、同じ一つのからだを食す事になる。
これはまさしく、キリストを意味している。
『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。』(エペソ2:13-19)
キリストこそ、唯一、神と人との仲保者であり、まことの大祭司である。
私達キリスト者も、聖餐において、キリストのこの裂かれた肉であるパンと、キリストの流された血潮である杯に与る事によって、キリストと一つとされ、神と和解するのである。
『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。』(1コリント11:23-25)
和解のいけにえは、汚れた人が食べてはならない、と定められている。
主と和解したいという意思があり、それに相応しく身を清め、主に対してそれなりの敬意を払う者のみが、食することが出来るのである。
『もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。また人がもしすべて汚れたもの、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた獣、あるいは汚れた這うものに触れながら、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。』(レビ記7:20-21)
同じように、聖餐のパンと杯でも同じ事が言える。
『だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。』(1コリント11:27-29)
ここで「ふさわしくない」とは、罪を犯す・犯さないの問題ではなく、キリストを「記念し」「覚え」、みからだを「わきまえ」るかどうかである。
もし罪を犯した者は聖餐にあずかれないとするなら、人間は誰も聖餐にあずかれない。
ただ、私達の罪の身代わりとなり、和解のいけにえとなって下さったキリストを覚え、キリストを記念し、罪赦された事をわきまえる者こそ、聖餐にあずかれるのである。
礼拝説教メッセージ音声:礼拝とパン種(レビ記2:11-16):右クリックで保存
『あなたがたが主にささげる素祭は、すべて種を入れて作ってはならない。パン種も蜜も、すべて主にささげる火祭として焼いてはならないからである。ただし、初穂の供え物としては、これらを主にささげることができる。しかし香ばしいかおりとして祭壇にささげてはならない。あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。』(レビ記2:11-13)
パン種は、パン生地に入ると発酵してふくらみ、食べやすくなるが、すぐに酸っぱくなって腐ってしまう。
このパン種は、主に火で焼いて捧げる「素祭」の供え物としては捧げてはならないと命じられているが、「初穂」の供え物は逆に、種を入れたパンを捧げなくてはならないと命じられている。
『また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に「種を入れて」焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。』(レビ記23:15-17)
パン種は、聖書ではあまり良い意味で用いられていない。例えば、純粋な「御言葉」に、不純な「人間の教え」が混ぜ込まれると、全体が不純に膨れてしまう事のたとえとして用いられたり、純粋な「交わり」の中に、サタンに属する「にせ兄弟姉妹」「にせ預言者」「にせ教師」が入り込み、交わり全体を不純に膨らませてしまう様を意味したりする。
このパン種が、七週の祭りに用いられるのは、どういう事だろうか。
この「七週の祭り」は、新約におけるペンテコステの日であり、多くのキリスト者達が、公に、目に見える形で聖霊が注がれ、初代教会の初穂として、主に捧げられた。
この日は、聖徒の「集団」が主に捧げられた日であるが、「集団」の中にはどうしてもパン種が入り込んでしまうものである。
事実、初代教会の中にも、偽信徒や偽預言者、偽教師達が入り込み、パウロもヨハネもペテロもユダも、皆、そのような「パン種」に気をつけるよう、注意の手紙を書いている。
私たちは、人の集団の中からよりも、パン種の入っていない純粋な御言葉にこそ養われるべきであり、純粋な礼拝を捧げるべきである。
もう一つ、パン種が入る捧げ物のケースは、酬恩祭(和解のためのいけにえ)においてである。
『また「種を入れた」パンの菓子をその感謝のための酬恩祭の犠牲に合わせ、供え物としてささげなければならない。すなわちこのすべての供え物のうちから、菓子一つずつを取って主にささげなければならない。これは酬恩祭の血を注ぎかける祭司に帰する。』(レビ記7:13-14)
和解のためのいけにえは、神と人との関係の和解を祝い、いけにえの脂肪を焼きつくして神に捧げた後、残りの肉を、祭司と奉献者が食べ、神と人との平和を喜び、味わうものである。
このように、神と自分との間に「人が関わる」祭りには、パン種が入る。
神と人との間に立って、御言葉を解き明かすメッセンジャーも、御言葉を噛みやすく、食しやすくする為に、例話を用いたり、面白く工夫したりするものであり、多少のパン種や蜜が入り込むものである。
確かに信仰において赤ちゃんである初心の者には、そういう事も必要であるが、いつまでもそうであっては、困りものである。
私たちは成長するためには、パン種の入っていない御言葉によってこそ養われるべきである。
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』(ヘブル5:12-14)
そして、私達の交わりからも、努めてパン種を取り除くべきである。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
教会の人間関係のトラブルは、大抵、不純なパン種を取り扱わない故に発酵し、膨らんだものである。
何でもかんでも愛で包んだり、なんでもかんでも赦したり、そうした甘ったるいだけの、蜜だけを混ぜ尽くしたような交わりは、腐る一方的であり、時には、責め、教え、訓戒する、という「塩気」も必要である。
時には甘さも必要だが、私達はむしろ、塩気によって互いに和合すべきである。
『人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。』(マルコ9:49-50)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰を用いて理不尽な法に勝つ(エステル記8:1-8):右クリックで保存
【概要】
本日のメッセージは、エステル記8章1節から8節の御言葉を通して、神の御計画の中で信仰と勇気がどのように働くかを学ぶものです。私たちはまた、信仰により罪と死の呪いに対抗できる力が与えられていることを確信します。
【聖書箇所】
・エステル8:1-8
・ヘブル11:1
・マタイ16:15-19
【慰めの言葉】
私たちが絶望の淵にあっても、神は必ず救いの道をお示しくださいます。どんな取り消しの効かぬ罪の法則の中にも、イエス・キリストという救いのカウンター法令が確かに働いています。
【励ましの言葉】
エステルが自らのためだけでなく民族のために勇気ある一歩を踏み出したように、私たちも日々の信仰において立ち上がり、神の与えられた権威を信じ、行動すべきです。神はあなたに天の御国の鍵をお与えになっておられます。
【戒めの言葉】
一度発せられた罪の法則は取り消しができないと聖書は教えています。しかし、私たちが何も行動せず、ただ流されるならば、罪の罠に陥ってしまいます。今一度、心を引き締め、信仰の権利証書に正しく記された御言葉に従うよう戒めます。
【勧めの言葉】
神が私たちに与えてくださった貴重な信仰の実印を、惜しみなく用いてください。王がエステルに指輪を託し、自由に法令を書き換えるよう命じたように、私たちもイエス・キリストの御名にあって、罪と死の呪いに対抗する権威を積極的に宣言し、実践しましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
もしも今、信仰を働かせることなく日々を過ごしているなら、自らの心を省みてください。罪に満ちた古い自分を悔い改め、救いと祝福に満ちた新しい霊の法則に立ち返る時です。悔い改めを通して、神の恵みと救いの計画に再び立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日の御言葉は、まずエステル記8章1節から8節に見るように、**「エステル8:1-8」**の中で、アハシュシュ王が王妃エステルを通してユダヤ人に対する迫害を企んだ者たちの法令を取り消すため、王の指輪と実印を授けられた出来事に端を発します。エステルは自らの危険を顧みず、愛する民族のために立ち上がり、悩み苦しむ民の声を代弁しました。神の御心が働かれるその瞬間、エステルの深い信仰と決意が、取り消すことのできない法令に対して、対抗法令を授ける王の権威と結びつけられたのです。
この出来事において、王の指輪――すなわち実印が持つ権威は、私たちにとって大きな象徴です。聖書は「エステル8:8」において、王の指輪で印を押された文書は「誰も取り消すことができない」と強調しています。これは、私たちが何かあるべき姿、すなわち神の祝福や救いに関して、信仰によって確固たる権利証書を得るという確信に重ね合わせることができます。罪と死の法則は、人間の力では取り消すことのできない厳然たる現実ですが、天の父なる神は、イエス・キリストを通してその呪いに対抗するためのカウンター法令を与えてくださいました。
そして、筆者はここで、信仰とは「望んでいる事柄の権利証書」とも言えると説いています。これは、**「ヘブル11:1」**の御言葉にあるように、「信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。私たちの信仰は、まさにこの保証、あるいは権利証書として、天においても地上においても有効なものです。もし、信仰を働かせ、神が与えてくださった実印――すなわちイエス・キリストの救いの権威――を用いるならば、どんな困難な状況であっても、神の救いの計画に基づく祝福を宣言し、罪と死に対して立ち向かうことができるのです。
また、イエス・キリストが語られた**「マタイ16:15-19」**の御言葉において、「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てる」と語られたことは、私たち一人ひとりが信仰告白の上に立ち、またその信仰の告白を通して、天の御国への鍵を授かっていることを象徴しています。イエスは、ペテロに天の御国の鍵を託し、地上で「つなぐ」もしくは「解く」権威を与えました。これは、私たちにも同様に、信仰の宣言をもって、呪いに対抗し、祝福を宣言する特権が与えられていることを示しているのです。
エステル記のこの物語は、ただ歴史上の出来事として語られるのではなく、現代に生きる私たちに対しても深いメッセージを投げかけています。今の時代、私たちは日々の生活の中で、身体的な病や試練、経済的な困難、または精神的な葛藤にさらされることが多々あります。しかし、これらの状況は決して偶然のものではなく、罪の法則が働く現実の反映です。しかし、同時に、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神の御国の権威に参与しているのです。
信仰を働かせるということは、自らの意思で神の与えてくださった権威の実印―つまり、霊的な証書―に記された約束を宣言することです。たとえば、私たちが何か問題に直面した時、「この病はイエス・キリストが追い払ってくださった」と信じ、宣言するならば、その信仰は確固たる権利証書となり、天の御国においても実態を伴った祝福として現れるのです。エステルが自らの民族を救うために立ち上がったように、私たちも信仰をもって困難に打ち勝つ、あるいは神の祝福を引き寄せる力が与えられているのだという確信を新たにしましょう。
また、ここで気をつけるべきは、神が与えてくださった実印をただ所有するだけではなく、それを積極的に活用することの大切さです。もし、モルデカイが王から授かった実印を用いなかったなら、ユダヤ人の危機は免れなかったでしょう。これは、私たち自身も同様に、神の権威に預かりながら日常の中で信仰を宣言し、実践しないならば、罪の中に沈んでしまう危険性を示しています。したがって、私たちは決して受動的な信仰者に留まらず、積極的に神の御言葉に従い、日々の生活の中でその権威を発揮する努力を怠ってはならないのです。
このように、エステル記、ヘブルの御言葉、そしてイエスが語られた御言葉は、私たちに「信仰を働かせよ」という強いメッセージを送っています。信仰は、ただの心の状態ではなく、積極的な力の働きであり、宣言すれば現実になる霊的な権利証書なのです。私たちがイエス・キリストを信じ、その救いの福音に立脚するならば、どのような取り消しのできぬ呪いの法則にも対抗でき、むしろ神の恵みと祝福が確固たる形で現れるのです。
どうか、皆さんもこの日のお言葉を胸に刻み、生命に満ちた信仰の歩みを日々実践してください。受動的な存在ではなく、エステルやペテロ、そしてモルデカイのように、神の定められた役割と権威を喜んで担い、どんな困難にも立ち向かう勇気ある信仰者となることを切に願います。天の御国の鍵があなたの手にあることを思い出し、言葉と行いによってその偉大な権威を現す日々となりますように。
【結論】
私たちの信仰は、エステルの勇気やペテロの告白に象徴されるように、天の御国への確かな権利証書です。日々の生活の中で、イエス・キリストの御名による権威と実印を積極的に働かせ、罪と死の呪いに対抗する信仰の宣言を実践していきましょう。愛する主イエスの御名によって、私たちは必ず勝利し、永遠の祝福に満たされるのです。