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第一礼拝説教「二人の王のどちらを選ぶか(1テモテ6:3-11)」礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝説教「ロトの道(創世記13-19章)」:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

アブラムがケドルラオメルとその味方の王達を撃ち破って帰って来た時、二人の王が彼を出迎えた。
その一人は、ソドムの王。ソドムの町は主の園のように、エジプトのように潤っていたが、よこしまな者達や、主の前にはなはだ罪深い者達で満ちていた。(創世記13章) ソドムの王はアブラムに、ソドム由来の全ての富は全てアブラムのものとし、ソドムの人は自分の所へ返して欲しい、と申し出て来た。
もう一人、アブラムの前に進み出て来た王は、シャレム(平和)の王・メルキゼデクで、彼はいと高き神の祭司、義の王であり、パンとぶどう酒を持ってアブラムを迎えた。
前回見た通り、アブラムはメルキゼデクからパンとぶどう酒を受けたがソドムの持ち物は一切受けなかった。
皆さんは、ソドムの潤った産物や財宝と、神の祭司のパンとぶどう酒、受け取るとしたら、どちらだろうか。

メルキゼデクこそイエスキリストであり、この神の大祭司が持ってくるパンとぶどう酒は、実に尊いものである。
主イエスは渡される夜、パンを裂き「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」と言われたように(1コリ11:23)、パンは、人類全ての身代わりとなるために裂かれたキリストのからだであり、救いの衣である。
また、ぶどう酒は、「この杯はわたしの血による新しい契約です。」(1コリ11:25)と言われたように、主が流された尊い血潮、すなわち、死と呪いが過ぎ去る契約の印であり、命の買い戻しにおいて通用する唯一の通貨であり、そしてこの血は、神に対しては弁護を、サタンに対しては断罪を叫ぶものである。
世の栄華や富は、このキリストのからだと血に比べうるものでは決してない。私達は何かと、「祝福」イコール「富」と勘違いしやすいものだが、祝福の源なる主を捨てて富を第一にしてしまうと、どうなってしまうか。

『富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。』(1テモテ6:9-10)
アブラムの甥のロトは、この富の罠に陥り、苦痛によって刺し貫かれてしまった。
ロトは、祝福の源であるアブラムについて行った故に、はじめは祝福されたが、エジプトで富を得、世的な楽しみを覚え、そこで得た富と経験が、後に苦い根を残す事となった。
アブラムとロトは、持ち物が増えると、しもべ達の間に争いが起きるようになり、ロトはアブラムから別れるよう促された時、祝福の家であるアブラムの家と共生する事より、多くの富の「オーナー」である事を選んだ。
主に祝福された家で共生する事を捨て、自我という城のオーナーになりたい者は、ロトの道を歩んでいる。
ロトは神に約束された地カナンを選ばず、多少神に喜ばれない人達が住んでいようとも、エジプトのように潤ったソドムを選んだ結果、捕虜となり、命の危険に遭ったにもかかわらず、それでもソドムに留まる事を選び、最終的には、妻も全財産も失い、娘二人と身一つで、命からがら逃げるはめとなった。
ルツ記に登場するエリメレクも、神の約束された土地に留まる事をせず、安易に食べ物を求めてモアブの野に出て行き、彼はそこで二人の息子ともども命を落とすはめになってしまった。
主・不在の富を追い求める者は、苦痛によって刺し貫かれ、滅びと破壊に沈んでしまうのである。

ソドムの富を跳ね除け、メルキゼデクからパンとぶどう酒をいただき、いと高き神の祭司から祝福を受けたアブラムは、さらに大きな祝福の約束が与えられ、その後の歩みは、栄光と富に満ちたものだった。
彼は後にアブラハムという新しい名が与えられ、王族が生まれ、メシヤが生まれ、全て信仰者の父となった。
ロトは、アブラムと財産を共にして生きる事を選ばず、自分がオーナーである事を握り、ソドムに身売りしてしまった結果、全てを失い、かろうじて近親相姦の子孫を残す事となったが、ロトの子孫ルツは、ナオミから離れていくよう勧められても頑として離れず、ナオミについて行く事に何のメリットも無いのに、「あなたの神は私の神、あなたの民は私の民」と信仰告白し、ナオミの神に頼ってついて行った結果、後には有力者ボアズの妻として迎えられ、その子孫からは王族が生まれ、さらにはメシヤが生まれるに至った。
皆さんは、神と富の二つの王が来た時、どちらを選ぶだろうか。
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ダビデとゴリアテ(1サムエル17章):右クリックで保存
ダビデとゴリアテ(続き):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第八戒〜第十戒(出エジプト記20:15-17):右クリックで保存

第八戒は『あなたは盗んではならない。』(出エジプト記20:15)である。
盗むとは、他人の領域を侵犯し、他人の所有物を勝手に自分のものとする事だが、これはサタンの性質である。
サタンは、自分のおるべき所をよしとせず、神の領域とすべき栄光の座を侵入して来た。

『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ6節)
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
このように、自分のおるべき領分を守らず、侵犯し、他人のものを奪うサタンのような者を、主はさばき、地の底へと落とす。

第九戒は『あなたは隣人について、偽証してはならない。』(出エジプト記20:16)である。
「隣人に」とあるが、それでは隣人ではない人には偽証しても罪にならないのだろうか?
答えは否である。神は真実な御方であり、神の性質には「偽り」というものはない。偽りは、悪魔の性質であり、悪魔の性質は私達の内から滅ぼされるべきものだ。

『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
ここは「人が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら、彼の父もまたうそつきだからです」とも訳せる。

悪魔の欲望は殺す事であり、偽りがその本性である。
私達は誰に対しても、サタンの性質である「偽り」に染まってはならない。
神は、善人にも悪人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さる真実な御方であるように、神の子とされた私達も、全ての人に対して真実であるべきである。

第十戒は『あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。』(出エジプト記20:17)である。
「むさぼり」のヘブライ語「カゥマド」は、欲しがる、好ましく思う、あこがれる等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は大抵の国にあるだうが、隣人のものを欲しがったりあこがれたりしてはならない、という法律は、かなり珍しいだろう。
しかし、この、他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心こそ、自分の身を滅ぼす根源である。

この言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい(カゥマド)と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木を食べて人類に罪と死を導入する背景に、善悪の木を欲しがり、あこがれるという事があったのだ。

この、自分の領域のものではないもの、自分の領域に持ち込んではならぬものを、欲しがったりあこがれたりする心こそ、全ての罪の根源であり、サタンの性質でもある。
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)

十戒における**してはならないという戒めは、サタンの性質に染まらないようにするためである。
私達は、御子イエスの流された血により、神の子とされたのだから、神の子らしく歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第五戒〜第七戒(出エジプト記20:12-14):右クリックで保存

十戒の第四戒までは神との関わりについての戒めだったが、五戒からは、人との関わりについての戒めとなる。

その、人との関係において最も先に来る戒めが『あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。』(出エジプト記20:12)である。
父と母を敬う事。それは、最も根本的で最小単位における「権威」を敬う事である。
この世のあらゆる事は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に正しく服する事をおろそかにしてしまうと、その人は、人間社会においても、自然界においても、あらゆる場面で苦労する事となり、権威に服する事が出来ない人は、あらゆるものと敵対して生きなくてはならない苦しみを負っている。

権威には順序がある。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
親子関係においても忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
権威の第一は主である。両親が主に反する事や御言葉に反する事を命じて来るなら、それには服従すべきでない。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした事以外なら、両親は敬い、服従すべきである。
なぜなら御言葉でも約束している通り、それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

目に見える権威に、それも、最も身近な権威である親にしっかり服従できるならば、目に見えない神との正しい関係を構築しやすくなり、幸いを得るようになるのだ。

第六戒は『あなたは殺してはならない。』(出エジプト記20:13)である。
殺人など凶悪犯罪が小年齢化している昨今、人の命のかけがえがなさ、尊さが薄れてきている状態であるが、聖書を知らない大人たちは、命の尊さをうまく説明できない。
聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。

『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)

人は神の息吹が吹き込まれた神の似姿であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となってもなお神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は、神に愛され、大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。

第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(出エジプト記20:14)である。
姦淫とは、妻や夫など唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事であるが、なぜそれがいけないのか。

『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
夫と妻との関係において、主の御心は、一対一である。

これら三つの戒めは、おるべき立場、立つべき立ち位置が示されている。それが創造の秩序であり、それを守ることが人間にとって最も幸いなのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天国に入るには(ヨハネ3:16-21):右クリックで保存
天国に入るには(続き):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ5:6-12:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第三戒と第四戒(出エジプト記20:7-11):右クリックで保存

『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。』(出エジプト記20:7)

十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
主の御名を乱発し、同時に不誠実な行いも乱発する事によって、主を貶めている人は確かにおり、身勝手に御言葉を引用したり、神の名を振りかざして侵略の口実にしたり、戦争する者さえいるが、彼らは主に背く者、主の諭しを憎み御言葉を捨てている者である。

『神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。
告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)

主の御言葉を片端から唱える人が主に愛されるのではない。サタンでさえ御言葉を引用する。御言葉を口に出す人が主に愛されるのではなく、御言葉を心に留めて行う人こそ主に愛されるのであり、守る気も無いのにみだりに御言葉を連発したり、主への恐れも無いのにみだりに主の御名を連発する者は、主は罰せずにはおかない。

十戒の前三つは「するな」の命令だったが、第四戒は「せよ」という積極的命令である。
『安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記20:8-11)

創造の御業が完成した第七の日(土曜日)が安息日であるが、現代のキリスト者は、主日(週の初めの日、日曜日)を礼拝する日、主を覚える日として守っている。
それは、復活の主イエス様は主日に現れ(ヨハネ20:19-29、黙示録1:10)、初代教会の聖徒たちも主日に集って主を覚え、パンを裂き、祈り、交わりをし、聖徒のもてなしをしていた(使徒20:7、1コリント16:2)ためである。

ここで大切な事は、主が聖とされた日を「覚え」「聖とする」事、すなわち週の一日を主のものとして捧げ、その日は世の事は一切止め、主を覚える事である。
パリサイ人は「仕事をやらない」事を第一に考えたあまり、主の安息を「覚える」という事をないがしろにするという、本末転倒を演じてしまっていたが、私達もパリサイ人のように人間的な考えをこね回したり議論に明け暮れたりする事なく、安息日の主であるキリストを覚える日として、主に自分を捧げる日として、その日を聖別するべきである。
『だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)

主が聖別された日を守る異邦人は、たとい宦官であっても、祝福される。
『安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。イスラエルの追いやられた者を集められる/主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。』(イザヤ56:2-8)

主日を聖別して主を覚え礼拝を守って来た聖徒達がいかに祝福されたか、歴史が証明している。
アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局、多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた人ではなく、主日にしっかり主を覚えて礼拝したクリスチャン達だった。

ただ、パリサイ人のような過ちに陥ってはならない。日曜は意地でも礼拝出席、という事ではなく、一週間の最初の日を初物として主に捧げるという心、主が聖とされた日を覚え、主を聖とし、主を敬う心こそ、大切である。
心から主を敬い、主の聖なる山における交わりに加えられ、主の祈の家のうちで楽しむ皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:十戒 第一戒と第二戒(出エジプト記20:1-6):右クリックで保存

出エジプト20章以降には、主が与える契約の内容が記されており、そして、その最も先に与えられた大切な戒めが、十戒である。
その十戒を与えるにあたり、主ははじめに言われた。
『「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。』(出エジプト記20:2)

皆さんにとって、主はどういう御方だろうか。主は、皆さんに、何をして下さっただろうか?
その質問にすぐに答えられない人は、主から受けた恩を一つ一つ思い起こして、それを確認して感謝すべきである。
主はイスラエルの民に「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と言って、イスラエルにとってどのような御方であるのか、何をして下さったかを、まず明らかにされた。

十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものである。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」

皆さんの生みの母は唯一であるはずで、それ以外の人に「お母さん」と呼ぶとしらた、実の母に対して失礼極まりないのと同じように、神という地位も唯一であり、それ以外を神とするのは、神に対してはなはだ失礼である。
「神」が八百万もあり、神を何かとっかえひっかえ出来るような感覚のある日本人には理解しずらいかもしれないが、「神」と呼ぶべき存在はただ一つであり、そこに別物を入れてはならないのだ。

『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:4)

十戒で二番目に重要な事は、偶像礼拝の禁止である。
このように書かれてある以上、日本人が働いても、知恵を働かせても、お金を豊かに得ても、幸せになれない人が多い事の原因は、この偶像礼拝である事は間違いないだろう。

偶像礼拝とは、神社仏閣などによくある像を拝む事に留まらず、まことの神以外の何かを、より大事にして優先させる事である。
例えば、自分の望む何かを、自分のものに出来ないなら、神様なんか信じない、と言う時は、その自分の望む何かが「神」となっており、偶像礼拝である。

まことの神である主を知り、そのすばらしい御業を体験しておきながら、自分の欲望におびき寄せられ、偶像礼拝に戻ってしまう人の樣子が、エゼキエル書に記されている。

『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。』(エゼキエル書8:5)

ここでは、主を礼拝すべき神殿の出入り口に、主のねたみを引き起こさせる偶像が置かれてあった。
今、キリストにあって、私達が神殿であり(1コリント3:16-17)、私達の心の出入り口に、神のねたみを引き起こさせるものが置かれてある事を、主は忌み嫌われる。

『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。
そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。』(エゼキエル書8:7-11)

ここでは、イスラエルの指導者達が、隠れた暗い所で、主の忌み嫌われるあらゆるものに香を焚いて礼拝している様が露わにされているが、主は、表向きはきれいでも内側があらゆる汚れて満ちている状態、表面を白く塗った墓のような状態を、忌み嫌われる。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。』(エゼキエル書8:12)
このように、主は自分達を見ない、と豪語する事は、主が無力である事を暗に宣言する事であり、主への冒涜である。

『そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。』(エゼキエル書8:14)
ここでは女が偶像の神のために泣いているが、自分の好む事のために泣くことはしても、主のためには心動かされず泣きもしない事は霊的な姦淫である。

『彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。』(エゼキエル書8:16)
太陽は恩恵をもたらすものであるが、それを創られた主には背をそむけ、自分に恩恵をもたらすものに拝する事も、主の忌み嫌われる偶像礼拝である。

十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものであった。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
主を憤らせるのではなく、妬ませるのではなく、主を第一とし、主に愛される私達でありますように!

礼拝説教メッセージ音声:この聖なる主の御前に誰が立てるだろう(出エジプト記19:16-25):右クリックで保存

聖なる主が現れた時の光景は、実に恐ろしいものだった。
『三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。』(出エジプト記19:16)

主は焼きつくす火であり(ヘブル12:26)、かまどの煙のような煙が立ちこめ(創世記15:17)、煙と地響きが伴い(イザヤ6:4)、その御声は雷鳴のよう、ラッパのようである。(黙示録1:10)
主が災いを降される時、雷鳴と声といなずまと地震が起こる。(黙示録4:5)
主の側からの憐れみがなければ、人は誰一人、この聖なる主の御前に立ちおおす事は出来ない。

全山が揺れ動き、煙と雷鳴とラッパの響きの中、主は御声を発してモーセと語られ、モーセは主の御元へと召されたためシナイ山へ登った。

主は言われた。「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。」
モーセは不思議に思ったかもしれない。主は既にそのように戒められていたし、そして、これほどの恐ろしい光景を目の当たりにしたのだから、誰もそんな気は起きないのではないか、と。
しかし、主が語られる事に、無意味は無い。
主がそう語られたからには、民のうちに不遜にも主を見ようと押し破って来ようとする者達が、確かにいたのだ。
それで多くの人が滅びる事にならないようにと、モーセに警告された。

主は、焼きつくす火である。
聖なる主の前に、人が罪あるまま出るなら、飛んで火に入る夏の虫のように、焼き尽くされて死ぬしか無い。
しかし主は、人から罪を取り除くために、御子イエス・キリストを世に送られ、その血潮によって、人が再び大胆に御前に出られるようにして下さったのだ。

『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)

私達はイエス様の血によって、大胆に恵みの御座に就かづく事ができるようになった。
『あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。』(ヘブル12:18)

人は、そのままで主の前に近づけるものではない。
大祭司でさえ血を携えずには聖所に入る事は出来ないように、イエスの流された血が無いままでは、誰も主の御前に立ちえない。
それ故、イエス様が流された尊い血潮は、決して軽んじてはならない。
主イエスは私達を白くきよめるために、血潮を流されたのだ。
主の御前に出る時は、軽がろしく出るのではなく、おそれと畏敬の念を持ち、主の流された血潮によって身を清めて、そうして礼拝すべきである。

信仰による甚だ優れた報酬(創世記15:1-6)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝説教「くちびるを清められよ(エペソ4章)」:右クリックで保存
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この新しい一年を望み見るに、イエス様を主とする信仰者達に、素晴らしい「報酬」が与えられるようにと祈っているが、私達が主から報酬をいただく為に、絶対不可欠なものが、信仰である。
『恐れるな、アブラム。私があなたの盾、はなはだ優れた、あなたの報酬である。』(創世記15:1 KJV直訳)
この言葉は、アブラムに信仰の試練が訪れた時、御言葉に信頼して勝利した時に与えられた言葉である。
ユーフラテス川沿いの四人の王達が集結してカナン周辺諸国を攻めてきた時、ソドムに住んでいたロトは捕らえられ、家財もろとも奪われてしまい、その時、アブラムは信仰が試された。
それ以前、愛する妻サライがパロに召しだされるという試練があった時は、ただ無力に連れて行かれるのを見ているだけだった。一介の老人である自分と、大国の王パロとを見比べてしまったためだ。
しかし今回、彼は自分と相手を見て勘定する事なく、御言葉に信頼したのだ。
彼に与えられていた御言葉は「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」それなら、自分達は祝福されており、この攻めてきた王たちが呪われている、と、信じ、「あなたの子孫を海の砂のように増やす。」からには、自分は決して戦死などせず、生きて、子孫を残す、と信じたのだ。
私達も御言葉が与えられたら、信じて、示されている戦いに出ていくべきである。私達の身内を解放するため、私達の領域を侵略してくる敵に立ち向かうのだ。信じて出て行く聖徒に、主は勝利を与えて下さる。

各国を打ち破り、略奪しながら下って来た王たちは、相当の気勢・軍勢であったろう。
それに対しアブラムはわずか三百十八人のしもべ達を連れて戦って勝利し、多くの分捕りをしたのである。
これは人間業ではあり得ない。主が敵をアブラムの手に渡された(20節)からこそ、勝利したのである。
自分と敵を見るなら、気はくじけ、逃走するか敗北するかしかないが、自分を見ず、与えられている御言葉を信頼し、勝利の主イエスを見続けるなら、私達も、主と共に勝利するのだ。

その時、シャレムの王・メルキゼデクが、パンとぶどう酒とを持って来てアブラムを迎え、祝福し、アブラムは彼に、すべての物の十分の一を贈った。このメルキゼデクは義の王であり、平和の君であり、父もなく母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、命の終わりも無いお方、すなわち、キリストである。(ヘブル7:2-4)
私達も信仰によって進み出て勝利する時、キリストがパンとぶどう酒を持って出迎え、祝福して下さるのだ。
続いてアブラムは、ソドムの王から「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」と持ちかけられるが、彼は、いと高き神主に誓って辞退した。
世の富、ことさら、ソドムの王のような、神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。それは人の名誉をはびこらせ、神の名誉を貶める事になり(23節)、誘惑と分裂をもたらし、苦々しさを増し加えるものとなる。
私達の受けるべき報酬は、罪汚れに染まった王からの富ではなく、キリストから頂くパンとぶどう酒である!

こうして、信仰の試練を見事に克服し、メルキゼデクからの祝福を頂き、ソドムの王の汚れた富を辞退したアブラムに、さらに明確な祝福の約束が与えられた。
『恐れるな、アブラム。私があなたの盾、はなはだ優れた、あなたの報酬である。』(創世記15:1 KJV直訳)
主ご自身こそ私達の報酬であり、身を守る盾である。私達が主を信頼したら、その報酬として莫大な富や地所が手に入るのではない。主ご自身こそ、莫大な富や地所よりはるかに勝る、私達の報酬である。
アブラムはそれを聞いて、心が曇った。自分は歳をとっているのに子が与えられていない。このままでは、家のしもべが家を継いでしまう・・・。そんな彼を、主は外に連れ出して、言われた。
『「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』(創世記15:5-6)
この時、アブラムには子はいなかったが、闇夜に輝く星々を見た時、まだ見ていない祝福を確信した。
暗闇の中に輝く星々。赤い星や青い星。大きな星もあれば小さな星もある。彼の子孫達は、このようである。
キリストにあって私達は、この暗闇の世代の中にあって、キリストのいのちを灯す星として輝いている。
アブラムが空を見上げた時、その星の中に、信仰による子孫である皆さんも見たのではないだろうか。
闇の世にあって光の子として燦然と輝く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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