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礼拝説教メッセージ音声:主の御前で(出エジプト記24:9-18):右クリックで保存
血のそそぎを受けたアロンと長老七十人も、ともに主の御前に出る事ができるようになった。
『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)
イスラエルの神が現れる様は、恐ろしいもので、サファイアの輝きのような主の栄光は、エゼキエル1章や黙示録でも同じ記述がされている。
主の現れを見たイザヤやエゼキエルは恐れ、ダニエルやヨハネは、そのあまりに「聖なる」様に、倒れて死人のようになっている。
しかし、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。
なぜか?
それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、イエスの血によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来たのだ。
それにしても、なぜ御前で「飲み食い」なのか?
血の注ぎを受け、罪赦された人に待っているのは、さばきや恐ろしさではなく、ほふられた動物を共に食す宴会が用意されているのだ。放蕩から帰って来た息子のように。
私達がいただけるごちそうとは、キリストの裂かれたからだである。
『わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。』(1コリント10:16-18)
私達はなにかと、サファイアの輝きのような主の栄光を見たがるものだが、しるしや不思議を見れば良いというものではないし、主の奇跡と祝福が毎日あれば良いというものでもない。
山のふもとで待っていた民は、四十日四十夜、山の上で燃える火のように見える主の臨在をそばで見ていながら、別の神々を作ってしまった。
なぜそんな、有り得ないことをするのか、と思うだろうか。しかし人間の「慣れ」は、怖いものである。
主の祝福が続き、物持ちとなり、安全が続いたダビデも、罪を犯してしまった。
私達は祝福が続いた時こそ、心して、私達の内に潜む怠慢に気をつけるべきである。
『ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。そこでモーセは従者ヨシュアと共に立ちあがり、モーセは神の山に登った。彼は長老たちに言った、「わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい。見よ、アロンとホルとが、あなたがたと共にいるから、事ある者は、だれでも彼らの所へ行きなさい」。』(出エジプト記24:12-14)
ここで主は、律法と戒めを書き記した石の板を授けるために、モーセひとりを山へ呼び出される。
ヨシュアはモーセの従者(「シャーラス」英語でミニスターやアテンドと訳されている)として、いつもモーセのそばで仕えており、彼だけがモーセが山を降りるまで忠実に待っていた。
そして長老たちには、モーセが山で主と会っている不在の間、重要な案件はアロンとフルに持っていくよう託し、こうしてモーセは山に登っていった。
この時、モーセは「いつまで」山に留まるとは言わなかった。それは、主が言わなかったからであり、モーセも知らなかったからだ。
後でわかるが、モーセがあまりに山で手間取るので民は待ちきれなくなり、アロンとフルも、そんな正しく民を導く事はできなかった。
モーセがいつ山を降りてくるかを知っていたなら、おそらく民もアロンも持ちこたえただろう。しかし、人の内に隠れた信仰が明らかとされるために、神は敢えて「いつまで」を言わないものである。
主は必ず、再び来られる。しかし、その日その時はいつになるか、分からない。
不忠実だったイスラエルの民のように、主人の帰りは遅いと思ってどんちゃん騒ぎしたり、酔ったり、おなじ仲間を打ち叩いたりしてはならない。
主がいつ来ても大丈夫なように、忠実なしもべとして霊的に目を覚ましているべきであり、いつでも迎え出られるよう、聖霊の油を常に用意しておくべきなのだ。
『こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。』(出エジプト記24:15-18)
主が現れるまで、モーセは六日感待たされ、民は四十日待たされたわけである。
私達は何かと、今日明日にでもインスタントに導きを欲しがるが、忍耐して待ち望む事が必要なのだ。
それは、私達の内に秘められた信仰がためされ、真実が露わにされるためである。
出エジプトの民はその日その時を待てず身勝手に神々を作り、サウル王も人々からのプレッシャーにその日を待てず、自分勝手な礼拝を捧げてしまった
それに対し、忠実にその時を待ったヨシュアは、約束の地を継ぐ事ができた。
私達に必要な姿勢は、ヨシュアのように、ミニスターとして、アテンドとして仕える姿勢であり、主人の帰りが遅くなっても、いつ来ても大丈夫なように準備して霊的に目をさましている事なのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
兄弟姉妹を憎む者は(オバデヤ書):右クリックで保存
兄弟姉妹を憎む者は(祈り会):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:血潮による契約(出エジプト記24:1-8):右クリックで保存
いよいよ主とイスラエルの民との、契約の調印とも言えるべき箇所である。
はじめに主の御元に近づく事が許されたのは、モーセ一人だけだった。(出エジプト記24:1-2)
主はあまりに聖なるお方であり、人がそのまま御前に出ると死ぬしか無いため、必ず仲介者が必要なのだ。
『モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。』(出エジプト記24:3-5)
民が主の全ての言葉に同意したため、その実体のしるしとして、イスラエルの十二部族に従い十二の柱を建て、主の言葉を文書として書き記した。
契約は口頭での同意の他、文書の取り交わしにて為されるが、日本では印鑑が、西欧ではサインが、そして、神に対しては血が有効なしるしである。
『その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。』(出エジプト記24:6-8)
日本では、甲乙の契約書に一つの印を押して「割印」とするが、それと同じように、モーセは血の半分を祭壇に注ぎ、もう半分を民に注ぎかけて契約の血とした。
『だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。
彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:18)
血はまた、きよめの役割も果たす。
キリストの血は、人を完全にきよめ、死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者とするものである。(ヘブル9:14)
血はまた、いのちを買い戻す代価として有効である。
『それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:15)
この荒野の民は、後に契約を破ってしまう事になるが、人類もまた同じように、神が提示した律法の基準に到達する事は人にはできず、誰もが罰せられるべき存在である。
それ故、人は誰もが、この罪の罰金を誰かに支払ってもらう必要がある。
それを成して下さったのが、イエスであり、ご自身の血潮によって完済して下さった。
『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』(マタイ26:26)
私達はこの贖いを、ただ感謝して受け取るのみである。
そして、イエスが流して下さったこの尊い血潮を、裂いて下さった尊い御からだを、ないがしろにしてはならない。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
内面の美しさの秘訣(エステル記2章):右クリックで保存
祝祷
【概要】
エステル記第二章の初めの出来事を通して、神の導きと人の従順、内面から輝く真の美しさについて考えます。神の計画の中で、私たちはどんな環境にあっても従順と信仰により祝福されるという慰めと励ましを受けています。
【聖書箇所】
・エステル記 2章1節〜7節、8節〜11節、12節〜23節
・エステル記 2章15節〜20節
・エステル記 2章21節〜23節
・1ペテロの手紙 3章1節〜6節
【慰めの言葉】
主の御手は私たちの歩む道を常に見守っています。外見や環境がいかに厳しくとも、神は忠実な心を持つ者を必ず守り、御計画に従って大いなる祝福へと導いてくださいます。
【励ましの言葉】
エステルやモルデカイ、旧約の信仰の先人たちのように、日々の小さな従順と信仰の実践が、やがて偉大な祝福と救いを我々にもたらします。神様の時は必ず来ます。
【戒めの言葉】
世の栄華や外面的な美しさに惑わされることなく、自己主張や虚栄心にとらわれず、常に神の御言葉に従う謙遜な生活を送りましょう。その結果、信仰に基づく真の美しさが身に宿ります。
【勧めの言葉】
内面の美しさを養い、日々の生活において主の導きを求め、忠実に歩むことが何よりも大切です。エステルのように、試練の中でも身を慎み、従順な姿勢を保ちましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
もしこれまで外面的なものや人の評価に重きを置いて歩んできたなら、今一度立ち返り、主が望む内面の堅実な美しさと従順の信仰に向き合い、心からの悔い改めと新たな決意をしましょう。
【***詳細***】
本日はエステル記第二章に記された出来事を拝読し、その中に現れる神の導きと人間の歩む道について深く考察して参ります。冒頭、エステル記2章1節から7節にかけて、アハシュエロス王の憤りが収まり、王はかつての王妃ワシティの行いやその決定を思い出し、次なる新たな王妃を得るために全国から美しい未婚の娘たちを集めることになりました。ここで、王は「容姿の美しい者」を求めるという指令を下しましたが、私たちはこれを単なる外面的な美しさだけの問題と見るのではなく、神の御心にかなう謙虚な心と品性が如何に重要であるかを読み取る必要があります。
また、この出来事の中で、ひときわ目を引くのがモルデカイというユダヤ人です。彼は、かつてバビロン捕囚の時にユダの王エコネヤとともに捕らえられ、エルサレムから移された民の中で、王宮に仕える大いなる存在となりました。**「この乙女は姿も顔立ちも美しかった」**と書かれるエステルは、単に外観だけでなく、モルデカイのもとで厳かに養育され、品性と慎み深さを学んだ女性でありました。エステルは自身の民族や生い立ちを隠し、王の前にその純粋な美徳を表すことで、神の秘めた計画に従って進む道を歩み始めたのです。
エステルがその後、長い12ヶ月にわたる厳しい美の鍛錬、すなわち前半の6ヶ月は没薬の油による厳しい手入れ、後半の6ヶ月は香料と婦人の化粧による美の研磨を経て、最終的に王の心を捕らえる存在となった背景には、彼女の内面に宿る「入和で穏やかな霊」という、**「朽ちることのない隠れた人柄」**の本質がありました。これは、1ペテロの手紙3章1節から6節に明示されているように、外面的な飾りではなく、心の内側に宿る従順さ、謙虚さ、そして神への深い敬虔さこそが、永遠に輝く美しさの源であるという教えと重なります。
私たちも、現代の職場や日常生活において、しばしば外見や地位、世間の評価に惑わされがちです。しかし、エステルや旧約聖書の中に登場するヨセフやダニエルのように、苦難や試練の中で神への従順、そして、日々の小さな忠実さを示すことが最も大切です。たとえば、ヨセフがエジプトの異国で奴隷として置かれながらも、家のすべての管理を任され、神に祝福されたように、私たち一人ひとりもどんな環境にあろうと、神の御計画の中で忠実に歩むならば、必ず大きな恵みが与えられると信じます。
エステル記には、また王の側近たちが策謀を企てる場面もあります。モルデカイが王宮の門で仕えている時に、二人の宦官ビクタンとテルシュがアハシュエロス王を暗殺しようと企てた事実が記され、その情報をエステルが王に報告したため、二人は罰せられたとあります。この出来事は、神の御心に背く者を必ず罰するという戒めであり、また、正義の行いが結果的に神の計画に沿って実現していくという確信を深めさせるものであります。私たちにとっても、正しい行いや正義を重んじる心こそが、神にとって喜ばれる行いであると改めて気づかされます。
さて、ここでエステルの姿から私たちが学ぶべき大切な点は、まず何よりも「内面の美しさ」です。エステルは、皇宮での審美的な鍛錬の中にあっても、王に召し出された後一度も自分の出自や民族を口にしなかった、まさに謙虚で従順な女性でした。彼女は、宦官ヘガイの勧めに乗りながらも、自らの品性に基づく選択を惜しむことなく、余計な要求を一切せず、ただ神とモルデカイの導きを信頼して従いました。この姿勢が、最終的に王アハシュエロスから並々ならぬ愛情と信頼を受け、ワシティに代わる王妃として迎えられる結果につながったのです。
また、1ペテロの手紙3章に示されるように、妻たちが自らを「柔和で穏やかな例」として飾ることは、単に外見を美しく整えるための装飾ではなく、心の中に神の御前に価値ある品性を宿すためのものであるという教訓が含まれています。これは、現代に生きる私たちにとっても大いなる励ましであり、年齢や境遇を超えて、内面の美しさこそが真の魅力であるという確固たる真理を再認識させます。
また、エステル記に散見されるモルデカイの働きは、ただ王宮の一員としての立場を超えて、神の計画の中で”隠れた英雄”としての役割を果たしていたことを示しています。彼は自らの地位に驕ることなく、常に主の意向に従い、エステルを養育し、守り抜くという責務を全うしました。その謙虚さと忠実さは、後にイスラエル民族全体に対して大いなる救いと栄光をもたらす結果となります。これもまた、神が私たち一人ひとりに、決して偶然ではない計画と導きをお与えになっていることを証明しております。
私たちは、しばしば瞬間的な成功や外面的な栄華に心を奪われることがあります。しかし、エステルのように、内側からの堅実な信仰と忠実な従順さ、そして常に神に信頼して歩む生き方こそが、真に永遠な祝福へと至る道であると聖書は教えています。「主は人の行いを喜ぶ時、その人の敵をも和らげる」(参考:エステル記および旧約の諸書より)という御言葉は、私たちが正しい行いを選び、たとえ苦境にあっても神を頼りにすることの大切さを示しています。
今日、この説教を聴く皆さまには、どんな現実の困難や誘惑があろうとも、外面的な評価に左右されることなく、むしろ内面の慎み深さと従順な信仰を大切にしていただきたいと思います。私たちが日々の生活で、神の声に耳を傾け、与えられた使命を堅実に果たすならば、主は必ずやその祝福と導きをもって、私たちの歩みを豊かにされることでしょう。そして、いつの日か私たちも、見かけの美しさや一時的な成功にとらわれるのではなく、神の御前に価値ある本当の美しさを体現している者として、周囲の人々に光と希望を示すことができるのです。
この説教を通して、エステルやモルデカイ、そして他の聖書の偉人たちが私たちに遺した教訓―それは、神の御計画の中で謙虚に、かつ従順に歩むことこそが、どんな困難な現実の中にあっても、いつか大いなる祝福と救いへと導かれる道である、という真理です。どうか、私たち一人ひとりがその真理を心に刻み、日々の歩みの中で神の御心に従って生きることができますように。心から祈り、そして主イエス・キリストの御名によって互いに励まし合いながら、素晴らしい信仰生活を歩んでいきましょう。
【結論】
エステル記第二章は、神の導きと忠実な従順の力を輝かせる物語です。私たちも、エステルやモルデカイのように、外面的な栄華に惑わされることなく、内面の美しさと神への従順を磨き続け、どんな状況においても神の御計画に信頼し歩み続ける信仰者となりましょう。主の恵みと祝福が、常に皆さまと共にありますように。
果たすべき責任と与えられる祝福(出エジプト記23:23-33)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-1-31 16:08
礼拝説教メッセージ音声:果たすべき責任と与えられる祝福(出エジプト記23:23-33):右クリックで保存
私達が主に対して果たすべき責任と、それを守った時に与えられる祝福が、今回の箇所で示されている。
『わたしはあなたがたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。』(出エジプト記23:26-28)
私達は、このような主の祝福と守りが与えられるように祈る事はよくするが、それらの祝福が与えられるのは、条件つきであり、私達の側にも守るべき定めや果たすべき責任があるという事を、忘れている人が多い。
私達が守るべき分とは、私達が主イエスに心を留め、御声に聞き従って背かない事(出エジプト記23:21)、また、以下御言葉に示されている通り、神以外のものを神としない事である。
『あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。あなたがたの神、主に仕えなさい。』(出エジプト記23:24-25)
主は、偶像に関しては、徹底的に打ち壊し、粉々に打ち砕く事を命じている。それも、かなり徹底として。
人は思うかもしれない。それはなんでもやりすぎでは。人権も何も無いのでは、と。
しかし、イスラエルが辿った道、すなわち、カナンの神々を慕い求めて堕落してしまい、滅ぼされ捕囚されてしまった歴史を見るに、やはり、主のその戒めは正しかったと分かる。
ちょっとだけならいいのでは、という妥協は、禁物である。
ソロモンの堕落にしても、異国の妻を娶ったは、最初はほんのささいな出来心あるいは好奇心だったのかもしれない。
自分には知恵があり、リスクも承知している、だからちょっとだけなら大丈夫だ、深入りしすぎなければいい、と。
しかしソロモンは晩年、その妻達を愛し、彼女たちにそそのかされ、晩年は異国の偶像の宮を各所に作ってしまう程、堕落してしまった。(1列王記11章)
人間、痛みや困難と戦う事には強いが、気持ちよくさせたり高揚させたりしてくれるような誘惑には弱いものだ。
イスラエルはバアル神に魅せられたが、バアル神話は、父である神を倒して権力を奪い、美しく殺戮好きな妻(かつ妹)と共に、敵と戦いを重ねて大活躍する。現代の映画やドラマにすれば、実に受けそうな内容である。
戒律は無いため、欲望の赴くまま好き勝手に出来るし、力づくで隣人や他国を奪うのも良しとされ、性に奔放で、神殿娼婦と交わる事が、神聖な礼拝行為とされ、”できちゃった”不都合な子供は、神に捧げるという名の下に、火の中をくぐらせ抹殺してしまう。
このように肉欲や情欲を沸き立たせるストーリーや、肉欲をそそる礼拝にイスラエルは魅せられ、引きこまれ、まことの神から離れてしまったために、やがて申命記28章にある呪いを、ことごとく受けてしまったのだ。
もし皆さんが、主よりも、テレビの向こう側のアイドルやドラマ、コンピューターグラフィックスを駆使した映像やゲームなど、人の作ったイメージ(idol:偶像)のほうに時間や心やエネルギーを捧げ、それらの内容はすぐに思い出せても、イエス様が成して下さった良き御業をなかなか思い出せないとしたら、偶像礼拝に足を踏み入れている。
イエス様よりも、アイドルやイメージに捧げたお金や時間、空想の方が多く、そして、中々祝福が与えられていない、という「自覚」があるのであれば、そうしたアイドル(偶像)は捨て去り、悔い改め、主に立ち返るべきである。
列王記や歴代誌は、神様のみおしえに歩む良い王様の時代と、神様に背く悪い王様の時代が交互に来る。
神を恐れ御言葉に歩む良い王様の時代は、必ず祝福され、民は幸せになり、戦争に勝利し、必ず栄えた。
しかし、律法を破って偶像を拝む悪い王様の時代は必ず呪われ、不幸になり、戦争には負け、必ず衰退した。
ちょっと良くなって栄えると、すぐ霊的高慢になって堕落してしまい、神を忘れ、呪いに入ってしまう。そして悔い改めると、また再び良くなっていき、、、という繰り返しが、イスラエル王国の歴史である。
皆さんは列王記のような毎日を送っていないだろうか。ちょっと良くなるとすぐ霊的に高慢になって堕落してしまうような。
神以外のものに夢中にさせ神を忘れさせるような「偶像」を徹底して除き去り、主が喜ばれるみおしえを守り行い、祝福の人生を歩み続ける皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:主の使いに導かれよ(出エジプト記23:20-22):右クリックで保存
『見よ、わたしは使をあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。』(出エジプト記23:20)
御使いというと羽の生えた天使を思い浮かべやすいが、モーセ五書を通読された方は、恐らくそういう天使が荒野の民を導いた記憶はないかと思う。
御使い、あるいは天使、と訳されているヘブライ語「マラヮク」は、メッセンジャー、使者、預言者の意味もあり、色々な状況で、時には思わぬ姿形で、神の民の前に現れるのだ。
主がモーセに現れた時、主の使いは燃える柴の中に現れ、モーセをエジプトへと遣わした。(出エジプト記3:2)
また、イスラエルの民が荒野を進む時、主の使いは雲の柱、火の柱となって、彼らを導き、紅海沿いでエジプト軍に追いつかれそうになった時、主の使いは彼らの後ろに移り、エジプトの軍とイスラエルの間に立ちはだかって彼らを守り、エジプトに敵対した。(出エジプト記14章)
主の使いは、様々な場面に、様々な形で、私達に語りかける。
雲の柱や火の柱として導かれる事もあるし、モーセのように神から使わされた人間もあるし、ある時は主ご自身が雷鳴のとどろきのような声で、ある時はか細い声で直接語り、ある時は、導かれる状況そのものが主のメッセージだったりもする。
『あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに、彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。しかし、もしあなたが彼の声によく聞き従い、すべてわたしが語ることを行うならば、わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとするであろう。』(出エジプト記23:21-22)
主の使いからメッセージを受けた時、私達が取るべき態度は、ただ一つ。その言葉に聞き従い、行う事である。
私達は「わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとする」という言葉は大好きであるが、そうした主の守りと祝福に入るには、条件があり、その条件が、御言葉に聞き従って背かない事、主が語る事を行う事である。
それが、祝福のコツである。
実にシンプルであるが、人はなんと頻繁に主のメッセージをないがしろにしたり、無視したりして、祝福を逃している事だろう。
私が中学生の時、宿泊学習先で初めてオリエンテーリングというゲームを行った。
それは地図とコンパスを用いて、山の中の各所に設置された地点を、いかに早く全て通過するか、というゲームであるが、その時、陸上部と野球部のメンバーが、地図とにらめっこするよりも自分の足で走って探すほうが早いし、そちらのほうが根性と力が示せる、などと、奇妙な美意識を打ち出し、やみくもに走り出してしまい、グループメンバーがはぐれるわけには行かないため、全員でその後を追う形となった。
はじめのうちは、自分の足で走って適度な疲れも来るので、効率よく探しているような気もし、自分達は他のチームよりも根性があるなどと錯覚し、すぐにでもポイントを稼げるような気分でいた。
しかし、走っても走っても地点には行き当たらず、ただ疲れるだけで、残り時間が少なくなった時、他のチームは7,8点なのに自分のチームは2,3点。疲れと点数の低さに絶望的な雰囲気となり、結局、最下位となってしまった。
このように、身勝手なビジョンを打ち出し、正しい手順に則る事なく自分の力や自分の頭脳に固執して、やみくもにがんばる人は、成果もなく、ただ疲れるだけの無意味な時を過ごし、周りを巻き込んで敗北してしまうのだ。
今、皆さんが目標とすべき地点は、御言葉という”地図”によって、理解できているだろうか。
聖霊という”コンパス”の導きを、仰いでいるだろうか。
妙なプライドを掲げて、やみくもに走り回ったりして、与えられている人生の残り時間を、いたずらに費やしたり、周囲を巻き込んだりしていないだろうか。
私達はまず、御声に聞き、御心を知る事から始めるべきである。
仕事において、家庭において、あるいは人生の様々な目標において、それが御言葉という地図に照らして、正しいものであるかを確認する必要がある。
自前勝手な美意識やプライドは捨てて、聖霊の導きに従って歩んでいるかを、点検すべきである。
昨日は久しぶりにベツレヘム祈祷院へ聖徒達を車で連れて行き、カナンキリスト教会の兄弟姉妹たちと共に賛美と証、礼拝と食卓の交わりの時を持ちました。
その後、教会のある聖徒のご家族の所へ行き、そこで皆で祈って来ました。
霊的な攻撃も色々ありましたが、とても素晴らしい時を持てました。
礼拝説教メッセージ音声:主の安息と祭り(出エジプト記23:10-19):右クリックで保存
10節から12節に続く箇所では、安息日と安息年について示されている。
『あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない。そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、その残りは野の獣が食べることができる。あなたのぶどう畑も、オリブ畑も同様にしなければならない。あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである。』(出エジプト記23:10-12)
安息日については十戒の箇所で学んだが、ここでは安息”年”についても定めており、それもまた七の周期で訪れる。
安息の制定は休ませるためでもあるが、第一の意義は「主を覚えて聖とする」(出エジプト記20:8)事であり、これを守れば、仕事のパフォーマンスが上がるだけでなく、主からの祝福を受ける。
七年目は種まきも刈り入れもしてはならない、としたら、七年目は一体どうやって食べれば良いのか、と、心配するかもしれない。
それについて主は、明瞭に答えている。
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ25:20-22)
思い出して欲しい。マナが降ったのは六日間で、主が定められた安息日にはちゃんと休めるよう、主は、六日目には二日分のパンを豊かに備えて下さる。
主を覚えるべき安息の日に立ち働いても徒労に終わるのみで、神と人から蔑みしか得られず、安息年を久しく守らなかったイスラエルの民は、バビロンへ連行して強制的にその地に安息を与えた。(2歴代36:21)
礼拝を守ろうとする聖徒に、主は手のわざを祝福し、しっかり礼拝を捧げられるよう都合をつけて下さり、その日に仕事を休んでも、必要をちゃんと備えて下さるのだ。
14節から19節に続く箇所は、ユダヤにおける重要な三つの祭りに関して、守るべき事柄が示されている。
『あなたは年に三度、わたしのために祭を行わなければならない。あなたは種入れぬパンの祭を守らなければならない。わたしが、あなたに命じたように、アビブの月の定めの時に七日のあいだ、種入れぬパンを食べなければならない。それはその月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、むなし手でわたしの前に出てはならない。』(出エジプト記23:14-15)
重要な祭りの一つが「種入れぬパンの祭」(大麦の刈り入れ時期)で、アビブの月すなわち第一の月に14日夕暮から始まる「過越祭」に続き、7日間、種入れぬパンを食べる。(出エジプト記12章)
これは、新約において主イエスが苦難を受け、復活された時期であり、主はまことの過越の小羊としてほふられ、血を流され、肉を裂かれた。
二つ目の祭りは「初穂をささげる刈入れの祭」で、これは小麦の刈り入れ時期に行われる。
『また、あなたが畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈入れの祭と、あなたの勤労の実を畑から取り入れる年の終りに、取入れの祭を行わなければならない。男子はみな、年に三度、主なる神の前に出なければならない。』(出エジプト記23:16-17)
この祭りは、穀物にかまを入れ始める時から七週を数えるため「七週の祭」とも呼ばれる。(申命記16:9-12)
これは、新約におけるペンテコステの日であり、ユダヤ人が各地から集まっている中、キリスト者達は聖霊に満たされ、主の働き人として捧げられた「初穂」として、公に示された。
三つ目は「取入れの祭」であり、仮庵祭と呼ばれ、ぶどうやオリーブ等果物の取り入れ時期、10月半ば頃に行われる。
これは出エジプトの民が、荒野で天幕に住んだことを覚え、祭りの期間は仮設の家(仮庵)を建てて住んだ事を覚える祭りであるが、新約における主イエスの誕生と一致する。
「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)は、直訳すると、ロゴスは肉となって私達の内に幕屋(仮庵)を設けた、という意味であり、イエス様は肉体という幕屋を張って、私達の間に住んで下さったのだ。
現代、イエス様の誕生を12月25日に祝っているが、その日はイエス様の誕生日ではない。
聖書の記述を辿っていくと、イエス様の誕生は、10月半ばの仮庵祭の頃となる。(ザカリヤはアビヤの組の祭司で(ルカ1:5)、アビヤの組は8番目(?歴代誌24:10)である。ユダヤの第1月、ニサンの月は太陽暦の3月半ば〜4月半ば、ザカリヤの第8組は5月半ば〜6月半ばとなり、この時期にエリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもったという事になる。マリヤが身ごもるのはその6ヵ月後、11半ば〜12月半ばであるから、そこから出産までの約10ヶ月を足すと、ちょうど仮庵祭の頃となる。)
旧約聖書は全てイエスというお方についてあかししており(ヨハネ5:39、ルカ24:27)、律法で定められた「祭り」には、イエスのヒントが見え隠れする。
安息も、祭りも、いずれも主を覚えるためであり、主イエスを表している。それを人が守る時、その人は祝福されるのである。
肉と御霊、どちらを歩むか(ローマ8:5-17)
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肉によって歩むか、それとも御霊によって歩むかによって、全く別の「永遠」が待っている。
まず、肉によって歩む人の歩んだ結果の実は、ガラテヤ5章の19〜21節にある通りである。
その人は、人の道を踏み外した快楽を求め、神でないものを神として拝み、自分の方向性を阻む人に対して争いを起こし、党派を組んで分裂を促すような行動パタンがあり、礼拝や賛美などの聖なる事に、何の意欲も感動も無いが、遊興や飲み騒ぐなど、世の事に関してはとたんに目を輝かせる性質がある。
「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:6-7)
肉にある人は、どう頑張っても、神の律法に服従できず、むしろ聖徒たちの歩みを邪魔する。
彼らは聖徒の交わりの中にいても、御言葉や礼拝の恵みの喜ばしさを、理解できず、むしろ、世のうわさ話や趣味享楽の話題によって聖なる雰囲気を、俗なる雰囲気で上塗りしようとし、自己栄光化を促し、妬みや嫉妬に促され、聖徒の交わりを分裂へと引きずり込み、肉のリストにある実を結ばせるのみである。
肉に従って歩む人は奴隷であり、やりたくない事ばかりやらされるが、御霊に導かれるなら、神の子である。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(ローマ8:14-15)
肉の実ばかりを結んでどうしようもない、という人、そこから離れたい、という人は、肉によって歩む事を止め、御霊によって歩む事を始めれば良いわけである。
一体どうしたら御霊が与えられるのか。どうしたら聖霊に満たされるのか。それは、意思決定の問題である。
「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」(ローマ6:12) さて、この御言葉から、私達の死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、情欲に従わせるか、従わせないかは、誰に責任があるだろうか?当然、私達の側にある。
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)この御言葉からも、御霊によって歩む事は、私達の側の責任である事が明白である。
御霊に従って歩むには、多少の努力が必要である。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・とすればなおのこと、天の父が、求める人達に、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)
ただ口を開けて待っていれば、自動的に御霊が注がれる、と思ったら、間違いである。
求め、探し、叩く事は、骨折れる事だが、自分の肉のやりたい事を降ろし、主の故に骨折り、昼夜となく主に祈り求める聖徒に、主は聖霊を与えて下さらない事はない。
肉体や精神を鍛錬して御霊の実を結ばせようとする「がんばり」は、お門違いである。御霊抜きにして、いくら頑張っても、ムダである。なぜなら、肉は神に服従できず、反抗する、と書いてあるからである。
肉のがんばりを捨て、御霊によって歩む事を選択し、聖霊が与えられるよう、求め、探し、叩く事である。
御霊に従って歩むキリスト者は、ガラテヤ5章22〜23節にある御霊の実を結んでいく。
生活は喜びに溢れ、不安ではなく平安に満たされ、自分を制し、寛容さや親切さに満ちた柔和な人となり、悪意ではなく善意によって物事を判断し、誠実な人として人々から尊敬され、好かれ、もっとこの人と付き合いたいと思われるようになって行く。人を愛し、人々はその愛に感化され、愛が広がるようになっていく。
御霊に導かれるなら、神の子供であり(ローマ8:14)、もはや奴隷ではなく「子」とする霊を受けたのだ。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
神の子にふさわしいたしなみを身につけ、聖なる品性を纏い、御霊の実を豊かに結ばせる、豊かな人生を生きていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!