メッセージ - 最新エントリー
礼拝説教メッセージ音声:判決を降す際は(出エジプト記23:1-9):右クリックで保存
今回の箇所は、判決を下す際の戒めである。
主は、人をかたより見る事はされないお方であり、私達にもそれを求めておられる。
『あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になってはならない。』(出エジプト記23:1)
よく子供の中で(いや、むしろ大人のほうが)気に食わない誰かについてあらぬ悪いうわさを流し、その人を陥れるという事がある。
それは、主の敵が為す事であり、その最後は安らかなものではない。
イゼベルやアハブは悪意の証人を立ててナボテを殺し、パリサイ人達も悪意の証人を立ててイエス様を十字架につけて殺し、ステパノを石で殺すよう仕向けたが、いずれも、悲惨な最後を遂げた。
『あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。また貧しい人をその訴訟において、曲げてかばってはならない。』(出エジプト記23:2)
強い者や多数に追随して、皆で悪い方向へと向かってしまうのは、インターネット上でよく行われているし、特に日本人はそのような傾向に陥りやすいが、主は、それをしてはならないと命じておられる。
また、弱い立場の人をかばうあまり、裁判を曲げてしまう事も、してはならないと命じておられる。
過剰な被害者意識も、過剰な加害者意識も、両方とも道を誤らせてしまう元なのだ。
強い者や多数意見に流されたり、弱者に同情したりして、黒を白としたり、白を黒としたりしてはならず、公正にジャッジする事を、主は求めておられる。
『もし、あなたが敵の牛または、ろばの迷っているのに会う時は、必ずこれを彼の所に連れて行って、帰さなければならない。もしあなたを憎む者のろばが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起さなければならない。』(出エジプト記23:4)
神はここまで具体的に、公平である事を私達に求めておられる。
というより、敵にこのようにされた場合、あるいは、した場合、仲たがいしている心も和らぐのではないだろうか。
主は公正明大なお方で、情に流されて裁いたりされない。だから私達も、公平であるべきである。
裁きや報復は、主がなさる事。私達は悪に対して悪で返さず、善で返す事によって、罪から守られ、自分の手を汚す事からも守られ、祝福をいただけるのである。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
やりたくない事をしないために(ローマ7:14-8:2):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:弱き人を守られる主(出エジプト記22:21-31):右クリックで保存
主は弱き人達に配慮し守られるお方で、21節から27節までの箇所に、そういう人達に為すべき配慮が記されている。
『あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。』(出エジプト記22:21)
その最も先に記された事は、寄留の他国人たちへの配慮についてである。
彼らはつい数ヶ月前までエジプトにおいて在留異国人であり、その事を忘れさせないためである。そして私達も、この世にあっては旅人であり寄留者である事を忘れてはならず、この国で在留し生活している人達への配慮を忘れてはならない。
『あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。』(出エジプト記22:22-24)
福祉や人権の概念のなかった当時の世界は、孤児や寡婦はとても弱い立場だったのに対し、主は、彼らが人々から見捨てられるなら、その見捨てた者達を剣に渡す事を宣言された。
『あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。』(出エジプト記22:25-27)
当時、上着は寝るときに覆う「布団」の役割もあった。
貧しくなった人が、上着を抵当にお金を借りたからといって、寝るときの布団まで取りあげてしまうのは、御心ではない。
主は情け知らずの主ではなく憐れみ深い主である。
全てのものは主のもので、今、私達の手の内にある資産は主が貸し与えて下さっているものなのだから、同じように、私達も弱い立場の人達を憐れむべきである。
これらは、単なるきれいごとや脅しではない。
イスラエルの歴史では、実際に、寡婦や孤児の権利を踏みにじった故、あるいは同胞から高利を取った故、主の怒りが燃え上がり、イスラエルは諸々の国に散らされた事があり、そうしてイスラエルの中から、汚れが取り除かれた。(エゼキエル22章)
また、28節から31節には、神に対してあるべき態度が記されている。
『あなたは神をののしってはならない。また民の司をのろってはならない。』(出エジプト記22:28)
ここの「あなたは神をののしってはならない。」の「神」は、ヘブライ語ではエローヒム、「神」とも訳せるし「さばきびと」とも訳せる語である。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものであるのだから、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいている事であり、そむいた人は自分の身にさばきを招く。(ローマ13:1-2)
人はみな、神が立てた権威に従うべきである。
『あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。あなたのういごを、わたしにささげなければならない。あなたはまた、あなたの牛と羊をも同様にしなければならない。七日の間その母と共に置いて、八日目にそれをわたしに、ささげなければならない。』(出エジプト記22:28-30)
私達は、祝福が与えられたなら、ささげものを遅らせてはならない。
というのは、人には欲があり、捧げ物を後回しにすればするほどそれが惜しくなり、実行するのが難しくなって結局捧げず、神様との約束を反故にして罪を犯す事になるからである。
『あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない。あなたがたは、野で裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。』(出エジプト記22:31)
野で獣に裂き殺されたものは、汚れたものとされている。
私達も、世という野において、獣のような汚れた者達のえじきにされたものにハイエナのように群がって、その残りをむさぼるような事をしてはならない。
それは、犬のように卑しい者達のえじきとするべきものである。
祈祷会音声:1/8-22
2012/1/8 祈祷会 旗印は愛:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/11 祈祷会 バルテマイ:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/17 祈祷会 主は盗人のように来る:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/18 祈祷会 ガリラヤ湖にてイエスは:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/22 祈祷会 御霊に導かれて:右クリックで保存 音声のみ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
高慢な妻と慎み深い妻(エステル記1章):右クリックで保存
【概要】
本日はエステル記と関連聖書箇所を通して、神の御業とキリストの花嫁としての立場、そして高慢や傲慢に陥らない謙遜な信仰の歩みについて説きます。
【聖書箇所】
・エステル記 1章1-9節
・エゼキエル書 28章12-13節および14節以降(サタンの転落に関する記述)
・雅歌 5章2-8節
・雅歌 2章10-15節
【戒めの言葉】
・主の御声に応えず、自らの誇りや美しさに頼ったなら、いつかその尊い冠が奪われることを、今日のエステル記とエゼキエル書が私たちに警告しています。
【励ましの言葉】
・神の御声に敏感に耳を傾け、謙遜な心で応えるなら、あなたはどんな状況にあっても神の御手の保護の中にあります。
【慰めの言葉】
・たとえ遠く離れた異邦の地にあっても、私たちはキリストの花嫁として、神の愛と慰めの中に常に守られていることを忘れてはなりません。
【***詳細***】
今日、私はエステル記の冒頭の場面から、私たちが学ぶべき真理についてお話ししたいと思います。エステル記は、アハシュ⁑ス王の豪華な宴会の記述から始まります。王はシュシャンの城において、王族にも臣下にも惜しみない贈り物とともに、華麗な宴を180日、さらにその後7日間にわたって催しました。**「アハシュ⁑ス王は、金の盃で酒を振る舞い、その豊かな栄光と栄華を民衆に示された」**との記述は、神の世ではなく人間の世の栄光に過ぎません。しかし、この豪華な宴の裏側には、王妃ワシュティが自らの高慢によってその立場を失い、結果として国中の人々の尊敬をも失わせるという重大な教訓が隠されています。
私たちは、エステル記における王妃ワシュティの行動から、謙遜な心で主に仕えるべきという大切なメッセージを読み取ることができます。エステル記のこの部分は、単に古代ペルシアの宮廷劇のような歴史記録ではなく、「私たちは誰の妻なのか?」という問いを現代に向けて問いかけます。王妃ワシュティは、美貌ゆえに傲慢となり、王の呼びかけに応じることを拒んだために、その栄誉が失われ、後により優れた花嫁—謙遜な心のエステル—にその座が譲られました。ここで私たちは、イエス・キリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応え、謙虚にその愛を受け入れることの大切さを学びます。正しい信仰の歩みとは、どんなに美しい外見や才能があろうとも、主の前ではすべてのものが私たちのものではなく、私たちはただ主の召命に従う花嫁であり続けなければならないということを思い起こさせます。
また、エゼキエル書28章では、神がかつて愛された天使長サタンの美しさと知恵、そしてその後の堕落に至る過程が描かれています。**「あなたは知恵に満ち、美の極みであった。しかし、あなたがその美しさに高ぶり、誇りに浸ったため、汚れた者として神の前から追放された」**との言葉は、私たちに高慢の危険性を厳しく戒めています。エステル記の王妃ワシュティもまた、自らの美貌と地位に溺れ、神に対する謙虚な心を失った結果、王の御前から退けられる運命に遭いました。これと対照的に、新たに選ばれたエステルは、その慎ましさと従順さにより、王から特別な庇護を受け、イスラエル民族の救いに大きく貢献しました。
私たちは今日、エステル記の中に現れる歴史的背景を通して、神がどのような人々を御用に召されるのか、そしてどのような心持ちで御前に立つべきかを再確認する必要があります。王妃ワシュティの失敗は、どれほど華やかな環境にあっても神から離れることが、取り返しのつかない結果を招くという警告です。一方、エステルのように謙遜で主への絶対的な信頼を持つ者は、どんなに異国の地であっても神の御心の通りに働くことができるのです。
さらに、雅歌の中にある恋の描写は、キリストとその花嫁たる私たちとの深い交わりを象徴しています。雅歌5章2〜8節には、愛する方が呼びかけ、花嫁がその声に心を震わせる情景が描かれています。**「我が愛する者、美しい人よ、さあ立って出ておいで。あなたの声を聞かせておくれ」**という御言葉に、私たちはどれほど感動し、応えなければならないかを思い知らされます。同様に、雅歌2章10〜15節でも、主からの呼びかけに対して、花嫁が即座に応じる姿が描かれ、主と交わる喜びがあらわされています。
ここで改めて、私たちに問いたいのは「私たちは誰のために生きているのか」ということです。私たちはイエス・キリストの花嫁として御前に召され、たとえ世界のどこにいても、神の王宮と呼ばれる御座は変わらずそこにあります。エルサレムにおいてネヘミヤやエズラが神殿再建に奔走し、その後、遠き異国の地においてもエステルが救いの鍵を握ったように、私たちもどのような環境においても、主への従順と謙虚な心を忘れてはなりません。
確かに、世の中は誘惑と誇りに満ち、どんなに華やかに見えても、その裏側には必ず神の裁きと戒めが存在することを、今日の聖書の記述は示しています。私たちは決してその栄誉に乗り、自己中心的になってはなりません。むしろ、主の呼びかけに敏感になり、心から「私の愛する方は私のもの、私はあの方のものです」と信仰を告白し、日々の生活の中でその証を示すべきです。
神は、私たちに高慢や傲慢に陥らないよう、また、どんな時も主の呼びかけに応え、御言葉に従うようにと望まれています。過去の大いなる歴史の中で、ワシュティがその高慢のために冠を失ったように、もし私たちが自己を高ぶらせ、主の呼びかけに背くなら、いつかその栄誉は取り去られてしまうでしょう。しかし、エステルのように謙虚であるならば、主は必ず祝福と守りをもって私たちと共に在り続け、限りない愛の交わりを約束してくださいます。
最後に、私たちが生きるこの時代においても、神の御声は決して遠くないということを確信してください。日々の忙しさや世俗の誘惑に惑わされることなく、毎朝の祈りと思い起こしの中で、神が私たちに呼びかけておられることを感じ取ってください。イエス様の花嫁として、謙虚に、そして従順に、主の教えと召命に応えるその心を持ち続けることが、私たちの真の栄光と祝福につながるのです。
愛する皆さん、神はあなたの内にその御霊を注ぎ、いつもあなたが歩む道を照らしておられます。いかなる状況においても、主の愛を信じ、御声に敏感に耳を傾け、決して自分の力に頼らず、ただ主の豊かな恵みによって生きることを、心から願っております。
【結論】
本日の聖書の御言葉は、私たちがどのような立場、どのような環境にあっても、主イエス・キリストの花嫁として謙虚に従い、主の呼びかけに即応すべきであるという力強いメッセージです。どうか今日の御言葉を心に刻み、日々主の愛と召命に従う歩みを続け、栄光の冠を失うことなく、永遠に主と交わり続ける信仰の花嫁であられるよう、神の祝福が皆さんに豊かにありますように。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ5:18-21:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:性的な純潔と霊的な純潔(出エジプト記22:16-20):右クリックで保存
『もし人がまだ婚約しない処女を誘って、これと寝たならば、彼は必ずこれに花嫁料を払って、妻としなければならない。もしその父がこれをその人に与えることをかたく拒むならば、彼は処女の花嫁料に当るほどの金を払わなければならない。』(出エジプト記22:16)
婚約もしていない処女と性交渉を持ったなら、彼女を妻として迎えなくてはならず、また、妻や夫もしくは婚約者のいる人が別の異性と性交渉するなら、死刑が定められている。(申命記22:22-24)
また、女性を力づくで犯す事は、殺人にも等しい行為であり(申命記申命記22:25-26)、そのことは、いかに女性の尊厳を傷つける事であるか示されている。
神の基準では、肉体関係を持つべき相手は、死が互いを別つまで、オンリーワンである。
そして、性的な事柄は、霊的な事柄と相通じるものがある。
夫婦はお互い相手に純潔である事を求めるように、主もまた人に「純潔」である事を求めておられる。
当時のカナン地方では、呪術が盛んに行われていたが、それは、悪霊と交わる行為であり、偶像崇拝は、主のねたみを招く「霊的姦淫」である。
『偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。』(1コリント10:19-22)
そして、私達が主を礼拝し、主の聖餐にあずかる事は、主と交わり、主と一体となる事を意味している。
『それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。』(1コリント 10:15-17)
男と女の性的な関係は、主と私達の関係のひな形である。
『すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記22:19)
人は神の似姿であり、性行為はその相手と一つとなる事である。それ故、汚れた者や獣と交わる事は、神を大いに侮辱する行為である。
私達のこの体は、キリストの体でり、もしこの体で遊女と寝るなら、キリストの体を取って遊女の体とする行為である。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
しかし主につく者は、主と一つの霊になるのだ。(1コリント6:15-17)
『不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:18-20)
偶像崇拝も、不品行も、主を汚す行為である。
「主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。」(出エジプト記22:20)
私達は、自らの体を使って、神の栄光をあらわすべきである。
先週まで、水曜夜の講解メッセージはネヘミヤ記から行なっておりましたが、それも先週で完結し、今週からはエステル記に入りました。
そして初の試みとして、遠隔地の兄弟姉妹と、スカイプを用いて、リアルタイムで礼拝を行いました。
仕事や家庭の事情で水曜の夜は参加できなかったのですが、それが共にあずかれるようになって、お互いとても嬉しかったです。
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:損害賠償(出エジプト記22:1-15):右クリックで保存
今回の箇所は、人の財産に損害を与えた場合の定めである。
『もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。彼は必ず償わなければならない。もし彼に何もない時は、彼はその盗んだ物のために身を売られるであろう。もしその盗んだ物がなお生きて、彼の手もとにあれば、それは牛、ろば、羊のいずれにせよ、これを二倍にして償わなければならない。』(出エジプト記22:1-3)
盗みを働いた場合、基本的にはその倍もしくはそれ以上の賠償が請求される。
盗んだ家畜が生きたままで見つかった場合は二倍、生きたまま返せない場合は、羊なら四倍、牛なら五倍で償わなければならない。
高価な家畜ほどペナルティが高いわけである。
食べ物や持ち物に困っているわけでもないのに盗んだり、万引きをゲーム感覚で行う人もいるが、神の定めた律法で「盗み」に課せられるその罰を見る時、人の物を盗む事は、それほど重い罪である事を知らなければならない。
不注意ゆえに損害を与えていまう場合は、基本、その「償い」をする事になっている。(5-6節)
例えば、自分の家畜が他人の畑のものを食べてしまった場合は、自分の産物の中から最良のもので償わなければならず、また、火の不始末などで人の畑を1ヘクタール火で燃やしてしまったら1ヘクタール分、100ヘクタールなら100ヘクタール分、償わなければならない。
当時のイスラエルは財産といえば畑や家畜であり、銀行に預けるという事ができなかったため、旅などで家を空ける場合は、隣の人に家畜をみてもらったりしていた。
そのため、家畜をあずかっていた時に起きた損害についての定めもある。
誰かの家畜をあずかっていた時、その家畜が盗まれてしまったり死んでしまった場合は、神(エローヒム:さばきびと)の前に出て、自分がその手を下していない事を誓わなくてはならない。(7-13節)
家畜をあずかっていた時に起きた損害で、自分に非が無いのであれば、その事を神(さばきびと)の前で「誓う」事によって、落着する。
ただ、神の御前で誓う時はは、軽がろしくは出来ない。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(20:7)と書かれてある通りである。
また、誰かから家畜を「借りている(「預かっている」ではない)」場合に、その家畜に損害を与えてしまった場合は、「償い」をしなくてはならない。(14-15節)
神から離れて生きる生き方を選んでしまった人間は、呪いの元にあり、その呪いの度合いが大きければ大きいほど、負債が重なったり、盗んだり、蹴落としたり、という生き方が、むしろスタンダードになってしまう。
ジャン・バルジャンは、貧困ゆえにパン一本を盗み、その罪だけで十九年も刑に服したが、人の定めた罰則は不完全であり、不平等である。
盗んだものを貧しさゆえに返せないような場合、律法では奴隷となるが、七年奴隷をすれば解放され、独り立ちして生きていけるような配慮が律法にはある。
神様に従って誠実に生き、律法を守って歩む人は祝福され、また、たとえ貧しくなっても、兄弟姉妹や親類が養ってくれる事が律法で定められているため、律法を尊守する民には、貧しくなるとか盗むとかいう概念が無くなっていくのである。
人間は元々、神から離れて生きるようには出来ていない。神とともに歩み、神の御口から出る御言葉によって生きる生き方こそ、人にとって最善の生き方である。
礼拝説教メッセージ音声:家畜に関する定め(出エジプト記21:28-36):右クリックで保存
今回の箇所は、家畜に関する定めである。
ユダヤにおいて家畜は財産だったが、生き物であるが故に、何かを起こした場合の対処方法を主はここで示された。
『もし牛が男または女を突いて殺すならば、その牛は必ず石で撃ち殺されなければならない。その肉は食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罪がない。』(出エジプト記21:28)
牛には力があり、時に人を殺傷する事がある。
そして牛が人を殺した場合は、その牛の命をとらなければならないが、牛の持ち主がそれ以上の責任を負う事は無い。
全てのいのちは主のものであり、主が人の齢を計り与えているからである。
しかし、以下の場合は別である。
『牛がもし以前から突く癖があって、その持ち主が注意されても、これを守りおかなかったために、男または女を殺したならば、その牛は石で撃ち殺され、その持ち主もまた殺されなければならない。彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。』(出エジプト記21:29)
人は財産を持つと、その持ち物について社会的な管理責任が発生する。
例えば、車は役に立つ”財産”であるが、使い方次第では殺傷能力のあるものとなり、例えばブレーキが壊れていて放置して事故を起こした場合は、その人の責任となるのと同じである。
しかし、人が意図的に人を殺した場合と違い、贖い金で解決する手段も主は残された。
『牛がもし男奴隷または女奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを支払わなければならない。またその牛は石で撃ち殺されなければならない。』(出エジプト記21:32)
牛が奴隷を殺した場合は、奴隷の代価として銀三十シケルを支払わなくてはならない。
ここから、この銀三十シケルという値段が奴隷の値段と分かる。
イエス様もイスカリオテのユダを通し、パリサイ人たちに”奴隷の値段”として銀三十シェケルで値積もりされた。
『もし人が穴をあけたままに置き、あるいは穴を掘ってこれにおおいをしないために、牛または、ろばがこれに落ち込むことがあれば、穴の持ち主はこれを償い、金をその持ち主に支払わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:33-34)
ここでも資産の管理責任が問われている。
そして自ら落ちて死んだ獣については代金で買い取る形となり、何らいのちを差し出す必要が無いのは、理にかなっている。
『ある人の牛が、もし他人の牛を突いて殺すならば、彼らはその生きている牛を売って、その価を分け、またその死んだものをも分けなければならない。あるいはその牛が以前から突く癖のあることが知られているのに、その持ち主がこれを守りおかなかったならば、その人は必ずその牛のために牛をもって償わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:35)
動物同士の殺傷は、被害者側と加害者側の、双方が平等に配分されるよう取り計らわれているが、突く癖のある牛については、ここでも管理責任が問われる。
そういうわけで、家畜によって”物持ち”となるからには、それなりに自分の家畜や隣人に配慮する事も要求される事になる。
多くの富や力を得るからには、多くの責任も発生するのである。
現代を生きる私達には、厳しすぎるように見えるところもあったかもしれない。
しかし、これが神のスタンダードであり、神の基準では、人の命はそれほど重要で、配慮すべきものなのである。
神様がノアに与えられた祝福を見ると、人がいかに尊い存在であり、人の血を流す事が、いかにおおごとであるのかが分かる。
『神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。あなたがたは、生めよ、ふえよ、/地に群がり、地の上にふえよ」。』(創世記9:1-7)