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どちらの霊を受けるか(エペソ2:1-7)
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霊には色々な種類がある。聖書に出てくる霊でも、おくびょうの霊、奴隷の霊、おしとつんぼの霊、病の霊、占いの霊など、色々あるが、それら悪しき霊はサタンをかしらとし、空中に勢力の座を置く「この世の霊」であり、人に入ってはその人に様々な悪しき事を行わせ、災いへと導き、滅びへと向かわせる。
それに対し、神の元から遣わされた霊すなわち「聖霊」があり、その霊はイエス・キリストを告白する。
聖霊を宿し聖霊に導かれて歩む人は、愛、喜び、平安など、様々な良き実を人生において結ぶ。

主を知らずに生きている生来の人は、元々、世の霊に縛られて生きてきた。
彼らは罪の中にあって、この世の流れ(時代、流行)に従い、空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいたが、憐れみ豊かな神は、その大きな愛の故に、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせて下さった。(エペソ2:1-7)
空中、そこには、雑菌のごとく「この世の霊」が漂っており、それらの霊には感情的・意識的な色合いがあって、類似した色合いの人に宿ろうとする。
たとえば、嫉妬深い人には嫉妬の霊が、病んでいる人には病の霊が付着しやすい。
宿主である人は、色合いの似た霊を引き寄せ、その霊はさらに類似した霊を呼び寄せ、そうしてたくさんの霊を抱えてしまう人もいる。(マルコ5:1-20、マタイ12:43-45)
それらの霊に羅患しないコツは、風邪の予防と同じで、御言葉の水でうがいをし、イエス様の血によって消毒・殺菌し、イエス様の愛で心暖かくし、世から何か汚れを受けた、と思ったなら、すぐに真の医者であるイエス様の所に行く事であり、イエス様の元に行くなら、いかに多くの悪霊につかれていても、治癒される。
健やかな体なら多少の風邪菌は何とも無いように、イエス様の健全な教えによって、いつも健全さを保っているなら、空中の諸霊も恐れるに足りない。

イエス様を主としている事、それは全ての面における健やかさと祝福の道である。
イエス様とサタンは、対等ではなく、権威的上下関係にあり、イエス様は最も上、サタンは遥か下である。
この世の霊は、決してイエス様には勝てず、聖霊に支配される人には、悪しき者は触れる事ができない。
私達が救われるのはイエスを「主」とする信仰により、それはいわば、自由意思による「主人転換」である。
私達の中の王座には、一人の主人しか座る事ができない。生来の人は、その王座に「自分」を据え、自分が人生のハンドルを握って生きていたが、その人達はこの世の霊に縛られ、滅びへと向かっている。
しかし、その王座にイエス様に座っていただき、イエス様に人生のハンドルさばきを委ねるなら、すなわち、イエス様を「主」とするなら、もはやサタンも悪霊も、その人に何もできない。サタンの支配からイエス様の支配へ、滅びから救いへ、死からいのちへと転換される。貧しさから豊かさへ、病から健やかさへ、嘆きから喜びへ、呪いから祝福へと、人生のあらゆるものが、良きものへと、造り替えられるのである。

主は、人の自由意思を尊重されるお方で、たとえ主にある救いの道が示されたとしても、それを拒否し、不従順に歩む、という事も出来る。しかし、そのような歩みをした人は、前の状態より、もっと悪くなってしまう。
サウル王は不従順を続けた結果、聖霊が取り上げられ、悪い霊にさい悩まされた。それでもなお頑なに不従順を続け、自分を王とし続けた結果、とても悲惨な最後を遂げてしまった。
神の目に見えない本性が示され、神の永遠の力と神性が、示されていながら、その神を知ろうとも、あがめようとも、感謝しようともしないなら、神は彼らをその心の欲望のままに汚れへと引き渡し、むなしい思いに、暗い心へと引き渡されてしまうのだ。(ローマ1:20-32)
しかし、イエス様を慕い、御言葉に従順し、さらに御元に近づこうとする意思のある人には、聖霊が与えられ、その人は御霊によって導かれ、いつも潤い、決して渇く事が無い。
『イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』(ヨハネ7:37-39)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
滅びをかき込むなかれ(ヨシュア7章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:傷害事件について(出エジプト記21:18-27):右クリックで保存

今回の箇所は、傷害事件の際の命令である。
『人が互に争い、そのひとりが石または、こぶしで相手を撃った時、これが死なないで床につき、再び起きあがって、つえにすがり、外を歩くようになるならば、これを撃った者は、ゆるされるであろう。ただその仕事を休んだ損失を償い、かつこれにじゅうぶん治療させなければならない。』(出エジプト記21:18-19)
誰かに傷害を与えた場合、相手が死ななかったら「ゆるされる」と言っても、「死刑」は免れるという意味で、例えば相手を傷害で1ヶ月床についた場合は、その分の給料を保証してやらなくてはならないし、そればかりでなく以下のペナルティもつく。

『命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。』(出エジプト記21:23-25)
相手を失明させた場合は自分も失明させられ、手や足を失わせば、自分も同じようにされるのである。
傷害事件の”加害者”の側は、踏んだり蹴ったりである。
やられたら、憎しみに身を任せて何倍にもして返す事がまかり通っていた古代世界において、この律法は、画期的なまでの平等な法だった。

また、奴隷に対する傷害事件も、当時の世界の他の国に比べれば驚くほどに人権への配慮がなされていた。
『もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。』(出エジプト記21:20-21)

当時は奴隷に人権は無いも同然で、奴隷が主人に言い逆らったら平気で殺していたし、近代の奴隷船においても、運んでいる奴隷が少しでも気に食わなかったり病気などで弱っていたりしたら平気で海に突き落としていたので、サメがいつも奴隷船の周りにいたほどだった。

それに対し、神様が定めた律法では、奴隷をその場で殺してしまったら「必ず罰せられる(すなわち、死をもって償わせられる)」のである。
また、次のようにも定められている。

『もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:26)

奴隷の目や歯を損なったら、その奴隷は解放してやらなくてはならず、また、間違ってその場で殺してしまったら、自分が殺される事になってしまうのである。
律法の下にある主人は、よほど奴隷を大切に扱ったのではなかろうか。

律法の一つ一つを見ていくと、時に厳しすぎると思うかもしれない。親を罵っただけで死刑とか、現代日本では信じられないかもしれない。
しかし、想像してみてほしい。
喧嘩して相手を失明させたら、失明させられ、死なせたら、自分も死んでしまうような社会だったとしたら、そのようなリスクを犯してまで、憎しみに任せて相手に手を下すだろうか。
家で仕えている奴隷も、目や歯を損なったら、その奴隷を解放しなくてはならず、間違って殺してしまったら、自分も殺される事になるとしたら。
また、子供は親を罵るのはとんでもない罪だという価値観の元に、親を恐れ、敬い、権威に服従する事を小さい時から学び、また、周りの子供たちも皆じような価値観で育てられるとしたら、きっと想像もつかないほど平穏で健やかな、尊厳に満ちた社会になるのではなかろうか。

現代人は、律法はお固い、厳しい、と思う。
しかし、律法を守り行う人は神に保護され、守られ、平和と尊厳の内を生きるのである。

礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:死刑にあたる罪(出エジプト記21:12-17):右クリックで保存

今回の箇所は、死刑に処せられるべき罪を示す所である。
律法には、死刑に処せられるべき罪が確かに示されており、それが何であるかを明示する事によって、悪がはびこる事を防ぎ、人として身に付けるべき常識感覚を養い、平和な秩序を保つのだ。

「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。」(出エジプト記21:12)
以前も学んだように、神は人の命を尊いものとされ、それを人が脅かす事は許されず、そこには未成年などの年齢制限は無い。
ただし、恨みもない人を誤って殺してしまう、という事がある。

『故意にではなく、偶然、彼の手に”神が”渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。』(出エジプト記21:13)
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など、主は事細かに、偶然人を死なせてしまった場合の事例を挙げている。
その場合、その人の救済措置として、「のがれの町」に逃れる事が出来、その境界の内側にいるなら復讐者に襲われる事から守られるが、境界の外側に出た場合、その人の命の保証は無い。

そのような場合は、「神が」敢えてその人の命を取られた、という事である。
例えば、ダビデがペリシテの代表戦士ゴリアテに投げた石は、百発百中でゴリアテの兜の隙間を縫い、急所に命中し、イスラエルに勝利をもたらしたし(1サムエル17章)、イスラエルの悪王アハブも、ひとりの兵士が何げなく放った弓が、見事に胸当てと草摺の間を射抜き、それによってアハブは絶命した。(2歴代誌18章)
それらは人の責任でも栄誉でもなく、主のわざである。

『しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。』(出エジプト記21:14)
殺意をもって意図的に隣人を殺す場合は、その人がたとい祭壇の聖なる所にいたとしても、そこから引きずり出して死刑に処さなくてはならない。
ユダ王国で唯一、女性として国を治めたアタルヤは、自分が支配権を握りたいが故に、王の血筋を引く人達を一人を除いて全て殺害したが、彼女は後に、祭壇の聖なる所から引きずり出されて殺された。(2列王記11章)

また、誘拐する者も死刑に処せられる。
『人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:16)
神は人を自由な存在として創造され、その自由を他人が侵し、売り買いするような事を、主は許されない。
人を殺したり誘拐する者は死刑、という法律は、古来から珍しいものではないし、私達も感覚的に理解できるが、以下は現代日本人には厳しすぎるように見えるかもしれない。

『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:15-17)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割があり、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場の人であり、それに逆らう事は神である主に逆らう事である。

また、父母は、人が従うべき権威の最も身近、最も基本である。それに逆らうとするなら、その人にとって「権威」という概念が無くなってしまい、権威という概念が無い人達がはびこると、親子関係や社会の、国家の、そして、神の権威までもないがしろにされ、世の中は混乱を来してしまう。

親殺し、いわゆる尊属殺人には、世界各国でも厳しい処置を行う歴史があり、日本でも、1973年までは尊属殺人には死刑か終身刑という厳しい措置があった。
しかし、世界的にもその時期あたりから犯罪者の人権が擁護されるようになって来て、そのような法律が撤廃されて来た。
世の中の「権威」という概念が無くなって来たのは、その時期あたりからではなかろうか。
そして今や、親子や社会、国家、そして神の権威は、ないがしろにされ、秩序が無くなって来ている。

『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』
これは現代の我々にはとても厳しく見えるが、それが神のスタンダードであり、それを尊守するなら祝福を得、それをないがしろにするなら、呪いを招くものである。

礼拝説教メッセージ音声:奴隷に関するおきて(出エジプト記21:1-11):右クリックで保存

今回の箇所は、ヘブル人の奴隷を買う場合のおきてである。
人の世には罪があり、他人の罪に巻き込まれてしまったり、親が事業で失敗してしまうなど、どうしようもない理由によって、奴隷として売られてしまう、というような事は、起きうる事である。
奴隷というと、人を金で売り買いし、買った奴隷は人扱いせず生涯こき使うような、黒い、憎むべき制度としてのイメージがあるが、聖書は、奴隷になってしまった人への救済措置や人権保証をしっかり与えており、奴隷歴史の黒いイメージは、むしろ、聖書から離れた人間の罪と欲望の渦によって生まれたものなのだ。

『あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:2)
まず、奴隷は7年という期限付きであり、7年が満ちた時は失業して路頭に迷うような事がないようにと、主はわざわざ以下のように命じている。

『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)

奴隷から独立したら、家族ともども路頭に迷う事なく、しっかり身を立てて行けるように、奴隷の主人は配慮せよ、というのが主の御心である。
それならば、現代日本の雇用状況は、聖書の「奴隷」より非道い状態である事が分かる。
現代日本では、非正規雇用の人達は手に職を持てず、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま30,40代になってもマイホームも子供も持てないような状況に陥りやすいが、それは主の御心を大いに反している。

『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)
聖書には確かに奴隷制度が出てくるが、それはむしろ雇用関係のようなものだ。

奴隷が女性である場合、女性の社会的立場は男性よりも弱いため、男性よりも厚遇の度合いが大きい。
『もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。』(出エジプト記21:7)
「彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。」とは、例えば解雇しても路頭に迷わぬようにしっかり保証してやれ、という事である。
女性の奴隷であっても、しっかり人格的な扱いするよう主は命じておられる。

『彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。』(出エジプト記21:9)
ここを見ると、女奴隷の扱いは、あたかも「妻」や「娘」と同じ扱いである。

人間の奴隷制度には血も涙も無いイメージだが、主が奴隷について定められた事は、男奴隷は主人と雇用関係のよう、女奴隷は、妻や娘と同じようである。
どんな人間も、神の御前に平等で、貧富の差や能力の差は、主の御前では関係ない。
富も成功も主から来るもの、富んでいる人はたまたまその時、主から多くを預けられているに過ぎず、持っていない人も、たまたまその時、主に低くされているに過ぎない。(1サムエル2章)
たとえ自分の息子や娘さえ、自分の所有物ではなく、全てのいのちは主のものである。

主は、どんな状況にある人に対しても、憐れみ深い。
それ故私達も、この時主から多くを与えられているなら、少なく与えられている人に憐れみをほどこすべきである。
そうして主の体全体が憐れみに満ちあふれ、全体がますます富むものとなって行くのである。

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。・・・
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。』(2コリント8:9-15)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
異邦の女との結婚(ネヘミヤ記13:23-31):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ5:13-17:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:礼拝の際は人間的なものは排除せよ(出エジプト記20:18-26):右クリックで保存

『民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。』(出エジプト記20:18-19)

民は、主の圧倒的なあらわれを見て恐れ、主が直接語られないようにと願った。
モーセは「恐れてはいけません」と語ったのに、それでも民は遠く離れて立ち、主の御前に行こうとはしなかった。

信仰の偉人たちも、主の圧倒的な臨在に触れた時は恐れ、死を覚悟したが、この民とは違い、主の「恐れてはならない」という御声によって力づけられ、御前に出て行った。
モーセも主の臨在の深みへと入って行ったが、民は結局、主が直接語られる事を拒み、主の御前に行かなかった。

真実を嫌う人、偽りを好む人は、主の御前に立つ事や、主が直接御言葉を語られる事を、極度に恐れる。
そして、牧師やモーセのような、目に見える人間を神の代理人とし、取り次いでもらおうとする。

この民は後に、モーセに不平不満をぶちまけ、石で打とうとし、代わりに自分達をエジプトへ戻してくれる新しい指導者を立てようとさえした。
神が立てて下さった権威に逆らう者は皆、たとい主のあらわれを体験したとしてもすぐに忘れてしまい、目の前の自分の欲求を満たすことにのみ、思いが一杯なのである。

主の圧倒的なあらわれを見た彼らが、主を裏切るような事をするのは信じられない、と思うかもしれない。
しかし、驚くべき事に、彼らは裏切ったのだ。主も、驚かれた。(イザヤ59:16)
そして、私達も幾度、主の良くして下さったわざを、裏切をもって報いてきたことだろう。
私達の罪深さは驚くべきものであり、それを越えて、主の憐れみはなお驚くべきものである。

『あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:23)

私達は主に対し、人間的な何かを当てはめてはならない。
主を礼拝する際は、徹底的に、人間的なわざを排除する事を、主は要求される。

人間の手で作った偶像はもっての他であり、そして、礼拝を捧げる祭壇も、シンプルに、土や天然石だけで築く事を要求されている。
異国の神々の祭壇は、職人によって精巧な造作を施され、豪華絢爛なものだが、それに対し主の祭壇は、シンプルに過ぎる。
それは、人が祭壇に特別な思いを抱くべきではなく、あるいは人の作った造作や職人技に思いを馳せるべきでもなく、真実に主に集中して礼拝を捧げる事を要求されるからである。
主は、繰り返し言葉だけの心ない祈りや、悔い改めの無い断食、外見だけ着飾って内面を改めない礼拝を、忌み嫌われるお方だ。

私達が福音を伝える時も、岩なるキリストを、身勝手な細工を施してはならない。
キリストはキリストのまま、御言葉は御言葉のままに伝えるのが、本来である。

礼拝説教メッセージ音声:律法の意義(出エジプト記20:12-17):右クリックで保存

前回までは十戒の各戒めについて一つ一つ見てきたが、今回は、律法の意義について学びたい。

神は十の戒めを与えたが、人間はそれを守り通す事は出来ず、エデンにおいてはたった一つの戒めさえ守る事が出来なかった。
人は、律法という神の基準に到達する事が出来ない。

ある金持ちの青年は、イエス様から「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と言われた時、十戒を示されたが、彼は「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」と答えた。
しかし、イエス様が彼に提示した神の基準は、はるかに厳しいものだった。(マタイ19:16-26)
『イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。』(マタイ19:21-22)
イエス様は、他にも神の基準を示したが、それらはとても人には到達できない内容であった。(マタイ5:21-48)

果たして、救われる人はいるのだろうか。
『弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。』(マタイ19:25-26)
イエス様の答えは、救いは、人には達成し得ない。しかし、神にはなんでもできる、という事だった。

イエス様は、金持ちの青年に最初に言っていた。
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」
私達の救いは、「よい方」にかかっている。

では、律法とはいったい何か。
律法とは、キリストが来られる時まで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの、と書いてある。(ガラテヤ3:19)
『律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。』(ローマ7:7-8)
パウロが律法を知らなかった間は、彼の内に罪という意識は無かったが、「むさぼってはならない」という律法を聞いた時、彼の内の「むさぼり」という欲求がサーチライトのように照らし出され、彼の内に「罪」という違反がある事が、明らかにされたのである。
まず律法の性質のその一は、人の内に、罪という違反がある、という事を明らかにするものである。

『それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。』(ガラテヤ3:21-22)
ここで、「万一」と仮定法が使われているからには、律法は、人を生かす事はできない。律法は逆に、人々を罪の支配下に閉じ込めた。
律法の性質その二は、律法は、人にいのちを与える事はできない、という事である。
そこで人には第三者からの救い、律法を成就して下さる「よい方」への渇望が生まれるのである。

『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。』(ガラテヤ3:24-26)
律法の性質その三は、律法は、キリストへと導く養育係である。
キリストという本体が現れ、私達がキリストを信じる信仰によって救われた以上、もはや私達は律法という養育係の元にいるものではない。

だからといって律法は、好き好んで破ったりしてよいものではない。
『すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。』(ローマ3:31)
イエス様も言われた。
『わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。』(マタイ5:17-19)

それ故、旧約律法のうち、最も小さいものさえ破る事を人には勧めないほうが良い。
『あなたは隣人について、偽証してはならない。』と書いてある以上、「嘘も方便」と言って、兄弟姉妹に嘘をつく事を勧めるキリスト者は、天国で「小さき者」と呼ばれてしまうのである。
だから、例えば人を救うために嘘をつかなければならなかった、というような場合でも、後でちゃんと主に悔い改めるべきである。

主の戒めを守る人は、主の愛の内にとどまり、主の愛の内に守られるのである。(ヨハネ15:7-10)
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:3)
愛する男性から「毎朝わたしのために味噌汁を作ってほしい」と言われたなら、「味噌汁を作る」という、いわゆる”戒め”は、難しいものではなく、むしろ喜びであるように、私達も主を愛するなら、その愛する主から来た”戒め”は、むしろ喜びとなるはずである。
そして主の戒めを守る人は主から守られ、主から愛されるのである。

救いにおいて大切なのは、「よい事」ではなく「よいお方」、律法を成就してくださったお方を信じ、このお方と一つとなる事が大事である。

今日は横浜はすごい雪でしたが、教会のある兄弟の誕生日を祝うために合計9人が集まり、伊勢佐木モールの寿司屋に行って、お祝いしました。

雪の中を歩くのは、冷たかったり靴の中が濡れたりで大変でしたが、愛する兄弟姉妹のために、雪の中を行って来るのは、とても楽しかったです。

ある人は電車で一時間かけて来て、ある人は仕事のシフトを変えてもらって、ある人は雪の中を徒歩30分かけて来ました。

雪という大変な天候だからこそ、逆に、兄弟姉妹の愛が明らかとされました。

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