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法則に乗る(ヨシュア7章10-13節)
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町は既にイルミネーションが輝き、クリスマス(Christmas=キリストのミサ)の到来を待ち望んでいるが、教会暦では、本日より待降節、すなわち、キリストの誕生を覚える週に入った。
キリストの誕生がなぜ喜ばしいかというと、彼は私達の罪を清め、死からいのちへと救って下さるお方だからだ。しかし、私達の罪が清められ、救いに入るには、このお方こそ救い主であると信じる事が必要で、そうでない人には、彼は喜ばしいお方というより、恐るべきお方、永遠の死とさばきをもたらすお方である。
それは聖書の御言葉に書いてある通りで、御言葉は、世のあらゆる法則以上の法則であり、御言葉を守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが、書かれてある通りの事が、必ず起きる。
本日は2週ぶりにヨシュア記に戻り、祝福と呪いの結果は、いかに御言葉の法則通りかを、見ていきたい。
ヨシュア記の戦いは、単に神の民を勝利させて、彼らを気持ち良くさせたり富をもたらす為の戦いではない。
この地方の悪が満ちたため(創15:16)、滅ぼされるべき者を滅ぼすための、神の代理戦争である。
それ故、人間同士が自分の利益を求めて争う世の戦争とは本質的に違い、神の法則に立つ者は、例え滅びの町の娼婦であっても救われ、法則に立たない者は、例え神の民の戦士でも、滅ぼされるのである。
城壁の町エリコに大勝利し、征服できたのは、主が戦って下さったからだが、彼らは早速傲慢になった。
エリコ攻略の前は、人々の口から余計な言葉を発する事を禁じて従順し、御言葉の法則に乗ったが、今回、エリコに比べればアイは取るに足りないから、全力投球する事は無い、2,3千人行けば良いだろう、と言って、約3千人が戦いに行ったが、結果36人が打たれ、イスラエルは敗走してしまった。(ヨシュア7:2-4)
アイの住人は約1万2千人、それに対し自軍の兵は3千人で十分、と言うのだから、イスラエルの中にはよほど傲慢な霊的雰囲気が流れていた事、主に伺い信仰によって前進する事を忘れていた事が分かる。
人はうわべの人数や規模の大小を見るが、主は、小さな事でも忠実に従い通す心を求めておられる。
我々はあれだけの困難に勝った、あんな大きな事をした、と言っておごり、御言葉や、たとえ小さな礼拝さえないがしろにするのなら、主は沈黙し、たとい彼らが、のこのこ負け戦に出て行っても、放っておかれる。
ヨシュアはただ一回の負け戦によって心がしなえてしまったが、主は2回「立ちなさい」と命じた。
主が望んでおられるのは、何十時間もの後悔や祈りなどではなく、立ち上がって、自分の中にある主の忌み嫌われるものを示していただき、しっかりとそれと向き合い、きっちり取り除く事である。
「滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」(15節)
人はこれを、厳しいと思う。しかし私達は、自分の中の「滅ぼされるべきもの」、すなわち罪を、それだけ厳しく対処しなくてはならない。厳しく対処しなくてはならない、と言っても、成すべき事はいたってシンプルで、自分の罪を認め、罪から救って下さり最善へと導いて下さるイエス様に、全てを明け渡す事である。
滅びに導いた当事者であるアカンは、罪を示す”くじ”の当選範囲が、自分に向かって段々狭められて来るのが、気が気でなかったろう。しかしそれでも、彼は最後の最後まで名乗り出て悔い改める事をせず(16-18節)、最後にくじが当たって罪が暴かれ、結局彼は持ち物を焼かれ、家族は石打ちにされた。
彼は、主に捧げられるべき金や銀(6:18,19)を、滅ぼすべきシヌアル(バベルの地)の上着と共に、自分の物として天幕に隠し、銀を埋めていた。主に捧げるべきものを自分のものとし、滅ぼすべきものも同じく自分の懐に囲うなら、自分に属する全てが滅ぼされてしまうというのは、象徴的な事である。
御言葉は世のあらゆる法則以上の法則で、それを守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが来る以上、私達は、傲慢になったり、不従順にならないよう、気をつけるべきである。
御言葉にしっかり留まり、しっかり従順となって、主の民として多くの勝利と祝福を勝ち取る皆さんでありますように!
アドベント(キリストの降誕を待ち望む期間)が始まり、教会にもクリスマスツリーとリースを飾りました。
23日のキリストの祭り以来、教会でも色々な事が動き始めており、詳しくは書けないのですが、主が色々な仕分けしておられるような感じです。
先週に続き、今日も初めての方が2名来てくださいました。
日々、しっかりとイエス様に、教会に、繋がりますように。
召しだされた聖なる者として(1コリント6:9-14)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-25 23:10
礼拝説教メッセージ音声:召しだされた聖なる者として(1コリント6:9-14):右クリックで保存
韓国語通訳有
主日の収穫感謝祭では、栗がイガの中に入った状態だったが、実はあれは、イガは自然に落ちているものを拾って来て、その中に、店で買った栗をはめ込んで、飾ったものだ。
それはあくまで、飾りのためだったけれど、皆さんがもし偉大な王様に栗を献上する時、イガがついたまま献上して「はいお召し上がり下さい」などと出来るだろうか。
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(1コリント6:9-10)
ここにリストされている事は、以前に属するもの、もはや過ぎ去ったもの、捨てられるべきもの、栗のイガに似た「もみがら」の類であり、それをつけたままでは、主の御前に捧げられるものではない。
そのような以前の事どもを引き摺ったまま「神は全てを受け入れてくれるのだから」と悔いて改める事をしないのであれば、主は受け入れて下さらない。
「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(11節)
私達が留まるべきは、洗われ、聖なる者とされ、義として下さった「主イエス・キリストの名」の内に、である。
そうであるからには、もはやもはや古きに属するイガや渋皮といった「もみがら」と言ったものを、主の御前に、再び身につけるような事は、すべきでない。
『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。』(12節)
人間には神の似姿として自由意志が与えられており、神であっても、その自由意志を操る事をなさらず、アダムが罪に陥る選択をした時でさえ、強制力を持って人を支配なさる事をしなかった。
キリスト者とは確かに自由とされた者である。
しかし、すべてのことが益になるわけではない。
盗みをすれば、それなりの報いを刈り取るし、姦淫を犯しても、それなりの報いを刈り取る。
キリスト者とは、11節にあるとおり、主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされた者達である。
だからキリスト者は、聖なる者として召しだされた以上、それに相応しく歩むべきであり、聖なる品位を保つべく努力をしなくてはならない。
競技をする者は、自らを節制する。
夜食をがつがつ食べる自由は、確かに競技者にもあるかもしれないが、そんな不摂生ばかりして太った者が、競技に勝てる訳はない。
同様に、御言葉で勧められている事を無視して、「これが私のスタイルなの!」と自分流を主張しているような者は、勝てるわけが無いのだ。
聖なる競技に立つ私達は、全ての事に節制し、何が最善であるのかをわきまえ、選択して行動しなくてはならない。
主は、私達に自由を得させるために、まさしく命を捨ててまで、私達を愛され、解放させて下さった。(ガラテヤ5:1)
だから、古き肉に属する者戻って再び奴隷のくびきが負わされる事が無いように、そして、聖なる者として召し出された者らしく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
本日、ある方々とお話しました。
キリスト者が「主イエスの名によって命じる」という事について、私は、どんどん為すべきだという立場でしたが、彼らは、そのような事はすべきでない、という立場でした。
ちなみに、キリスト者はどんどん主イエスの名によって命じるべきだと私が解釈している根拠の御言葉は、以下のURLにてメッセージしました通りです。
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=552
この事について、きっと色々な解釈はある事でしょう。
キリスト者が、どの御言葉をどう解釈するかについてはバラエティがありますが、主は、それぞれ違う環境、違う場所、違う時代に生きるキリスト者に対し、それぞれにしか出来ない働きを、託して下さったからだ、と、私は思います。
今、新潟のファミレスで、新幹線を待ちつつ兄弟姉妹達と交わっています。
賛美集会「水はぶどう酒に」とても祝福されました!
私は奉仕で夢中で、来た方々とあまり交われなかったのですが、他の兄弟姉妹に聞いてみますと、イエス様は色々な人に、いやしや解放を、方向性の示しや疑問の答えを、与えて下さったようです。
私はピアノ奏楽を担わせていただきましたが、練習して来たのとはまったく別の演奏が、また私の技術ではない事が与えられました。
やはり、あの時あの場所は祈られていたので、特別でした。
集会としての「水はぶどう酒に」は昨日終わりましたが、イエス様が水から変えて下さったぶどう酒の効用は、これからじっくり効きだします。
もはや人の祭りを求める事は終え、イエス様を主とする日々を保ちつつ歩む皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:たゆまず善を行いなさい(マタイ5:43-48):右クリックで保存
韓国語通訳有
今日は、最近いただいた恵みの分かち合いをします。
最近、ある人が主にあって建て上げられる事を願って、その人のために祈り、時間や労力を注いだり、お金の便宜を図ったりました。
ところがその人は、このように言いました。
「私は別にそうして欲しくなかった、あなたが勝手にそうしただけだ」
私はその人が主にあって成長する事を望んでいましたが、その方は別の事を願っていて、私がその方のためにする事は、あたかもその方にとっては邪魔であるかのようでした。
その方のために骨折った事への感謝はなく、むしろ「あなたが勝手にした」と受け止められた事で、怒りと悲しみの苦々しい思いに溢れて、祈りました。
暫く祈っていると、心に浮かんでくる言葉がありました。
「あなたは、わたしが命がけであなたを救うために流した血を、踏みにじった事は無いのか?」
私はその言葉を受けた時、心刺され、さも自分は何の間違えも罪も無いかのように、さも、自分が何か尊いものであるかのように、高ぶっていた自分が悲しくなりました。
私は邪悪で罪深く、まさにその日、主が流して下さった血潮を、軽んじる事をしました。
それなのに、今私はこうして恵みと哀れみによって生かされています。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
私は罪と穢れにまみれているのに、そしてそれは今もそうであるのに、そんな私に、主は何をささげて下さったのか。
主は、尊い血潮を、尊いご自身のいのちを、私達のために、父なる神に捧げて下さいました。
それを思うと、私は申し訳なくて申し訳なくて、ただ「主よ、ごめんなさい」と心一杯に呼ぶしかありませんでした。
主が命じられた事を守ろうとする時、時には無駄に思える事があるかもしれません。
しかし、主は良い人にも悪い人にも太陽を登らせ、雨を降らせて下さる良いお方です。
主が望んでおられる事は、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る事。それでこそ、天におられる御父の子となる事が出来る。(マタイ5:43-48)
だから私達も、そのような主の足跡を辿る事に、間違いは無いのです。
もし皆さんが、主のために奉仕をする時、その動機が主を愛するがため、主に捧げたいがために成すのであれば、人々が何を言おうと、主はその捧げ物を受け取り、とこしえの記念としてくださいます。(マルコ14:3-9)
主が十字架にかかられる直前まで、主がなさろうとする事を12弟子は理解しておらず、ベタニヤのマリヤだけが理解していました。
マリヤは、主が自ら死へと向かっている事を悟ったけれども、他の弟子達は分かっていないので、彼女自らにしか出来ない事をしました。
彼女は300デナリ(1デナリは一日分の給与)の香油のつぼを割り、一滴残らず主に注ぎ尽くしました。
主は、そんなマリヤの心を隅々までご存知でしたが、他の弟子達はそれとも知らず、なぜこんな、無駄な事をしたのか、と憤りました。
私達が主の御心を知り、自分しか出来ない事をする時、周りはそれを悟らず、無駄なことをしている、と怒るかもしれません。
しかし主は、皆さんの心を隅々までご存知で、むしろ皆さんを弁護し、褒めて下さいます。
イエス様は、この事は彼女にとって永遠に記念となると言われました。
永遠に残る事とは、人の考え付いた善行ではなく、主のために注ぎ尽くす事。
主の御心を探り、主のために、その日その時にしか出来ない事をする事。
それは人の目には無駄に見えるかもしれませんが、主の目には尊く、永遠に残る事です。
主が求めておられる事を悟り、人の言葉に左右されず、たゆまず主のために注いでいく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
いよいよ明後日が「水はぶどう酒に」です。そのため、明日から新潟入りします。
人の思いがどうであろうと、主が命じられた通り、忠実に水汲みをしてきました。
あとは明後日、主がそれを喜びのぶどう酒へと変えてくださるだけです。
とても楽しみです。
天声教会から何名か新潟へ奉仕に出ますが、天声教会における集会は平常どおり行っております。
礼拝説教メッセージ音声:訴えあう事について(1コリント6:1-8):右クリックで保存
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コリントの教会は、分裂分派争いがあり、不品行はひどいし、さらには、兄弟姉妹同士の裁判沙汰もあったようである。
パウロはそれらに対し、表面的に「してはいけません」と注意するだけでなく、主イエスにある私達がどういう立場であるのか、真理に立てばそうした事がいかに稚拙であるかを、示して来た。
この6章は、兄弟姉妹同士が訴え合う事について叱責しているが、ここにおいても、真実に照らして何が問題であるのかを示している。
「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。」(2節)
私達人間は、今はしばし、御使いよりも低いものとされているが、後に世界は、私達神の子の支配化に置かれるようになる。(ヘブル2:7)
それなのに、聖徒達の間に争い事が起こると、聖徒同士が御言葉に照らして戒めあうのではなく、世の裁判官を選んで裁判してもらい、自分達の失態を、世に晒している。
そもそも、訴え事が起こるのは、大体人の貪欲さが原因である。
自分の思っていた通りに人が動かない時、欲におびき寄せられだまされる時、自分に栄光を帰するための栄誉欲が満たされなかった時など。
『群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」』(ルカ12:13-15)
自分の兄弟から、いくらかでも財産を取りたいという、貪欲に由来する争いごとは、イエス様は取り合わなかった。
むしろ、貪欲に注意して警戒するよう注意し、そして、多くの持ち物を頼りとする愚かな金持ちのたとえ話へと続けた。
世に属する朽ちてゆく富のために、聖なる兄弟姉妹をないがしろにしたりして、自分を滅びに定めるような事は、実に愚かな事である。
財産を得るために、兄弟姉妹をないがしろにしたり、争ったりする者は確かにいるが、イエス様が命じられたのは、兄弟姉妹同士は、互いに愛し合いなさい、という事だった。
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」(7節)
これは、右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい、という主の言葉に通じるものがあるが、その箇所(マタイ5:39)をよく読むと、まず「悪いものに歯向かってはならない」という言葉が先にあり、そこから、右の頬を打たれたら左の頬も、、、と続く。
つまり、悪い事をした者に「抵抗しない」事は、その者を「悪い者」と定め、その者の裁きを、正当にさばいて下さる神様にお委ねする事になるのだ。
兄弟姉妹がもし悪い事をしたら、御言葉を根拠に、柔和な心で訓戒する事、それが愛する兄弟姉妹への対処である。
そうする事で、もしかしたら悪魔に囚われているその人を、神様はあるいは悔い改めに導いてくださるかもしれない。(2テモテ2:23-26)
最も良くないのは、コリント人がしているように、愚かな議論をもって兄弟姉妹に争いを引き起こしたり、兄弟姉妹を言葉巧みに自分の所に引き込んで分裂を促したりする事である。
しっかりと御言葉を身につけ、互いに愛し合い、赦し合い、仕えあいつつ、互いに徳を立て上げて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
今日は収穫感謝祭で、なおかつ洗礼式、聖餐式でした。
第2礼拝が終わった後、皆で、教会のある兄弟が仕事で担当する物件におしかけて、祈ったり賛美したり祝福して来ました。
その後、今日はめでたい日という事で、焼き鳥屋の働き人たちが腕を振るってサムギョプサル・パーティを開いて下さり、お腹も霊も満たされて帰ってきた所です。
色々と初の試みで、洗礼を受けられた方ももちろん、私にとっても、思い出深い日となりそうです。
主に捧げられる良き実となるために(ルカ3:16-17)
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「ヨハネはみなに答えて言った。私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(ルカ3:16-17)
バプテスマを授けていたヨハネは、自分よりも、自分の後に来られるお方こそが重要であると強調した。
パウロも同様の事を1コリント1:10-18で述べており、バプテスマを授けた人や、知者や指導者などの人間が重要なのではなく、十字架につけられたキリストこそ、私達が拠り所とするお方である、と言っている。
このお方は、私達に聖霊と火とのバプテスマを授け、また、もみがらと実とをふるい分けられる。
本日捧げられた野菜や木の実、種などの収穫物は、見ての通り、美しく麗しく良いものである。
見た目が鮮やかで、香りもかぐわしく、祭壇に並んでいるのを見ると、幸せな気持ちになってくる。
これらのものは、全て天の写しであり、地上の物は影にすぎない。
天の倉に納められる、真の「良い実」とは、御国の子達である私達であるが、しかし、この世という「畑」には、悪魔が蒔いた毒麦も同時に育っていると書かれてある。(マタイ13:36-43)
しかし世の終りの時、つまずきを与える者や不法を行なう者達はみな、御国から取り集められ火の燃える炉に投げ込まれ、正しい者達は天の御国で太陽のように輝く。
キリストにつながる私達こそ、良き実を結ぶ者達であり、結んだ良き実は主の倉への奉納物となる。
また同時に、私達自身が、主に捧げられる、生きた供え物として捧げられなくてはならない。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ロマ12:1)
主の倉へ入れられる有用な供え物となるには、私達の肉という、余分な殻は、脱穀されなくてはならない。
例えば栗は、イガがついたままでは、当然口には入らない。まず、とげとげしたイガを取り、煮詰められ、種の堅い殻も、渋い皮も剥ぎ落とされて、やっと食用になる。
そのように私達も、主の御前にとげとげした外側も、内にある堅い部分も、内にある渋い部分も、全て除かれ、焼き尽くされなくては、主の入用にはならない。
ヨシュア記においても、まず割礼を施して余計な部分を取り除き、過越の小羊を祝った時、マナが降るのが止み、その時から、地の産物を豊かに得る事が出来るようになり、そしてそこから、勝利につぐ勝利の生活へと転じた。(ヨシュア5:1-12)
過越祭でほふられる小羊は、まことの小羊キリストをあらわし、その裂かれた肉を共に食す事は聖餐のパンを予表し、流された血潮のしるしは、十字架の血である杯を予表している。
土地の収穫を得るには、自分の手で働く事が必要で、それは、今までのように受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ自らの手で働き収穫するという、一日一日が主とのコラボレーションの生活である。
これからは、分捕られてきた物を主と共に分捕り返し、世に対して、サタンに対して勝利を重ねる時である。
もちろん主を心の王座から引きずり降ろし、逆らってしまったら、敗北に転じてしまう事を忘れてはならない。
「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7,8)
日々、御言葉を宣言して実行し、勝利に勝利を重ねる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!