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滅ぼされる世界の中から(ヨシュア6章22-25節)
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ヨシュア記を読み進める上で、外す事のできない人物が、遊女ラハブである。
彼女は旧約聖書で登場するのはヨシュア記だけだが、新約では1章から登場し、彼女から王族の子孫が生まれ、さらにはイエスキリストが生まれる。
実に重要な人物であるが、そしてまた、現代の私達にも似通った面がある。

彼女は、弱肉強食のカナン地方の中で、エリコという堅固な都市に住んでいるという点では、周囲より若干先んじていたかもしれないが、決して裕福な家に生まれた訳ではなかった。
先祖代々、補強して来た城壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた好きでもない男達に身売りし、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
「将来、遊女になりたい」などと希望する子供などいないし、家族が遊女になって欲しいと思う者もいない。
それでもなぜ彼女は身売りをしなければならなかったか。それは、生きて行かなくてはならなかったからだ。
彼女の仕えて来たカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も、全く無かった。
現代の日本も、多くの人達が、色々な形で身売りをしている。
一日に十何時間も、好きでもない欲望にまみれた者達の中で働き、いくばくかの報酬を得、家族に持ち帰る。いや、搾取され尽くして、家を持つどころか、結婚もできないワーキングプアが年々増えている。
日本には、数多くの神々がいるが、その何一つ、生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も無い。

ラハブは変わりたくても変わらぬ日々を送る中、力ある唯一の神と、その民の噂を聞き、思いを馳せていた。
その民は力ある神に守られ、神から与えられた律法を有し、その律法は道徳的に優れ、弱者に優しく、そしてその民は最近、川向こうの二人の王を滅ぼし、祝福と力に満たされているというのだ。
自分も、できれば家族も、もうすぐ滅ぼされるこの世界や、過酷な要求ばかりする神々から救い出されたい。
そんなある日、彼女の元に、二人の男が来た。
彼らは今まで出会ったどんな男とも違って分別と秩序があり、彼らこそ、あの民の斥候であると直感した。
主は御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのだ。(1歴16:9)

世界の滅びが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う者は多い。
しかし救われるには、救って下さる主はイエスであるという信仰告白と、決断と、そして、行動が必要である。
ラハブは、神とこの民が必ずエリコを滅ぼすと判断し、身の危険を冒しても斥候の二人をかくまい、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と信仰告白をし、そして、彼女の肉親や連なるすべての者たちの命を、死から救ってください、と、懇願した。(ヨシュア2:9-13)
そして彼女に、救いの条件、すなわち赤いしるしの内にいなさい、という条件が示された。
「家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。」(2:19)とある通り、救われる方法を聞いても、その日その時、赤い印の内にいなければ、それで滅んでも、その者自身の責任である。

世の終りの時、7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
最後のラッパが鳴り渡る時、この世のものは火によって終わり、新しい天地が現れ、築いてきた城壁に頼ってきた者達はその城壁に押しつぶされ、木や草、藁で立てられた家は焼かれ、金銀の器だけが後に残る。
エリコのラハブに似たような日々から、そして、定められている世の滅びから、救われたいだろうか?
救われる方法はただひとつ、力ある神の子イエスキリストこそ主であると信仰によって告白し、決断し、実際にそのように行動することである。
主イエス様が流された血潮の赤いしるしの下に留まって滅びを免れ、新しい天地へといのちを移し、そうしてキリストのいのちを生み出し、栄光の家系へと加えられる皆さんでありますように!

教会のある中国の姉妹が、仲間と共に中華料理屋をはじめたので、礼拝の後、七人の兄弟姉妹と共に行ってきました。

とてもおいしく、また、大勢で行ったので、わいわいしていて楽しかったです。

その中で、ある姉妹は断食していたのですが、皆が食事をしているのに彼女は主にとても満たされていて、皆のために食事の皮をむいてくださったり、そこにいる一同全員分のお金を出してくださったりしました。

なんでそこまで??と思うのですが、その断食中が、とても主に満たされ、祝福されている、だから喜んで与えたくて仕方ないようです。

主がそのように与えてくださった喜びが、私達にも伝染して、皆で両手を挙げて彼女を祝福しました。

彼女こそ、祝福されて当然だと思います。

 

この投稿の題名の意味は何か、ですって? それは、与えるものは幸いです、その人は押入れ、揺すり入れして与えられるからです、という御言葉からです。

礼拝説教メッセージ音声:十字架につけられたキリストのみ(1コリント2:1-5):右クリックで保存
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コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や雄弁術、詭弁学が盛んであり、色々な娯楽もあったため、コリント人の目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
それだから彼らがパウロについて気を留めたのは、御言葉のいのちではなく、外見の弱々しさや話ぶりのなってなさ、という、キリストのご性質とは関係の無いことについてであった。(?コリント10:10)
今日でも、語られる御言葉ではなく、説教者の見栄えや話し振り、ステータスなどに気を取られて、その話している御言葉を右から左へと素通りさせているとしたら、当時のコリント人同様、叱責されても仕方無い。

パウロがコリントでは弱く恐れおののいていた(3節)のは何故だろう。
また、何故すぐれた知恵を用いて神のあかしを宣べ伝えることはせず、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したのだろう。
それは、彼がコリントに着く前のいきさつを見れば納得がいく。
彼はマケドニヤで何度もユダヤ人たちの暴動に遭っては別の地に逃れるという事を繰り返し、シラスやテモテを置いてギリシヤへと半ば逃げるように、一人ぼっちでアテネに着いたのだった。(使徒17章)

実はパウロは、このアテネのアレオパゴスで、雄弁術的に知恵を用いて福音を説明しようとしている。
有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、よって偶像崇拝は意味が無い、
そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。
それは、死者のよみがえりの話になった途端、アテネの人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言って2度と聞こうとしなかったからだ。
そういうわけでパウロがコリントに到着した時、弱く恐れおののいており、そして雄弁術的に人を説得する事も止め、イエス・キリスト、それも十字架につけられた彼のほか、何も知るまいと決めたのだろう。

パウロはコリントでは弱々しく恐れおののき、雄弁さのかけらも無かったというのに、なぜ大勢の人達が信じ、救いに導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそが、神の御霊と神の御力の現われだからである。
多くの娯楽と不品行に溢れ、目と耳が非常に肥えているコリントの人が、聖なる者へと造り変えられるのは、雄弁さでも説得でもなく、十字架につけられたキリスト、ただこのお方のみである。

もし雄弁さや説得によってパウロになびいたのであれば、他の優れた雄弁家、優れた娯楽が来れば、すぐに捨ててしまっていただろう。
しかし、信仰は人の知恵によらず、神の力によるからこそ、このような町にあっても人は造り替えられ、聖なる者となったのである。

十字架につけられたキリスト、このお方にのみ望みを置き、神の御霊と神の御力を現す皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:誇る者は主を誇れ(1コリント1:26-31):右クリックで保存
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十字架の福音とは、世の人からすれば、実に愚かである。
なにしろ、世界を救うメシヤが、裸にされ、あざけられ、十字架で公開処刑された、というのだから。
知者であればあるほど、また力ある者であればあるほど、それはばかばかしく、受け入れ難い。
福音はなぜ、わざわざ、そうなのか。
それは、この世の力ある者達をはずかしめるためである。(1コリント1:27)

コリントの人たちは、世の価値観のまま変わらず、世において富を得、高められ、力ある者、知恵ある者となる事を、求めていた。
彼らは福音を、この世的なステータスや祝福を求める価値観だったからこそ、争いや分裂が絶えなかったのだ。

キリストに望みを置く者は、概して、知者も、権力者も、力ある者も、そんなに多くは無い。古今東西、大体そうである。
それでキリスト教は弱者が信じる宗教だと言われるが、それは逆である。
神が、この世の弱いものを、敢えて選ばれた。(28節)だからこそ統計的に、知者や権力者、力ある者は少なく、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者が多いのである。

キリストに望みを置く皆さんは、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者と言われて、不愉快になるだろうか。
もしそうなら、コリントの人と同じく、価値観はこの世に向かっているのだ。
イエス様が、無に等しい見下されている者を、あえて選んで下さったのは、誰も誇らせないためであり、私達が誇るべきは、ただ主だけである。

しかもなんと、私達が為す良い行いをも、あらかじめ備えれていたのだ。(エペソ2:8-10)
ここまで来ると、もはや誰も自分の何かを誇る事ができない。

私達が世にあって歩むとき、何を求めるべきだろうか。
お金だろうか?地位だろうか?知恵だろうか?力だろうか?
私達は、それらを豊かに与えて下さり、楽しませて下さる主をこそ、求めるべきである。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)

礼拝説教メッセージ音声:愚かさの極みの中に命あり(1コリント1:18-25):右クリックで保存
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コリント人たちは人間的な知恵によって優劣判断していたため、兄弟姉妹達の間に分裂があった。
それでパウロは、人間の知恵は神の前には愚かだと指摘している。

人は、力強いな演説や雄弁さ等によって、いのちを得たり救われたりする事は、決して無い。
人は何によっていのちに至るのか?
それは、人には愚かに見える、十字架の言葉によってである。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(18節)

一体どこの脚本家が、人類の救世主は裸にされ、さらし者にされ、磔刑にされる、などと考えつくだろうか。
十字架は、人の価値観からすれば、愚かの極みである。
しかし十字架は、私達いのちに定められた者達にとって、救いの力なのである。

何故そのように福音は、人の目に愚かなように出来ているのか。
それは「知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」ためである。(19節)
救いとは、人の何かに拠るものは何一つ無く、神様からの一方的な恵みであると、神様が定められたからである。

もし福音をそのまま伝えるなら、それは愚かとだと、人は判断しやすい。
だから人は、福音を、より人にとっつきやすく、よりスタイリッシュにと、音楽や芸術などを織り交ぜつつ、伝えようとする。
そうした事は、より多くの人たちに間口が広がる、という意味で、有用である。
しかし忘れてはならないのは、救いは、そういった人の知恵による装飾だけでは成就しない事、そして、救いはイエスキリストの十字架を除いては、ありえない、という事である。
救いは、宣教の愚かさを通して伝わるようにと、神様は定められたのである。

見栄えの良さや、スタイリッシュさ、心地良さだけを伝え、福音の根本たる十字架を伝えない事には、命の養いも栄養も何も無い。
救いの根幹である主イエス様の十字架をしっかり理解し、伝える皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:私は誰々につく、ではなく(1コリント1:10-17):右クリックで保存
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もし皆さんが、ある人から「あの人はあなたについていくと言っていた、でもこの人は誰々についていく」と聞いたなら、どうだろう。
「そうか、あの人は私に味方で、あいつは敵だ」と言って、舞い上がったり憎んだり、という事になるだろうか。

パウロはある時、コリントの人たちがそのような状態だ、という報告を受けた。
ある人はパウロにつく、ある人はアポロにつく、と言って、分裂があるというのだ。
パウロはそれを聞いて、よし、私につく者だけを集めて戦争だ、などと言っただろうか?
そうではない。パウロは分裂がある事を、悲しんだのである。
コリント人への手紙の最初は、流石にあいさつで始まったが、あいさつもそこそこに早速本題とするほど、パウロにとって、兄弟姉妹の分裂は、早急に解決すべき課題だったのである。

「わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」10節
「心を一つにし」とは、キリストの心を心とする事(ピリピ2:5・文語訳)であり、「思いを一つに」とは同じ判断基準である御言葉を、全てをはかる上での物差しとせよ、という事である。
そして、兄弟姉妹が一つとなるのは「わたしたちの主イエス・キリストの名によって」である。

「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。」(12節)
この中に。「わたしはキリストに」とあり、それは一見非が無いかのようだが、一体何が問題なのか。

サタンでさえ、御言葉を道具にして人を訴えるのだ。
たとい、御言葉の知識が完全であっても、御言葉を、自分の正当性を主張して対立する道具とし、党派心を煽り、他の兄弟姉妹と敵対するなら、それは問題である。
兄弟姉妹の間に愛が無く告訴し合うのであれば、一体その正しい知識は何になるだろう。

私は誰々先生につく、いや、私は別の先生に、といった争いがあるとしたら、その人たちはまだ肉に属する者であり、ただの人と全く変わりない。(1コリ3:2-5)
あの先生もこの先生も、主が各々に授けられた賜物に従って働きを為した「器」に過ぎない。

大切なのは、誰々から何々の経験を受けた、ではなく、肉に歩んでいた頃の自分には死に、新しくイエスと共によみがえらされ、日々、新しいいのちを主イエスの名によって歩む事なのだ。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)
分裂や分派といった、古い世界に属する事はもう止めにして、キリストと共に十字架で死んだ者として、新しい創造として歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:コリントにある神の教会へ(1コリント1:1-9):右クリックで保存
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パウロ達の第2回伝道旅行の時、彼らがマケドニヤでユダヤ人の迫害に遭い、止む無くギリシヤ方面へ退いた時、彼らははじめてコリント入りし、そこで1年半の間、じっくり伝道する事となった。(使徒18章)
その時、コリントにて教会が建てられたのである。

コリントの町は地峡の上にあるため、交通の要所として商業的に発展し、色々な文化が交じり合ったが、同時に道徳的な退廃も進み、退廃的な生活を送る事を「コリント流」と言うほどだった。

そんなことからか、他の手紙と比べて見ても、コリント教会は、色々な問題を抱えているようだった。
パウロはこの書簡を、第3回伝道旅行で、エペソで2年滞在している時期に書いている。

彼はなぜコリントへ手紙を書く必要を覚えたか。
それは、コリントの教会には分裂があった事、また、パウロへ幾つか質問があったため、その質問に答えるために書いたのである。

そういうわけで、この手紙には諸々の具体的な問題への答えが書いてあるため、我々キリスト者にとっても、それらの問題への対処が分かりやすく説明されている。
コリント人への手紙の書き出しは、「キリスト・イエス」という言葉を何度も登場させ、まず置くべき立ち位置は、キリストイエスである事を思い起こさせている。

「コリントにある神の教会、〔すなわち〕キリスト・イエスにおいて聖められた者たち、召された聖なる者たちに〔この手紙を書き送る〕
――私たちの主イエス・キリストの名を、いたるところで呼び求めているすべての者たちと共に ――〔この名は、〕彼らのものであり、そして私たちのものでもある。」(2節、岩波訳)

神の教会、すなわち、私達主に呼び出された者達は、キリスト・イエスによって清められた者であり、そして、至る所でキリスト・イエスの名を呼び求めている者達である。
私達は、人間的な知恵や主張よりも、キリストにある知恵や知識、御言葉に基づいた判断を、生活や行動の規範とすべきである。
「あなたがたは、その方の子であり私たちの主であるイエス・キリストとの交わりへと、召されたのである。」(9節)
このお方にあって、知恵においても、知識においても、全てが豊かに満たされる皆さんでありますように。

命じられた通りに(ヨシュア6章)
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主の軍の将から伝授された攻略方法は、この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置しなさい、などではない。
戦士達は皆、町の周りを1度回り、六日同じ事をせよ、そして7人の祭司が7つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、7日目には7度町を回り、角笛を吹き鳴らしなさい、という事だった。(ヨシュア6:2-5)
この情景を想像するなら、非情に奇妙な光景である。
イスラエルの軍勢がわざわざエリコに来たのは、黙って行進をする為ではなかったはずだし、エリコの兵士達も、戦いを想定したために城門を堅く閉ざしているはずである。
それなのに、イスラエルが最初に町を囲んでした事といえば、単に城の周りを黙々と行進し、特別な服を着た祭司達が契約の箱を持って角笛を吹き鳴らしているだけである。

神様の祝福の約束は、はたして本当に成るのか、と、不安になるかもしれない。
しかし、御言葉として言われた事は、頭では理解できなくとも、その通りに為すべきである。
モーセがいなくなった時民は40日待つべきだったし、サウルもサムエルが戻ってくるまで待つべきだった。
主が命じられた事が、たとえ理解できなくても、黙ってその通り行った結果、らい病人は癒され、見えない者の目は開かれ、カナの婚礼の僕たちが汲んだ水は、ぶどう酒へと変えられたのだ。

ヨシュアは民に、定められた時までは言葉を発してはならない、と命じた。(ヨシュア6:10)
民に黙っているように命じたのは、唇で罪を犯させないためであり、誰かが「こんな事何の意味があるのか」と、いらぬ呟きを始めると、それが伝染してゆき、荒野で滅んだ民と同じ道を辿ってしまうからだ。
もし、神様の命じられる事を、人の常識に照らすなら、あれこれとつぶやきたいかもしない。
しかし私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、そういう思いがあったとしても、唇という境界線を越えず、淡々と命じられた通り行う事は、大事である。

雄羊の角笛とは、神の小羊キリストの栄光を賛美する道具であり、また、警告を与える道具である。
もし私達が、神のみわざを行いたいのであれば、また、神の祝福に入りたいのであれば、まず、私達の唇は閉じ、自分の思いは脇に置き、神様が命じられた賛美と警告だけを、発し続けるのみである。
それも、1日だけでなく2日、3日も同じように、そして、定められた時までそれを実行するのである。
人々の目から見れば、こんな事でいいのだろうか、もう何も起きず5日経った、6日も経ったじゃないか、と、言いたくなるかもしれないし、敵も、なんだ、あいつらはただラッパを吹いて行進するだけで、何もしないじゃないか、と、侮るかもしれない。

勝利を目前としている時、神様から命じられたけれどもその意味が分からず、先行きの見えない現実と、している事の意味を見出せない淡々さが、嫌になるかもしれないが、神様が命じられた事は、「6日間それをせよ、そして7日目には7度それをし、祭司達は角笛を吹き鳴らせ」であって、それ以上でも以下でもない。
は命じられた通り、7日目だけは7度回った。すなわち、最後の日には、賛美と警告を、7度、行った。
この時、エリコの住人が代々建て、頼りとして来た城壁は、あっさり崩れ、町はあっさり陥落した。
皆さんの目の前に、城壁は立っているだろうか?信仰を持って従い通すなら、その城壁は崩れ落ちるのだ。

世の終りの時にも、ヨシュア記6章に似た事が起こる。
7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人々が代々築き上げてきた全ての営みも、世の国々全ても、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
この終わりの時代、警告のラッパが吹き鳴らされる頻度が、特に頻繁になって来ている。
私達の口には、主に対するつぶやきは登らせず、信仰をもって御言葉の通り淡々と為し、世に対しては賛美と警告を発し続け、大いなる勝利と分捕りをする、そのような皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神に御栄え(ローマ16:21-27):右クリックで保存
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いよいよ今回でローマ人への手紙は終りだが、手紙を閉じようとして、パウロは何度か祝祷をしている。
実は24節として、もう一つの祝祷を挿入する異本もある。
聖徒を祝福する事は何度しても、いや、やればやるほど、祝福されるものである。

パウロは今度は、彼の周りにいる人たちから、ローマの人たちによろしく、と言っている。(21-23節)
彼の周りにはテモテを筆頭に、コリントの監査役エラスト、パウロが宿泊していた家主のガイオのほか、色々な地方の出身者がいた。
その事から、パウロがコリントで手紙を書いた時点で、彼は色々な国のメンバーから成る宣教チームと共にいた事が分かる。
パウロは宣教を一人でしていたのではなく、色々な賜物を持ったメンバーと共に行っていたのだ。

さて、25から27節で一つの長い祝祷となっている。
パウロは10,11章において、イスラエルの選びと異邦人の救いのご計画を説明し、その最後に
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマ11:33)
と言って、神のその遠大なご計画を称えた。
それと同じように、この手紙の最後も、神の深遠な知恵と力を称えつつ、手紙を閉じている。

パウロは、聖徒達を何度も祝福し、「よろしく」を交換し、最後の最後に神に栄光を捧げた。
彼のように、聖徒達を祝福し、聖徒達と「よろしく」を交換し、そして神に栄光を捧げる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:分裂や躓きに気をつけなさい(ローマ16:17-20):右クリックで保存
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パウロが兄弟姉妹一人一人に「よろしく」と挨拶した後、さらに加えて書き残したかった事、それは。
分裂や躓きを引き起こす者に、気をつけなさい、という事である。(17節)

「テトス3:10 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。」
この「分裂を引き起こす人」は別訳では異端の事で、自分で何か悟ったかのような事を、キリストの福音に付け加える者である。
「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」(18節)

初代教会においては、元々ユダヤ教を信じていた人達が、あたかも、キリストを信じる信仰によるだけでは救いに至らないかのように、律法的な行いまでも促す者達がおり、特に、ガラテヤの教会の人たちは、そのえじきになっていた。
パウロがそのように促す者は「呪われよ」と2度も宣言した(ガラテヤ1:6-9)。
それは、イエス様が命懸けで開いて下さった信仰による救いの道を、たかだか、自分のケチな自己顕示欲を満たすだけの為だけに、純粋な福音に身勝手な教えを付け加え、そして人々に躓きを与え福音から遠ざけてしまう者を、パウロは非情に嫌悪していたからだ。

教会内の交わり内に偽りの教えを吹き込む者がいる場合、相手が聖徒だと思って警戒心を解く為、御言葉の知識が無いと鵜呑みにしてしまい、えじきになりやすい。
だから「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」(19節)と言って、教会に忍び込んでいる異端に、気をつけるように促している。
私達は日々、御言葉をたくわえ、何が福音に従順し、何が福音と違うのか、知識を身につけるべきである。

偽兄弟達に対する対処は、戦って論破しなさい、ではなく、その人たちから遠ざかりなさい、である。(17節後半)
戦って下さるのは平和の主であり、しかも、主は私達の足を悪を砕く鉄槌として用いて下さる。
「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」(20節)
主は、誰が主に敵対する者で、誰が主に愛される者か、後に明確にして下さるのである。

偽りが多くはびこっている中、御言葉の知恵に満たされ、聖徒の交わりがますます純粋で、平和に満ちたものとなりますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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