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今週は、焼き鳥屋もブティックも共に最高売り上げを更新しました。

足りなくなった時は主が必ずこのように必要を満たし、「私に信頼しなさい」と、色々な事を通して教えておられる気がします。

礼拝説教メッセージ音声:交わりの純度を保つために2(1コリント5:9-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロは、不品行な者を悔い改めさせもせず相変わらず交わりを容認させているのは、高ぶっている事だと指摘し、その者を主イエスの権威によってサタンに引き渡した。
それは、彼の肉が滅ぼされるためであり、それによって彼の霊が救われるためである。

コリントの町は、現代日本のように偶像礼拝に満ち、不品行に満ちていた。
そのような事をする人達と一切付き合ってはならない、という事なら、確かに、この世界から出て行かなくてはならない。
しかし、兄弟と言われるものの中で、そのような事をする者とは付き合ってはならない、食事を一緒にしてもならない、と命じている。(11節)

私は会社に勤めている時、お酒を飲むのが好きだったが、その時この御言葉を読んで、酒が好きな私は、兄弟姉妹と付き合う資格も無い、と見出し、兄弟姉妹と交わるとき、この言葉を思い出すたびに、ちくちくと心刺された。
他の兄弟姉妹の中にも、他の罪、例えば性的不品行など、中々止められず、心刺されている方も、いるかもしれない。

そういう人たちが、自分を御言葉に照らしてさばき、罪があると認め、主に救われたい、解放されたいと願うなら、もちろん主は癒しや解放の御業を為して下さるお方である。
しかし、御言葉が何を述べているかを聞きながら、不品行や酒、偶像礼拝などを、兄弟姉妹の交わりに持ち込み、止めないのであれば、その者は、教会の交わりを乱す者である。
そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてはならない。

パウロが第1コリントを書いたのは、コリントの不品行の者が悔い改め、そして実際に訪問する時、叱責とむちをもって行きたくなかったからだった。
「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(2コ2:3)
罪を改めなさい、と言うのは、言う側も、言われる側も、悲しく嫌ではあるが、もしそれで罪が除かれるなら、パウロもコリント人も、喜びが沸き起こるのである。

そして実際、その手紙によって悔い改めが沸き起こった。
その人(パウロに裁かれサタンに引き渡された者と思われる)は、多数の者から受けたあの罰で十分で、むしろその人が悲しみに打ちのめされてしまわないよう赦して力づけ、そして、ぜひともその人を愛するようにと、後に書いている。(2コリント2:5-8)

兄弟姉妹の交わりとは、義なる交わりであり、聖なる交わりである。
罪を許さない、という厳しい面があるが、もし罪を悔い改めるのであれば、愛によって覆うものでもある。
何事でも、愛を基準に愛を根拠に為すべきである。
なぜなら、愛は多くの罪を赦し、また、憐れみは裁きに対して勝利するからだ。

交わりに愛と憐れみを満たし、ますます教会の純潔と一致を保つ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:交わりの純度を保つために(1コリント5:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有

キリストに呼び出された者達の集まりは、聖なる集いである。
それなのに、コリントの教会には、父の妻を妻としているような者がおり、しかもその者は悠然と教会を出入りし、兄弟姉妹達は、そのような者を悲しみつつ取り除こう、という事をしなかった。

そこでパウロは、主イエスの権威によってさばき、その者をサタンに引き渡した。(1コリント5:4-5)
彼がこのような対応を取らざるを得なかったのは、コリントの教会では自浄作用が機能しておらず、本来、教会がするべき事を誰もしないから、パウロが霊においてその者を裁いたのである。
兄弟姉妹を敢えてサタンに引き渡すのは、その者の肉的な部分が滅び、また、その者の行く様を見て他の者達が戒めを受け、そして、彼の霊が主の日に救われるためである。(5節)

教会とは、何でもかんでも許して、愛して、受け入れて、、、という集団ではない。

敢えて主の嫌われる事を平気でするような汚れた者が同居したまま、自分も健全に保っていける、と思っているなら、それは誇り高ぶっている。
過ぎ越しのパンにはパン種を入れてはならないのと同じように、教会全体が主に受け入れられる捧げものとなるためには、そのような者は除かなくてはならない。
主の忌み嫌われる行いを悔い改めず、他の聖徒達に悪い影響おを与え続ける者に対しては、このようにすべき事を、パウロは模範として示してくれたのだ。

主が忌み嫌われる事を行っている兄弟姉妹は、すぐに追い出すのではなく、その前に、戒めなくてはならない。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:14-18)

「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」(7節)
キリストは、私達の罪の身代わりとなるために、過越の小羊として、既にほふられた。
その聖なる愛さんの場に罪を持ち込むという事は、どれほど重い罪だろう。

「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(8節)
キリストのおられる交わりの純度を保つために、時には兄弟姉妹を戒める勇気を、常に持っておきたい。

今日は愛知県の聖徒から、等級が「秀」階級が2Lの、上等なみかんを送っていただきました。

すごく甘くておいしく、なつかしい味で、聖徒達と共に喜び、祝福を祈りつついただきました。

次週の収穫感謝祭で、主への捧げものに加えさせていただきます。

ありがとうございました。

さて、早いもので賛美集会「水はぶどう酒に」がいよいよ1週間後となりました。

詳細は以下URLをご覧下さい。
http://voice.of.christ.yokohama/modules/pico/index.php?content_id=6

礼拝説教メッセージ音声:溢れるほど愛するから、叱る(1コリント4:14-21):右クリックで保存
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私達はできれば手厳しい事は言われたくないし、また、できれば人に厳しい事は、言いたくないものである。
パウロがコリント人達を手厳しく戒めたのは、コリントの人達を霊的な子として愛しており、良くなってほしかったからである。
「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(2コリント2:3)

私達も親から叱責を受けた経験があるが、親がそうするのは、子が、幸せになるような、たしなみを身に着けて欲しいからだ。
パウロも好き好んであのような手紙を書いたわけではなく、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書いたのであり、その動機は溢れる愛から出たものだった。
「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(2コリ2:4)
厳しい事を言ってくれる人は少ないものだが、その人の動機が愛から出て、苦しみとうめきを持ちつつしてくれるなら、その人の言葉は宝である。

「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(16節)

パウロは、コリントの人達にとって、これ以上無いと言うくらいの優れたお手本だったが、私達は、誰にも彼にも従って良いという訳ではない。
その人に従って良いかどうかの判断基準は、まず、その人がキリスト・イエスに忠実に習う者であるかどうかだ。
また、その人の行いの実が良いか悪いかも、判断基準になる。
もしその人の生活がだらしくなく、どんどん貧しく病んでいるような人であれば、例えどんなに優れた事を言っているようであっても、その人はスルーしたほうが良い。
しかしもし、その人が霊性においても人望においても物質的においても優れた実を結び続けているのなら、そのような人をお手本とするのは、間違い無い。

パウロは実に父のような愛をもって真摯に、そして御言葉に基づき的確にアドバイスした。
私達もそのように成長したいものであるし、また、霊的な父母に教え諭された時は、謙虚な心で聞き従いたいものである。

教会の交わりにおいて、主にあってますます教え、戒め、愛し合う皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

今日は、最近毎日のように仕事の報告と祈りをささげに主の御前に来られる兄弟が、仕事で担当する物件に赴き、そこで交わり、御言葉を宣言し、祈るときを持ちました。

その後、先々週から礼拝に来るようになったあるカップルと交わり、主が触れて下さっているのを見ました。

自分を降ろし、主からいただいた御言葉を素直に受け入れ、実践していくと、主が確かに生きて働かれておられる事を示してくださり、そうしてますます自分ではなく主に期待していく。

そういう方は、どんどん成長し多くの実を結んでいきますが、御言葉よりも自分の価値観をいつまでも優先させている方は、何年経っても同じ過ちを繰り返しています。

競技場の場内に入って信仰の競争に参加するのか、それとも観客席に留まって信仰者達の競争をただ見物しているのか、今日はそれを省みる日でした。

礼拝説教メッセージ音声:あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロは諸々の苦難、幾多の迫害や、鞭打ち、石打などを経て、やっとコリントに至り、福音を伝え、そして彼らは、いのちを得た。
しかし彼らは、パウロの言葉は哲学よりも愚かに聞こえるなどと、あたかも自らが誰よりも偉い王様のように、あるいは全てに満ち足りているかのような立場でいた。

確かに、キリストを信じる者は、王のような支配者となる事は書かれてある。
しかし、それはキリストにならう者である事が、条件だ。

キリストは、まず低くなられ、十字架の死に至るまで従順だったからこそ、神によって引き上げられ、栄光が与えられた。
そのキリストに習い、自らを主の御前に低くなり、従順になり、その忍耐と従順を学ぶ事によって、はじめて引き上げられる。
キリスト者は確かに豊かになるし、王のようになれるが、「キリストに習い、まずへりくだる」という所を抜きにして、豊かになったり、王のようになったり、などというのは、あり得ない。

「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」(9節)
当時のコロシアムでは、様々な競技や戦い、公開処刑などが行われ、多くの観客が娯楽として見入っていた。
パウロは、キリストに従う者たちは、あたかもコロッシアムで見世物にされているような者達で、しかも、世の人達だけでなく、御使いたちにも見世物とされ、競技場の中で戦っているようなものだと言っている。

競技場の中にいる者と、観客席にいる者とでは、立場が随分違う。
観客席の側にいる人は安全であり、娯楽のためにそこにいて、あれこれと評論したりするが、中にいる人はいのちの危険があり、苦しみ頑張り、実際に体を張って血と汗を流すが、後には賞と栄冠をいただける。
パウロは9節で、コリント人達は観客席からパウロたちが頑張るのを見物して楽しむ側のようだと皮肉を込めている。
キリスト者とは、観客席にいてポップコーンを頬張りながら、血と汗を流す競技者を眺めて、批評したり楽しんだりする人種ではない。
観客席にいる者は、賞も栄冠も、決してもらえない。
むしろ私達は競技場の中で戦い、キリストの栄冠を勝ち取る者として、日々、いのちの務めに励む者達である。

パウロはコリントにおいて、労苦して働きながら復員を伝えた。それは、自らの手で働いて、模範を示すためだったが、残念ながらそれは伝わらず、彼らはそんなパウロを見物していた。
「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」(13節)

「しもべ」という言葉の原意は「ちりの中をくぐる」という意味だったと最近学んだし、奇しくも、一昨日の主日メッセージも、口を塵につけよという題だった。
今私達に特に示されているのは、キリストの僕たり者は、塵の中を通れ、という事かもしれない。
確かにキリストの働き人は、塵の中をくぐる訓練が待っているかもしれない。
しかし、キリストが低められた後に高く上げられたように、私達も後には、決して朽ちる事の無い義の栄冠を勝ち取るために、しているのである。

塵の中をくぐるというのは、嫌な事、屈辱に移るかもしれないが、しかし、私達の主イエス様は、そのような所をくぐって行かれたのだ!
私達ももし、塵の中をもしくぐっているなら、キリストの足跡をそのまま歩んでいるという、甘く栄誉ある経験をしているのだ。

どうか、キリストに習い、キリストの歩んだ足跡をそのまま歩む事によって、主のくびきの甘さと安息を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:忠実な管理者であれ(1コリント4:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有

4章では、コリント人たちが高慢になっている事を指摘している。
神様を差し置いて、自分が善悪判断したり、罪定めしたりする、というのは、高慢である。
私達はキリストのしもべであり、支配する側ではなく、仕える側にあるのだ。

また、なんと私達は、神の奥義を管理している、というのである。(1節)
「そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」」(マタイ13:52)
倉庫番は、倉庫から新しいものや古いものを、その時に応じ、取り出す事が求められている。
神の国の奥義の管理者が、神の倉庫から取り出すものは、御言葉であって、自分自身の何かを取り出すものではない。

「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」(3節)
もし私達が、ある会社の倉庫番であるなら、誰か他人が倉庫の中身にケチをつけたとしても、痛くも痒くもないはず。
それは自分のものではなく会社のものだし、ケチつけた人は、会社にケチをつけた事になるのだから。
私達は、神の国の倉庫番なのに、あたかも、自分の家の倉庫番であるかのようにふるまうから、他人の評価が気になってしまう訳である。

「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(5節)
裁いてはならない、とは有名な言葉だが、それは、他人を裁くだけでなく、自分を裁く事も含まれている。
なぜなら、私達はもはや私達のものではなく、私達の所有権は、イエス様に移ったのだから。
だから、勝手に「自分をさばく」という事も、してはならない。

「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。」(4節)
これは、逆に考えれば、私達にやましい所が大いにあったとしても、それで有罪にされるわけでもない。
唯一、裁く権利のあるお方は、主である。

だから、やましいところがあろうと無かろうと、自分は有罪だ無罪だ、といった裁きは、無意味である。
私達は、人の評価や自分の評価は止め、ただ自分自身という「託されたもの」を忠実に管理する事が、求められている。

この世において、管理するものを、小さなものだと思ってはならない。
もし地上で忠実に管理するのであれば、天において、さらに大きな事が任されるからだ。

地上における事はしっかり管理し、かの日には、主から「良くやった、良い忠実な僕よ」と賞賛される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

口を塵につけよ(哀歌3章22−39節)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

哀歌は、エルサレムがバビロンによって滅ぼされたのを目撃したエレミヤが歌った、聖書の中で最も悲しみに溢れている歌で、陥落後のエルサレムの、とても悲惨な状況が記されている。
人は、悲しみに共感する。乳飲み子が衰え果て、母の懐で息絶えようとしている様には、心を動かされる。
しかし、どうしたらそういう結果となってしまったのか、という所を、おろそかにしてはならない。
「エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった。・・・衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。」(哀歌1:8,9)
エルサレムはこうなる事を、十分避けられた。それも、どうしたらこうなるのかは、既に何世紀も前からモーセによって示されていた(申命記4:25-31)し、主は、早くからしきりに使者を遣わし、民が立ち返るよう呼びかけてきたが、民は彼らを笑いものにし、侮った(2歴代36:15,16)ため、そのようになってしまったのだ。

私達は災いに遭った時、自分に起こった災いばかりに目を留め、こんな災いに遭うのは不当だと主張し、自分は選ばれ民だと高慢に振る舞いつつ、それでも罪は依然として持ち続けながら生きてしまいがちだ。
私達が懲らしめを受けるならば、それは幸いな事だ。 なぜなら、神は私達を子として扱っておられ、それによって訓練された私達は、主の聖さにあずかり、平安な義の実を結ぶからである。(ヘブ12:5-11)
もし私達が罪を犯しても何の罰も受けずに来るなら、高慢になり、兄弟姉妹を傷つけ、自分が迷惑をかけている事も分からないまま罪に罪を重ねる、という事になってしまう。
だから、懲らしめのくびきを負わされるのは良い事で、それによって、へりくだる事、そして従順を学ぶのだ。

「軛を負わされたなら黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。」
(哀歌3:28-30)
主から懲らしめを受けた時、怒りたいかもしれない。不当だ、と叫びたいかもしれない。
しかし、そのような時は、不平不満を言うより、むしろ口を塵につけて、黙って懲らしめを受けるほうが良い。
「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。」(哀3:39) 
もしつぶやきが出るなら高慢になっており、自分の罪をまだ認めていない証拠である。
人は元々、ちりである。高慢になっているのであれば、口をちりにつけ、ちりを味わい、ちりの成り立ち、すなわち人間の成り立ちを、そして、ちりである自分自身の成り立ちを、じっくり味わい、思い起こす時である。
御言葉の前に、身も心も低くしているなら、主はいつまでも捨て置かれはしない。

哀歌5章は民の祈りとなっており、1-14節は自分の身に降りかかった災いを申し述べているが、15-17節で、それは自分達の側に非があったから、と認めている。
「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。」(哀5:16,17)
もし、心が病んでいるなら、また、世界が暗くなっているなら、まず自分の口からつぶやきを除き、黙ってちりに口をつけ、自分の成り立ち、人の成り立ちをじっくり味わう所から始めるのである。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17) ダビデは自分の罪を認め、神に憐れみを求めたからサウルのように滅ぼされなかった。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀3:22)
戦争によって滅んでしまった民族は幾多にものぼるが、イスラエルが何度も滅亡の危機から守られたのは、彼らは主に選ばれた民であり、その民への憐れみは尽きないからだ。それは、私達も同様である。
捕囚から70年が満ちた時、主が憐みを示して下さったように、私達にも、憐れみが示される時が必ず来る。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ・・・私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1-3)

なぜ哀歌?

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-11-13 16:00

先週ある事で苦しみ思い悩みつつ祈っていた時、「口をちりにつけよ」という言葉が与えられました。

この言葉は哀歌にあった事が分かっていましたので、哀歌を読んでみると、今の私に必要な事が沢山ちりばめられていました。

そういうわけで今回はヨシュア記ではなく、哀歌からのメッセージでした。

哀歌はあまり開かないですが、聖書は本当に人間に必要な事が山盛りに盛られていますね。

来週は収穫感謝祭です。

教会の祭壇は、色とりどりの収穫で満たされます。

以下のURLに、去年の収穫感謝祭で祭壇が飾られた写真があります。
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=108

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