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1ヶ月ほど前、ある事について、継続すべきかそれとも止めるべきか、主に御心を求めることがありました。
それについて「もし**の○○が下がったら、継続しなさいという主からの徴だ」と、アブラハムの僕のように、ほぼありえない事を、あまり考えもせずに主に申し立てておりました。
それが、、、今日聞いたところによると、なんと○○は下がっていました!
どのようにそれを継続していくのか、具体的な手段はまだ示されておりませんが、主の鮮やかなGOサインに思わず笑いが込み上げて来ました。
今は詳しく書けませんが、いずれ感謝の報告が出来る日の来ることを、楽しみにしております。。
礼拝説教メッセージ音声:患難が希望を生む(ローマ5:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有
私達は信仰によって義とされ、主イエスキリストを通して神との間には平和がある。
キリストは、隔ての壁すなわち敵意を破壊して下さり、ご自身において私達を新しい人に創り上げ、十字架を通して神と和解させて下さった。(エペソ2:14-18)
私達はキリストにおいて神と和解させられたのみならず、神の子とされた。
子であるからには、全ての良き相続を相続する権利があり、その良き相続を得るにふさわしく整えるため、神自ら、私達に最善の教育を受けさせて下さる。
その最善の教育とは、私達が昨日・今日と経験してきた、日常生活である。
主が私達を教育するために患難を与えられる事もあるが、それは本来、喜ぶべき事である。
患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すからだ。(4節)
日本の教育では90年代以降、いわゆる体罰に対して神経質になり、本来罰すべき時の罰さえ差し控えられる事が多いが、聖書の教える所では、子を懲らす事を控えてはならず、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(箴言13:24)とさえ書いてある。
聖書は教育においても真理であるが故、いかに日本の教育が懲らしめを控える現状になろうと、主が私達を教育する時は、懲らしめを控えるという事は無い。
主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる。(ヘブル12:6-11)
私達はこれを鍛錬として忍耐しなければならない。
なぜなら神は、私達を子として取り扱っておられるから。
もし主からのむちを控えられ、悪い事をしても罰が来ないのであれば、それは私生子であって、本当の子ではない。
主は、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる。
それは当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのだ。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ5:3,4岩波訳)
その時その時に主からいただいく教育をしっかり修了し、朽ちる事の無い希望を得て行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
信徒さんの韓国料理屋でテレビを見ていたら、島田紳助の引退について、色々な人のインタビューをひたすら流していて、しかも枝野官房長官までインタビューしていました。
インタビューを受けた有名人はほとんど「残念」という言葉でしたが、なんで暴力団とのメールで引退するのかも不思議ですが、
夕方のゴールデンタイムにこぞって一芸人の引退ばかり報道して、しかも官房長官にまで聞くのか、というテレビ局の在り方に、ある種のぞっとするものを感じました。
他に地震や放射能問題、政治問題など、報道すべき事は色々あるでしょうに。
ちなみに私は塩酸タンクに作業員2人が落ちて死亡、というニュースが一番ぞっとしました。
礼拝説教メッセージ音声:笑わせて下さる主(ローマ4:16-25):右クリックで保存
韓国語通訳有
もし、70歳以上の老夫婦に子供が生まれると言うなら、それを信じられる信じられない以前に、笑いが出てくるのではないだろうか。
それはアブラハムもサラも同じだった。
アブラハムは99歳の時、性的に死んだも同然だと認めていたのに、神様から、あなたの子孫をおびただしく増やし、サラから産まれる子孫はおびただしくなる、という約束が与えられた。
彼はそれを聞いた当初、笑ったのだが、神様は、その信じ難い約束を信じられるようにすためにフォローして下さり、彼は最終的に信じるに至った。
彼は信じたからこそ、その日の内に、自分自身だけでなく家の僕や奴隷に至るまで全ての男子に割礼を受けさせた。
男性にとって、包皮の肉を切り取るという行為にはよほどの覚悟が要る。
しかしアブラハムがその日の内に為したのは、与えられた約束への強い確信があったからに他ならない。
そして事実、神は約束を果たして下さり、彼は100歳にして念願の子を得るに至った。
信仰によって救われた私達も、アブラハムの子孫である。
アブラハムやサラのように、たとい老いたとしても、何の喜びがあろうかと思えたとしてもても、情けなくて笑うしかないような状況であったとしても、
主はそんな私達の弱った信仰をフォローして下さり、回復させて下さり、からし種ほどの信仰さえ私達が持ち続けるなら、主は約束を成就させて下さる。
いつもメッセージ概要をツイッターに140字以内で載せていて、そこに載せた内容がそのままFacebookやmixiにも自動反映するようにしています。
その内容に興味を持ってホームページへ来てくれる方が結構いて、この140字に、いかに内容を詰めようかと、いつも心砕いています。
それで昨日、
「そもそも、割礼はなぜ男性器という部位に為されるのだろう。 続き:http://t.co/9d4VKFn」
と投稿したところ、かなりの流入がありました。
「アブラハムはメソポタミヤで生まれ育ち、、、」みたいな見出しでは、やはり人は興味を示さないようで。
mixiニュースやスポニチみたいに、性的・男女系ネタをたくさん書けば流入が良くなるのでしょうけど、、、私はパウロみたいに、ただ愚直に御言葉だけを語って行きたいと思います。
礼拝説教メッセージ音声:割礼の徴(ローマ4:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有
罪が覆い隠され、主がその罪を認めない人の幸いは、何処から来るのだろうか。
それは、割礼によってではなく、無割礼だった時の信仰によってである。
アブラハムは無割礼だった時、彼の信仰が義とされた証印として、割礼の徴を受けた。
「それは彼が、無割礼のままで信じた全ての者達の父となるためであり、彼らにもまた、その義が認められるためである。」(11節)
そもそも、割礼はなぜ男性器という部位に為されるのだろう。
アブラハムに割礼の徴が与えられたのは99歳の時、人のいのちの力としての望みが、費えた時だった。
主は、人の望みが尽きた時に「わたしは全能の神である」と言われ、もはやいのちを生み出す望みの無くなった時に「あなたをおびただしくふやそう」と仰せられた。
さらにダメ押し的に、いのちを生み出す器官たる男性器の肉を切り取るという割礼を命じられ、しかもそれはアブラハムだけでなく彼のまだ見ぬ子孫達にもそうするようにとの事だった。
実際、アブラハムにはその次の年に子が産まれた。
そしてその子孫達すなわち割礼のある者達は、神は全能であり、いのちも救いも力も祝福も、神から来る、という事を、そのしるしを見るたびに思い起こす事だろう。
外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、御霊による心の割礼こそ割礼である。(ローマ2:28,29)
いのちも、救いも、力も、祝福も、全能なる神から来ると信じる私達こそ、アブラハムの子孫である。
高校野球は日大三高が10年ぶりに優勝しました。
部員の一日のスケジュール内訳は、練習11時間、食事4時間、授業4時間、睡眠5時間、休みといえば元旦の午前中だけで練習の無い日はないそうです。
部員は50人くらいいるのに、ベンチ入りできるのは十数名、全国から推薦が来る位の人でも、3年間1度もベンチにも入れないという人も多いらしいです。
このように、華々しい舞台に立てるのはほんのわずかで、その陰には、下積みだけで費やして表に出てこなかった、実に多くの才能ある者達がいるのです。
ここまでは良く聞く話ですし、その事を取り上げて、一度きりの青春の全てを野球に注ぎ込んだのは果たして、、、という議論も良くなされますが、彼らの青春はとても貴重だと思います。
ベンチの陰で、あるいはグラウンドの外でじっと見守ってきた人たちこそ、人間の作った仕組みの不条理さや、その下にいる人の気持ちを理解する心が、人一倍育まれて、社会に出て有用な働きをするからです。
主は、38年間シロアムの池沿いで臥せっていた病人を、40年間美しの門の前で物乞いをしていた者を、主から目に泥を塗って癒してもらった生まれつきの盲人が追い出された時、探して訪ねて下さった。
人の目には無駄に見える事でも、このお方にあっては何一つ無駄は無く、最善へと、主の栄光へと導かれるから、私達の歩みに失望は無く希望を持って歩み続ける事が出来ます。
礼拝説教メッセージ音声:祈りの家の喜びの祝い(イザヤ56章、マタイ21:12-17)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イザヤ56章によると、祈りの家の喜びの祝いに連なる事が許される者とは安息日を守る者で(2,4,6節)国籍や立場は関係無く、宦官であっても息子・娘達に勝る分け前と名が与えられ、絶えることの無い永遠の名が与えられ、異邦人であっても聖なる山に連なり、いけにえ(祈り)は受け入れられ、祈りの家で楽しむ。
祈りの家に行く事の楽しさ、喜ばしさの味を占めた者は、たとい仕事が忙しくても、疲れても、集まってくる。
祈り会に出ると一日の疲れが吹っ飛ぶし、皆と遅くまで交わって教会のベンチで寝るなら、柔らかいベッドで寝るよりも爽やかにリフレッシュされる。そのため最近、金曜祈祷会で泊まる人が増えている。
兄弟姉妹が一つになって共に住む所には、主が真ん中におられ、とこしえの祝福を命じておられるからだ。
主は散らされた者達を集める神であり(8節)、なんと、野や林の獣にも食べに来いと命じておられる。(9節)
そこには見張り人がいる(9-12節)が、盲目でおしの犬で、夢を見て眠りを貪り、貪欲で、足る事を知らない。
彼らは悟らない牧者で、自分勝手な道・自分の利得に向かい、自前のぶどう酒を持参し、酒を勧め合う。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、このように利得を貪り、霊的に眠っているなら、主はどうされるか。
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)
主がそのように強制力を行使してまでして怒ったのは、主が聖と定めた「祈りの家」で、人間による売り買いをはびこらせ、しかも祈りに来る人達の、尊いささげものを、自らのために搾取したからだ。
主が忌み嫌われる事は、主が聖だと定めた事を、私たちも聖とするべきなのにそうしないで、人間的な汚い欲望や教えを混ぜ込み、不純なものにしてしまう事だ。
パリサイ人たちは安息日を聖とする代わりに、働いてはならない事を強調して不自然なまでの規則で埋め尽くし、アブラハムの娘が解放される事から阻んだように(ルカ13:16)、人を救いから阻んだ。
主は、聖徒達の尊い祈りや捧げもの、聖徒達の御言葉を守ろうとする気持ちを利用して逆手に取ったり、それを搾取して私腹を肥やす者がいたら、その両替台や腰掛は倒され、その者達は追い出される。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、不純な有様でいると、主はそのようにされるのである。
主が人の薄汚い欲望の座や両替代を引き倒した後、主の元に集って来たのは、目の見えない人や足の不自由な人達で、主は彼らを受け入れ、癒して下さった。
主が受け入れるいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は低くへりくだった者を受け入れ、癒して下さるのだ。
また、そこにいた子供達は「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたが、それを聞いた祭司長、律法学者達は怒った。それは、子供が賛美を口にするなど不敬だ、おこがましい、というのである。
しかし主は、小さくなった者達の賛美をこそ、受け入れてくださるお方だ。
「イエスは彼らを後に残し、都を出て、ベタニヤに行き、そこに泊まられた。」(17節)
ベタニヤには「歌の家」「病む者の家」あるいは「貧困の家」というヘブライ語の意味がある。
祈りの家を不純なものとしてしまった無能な牧者たちが悔い改めず、むしろ主に怒りを燃やすようなら、主は放って置かれ、そこを出てベタニヤ、即ち小さき者の歌う家、病む者の家、貧困な者の家へと宿られる。
主が宿られるその時、荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。(イザヤ35章)
足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者はそこを通れない。
楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。
へりくだった者となって主を宿し、このイザヤ35章の祝福にあずかる皆さんでありますように。
今日の礼拝は静岡から主にあるご家族が久しぶりに来られ、にぎやかで楽しかったです。
お子さん達は見違えるように成長しており、やはり親の祈りに支えられ自らも祈っている子供は成長が違うなあと思いました。
今日の礼拝も、御言葉の内容から沢山の喜びと笑いがあり、満たされました。(特に第2礼拝)
主がさらに新しい祝福の領域へと促しているような気がします。
礼拝説教メッセージ音声:見てもいない事柄の監査明細(ヘブル11:1-7):右クリックで保存
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ヘブル11:1によると、信仰には、望んでいる事柄を"確信"(フーポスタシス:実体、権利証書)する事と、見えない事実を"確認"(エレグコス:証拠、監査明細)する事の2つの要素がある。
望んでいる事柄を「フーポスタシス(確信)」するとは、例えば、100万円が必要になった時、100万円分を受け取るべき権利証書を持っていて、その証書を差し出すような事である。
信仰のもう一つの面、まだ見ていない事・思いも寄らなかった事柄の「エレグコス(確信)」であるが、この言葉は「監査明細」の意味で徹底的に調べつくされた結果の明細であり、現代ギリシア人は通信簿や車検証明書という意味で用いている。
普段から勉強好きであれば、当然、通信簿の結果は良くなり、嫌いなら悪くなる。
そうした事は、人の外見からは分からないが、通信簿があれば、知ることが出来る。
目に見えない事柄を現す通信簿の内容は、普段から意識していようが、いまいが、客観的な数字として表れ、普段から勉強して通信簿の結果が良ければ、報いとして、より良い地歩を得る資格が与えられる。
同様に、普段から神様が好きで共に歩むなら、私達が思いも寄らないような報いが、ある日与えられる。
1節から7節に登城する人物たちは、人目に見えない日々の歩みについての監査証明を受け、そして賞賛された者達である。
アベルとカインは、普段の生活において、何月何日に神様から試験を受けるから、その日に備えて準備しておこう、とは、恐らく思っていなかっただろう。
しかし彼らがいけにえを捧げた時、普段どういう信仰態度であったかが、如実に示された。
「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(11:4)
私達の今時点の信仰は目に見える形では見えないかもしれないが、もし今、信仰の抜き打ちテストを受けたなら、天の通信簿にどう書かれるだろうか。
アベルは死んだが、信仰の賞賛はいつまでも残るものである。(1コリント13:13)
エノクは死を見ることが無く、ある日突然神によって移された。
彼についての記述はあまり無く、彼の生き様はまさしく私達の目に隠されているが、ただ分かる事は、彼は神と共に歩み(創世記5:24)、神に喜ばれていた事(ヘブル11:5)だ。
彼も、まさか自分が死を見ることが無いとは、普段の生活では思ってもいなかっただろう。
しかし、彼が死を見る事無く神に移されたという出来事によって、彼が普段いかに神と親しく共に歩んでいたかが私達の目に明らかにされたのだ。
7節にはノアが登場する。
ノアに告げられた内容や与えら得た命令は、とてつもなく非現実的だった。
大いに栄えている人間やネフィリム達が皆、大雨の洪水によって滅び、自分は多くの生き物を救うために、海の無いところに巨大な船を100年かかって造るのである。
ノアは箱舟を作ることによって世を罪に定め(7節)、もうすぐ洪水が起こると警告を発していたけれども、残念ながら救われたのはノアとその家族のみだった。
信仰者は、その信仰の行動によって、世に罪を示すのである。
神に喜ばれるには、信仰が必要である。
神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならない。(6節)
神は、私達に何か願い事がある時だけに登場する神ではない。
私達の日々の生活の中におられる神として、アベルやエノクのように日々神と共に歩み、御言葉が与えられたなら、その内容がいかであろうともノアのように従う歩みこそ、喜ばれる歩みである。
この人は祝福を受けるに相応しい、合格だ、と、天の通信簿に書かれる皆さんでありますように。
イエス様の名によって祝福します!
