メッセージ - 最新エントリー
新潟グローリーチャペル 聖会 「もはや人の祭りは終わり」音声
第1部 「人の祭り1 金の子牛」
第2部 「人の祭り2 神の箱という偶像」
第3部 「神の祭りへの人の評価」
講師: 林和也師、 川合ゆきえ師
台風6号は見事にUターンで日本を回避しましたね。
新潟の聖徒も横浜の聖徒も、台風が害を為さないよう祈っていましたが、主は見事に聞いてくださいました。
日本に使わされた祭司として、この国が憐れみを受けるよう日々執り成していきましょう。
礼拝説教メッセージ音声:荒波と喪失と絶望の日々に(使徒27:13-26):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロは伝道旅行で幾度も船に乗り、それまでに難船した事も(恐らく)2度あったため、その時期に地中海に少しでも乗り出す事の危険性を十分に知っていた。
彼は、他人には分からない自分の信仰のゴリ押しではなく、経験に裏打ちされたアドバイスをしたのだが、人々は彼の意見を聞かず、より快適に過ごせそうな近くの港で冬を過ごしたいと、穏やかな南風という、自分達の出立を祝福しているかのようなサインを見て船出した。
人は、客観的に存在する危機よりも欲望と希望的観測に駆られ、人々の制止を振り払って船出をし、ひどい目に遭うものである。
間もなくユーラクロンと呼ばれる暴風に翻弄され、快適な港どころか、安全な陸からどんどん遠ざかり、死の危険に満ちた冬の地中海へと引き摺り込まれて行った。
積荷を捨て、船具も捨て、幾日も太陽や星が見えず、激しい荒波と船酔いのため食事どころではなく、いつ命を取られても不思議でないような、想像を絶する日々となってしまった。
信仰の先達の意見を聞かず「ちょっとだけ」と思って手を出した事が仇となり、荒波人生に放り投げられてしまった人は多いのではなかろうか。
そのような無謀な人達の選択の結果は、自らが刈り取ればいいと思うが、パウロはそんな彼らが操作する船に乗り込まされ、彼らと同じように船酔いと空腹、疲れと不安の中にいた。
パウロには御使いから希望の言葉が告げられたが、その直前までは、他の船員同様、確かに荒波と極度の疲れ、先の見えない不安の中にいたのだ。
そんな中で確信と平安を持って主から示された事 - 全員のいのちは助かってどこかの島に流れ着く事 - を大胆に語り、事実彼の言うとおりとなり、人々は主の栄光を見た。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(ピリピ4:6,7)
どのような状況であれ、感謝を込めた祈りをささげるなら、人知を超えた平安に満たされ、その平安の土台に立つなら、大胆な主の証人となれる。
それはたとい状況が全く変わらないように見えても、またパウロのように御使いが現れて具体的な示しを頂かなくとも、世の何者も決して奪うことの出来ない平安である。
その平安を土台として、同じ暗黒の状況にある周りの人にキリストを伝えるなら、自分ばかりでなく周りの人々も救われ、そして人々はキリストが確かに生きておられ、求める者を助けられるのだと知るのである。
詳細は音声メッセージで。。。
今日も皆さんが主イエスキリストにあって健やかでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
新潟では多くのいのちの実りがあり、来月のお盆の時に再度行く事が決定しました。
御言葉の種が撒かれた人々は「神様の法則に立てばこんなにラクな生き方が出来るんだ」と喜んでいました。
今の時勢、死がいのちを侵食するという終末特有の逆現象が起きていますが、いのちの光は闇に打ち勝つという法則に立てば、闇は消え去るしかありません。
礼拝説教メッセージ音声:遣わされている場所の祭司として(使徒28:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有
いよいよパウロはローマへ護送され、カエサルの下で裁判を受ける事になった。
彼を護送する百人隊長ユリアスから寛大な扱いを受けていた所を見ると、パウロの事だからユリアスにも福音を伝え、彼のほうもパウロに好意的な印象を持っていたのかもしれない。
ところがローマへの航海は順風満帆とは言えず、行く先々で向かい風に遭い船旅は遅々として進まなかった。
パウロは伝道旅行でいつも聖霊の風向きに敏感だったため、これ以上船旅を続けると、積み荷や船体ばかりでなく命の危険と多大の損失をもたらす事を、百人隊長に助言した。
ユリアスはパウロが神に導かれた人だと分かっていたであろう。
しかし彼はパウロの助言ではなく船長や船主の方を信用した。
その結果、パウロの言ったとおり多大な損害を蒙る事になってしまう。
私達は進む針路を選ぶ時は、パウロのように常に霊的アンテナを伸ばして御心を求め、何が最善であるか示されるよう、祈り求めるべきである。
それが分からない時は、霊的に信頼できる信仰の先輩に助言を仰ぐほうが良い。
パウロ達を含んだ百人隊長達一行は、確かに多大な損害を蒙るのだが、その中にパウロ達いたがために、一行全体の命は救われた。
私達も、主のしもべ達であるが故に、私達の乗っている船、つまり私達のいる家庭や職場、地域は助かるという事がある。
そのために日々、遣わされている場で祭司として執り成す者でありたい。
「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(1テモテ2:1,2)
篠島に行ってきました。
今回の伝道メンバーの皆さんです。(私は写真撮り)
船に乗る前にあさりを食べている所です。
島に向かう船の中
島に到着しました。以下からは島の風景です。島の人口は60世帯2000人ほどですので、このように家が密集し、狭い路地が巡らされています。
海岸に向かう途中で、ご婦人たちが3人立ち話していましたので声をかけ、福音を伝えました。
島での伝道スタイルは、事前に何も取り決めをしておりませんでしたが、ただ声をかけ、おみやげの韓国のりを手渡し、我々はイエス様を伝えるために来た事を伝え、十字架をかけてあげて、私が最後に祝福を祈る、という流れに、自然になりました。
伝えた内容は、まず天と地を創られたまことの神様がおられ、天国と地獄があって、死後さばきがあり、イエス様を信じれば救われ、この世でもどんな時でも助けられる、という、非常にシンプルな内容です。
写真後ろのほうで伝道されたご婦人と抱き合っているのは富士純福音教会のアン伝道師、手前で十字架を渡そうとしているのは川合さんです。
『困ったときは「イエス様助けて〜」って言えばいいんだよ』
すっかり仲良くなりました。
このように島には神社や寺が多いですが、島の方々はとても素朴で、福音に対して心が開かれていました。
ポーズをとっているわけではありません。。風が強かったので髪を押さえているだけです。
きれいな海岸で、ウミガメが卵を産みに来ます。
海岸沿いを歩いていたら子供達が遊んでおり、その親が公園に座っていましたので声をかけました。
子供達に十字架と韓国のりをプレゼントし、お母様に「私達は韓国からイエス様の事を伝えに来ました〜」と話している所。
富士教会の方々が子供達にゴスペルダンスを教えています。
元漁師のおじいさん達に伝えている所です。左の方はなんと90歳です。
十字架をかけてあげて記念撮影。
海岸にはウミガメが卵を産みに来ます。以下の囲いの内側は卵を生んだ所だそうです。
通りがかりの人にも伝道。この方は最後に手を取り合って祈った時、手から何か流れていくのを感じました。
この方も元漁師です。
このご婦人は手を取って祈った時、じわっと熱いものが流れて行き、主に触れられて涙を流しておられました。
この二人も元漁師の素朴で良い方々です。
別れ際に祈っている所。
夜、旅館で食事の後にカラオケの賛美が始まり、写真は富士の方々がボディワーシップをしている所です。
食事中、昼に伝道した親子が「お礼がしたい」と旅館に訪ねて来て下さいました。
宿の女将さんは前回静岡の方たちが泊ったときにイエス様を受け入れるお祈りをしました。
彼女は今回洗礼は受けませんでしたが、今回、旦那さんがイエス様を受け入れました!
旅館を出て港に行く途中の風景です。
宿を出る時、ご主人の手を取って祈ったのですが、祈っているうちに彼はとても熱くなり、彼をさわっていた女将さんは「あなた、とても熱いよ」と言うほどでした。
このように狭い路地が張り巡らされ、スクーターが重要な足となっています。
島のフェリー乗り場です。
島を離れる時も、フェリー乗り場の待合室にいる人達に声をかけ、伝道しました。
伝えて祈っている所。
十字架をかけています。
本島に戻る船に乗る所です。
写真は以上です。
今回、色々な人に伝道し祈りましたが、声をかけ福音を伝えた人全員が良い反応をしていました。
伝道は「結構です」と言って断られるのが常ですが、なんとこの島では、断る人は一人もいませんでした。
声をかけた方々ほとんどに最後手を取って祈った時、じわっと熱いものが流れて行ったり、主に触れられて涙を流しておられたりしました。
この行程全体を、あたかも主が先んじて行って働かれ、人々の心を耕しておられたかのような感じですが、一つ、分かったことがあります。
人間による手練手管を辞め、御言葉という法則の通りに実行していれば、何事もスムースに行く、という事です。
例えば、天国や地獄、死後のさばきについては伝道で語るのは控えるというのが人の思う所ですが、主が語れと言った事を語った結果、祝福があったのです。
人間の考案した伝道メソッドを取ると、伝えるべき福音の純度が落ちてしまい、労多くなってしまいます。
人目を気にしたり、断られる事前提で望んだりすると、信じたとおりになってしまいますが、郵便配達人は受取人の顔色を伺ったり心配しないように、我々も福音の配達人に徹すればよいのです。
島の一部は伊勢神宮の所有だという事ですが、主イエスによらずに出来たものは何一つ無いという御言葉により、島全体も人々も全てイエスキリストのものである事を、イエスの名によって宣言します!
これから新潟に行ってきます。
かの地においても、主がたくさん働いてくださいますように!
礼拝説教メッセージ音声:神の国の宴会(ルカ14:15-24)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
神の国の宴会に与る者は、どういう者か。イエス様は、ある主人の開く盛大な宴会のたとえ話をされた。
宴会が始まる時、招待しておいた客はことごとく何かしら理由をつけて断り(ルカ14:15-24)、主人は怒って、招待したけれど来ない人達は為すがままにさせておき、僕に命じて、町の広場や路地へ行って貧しい人や体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を家に連れて来させた。
神の国の宴会に与かれる者は、招かれた者ではなく、呼びかけに単純に応じて、宴会場に来る者である。
このたとえの宴会とは、義人の復活の時に行われる神の大宴会(イザヤ25:6-12)の事で、主は、空席が埋まるまでは誰彼関係なく無理にでも連れて来て、宴会場をいっぱいにするよう命じている。(ルカ14:23)
その宴会はどんな人にも広くオープンに開かれていて、主人の僕は誰でも参加するよう無理やりにでも呼びかけるし、どうやら無料で参加できるというのに、なぜか、断る者がいる。
宴会に招かれた人は、なぜ断るのか。それは、宴会を招いた主人より、自分の用事のほうが大事だからだ。
最初に断った者の口実は、畑を買ったので見に行く、だから宴会には参加出来ない、というものだ。
畑は生活の食を得る場所で仕事に相当するが、主を祝うべき日に仕事を優先させるなら実入りは少ない。
別の者が宴会を断った口実は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行く、というものだ。
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)
牛は、トラクターやパソコンのように業務効率化の道具にあたり、仕事の上でそうした投資は当然必要だ。
しかし、神の宴会を後回しにして収穫を多くしようとするのなら、結局は労多くして益少なくなってしまう。
アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた者ではなく、主日にしっかり安息して礼拝したクリスチャンだった。
主日に礼拝時間を惜しんで働いた者達はことごとく失敗し、ある者は馬がつぶれ、ある者は病気になり、休む間も無く積み上げた財産は、結局クリスチャンが受け継ぐ事となった。
「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる。」(イザヤ58:13)
3番目に断った者の口実は、結婚したので宴会に参加出来ない、というものである。
妻や夫を喜ばせるのは良い事だが、神の国より妻や夫を優先させるのは、アダムとエバ同様の失敗をする。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17)
神よりも妻や夫を優先するのは、額に汗し苦しんで働かねばならない呪いの元凶であると覚えて置きたい。
このように、あらかじめ招かれていたのに来ない人々は、宴会で食卓を味わう事は出来なくなってしまう。
大宴会への参加に最も邪魔になるのが、人間のそそり立つ要塞、すなわち、神よりも自分を主とする高慢だが、宴会の日に「主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。」(イザヤ25:12)
だから私達は、神の僕から宴会の誘いを頂いた時、何にも優先して、それに参加すべきだ。
そして私達も神の僕となり、至る所に出て行き、天の宴会の空席が埋まるまで、誰彼かまわず宴会の誘い、すなわち、イエスキリストに繋がる招きをするのである。
人の祭りから離れて自分のわざを休め、神の大宴会に参加して安息し、仕事や資産、結婚が何倍にも豊かに祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
昨日お米を90kg精米しに行って帰ってきたので、ちょっと腰が筋肉痛です。
実はあの後、韓国料理屋を営んでいる聖徒のお店に、かきごおり機を届けて設置しました。
その聖徒は母子家庭で、今般の事情で部屋代を払うのも苦しくなってきたため、売り上げが改善するよう皆で協力したり、私も借りている一軒家の部屋を一時的にお貸しする事にしたりして、このように、教会全体が大きな一つの家族として、この一家の苦しい状況を助けています。
そのようにしていると、主は祝福を豊かに下さいました。
その聖徒の間借りしていた部屋の不動産屋は、その聖徒の誠実さを長年見ていますので、その方に良い仕事をさせたいと申し出て下さったのですが、その仕事はその聖徒は出来ない事情があったものの、教会に通う他の聖徒(良い仕事を探し中)にピッタリで、その方のほうに紹介したい旨伝えた所、OKでした。
そればかりでなく、不動産屋の方は別の案件として大工の仕事ができる人はいないかと探していたのですが、なんと、先週初めてこの教会に来られた方は大工で、彼はちょっとした案件でもいいので仕事は無いかと探している所でした。
主は本当に御言葉を守る群れを愛しておられ、守り、必要な物を与え、祝福を下さるのだなあと、皆で主を褒め称えて喜びました。
礼拝説教メッセージ音声:狂っている(使徒26:19-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
「パウロよ、お前は気が狂っている。博学がお前を狂わせたのだ」(26:24)
自分の経験や認知という井戸の中が世の全てだと思っている人は、認知不能な神のみわざに出くわすと、自分の理解に収まる考えを当てはめ押し付けようとする。
フェストはパウロを「狂っている」として当てはめ、進化論者は生物の成り立ちを「偶然」と当てはめた。
世界はロゴス(御言葉)によって成り立ち、そのロゴスとは定理であり、数式や物理法則以上の理(ことわり)である。
御言葉は現実以上に真実であり、キリストは人間が生きている以上に「生きて」おられる。
それを人が理解できないのは、私達の生きている現実があまりに不真実なため、真実のほうが逆に狂気に見えるのだ。
真実なるお方と出会って交わる時、頭ではどうしても理解できなかった事も、実体験として知るようになる。
パウロが弁明の場に及んでキリストしか伝えないのは、狂っているからではなく、その真理を伝えずにはいられないほどの衝動があるからだ。
「私が神に祈りたいのは、ただ王だけではなく、今日私の話を聞いている人々がことごとく、私のようになることなのです。−この鎖だけは別ですが。」(29節)
死刑を求刑されている被告人が、裁判官や告訴人、列席の弁護士や傍聴席の皆に向かって「私のようになる事を願っている」と言うのは、尋常ではなく見えるかもしれないが、それがパウロの本心である。
キリストの愛の広さ高さ深さを知れば知るほど、自分の事はどうでも良くなり、キリストこそ全てとなって来る。
パウロはもはや、自分が訴えられている状況さえも、この素晴らしいお方を伝えるための道具としてさらに多くの者達に福音を伝えたい程、キリストの素晴らしさを知っているのだ。
主はそのような者を祝福し、世において必要な物は全て備えられ、来るべき世において栄冠を勝ち取るための良き行いも全て用意されておられるのである。
このキリストの愛の広さ高さ深さをますます知る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!