メッセージ - 最新エントリー
礼拝音声: まむし呼ばわりされた人達
パリサイ人やサドカイ人はバプテスマのヨハネや主からまむし呼ばわりされたのは、悔い改めにふさわしい実を結んでいないから。
悔い改めの実とは実際に行動に現れるものであり、究極には、イエスを主として信じる事である。。。続き
神の言葉を反故にする「人の言い伝え」といういいわけ(マルコ7:9-13) 한국어예배
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-9-24 6:16
メッセージ音声: 神の言葉を反故にする「人の言い伝え」といういいわけ(マルコ7:9-13) 한국어예배
イエスは、パリサイ人達が固守しかつ人に強要する「言い伝え」が、神の言葉を反故にしている事を、「父と母を敬え」という十戒を一例にして非難した。
御言葉を守れない事の言い訳は「言い伝え」となり、御言葉に妥協あるいは逆らう事を助長する。
人はその言い伝えや言い訳に目を留めるが、神が目を留めるのは、あくまで御言葉を「守ったか、守っていないか」である。
律法を守るのは人にはできないが、神にはできない事は無い。
律法を妥協したり意識的に逆らうのではなく、律法を成就された主イエスにあって歩むべきである。
偽善者の外側の清めと信仰による真の清め(マルコ6:53-7:8) 한국어예배
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-9-23 5:57
メッセージ音声: 偽善者の外側の清めと信仰による真の清め(マルコ6:53-7:8) 한국어예배
信仰を持ってイエスに近づく病人は、例え服の房に触れたとしても癒され、清くされた。
パリサイ人達がイエスに偽善者と呼ばれたのは、その心が御心から遠く離れ、主が望んでもいない事、すなわち人間による膨大な言い伝えによって人々を束縛し、身勝手に人をきよい・きよくないという判断をしていたからである。
主が望んでいるのは、信仰を持ってイエスに近づく心である。。。続き
信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか(マルコ6:45-52) 한국어예배
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-9-22 6:06
メッセージ音声: 信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか(マルコ6:45-52) 한국어예배
イエスを陸に残して船出した弟子達は、湖の真ん中で逆風に苦労する。
イエスは湖の上を歩いて近づいてゆくが、悪霊を何匹も追い出した弟子達もそれを見て恐怖に覆われる。
イエスが働かれる時、このように尋常でない方法で近づかれる事があるが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけて下さり、私達という船にイエス様をお入れした時、風は止み、無事に目的地へと導かれる。。。続き
5千人以上でも必要を満たし余らせる主(マルコ6:30-44) 한국어예배
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-9-21 6:00
メッセージ音声: 5千人以上でも必要を満たし余らせる主(マルコ6:30-44) 한국어예배
少年の持っていたわずかなお弁当によって、1万人以上の必要を満たし、働き人の分までいっぱいにしてしまう主が、私達の内に生きておられるとは、何という恵みだろうか。
必要を満たして余りあらせる主のみ技を体験するには、まず主の元に必要を訴え自分達には何も出来ない事を告白し、主に祝福していただいたものを受け取り、それを人々に持っていく事である。。。続き
聖なる預言者を好き勝手する者達(マルコ6:21-29) 한국어예배
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-9-20 5:54
メッセージ音声: 聖なる預言者を好き勝手する者達(マルコ6:21-29) 한국어예배
洗礼者ヨハネは人の中で最も偉大な人と言われたが、宴会の余興として殺された。
このように聖なるものが人の好き勝手によって殺される事は、実は御心であり、イエスもそのように殺されたが3日後によみがえった。
黙示録11章に登場する二人の証人も一度は殺され晒されるが、後にはよみがえらされ、栄光のうちに上げられる。
世にあっては艱難があり、惨めな死を経るかのように見えるが、その後には栄光が待っている。。。続き
本日は機械の具合が悪く韓国語メッセージを流せなかった為、急遽、林が第3礼拝メッセージを行いました。
主日第3礼拝メッセージ音声:アビナダブ(2サムエル6:1-5) 主日第3礼拝 한국어예배
2サムエル6:1-5より。
サウル王以前から長らくアビナダブの家に置かれていた契約の箱をダビデは携え登ろうとしたが、驚くべき、酷いと思えるような事が起こる。
満場一致で人々の支持を得て決定したはずであるが、ある重大な間違いをダビデは犯していたのだ。。。続き
礼拝音声: 味噌からにじみ出た愛(1コリント12:18-27) 第1礼拝全体音声
第2礼拝音声:(メッセージのみ、韓国語通訳つき) 한국어예배
先週、静岡の姉妹から天声の兄弟姉妹に、と、サムジャンという合わせ味噌をいただき、賞味した。
ゆでたキャベツにごはんを乗せ、その味噌も乗せて食べるという韓国風の食べ方があるのだが、シンプルであるがとても旨く、野菜もおいしく摂れ、身も心も温かく幸せな気持ちに包まれつつ頂いた。
その幸せさは、高級レストランなどお金を積む事では決して味わえない、「聖徒を思う愛」という、世の何物よりも尊い「素材」から来るものだ。
今、この世で生きていて、聖徒の為に愛を込めて料理を作ったり、作ってくれたものを味わうことが出来るのは、「生きていて良かった」と思えるほどの幸せがあり、天における愛に満ちた交わりの前味わいである。
聖徒達の心の篭った捧げものは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物である。(ピリピ4:18)
御父が求めるいけにえは、高級食材でも膨大なお金でもなく「心」の込められたものである。
御父は何よりも富んでおられるお方なので私達がいかに富を積んで捧げたところで、たかがしれている。
主が人を間違いを犯さないロボットとして造らず、間違いを犯すかもしれない自由意志を持った「人」としておつくりになったのは、「心から」主を主を選択し、愛し、敬う者を、求めておられるからだ。
天の御国は、確かに高級素材に満ちたリッチな所ではあるが、むしろ、愛の篭った贈り物でいっぱいの、心が暖かくなる所である事の方が「売り」であり、私達に喜ばしく楽しみである事なのだ。
まことの食物はキリストであり(ヨハネ6:55)、その食物にはどれほどの愛が込められているか。
それは命を捨てるほどの愛が込められており、その食物は決して無くなる事無く、乏しくなる事も無い。
5千人以上にパンを与えた奇跡において、主は、その奇跡の源、愛の源であるイエスキリストを本来求めて欲しかったのだが、大勢の群集が求めたのは、実に、食物のパンであり、彼らが主を探して来たのは、食べて無くなる食物のパンを食べ、満腹したからだ。(ヨハネ6:26)
どれほど主は寂しい思いをされたであろうか。
私達は無くなるパンではなく、まことの食物である愛の篭ったイエスを、心から感謝しつつ頂くべきである。
サムジャンで食事しながら与えられたもう二つの事は、味噌がおいしいからといって、味噌「そのもの」が脚光を浴び奉られてはならず、味噌の作り主こそ感謝されるべきである事。
そのおいしい味噌を使い切ってしまうのを恐れるよりも、味噌の作り主に作り方を聞くべきである、という事。
その時々に与えられた人、いただいた恵みなどがなくなる事を恐れる傾向があるが、それは無くなるパンをいつも与えてくださいと求めて来た寂しい人々のようなものであり、その恵みを下さった根源なるお方により頼み、そのお方が愛をもって、無尽蔵に与えてくださる事に信頼すべきである。
私達は、キリストのからだであり、それぞれは器官であるが故、誰か特別な人だけが作り主を差し置いて大きく取り上げられてしまうのは良くない。
体はどこかをケガした時、そこに血小板や白血球が集まるが、血小板や白血球は普段何のために役に立つのか分からなくても、ケガをした時、これらはそこに引き寄せられるように真っ先に集まり、血小板は傷を塞ぎ、白血球は進入して来た悪いものを殺すために、機能する。
どこの器官が無くなっても、体はやってゆけないし、どこかだけが大きくなったり増えたりしても病んでしまう。
キリストの器官は愛の機能体であり、その内の誰か一人でも欠けてしまったら、大変であり、また、その誰かが傷ついてしまったら、周りの器官が全力を持ってそこをいたわり、癒す事に全力を注ぐ。
一切の賜物の源であり、愛を持って一つとしてくださるキリストこそ、全ての栄光を受けるに相応しいお方であり、この方のために私達は在るのである。
礼拝音声: なくなるパンとなくならないパン
イエス様の周りでは、奇跡や必要の満たしが行われる事はよくあるが、そうした物質的・心理的な必要の満たしは所詮、食べたら無くなるパンに過ぎない。
永遠に無くならないパンとは。。。続き