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主日礼拝
霊的戦いの本質 – 場所取り戦争(黙示録12:7-12)
第一礼拝 Youtube動画
English Service:The Nature of Spiritual Warfare - The War for place (Revelation 12:7-9) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
悪魔サタンの性質と戦い方について、もう少し学びたい。黙示録を見ると、霊的戦いの本質が分かる。
黙示録12:7-9から分かることは、悪魔サタンという存在は、神の勢力よりも弱く、神の御使いにすら勝てないという事、また、悪魔サタンは、詐欺師と同じく、色々な名前を持っており(巨大な竜、悪魔、サタン、古い蛇など)、そうして正体をうやむやにする…裏を返せば、正体が明かされる事を極端に嫌う事だ。さらにここで分かる重要な事は、天の戦いは、殺し合い・傷つけ合いの戦いではなく、「場所取り戦争」である事だ。
その「場所」とは物理的な空間ではなく、意思のやり取りによって、得たり、失ったりする、見えない「支配領域」であり、それが現実の世界を動かす。そして勝負方法は、意識やことばを用いた主権・力の戦いである。
エペソ6:12に書いてある。私達の格闘は物理的・肉体的なものではなく、以下の戦いである。すなわち、
1,主権(アロケー):順序的・時間的・場所的な主導権。 2,力(エクソウシア):力を自由に行使したり裁量できる特権。 3,空中(アイオーン:時代・世代・世界)に働く、闇を握った世の主権者たち(コスモクラトール)、また、4,天にいる、諸々の悪意を持った霊的存在たち(プネウマティコス)に対するものである。
それらは、悪意をもって時代に働き、主権を取り、時間的・空間的・経済的な「場所取り」を仕掛けて来る。
それは、人が持っている自由や資産を侵犯し、奪いにかかる事を意図し、その悪意に同意する人間達を、政治家や王に仕立て、経済の実権を握らせて働き、法や仕組みを動かし、悪意を遂げようとして来る。私達の戦う相手は、これらであると書いてある。それなら私達は、政治運動をしたり、彼らが隠れてしている事を暴露する働きをしなければならないのか?エペソ書の続く箇所には、そんな事は書かれていない。むしろこの戦いは、肉弾戦ではないと書いてあり、主権・力、この暗やみの世界の支配者という「見えない相手」に戦う手段は、見えない武器によって立ち向かうべきであり、それは、訳の分からない戦いではない。
14節以降に、戦いの武具が書いてある。これらは明らかに、物理的武器ではない。私達が取るべき武具とは「真理」、「正義」、「平安の福音の準備」、「信仰」、「救い」、そして「神のことばという御霊の剣」である。
私達は、福音の真理や、義、平安、信仰などによって、私達の思い、意思、感情、知識を武装し、そして、口からは、御霊に味付けられた神の御言葉を剣とし、攻撃するのだ。ゲームの武器や防具には、よく属性やステータスが割り振られているが、私達の霊的武具のそれぞれのステータスは、イエス様への信仰の度合いによって、強くなるが、御言葉暗唱(テフィリン)こそ、「霊的経験値稼ぎ」に最短・最強の方法である。
霊的攻撃も、防御も、神のことばと御霊による祈りによるものであり、勝利の鍵は、「しつこさ」である。18節には、絶えず目をさまして御霊によって祈れ、と書いてある。それも、忍耐の限りを尽くして祈りなさい、と。
いつまで祈ればいいのか。それは、「場所を勝ち取るまで」である。そして人生を取り戻す奪還戦をするには、一体何が、それまでの人生を台無しにして来たのかを、明確にターゲッティングする事が必須である。
イエス様は悪霊を追い出す時、明確にターゲットを特定して、追い出した(マルコ5:9,9:25)。一体何が今までの自分を惨めにさせて来たのか、何が人生をここまでにしてしまったのかを、まず辿り、悪霊が場所取りしている所を、明確にするのだ。過去に受けたあの時の傷、そこから沸き起こる負の感情、あるいは、過去に満たされなかった強烈なあこがれなどに、悪霊は巣作りして、当時、感じた痛みを、しょっちゅう、ほじくり返しては、「あの人が悪い」「戻ってやり直したい」「あの時発散できなかったから今発散するのだ」、といった、怒涛の「負の感情攻撃」を、ずっと仕掛け続けている。私達はその「要塞」をターゲッティングし、それが分かったなら、それを紙に書いて狙い撃ちにし、踏みつけ、イエス様の名によって縛り追い出すのだ。
悪しき者との戦いは、物理的なものではなく、ゆずった・ゆずらない、容認した・容認しないという、意思と言葉を用いた場所取り戦争であり、勝利する鍵は、真理の御言葉によって、いかに「しつこく」攻撃し続けたかどうか、である。それは、延々と続く戦いではない。サタンはイエス様を誘惑した時、3回の御言葉攻撃で、撃退された。しかしもし私達の側が、譲ってしまうなら、その既成事実が要塞となり、つけあがってくる。
私達が御言葉にしっかり立ち続けるなら、悪魔サタンはその領域を侵犯できず、やがて、出ていく。真理の御言葉に固く立って、悪しき者を追い出し、奪われてきた人生の時間や尊厳、経済、人間関係といった「場所」を奪い返し、むしろ支配していく皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2022-2-15 8:00
詩篇講解説教
全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)
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詩篇96:1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
最初に反復されている言葉は「主にむかってうたえ(シールゥアドナイ)」、ヘブライ語の朗読を聞くと、1-2節にかけて「シールゥアドナイ(主に歌え)」が3回、テンポよく続いている。
詩篇95-100篇は、そのようなテンポの良い反復が続いて、賛美の歌詞としてとても適している事が分かる。
この詩篇の作者は、誰に向かって「主にうたえ」と言っているか。
それは、「全地(コール・ハ・エレツ:地の上にある者の全て)」を相手取って、命令形で、命じている。
一体、この作者は、何さまなのだろうか?
それは「人間さま」である。
主は元々、人間に、全地を支配し、治めるべき役割と責任を与えられた。(創世記1:28)
人は、全地を「主にあって」、正しく治めるべきである。
その「正しく治める」とは、全地も人も、こぞって創造主であられる主をほめたたえさせる方向性で、である。
残念ながら今、自然界は、人の好き勝手に、それぞれの自己中心的な欲望の赴くままに、搾取し、破壊しているため、被造物は、うめいている。
ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
私達は、任されている被造物を、主に栄光を捧げる方向性にて治め、全地が主に向かって喜び賛美できるよう、正しく管理し、治めるべきなのだ。
詩篇96:2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
詩篇96:3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
私達が、被造物に対して、最もなすべき事は、この2-3節で示されている通り、主を宣べ伝える事である。
イエス様は昇天される前、私達に命じられた。
マルコ16:15 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
福音を宣べ伝えるべき相手は、人間には限らず、「すべての造られた者」である事に、注目すべきである。
私達は、被造物に対しても、主が救い主となられたという「福音」を宣言し、呪いを解いてやることもまた、使命なのだ。
なお、2節の「宣べ伝えよ」はバーサル、喜びに満ちた、明るいニュースを告げる事であり、3節の「あらわし」はサーファル、集計や記録として印をつける事が元の意味で、すなわち、一つももらさず正確に伝える事を意味する。
だから、主の栄光を伝える際には、
1,喜びに満ちた表情で明るい救いのニュースを伝える
2,御言葉は、一つも漏らさず、正しく伝える
という、二本立てが必要であり、そのどちらも欠かしてはならない。
イエス様は、福音を告げるべき命令を、私達人間に託された。
1コリント1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
十字架の福音という宣教のことばは、愚かに聞こえるかもしれない。
死者の復活や、永遠のいのちなど、世の人が聞くなら、信じられない、と言うかもしれないが、しかし私達の分は、喜びつつ、そして、一つも漏らさず、正しく伝える事であって、伝えた福音を受け入れるか、受け入れないかは、私達の責任ではなく、相手の責任である。
詩篇96:4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。
詩篇96:5 もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。
ここで反復されている語は「もろもろの神(エロヒーム)」であるが、それは、異邦の神々の事である。
それらの神々は、天地を創造された主と比較するなら、むなしい。
そもそも、天地を創造された主を置いて、ほかに神々はいないのだが、主は、地の人々が「神々」と呼んでいるものに比較して、抜きん出て力があり、栄光に満ちたお方である。
詩篇96:6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
主の栄光は全地に満ちており、至る所が、主の御前である。
私達はその「御前」において、どのような態度であるべきか。
7節以降に書かれてある。
詩篇96:7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
詩篇96:8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
7-8節では「主に帰せよ(ハヴゥ・アドナイ:主に与えよ)」が、3回反復されている。
私達の分は、主に与える事、捧げる事であり、捧げるものは栄光と力である。
特に、「栄光(カーボード)」を捧げよ、と、2回繰り返されている。
カーボードは元々「重い」という意味である。
すなわち、主に栄光を捧げる、とは、主を重んじる心を捧げる、という事である。
8節後半から9節は、礼拝という場において持つべきこころざしが記されている。
詩篇96:8b 供え物を携えてその大庭にきたれ。
詩篇96:9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
つまり私達は、手ぶらで主の庭に入ってはならない。
出エジプト記34:20にも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない、と書いてある。
だから、主の前に出る時には、
1,手ぶらではなく捧げものをたずさえて
2,聖なる装いをして
進み出るべきなのだ。
だから礼拝に出る時、身を清めもせず、寝起きのままのような適当な格好で、手ぶらで出る事は、主を軽んじる事なのだ。
詩篇96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
詩篇96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
天や地に、海に対し、喜べ、と命じている。
私達は天に向って、台風は来るな、とか、明日は雨が降るな、といった祈りをよくするかもしれないが、むしろ、「喜べ」と命じたほうが良い。
詩篇96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も/主のみ前に喜び歌うであろう。
植物に対しては、主の前で栄光の花を咲かせ、喜びつつ豊かな実りを主の前で実らせよ、と、命じるのだ。
実際、植木や生花に対して、人が、祝福の言葉をかけてやると、その木は豊かな実りを実らせ、花は長生きする。
逆に、呪いの言葉をかけ続けるなら、すぐに枯れてしまう。
私達は、被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけてやるべきである。
詩篇96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
13節は「来る(ボー)」と、さばく(者ファット)が繰り返されている。
主が来られる事と、主のさばきは、主を待ち望んでいる神の民には、慰めであるが、悪者にとっては、それはおそろしい日である。
だからこそ、福音を伝えるべきである。
そして被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけ、全て主に創造された者たちが、主に栄光をささげるようにしてやるべきなのだ。
主日礼拝
悪魔サタンの実情と、対抗する方法(ルカ10:17-20)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: Go to the ant, you sluggard (Proverbs 6:1-11) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
私達が主の祝福を豊かに享受し、自由に生きるには、真理を知る必要がある。イエス様がどれ程素晴らしいお方で、彼にあって私達キリスト者がどれ程、素晴らしい地位を得ているか、知る必要がある、と同時に、私達は敵であるサタンの実情を知り、攻撃してくる方法と、それに対抗する術を、知らなくてはならない。
本当に多くのクリスチャンが、この者に惑わされ、あと少しでゴールという所を、邪魔されて、振り出しに戻されてしまった、という事が多いからだ。今回、どう悪魔サタンに対抗して勝利すべきか、コツを掴みたい。
よく 映画やドラマでは、神と悪魔との力関係が、あたかも対等か、あるいは悪魔のほうが上であるかのように描かれていたり、また、超自然的な悪が、自由気ままに、人間を残酷な形へと陥れる、といった描写があったりするが、全くウソである。悪魔サタンは、私達の主イエス・キリストと、キリストにある私達に比べれば、お話にならない程、格下である。サタンや悪魔、堕天使、悪霊、その他、全てキリストに敵対する敵たちは、やがて、みんなまとめて硫黄の燃え盛る炎の池に投げ込まれる事が、黙示録に書いてある。もし私達が、悪魔サタンや悪霊に会ったなら、信仰を交ぜた御言葉を宣言するべきだ。『彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣も偽預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:10) この真理に、悪魔サタンは震えおののくのだ。 さらに、1ヨハネ5:18に書いてある。
『全て神から生れた者は罪を犯さない事を、私達は知っている。神から生れた方が彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるような事はない。』 悪い者が手を触れられないよう、「霊的バリヤ」で守られている人とは、「神の種」が宿っている人である(同3:9)。御言葉という神の種(マタイ13章)を宿している人は、イエス様がその人を、悪魔サタンや悪霊から守っておられ、また、罪を犯さないよう、守っておられるのだ。
以上のように、権威的上下関係では圧倒的に、私達キリスト者が「上」、悪魔サタンは、遥かに「下」、なのに、どうしてキリスト者は時々、悪魔サタンのほうが力を持っているかのように錯覚したり、また、キリスト者が率先して平和を壊したり、汚れた言動を吐き散らしたりと、「キリスト者」ならぬ「サタン者」のように用いられてしまう事があるのか。その訳は、「偽りの父」である悪魔の偽りに惑わされ、踊らされてしまった場合である。
悪魔は、「誘惑者」である。経験が無いだろうか? ある、重要なタイミングで、普段は到底考えつかないような汚れた思いや情欲に突如襲われ、邪魔され、重要な場面で失敗してしまった事が。あるいは人間関係や物事を破壊させるような思いに捕われ、そういう言動を実際にしてしまって、せっかくゴール間近だったのに、振り出しに戻ってしまうような事が。それらは、私達由来ではない。そのような衝動を起こさせた者こそ、偽りの父であり、人殺しのサタンである。ゴキブリは、私達を部屋の外に放り投げる腕力や権威は無い。はずなのに、どういうわけか、ある人は、部屋にゴキブリが出ると、部屋から閉め出され、ゴキブリが部屋でくつろぐ、といった事態が起きる。それは、その人のゴキブリに対する行き過ぎた恐怖という「偽りの思い込み」があるからだ。悪魔サタンも、ゴキブリと同じで、キリストにある私達を恐れ、触れる事はできない。
けれども彼らは、人の思いの中に、サタン由来の汚らわしい「思い」や「偽り」を吹き込む事ができる。
それに踊らされてしまう時、キリスト者も、サタンの道具として、まんまと用いられてしまうのだ。騙されてはならない。霊的な戦いの場は「思い」の中にある。対抗手段が2コリント10:4-6に記されている。すなわち、全てキリストに逆らう「思い」や「所存」をキリストにあって逮捕し、服従させ、その服従が完全になる時、その者共を処罰する準備が出来るのだ。この、「キリストへの服従」こそ、要塞をも破るほどに力のある武器なのだ。
だから私達キリスト者は、御言葉の真理にしっかりと立ち、真理の御言葉を信仰を交ぜて宣言するべきだ。 「真理はあなた方を自由にする」と書かれてある通り、私達は、真理を知れば知るほど、自由になって行く。
私達がテフィリンし、思いと知性の中を「御言葉の真理」で充満させて行くなら、悪魔サタンから、恐れおののかれる者となる。のみならず、祝福の法則を身に着けて、何をしても栄える者となるのだ。
積極的に、主から与えられた権威を行使し、悪魔サタン、悪霊、病など、あらゆるサタン由来のものを、主イエスキリストの名によって縛り、踏みつけ、追い出し、すべて人を縛っている恐れや絶望感、病、貧困、その他、全てサタンに属するものを打ち砕き、光の領域を奪い返し、真理の自由の中でのびのび生き、主の復讐の日、主の恵みの年を発動させる皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇講解説教
礼拝する民への勧めと警告(詩篇95篇)
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詩篇95篇から100篇までは、主の栄光を褒め称える賛美が続き、これらの箇所では、「主の御前」「主の大庭」における心構え、すなわち、礼拝という場において私達はいかなる心や態度で臨むべきかが、示されている。
詩篇95:1 さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:2 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:3 主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。
1-2節で反復されている言葉は、「喜ばしい声をあげよう(ルーア)」である。
そのヘブライ語ルーアの元の意味は「(耳を)裂く」、そこから、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す、という意味となっている。
また、1節前半の「歌う(ラーナン)」も、同じ意味で、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す事である。
喜びの声を上げることが、反復して命じられている。
礼拝では、御言葉に聞き入るという「インプット」と、賛美や祈りという「アウトプット」をするが、アウトプットの場面においては、主に向かって声を上げ、また色々な楽器を奏でて、主を賛美し、また声に出して祈る事が、本来のあり方だ。
どなたに向かって、声に出し賛美をするか。
それは、「われらの救の岩にむかって(レ・ツゥル・イシュエヌー)」、と書いてある。
イシュエヌーは「わたしの救い」、すなわち、わたしのイエシュアに、わたしのイエス様に!である。
わたしの主イエス様こそ、救いの岩なるお方、われらの大いなる神、すべての神々にまさって、大いなる王であられる。
この主に向かって、声に出して賛美せよ、と、1-3節で語られているのだ。
詩篇95:4 地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。
詩篇95:5 海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。
詩篇95:6 さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。
下は地の深みから、上は山々の頂きまで、すなわち、下から上まで「全部」が、主のものであり、主の御手がつくられた。
国々の間では、よく、国境の境界線の問題が取り沙汰されているが、主が言われている事は、地は上から下まで、山々の頂も、海も、島々も、全て主のものである、という事である。
だから私達は、貪欲さをむき出しにして、土地や財を獲得しようとしてはならないし、不当に搾取されてもならない。
ルカ12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
だから私達の分は、6節にある通りである。
地をつくられ、海を造られ、そして私達を造られた主を拝み、ひれ伏し、御前にひざまずくのである。
7節以降には、神の民として分を超えてはならない事が警告されている。
詩篇95:7 主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。
私達は、主の羊である、と、宣言された。
羊の「分」は、何か。
それは、羊飼いについて行く事、その御声に聞いて、その通りにする事であり、私達は「主の羊」としての分を、超えてはならない。
詩篇95:8 あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
マサは「試み」(出エジプト記17:1-7)、メリバは「争い」(民数記20:1-13)を意味する。
マサの出来事は、出エジプトしたばかりの時に、メリバの出来事は、荒野での40年の最後に起きた出来事だ。
いずれも、人にとって必要な水が無いという事で試された事件である。
マサの時、人々は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた
メリバの時には、主が導いておられる道すがらなのに、ここは穀物や果物が育つような所ではなく水もない、自分たちは死んでいれば良かった、と言って主と争った。
そのように心を「かたくな」にしてはならない、と、命じられている。
詩篇95:9 あの時、あなたがたの先祖たちは/わたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。
詩篇95:10 わたしは四十年の間、その代をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。
詩篇95:11 それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。
この箇所は、ヘブル人への手紙で引用され、しかも、反復強調されている。
ヘブル3:7 だから、聖霊が言っているように、/「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
3:8 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
3:9 あなたがたの先祖たちは、/そこでわたしを試みためし、
3:10 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、/いきどおって言った、/彼らの心は、いつも迷っており、/彼らは、わたしの道を認めなかった。
3:11 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息に/はいらせることはしない、と誓った」。
彼らは、御声を聞いた事がない、のではない。
御声を聞いていて、その上で心をかたくなにして、そむいたのである。
安息へと入らないためのコツ、主が「共におられなくなる」ためのコツは、心かたくなにする事、うなじをこわくする事である(出エジプト記33:5)。
かたくなさ。
それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
そうならないためのコツは、聖徒の交わりの中にいて、ともに励まし合う事である、と、続く節で語られている。
ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
「きょう」という言葉が繰り返し強調された。
今、私達は、主から何か御言葉が与えられているだろうか。
主の御旨にかなった、あの事をしなさい、と、言われているだろうか。
捧げ物を滞らせていないだろうか。
あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を、止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。
怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するあの習慣、兄弟姉妹を悲しませているあの性質から、離れなさい、と言われているだろうか。
もし語られているなら、顔を背けず、それに服従すべきである。
いつ?
それは、「きょう」、すなわち、「今すぐ」である。
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
結局、安息に入る条件とは、聞いた御言葉を、信仰によって結びつけ、それに従順する事である。
御言葉を聞いたなら信じ、信じたなら、きょう、自分の意図を捨てて、御言葉のほうに服従する事。
安息に入るためには、それをするに尽きる。
詩篇講解説教
主に正しいさばきを求めるべき神の民(詩篇94篇)
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94:1 あだを報いられる神、主よ、あだを報いられる神よ、光を放ってください。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という、主への呼びかけの反復によって始まる。
悪がまかり通っていて、その者たちがして来た悪に対しては何の報いも受けないまま、のさばっている現実に対して、主に「復讐の神」として現れて下さる事を求めている。
復讐、というと、抵抗を感じるクリスチャンは多いかもしれない。
しかし、クリスチャンは、無抵抗主義であるべきではない。
ただし、復讐は、私達が遂行するものではなく、主がしてくださるものである。
私達がすべきは、義をもってさばいてくださる主に、願い求める事だ。
ローマ12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
イエス様が言われた「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という言葉は、無抵抗であれ、という意味ではない。
イエス様はその言葉の前に、「悪い者に手向かってはいけません」と、言われている。
すなわち、右の頬を打たれた時、左の頬を差し出す事よって、相手は「悪い者」であると認定し、そして、自分は悪い者をさばく事を自分ではせず、主のさばきにすべて委ねるものである、と、態度で表明するのだ。
だからもし、兄弟姉妹と言われている身内の中で、暴力を平気で行うような性質が芽生えているなら、左の頬を差し出している場合ではない。
神のさばきがその兄弟姉妹に及ばないよう、きっちりと戒めるべきなのだ。
94:2 地をさばかれる者よ、立って/高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
94:3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
悪者どもはレシャーイーム、1:1の「悪者」と同語である。
そこを見ると、悪を行う者たちは、風が吹き飛ばすもみがらのように散らされ、それに引き換え、主のおしえを喜びとし、昼も夜も御言葉をくちずさむ人は、水路のそばに植えられた木のように栄えて、廃れる事は無く、何をしても栄える、という法則が書かれてある。
4節以降に、この悪者どもは、何をして来たのか、どういう性質であるのかが、具体的に列挙されている。
94:4 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
つまり彼らは、悪い事をするのに、一切の躊躇が無い、どころか、悪びれもせず、その悪をしている事をむしろ自慢するのである。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
彼ら神の民を打ち砕き、主の嗣業(ナハラー:相続)の内に生きる人を、狙い撃ちにして来る。
94:6 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
94:7 彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
彼らは、ヤコブの神、と言っている。
つまり、まことの神について、キリスト教について、ある程度知っていながらにして、まことの神をあざけり、その民に対して暴挙をしている、確信犯である。
そのような者の、反キリスト敵な言動は、放置してはならない。
放置するなら、その者の悪事に同意している事になってしまう。
私達は、それに対して、「神の御言葉はこうである」、と宣言するべきであり、本人を前にそれを言う勇気や立場が無いとするなら、この詩篇の作者のように、主に義のさばきを訴え、主の報復が成る事を祈り求めるべきである。
94:8 民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
「鈍き(バーアル)」は、元は、火が燃え上がる、食い尽くす事の意味で、「愚か者(ケセイル)」は、元は「太った」「脂肪づいた」という意味である事から、「鈍い」「おろか者」、という意味となる。
つまり彼らは、火が燃え上がるような貪り食い尽くすような者で、なおかつ、心に分厚い脂肪がついたかのような、良心が鈍い者である。
彼らの貪りの行いによって、悲鳴を上げている人々を、彼らが見ても、聞いても、そんな事を何とも思わない者たちだ。
そのような者に対しては、「気づけ」「悟れ」と言う。
そう、気づかせるべきである。
何を気づかせ、悟らせるべきか。
それは、すべて正しいさばきをされる、全能の神について、である。
94:9 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
94:10 もろもろの国民を懲らす者は/罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
94:11 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
ここで彼は、宣言している。
神は人をつくられ、そのはかりごとを、心の隠れた隅々まで知っておられる、という事を。
そして、主は、全世界のさばき主であられる、という事を。
クリスチャンは、罵詈雑言は言うべきではないが、黙っているべきではない。
もし黙っているなら、何も動かない。
主は、いかなるお方であるのかを彼らに宣言するべきであり、そして、神に訴えるべきなのだ。
そうするなら、物事が動き出す。
どう動き出すかが、12節以降に記されている。
94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
94:13 あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまで/その人に平安を与えられます。
12節に、私達のするべき分が書かれてある。
すなわち、主のおきてによって教えられ、時には主から懲らされ、そうして、主の道を歩む事である。
そうするなら、13節にあるとおり、災いから逃れさせ、平安が与えられ、かつ、その間には悪者のために穴が掘られるのである。
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
94:15 さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
「さばきは正義に帰り」とはどういう事か。
主は、この世を、義によって固く建てられた。
世は、形状記憶合金のように、義へと戻るように造られているのである。
だから、いかに悪者がさばきを曲げ、法律を変えようとも、結局は義へと帰るようにできているのである。
94:16 だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。
94:17 もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
もしも、と、仮定法が使われている、という事は、結局最後は、主が助けとなって下さり、たましいは救いを得、さいわいを得た、という事である。
94:18 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。
94:19 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
彼は祈り、そして宣言した。
「足がすべる」と思った時、主のいつくしみが支えて下さった、と。
ここの「支える」は未完了形で、すなわち、今まで支えて下さった、のみならず、これからもずっと支え続けてくださる、という告白である。
また、思い煩いが満ちる時、主の慰めが、魂を「喜ばせ(シャァアー)」た、と告白しているが、シャァアーは、かわいがる、あやす事の意味があり、これも、ここでは未完了形である。
つまり、思い煩いが満ちて主に求めるなら、その都度、主はあやして下さり、かわいがってくださる、今までそうだったし、これからもずっとそうである、という告白である。
94:20 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は/あなたと親しむことができるでしょうか。
94:21 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。
「定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者」は、法律を自分に都合がいいように改定する、悪どい者である。
しかも、「彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告」する。
そのような者に対し、主は、決して親しむ事はなさらない。
94:22 しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。
94:23 主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。
この詩篇は、主こそ自分にとっての守りであり、そして主は、彼らの不義は彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされる、という宣言で、終える。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という呼びかけの反復で始まり、最後は「主は彼らを滅ぼされる」という宣言の反復で終わった。
こうして、この事はたしかに成就する、と、印が押された。
私達も、世においてまかり通っている悪を見たなら、この詩篇のとおりに、主に義のさばきを願い求め、また、主の復讐の日を宣言するべきだ。