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真の王が王座につく時(1列王記1:41-53)
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『アドニヤおよび彼と共にいた客たちは皆食事を終ったとき、これを聞いた。ヨアブはラッパの音を聞いて言った、「町の中のあの騒ぎは何か」。』(1列王記1:41)
アドニヤが勝手に王を名乗った事に対する、ダビデ達の対応は、素早かった。
ソロモンを王とし、それを公にする一連の手続きは、アドニヤが”王”となった事を祝う宴会が終わるまでに、全て、完了していた。
ソロモンが王となった事は、ダビデに仕えて来た人々にとっては、喜びの良き知らせであったが、アドニヤ達に対しては、そうではなかった。
『彼の言葉のなお終らないうちに、そこへ祭司アビヤタルの子ヨナタンがきたので、アドニヤは彼に言った、「はいりなさい。あなたは勇敢な人で、よい知らせを持ってきたのでしょう」。ヨナタンは答えてアドニヤに言った、「いいえ、主君ダビデ王はソロモンを王とせられました。』(1列王記1:42-43)
真に王となるべきお方が、王となる時、「グッドニュース(福音)」と取る人達もいれば、「悪いニュース」と取る人達もいる。
悪いニュースとなってしまう人達は、アドニヤのように、真の王たるお方を差し置いて、自分が王にのし上がろうとしていた人であり、また、ヨアブのように、真の王が王になってもらっては不都合なので、別の者を王に仕立てあげようとしていた人達である。
イエス様という”まことの王”が王座につく時、まさにこの二分化が起る。
ソロモンが王座についた時、群衆の間で喜びのどよめきが沸き起こったように、その時、イエス様が王座につかれる事を待ち望んでいる人達の間で、大きな喜びの歓声が沸き起こる。
『わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。』(黙示録19:6-7)
そしてその時、キリストを軽んじ、ないがしろにし、ことに、彼にはいなくなってもらいたいと、突き刺した者達は、嘆く。
『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』(黙示録1:7)
『王は祭司ザドクと預言者ナタンおよびエホヤダの子ベナヤ、ならびにケレテびとと、ペレテびとをソロモンと共につかわされたので、彼らはソロモンを王の騾馬に乗せて行き、祭司ザドクと預言者ナタンはギホンで彼に油を注いで王としました。そして彼らがそこから喜んで上って来るので、町が騒がしいのです。あなたが聞いた声はそれなのです。』(1列王記1:44-45)
ソロモン王は、父ダビデの直接の指示で王の騾馬に乗せてもらった。しかし、アドニヤにそれは無かった。
ソロモン王には、王としての正統な油注ぎ(任職)があったが、しかしアドニヤには無かった。
『こうしてソロモンは王の位に座し、かつ王の家来たちがきて、主君ダビデ王に祝いを述べて、『願わくは、あなたの神がソロモンの名をあなたの名よりも高くし、彼の位をあなたの位よりも大きくされますように』と言いました。』(1列王記1:46-47)
ダビデの家来たちはことごとく、息子ソロモンが王になった事を、自分から祝儀をのべに行った。
それに対し、アドニヤについた人達は、ただずっとアドニヤが振る舞ったごちそうを飲み食いし、そのどんちゃん騒ぎに付き合っていただけだった。
正統でない違法な、イリーガルなものは、一時的には流行るかもしれないが、その”どんちゃん騒ぎ”は、長続きしないものである。
この世の、偽りの王のどんちゃん騒ぎも、永遠の観点で見るなら、アドニヤの宴会のように、ほんの一瞬で消えてしまうものである。
『そして王は床の上で拝されました。王はまたこう言われました、『イスラエルの神、主はほむべきかな。主はきょう、わたしの位に座するひとりの子を与えて、これをわたしに見せてくださった』と」。』(1列王記1:47-48)
ダビデは感無量の内に、主への喜びと感謝が湧き上がったのだろう、ヤコブがしたように、床の上で、主に礼拝を捧げた。
イエス様も、ご自身の激しい苦しみによって生み出した信仰の子孫たちが栄えて行く様を見て、満足される。(イザヤ53:10-12)
『その時アドニヤと共にいた客はみな驚き、立っておのおの自分の道に去って行った。そしてアドニヤはソロモンを恐れ、立って行って祭壇の角をつかんだ。ある人がこれをソロモンに告げて言った、「アドニヤはソロモンを恐れ、今彼は祭壇の角をつかんで、『どうぞ、ソロモン王がきょう、つるぎをもってしもべを殺さないとわたしに誓ってくださるように』と言っています」。』(1列王記1:49-51)
アドニヤと彼に追従した人達は、ソロモンが王になった事を聞いて、震え上がり、みんなアドニヤの周りから去って行って、ただアドニヤが残された。
彼は祭壇の角をつかんだが、祭壇の角は、罪を赦すのためのいけにえの血が塗られる部分である。(レビ4:7)
彼は自分の驕り高ぶり故に、身の危険を感じた土壇場で、祭壇の角という、宗教的ご利益のありそうな所につかまって、赦しを乞うた。
彼は生涯、罪のためのいけにえを捧げるために、祭壇に行った事は何度かあったであろう。
しかし彼は、普段から主を恐れるような人ではなかった。
もし彼が、本当に主を恐れていれば、ダビデやソロモンを差し置いて王になろうなどと、御心に反した行動は取らなかっただろう。
彼は普段は主を軽んじ、いよいよ困った時、この「赦しの儀式」が行われる祭壇の角をつかみ、神の民の憐れみにすがって助かろうとしたのである。
確かに主は憐れみ深い方であり、神の民も”優しい”ものである。
彼は土壇場になってそれを「利用」したが、私達自身も、このアドニヤの性質を、取り扱うべきである。
困った時だけ、主の祭壇に入って赦しを求めたり、聖徒の良心を利用するような性質を。
『ソロモンは言った、「もし彼がよい人となるならば、その髪の毛ひとすじも地に落ちることはなかろう。しかし彼のうちに悪のあることがわかるならば、彼は死ななければならない」。ソロモンは人をつかわして彼を祭壇からつれて下らせた。彼がきてソロモンを拝したので、ソロモンは彼に「家に帰りなさい」と言った。』(1列王記1:52-53)
よく、悪い事をした人が捕らえられた時、「もうしません」「赦して下さい」という言葉を発するが、その人が「もうしない事」は、後になって分かる事で、もし本当にその後、悔い改めに相応しい実を結ぶなら、その人は助かる。
しかし、もしその後、再び悪い所が見いだされるようなら、もう、弁解の余地は無い。
私達も、その人の言葉で判断するのではなく、その人がその後に結ぶ「実」によって見分けるべきであり、その後どのように為すべきかは、実を見て判断すべきだ。
ソロモンはこの時点ではアドニヤを放免したが、アドニヤがこの後、どのような実を結ぶかが、査定される事となる。
私達も、この世では色々な罪を犯しても、主に立ち返るなら、赦され、罪は放免されるが、もしそれでもなお「好きこのんで」「率先して」悪い実を結び続けるようなら、もはや弁解の余地は残されていない。(ヘブル10:26)
ソロモン王の即位(1列王記1:28-40)
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ダビデは、4男アドニヤが勝手に王を名乗った事を、妻バテ・シェバから聞かされ、そして預言者ナタンから聞かされた。
ダビデのその後の対処と行動は早かった。
『ダビデ王は答えて言った、「バテシバをわたしのところに呼びなさい」。彼女は王の前にはいってきて、王の前に立った。すると王は誓って言った、「わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。わたしがイスラエルの神、主をさしてあなたに誓い、『あなたの子ソロモンがわたしに次いで王となり、わたしに代って、わたしの位に座するであろう』と言ったように、わたしはきょう、そのようにしよう」。』(1列王記1:28-30)
この「**の主は生きておられる」という語り出しは、これから自分が宣言する事は、生きておられる主の御前で宣言する事であり、確かな事である、という、ユダヤ流の宣言文句である。
ダビデは主を、「わたしの命をすべての苦難から救われた主」と呼んだ。
主は、ダビデが若く清い信仰だった時も、サウルの手から救ってくださったし、彼が高慢になり、姦淫と殺人の罪を犯し、諸々の災いが降りかかった時さえも、主は、彼の助けと憐れみを求める呼び声に応じて、救って下さった。
この度の出来事も、イスラエル王国を分断しかねない危機ではあったが、ダビデは彼をあらゆる災いからも救って下さった彼の主にかけて、誓った。
きょう、ソロモンを王とするための手続きをしよう、と。
『王は彼らに言った、「あなたがたの主君の家来たちを連れ、わが子ソロモンをわたしの騾馬に乗せ、彼を導いてギホンに下り、その所で祭司ザドクと預言者ナタンは彼に油を注いでイスラエルの王としなさい。そしてラッパを吹いて、『ソロモン王万歳』と言いなさい。それから、あなたがたは彼に従って上ってきなさい。彼はきて、わたしの位に座し、わたしに代って王となるであろう。わたしは彼を立ててイスラエルとユダの上に主君とする」。』(1列王記1:33-35)
ダビデはまず、ソロモンを王の騾馬に乗せなさいと指示した。
王が、自分の乗る乗り物を降りて、別の人をそこに乗せる事は、王の栄誉をその人に与える事である。(創世記41:43、エステル記6:8)
私達の主イエス様も、自ら乗るべき乗り物を降り、悪しき者に傷つけられ全てを奪われ行き倒れになってしまったような私達を、乗せて下さり、安全な所へと導いて下さった。(ルカ10:29-37)
罪過の中に死んでいた私たちを、ただ恵みによりキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせて下さった。(エペソ2:5-6)
そして私達をキリストにあって王国とし、共に治める者として下さった。(黙示録5:10)
ダビデは年老いた故に、王座を降りて、ソロモンへと王権を譲ったが、私達の主イエス様は、決して死ぬという事が無く、永遠に王の王であり、私達はキリストと共なる共同相続人である。
『そこで祭司ザドクと預言者ナタンおよびエホヤダの子ベナヤ、ならびにケレテびとと、ペレテびとは下って行って、ソロモンをダビデ王の騾馬に乗せ、彼をギホンに導いて行った。祭司ザドクは幕屋から油の角を取ってきて、ソロモンに油を注いだ。そしてラッパを吹き鳴らし、民は皆「ソロモン王万歳」と言った。民はみな彼に従って上り、笛を吹いて大いに喜び祝った。地は彼らの声で裂けるばかりであった。』(1列王記1:38-40)
この時点で、イスラエルの王権はダビデから離れ、その子・ソロモンへと引き継がれた。
アドニヤは、父ダビデ王の許可もなく、油注ぎという王としての任職もなく、ただの「名乗り上げ」と「既成事実化」によって王になろうとしたが、それに対し、ソロモンは父ダビデ王直接の認可の下、王としての任職の油を公に注がれ、正当な手続きを経て、王となった。
そして、一緒にいた民の喜びの叫びとどよめきは、地が張り裂けんばかりにまでなった。
まことに、アドニヤが自称・王として受けた栄光は、ソロモンが正統に受けた真の栄光に比べれば、全く取るに足りない。
悪しき者は、公にではなく、こそこそと非合法な方法を弄し、分不相応な「王権」を得ようとして罪に罪を重ねる。
私達はそのような、不当に非合法に得なくてはならないニセモノを掴まされてはならない。
私達は御言葉に沿って歩み、主の示された道を正当な手続きを経つつ歩んでいくなら、主は、最高に栄誉あるゴールへと導いて下さる。
いかに、報われないような日々が長く続くとしても、主は、ちょうど良い時に引き上げて下さるのだ。
ソロモンは、王になる事が主にあって決まっていたのに、なかなか王にはしてもらえなかったが、不穏分子が現れたちょうどその時、王として引き上げられた。
ダビデは詩篇で歌っている。
『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。』(詩篇23:5-6)
ソロモンは敵の前で油を注がれ、宴を設けられた。
どうして、よりによって敵が生え出てきた時に、と思うかもしれない。
しかし実は、逆に、隠れていた不穏分子がこの時現れてくれたおかげで、新しい治世にあたって、それを取り除く助けとなったのだ。
今の時代、麦と毒麦が共に同じ畑に育つようなものである。
麦と毒麦は一見、見分けがつかないが、成長して実った段階でその違いがあらわになる。
主は、その時まで、待っておられるのだ。(マタイ13:24-43)
こうして、無事、バテ・シェバの子・ソロモンは王となったが、もしバテ・シェバが預言者の言葉に従順していなかったなら、この事は起きなかった。
もし従順していなかったならば、王権は不相応な者に奪われ、本人たちは反逆者として命を落としていただろう。
私達も、御言葉によって、すばらしい地位と祝福は約束されている。
しかし、悪しき者が侵入して来ても、何も対処しないとするなら、せっかく与えられた素晴らしい地位も、祝福も奪われ、最後にはいのちを落としてしまうのだ。
永遠の祝福は、今、私達がキリストの言葉に従順するかどうかにかかっている。
聖霊の導きとキリストの御言葉に従順し、いのちを救い、永遠に祝福される皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
不法な侵犯者を放置するなかれ(1列王記1:11-27)
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『時にナタンはソロモンの母バテシバに言った、「ハギテの子アドニヤが王となったのをお聞きになりませんでしたか。われわれの主ダビデはそれをごぞんじないのです。』(1列王記1:11)
アドニヤは、次に王となるべきソロモンを出しぬいて、そして、現在王として立てられている父・ダビデには何も知らせないまま、勝手に「へびの石」のかたわらに人々を招いて、自分が王であると宣言して、勝手に記念の祝会を開いた。
まったく、あの古い「へび」・サタンと同じやり口である。
サタンはおごり高ぶって、多くの御使い達や人間たちをそそのかし、自分の所に引き寄せ、自らは神の座す高みへと勝手に領域侵犯し、いと高き者のようになろうとした。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:1-15)
そこで、預言者ナタンは、ソロモンの母・バテ・シェバに助言して言う。
『それでいま、あなたに計りごとを授けて、あなたの命と、あなたの子ソロモンの命を救うようにいたしましょう。』(1列王記1:12)
そう、権威の座に勝手に不法侵入して来る者に、何の措置も取らずに放置する事は、自分の「命を救わない」事なのだ。
キリストにあって王族の祭司とされた私達に対し、勝手に領域侵犯して来る悪しき者は、放置していておいてはならず、すみやかに対処すべきだ。
どのように対処すれば良いか。
それは、祈りによって聖霊様の警告に耳を傾け、そして、不思議な助言者・キリストの「御言葉」に対処法を求め、それに従う事によって、である。
ちょうど、預言者ナタンが、バテ・シェバに警告と助言を与え、それに従ったように。
『あなたはすぐダビデ王のところへ行って、『王わが主よ、あなたは、はしために誓って、おまえの子ソロモンが、わたしに次いで王となり、わたしの位に座するであろうと言われたではありませんか。そうであるのに、どうしてアドニヤが王となったのですか』と言いなさい。あなたがなお王と話しておられる間に、わたしもまた、あなたのあとから、はいって行って、あなたの言葉を確認しましょう」。』(1列王記1:13-14)
預言者ナタンがバテ・シェバに助言した内容は、ダビデが彼女にかつて約束してくれた言葉を盾に取り、それとはそぐわない現実が今まかり通ろうとしている現実を訴えるように、というものだった。
私達も、この要領で、まことのダビデである主キリストに、御言葉の約束を盾にとって訴えるべきだ。
すなわち、真実が正しく行使されていない現状を。
悪しき者が勝手に偽りの表明をし、立ってはならない権威の座に、立とうとしている事を。
ソロモンが王となって、神の宮を建築する事は、ソロモンが生まれる前から既に主にあって約束された事である。(1歴代誌22:6-9)
その彼が生まれた時、彼は預言者ナタンから「エディデヤ(主に愛される者)」とうい名前までいただいている。(2サムエル記12:25)
アブラハムの正統な家系は、肉の力によって生まれたイシュマエルにではなく、約束によって生まれたイサクが受け継いだように、権威は人間のはかりごとや力づくによって成り上がるのではなく、主の約束によって与えられるものである。
私達キリスト者は、御言葉により、すばらしい約束が与えられている。
『神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)
『わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』(1ヨハネ3:1-2)
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。』(1ペテロ2:9)
私達は、この与えられている素晴らしい特権を、領域侵犯して来る者に手放したりしてはならないし、また、俗悪なエサウのように、一杯のなくなる食物と引き換えに売り渡したりしてはならない。
『そこでバテシバは寝室にはいって王の所へ行った。(王は非常に老いて、シュナミびとアビシャグが王に仕えていた)。』(1列王記1:15)
アビシャグは若く美しく、いつも王のそばにいて仕えてはいたが、彼女は王妃ではない。
しかしバテ・シェバは王妃であり、ダビデの所に大胆に進み出て、おりに叶った助けをいつでも願い出る事が自由に出来る。
私達もキリストに救われ神の子とされた者として、またキリストの花嫁として、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るのだ。
『彼女は王に言った、「わが主よ、あなたは、あなたの神、主をさして、はしために誓い、『おまえの子ソロモンがわたしに次いで王となり、わたしの位に座するであろう』と言われました。そうであるのに、ごらんなさい、今アドニヤが王となりました。王わが主よ、あなたはそれをごぞんじないのです。彼は牛と肥えた家畜と羊をたくさんほふって、王の子たち、および祭司アビヤタルと、軍の長ヨアブを招きましたが、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。」・・・バテシバがなお王と話しているうちに、預言者ナタンがはいってきた。』(1列王記1:17-21)
バテ・シェバは、預言者から受けた助言の通り、ダビデが過去にしてくれた誓いを盾に、王に願い出た。
すると、ナタンはあらかじめ言っていた通りにダビデ王の元に進み出て、彼女の言葉をフォローし、裏付けして助けてくれた。
私達も、聖霊の導きに従って行動をすれば、聖霊様はフォローし、裏付けして下さる。
しかし、導きに従って行動しないなら、そのバックアップは無い。
もし今、世の何者かが私達に与えられている大いなる特権を侵害し、キリストにある自由と栄光と富を侵犯して来る者がいるなら、私達は聖霊の導きに従って、主に訴え、祈り、主が示して下さる対処方法に従って、速やかに行動すべきである。
勝手に王になろうとしたアドニヤ(1列王記1:1-10)
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第二サムエル記では大いに活躍していたダビデだが、彼も年老いた。
ダビデがと共に活躍してきた同世代の人々は、徐々に退いてゆき、ダビデ治世下の比較的安定した時代に育った新しい世代が、王国の主力を担うようになって来た。
第一列王記は、そのような時期から始まる。
『ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。』(1列王記1:1-4)
ダビデはかつて姦淫の罪を犯し、それが元で殺人の罪を呼び、その罪の刈り取りの故に、サムエル記の半分以上を、主の懲らしめと苦々しい災いの記事で埋め尽くす事となってしまった。
これを過ぎたダビデは、もはや性的な面において潔白を貫くようになったのだろう。
いずれにせよこの情報、すなわち、ダビデの衰た体を温めるためにイスラエル中から若いおとめを探し、ダビデに召した事は、ダビデはもう衰えてしまったという事を広く知らせる事となっただろう。
長らく統治して来た強力な王が衰えたとなると、野心ある者が現れ、動乱が起こりやすくなるのは歴史の常である。
『さてハギテの子アドニヤは高ぶって、「わたしは王となろう」と言い、自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備えた。彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。』(1列王記1:5-6)
ハギテの子アドニヤはダビデ王の4男である。長男アムノンと3男アブシャロムは既に死に、次男キレアブ(歴代誌ではダニエル、その母はアビガイル)は、その名前以外は一切登場しないため、この時既に他界したか、あるいは王権からは遠ざかってひっそり暮らしていたかであろう。
アドニヤは、次の王として最も有力視されていたようだが、ダビデは予め、バテ・シェバの子ソロモンに王位を継がせる事を約束していた。(1列王記1;13,17)
しかし、そのソロモンが若く力が無い(1歴代誌22:5)となると、人々は、目に見えて頼りになりそうな方を選んでしまうものだ。
アドニヤは、父ダビデから一度も「たしなめ(アツァブ:彫刻する、痛い思いをする)」られたことがなかった、と記されている。
子を懲らさないで育てると、確かに親は後に苦しむ事になるが、何よりも、それは子を滅びへと導いてしまう事になる。(箴言13:24)
『むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。』(箴言29:15-17)
現にアドニヤは、たしなめられた事が無かった故に、傲慢となり、その傲慢が彼自身を滅ぼす事となってしまう。
『彼がゼルヤの子ヨアブと祭司アビヤタルとに相談したので、彼らはアドニヤに従って彼を助けた。しかし祭司ザドクと、エホヤダの子ベナヤと、預言者ナタンおよびシメイとレイ、ならびにダビデの勇士たちはアドニヤに従わなかった。』(1列王記1:7-8)
ヨアブとアビヤタルは、アドニヤが王になる事を支持している。
ヨアブといえば、あの有能な軍団長ではあるが、多くの罪のない人の血を流し、その上に彼のキャリアは成り立っていた。
また何度もダビデの命令を超え、度々ダビデを悩ませて来た者である。
祭司アビヤタルは、ダビデが若き時、サウル王から逃げていた時代から、ダビデに仕えて来た祭司であったのに、ダビデが年老いて衰えた時、ダビデへの忠誠から離れてしまったようだ。
しかし、ダビデと共に戦って来た勇士達など、ダビデに忠誠を尽くした人達もいた。
こうして王国は一時、アドニヤをかつぐ者と、ダビデにつく者とに分かれた。
アドニヤと、彼についた人達は、結局、主の御心に従うのではなく、また、主のしもべ・ダビデに忠誠を尽くすのでもなく、自分の思いどおりに物事を動かしたかったようだ。
ダビデは既に年老いている、それなのに次に王になる人を明らかにしないまま、美しいおとめに介護してもらっているような状況だ、彼にはおとなしく余生を過ごしてもらって、これからは、自分達の思う通りにイスラエルを動かしていこう、といったように。
私達は、物事が中々進まない時こそ、主の約束はどうであったかを思い起こすべきであり、何が主の御胸であるのかを主に伺うべきだ。
物事が中々思うように進まないと、外見の良さや力強そうなものが現れると、それに飛びついてしまがちであるが、性急に飛びついてしまった人達は、後に恥を見る事になる。
『アドニヤはエンロゲルのほとりにある「へびの石」のかたわらで、羊と牛と肥えた家畜をほふって、王の子である自分の兄弟たち、および王の家来であるユダの人々をことごとく招いた。しかし預言者ナタンと、ベナヤと、勇士たちと、自分の兄弟ソロモンとは招かなかった。』(1列王記1:9-10)
アドニヤは勝手に、王になったと言ってセレモニーを開き、そこには「都合のわるい人達」は誘わなかった。
それは彼の心に、後ろ暗い所があったからに他ならないが、このセレモニーの致命的な欠陥は、最も大事な人、すなわち、父であり、長年の王であるダビデに何も通達せずに、この事を行ってしまった事だ。
もしかすると、老獪なヨアブは「ダビデには内緒で行いなさい」とアドバイスしたのかもしれない。
一度、盛大に「アドニヤが王である」というセレモニーを開き、既成事実をつくってしまえば、勢いづいて、あとは民衆がついて来るだろう、と。
しかし、いかに人間が「流れ」をつくって既成事実を作っても、主の御胸でない偽りごとは、成就しない。
ただ主の御胸だけが成るものであり、そのような勝手な事を企てる人には、ただ、彼を不利訴える罪状のみが、既成事実として残ってしまうのだ。
神の霊の現れと性質(イザヤ40:3-5)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
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週報/メッセージ(説教)概要
本日より、待降節(アドベント)に入る。現代、アドベントというと、クリスマスまでのカウントダウンのようなイメージもあるが、元々の意味は、主の「到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事であり、やがて来るべき再臨の主の「到来」を待ち望む事もまた、アドベントの時に覚え祈るべき事である。
私達はいか主の到来を待ち望むべきか。荒野で呼ばわる者の声は、叫ぶ。「主の道を整えよ」と。
主が通られ、私達の内に来られるために、険しい山谷のような性質が、平野のようにならされる必要がある。
今、まことの花婿キリストの到来を前にして、私達キリスト者はキリストの花嫁としてバージンロードを整えるような日々であるが、この「整え」は自分だけで出来るものではない。神の霊の力添えによって可能である。
私達は、この神の霊(聖霊、御霊に同じ)のどんな働きによって整えられていくのか、今回、神の霊の7種類の現れを学び、私達はどのような面において特に助けが必要で、求めるべきなのかを、学んで行きたい。
神の霊のまず第一は、「恵みの霊」(ヘブル10:29)である。「恵み(カリス)」には元々、「優しさ、思いやり、親切、恵み、恩恵、愛顧」などの意味があり、特にキリストの救いの無償である事を強調する語である。
聖霊により、カリスが各々に授けられると「賜物(カリスマ)」となって、各々に御霊の固有な現れが起きる。
主は、優しく思いやりに溢れた恵みの霊により、無償の愛と恩恵と、賜物とを恵んで下さり、生来の悪い性質から聖なる者へと贖い出して下さった。この、恵みの御霊をあなどるとするなら、重い刑罰が待っている。
2つ目は、「いのちの霊」(ローマ8:2)である。私達はキリストにあって歩み続けるなら、いのちの霊の法則が発動され、罪と死の法則から解放されている。(ローマ8:1-2) この霊の働きによって罪と死から解放され、泉のようにこんこんと湧き上がるいのちが川となって流れだし、死の海さえも、いのちに溢れて行く。
3つ目は、「神の子とする霊」(ローマ8:14-16)である。 私達は以前は神の子らしくなく歩んでいた。
罪を犯し、父から勘当され切り離されたかのような歩みをしていたが、神の子とする霊は、私達がキリストにあって神の子であると証し、この霊によって私達も、神を「お父さん(アバ、父)」と親しく呼ぶ事が出来る。
子であるなら、キリストと共に共同相続人であり、計り知れない富が、子とする霊によって与えられた。
4つ目は、「きよくする霊」(詩篇51:10)である。 ダビデは栄光と富と力が満ちた時、姦淫と殺人の汚れた思いに満たされ、そこを主に指摘された時、祈った。自分に清い心をつくり、揺るがない霊を新しくして下さい、と。私達も俗悪な思いに満たされ、聖なる歩みが頓挫してしまった時や、習慣的な罪を止められない時等は、ダビデのように、きよい心をつくり、揺るがない霊を自分の中に新しくして下さい、と祈るべきだ。
5つ目は、「執り成しの霊」(ゼカリヤ12:10)である。この霊が注がれると、国や人、事柄について心が張り裂けるような思いに駆られ、「あの人(国、事)を憐れんで下さい」と、何時間でも、何十時間でも、執り成しの祈りをするようになる。これは祭司として、長たる者として必要な霊であり、与えられるよう祈る必要がある。
また、祈りが出来ない人、人や事について思いが沸かない人も、この霊が与えられるように祈るべきだ。
6つ目は、「真理の霊」(ヨハネ14:17)である。これは、真理を理解し、識別する事のできる霊である。
世の人は、真理の御霊が無いため、主を知らないし、御言葉も理解できない。しかしイエス様を信じた人はこれを持っており、求めれば求める程、真理への造詣が深くなる。この霊に満たされた人は、御言葉の深い奥義に感動し、さらに満たされている人は、聖書の一節一節の中に、あたかも宇宙がまるまる入っているのではないかと思うくらいに感動する。これは、御言葉を伝える人は追求して行くべき霊である。
7つ目は、「栄光の霊」(1ペテロ4:14)である。 この霊に満たされた人は、人を見ず、状況を見ず、働きの労苦も見ない。圧倒的な天の栄光の素晴らしさを見るので、労苦も迫害も物ともせず、ただ主のために働き、主のために死ぬ事が、その人の唯一の願いとなる。ステパノは、御座に座しておられる栄光の主を見、栄光の霊に満たされ、彼に石を投げる人々を執り成しながら、御使いのような表情で殉教して行った。
霊にあって歩むなら、肉の行いをしなくなって行く。だから、肉のわざを我慢するより、御霊に満たされ御霊によって歩む事を求める方が遥かに有益だ。この神の霊によってこそ、私達の内側のでこぼこは平らにされ、御前に聖い花嫁として整えられて行く。神の霊に満たされ、主に恵みが増し加えられ、いのちに溢れ、神の子とされ、きよくせられ、執り成し祈り、ますます真理が開かれ、栄光の働き人となって行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
悔いはしても改めなかったイスカリオテのユダ(マタイ27:1-10)
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- pastor 2015-11-28 2:48