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メルキゼデク – 永遠の祭司(創世記14:14-24)
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今回はメルキゼデクという人物について見て行きたいが、彼はとても特異的な存在である。
メルキゼデクが登場するのは創世記14章のみで、突如アブラムに現れ、彼を祝福し、それ以降は姿を現さないが、その名は詩篇に1回、ヘブル書に8回、永遠の大祭司として登場する。
メルキゼデクが現れた創世記14章には、アブラムの第二の信仰の試練と、そして大勝利が記されている。
シヌアル(現・イラク周辺諸国)の4人の王達が集結し、現・イスラエル周辺諸国の5人の王達に戦いを挑んで、勝つのだが、その時、ソドムの中に住んでいたアブラムの甥のロトも、捕らえられてしまった。
それを聞いたアブラムは、彼の家で生まれたしもべ318人を率いて、その4人の王達に戦いを挑んだ。
今回彼は、エジプトで得た奴隷には一切頼らず、ただ自分の家で生まれたしもべだけの、信仰の小数精鋭部隊をもって相対して、見事勝利し、ロトを救い出したばかりでなく、多くの分捕り物も得たのだ。
かつて、第一の試練である飢饉が彼に襲った時、彼はエジプトに下り、愛する妻サライがパロの元に連れて行かれても、ただ指を咥えて見ているだけだったが、今回のアブラムは、信仰によって進み出た。
アブラムは、神が「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。」と言われたからには、この王達の方が呪われていると信じ、神が「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と約束されたからには、自分は戦死せず、生きて、勝利し、そして必ず子孫を残す、と、信じた事だろう。
彼が相対した王達は、各国を打ち破り、略奪しながら下ってきたのだから、相当の気勢・軍勢であったろう。
それを、わずか318人で戦って勝利し、かなりの距離を追跡して多くの分捕りをしたのは、人間業ではなく、主のわざである。エジプトでの時、彼は自分の力を見て失敗したが、今回彼は自分を見ず、主の約束に信頼したため、主はその信仰に応じ、勝利を得させたのだ。メルキゼデクが彼に現れたのは、その時である。
メルキゼデクはサレムの王である。14章には今回の戦争に関わった王達の名や地名が沢山出て来るが、メルキゼデクも、サレムも、どこにも無い名であり、14章に登場する王達はその場限りの脇役だが、メルキゼデクは、詩篇でダビデが記し、ヘブル書の記者が詳細に記している。
いと高き神の祭司として突如現れ、アブラムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げた彼は一体何者だろうか。
「その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。」(ヘブル7:2-4)
義の王、平和の王であり、いと高き神の祭司として、信仰の父祖アブラハムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げたお方。父もなく母もなく、系図もなく、また、生涯の初めも命の終わりも無いお方。
彼は永遠の祭司であり、キリストの性質そのものである。彼こそ受肉前のキリストではないだろうか。
メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってアブラムを出迎えたが、それは単なる食料の差し入れではない。
パンはイエスの裂かれた体、ぶどう酒はイエスの流された血潮を意味する。イエス様は、信仰をもって御前に近づく私達にも、裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、その流された血潮の印によって定められた滅びは過ぎ越し、罪は清められ、その裂かれた体によって、真の聖所に入る事が出来るのだ。
勝利したアブラムを迎えた王が、もう一人いる。それは、主の御前に非常に罪深い、ソドムの町の王である。
ソドムの王は「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と持ちかけたが、アブラムは、いと高き神にかけてそれを辞退し、ソドムのものは一切、靴紐一本さえ取らない事を宣言した。
世の富、ことさら、ソドムのような神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。私達は、ただメルキゼデクからいただくパンとぶどう酒を、すなわち、イエスキリストの御体と血潮のみを望むべきである。
アブラムは、世の力に頼らず主の約束のみに頼って戦い、勝利し、世の報酬は一切求めずに、ただメルキゼデクのパンとぶどう酒のみを受けた。そして彼はいと高き祭司に祝福され、十分の一を捧げた。
同じように私達も、御言葉の約束を信頼して進み出て戦うならば、主は勝利を与えて下さり、キリストご自身の裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、そして祝福して下さるのである。
言い訳をして戦いに行かない一部のヨセフ族達(ヨシュア記17:14-18)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-2 19:27
礼拝説教メッセージ音声:言い訳をして戦いに行かない一部のヨセフ族達(ヨシュア記17:14-18):右クリックで保存
『ヨセフの子孫はヨシュアに言った、「主が今まで、わたしを祝福されたので、わたしは数の多い民となったのに、あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか」。』(ヨシュア記17:14)
ヨセフ族、すなわちエフライム・マナセ族には、既に広大な土地が与えられており、その領地の広い境界線も、既に定められている。
それなのに、ヨセフ族の”ある人達”は、ヨシュアの所に来て、くじは”ただ一つ”しかもらえなかったと、不服を申し立てている。
御心にかなった事や、御約束の成就を「求める」事は、大いに推奨されるものではあるが、今回の彼らの要求は、それとは異なるものである。
なぜなら、彼らには既に広大な良き地が約束として与えられ、あとは、彼らがそれを手に入れるための行動を起こすだけなのに、彼らはそれをせず、約束として与えられたものにケチをつけているからだ。
『ヨシュアは彼らに言った、「もしあなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジびとやレパイムびとの地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなたがたには狭いのだから」。ヨセフの子孫は答えた、「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナンびとは、ベテシャンとその村々におるものも、エズレルの谷におるものも、みな鉄の戦車を持っています」。』(ヨシュア記17:15-16)
彼らが自分の口で告白した通り、主に祝福され、多く増え、また多くの力も与えられているのだから、その力を用いて、まだ敵がのいる相続地を切り開いて行きなさい、と、ヨシュアは言っているのだが、彼らは、いえ、相手は鉄の戦車を持っているから、できません、と言うのだ。
『ヨシュアはまたヨセフの家、すなわちエフライムとマナセに言った、「あなたは数の多い民で、大きな力をもっています。それでただ一つのくじでは足りません。山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」。』(ヨシュア記17:17-18)
現代のキリスト者の中にも、このヨセフ族の”ある人達”のように、「主が与えた」という御言葉の約束を頂いておきながら、そして、あとは行ってそれを勝ち得るだけでありながら、色々な言い訳ばかりをして、それをせず、かえって文句を言ったり、別のものを求めたりする”霊的怠け者”の信仰者がいる。
『なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。・・・なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。』(箴言26:13)
私達の内には、生まれながらの肉なる性質や、過去の傷、抱えている病といった、滅ぼすべき”ペリジびと”や”レパイムびと”、鉄の戦車を持った”カナン人”がいる。
しかしそれらは、私達の内におられる、まことのイエシュアであるイエス様と共に「滅ぼし可能」なのだ。
それなのに、「自分の病は鉄のようだ」とか、「自分のトラウマは戦車級だ」とか言い訳して、他人には「自分に合わせてくれ」と要求ばかりしている人は、いつまでも改善されない。そればかりか、やがてはそれらに飲み込まれてしまうのだ。
事実、士師記1章を見ると、ヨセフ族はヨシュアから言われていた通りに敵を滅ぼさなかったため、その者達は後々、力をつけてしまい、苦々しい事になってしまった。
パウロは言っている。
『こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。』(2テモテ1:6-7)
ヨシュアも、ヨセフ族に言った。あなたには既に大きな力が主から与えられている、それをもって、鉄の戦車を制圧せよ、と。
そして主イエスは、私たちに言っている。
『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。』(ヨハネ16:33)
『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。』(マルコ16:15-18)
『わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:38-39)
私達に与えられた聖霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である。
それを奮い立たせ、私達の内に元から住んでいる滅ぼすべきもの、すなわち、病や過去のトラウマなどの”鉄の戦車”を、信仰によって戦いを仕掛け、追い払い、勝利し、私達の内には、ますます広大な安息の地を得て行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
杖を投げる時と蛇をつかむ時(出エジプト記4:2-5):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
笛吹けど踊らず(マタイ11:16-24):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
女が死よりも苦々しいと言う人の特徴(伝道者の書7:26-29):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書7章26-29節を基に、ソロモンの女性観と人間の理屈について説く。
【聖書箇所】
伝道者の書7:26-29、箴言31:1-3、31:28-31、第二コリント10:4-6
【戒めの言葉】
人間の理屈に頼らず、神の知恵を求めるべき。
【勧めの言葉】
夫婦は互いに一人の伴侶を大切にし、神を恐れる関係を築くべき。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書7章26節から29節です。ソロモンは「私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手はかせである」と述べています。
ソロモンがこのように女性を見たのは、彼自身の経験に基づいています。ソロモンは700人の妻と300人の側女、合計1000人もの女性を持ちました。エジプトやモアブの女性など、様々な国の女性を政策や欲望のために集めました。その結果、神の国を思うよりも偶像礼拝に走る女性たちに囲まれることになったのです。
ソロモンは「神に喜ばれるものは女から逃れるが、罪を犯すものは女に捕らえられる」と言っています。結局、ソロモン自身も罪に捕らえられ、晩年には偶像の宮を建て、子供を生贄に捧げるような邪教の神殿さえイスラエルに建ててしまいました。
ソロモンは知恵を与えられましたが、さらに知恵を求めて人間の悪行や愚かさを学ぼうとしました。しかし、人間は弱く、染まりやすいものです。ソロモンも女性を極めようとして、かえって罪に染まってしまったのです。
私たちは力を異性に費やすべきではありません。箴言31章では、レムエルの母が「あなたの力を女に費やすな」と忠告しています。代わりに、夫婦は互いに一人の伴侶を大切にし、尊重し合うべきです。
エペソ書では、夫は妻を命がけで愛し、妻は夫に従うよう教えています。これが理想的な夫婦像です。一人の夫と一人の妻が互いを支え合い、敬い、守り合うことで、幸せな家庭が築かれるのです。
ソロモンは「神は人を正しいものに作られたが、人は多くの理屈を探し求めた」と述べています。人間は神の言葉に対して理屈をつけ、罪を増やしてしまいました。エデンの園でも、アダムとエバは神の戒めに理屈をつけて罪を犯しました。
私たちは理屈や謀りごとを捕らえて、キリストに従わせるべきです。第二コリント10章に「私たちは様々の理論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせ」とあります。
人間を見ることをやめ、異性を見つめることもやめましょう。代わりに、唯一の完全な男であるイエス・キリストに目を向けるのです。キリストを見つめることで、私たちもキリストの姿に少しずつ変えられていくのです。
【結論】
神の言葉に従い、理屈ではなく信仰によって生きる。夫婦は互いに愛し合い、キリストを見つめて歩む。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヘブロン - 信仰者が仮住まいする地(創世記13:14-18):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:マナセ族の積極的な信仰(ヨシュア記17:1-13):右クリックで保存
ヨシュア記17章には、マナセ族への相続地の割り当てが記されている。
『マナセの部族が、くじによって獲た地は、次のとおりである。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギレアデの父であるマキルは、軍人であったので、ギレアデとバシャンを獲た。』(ヨシュア記17:1)
マキルは軍人であった(戦士であった)と記されているが、このマキルの子孫達が積極的にカナンの地を占領した活躍の様は、民数記に記されている。
イスラエルがまだヨルダン川を渡っていなかった時、ルベン、ガド族に相続地が先行して与えられたのを見たマナセは、それに便乗し、積極的にヨルダン川北東地域を攻め取ってそこに自分達の名をつけ、モーセ公認の元、堂々とそこを得たのだ。
『マナセの子マキルの子孫はギレアデに行って、そこを取り、その住民アモリびとを追い払ったので、モーセはギレアデをマナセの子マキルに与えてそこに住まわせた。またマナセの子ヤイルは行って村々を取り、それをハオテヤイルと名づけた。またノバは行ってケナテとその村々を取り、自分の名にしたがって、それをノバと名づけた。』(民数記32:39-42)
マナセ族は、男のみならず、女達も、主が約束された相続地を求める事に、積極的であった。
『マナセの子マキル、その子ギレアデ、その子ヘペル、その子であったゼロペハデには、女の子だけで、男の子がなかった。女の子たちの名は、マヘラ、ノア、ホグラ、ミルカ、テルザといった。彼女たちは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュアおよび、つかさたちの前に進み出て、「わたしたちの兄弟と同じように、わたしたちにも、嗣業を与えよと、主はモーセに命じおきになりました」と言ったので、ヨシュアは主の命にしたがって、彼らの父の兄弟たちと同じように、彼女たちにも嗣業を与えた。』(民数記17:3-4)
彼女達は、まだヨルダン川を渡っていない時、父の世代が恐怖したカナン人が、まだヨルダン川の向こう側で跳梁跋扈していた時から、既に、自分達はその者共を追い出し、そこを勝ち取る事を前提に考えていた。
その地を勝ち得た暁には、自分達には男性の相続者がいないゆえ、相続地がもらえなのではと憂慮し、モーセや祭司達、全会衆を前にして、以下の事を主張したのだ。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)
主は、彼女たちの訴えを「もっとも」とされた。
なぜなら彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださるのだ。
思えば、彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他に多くあっただろう。
女の子が生まれる確率が1/2なら、五人子供がいる家庭のうち、五人全員が女の子である確率は、三十二家庭に一つある事になる。
イスラエルには、およそ六十万家庭あるので、その中で、女の子供しか生まれなかった家庭は、かなりの数あっただろう。
それでも、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからであり、その他多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。
「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
間違った「謙遜」に陥ってはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)
彼女たちは、親の世代の罪の故に、荒野での放浪に四十年間付き合わされるはめになってしまった。
同じように私達も、親や同僚、上司などの罪で、とばっちりを喰らってしまうことがある。
それでも主の約束を保ち続け、それを盾にとって進み出るなら、主はいずれ豊かに報いてくださるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:エフライム族への相続地(ヨシュア記16:1-10):右クリックで保存
ヨシュア記16-17章は、ヨセフ族の二部族への相続地の割り当てが記されており、エフライム族への割り当ては16章に、マナセ族への割り当てが17章に記されている。
ヨセフ族は、父イスラエル(ヤコブ)の祝福の故に、エフライム・マナセの二部族へと枝分かれして行った。
その祝福の次第は、創世記に記されている。
『イスラエルはヨセフの子らを見て言った、「これはだれですか」。ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。』(創世記48:8)
父イスラエルがヨセフの子達を祝福してくれる、というので、彼としては、長男のマナセに、より大きな祝福を与えたいので、マナセを父の右手側、エフライムを左手側に連れて来たのだが、父イスラエルは、意外な行動を取った。
『すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。』(創世記48:14)
右手は力や権力をあらわすため、普通なら長男を右手で祝福するものだが、父イスラエルはわざわざ手を交差させ、意図的に、長男マナセを左手で、次男エフライムを右手で祝福したのだ。
父イスラエルは、弟のほうが兄よりも祝福されるという自分の人生経験から、そのようにしたのかもしれない。
しかし、その後の歴史は、彼が祝福した通りに、エフライムのほうがマナセよりも祝福されたかというと、そうでもなかった。
民数記には、イスラエルの人口調査の記録が、二回あり、一回目は、エジプトを出たばかりの時に行われ、二回目は、それからおよそ四十年を経た後、約束の地カナンに攻め込む直前に行われた。
その第一回目の人口調査では、マナセ部族は32200人、エフライム部族は40500人で、ヤコブの祝福どおり、エフライムのほうが多かった。
しかし、二回目の人口調査(26章)では人数は逆転し、マナセ部族は52700人、エフライム部族は32500人である。
エフライム部族の数は、12部族中、ワースト2位になってしまった程に、その四十年で減ってしまったのだ。
このように、親からより優れた祝福や預言をせっかくいただいていたのに、主の御声を軽んじ、御言葉に反して、身勝手に生きるとしたなら、主は、その与えようとしていた祝福を取り上げ、別の人にその祝福を移してしまうのだ。
確かに、親が祝福する事・牧師が祝福する事には、大きな意義がある。しかし、その人がその祝福の実体を受けるかどうかは、結局、本人次第なのだ。
『このほかにマナセの子孫の嗣業のうちにも、エフライムの子孫のために分け与えられた町々があって、そのすべての町々と、それに属する村々を獲た。』(ヨシュア記16:9)
マナセの嗣業(相続地)の内に、エフライムのために分けられた町々がある、、、実際、聖書地図を見ると、エフライムの相続地は、ヨルダン川西側のマナセ族の土地の下方に、ちょこんと付け足されたような形で、存在している。
また、聖書地図などを見ると気付くと思うが、イスラエル12部族全体への相続地は、面積的にはユダ族とマナセ族だけで、半分以上が占められて、その他の部族への割り当ては、それに比べて遥かに狭いのだ。
なぜこんなにも、相続地の広さに格差があるのか。
それは、前回学んだ通り、主が与えて下さる相続は、御約束を望み見て、積極的に攻め取る者が多くを勝ち得るものなのだ。
ユダ族やマナセ族は、相続地を積極的に攻めに行って多くを勝ち得たが、エフライムや他の部族は、積極的に攻めに行った記録は、特に無い。
私達がやがて相続する天の国も、同じである。
地上で生きている間、霊的に積極的に攻めて行かない者には、わずかな割り当てしか与えられず、積極的に攻めに行く者には、多くが与えられるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:多くを勝ち得たユダ族(ヨシュア記15:1-63):右クリックで保存
ヨシュア記中、もっとも節数の多い15章は、ユダ族への相続地の明細である。
1-12節には相続地の範囲が、13-19節にはカレブとオテニエルについての挿話が、20節から63節までは、勝ち得た町々・村々のリストが記されており、その100を超える地名のリストが延々と続くので、読むのも一苦労だが、それだけユダ族は多くの戦いを積極的に仕掛け、勝ち得たリストを読み上げるのが大変な程、分捕って来たわけである。
ユダ族が積極的に多くを勝ち取って行くの様は、彼らの父祖・ヤコブが預言した通りである。
『ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(創世記49:8-10)
ユダ族を、このように獅子のように攻め入って勝ち取るよう導いたのは、カレブである。
カレブは、45年来憧れてきた領地をヨシュアに求め、彼が信じた通りに見事勝ち取り、アブラハムゆかりの良き地・ヘブロンを得たが、その地へと侵入した彼は、さらに他をけしかけて、積極的に分捕るスピリットを奮い立たせている。
『カレブは言った、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、わたしの娘アクサを妻として与えるであろう」。ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、妻として彼に与えた。』(ヨシュア記15:16)
ここでオテニエルは、単にその地を勝ち取ってカレブの娘を得たばかりではない。
彼はさらにカレブの娘をけしかけ、さらに求めている。
『彼女がとつぐ時、畑を父に求めるようにと、オテニエルに勧められた。そして彼女が、ろばから降りたので、カレブは彼女に、何を望むのかとたずねた。彼女は答えて言った、「わたしに贈り物をください。あなたはネゲブの地に、わたしをやられるのですから、泉をもください」。カレブは彼女に上の泉と下の泉とを与えた。』(ヨシュア記15:18)
ここでオテニエルが彼女に求めさせたのは、「畑(KJV: a field、一つの畑)」であったが、彼女は、一つの畑どころか、「泉(KJV: springs of water:数々の泉)」を父カレブに求め、そうして見事、上の泉と下の泉とを彼らは得た。
世の滅ぼし尽くすべき物をむさぼったり、手に入れてはならない隣人の物をほしがる事は、律法で禁じられているが、私達は御言葉につながっているなら、御言葉が約束している祝福を求めるべきであり、また、主が与えると約束して下さったものは、どんどん求めて良いのである。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:7)
ユダ族は、次の御言葉をよく体現した一族であると言えるだろう。
『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)
現代を生きる私達も、同じである。
天の御国の良きものは、ユダ族のように、激しく襲って奪う者にこそ、沢山与えられるのだ。
主は、地上のものや、罪深きものを貪欲に追求する事を、忌み嫌われる。
しかし、神の国の事柄に関しては、大いに主に求め続けるよう、聖書では推奨されている。
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。・・・このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』(マタイ7:7-11)
『イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。』(ルカ18:1-8)
ヨシュア記のこの章の、分捕った地のリストを全部読み上げるのは、ちょっと大変であるが、私達もユダ族のように、積極的に主に求め、勝ち取り、得たもののリストを読み上げるのが少し大変になる程、多くを勝ち得たいものである。
ロト - 祝福のおこぼれにあずかっていた人(創世記13章)
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今回は、アブラムの甥であるロトという人物について見て行きたい。
ロトの父であり、アブラムの兄弟であるハランは、他の兄弟に先んじて息子・娘たちを生み、そして早くしてカルデヤのウルで死んだ。ロトの祖父であり、アブラムの父であるテラがカナンを目指すためにウルを出た時には、ロトもアブラムと共に同行し、テラがカランに留まってカナンへの歩みをやめてしまった時には、ロトはテラの元を離れて、アブラムと共にカナンの地へと行った。
カナンに到着した時には、彼もアブラムと共に礼拝したであろうし、共に主の御名によって祈ったろう。
アブラムのような主の召命はロトには無かったが、アブラムと行動を共にした結果、ロトも祝福を受けたのだ。
たとえ祝福を受ける器ではなくとも、ちゃっかりと祝福にあずかれる人がいる。それは、ロトのように、主に祝福されている人について行って、共に交わり、共に主の御名を呼び、共に礼拝する事である。
アブラム達はエジプトに行って、信仰的には失敗を経験したが、金銀や家畜は非常に多くなって戻った。
このエジプトで得た多くの富は、実は、後にロトにとって罠となり、また、アブラムにとっても罠となってしまう。
とにかくカナンに帰った彼らは、初心に返り、当初、祭壇を築いて礼拝した場所へ戻って、改めて主の御名を呼んで礼拝した。アブラムは今回の失敗で、ますます謙虚に、柔和な者となったようである(後述)。
ロトも、アブラムに勝るとも劣らない物持ちとなったが、互いの持ち物が増えるにつれ、それぞれの家畜を飼う者たちの間に争いが起きはじめた。このような場合、互いが自分の権利を主張し喧嘩別れになる事が多いが、アブラムは身内同士で争いが起こるくらいなら、いっそ離れたほうが良いと考え、ロトに提言する。
「あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう。」(9節)
彼らのいるパレスチナ地方は水が貴重であるため、水のある所を所有できるかどうかは死活問題であった。
本来、目上であるアブラムの方が、目下であるロトに「あなたがあちらに行け」と指示できるはずなのに、彼は一切主張せず、自己義を押し通さず、文句を言わず、自分の事は全てを祝福して下さる主に委ねた。
柔和な者は幸いである、その人は地を受け継ぐ(マタイ5:5)という御言葉の通り、結局、地を相続する者は、最終的にはアブラムのような柔和な人、平和の人なのだ。
『ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた・・・ ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。』(創世記13:10-13)
ロトが住む所を選んだ基準は、主の約束よりも自分の「目」の判断を重要視し、主の御旨がそこにあるかどうか、霊的に清いかどうかよりも、そこが物質的に潤っているかどうか、栄えているかどうかであった。
それに対し、アブラムは、主が「この地を子孫に与える」と約束しておられた地を、離れなかった。
こうしてロトはアブラムと別れたが、実は、アブラムと分かれる直前が、ロトにとって祝福のピークであった。
後の彼は、霊的にも、財産的にも、どんどん落ちぶれて行ってしまう。
当初のロトのように、主に祝福されている人と共に行動し、共に礼拝し、共に主の御名を呼び求めるなら、確かに祝福のおこぼれにあずかれるが、後のロトのように、世の栄えに目を向け、主の約束よりも自分の好む事を優先させ、主の交わりから離れてしまうと、とたんに、人生の奈落を転げ落ちて行く。
故郷を出て、異郷の地を放浪していたアブラムは、ついに最後の血縁・ロトと別れた。長らく一緒に行動して来たロトと別れたアブラムは、どれほど悲しく心細かった事だろう。しかし、ロトと別れた直後、アブラムに主が現れ、よりバージョンアップしより具体化した祝福の約束が与えられた。(14-18節)
そこでアブラムは、ヘブロンへと天幕を移し、そこで主のために祭壇を築いて礼拝した。
ロトがいなくなった事は、確かに悲しい事だったかもしれない。しかしそれは、アブラムにとって、実は幸いだった。争いの元が無くなり、また、主の約束よりも世の享楽や自分の好む事を優先させる者がいなくなったため、その礼拝はより純化し、より御声が具体的に、より深く聞けるようになったからだ。
主の約束を堅く握りしめ、祝福の交わりから離れず、より高度な祝福にあずかる皆さんでありますように!