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礼拝説教メッセージ音声:45年憧れ続けた地を得たカレブ(ヨシュア記14:6-15):右クリックで保存
14章後半は、ユダ族がヘブロンの地を勝ち得た際の逸話が記されている。
『時に、ユダの人々がギルガルのヨシュアの所にきて、ケニズびとエフンネの子カレブが、ヨシュアに言った、「主がカデシ・バルネアで、あなたとわたしとについて、神の人モーセに言われたことを、あなたはごぞんじです。』(ヨシュア記14:6)
カレブを覚えているだろうか。
彼はこの45年前の若かりし頃、ヨシュアと共に12人の斥候の一人としてカデシュ・バルネアから遣わされ、彼らが今いるこのカナンの地を偵察し、信仰をもって「是非とも攻め入るべきだ」とモーセとイスラエルの民に進言した者である。
彼も、確かにその地に住む民が強いのを見た。
町々は堅固で大きく、アナクの子孫がいるのも、カレブは見たが、主が共におられるなら、そんなものは恐れる必要はなく、むしろ、その者共はえじきとなって、自分達はこの素晴らしい乳と蜜の流れている良き地を受け継ぐことが出来るのだ、と、ヨシュアと共に胸躍ったものだ。
『そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。』(民数記13:30)
ところが、カレブがこの地を勝ち得るまでに、あと45年も待たねばならなかった。
それは、民の不信仰の故である。
45年前、他の民は、この地の住人は強いという報告を聞いて、弱気になってしまった。
『「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記14:3-4)
モーセとアロンは、イスラエル六十万全部が、なし崩し的に弱気へと、不信仰へと落ち込んで行くのを見て、ひれ伏して主に執り成し、ヨシュアとカレブは、なお必死に説得し訴えたが、民は彼らを石打にしようとした。
その時、主の臨在が現れ、介入が入り、その地について悪く言いふらした者達は主に打たれ、不信仰に陥った民六十万には、約束の地には入れず、荒野で死んでしまう事と、40年で荒野の放浪とが確定してしまった。
しかし、信仰を貫き通したカレブは、その地を継ぐ事ができると、約束された。
『わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。』(民数記14:22-24)
あれから45年経、85歳になったカレブは、40歳の当時と変わらぬ生気と力を湛えてヨシュアの前に現れた。
『主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。』(ヨシュア記14:10)
主に信頼し、主と共に歩む者は、わしのように若々しく、新たにされるのだ。(詩篇103:5、イザヤ40:31)
私達の信仰の父であるアブラハムも、100歳の時に子が生まれたし、また、私達の信仰の母であるサラも、90歳の時に子を産む力が与えられ、異邦の王アビメレクに召し入れられてしまう程に美貌も取り戻した。
モーセが主に召しだされたのも、80歳の時で、彼は120歳まで目がかすまず、気力も衰えなかった。
天声の聖徒の中にも、以前より若々しくなった姉妹達もいるし、白髪が後退して黒髪になった聖徒も、髪の毛が増えた聖徒もいる。
『それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。・・・主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう。』(ヨシュア記14:12)
カレブは、45年間、ずっと憧れて来たあの山地を、今こそ下さい、と、ヨシュアに願い出た。
『そこでヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた。』(同13節)
ヨシュアはそれを祝福し(ほめ称え)、そこを彼のものであると、宣言した。
ヨシュアが宣言した時点で、ヘブロンのアナク人が一斉に倒れた訳ではない。
カレブはその言葉を頂いたら、実際に行動したのだ。
武装し、信仰をもってその地へと出向いて、アナク人を追い払い、勝利したのだ。
キリストにある神の聖徒が、この地上で主イエスの名によって宣言した事は、天においても繋がれており(マタイ18:18)、その宣言された真理を実体化するためには、信仰に基づく行動が必要なのだ。
『こうしてヘブロンは、ケニズびとエフンネの子カレブの嗣業となって、今日に至っている。彼が全くイスラエルの神、主に従ったからである。ヘブロンの名は、もとはキリアテ・アルバといった。アルバは、アナキびとのうちの、最も大いなる人であった。こうしてこの地に戦争はやんだ。』(ヨシュア記14:14-15)
主の約束を信じて行動するなら、いかに85歳の老人であっても、2〜3メートル級の巨人の軍隊を相手に戦って勝利し、いかに紅顔の少年であっても、3メートル近いゴリアテを相手に、石一つで勝利するのだ。
『神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。』(詩篇18:32-34)
『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13)
主は、信じて行動する私達には、鷲のように若くして下さり、青銅の弓をも引く力も与え、サラのように、女としての力と美貌を与えて下さる事のできるお方なのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
鹿が水を慕いあえぐように、主を慕いあえぐ(詩篇42篇):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天国は激しく求める者のもの(マタイ11:1-15):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人の愚かさに目を留める事の愚かさ(伝道者の書7:21-25):右クリックで保存
【概要】
人の愚かさを見つめるのではなく、神の真実と愛に目を向けることの大切さを説く。
【聖書箇所】
伝道者の書7章21-25節
コリント人への手紙第一13章4-7節
【戒めの言葉】
人の語る言葉にいちいち心を止めてはならない。
【勧めの言葉】
神の真実と愛にのみ目を向け、それを見つめ続けることで、人の愚かさに対する正しい対処が身につく。
【***詳細***】
今日の箇所は、伝道者の書7章21-25節です。
「人の語る言葉にいちいち心を止めてはならない。あなたの下僕があなたを呪うのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度も呪ったことを知っているからだ。私はこれらの一切の知恵によって試み、そして言った。『私は知恵あるものになりたい』と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。今あることは、遠くて非常に深い。誰がそれを見極めることができよう。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。私は、愚かな者の悪行と、狂った者の愚かさを、学び取ろうとした。」
人には何も、人を見つめても、何も良いものは見つかりません。ただ、愚かさと悪行とが目につくばかりです。そして神にこそ目を向けるとき、私たちは平安が与えられ、また清められ、有益なものになっていきます。
人のことをじっと見つめると、人の悪い点ばかり目についてしまうものです。なぜなら、人はすべて不完全であり、罪を負うものだからです。そしてある程度の愚かさがあるからです。人のことをじっと目を凝らして、どこかに間違いがないかと探すとき、まず自分自身がそのように目を凝らして、自分自身が良くないことをしていることにまず気づくべきです。そしてそのようなことをしていると、自分自身がどんどん汚れていってしまいます。
ソロモンは、「私は知恵あるものになりたい」と求めておりました。しかし、それは彼の遠く及ばないことだったと書いております。ソロモンは、人類史上誰よりも知恵あるものとなることはできたのですが、でもそれでも、それは彼の遠く及ばないことだったと言っています。
ソロモンは、良いことも悪いことも、低めて全部、何でもかんでも、知恵を持って見極めようとしました。この世界の知恵。そして、ソロモンは非常に造詣が深かったのです。岩とか鉱物とか、またそれに入る動物の類から、全ての種類の生き物や、また物、それら全てについて知識が深かったのです。またそればかりでなく、正しく裁判をすることにおいても知恵が深かったのですが、同時に人の愚かさもまた、よく知ろうとしたのです。
ここに過ちの原因があります。「愚かな者の悪行と、狂った者の愚かさを学び取ろうとした。」これが、ソロモンが間違いに陥った、そもそもの原因です。愚かな者の悪行をつぶさに見て、じっと見て、調査して、それを分析して、この人はこれこれ、そういう風に見定めようとしたのです。
現在を生きる私たちも、誰か人のことをじっと見つめて、この人の愚かさを学び取ろうとすると、その人自身が愚かになってしまうのです。人間というのは、人間の愚かさ、他人の愚かさ、また罪に対して無防備なのです。何の力もありません。
ソロモンは知恵ある者になりたいと願いました。しかしそれは、彼の遠く及ばないことだったと言っております。それは、人は有限な存在だからです。他人の愚かさを見極めようとしても、見極めようとしたらどうしても嫌な気分が湧いて出てしまう。嫌な感覚になってしまう。
では、知恵を身につけるためにはどうすればよいのでしょうか。人の愚かさに対抗するために、人の愚かさをじっと見て分析することは最も良くない方法です。むしろ私たちが身につけるべきは、人の愚かさではなく、神の真実です。神の真実にのみ目を向けてじっと見つめているならば、人の愚かさに対する対処も自然と身についてくるのです。
偽札捜査官の例を考えてみましょう。彼らは偽札を見極めるために、膨大な量の偽札を調べたりはしません。むしろ本物だけをじっくりと見つめるのです。本物だけをじっくりと、手にとって、手触りを感じ、色を見極め、その細部まで観察します。本物ばかりをじっくりと見つめることで、偽物が来た時にすぐにわかるのです。
私たちも同じです。聖書という本物をじっくりと見つめ、味わい、その一節一節に隠されている思いや感情を読み取ろうとすることが大切です。神様はどんな思いを私たちに込めておられるのか、どんなことを今日私に示しておられるのかを考えながら、じっくりと一節一節を見ていくうちに命が増え、広がっていくのです。そして、本物の感覚を身につけていくのです。
人の愚かさが来た時、それに心を乱されるのではなく、イエス様がどのようなお方であったのかに目を向けるべきです。イエス様は罪人の悪行をしのばれました。罵られても罵り返さず、ただすべて正当に裁いてくださる主にお委ねしました。
コリント人への手紙第一13章4-7節を見てみましょう。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
これが愛の性質です。私たちがもし知恵あるものになりたいと思うのであれば、ソロモンのように愚かさを身につけようとするのではなく、この愛を求めるべきです。
【結論】
人の愚かさや悪行に目を留めるのではなく、神の真実と完全なる愛に目を向けましょう。そうすることで、私たち自身が汚れから離れ、主の真実に向かって進み、ますます主イエス様の姿へと作り変えられていくのです。
昼祈祷会音声(イザヤ書36-37章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人生の飢饉(不足)への対処(創世記12:10):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:”攻めの信仰者”が得をする(ヨシュア記13:15-14:5):右クリックで保存
ヨシュア記13章の15節以降は、ルベン、ガド、マナセの半部族に割り当てられた相続地の明細が記されている。
『モーセはルベンびとの部族に、その家族にしたがって嗣業を与えたが、その領域は・・・すなわち高原のすべての町々と、ヘシボンで世を治めたアモリびとの王シホンの全国に及んだ。モーセはシホンを、ミデアンのつかさたちエビ、レケム、ツル、ホルおよびレバと共に撃ち殺した。これらはみなシホンの諸侯であって、その地に住んでいた者である。』(ヨシュア記13:15-21)
イスラエルがヨルダン川を渡る前、シホンの王国と戦って勝利し、その地を得た時、ルベン族とガド族が「その土地を下さい」とモーセに願い出たのだが、他の部族がこれから戦おうとしているのに自分達だけが先に安住の地を得ようとする点が咎められたため、彼らは、他の部族と一緒に戦う事を、それも、民の先頭に立って戦う事を約束したために、他の部族に先んじて、その地を得る事が出来た。
『イスラエルの人々はまたベオルの子、占い師バラムをもつるぎにかけて、そのほかに殺した者どもと共に殺した。』(ヨシュア記13:15-21)
バラムは、主から、イスラエルを呪うために出てはならない、と戒められていたのに、それに反したために、主に咎められた。(民数記22-24章)
それなのに彼は、不義の報酬をもらったが故に、イスラエルを誘惑し、堕落させ、彼らを神に打たれるように仕向けてしまった。
平和に暮らしている主の民に、つまづきを与え、堕落させるような者は、挽き臼に結わえられて海に投げ込まれてしまうほうが良い、と、主は言われる。(マタイ18:6)
結局彼は、イスラエルの剣によって滅ぼされる事となったのだ。
『モーセはまたマナセの半部族にも、嗣業を与えたが、それはマナセの半部族が、その家族にしたがって与えられたものである。その領域はマハナイムからバシャンの全土に及び、バシャンの王オグの全国、バシャンにあるヤイルのすべての町々、すなわちその六十の町。またギレアデの半ば、バシャンのオグの国の町であるアシタロテとエデレイ。これらはマナセの子マキルの子孫に与えられた。すなわちマキルの子孫の半ばが、その家族にしたがって、それを獲た。』(ヨシュア記13:29-31)
このマナセの半部族は、ルベンやガドが先に相続地が与えられたのを見て触発されたのか、彼らも積極的に戦いに出て行って、勝利をおさめ、広く良い地を勝ち得た。
彼らが討ち取ったバシャンの王オグは、レファイムの生き残りの巨人で、その寝台は、長さおよそ4メートル、幅およそ176cmの鉄製であった。(申命記3:11)
そんな相手ではあったのに、マナセの半部族は戦いを仕掛け、勝利し、その広き良き地を得たのだ。
続く14章以降は、残る9部族半に対する、ヨルダン川西側方面の相続地割り当ての記録である。
『イスラエルの人々が、カナンの地で受けた嗣業の地は、次のとおりである。すなわち、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエルの人々の部族の首長たちが、これを彼らに分かち、主がモーセによって命じられたように、くじによって、これを九つの部族と、半ばの部族とに、嗣業として与えた。』(ヨシュア記14:1-2)
この時代のくじによる取り決めは、じゃんけんなどのように、適当に確率に賭けるようなものではなく、主の指示に従うものであり、御心を求めるものである。(民数記26:55-56、34:13、箴言16:33)
実際、イスラエル六十万の中から、聖絶のものを隠し持っているアカンをピンポイントで当てたのは、この、くじによってであった。
『これはヨルダンの向こう側で、モーセがすでに他の二つの部族と、半ばの部族とに、嗣業を与えていたからである。ただしレビびとには、彼らの中で嗣業を与えず、ヨセフの子孫が、マナセと、エフライムの二つの部族となったからである。レビびとには土地の分け前を与えず、ただ、その住むべき町々および、家畜と持ち物とを置くための放牧地を与えたばかりであった。イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたようにおこなって、その地を分けた。』(ヨシュア記14:3-5)
レビ族は、相続地は与えられない代わりに、主ご自身が相続地であり、イスラエル12部族の中から、初物や主への捧げ物の中から取るべき分がある。
また、レビ族が相続地配分から抜ける代わりに、ヨセフの子・エフライムとマナセがヤコブ直系の2部族として扱われ(創世記48:5)、こうして、イスラエル12部族への相続地配分が始まった。
カナン相続地配分の記録は、一見すると、色々な土地のカタカナ名の羅列のようで、読んでいてもあまり面白味は無いかもしれないが、その行間には、色々なドラマが詰まっている。
マナセの半部族やユダ族のように、積極的に戦い出て、広く良い地を勝ち取った部族もおれば、ルベン族やガド族のように”求めた”がために、先んじて与えられた部族もあった。
相続地の獲得は、ただ”くじ運”に任せて、じっと待っているだけでは、優れたものは来ないのだ。
天の御国も、積極的に襲う者達によって、奪われるものである。
『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)
私達も、ただなされるがまま・与えられるがままのような、消極的な信仰ではなく、積極的に求め、積極的に攻め立て、積極的に良き地を分捕っていく”攻めの信仰者”でありたい。
礼拝説教メッセージ音声:取るべき地は、なお多く(ヨシュア記13:1-14):右クリックで保存
ヨシュア記13章以降は、イスラエル12部族に相続地を分与する記録が、暫く続く。
『さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。その残っている地は、次のとおりである、、、。』(ヨシュア記13:1-2)
ヨシュアは年をとったが、主は、「もう充分働いたから隠居しなさい」などとは言わない。
むしろ、獲得すべき地はまだまだ残っているのだから、それを勝ち取りに行きなさい、と言われた。
モーセも120歳まで、死ぬまで現役だったように、また、カレブは85歳になっても戦いに出て勝利したように、神の民は、霊的活動において、生涯現役なのだ。
私達の日々の生活における霊的戦い、すなわち、私達の肢体にこびりついている肉欲や、罪に傾いてしまう性質との戦いには、「もう充分」というものは無く、生涯戦い続けていくべきもので、また、平安や喜びなど、勝ち得て行くべき「領地」も、生涯追求して行くものである。
キリスト者は、いつまでも同じ所に留まるのではなく、日々、完成される事を目指して、進んでいくものである。
『そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て、そうすることにしよう。』(ヘブル6:1-3)
そして、それら日々の戦いは、主と共同して行うものである。
『わたしはみずから彼らをイスラエルの人々の前から追い払うであろう。わたしが命じたように、あなたはその地をイスラエルに分け与えて、嗣業とさせなければならない。』(ヨシュア記13:6)
この箇所から分かる事は、この戦いには順番がある事で、まずは人の側が、信仰をもって一歩踏み出す所から始まる事で、それをするなら、主の側がその信仰の行いを助けて下さり、敵を追い払って下さるのだ。
ただ主だけが、一方的に、敵の上に石を降らせたり、猛獣をけしかけたりして敵を滅ぼしてくれ、人の側は何もせず黙って待っていれば良い、というわけではない。
人の側にも、果たすべき分があり、その分を果たすなら、主も共に戦って下さり、そして勝利するのだ。
私達の信仰生活も、ひと度、イエス様を信じたら、あとは何から何まで主がしてくれる、というものではない。それは既に経験しているはずである。
むしろ、私達自ら罪やサタンと戦う努力をし、私達の内にある肉的な事柄を捨て去って、主の喜ばれる御霊の人になれるよう、日々、信仰をもって努力をしていくべきなのだ。
そうするなら、主が働いて下さり、聖霊によって助けを得て、私達はますます以前のものは過ぎ去って行き、新しく造り変えられて行くのだ。
『わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。』(ピリピ3:12-14)
礼拝説教メッセージ音声:滅ぼすべきリストと勝ち得るべきリスト(ヨシュア記12章):右クリックで保存
『さてヨルダンの向こう側、日の出の方で、アルノンの谷からヘルモン山まで、および東アラバの全土のうちで、イスラエルの人々が撃ち滅ぼして地を取った国の王たちは、次のとおりである。』(ヨシュア記12:1)
ヨシュア記12章は、それまでに占領した領地と、打ちとった王達のリストが記されている。
1-6節は、モーセが生きていた時代に打ちとった王達であり、7節以降が、モーセの死後、ヨシュア達が打ちとった王達である。
聖書巻末などのカナン地方の地図を見ると、大体、地図の中央に上下に伸びるラインがあり(キネレテ湖あるいはガリラヤ湖 〜 ヨルダン川 〜 死海)、その”中央ライン”の東側が、モーセが生きていた時代に征服した地域、その西側が、ヨシュア達が占領した地域である。
このカナンの占領戦は、現代を生きる私達の、日々の生活における霊的戦いにも、照らし合わせる事ができる。
私達の肢体、あるいは心の中には、罪深い習慣や、過去の傷、不必要な恐れなど、打ち倒すべき”敵”が棲んでいる領域がある。
そして、まことのヨシュアである主イエス様と共に歩んできた人達には、勝利し自由になった領域もある。
例えばある人は、偶像礼拝という”王”は討ち取ったけれど、怒りやすい性質という”王”との戦いに難しさを覚えているかもしれない。
またある人は、喜びや平安という”領地”は勝ち取ったけれど、自制という”領地”を勝ち取る事に難しさを覚えているかもしれない。
このように、私達の内には討ち取らなければならない邪悪な”王達”、また、征服するべき良き”領地”があるのだ。
次のリストは、”肉の働き”という、私達の内から根絶すべき”王達”である。
『肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
また、次のリストが、私達が勝ち取るべき良き”領地”である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。』(ガラテヤ5:22-23)
私達は一生をかけて、これらを獲得する事を怠ってはならない。
その戦いにおける勝利の鍵は、まことのヨシュア(イエシュア)であるイエス様にある。
ヨシュア記12章には、イスラエルが討ち取った王達が合計31あるが、その内、モーセが討ち取った王達は2、ヨシュアが打ちとった王達は29である。
この圧倒的な差は、律法と信仰の圧倒的な差とも言える。
モーセは”律法”の代表格であり、律法を守り行う事には、確かにそれなりの祝福はあるが、残念ながら、律法は”救い”においては不完全であり、私達の内にうごめく罪や肉に対しては力が無く、そして、まことの約束の地である天国を継がせる事は出来ない。
それに対し、まことのヨシュアであるイエス様は、私達の完全なる救い主であり、イエス様を信じる信仰によって、私達は罪に対し、肉に対し、死に対して、圧倒的な勝利者となるのだ。
イエス様を信じ、共に歩むなら、人生のあらゆる領域において、多くの勝利を納める。
ちょうどヨシュア記の快進撃のように。
そして私達は、罪に対し、また悪霊と戦っていく上で、中途半端な”生き残り”を残したままにしてはならない。
そうでないと、それらが苦い根となって生え出て、以前よりも悩ましくなってしまうからである。
実際、イスラエルがそうだった。
せっかくヨシュアと共に快進撃して行ったのに、徹底して滅ぼし尽くす事をせずにいたため、その”生き残り”が後になってイスラエルの悩みの種となってしまった。
主イエスと共に歩み、日々、罪に対し、悪霊に対して勝利し、妥協する事なく自由な領域を勝ち取って行き、ますます新しく造り替えられて行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
サライ - 主人に服従した王族の母(創世記12:10-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
今回は、アブラムの妻・サライ(後のサラ)について見て行きたい。
サライは、アブラムの10歳年下の異母兄妹であり、かつ、アブラムとは夫婦の関係である。
アブラムが身の危険を感じる程美しい女性で、名前の意味は王女、高貴な女性で、父のテラは彼女にお姫様のような子になって欲しいとある種の願いを込めてつけたのだろう。しかし彼女は不妊の女だった。
『さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。』(創世記12:10) アブラムにとって最初の信仰の試練は、ききんである。
お金や食料が尽きるのは、聖書の中でもよく見るが、そのような時は大抵、信仰が試されている。
アブラムはこの時、大いに祝福して下さると約束して下さった主に頼るのではなく、周りを見渡し、エジプトに食料があると見定め、安直にそちらへ行ってしまった。しかも、エジプトに入る時、彼はサライに言う。
「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。」(創12:11-12)
彼のこの言葉から、彼は約束して下さった主よりも、エジプト人やパロのほうを恐れている事がわかる。
一度、主から目をそらし、自分の「不足」に目を向けると、恐れ、不安になる。すると、主にではなく世に頼ろうとするようになり、世に頼ろうとする時、罪と妥協して、ますます主から離れてしまうパターンに陥る。
『どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで「無事であり(彼らは自分に良くしてくれ)」わたしの命はあなたによって助かるでしょう。』(創世記12:13)
アブラムは、自分達は「夫婦」ではなく「兄妹」だと言うように指示し、そうして彼女がパロに召し入られるなら、自分達は良い待遇が受けられるだろう、という、確信犯的な皮算用さえ見える。
夫婦のどちらかが犠牲になって生活の保証を得る。それは現代もよく見る事で、キリスト者にも同じ誘惑に陥る人は多いが、主がアブラムとサライにして下さった約束は、彼らの間に生まれる子が、おびただしく増えていくものであって、サライがパロの妾の一人になるなど、主の約束の中には一切無いはずである。
彼女は、この非道いように見えるアブラムに指示に、従った。もしかしたら彼女も、アブラムと同意見だったからかもしれないが、とにかく彼女は、無言の振る舞いによって、夫に仕える信仰の持ち主だった。
なにしろ彼女は65歳の時、主がアブラムをどこに導くかも分からないのに、住み慣れた生活の場を放棄して彼と一緒について行ったのだ。『たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。』(1ペテロ3:5-6)
彼女はこの時はまだ未熟だが、彼女のこの「主人に従う」性質こそが、王族の家系の母となる性質である。
エジプトに入った時、果たしてアブラムが言った通りの事になった。エジプト人は、サライの美しいのを見てパロに推薦し、彼女はパロに召し入れられてしまい、そしてアブラムは家畜や奴隷を得た。
アブラムは財産が増えて、自分の思い図った通りに成功した、と思っただろうか?
確かに衣食住の心配は無くなったかもしれないが、彼が正常な信仰者であるなら、主の約束から大分離れてしまった自分達の有り様に、平安が乱されていたのではないだろうか。皆さんも、同じ葛藤に陥っていないだろうか。このように、人の考え出したベストは決して「最善」ではなく、どこかに虚しさや苦々しさがついて回る。しかし主は、そのような人間の失敗さえも「最善」へと導く事の出来るお方である。
「ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。」(17節)
そこで主の直接介入である。主はアブラムの、そしてサライの祈りを聞かれたのだろう。
人は、身勝手な不従順の結果、苦々しさ、災いに陥る事はあるが、主は「それみろ自業自得だ」と言ってほったらかす事はなく、悔い改めの祈りを聞かれる。
18節を見ると、この災いの原因は、アブラムの妻・サライをめとった故だと、パロははっきり認知していた事がわかる。パロはアブラムの背後にいる主を恐れ、サライを無事に返し、全ての所有物と共に送り出した。
アブラムは自分を弱々しいと思ったかもしれないが、彼の背後には、エジプトさえ恐れる主がおられる。
そして、私達が信じる主は、同じ万軍の主であり、私達も主を信じるなら、信仰によるアブラハムの子孫であり、そうであるからには、世の側が、主イエスの故に、私達を恐れるのだ。