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ユダからキリスト者へのすすめ(ユダの手紙20-21):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
満ち足りる人と奪われる人(2コリント9章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:素祭 - 穀物の捧げもの(レビ記2:1-10):右クリックで保存

レビ記2章は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについての規定が記されている。
『人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。』(レビ記2:1-2)
供え物として捧げられるものは「麦粉」であって、殻がついたままのものでも、砕かれる前の状態でもない。
殻を取り除かれ、粉々に砕かれた「麦粉」に、油を混ぜ、乳香を添える事によって、捧げ物として有効になる。

『祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。』(レビ記2:2-3)

捧げもの全般に言える事であるが、主に捧げられるいけにえは、キリストをあらわしており、そしてまた、主に捧げられる私達をも表している。
この、祭司が記念の分としてつかむ最初の一握りは、主に捧げられる香ばしいかおりであり、キリストも、私たちの先駆けとして、十字架上で香ばしいかおりとなって捧げられた。
それに続く私たちは、大祭司なるキリストの食物として、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)

この麦粉に混ぜ合わされる油は「聖霊」を意味し、乳香は「キリストのかおり」を暗示する。
素祭として捧げられる小麦が粉々に砕かれたように、十字架上で捧げられるキリストも、主の御前に粉々に砕かれ、そして、油注がれた。

私達もまた、主の御前に捧げられる際には、人間的な知恵や力は、粉々に砕かれるべきである。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)

素祭は、単に麦粉にそのまま油と乳香を混ぜた状態で捧げる方法の他に、かまどで焼いたり、平なべの上で焼いたり、なべで煮たり等、色々な方法で調理された状態で捧げる方法もある。
『あなたの供え物が、もし、平鍋で焼いた素祭であるならば、それは麦粉に油を混ぜて作った種入れぬものでなければならない。あなたはそれを細かく砕き、その上に油を注がなければならない。これは素祭である。』(レビ記2:5-6)
この、平鍋で焼いた素祭は、調理された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油が注がれる。
同じように私たちも、主にあって色々な方法で「料理」され、ある人は「料理」された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油注がれる、という事もある。

いずれの捧げられ方でも、共通している事は、麦粉は細かく砕かれており、油を混ぜられ、パン種は入っていない、という事である。。
私たち自身も、主に喜んで受け入れられる「捧げ物」となるためには、まず、主に敵対する「自我」は粉々に砕かれている必要があり、自分由来の人間的な力や知恵といった「パン種」は取り除かれている必要があり、そうであるなら、さらに主から聖霊の油が注がれ、ますます主に喜ばれる捧げ物となって行くことができるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:どんな捧げものであっても(レビ記1:10-17):右クリックで保存

『もしその燔祭の供え物が群れの羊または、やぎであるならば、雄の全きものをささげなければならない。』(レビ記1:10)
前回は、燔祭すなわち全焼のいけにえが、牛の場合について見たが、捧げものは何も必ず牛でなくてはならないというわけではなく、捧げる人の状況に合わせ、羊、やぎ、あるいは山鳩、家鳩のひなでも良い事となっている。
この世において、人には貧富の差があり、牛を多く持てる人もいれば、貧しくて、やぎ一匹も持てない人もいる。
しかし、どんなに貧しい人であろうと、山鳩や家鳩のひなくらいは、手に入る。

主は、牛を捧げた人はひいきして、鳩のひなを捧げる人は蔑むような事は、なされない。
むしろ主は、人が捧げものをする時は、その人の心の成り立ちを、見ておられるのである。
『イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』(ルカ21:1-4)

そして、捧げものがいかに肥えた牛や羊であったとしても、汚れた者による、間に合わせ的な捧げものは、忌み嫌われる。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル 15:22-23)
主は何より、聞き従う耳と、従順な心をこそ、全ての捧げものに勝って、受け入れられるのである。

『彼は祭壇の北側で、主の前にこれをほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたこれを節々に切り分かち、祭司はこれを頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。』(レビ記1:11-12)

いけにえの動物は、ほふられ、血を祭壇の周囲に流され、体は解体されるが、このいけにえはイエス・キリストをあらわしている。
『わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。』(詩篇22:14)

この詩篇の通り、イエス様は十字架上で、悪者どもに囲まれ、手と足を(直訳:獅子のように)刺し貫かれ、手足を引き裂かれ、わきを槍で貫かれた。
その、衣服はローマ兵達に分捕られ、分けられ、下着はくじにひかれた。
イエス様は御父の前に、完全ないけにえとして捧げられたのである。
これら、動物のいけにえは、主イエス・キリストの予表である。

今日もまた、静岡の教会の建て上げのために、早天が終わったらそのまま運転して、行って来ました。

今日は、高所で教会の看板を取り付けたり、窓を外側から掃除したりしました。

風が吹いていたため、少し揺れたりもしましたが、主は作業に集中させ、私達の手に匠のわざを与え、知恵を与えて下さったので、あまり怖くもなく、無事に終える事が出来ました。

元々、スナックやバーのあるビルで、そのような看板を、全て、教会の名前や御言葉で上書きし、何十年来の汚れを取り除き、ますます教会らしくなっていく様を見るに、本当に主は再建して下さるお方だなあと感謝しました。

礼拝説教メッセージ音声:全身全霊の捧げ物(レビ記1:1-9):右クリックで保存

レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されており、ここ一章では、燔祭(全焼のいけにえ)についての主の命令が記されている。
和解のいけにえや罪のためのいけにえ等は、和解や罪のゆるし等、要件がある故に捧げるものであるのに対し、この全焼のいけにえは、純粋に自ら進んで捧げるものである。

『「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。』(レビ記1:2-3)

主はこれをイスラエルの人々全員に対して言っている。
日本語の聖書では分かりづらいが、この燔祭、すなわち全焼のいけにえは、自ら進んで捧げるものである。
KJVでは3節に「he shall offer it of his own voluntary will」とある。すなわち、自発的な意思によって捧げるもので、強制ではない。
つまり、捧げなくても良いといえば良い。その点は教会の献金と同じであるが、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」の御言葉どおりである。(2コリント9:6)

「もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。」
もし主に捧げるのであれば、それは、傷のつきの、余り物のような、そんなどうでも良いものであってはならない。愛する相手にプレゼントする時、傷モノを贈るとしたら、かえって相手を怒らせ、逆効果であるのと同じである。

また、捧げ物全般に言える事は、それは「家畜」からであって、野で狩猟したものを捧げものにさせるような命令は、どこにも無い。
狩猟は、いわば自然界のものを分捕り奪って来たもので、自分の財産を痛めるものではないが、家畜は、自らの手で育てたものであり、捧げる時に、ある種の痛みを覚える。
ささげものはヘブル語でコルバン、それは「犠牲」も意味し、主への捧げ物は、必ず犠牲をともなうものである。

神は、清く傷の無い御子キリストを捧げるという、究極の痛みを担われ、イエスキリストは、御自身を捧げるという、究極の犠牲を捧げらえた。
『こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。』(エペソ5:1-2)
キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われ、霊も肉も全身が焼き尽くされる苦しみを味わい、そのキリストが十字架という祭壇で捧げられ尽くした事によって、御父は完全に宥められた。

『彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。』(レビ記1:4)
頭に手を置く行為は、その対象と一体化する事を意味している。
つまり、捧げる人は、獣の上に手を置く事によって一体化し、獣が全焼のいけにえとして捧げられる時、その人自身も全身全霊、主の御前に捧げられた事になる。

『彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。』(レビ記1:5-6)
獣をほふるのは、その人自身である事に注目したい。
その獣を養い育てた本人自らが、手をかけ、血を流し、死なせるのだ。それは実に、心に痛みが伴う行為である。
事実、キリストに手をかけ、血を流し、十字架上で死なせたのは、私達自身である。
彼の犠牲の故に、私達は救われた。その事をいつも覚えるべきである。

そして、キリストが御自身を捧げられたように、私達も、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛し、ささげるべきである。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。』(ローマ12:1-2)

信じない者にならないで信じる者に(ヨハネ20:19-29)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)
この時、トマスだけが何かの用事のためにそこにおらず、彼が帰って来た時、弟子たちや婦人達は、きっと興奮ぎみに語っただろう。イエス様は確かに現れた、確かに生きておられ、「平和があるように」と言って下さった、そして、その手とわきには痛々しい傷跡があり、聖霊を受けるようにと息を吹きかけられた、と。
『トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』(同25節)
トマスはそう言ったものの、まさか、10人の弟子たちと婦人達が、よってたかってトマスにウソをついて、からかっていたのだ、などと、本気で思っていたわけではあるまい。
自分が何らかの用事で不在の間に、兄弟姉妹の間に、主が、ありありと現れ、すばらしい事をなされた、と言われたとしたら、どう思うだろうか。きっと、強烈な「置いてけぼり感」にとらわれるのではなかろうか。
しかし、たとい私たちが「わたしは絶対に信じない」と頑なになってしまったとしても、主は憐れんで下さる。

『さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(同26-27節)
皆さんはどう思うだろうか。死んだとばかり思っていたイエス様が、肉体を持った人として目の前に現れ、その、刺し貫かれた手と脇腹とを示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と、やさしい御声で話しかけられ、その刺し貫かれた傷跡、肉が赤く裂け、骨まで見えているその傷跡を、目の前に差し出されたら。
トマスは、涙ながらに言う他になかっただろう。「私の主、私の神。」
私たちの神、私たちの主は、頑なで信じないトマスのような私たちのために、まさにその傷を負われたのだ。

1週間前、トマスが弟子たちに囲まれながらも「信じない」と言ったその時、主はその場にいなかったはずなのに、主はなぜか、トマスの言った言葉を知っており、覚えていた。
主は、私達が不信仰で頑なな時、不信仰な言葉を言った時、たといそこが密室であったとしても、主はそこにいて聞いておられ、また、私たちが主がいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、実は、ちゃんと共におられて、私達がその時感じた事や心の言葉も、全て知り、覚えておられるのだ。
トマスはイエス様の手や脇腹に指を突き刺してみなければ信じない、と言った。当人がそこにいないと思って、大げさに言ったのであろうが、それは言ってみれば、イエス様を再び刺し貫くような言葉である。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
置いてけぼり感や、取り残され感から、イエス様を突き刺すような言葉を思わず口走ってしまうとしても、主は「いいよ、それで信じるなら、あなたの指をここに入れなさい」と、裂かれた手や脇腹を示されるのである。
復活の後のイエス様は、繊細に、そっと、私たちに現れて下さる。強制力によってではなく、愛によって、優雅な品性漂う振舞いによって、頑なな心を溶かし、私達はその愛に触れられ降参するしかなくなるのだ。

現代を生きる私達は、肉体をまとったイエス様を、目で見たり、手で触ったり(通常なら)できないが、当時の目で見たり触ったりした弟子たちより、幸いである。なぜなら、「見ないのに信じる人は、幸いである」から。
『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』(1ペテロ1:7-8)
見える所によるのではなく、見えないキリストを信じる信仰によって歩み、キリストのあらわれの時には、称賛と光栄と栄誉に至る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:レビ記概要(レビ記1:1):右クリックで保存

「主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた」(レビ記1:1)
レビ記はモーセ五書の第三の書、ヘブル語ではワイクラー、意味は「そして主(彼)は呼び寄せられた」という、このレビ記1章1節の言葉である。
レビはイスラエルの三番目の息子で、その子孫達が人情よりも御言葉に従順したため、神と人との間を取り持つ祭司としての職務が与えられた事は、出エジプト記で学んだ通りである。
ちなみにレビの名は「結びつける」という意味で、神と人とを結びつける祭司にふさわしい名である。

レビ記の内容が主から与えられたタイミングは、エジプトを出て第2年目の1月から2月までの間である。(出エジプト記40:1、民数記1:1)
その間、このレビ記に記されている主の戒めとさとしを、じっくりと主から教わったのだ。
そして、第2月の二十日に、雲があかしの幕屋を離れ、イスラエル人はその主からのゴーサインにより旅立ちを始めた。
私達は、身勝手に行動を始めるべきではなく、まず主の御言葉をじっくり聞いてから、主のゴーサインによって行動を起こすべきなのだ。

このレビ記には、律法の細則が示されており、種々の捧げ物や礼拝、祭りに関する規定や、何が清く何が汚れた事であるのかについて、また、何が義であり何が罪であるのか、何が聖であり何が俗であるのか等を、具体的なケースを用いて詳細に示している。
それらの内容から、主は何を喜ばれ、何を嫌われるのか、主はどのようなご性質であるのかを、私達は知ることが出来る。

レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されている。
それは現代の私達にも、捧げ物はどのように、どのような気持ちで捧げれば良いのかのガイドラインとなり、そしてまた、人類を贖うまことの犠牲となられたキリストのご性質を、詳細に知る事が出来る。
レビ記からは、キリストの贖いや、キリストの大祭司としての性質を見ることが出来、また、各種の祭りからも、キリストの誕生や生涯、十字架での死と復活、再臨の性質を知る事が出来る。(ヘブル9章)

旧約律法はもう終わった、異邦人である我々には関係ない、というような心持ちで読むと、レビ記ほどつまらない書は無いだろう。
しかし、レビ記に限らず、モーセ五書は、神がどのように世を造られ、神は人とどのように関わられ、何を好まれ、何を憎まれるのか、そうした神と人との関係の根幹的な事柄が記されているため、決しておろそかにはできない。
よく、「旧約聖書は自分とは関係ない」と思う人がいるが、その人は、以下の御言葉を熟考すべきである。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)

ここで明記されている通り、モーセ五書に記されている諸々の事は、世の終わりに臨んでいる私達への警告であり、訓戒としてしっかりと捉えるべきである。
悪をむさぼった彼らが荒野で屍を晒していったように、わたしたちも、悪をむさぼって中途脱退者にならぬように、また、偶像礼拝者となって兄弟姉妹から絶たれてしまわぬように、また、不品行をして倒されてしまう側とならぬように、また、つぶやいたりして「死の使」に滅ぼされぬよう、日々互いに励まし合い、そのような誘惑に陥って、荒野で屍として永遠に置いてけぼりになってしまった者に加わる事のないように気をつけるべきである。

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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪者は墓穴に入る(エステル記7章):右クリックで保存

【概要】

エステル記7章の中に現れる勇気ある王妃エステルの告白と、神の救いのタイミングの奇跡を通して、私たちは主への信頼と謙虚な心の大切さを学びます。主は正しい者を守り、悪者の策略を必ず退けられると約束されています。

【聖書箇所】

  • エステル記 7章1節〜10節

  • 詩篇37編(特に32節以降:「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」)

  • 箴言16章 17節〜19節(「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」)

【慰めの言葉】

どんなに困難な状況にあっても、主は必ず正しいもののそばにおられ、悪者の思惑をお打ち砕きくださいます。主にすがるならば、その憂いは希望と救いに変わります。

【励ましの言葉】

エステル王妃が自らの命と民族の救いを求めたように、私たちも恐れず主に立ち向かい、心からの信頼をもって御声に応じる勇気を持ちましょう。主はその一歩一歩に、確かな栄誉と祝福を与えてくださいます。

【戒めの言葉】

高ぶりや傲慢は必ず自らの破滅を招きます。箴言16章にあるように、心の高慢は倒れに先立つという戒めを真摯に受け止め、常に謙虚な態度で歩むよう注意しましょう。

【勧めの言葉】

日々の祈りと断食を通して主に近づき、御言葉にしっかりと立脚した生活を送りましょう。信仰による正しい道は、私たちを悪の罠から救い、真の平安へと導いてくださいます。

【悔い改めの促しの言葉】

もし自らの傲慢や過ちに気づいたなら、深い悔い改めと謙虚な心で神に立ち返りましょう。主は、真心から悔い改める者に対して、必ず救いの手を差し伸べてくださいます。

【***詳細***】

本日お読みする箇所はエステル記7章です。先週の受難週を経て、2週間ぶりとなるこの説教では、エステルがどのように王の前に立ち、イスラエル民族の危機を告げる勇気を振り絞ったか、その瞬間の圧倒的な真実が語られています。宴会の席で、王とともに杯を交わす中、エステル王妃は神の導きにより、**「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私に命を与え、私の民族にも命を与えてください」**と、素朴ながらも力強い言葉を王に伝えました。彼女のその一言には、己の命だけでなく、民族全体の未来を賭ける深い決意と信仰が感じられます。

ここで私たちは、かつてのエステル記の情景を思い起こすとともに、現代においても、神が正義をもって悪を裁かれるという御約束を確信せずにはいられません。旧約聖書の中でも、モルデカイに対し迫害を企てたハマンは、50キビトの高い柱を用意し、彼を吊るし上げようと計画しました。しかし、王の前で大胆にも振るわれたエステルの告白と、突然立ち上がった王の怒りにより、ハマンは己の罠に嵌り、破滅への道を歩むこととなりました。これは、**「悪者は自らが掘った穴に陥る」**という神の裁きの生きた証拠であり、私たちにとって大いなる励ましとなるのです。

また、聖書は私たちに慰めの言葉も届けています。詩篇37編には、**「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」**と記され、正しい者に対する主の保護と、悪に対する厳しい裁きが確約されています。この御言葉を心に留めるとき、たとえ私たちの周りに偽りの友や悪意ある者が増えたとしても、主が必ず真実と正義をもって報いてくださると信じることができます。

さらに、箴言16章においては、**「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」**と明言されています。ハマンの姿は、この戒めの通り、自らの誇りと傲慢に溺れた結果、破滅への道を辿るものであり、私たちにとっても、謙虚さと誠実な心で歩むことの重要性を教えてくれます。私たちが日常の中で、時に誘惑や権力に目が眩むことがあっても、主の前では常に謙虚さを忘れず、誠実な信仰の道を選び続けるべきであると改めて示されています。

エステル王妃がまず自身の命を、そして後に民族全体の救いを願い出たその賢明かつ勇敢な姿勢は、私たちに重大なメッセージを投げかけています。それは、単に自らを救うのではなく、私たちの周りにいる愛する人々、家族、そして共同体全体を守るためには、まず自分自身の弱さや罪に正直になり、悔い改めることが必要であるという教えです。イスラエル民族が3日間の断食を通して主に身を避けたように、私たちもまた、日々の生活の中で自分を見つめ直し、神に従う決意を新たにするべきです。

現代社会において、私たちは数多くの誘惑や虚偽、さらには偽預言者に左右されがちです。しかし、神は常に正しいもののために戦われ、真実の光をもって悪を打ち砕かれるお方です。エステル記、詩篇37編、そして箴言16章に描かれるこの御業は、どんなに困難な状況にあっても、主に信頼し従うならば救いと栄誉を受けるという確固たる約束であります。

 

今日の説教を通して、私は皆さんに、エステルのような勇気と、モルデカイのような忍耐、そして謙虚な心を持って、どんな試練にも主に頼む生き方を勧めたいと思います。私たちが心から主に立ち返り、祈りと断食、そして真摯な信仰をもって歩むならば、主の手が決して私たちを離すことはなく、悪者は必ず自らの罠に捕らわれると信じております。

イエス様のお名前のもと、主の恵みと救いが私たち一人ひとりの人生に豊かに注がれることを、心から願い、感謝する次第です。私自身も、エステル王妃の勇気に学び、日々の生活の中で主への信頼を新たにしながら、皆さんとともに歩む覚悟を固めております。主の奇跡的な御業に励まされ、正しい道を着実に進むために、どうかこの御言葉を胸に刻んでいただければ幸いです。

【結論】

エステル王妃の勇気と、主が悪を打ち砕かれる奇跡的な働きを通して、私たちはどんな危機の中でも主に信頼することの大切さと、謙虚な心で生きる喜びを学びます。今日からも、悔い改めと祈りを絶やさず、主に導かれる正しい道を歩んでいく決意を新たにしましょう。イエス様のお名前によって、皆さん一人ひとりに祝福がありますように。アーメン。

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