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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
自分のほうへ引き寄せる偽教師(ユダの手紙17-19):右クリックで保存
いよいよ、出エジプト記の講解説教が終わりました。合計で112回に渡るシリーズでしたが、全てを恵みの内に終えられた事を、主に感謝します。
学生だった頃、聖書通読の、ちょうど出エジプト記の中盤のあたりの、律法や幕屋の詳細にわたる命令が、つまらなく感じていたものですが、実は、その一つ一つが私達キリスト者と密接な関係があり、荒野の民の生活は、キリスト者の信仰生活をも如実にあらわしており、幕屋の特徴や、神の定めた律法の一つ一つから、私達の主イエス・キリストのご性質を多く発見できて、とても面白く、興味深く務めさせていただきました。
次章のレビ記は、かつて学生の頃、さらに輪をかけてつまらなく感じていた箇所でしたので、主がどのように導かれるか、とても楽しみです。
礼拝説教メッセージ音声:主が命じられた通りに(出エジプト記40:16-38):右クリックで保存
『モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。』(出エジプト記40:16)
出エジプト記の終わりは、主が命じられていた事を民はことごとく忠実に実行し、その結果、主の臨在の雲が幕屋に満ちた事によって締めくくられている。
今回の短い箇所からも、「主がモーセに命じられたとおりである」という表現が8度も出てくるように、出エジプト記の後半は、主が命じられたあの事、この事を、その通りに行った、という表現が続くため、あたかも、同じ内容のコピーペーストを読んでいるような感じで、見ている側としては、つまらないかもしれない。
しかし、主が言われた事を、そのままコピーペーストのように実行する事こそ、主の祝福と、栄光の臨在を招くコツである事を私達は学んだ。
『彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。主がモーセに命じられたとおりである。』(出エジプト記40:20-21)
この「あかしの板」は英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。
律法の石板が、女性形である事は、実に興味深い。
私達はキリストに対しては、男性も女性も、全て「女」の立場である。キリストこそ唯一の主人であり花婿であり、私達教会はその妻、花嫁である。
旧約においては、神のあかしは石板に神の指によって記されたが、新約の今、神のあかしは、私達の「心」に、神の指によって刻み込まれている。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)
新約の私達は、神の言葉が心に刻み込まれており、そして、新約の私達自身は聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のようであり、キリストの花嫁、妻である。
自らをキリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行くのである。
私達が約束の地、安息の地にどうすれば入れるか。それは、日々、主の導き通りに歩んでいく事によって、である。そうするなら、必ず入れる。
『雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。』(出エジプト40:36)
この、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれていく様は、民数記9章のほうに詳しく記されている。
『幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。
すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。また幕屋の上に、雲のとどまる日の少ない時もあったが、彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。また雲は夕から朝まで、とどまることもあったが、朝になって、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。また昼でも夜でも、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。
ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。』(民数記9:15-23)
この、神の臨在の導きに従って進んだり留まったりする様は、現代この世界を生きる私達が、いかにして主に導かれていくべきかを示している。
主がおられる所なら、いかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、そこに留まるべきであり、主の臨在がそこから無くなったならば、そこがいかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、出て行くべきである。
主がおられる所へ私達がついて行くなら、誰でもやがて約束の地、安息の地に入るが、主の導きに反対し、身勝手に進む者は、やがて荒野で屍となって取り残されて行ってしまう。
この出エジプト記の終わりの時点、誰もが約束の地へと入れる可能性があったし、荒野で40年もさまよい歩く理由も、この時点では、無かった。
主の導きに従い、御言葉に従って歩むなら、必ず誰でも安息の地に入れるのだが、しかし、約束の地カナンへは、この世代では僅か二人しか入れなかった。御言葉に従って歩まなかったからである。それは、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。
『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。』(出エジプト記40:33)
出エジプト記は、神の民がエジプトの圧政による奴隷状態であった所に始まり、神の顕現、敵の懲らしめ、奴隷状態からの脱出を経て、荒野での神の戒めの授与、そして、礼拝場所である幕屋が完成し、主の栄光の臨在が満ち溢れた所で終わる。
現代を生きる私達キリスト者も、出エジプトの民のように、はじめはサタンの圧政による奴隷状態であった所に、主イエスが現れ、彼を信じ、御言葉の通りに歩んだ結果、サタンの奴隷状態から脱出でき、礼拝場所である教会へと導かれ、戒め御言葉をいただき、キリスト者の交わりに加えられ、永遠のいのちの約束が与えられた。
そして、誰もが御国という約束の地へと入れる可能性を持っている。
『あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。』(ヘブル12:15-16)
礼拝説教メッセージ音声:幕屋建造の準備完了(出エジプト記40:1-15):右クリックで保存
エジプトを脱出した年が明け、荒野での生活は二年目に突入した。
『主はモーセに言われた。「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記40:1-2)
幕屋を建てるのに必要な部品や祭具類は、全て、前回の箇所までに造り終えているため、あとはそれを用いて組み立てるのみである。
これらの部品や祭具類は、どのくらいの期間で造られたのだろうか。
まず、エジプト脱出したのが、前の年の第一の月で、第三の月にシナイ山に到着し、そこで四十日間、モーセは主と共におり、幕屋建造の命を受け、律法の石板をいただいたが、イスラエルは金の子牛をつくって堕落してしまった。
しかしモーセの執り成しのお陰で、主は再びあかしの板を授けて下さる約束をして下さり、再び四十日を経て後、主からその板が授けられた。
これで半年ほどが既に経過している、という事は、幕屋の部品を集め初めてから建造し終わるまでの工期は、およそ半年間、という事になる。
元々、水も食料も材料も無いような岩砂漠である。
まず、民から必要な材料を募る所から始め、金を約一トン、銀を三トン半ほど、他にも、青銅や宝石類、アカシヤ材や多くの撚り糸、革を集め、それらの金銀を打ったり溶かしたり、木材を加工したり、布製品を織ったり、革製品を加工したり、それら全てを手作業で行なって、大小の精巧な細工の施された祭具を造ったのだから、半年という工期は、驚くべき短さである。
ネヘミヤも、七十年もの間がれきのままで誰も手を付けなかったエルサレムの城壁を、わずか五十二日という早さで再建した。
このように、主から志が与えられ、人々にやる気があるのなら、驚くべきような早さで、驚くべき事業をやってのけるものである。
これら、聖所で用いられる祭具は、それぞれ、私達キリスト者をあらわしている。
私達はキリストのからだの各器官、各部分であり、それぞれが主にあって適材適所に配置される。
そして、働くべき場所にただ配備されただけでは、主の用は為さない。
『注ぎ油をとって、幕屋とその中のすべてのものに注ぎ、それとそのもろもろの器とを聖別しなければならない、こうして、それは聖となるであろう。』(出エジプト記40:9)
私達も、聖霊の油が注がれて、はじめて、主にあって用意の整った状態とされ、大祭司に用いられて、はじめて主のご用を為すのである。
『アロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて、水で彼らを洗い、アロンに聖なる服を着せ、これに油を注いで聖別し、祭司の務をさせなければならない。』(出エジプト記40:12-13)
まことに油注がれた大祭司は、イエスキリストである。(「キリスト」は元々、「油注がれた者」という意味。)
イエス様は、水のバプテスマによって「水の洗い」を受けた時、天から聖霊が鳩のように下ってきて、彼の上に留まり、天から声がした。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)
こうしてキリストは、神と人との前で、公に聖霊の油が注がれ、大祭司として任職を受けたのである。
『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。
かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、/「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」/と言われたかたから、お受けになったのである。』(ヘブル5:1-5)
礼拝説教メッセージ音声:命じられたとおりに(出エジプト記39:32-43):右クリックで保存
『こうして会見の天幕なる幕屋の、もろもろの工事が終った。イスラエルの人々はすべて主がモーセに命じられたようにおこなった。』(出エジプト記39:32)
主から命じられていた奉仕を、イスラエルの民は全て守り行い、幕屋の工事はいよいよ終わる。
36章以降、主が山で「このように造りなさい」と命じられた事を、そのまま守り行った事がずっと記されて来たが、それはあたかも、前出した箇所のコピーペーストのような文章で、読み手としては「同じ事が書いてある」と、つまらなく思えたかもしれない。
しかしそこに、私達が学ぶべきとても重要な事柄がある。
それは、「主が命じられた事を、そのまま守り行う」事である。
「人々は、主が命じられた通りに全て行った」という表現は、39章では幾度も見られる。(1,5,7,21,26,29,31,32,42,43節)
主が命じられた事をそのまま守り行う・・・それは、自分で考え出して行動する事が好きな人には、つまらないかもしれない。
しかし、主から命じられた事を、コピーペーストかと思えるまでに正確に守り行う事は、主の御前に立派な行為であり、豊かに祝福を受けるコツである。
逆に言えば、主から命じられた事を自分で考え出した何かで上塗りしてしまう事は、呪いの元である。その典型的な事例が、1サムエル15章のサウル王の箇所である。
サウル王は、あらかじめ主から次のように命じられていた。
「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」(1サムエル15:3)
しかし彼は、その通り行わず、主の怒りを買ってしまった。
『サウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。・・・「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。』(1サムエル15:9-11)
サウルとしては、主の命令を実行したつもりだったようだが、そうではなく、かえって主を怒らせていた。
私達も、主の命令どおりに実行した「つもり」になっていても、実は、主を怒らせている時があり、その時、表層意識には出なくとも、なんとなく主に対して「うしろめたさ」があるもので、わざわざ「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」とオーバーに言ってみたり(13節)、「いいわけ」という形になって表層に出てくるものである。(19-21節)
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:22-23)
サウル王が主の御声に聞き従わなかったのは、主から滅ぼすように命じられたものを「惜しみ」、そうする事を「好まなかった」からである。(同9節)
主の言葉を、自分の「好み」「好まざる」で、聞き従わない事。それは、引きずり降ろされてしまう元である。
主が私達に求められておられる事、それは、御言葉をより好みしたり、加えたり減らしたりせず、出エジプトの民のように、主から命じられたままを、違わず守り行う事なのだ。
『イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたように、そのすべての工事をした。モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それをなしとげていたので、モーセは彼らを祝福した。』(出エジプト記39:42-43)
主の言葉を違わずに全て行った時、私達も祝福を得るのである。
今日もまた静岡に来て、教会建て上げの手伝いをしています。
今回は荷物を2Fから3Fに運ぶ力作業メインで、体力的にきついですが、一番最初に見た状況から、だいぶ変わって、どんどん教会らしくなっていく様を見るのは、とても嬉しいです。
礼拝説教メッセージ音声:キリストをあらわす祭司服(出エジプト記39:1-31):右クリックで保存
今回の箇所は、祭司が身に帯びるものや、祭司が聖所で務めをする式服などについて、主が28章で命じられていた事を、その通りに実行した事の報告である。
大祭司が着る式服や、身に帯びるものは、全て、天の性質、神の栄光をあらわしており、また、頭の上から足に至るまで、人々を執り成すもので構成されている。
大祭司が身に付けるエポデ(2-5節)は、青、紫、緋色の撚り糸に加え、金の糸でも織り込まれ、天(青)、王(紫)、血(緋色)、そして、神の性質(金)を帯びているわけである。
これらは、キリストのご性質をあらわしている。キリストは、天にましますお方、王なるお方、血潮によって人類を清めたお方であり、人であると同時に、神であられる。
エポデにつける肩当て(6-7節)には、イスラエルを記念する石があり、大祭司が肩当てを身に付ける時、イスラエルの民は、大祭司の肩に担がれているわけである。
それは羊飼いなるキリストをあらわしており、まことの羊飼いである主は、私達が迷い出た時、探しだして私達を見つけ、肩にかついで、緑の牧場へと連れ戻して下さる。
胸当て(8-14節)には、イスラエルの名による12種類の石があり、金の環と青ひもによってずり落ちないようしっかりと結び付けられ(15-21節)ている。
胸は心の座であり、大祭司がそれを胸に置く事によって、彼はイスラエルを心に覚えつつ、執り成しの務めを為すのである。
キリストは天において、いつも私達を覚えつつ執り成しておられる。
エポデの下に着る青服(22-26節)のすそには、鈴がついており、大祭司が聖所で務めをする時、イスラエルのは外でその音を聞きつつ、大祭司の執り成しを覚えるのである。
27-29節には、アロンの子達(普通の祭司)のシンプルな祭服が造られている様が書いてあり、キリストにあって祭司とされた私達は、自らを派手に飾るのではなく、大祭司キリストにシンプルに仕えるべき事が示されている。
聖別の記章の札(30-31節)は、頭のかぶりものに青ひもで結び付けられている。
この記章は、聖別された者である事を表示するとともに、思いの座である頭につけられ、民はいつも大祭司に覚えられ執り成されている事をあらわしている。
このように、大祭司がその身に帯びるものは、いたる所に神の栄光や民を執り成すシンボルで満ちており、それらは大祭司であるキリストのご性質をよくあらわしている。
『さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。』(ヘブル4:14-16)
イエス様こそ、もろもろの天を通って行かれた大祭司である。
彼は、人となって来られた故に、私達の弱さを知っておられ、いつも、弱い私達を、思いの内で執り成し、心の内で執り成していて下さる。
このまことの大祭司に執り成されたからこそ、私達は大胆に恵みの御座に近づき、おりにかなった助けを得る事ができるのだ。
完璧なるキリストの復活(マタイ27:62-28:10)
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本日はイースター、イエス様の復活を記念する日である。
イエス様はひとたび、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネやマリヤの目の前で、兵士や百人隊長、その他多くの人達の目の前で、息を引き取り、槍で突かれても、血と水が流れ、全く動かなかった。
イエス様を十字架から降ろしたアリマタヤのヨセフとニコデモは、死後硬直して冷たくなりつつあるイエス様の体に、苦心して没薬とアロエとを共に亜麻布で巻きつけ、ヨセフが用意した墓へと葬り、番兵が封印した。
イエス様の死という「敗北」に、祭司長や律法学者達は勝ち誇ったが、イエス様は三日目に復活する、との言葉を思い出し、弟子たちが遺体を盗まぬよう手配さえしたが、その弟子達は、皆、イエス様がよみがえるなど、つゆ思っておらず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。
しかし、イエス様のあらゆる敵にとって「残念」な事に、イエス様は、完全に復活されたのだ。
封印は圧倒的な力で破られ、墓の入口を塞いていた大きな石は、脇に転がされ、墓を見張っていた番兵たちは、御使いを見て死人のようになり、女たちがイエス様の遺体に香油を塗ろうとして墓に行った時、墓の中にはイエス様の遺体は無く、ただ体を巻いていた布が巻かれたままに置き去りにされていた。
番兵達は祭司長たちに報告したが、祭司長たちは、なぜか、「そんなばかな事があるか」と一蹴する事も、失われた遺体を捜索する事も一切せず、番兵たちに金を掴ませ、偽りの情報を流させた。
しかし! 女たちはすぐにイエス様に出会い、「おはよう。」と声をかけられた。イエス様は弟子たちに現れ、信じられない様子の彼らに、よく見させ、触らせ、釘跡に指を入れさせ、彼らの面前で魚を召し上がった。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、迫害者サウロにも現れパウロへと造り変えた。
復活は、私達キリスト者にとって最重要事項であり、もし私達に復活が無いとしたら、キリストの復活も無かったはずで、宣教も、実質の無いものとなってしまう(1コリント15:12-19)。
マホメットや仏陀は死に、墓は聖地として奉り上げられているが、キリストの墓は無い。生きているからだ。
イエス様は実際よみがえられ、その、莫大なる復活の力を体験した人達は、実際に大勢いる。
彼らは元々、ユダヤ教のナザレ派という弱小集団で、漁師や取税人、遊女といった、社会的弱者から構成される、お金も知恵も力も、まとまりも無い、ただの要領の悪い小さな集団だったが、見事な統率と武力で世界を席巻した、あの、ローマ帝国を凌駕し、後には、帝国そのものがキリスト教国になってしまったのだ。
そしてイエスキリストを信じる人には、イエスの名によって病が癒され、問題は解決され、イエスを信じた家族や国はますます栄え、勝利し、イエスの名をおとしめる者達は、災いに満ちた終わり方をしている。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力である。
イエス様は今まさに生きておられ、その復活の命は、何者にも押し留められるものでは無い。イエスの敵は、協議と権力と金と偽りとで、いのちを押し潰そうとするかもしれないが、春に萌え出る草や花を、人が留められないように、復活のいのちの広がりは、サタンも人も、死も、もみ消そうとして消せるものではない。
『朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」』(1コリント15:54-55)
キリストはなぜ、復活の後、あの圧倒的な御力をもって公に見える形で現れず、信じる者たちに、ごく内密にしか現れないのだろうか。それは、神の御心により、信じる者達の宣教のことばの愚かさを通し、信じる者達を救おうと定められたからである。(1コリント1:21)
神は何ゆえか、この土の器に過ぎぬ私達を通して、全被造物の救いという宇宙的事業の一端を担わせられ、この救いの言葉、十字架の福音を全世界に宣べ伝える事を、私達に委ねられたのである。
そして、やがては天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物が「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」と言って、ほふられた小羊キリストに栄光を捧げるようになるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
礼拝説教 十字架(マタイ27:38-54):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:金銀の捧げ物(出エジプト記38:21-31):右クリックで保存
今回の箇所では、幕屋の祭具を制作する全ての奉仕をベツァルエルが成した事の報告で、用いられた金や銀、青銅の総分量が記録されている。
『ユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレル(ベツァルエル)は、主がモーセに命じられた事をことごとくした。』(出エジプト記38:22)
彼は、主がモーセに命じられた事の、それ以上も、以下も、しなかった。
主から示された幕屋の庭は、とても質素な仕様だったが、それではあまりに質素過ぎてイスラエルの主の栄光にそぐわないだろう、などと、勝手に庭に築山を築いたり、鹿おどしを配置したり、といった、余計なものは造らなかった。
主が命じられた事が、あまりに拍子抜けだったりすると、人は何かとそれに手を加えたがるものだが、主に尊く用いられる人は、主が命じられた以上も、以下も、しないものである。
『聖所のもろもろの工作に用いたすべての金、すなわち、ささげ物なる金は聖所のシケルで、二十九タラント七百三十シケルであった。』(出エジプト記38:24)
聖徒達全体から、喜んで進んで捧げられた金の総重量は、およそ一トン。これだけの分量が、民の内から捧げられた。
ここで不思議なのは、民は自ら進んで、任意に捧げたのに、後になって計ってみれば、神の宮の用が足りる分に正確に足りていた、という事である。
普通なら、設計する段階で、これだけの物を制作するなら金はどれだけの分量が必要であるかを見積もり、計算し、イスラエルの人口ひとりに対して、いくらいくらの金を徴収する必要がある、などと、国家事業であるなら、そのような計画を立てる所だが、この神の国の奉仕には、そのような計算は一切無く、実際に必要を十分満たすだけの捧げ物が捧げられたのだ。
この金や貴金属類、宝石類は、元々は民のものであり、それらの元々は、エジプトから分捕ったものである。
世の全てのもの、および、全ての人々は、元々は主のものであるのに、サタンは不法にそれらを占拠し、我が物としてしまっている。それ故、私達神の民は、サタンの元から囚われたたましいを分捕り返し、サタンの不法占拠状態の富も分捕り返し、それらを携え、神の国へと凱旋する者達である。
『会衆のうちの数えられた者のささげた銀は聖所のシケルで、百タラント千七百七十五シケルであった。これはひとり当り一ベカ、すなわち聖所のシケルの半シケル(5.7グラム)であって、すべて二十歳以上で数えられた者が六十万三千五百五十人であったからである。』(出エジプト記38:25-26)
金や青銅は、民が自ら進んで捧げる捧げ物であったが、銀に関しては、自由に自ら進んで捧げる捧げ物の他、イスラエルの成人男性全てから、ひとりあたま半シェケルを強制的に徴収している。
それは、彼らの命のあがないのためであり、幕屋の用に当てられ、イスラエルの人々の記念となるためである。(出エジプト記30:12-16)
彼らの大部分は、不信仰の故に荒野で滅ぼされてしまったが、彼らが主に対して、どのような心持ちであったとしても、一人あたま5.7グラムの銀を捧げたその捧げものが、代々、幕屋の聖所の土台として使われ続けたわけである。
いかなる心であったとしても、神の国のために捧げる事は、永遠の務めに参加する事である。
この、一人あたま銀半シェケル、という税額は、イエス様の時代も続いていた。
『宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。』(マタイ17:24-27)
イエス様は神の子であり、神の宮の主である。
それ故、天の王子であるイエス様も、そして私達も、本来、税を徴収されるように神の宮に払う事はしなくて良いはずであるが、しかし、彼等につまづきを与えない為にと、主はその銀を、魚の口に備えてくださり、「わたしとあなたのために」納めなさい、と指示して下さるのだ。