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新潟出張

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2013-3-14 22:00

この度の新潟出張は、ある方の昇天一周年記念礼拝でしたが、実にみのり豊かな時でした。

個人的な事ですので詳しくは書けませんが、かの地のキリスト者にとっても、また、キリスト教に初めて触れた人にとっても、関わった全ての人達にとって、霊的に大きな前進となり、大いに意義のある時となりました。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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はびこる悪に(エステル5:9-14):右クリックで

【概要】

本日のメッセージは、エステル記の5章9節から14節の出来事を中心に、ハマンの誇り高く堕落した心とそれに対し揺るがぬ信仰を持つモルデカイ、そして賢明なエステルの行動から、神の御業と御計画を深く読み解くものです。私たちも、どんなに悪がはびころうとも、神の正義と義人の栄光が必ず実現するという希望を見出すよう努めましょう。

【聖書箇所】

・エステル記 5章9節〜14節

・信玄の四章 14節〜27節(※本文中の引用。原典は神の戒めを示す御言葉として理解します。)

・詩篇 73篇 1節〜17節

【慰めの言葉】

神は正しい者を決して見捨てることなく、絶えず守り導いてください。困難な状況や悪に満ちた日々の中でも、神の約束は変わらず、希望と救いをもたらしてくださいます。

【励ましの言葉】

私たちは、どんな権力や富におびえることなく、信仰によって立ち上がるモルデカイの姿を見習いましょう。時には周りの環境に逆らいながらも、神に歩みを委ねるその勇気こそが、真の力となります。

【戒めの言葉】

ハマンのように、自身の誇りや些細なことで心を乱され、悪を追求する態度は決して許されるものではありません。小さな妬みや心の高ぶりが、やがて自らを滅びに導くことを深く戒められています。

【勧めの言葉】

私たちは日々、神の御言葉に耳を傾け、エステルの賢明な判断と忍耐を実践することを勧めます。焦らず、時には立ち止まり、祈りと断食を通して神の御心に沿う生き方を一層求めるべきです。

【悔い改めの促しの言葉】

今一度、自分の心の中にある傲慢さや、些細な不満に囚われる自分を省みる時です。神の前にへりくだり、真の悔い改めを通して、より清く正しい歩みを始める決意を持ちましょう。

【***詳細***】

今日の説教の中心は、エステル記の5章9節から14節に記された一幕にあります。本文には、ハマンが王妃エステルの宴会において、自身の豊かな富、複数の子どもたち、そして王に高く評価され、栄誉を授かったという誇示的な言葉が並びます。しかし、その裏に隠された心の闇、すなわち、王の門にいるイスラエルの指導者モルデカイに対する激しい憤りが描かれています。聖書はこう記しています。

「ハマンはその日喜び、上機嫌で出て行った。ところが、王の門にいるモルデカイが、たとえ立ち上がろうともせず、自分に少しも恐れを抱かないその姿を見たとき、ハマンの心はモルデカイに対する憤りと嫉妬で満たされた。」(エステル記 5章9節〜14節)

この御言葉は、権力や栄光を手にしているにもかかわらず、内心の中で自己中心的な怒りと虚栄に溺れる姿勢を断固として戒めるものです。ハマンは、自分の立場や世間からの評価にすがり、ほんの些細な相手の態度ですら、自身の心を支配される愚かさを露呈しました。その結果、神の計らいにより、彼の誇りはむしろ自らの敗北と滅亡へと転じるのです。

一方、モルデカイの心には、どんな高位の権力にも屈せず、神に対する堅固な信仰が宿っていました。断食や祈りに身を捧げ、イスラエル民族の危機にあっても、動揺することなく毅然と立ち向かいました。その姿は、私たち信者にとって模範とすべきものであり、個々がどんなに圧倒的な悪に囲まれていても、心の奥で神の御声に従い歩む決意が何より大切であると教えてくれます。

また、エステル自身は非常に知恵深い御婦人として知られています。王妃としての身分や立場を活かしながらも、決して自らの民族の危機を軽んじることなく、時を見計らって行動するという慎重さを持っていました。具体的には、既に王との面会が30日間途絶えていたという状況の中、突如として王の前に現れることが命取りであると分かっていたからこそ、彼女は宴会という場を利用するという形で、安全かつ効果的に神の導きを信じたのです。彼女の慎重さは、私たちにとっても日常生活の中での「時を待つ」知恵として学ぶべき点が大きいと言えます。エステルは自らの危機感と同時に、神への信頼を決して揺るがせず、むしろその信仰を盾に、王に対する毅然たる態度を貫いたのです。

続いて、説教では「信玄の四章 14節〜27節」と引用された御言葉にも触れています。ここでは、悪者の道に足を踏み入れてはならないとし、その道が決して安らぎをもたらさず、むしろ絶えず罪に溺れて破滅へ向かうものであることが強調されています。聖句はこう語っています。

「悪者どもの道を歩むな。それを無視せよ。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ眠りが得られない。義人の道は曙の光の如く輝き、悪者の道は暗闇のようだ。」(信玄の四章 14節〜17節)

これらの言葉は、ハマンのような道を歩む者が、いかに自己中心的な生活の中で道を誤り、最終的には突然の災いによって滅びる運命にあるかを教えています。私たちは、どんなに外面的には一見成功しているように見える人であっても、その心が悪に染まっているならば、決して栄光に導かれることはないのです。

そして、ご覧いただいた詩篇73篇1節〜17節の御言葉は、まさにこの現実を補強する励ましとなっています。詩篇には、義人たちが迫害され、悪者が一時的に栄えている現実の中で、神が最後に正義をもたらし、悪は必ずその報いを受けるという確固たる真理が宣言されています。詩篇はこう語ります。

「まことに、神はイスラエルに心の清い人たちに慈しみ深い。しかし、私自身は、誇り高ぶるものを妬み、悪者が栄えるのを見たために、私の歩みはしばしば揺れ動いた。… だが、あなたは彼らを滑りやすい所に置き、やがては霧のように彼らを滅ぼされる。」(詩篇 73篇 1節〜17節)

この御言葉から、私たちは、悪が一時的な栄光を得たとしても、神の正義は確実に働かれるという、深い慰めと希望を受け取ることができます。悪の道に惑わされることなく、ただ神に身を委ね、忍耐強く信仰の歩みを進めることこそが、最終的に真の救いと栄光へと繋がるのです。

説教の中で、ハマンがその夜、上機嫌で宴会場を後にする描写や、自らの富や栄誉を友人たちに自慢する様子、そして妻であるゼレ氏が提案した高さ50キビットの柱にモルデカイの姿を吊るし上げようとする行動は、悪が自己崩壊へと向かう象徴的なエピソードです。これは、どれほど恵みや運にあふれた人であっても、心に悪が根ざせば必ず自らの滅亡につながることを示しています。正に、現代の私たちにおいても、細かな不満や小さな嫉妬に捉われることなく、常に神の御心に従い、謙虚さと清き心を保つべきであると教えられるのです。

また、エステルが最初から勢いに任せて突如王に近づかず、慎重に時を待った姿勢は、現代においてもビジネスや対人関係において急がず冷静な判断を持つことの重要性を示しています。神は、焦る者や短絡的な決断を好みません。むしろ、深い祈りと断食で霊的に磨かれ、慎重に時を計る者に、いつか必ず大いなる恵みと救いを与えてくださるのです。

これらの聖書御言葉は、私たちがどんなに誘惑や困難に直面しようとも、揺るぎない信仰と神への忠実な歩みを持つことの大切さを強く訴えています。ハマンのような誇示と怒り、そして自己中心的な行いは必ずや堕落と破滅につながるのに対し、モルデカイのような謙遜と信仰、エステルのような賢明さは、最終的に神の計らいによって大いなる栄光と祝福に変えられるのです。私たちの生活の中で、どんなに小さな侮辱や悩みであっても、それに心を乱されることなく、神の御言葉に立ち返り、正しい道を歩む決意を新たにする必要があります。

また、詩篇の中で語られる悪者の最期と義人の栄光は、私たちに大いなる希望と慰めをもたらしてくれます。どんなに悪が力を増し、一時的に栄光しているように見えたとしても、神の正義は必ず働かれ、悪は暗闇の如く消え去るのです。私たちは毎日の生活の中で、たとえ周囲に不正や不義が蔓延していたとしても、神の絶対的な正義が働くと信じ、忍耐と信仰を持って生きるべきです。

最後に、主イエス・キリストのお名前によって、私たちがどのような状況にあっても、義人としての歩みを堅持し、神の御前で誠実に生きることが、永遠の栄光と祝福に繋がるという確信を新たにしましょう。悪に惑わされることなく、正しい道を歩むことが、この世の苦難を乗り越える唯一の道であると心に留め、日々の信仰生活に励むよう、共に祈り求めましょう。

【結論】

神は、悪を行う者の傲慢と罪深さを必ず自らの滅亡へと導かれるよう御計画の中におられます。一方、義と信仰に生きる者には、試練を乗り越えた先に必ず栄光と救いが約束されています。私たちは、ハマンのような虚栄に流されることなく、モルデカイやエステルのように謙虚で、神の御心に従った生き方を実践し、日々の生活の中で神の正義と慈愛を信じ歩むべきです。主イエス・キリストのお名前によって、皆様に祝福と平安が豊かに注がれますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エルバアル(士師記6:1-32):右クリックで保存

カインの礼拝とアベルの礼拝(創世記4:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

礼拝の時間は、神である主を敬い、賛美や祈りや捧げ物をささげ、そして主から、御言葉と恵みと答えと祝福をいただく、神と人との双方向の交わりの時である。
主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故主を敬う心は礼拝で最も必要であり、主が不在の形だけの礼拝は、御言葉も恵みも答えも祝福も、頂く事は出来ない。
そして、主と関わる時は、主の法則、すなわち御言葉に則って関わる必要があり、御言葉の根拠なき、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。
「主への祭り」と称して、金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。(出エジプト記32章) 示されていた御言葉を読んだなら、それはとんでもない反逆だと判るものなのに、彼らには御言葉が無かったため、主へ礼拝を捧げていると大真面目に思いながらにして、主に滅ぼされる寸前の怒りを買っていたのである。
主に仕えている「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
カインとアベルの礼拝から、私達が礼拝において気をつけるべき示唆を、多く得る事ができる。

「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に持って来た。主はアベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、KJVから翻訳)
主に捧げたのに、主からそっぽ向かれている感じがあったり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠いと感じる事があるだろうか。しかし、ある捧げ物は主に目を向けられ、ある捧げ物は主からそっぽ向かれてしまう。そういう事は、厳然としてあるという事を、知るべきである。

アベルの捧げ物は、なぜ受け入れられたのか。それはまず、彼の捧げ方は、神の規定に叶っていた。
前回見たように、神の御前に有効とされる捧げ物は、いのちの犠牲がある事である。
アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、犠牲なき手軽な繕いは、神の目には何も覆われていないも同じである。犠牲がある事が、まず、神様の方法である。
また、アベルは最良のものの中からさらに厳選して捧げた。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、最良のものを捧げたからこそ、神様は彼と彼の捧げ物とにリスペクトされたのだ。

カインの捧げ物は、なぜ受け入れられなかったのか。それは、正しく行なっていなかったからである。(7節)
神の受けられるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心。神はそれを軽んじられない。(詩篇51:17)
カインの心が、もし神の前に砕かれ、悔いた心を持っていたなら、彼は「怒る」という事をしなかっただろう。
しかし彼は、怒った。怒った事によって、彼の心の内の傲慢さが明らかとされた。
また彼は、礼拝において、またその礼拝の成果について、他人と見比べるという事をした。
神ではなく人を、目に見えない神を敬うのではなく、目に見える人を気にしたのである。
私達は礼拝や奉仕で、人と見比べたり、自分がしようとした奉仕が、思い通りに行かなかったり、評価されなかったら、怒ったり、あの兄弟姉妹なぞいなくなってしまえ、という心が芽生えたり、していないだろうか。
礼拝や奉仕で「怒り」が出てきた時、神と人の前から「顔を伏せ」る時、私達の内に、カインの性質がある事を知るべきであり、その時は、戸口で待ち伏せしている罪を、支配しなくてはならない。(創世記4:6-7)
罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事によって、である。(2コリント10:5-6)
私達は神と関わる時、礼拝する時、常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
為そうとしている事が御心にかなっているかどうかをチェックする最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
礼拝や捧げ物に限らず、全ての事を、イエス・キリストの名に恥じずに行う皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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仕事が多いと夢を見る(伝道者の書5:1-7):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:血肉に逆らっても罪には妥協するな(出エジプト記32:21-29):右クリックで保存

「アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。」(出エジプト記32:22)
アロンは、自分が罪を犯した事を告白せず、民の悪さへとモーセの目を向けさせようとした。民が悪いのは、あなたも知っているでしょう、と。

小さい子供は、誰からも教えてもらってもいないのに、言葉を覚えた当初から、罪を他人になすりつけたり、自己弁護したりするように、人は誰しも、生まれながらに自分の罪を隠し取り繕う「くせ」が、身についてしまっている。
しかし、もし自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(1ヨハネ1:9)

アロンは、民が「神を造ってください」と言った時点で、与えられていた十戒を元にNOを突きつけるべきだった。
それなのに彼は、民の心情を損ねたくなかったのか、それをせず、「金を持っている者はそれを取り外して下さい」と言ってしまった。(出エジプト記32:23-24)
そう言えば民衆は黙ってくれる、と、期待したのかもしれない。しかし、ひと度妥協してしまった事で、ますます民を付け上がらせる事になってしまった。

「彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです。」(出エジプト記32:22-24)
結局、彼自身がそれを火に投げ入れた事は告白しているが、あたかも、子牛が自動的に出てきたような言い分である。
「なんで事故を起こしたの!」という親の言葉に、「だって、電柱が車に向かって突っ込んで来たんだもの。」と返す子のようであるが、電柱が車に向かって突っ込んで来るよう車を導いたのはその子であったように、民衆を堕落へと導いたのは、アロンである。

『モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。』(出エジプト記32:21)
アロンとしては、民が勝手な事を言い出し、それに少しだけ譲歩しただけ、それなのに民は、あれよあれよという間に勝手に偶像を造った、と思っているかもしれない。
しかしモーセは、アロンが民に罪を犯させた、と、明瞭に言っているし、35節でも「金の子牛はアロンが造った」と書いてある。
アロンは、その手で子牛を造らなかったかもしれない。しかし、指導者たる者が、戒めるべき所を戒めなかった事によって「彼が造った」と見なされてしまうのである。
悪い事を「する」ばかりが罪ではない。罪の防止を「しない」事も、悪をほしいままに振舞わせる事も、悪を「する」事と同列なのだ。

『モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。』(出エジプト記32:25)
ここは、KJVでは、アロンは彼らを裸にさせ、彼らの敵の間で裸の恥をさらすようにした、と訳す事ができる。
モーセが山から降り、皆の前で金の子牛を粉々に砕いても、なお、裸のままでいる者達がいた、という事だろう。

酔っぱらいのように、ひと度つけあがると、そこに指導者が現れても、なお開き直るような者はいるが、それは放っておいてはならない。
罪をそのまま野放しにしてはびこらせると、主の敵に大いに嘲りの心を芽生えさせるからだ。(2サムエル12:14)

『モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。』(出エジプト記32:26-28)

イスラエルの男子約六十万に対し、倒されたのは三千人。
会衆の中に、なおそれだけ罪をはびこらせる者がいた、という事だろう。

この命令は、厳しく聞こえるかもしれない。
しかし、神の民は、それほどまでに、罪のはびこりに対しては厳しく扱い、妥協してはならないのだ。

罪を指摘されても、悔い改めもせず、なお公然と罪を犯すような者は厳然と取り除き、会衆を清く保たなければならないのは、旧約でも新約でも同じである。(民数記25章、1コリント5:1-8)
神の民には、確かに幸いも特権も祝福も多いが、それなりの果たすべき責任もあるのである。

『そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。』(出エジプト記32:29)
新約でもイエス様は同じ事を言っている。
『地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。』(マタイ10:34-39)

私達自身の内から罪を除き去り、また、主に反対する親や兄弟、愛する人には、逆らってでも、主を選択する事は、神の民なら避けて通れない事のようである。

礼拝説教メッセージ音声:割られてしまった神の石板(出エジプト記32:15-20):右クリックで保存

ヨシュアは、モーセが最後に「待っていなさい」という言葉を残して、主の臨在の雲の中へと入って行って以来、40日間、ずっと忠実に待っていた。
彼は、民から離れた所、そして主の臨在の雲から近い所で、ずっと待ち続けていたのだろう。
そして、やっとモーセが彼の前に姿をあらわした時、彼らは民衆の大きな叫び声を聞いた。

『ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。』(出エジプト記32:17-18)
私達は、神の敵、すなわち、罪やサタンと戦い、勝利の叫びを上げる事が最も望ましい。
それに負けてしまった時に、悔しさや悲しみの叫びをするのは、まだましな方で、最も良くないのは、罪やサタンを迎合し、罪由来の汚れた楽しさを謳歌するための叫びを上げる事、これを神は怒り、悲しまれる。

『モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。』(出エジプト記32:19)
この板は、神聖にして侵すべからざるもの、この板が安置されている箱が行き巡ったペリシテ人の国は恐慌にみまわれ、契約の箱の中を覗いたイスラエルの民も多く打たれ(1サムエル6章)、また、その箱が安置されている至聖所においては、祭司が少しでも手順を間違えれば、神に打たれて死んでしまう程、神聖なるものだった。
それなのに、モーセはそれを粉々に砕いてしまった。

そのように、神聖なるものが壊されてイスラエルの中から取り去られてしまう事は、イスラエルの歴史の中では幾度かある。
契約の箱がペリシテ人に奪われた時も、バビロン捕囚時にカルデヤ人が神殿を荒らし回った時も、使徒の時代にローマ人が神殿を破壊し尽くした時も、主は、その汚れた民が略奪するがままにされていた。
それはいずれも、神の民の堕落がはなはだ激しかった時であり、尊く聖なるしるしは神の民の中から取り除かれ、神の栄光は去ってしまったのだ。

『また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。』(出エジプト記32:20)
「金」で出来たものが、火で焼かれ粉々に砕かれる。
よほど不純な粗悪品だったか、あるいは主ご自身が徹底的に粉々に砕かれたのか。とにかく、人は自分の蒔いた種を自分で刈り取り、報いの杯を飲まされるのである。
「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。(黙示録14:9-12)

罪ある人は、神の基準に達する事はできない。
それだから、神が石の板に書かれた定めを人が守ろうと頑張っても、遅かれ早かれそれを破ってしまう時が来る故、もっと抜本的な解決を提供するような、新しい契約が必要である。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

新約においては、石の板ではなく、私達の心に直接、神の指によって御言葉が記され、その言葉は決して離れる事なく、私達は心に刻まれた律法に従って歩む事が出来る。
それは、イエス・キリストを信じる信仰により、聖霊によって記されるものである。

『あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3,6)

そして、この新しい契約は、人を罪に定めたり死に定めたりする務めではなく、いのちの務めであり、古い契約の務めよりも、はるかに栄光のある務めである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。(2コリント3:7-8)

礼拝説教メッセージ音声:執り成して祈れ(出エジプト記32:7-14):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。』(出エジプト記32:9)
民は主の御前に大きな罪を犯し、この時滅ぼされても仕方なかった。
幾度も主が命じられた事を無視し、分からず屋で何度言っても過ちを犯し、40日ほどしか経っていないのに早くも堕落してしまった民に、モーセ自身もうんざりしていたに違いないが、彼は、神が「彼らを滅ぼしあなたを大いなる国民としよう」と言われた時、「はい、ぜひそうして下さい」などとは言わなかった。
彼は逆に、イスラエルの民を救うために執り成した。

このモーセの執り成しに、私達は注目すべきである。
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。』(出エジプト記32:11-13)

彼は、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの人の何かを根拠に弁護する事は、一切なかった。
彼は「イスラエル人の何か」を根拠に執り成し祈る事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点から、執り成したのである。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。だから、人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
そして何より、主はアブラハムに子孫を増やし、約束の地へと導かれる御言葉の約束をされたではありませんか、その約束を覚えて下さい、と。

そもそもイスラエル人のみならず、人間は誰しも、神の御前に受け入れられるような良い点など、一つも持っていない。義人はひとりもいないのだ。(ローマ3:10-18)
人は、あれをした、これをした、といった「行い」によっては救われない。人間由来の何かをもって神に取り入ろうとしても、無駄である。
ただ、主は憐れみ深きお方であり、罪に汚れて弱き私達を救って下さる、その一方的な救いに私達は拠りすがるのみなのだ。

モーセは神と人との間に立って取り成したが、私達を執り成して下さるお方は、イエス様である。
このお方にあってのみ、私達は神に近づく事が出来るのである。

『それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:14)
神は既に御心を定めておられるから、私達は祈ってもムダだ、と思ってはならない。
神は私達に、祈りによって神とかかわる事を望んでおられる。
事実、アブラハムは主の真実さを盾に取ってソドムを滅ぼさないよう交渉できたし、ツロの女もイエス様が「子犬」と言った言葉尻を捉え、なお食い下がったため、娘の癒しを与えられた。
身勝手な祈りや同じ文句の繰り返しなどは聞いてくださらないが、私達が主の真実さに信頼し、御心に叶った祈りをするなら、主は聞いて下さるのだ。

主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びない事である。
『主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。・・・あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:23,31-32)
そのようなご性質故、アブラハムやモーセが執り成して祈った時、主は「よくぞ執り成してくれた」と喜ばれたのではないだろうか。

今は確かに終わりの時代で、世の終わりに定められている災いが来るのは免れないが、だからと言って執り成し祈る事を止めてはならない。
主は、破れ口に立って執り成して祈る人を、求めておられるのだ。(エゼキエル22:30)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
語らぬべき時(エステル5:3-8):右クリックで保存

【概要】

本日の説教では、エステル記5章3節〜8節の場面を通して、エステルの慎み深さと絶妙なタイミング、そして神の御導きの中で信仰者としてどのように行動すべきかを学びます。

【聖書箇所】

・エステル記 5章3節〜8節

・伝道者の書 5章1節〜3節、7節(関連箇所として参照)

【戒めの言葉】

・自らの唇を節制し、焦って不用意な言葉を発しないよう戒めます。

・神の御前では言葉に重みがあり、軽率な発言は霊的危険を招くことを心に留めてください。

【励ましの言葉】

・エステルが示したように、正しい時と場面では謙虚な姿勢で神と人とに向き合うことが大切です。

・焦らず、神の導きとタイミングを信頼することで、必ず救いへの道が開かれると励まされます。

【***詳細***】

本日の箇所であるエステル記5章3節〜8節は、神の御計略の中にある人間の立ち回りや心の持ち方について、多くの示唆を与えてくれます。物語は、エステルが王に呼び出されるという非常に緊迫した状況から始まります。王は「どうしたのだ、王妃エステル。何が欲しいのか。王国の半分でもあなたにやれるのだが」と尋ねます。ここでまず私たちが注目すべきは、王の寛大な言葉と同時にエステルの慎重な態度です。エステルは、王の好意に甘えるのではなく、断固としてイスラエルの救いという使命を果たすために、自らの口を極力制しながらも、タイミングを見極めた上で発言することを選びました。

エステルは、30日間王と直接会わず、断食と祈りに励む中で、神の御導きを求め、また自分の立ち位置とその言葉の重みを深く考えたことが伺えます。彼女の心情や行動を通して伝えられるのは、「焦って不用意に物事を語らず、まずは状況を見極め、神の与えられた時にのみ行動すべきである」という教えです。私たちもまた、日常生活の中で多くの選択を迫られたとき、また上司や大切な人との対話において、エステルのように自らの言葉に慎重になり、まずは相手の状況を尊重する姿勢を持つことが求められます。

エステル記の中で、エステルは王に対していきなり求めを述べるのではなく、まず「もしも王様がお許しになられ、今日私が設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください」という一見柔らかい言葉から切り出しました。聖書にも「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしくて私の願いを許し、私の望みを叶えていただけますなら」という言葉が強調されているように、相手の意向やその時の空気を読み、そして適切な言葉を選ぶことの大切さが示されています。これは、私たちが大切な場面で語るべき言葉を熟考し、状況に応じた柔らかい表現と謙虚な態度を保つべきであるという戒めともいえます。

また、伝道者の書に記されている「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ」という御言葉は、私たちに何気なく使う言葉や行動が、実は大いに注意深く扱われるべきものであることを説いています。エステルが王前で示した謙虚さは、この御言葉と共鳴しています。つまり、偉大な御業をなすためには、まず自らの言葉に責任を持ち、むやみに語らないという自己制御の精神が必要なのです。

エステルの一見控えめな振る舞いの背後には、真実の信仰と神への従順、さらには民族全体の存亡がかかっているという重大な使命感がありました。彼女はまた、ハマンという敵対者の動向を探るために、あえて宴会に王とハマンだけを招き、その場の空気を観察するという知恵も示しています。この行動は、決して軽率なものではなく、むしろ神の時と導きに身を委ねた慎重なる戦略であり、危機的状況においても冷静さと思慮深さを失わない模範として、私たち信者に大いに学ぶべき点です。

また、エステルがその願いを発する際に用いた言葉、すなわち「もしも王様がよろしければ、」という始まりは、相手に対する敬意と控えめな姿勢の表れです。現代においても、私たちが職場や家庭で大切なことを伝える場面では、まず相手の境遇や心情に配慮し、余計な主張や感情を控えるべきだと示唆されています。たとえば、上司に何かを訴えたい時や、家族との意見交換において、まずは相手の話をよく聴き、相手の心情を理解することが、実りある対話と建設的な解決への第一歩となるでしょう。

さらに、今回の説教で強調したい点は、私たちが言葉を発する際に神への畏敬の念を忘れてはならないということです。人はしばしば、いかに自らの考えを言葉に尽くそうとも、焦りや思い過ごしから無駄な発言をしてしまい、結果として自らを窮地に陥れることがあります。エステルが示したように、智慧ある人は「言葉数を少なくせよ」と忠告される通り、むやみに多くを語らず、必要な時に必要な言葉だけを発するのです。これは、日常生活におけるコミュニケーションはもちろん、霊的生活においても極めて大切な姿勢です。

現代社会において、情報があふれ、誰もが自分の意見を容易に発信できる状況ですが、私たち信者はエステルのように、常に神の御前において謙虚であり、時機を得るまで自らの言葉を慎むべきです。焦って無理に物事を前進させるのではなく、「主の時がある」と信じ、静かに、しかし確固たる信仰と知恵をもって行動することが求められます。そうすることで、神は確実に私たちと共に歩み、時には危機的な状況さえも救いの道へと導いてくださるでしょう。

このエステルの姿勢は、私たちにいくつもの霊的な教訓を残しています。彼女は一見、控えめで遠回しな言い方に見えるかもしれませんが、その裏には深い戦略と信仰の確信が流れていました。王の好意を得るためだけでなく、民族全体の命運を背負っての行動であったため、自らの口を慎み、神の御計らいに身を委ねることが如何に重要であるかが浮き彫りになっています。私たちもまた、日々の生活の中で神の導きを求め、コミュニケーションには十分な注意と謙虚さをもって臨むべきです。

例え仕事や家庭での小さな衝突、あるいは意見の食い違いがあったとしても、すぐに感情的な言葉を発するのではなく、まずは相手の気持ちに寄り添い、神の知恵によって冷静に判断することが信仰者として成熟する鍵です。そして、神が定められた正しい時に、私たちもまた必要な言葉を発する勇気と知恵を受けることでしょう。エステルのように、慎重に、しかし強く、そして謙虚な態度を忘れずに進むならば、どんな難局も乗り越えられると信じています。

この説教を通して、私たち一人ひとりが自らの言葉に責任を持ち、神の御前にあって控えめかつ賢明な判断を下すことの重要性を再認識し、またそれを実践する決意を新たにできるよう、心から祈り申し上げます。どうか皆さんもエステルの模範に習い、日々の生活の中で自らの唇を節制し、神の時を待ち、その導きに従って行動する信仰者となりますように。イエス・キリストのお名前によって、皆さんの家庭、職場、そしてあらゆる場所に神の平安と祝福が豊かに注がれますように、心からお祈りいたします。

【結論】

エステルの慎み深い行動と絶妙なタイミングは、神の御導きのもとに生きる私たちにとって大いなる模範です。私たちもまた、焦らず、謙虚に、そして神を畏れる心を持って日々のコミュニケーションに臨むことで、どんな困難も乗り越え、神の御計らいに沿った素晴らしい未来へと歩みを進めていきましょう。

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