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礼拝説教メッセージ音声:金の子牛への二つの罠(出エジプト記32:1-6):右クリックで保存

『民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。・・・アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
・・・そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。』(出エジプト記32:1,4,6)

民は早くも堕落してしまった。
40日ほど前、あれほどの恐ろしく圧倒的な主の顕現を見たはずなのに。
また、この日の朝、主からのマナを食べ、主が備えて下さった水を飲んだはずなのに。
雲の柱と火の柱による主の臨在が、相変わらず彼らと共にあったのに。それなのに、一体、どうした事なのだろうか。

アロンは「あすは主(エホバ)への祭りである」(5節)と言った。エホバ、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神、天地を創られた全能なる神への祭りだと宣言したが、もしかしたら彼らは、造った偶像にエホバなる主を投影する事によって、主に仕えているような「気」になっていたのかもしれない。
だが、「その気」だったとしても、それは到底エホバなる主が受け入れるものではない。
主に仕えているような「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。
私達はそれを十分注意して取り扱わなくてはならない。

「さあ、”わたしたちに”先立って行く神を、”わたしたちのために”造ってください。」(1節)この言葉からも、主体は神ではなく「わたしたち」にある事が分かり、彼らの「その気」は、心から主を愛するものではなく、自己中心的なものであると分かる。
そして彼らは、御言葉に従っておらず、むしろ、いくつも御言葉に反している。

主が十戒の第一戒で言われたのは「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」だった。
また、第二戒で言われたのは「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」だった。(出エジプト記20:1-6)
さらに続けて主は言われた。「あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。」(出エジプト記20:22-23)

この言葉が与えられ、まだ40日ほどしか経っていないのに、アロン彼らから金を集めさせ、のみで鋳型を造り(のみを当てるなら汚す事になる、と、主は20:25で言われているのに)、金の子牛を造って、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と、のうのうと宣言している。

このように彼らは、こちらが見ていて怖くなってしまうほどに主の戒めを破り、主の御怒りを引き起こしている事が分かるはずだが、彼らは、分からなかったのである。
なぜか?
それは、彼らの内に御言葉が無く、身勝手に、自分の目に正しいと思われる「思い込み」によって、突き動かされていたからである。

災い多く忌むべき士師記の時代のキーワードは、「おのおの自分の目に正しいと見る所を行なっていた」だった。
御言葉の根拠が無い、神に仕えているという身勝手な「思い込み」。それこそ、災いと呪いの根源である。
私達が正しいと見える事、それは果たして主の御前に正しいだろうか。
それをいつも、御言葉に照らし合わせて、点検する必要がある。

もう一つ、この箇所から私達が陥りやすい罠を見る事が出来る。
その罠とは、「民衆の声」である。

アロンは、民衆の「わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。」という声に対し、御言葉で否む事をせず、民衆の思いをさせてしまった。
サウル王も同じ罠に陥った。彼も、サムエルから与えられた御言葉どおりに待ちきれず、自分流の思いに急かされ、そして「民が」離れていくのを恐れ、御言葉を乗り越え、自分のおるべき領分を超えた事を行なってしまった。
彼も言い訳で「神に仕えたつもり」だった事を言ったが、それは御心を損ねる事であり、王国は剥奪される事になってしまった。(1サムエル13:8-14)

政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶが(知恵蔵2013)、神の国において、このポピュリズムは、最もしてはならぬ事である。
現在、キリスト教界において、御言葉よりも、大衆に迎合される事を重視し、御言葉をそのまま伝える事を躊躇してクリスチャンが塩気を失い、御言葉の光を失い、塩気の無い塩として、外に投げ捨てられてしまっている状況を、よく見る事が出来る。

わたしたちは、アロンやサウル王が陥ってしまった、二つの罠に気をつけるべきである。
一つは、御言葉が与えられても、忍耐して待ちきれない、という罠。
主の現れは、人の目には遅いと感じる事もある。しかし、しっかり主に信頼し、言われた言葉を守り続けるべきである。
もう一つの罠は、民衆の声、みんなの声である。

それらに惑わされず、御言葉にしっかり留まって御言葉の成就を忍耐して待ち望み、民衆の声に惑わされず、御言葉のほうに信頼して従順するなら、ヨシュアやカレブのように、次世代へいのちを継がせる者となる事が出来る。
もし、みんなの声に惑わされ、主の御言葉を押しのけるなら、荒野の民のように、サウル王のようになってしまう。
御言葉に従順し、服従し、新しい改まった世界へといのちをつなげる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:幕屋建設指示の終わりに(出エジプト記31:1-18):右クリックで保存

いよいよ幕屋建設の命令の最後の指示である。
『「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。』(出エジプト記31:2-6)

幕屋に必要な全ての設備品を造るために、要求される技術は、非常に多岐に渡る。
大工的なものもあれば宝石職人的な技術も要求され、服飾的なものもあれば、アロマの調合まで必要である。
これら全てを主の聖なる用に足りるレベルにまで造り上げるには、主の霊なくては到底出来るものではない。

神が幕屋について指示されて来た事は緻密で膨大であり、果たしてその通り出来るかという心配が、もしかしたらモーセにあったかもしれない。
しかし神は、出来ない要求をしていっちゃもんをつけるようなお方ではない。
神が「せよ」と言われるからには、それが出来るよう、必要な資材も、神の霊で満たされた知恵と力を持つ働き人をも、ちゃんと備えて下さる。
主の霊が与えられた技術者は、「これこれの物をつくりなさい」と言われた時、頭の中ですぐにイメージが与えられ、御心の通りに造り上げるのだ。

それは、現代の教会においても、そうである。
私達の教会が行くべき道が示された先には、現行の教会員や資力では到底出来ないような事を示される時があるかもしれない。
しかし、その示しが神から来たものであるからには、神がちゃんとそれが出来る御霊の知恵と力に満ちた人を用意し、必要な財力も備えて下さるのだ。

神の国の奉仕は、自分が活躍したいからなるものではないし、社会的落伍者が逃避的な目的でキリスト教界の奉仕者になるものでもない。
幕屋建設の奉仕者が、神から名指しで任命されたように、神の国の奉仕者は、神によって「任命」されてなるものである。
神が任命して下さるなら、どんな事でも可能であり、実績が必ず後を追い、人々からも認めるものである。

『主はまたモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:12-13)
幕屋建設の指示の最後は、なぜか再び安息日尊守の命令で締めくくられている。
これから具体的な作業に入るに当たって、全ての奉仕で決して忘れてはならない重要事項が「安息」であるようだ。

神の国の奉仕者が休まず働いて疲れ果ててしまうのは御心ではない。
必ず休みが必要であり、そして休みの時は、しっかり神の創造のみわざを覚えつつ心も体も休めるべきである。

安息日の主は、キリストである。
全ての種類の奉仕にあたり、決して忘れてはならない重要事項は、イエス・キリストを信じる信仰であり、この御方を脇においた自分流の奉仕は、無効である。(ヘブル4:1-3)
信じた者は安息に入り(ヘブル4:1-3)、安息に入った者は自分のわざを終えて休む。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:9-10)

『主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。』(出エジプト記31:18)
こうして、25章以降から詳細に指示されて来た幕屋建設の命令は終わり、モーセは律法の石板を神から頂いたが、残念ながら、この板は次章で粉々に砕かれてしまう。
次章以降、民の堕落とモーセの執り成し、神の憐れみを見て行きたい。

いちじくの葉か、犠牲の衣か(創世記3:7,21)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

人類に罪と死が入ってしまった瞬間、すなわち、アダムとエバが「善悪を知る実」を食べた時、真っ先に彼らに起きた事は、目が開かれ、自分達は裸であった事を知った事であり、その事を見て知った彼らが真っ先に実行した事は、いちじくの葉をつづり合わせて、裸を覆う事だった。(創世記3:7)
神との関係が絶たれてしまった人間は、呪われてしまった自然や環境、人間関係の脅威の中を、自身の体力や知識、思いや意志、感情をやりくりし、自力で渡り合って行かなくてはならなくなってしまった。
この、自分の恥ずかしい所、見られて欲しくない部分を覆う行為こそ、全ての人が持つ「取り繕い」である。
アダム以来人類の呪われた生き方は、自分の弱さや裸をカヴァーするために力を蓄え、知識を蓄え、技術を発展させ自活して行くもので、いちじくの葉はやがて発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行った。そして、人はまた、浅知恵による言葉の「いちじくの葉」で自分を覆う生き方をも身につけた。
アダムは、自分の罪を告白せず、逆に神が与えて下さった妻が悪いかのように、詭弁といういちじくの葉によって自分の罪を覆おうとし、人を責め、神を責めた。エバもまた同様であった。(創3:12-13)
小さい子供は、誰からも教えてもらわないのに、言葉を覚えた当初から、詭弁という「いちじくの葉」で自己弁護する。そのように人は、生まれながらに取り繕う「くせ」が、身にしみてしまっている。
いちじくの葉がやがてぼろぼろになってしまうように、それは永遠に保つものではない。取り繕って一時的に救われた気がしても、永遠に続くものではないため、喪失への恐れや不安がどこかしらあるものだ。
神を離れた人がやる事なす事は、全て、主の御前に実を結ばない「取り繕い」である。(ヨハネ15:5)
神に対して有用な実を結ばない「いちじくの葉」という取り繕いだらけの人は、主によって枯らされてしまう。
イエス様が唯一、呪いの奇跡を行われたのは、葉っぱばかりのいちじくの木に対してであった。(マタイ21:18-22)

人は、何によって罪と裸を覆って頂けるのか。それは、神が一方的に与えて下さる衣によってである。
「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)
主は、人を裸のままエデンの外に追い出す事をなさらず、呪われた地でもやって行けるように、何かしらの動物を殺して犠牲とし、その皮を剥がれ、それを人に着させて下さり、それから救いのご計画を発動された。
日本で犯罪を犯したら日本の法律に則って対処するように、神の御前で罪を犯したなら神の方法に則って罪を対処しなくてはならない。神の御前に有効な、罪の贖いの方法。それは、いのちの犠牲である。

イエス様は、たとえ話の中で、王が婚礼に客を招いた際に、礼服を身に着けてこなかった者は外に追い出された話をされた。礼服は王から支給されるものであり、せっかく支給されたものを跳ね除けて、自前の服を身に着けて行くなら、善人であれ悪人であれ、外の闇に追い出されてしまう。(マタイ22:11-14)
同様に、神の支給して下さったキリストという贖いの衣を身に着けず、自前のいちじくの葉で取り繕うなら、どんな善人であっても、天の王国から追い出されてしまうのである。
キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着るなら、決して裸になる事は無く、死ぬべきものはいのちに飲み込まれるのである。(2コリ5:1-4)
アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、自前の方法では、神の前に罪や裸を覆った事にはならない。ただ、神の側が示された衣で覆われてのみ、御前に有効なのだ。
ヤコブは自前の服ではなく兄エサウの晴れ着や動物の毛皮を纏ったため父からの祝福をいただき、エステルは自分好みのものではなく勧められたもの以外は身につけなかったため王の好意を受け、大祭司ヨシュアは、ただ一方的に、汚れた衣を脱がされ、神が用意された礼服を着せられた。
ルツはナオミから言われた通り、ボアズの衣をまくって彼の懐に入り、「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」と言って迫ったために、栄光の家系へと入れられた。(ルツ記3:9)
私達も、まことのボアズであるキリストの懐に飛び込んで行き、申し上げるべきである。
「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは私を、罪と死から、いのちへと買い戻して下さるお方です。」と。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様から最高の賛辞を頂くには(マタイ8:5-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:特別な注ぎの油(出エジプト記30:22-38):右クリックで保存

幕屋の祭具は、用いられる前に特別な油が注がれる。その注ぎ油の調合は、次の通り。
『あなたはまた最も良い香料を取りなさい。すなわち液体の没薬五百シケル、香ばしい肉桂をその半ば、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、桂枝五百シケルを聖所のシケルで取り、また、オリブの油一ヒンを取りなさい。あなたはこれを聖なる注ぎ油、すなわち香油を造るわざにしたがい、まぜ合わせて、におい油に造らなければならない。これは聖なる注ぎ油である。』(出エジプト記30:23-25)

これは全ての祭具に注がれる。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台とに。
これらに油が注がれるなら、それらは聖別され、主に対して有用なものとなり、それらに触れるものも、全て聖なるものとなる。(29節)

この油は、祭司や王など特別な任職をする際にも注がれる。
「キリスト」とは元々「油注がれた者」という意味であり、イエス・キリストこそ唯一の王、完全な贖いを成し遂げた大祭司である。

私達キリスト者は、キリストのからだの各部分、各器官である。
王であり大祭司であるキリストにつながる私達も、キリストから流れてくる聖霊の油にあずかる事が出来る。
幕屋の祭具には色々な種類があり、それら全てに同じ油が注がれるように、キリストの体の各器官である私達も、かしらなるキリストの頭に注がれた尊い油が私達に流れ滴り来るため、皆が同じキリストの香りがするのだ。

『見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。』(詩篇133篇)
キリストに留まり、キリストから流れ滴って来る油は、尊く、麗しく、そこにはとこしえの命の祝福がある。
キリストに繋がっていなければ、油は滴って来ないし、主に対して有用な実を結ぶ事も出来ない。しかし、キリストに繋がっているなら、豊かな実を結ぶ事ができる。(ヨハネ15:4-5)

この油は特別なものであって、勝手に作ったり、神から任命されてもいない者に、注いだりしてはならない。
『これはあなたがたの代々にわたる、わたしの聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない。またこの割合をもって、これと等しいものを造ってはならない。これは聖なるものであるから、あなたがたにとっても聖なる物でなければならない。すべてこれと等しい物を造る者、あるいはこれを祭司以外の人につける者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記30:31-33)
神から任命されてもいないのに、自らを「油注がれた者」と自称し、純粋であるはずの神の言葉に混ぜ物をして売り物にするような者、御言葉を軽んじても良いような事を教える者はいるが、私達はそのような者に気をつけなくてはならない。

『主はまた、モーセに言われた、「あなたは香料、すなわち蘇合香、シケレテ香、楓子香、純粋の乳香の香料を取りなさい。おのおの同じ量でなければならない。あなたはこれをもって香、すなわち香料をつくるわざにしたがって薫香を造り、塩を加え、純にして聖なる物としなさい。また、その幾ぶんを細かに砕き、わたしがあなたと会う会見の幕屋にある、あかしの箱の前にこれを供えなければならない。これはあなたがたに最も聖なるものである。』(出エジプト記30:34-36)
聖所で御前に備える香りには、さらに特別なものがあり、それは至聖所のすぐ手前の幕の所に供えられる香りで、香料の樹脂を粉々に砕き、主の御前に供える。
主が喜ばれるのは、砕かれた魂、悔いた心であり、砕かれた心から立ち上る祈りの香りは、主に喜ばれる。(詩篇51:16-17、マルコ14:3)

私達は、かしらなるキリストにしっかり留まり、キリストに注がれた油が、からだである私達にも伝わって来て、キリストの香りをいたる所で放つべき者達である。
『神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。』(2コリント2:14-17)

礼拝説教メッセージ音声:贖いと洗い(出エジプト記30:11-21):右クリックで保存

人口調査でイスラエル人を登録する際は、「贖い銀」を支払う事を主は命じている。
『これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。』(出エジプト記30:12-13)

イスラエル人として登録された成人男性は皆、銀半シェケル(1シェケルは11.4g)を支払う事になっており、金額は富んだ人も貧しい人も、同じ「半シェケル」である。
その銀は、会見の天幕の用として、もちいられる。(同14−16節)
つまり、イスラエル人として登録された成人男性は、皆、神に贖われた者であり、皆が神の幕屋の奉仕へ参加した者とされているのだ。

私達については、イエス・キリストが、贖いの銀を支払って下さった。
ルカ10:30-37の「良きサマリヤ人のたとえ」の中に、サタンに身ぐるみ剥がされ、傷つけられ、動けなかった私達の有様と、一方的に助けて下さった、良きサマリヤ人としてのキリストの姿を、見る事が出来る。
この世という旅路の中、サタンに襲われ、何もかも奪われ、身動きできなくなっていた私達に対し、人間の祭司や働き人は何もしてくれなかったが、イエス様はサマリヤ人として身をやつし、近づいてきて、聖霊の油を塗り、ぶどう酒(イエスの血)で洗い清め、贖いの衣で包帯をして傷を覆って下さり、イエス様の乗り物である「ろば」に私達を乗せ、世の旅路において安全な宿屋(教会)へと運んでくださり、しかも介抱できるようにと、宿屋に必要な銀二枚まで支払って下さった。
「行ってあなたも同じようにしなさい」
キリストが私達に為して下さったように、私達も同じように傷ついた人の隣人となるよう命じられている。
イスラエルの民は全員、贖いの銀を払う事によって自らを主に対して買い戻し、その銀は天幕の用に用いられ全員が主の働きに参加したように、私達も、主が贖って下さったからには、奉仕や献金などを通して、神の働きに参加すべきである。

出エジプト記18−21節には、祭司が務めをする際の、水の洗いについての指示がある。

祭司が祭壇での務めをする前には、手足を水で洗わなければならず、聖所での務めをする前に水を浴びなければならない事が、永遠のおきてとして定められている。
それをする理由は、死なないためである。(20節)
それ程までに、祭壇や幕屋での奉仕は、聖なる務めであり、水で洗い清めない事は主怒りを招く事である。

今、私達は、主の務めを為すにあたり、キリストが語られた御言葉によって洗われていなければならない。(ヨハネ15:3-5)
すなわち、私達は御言葉なるキリストに繋がっていなければ、主の御前に何もしてはならないし、する事は出来ない。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)

私達は世という旅路を渡り歩く時、どうしても、世や人々から罪と汚れを受けてしまう。
その汚れをも、主は清めて下さった。
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。』(ヨハネ13:4-10)

足を洗うのは、何もイエス様だけがする事ではない。イエス様は、私達もそうするようにと、模範を示されたのだ。
私達もまた、イエス様にならい、兄弟姉妹の足を洗い合うべきである。
すなわち、兄弟姉妹が世を通して罪や汚れを受けている時は、それを断罪するのではなく、御言葉の洗いによって、兄弟姉妹の罪や悪いところを戒め、良き方向へと立ち返るようにしてやる事によって「足を洗う」のである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
着飾ってただ立つ(エステル5:1-2):右クリックで保存

【概要】

本日は、エステル記5章の冒頭に見る、エステルが神の民のために命を懸けて謁見に臨んだ勇気と、その無言の振る舞いに秘められた信仰の力を学びます。その姿は、私たちに主の御前に正しく立つための模範を示しておられます。

【聖書箇所】

・エステル記 5章1節〜2節

・1ペテロ 3章1節〜6節

・ルツ記 3章9節

・雅歌 1章9節〜11節

・雅歌 4章9節

【慰めの言葉】

私たちがどんなに弱さや恐れを抱いていても、主はその心の奥にある真実な姿を見逃されません。エステルやルツのように神から与えられた贖いの衣に包まれていれば、どんな困難も乗り越えることができるのです。

【励ましの言葉】

王に謁見に臨むエステルのように、恐れずに主の御前へと進み出る勇気を持ちましょう。たとえ命のリスクがあったとしても、無言の誠実な振る舞いは、必ず主に届く確かな証です。

【戒めの言葉】

自己流の飾り付けや、世俗の価値にとらわれた心では、主の御許へ受け入れられません。主が授ける義の衣を軽んじ、誇示することなく正しい姿勢を保つよう自覚しましょう。

【勧めの言葉】

日々の断食と祈りを通して、自身を清め、霊の油で塗るよう努めましょう。そうする時、主が約束された守りと愛を実感する日が必ず来ると信じ、確信を持って歩みを進めることができます。

【悔い改めの促しの言葉】

もし今まで自分流のやり方で主に近づこうとしていたなら、今一度立ち止まり、真の贖いの衣に心を改めましょう。自分の外面的な飾りではなく、内面からにじみ出る穏やかな霊を、主の愛によって研ぎ澄ませる時です。

【***詳細***】

本日私たちは、エステル記5章1節〜2節に記されているエステルのある勇敢な姿に立ち返ります。エステルは、王妃としての地位を得ながらも、イスラエル民族を救うために自らの命を懸け、呼ばれていないにもかかわらず、敢えて王宮の内庭へと足を踏み入れました。聖書は「エステル記5章1節」にその状況を記録しています。王は、王宮の玉座に座しながらも、エステルに気付き、手に持った金の尺を彼女に向かって差し伸べられたのです。これこそ、神の民の救いを信じたエステルの無言の訴えであり、王でさえもその振る舞いに応じざるをえなかった瞬間でありました。

エステルは、ただ言葉を並べるのではなく、身なりを整え、王妃としての衣装に身を包み、慎ましやかでありながらも厳かな姿で謁見に臨みました。命を賭してでも、イスラエル民族の未来を託すその行動は、現代に暮らす私たちにとっても大変重い意味を持っています。私たちも、主の御前に立つ時、自己流の華美な装いではなく、主ご自身が支給された義の衣、つまりキリストの贖いの霊に満たされた姿で謁見に臨むべきです。聖書は「1ペテロ3章1節〜6節」において、敬虔な婦人が夫に従い、内面の美しさを現すことが、神に喜ばれる姿であると教えています。これは、エステルやルツが示した無言の従順さに通じるものであります。外面的な飾り付けは一過性のものにすぎず、内面に宿る平和な霊こそ、永遠の救いにつながる真実の装いなのです。

さらに、ルツ記におけるルツの姿勢も私たちに大きな示唆を与えます。ルツは、ナオミの導きに従い、体を清め、香り高い油で身を飾り、そして無言で買い戻しの権利を訴えました。聖書「ルツ記3章9節」の言葉には、ルツが「あなたの衣の裾を広げ、私に覆いを与えてください」と謙虚に訴える場面が描かれており、彼女の静かな忍耐と信仰が、最終的にボアズの心を動かしたのです。私たちも、自己主張や派手な言葉に頼るのではなく、内に秘めた静かな誠実さをもって主に謁見すべきです。エステルもまた、王の謁見に臨む際に、断食を三日三晩続け、多くの人々の祈りに支えられ、そして自らも主に信頼するその無言の振る舞いによって、王の心を動かしました。

聖書「雅歌 1章9節〜11節」及び「雅歌 4章9節」に見られるように、真の美しさとは言葉や外見にとどまらず、無言のまなざしや、内面からあふれ出る神の愛に根ざした姿からにじみ出るものです。ソロモン王が愛した女性の美しさは、単なる外面的な装飾だけではなく、彼女の心のあり様、そしてその無言の献身の中にあったのです。現代の私たちも、どんなに世俗の装飾が魅力的であっても、主が与えてくださる義の衣、すなわち救いの恵みによって着飾ることこそが、真に勝ち取るべき美しさであると信じなければなりません。

また、イエス・キリストが十字架上で見せられた無言の忍耐は、義人アベルの血が主の御前で雄弁に叫んだと伝えられる聖書の記述にも重ね合わせることができます。私たちにとって、無言の振る舞いはただ沈黙を守るだけのものではなく、主へ捧げる崇高な証であり、心からの信仰の表現なのです。王に対して、身を粉にして謁見に臨むエステル、そして買い戻しの権利を無言で求めたルツの姿は、私たちに「恐れずに主の御前へ」と叫びかけています。

 

私たちが日々の生活の中で、自己流の飾り付けや世間の成功、虚飾に頼るならば、主はそれを受け入れず、むしろ外面のみに偏った生き方から離れるよう厳しく戒められます。聖書に記されているように、「我が行い、救いを得ず」とは、自分自身で奮闘することでは決してなく、主から授けられた恵みと義を着こなすことこそが唯一の救いへの道です。主が支給して下さる晴れ着、すなわちイエス・キリストの御顔にあずかるその恵みを、私たちは何よりも大切にしなければなりません。

 

このように、エステルとルツ、そして雅歌に登場する美しくも勇ましい姿は、現代に生きる私たちにとっての生きた教訓です。たとえ命を賭けるかのような危険な状況にあっても、恐れずに主の御前へと進み、無言の信仰と従順で神の救いを求めるその精神が、いかに尊く、また効果的であるかを思い起こさせます。私たちもまた、日常の中で主から与えられた義の衣を身にまとい、精霊の油で心を満たし、神の前にひたむきな態度で謁見に臨むことができるよう、日々の祈りと自己反省に励みましょう。

 

どうか、エステルが命をかけたその勇敢な振る舞い、そしてルツが謙虚に従ったその無言の態度が、私たち一人ひとりの心に刻まれ、どんな困難な状況にあっても主に頼る信仰と希望の証として生き続けますように。私たちが自分の作り上げた飾りではなく、真に主から授けられた義の衣を纏い、内面から溢れ出る霊の香りによって神の栄光を称える者とならんことを、主イエス・キリストの御名によって固く宣言いたします。

 

あらゆる状況の中で、無言の振る舞いが雄弁に神の御心を伝えるという確信のもと、我々は命懸けの信仰、自己犠牲の愛、そして神への絶対的従順をもって、この地上での日々を歩んでいきます。どうか、私たちが姿勢を正して主の御前に謁見し、くださった祝福に応える真摯な信仰の証を見せることができますように。

 

本日のメッセージを通し、私たちは決して自分自身の力では救いを得られないこと、ただ主ご自身が支給してくださった義の衣にすがることでのみ、救いと勝利がもたらされるという真実を再確認いたします。私たちは世俗的な評価や外見に惑わされることなく、内面から湧き上がる霊の美しさをもって、ひたむきに主の謁見に臨む生きた証人となるよう努めましょう。

【結論】

エステルやルツが見せた無言の振る舞いと真摯な信仰を例として、私たちも主から与えられた義の衣を信じ、恐れずに主の御前に立つ勇気を持ちましょう。日々、真心をもって自己を清め、主の愛によって満たされる生き方こそが、私たちの救いと未来への道であります。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ユダの手紙1-8:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:香壇での聖なる務め(出エジプト記30:1-10):右クリックで保存

今回の箇所は、聖所に置く香壇についての主の指示である。
前回の「祭壇」と、今回見る「香壇」とは、用途も置かれる場所も違う。
『あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。』(出エジプト記30:1-5)

すなわち、「祭壇」は外庭の出入り口に一番近い所に置かれているのに対し、「香壇」は幕屋の内側、聖所と至聖所を仕切る幕の聖所側、至聖所に最も近い所に置かれている。
「祭壇」は、人々が動物や穀物のいけにえや注ぎの捧げ物を携え来て、そこで捧げるのに対し、「香壇」ではそうしたいけにえを捧げてはならず、ただ祭司のみが香り高い香を焚く務めをするものである。
祭司が聖所の中で、朝ごとに夕ごとにともし火を灯す時に、この香壇で香を捧げる。
香壇で香を焚く務めは、聖なる務めであり、この、主の御前に立ち上る香は「祈り」をあらわす。(黙示録5:8)

『アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。」』(出エジプト記30:10)
これもまた、世々に渡る永遠の務めであり、そしてこれは主に対して「最も聖なるもの」と定められている以上、異なった香を炊くことはできない。
異なった香を炊いてしまったアロンの子ナダブとアビフは、主からの火によって焼き滅ぼされ、主の前に死んでしまった。(レビ記10:1-2)
香を焚く務めは聖なる務めであり、私達の祈りも同様に、聖なる務めである。

旧約において、香壇は、聖所の中の至聖所をしきる垂れ幕の手前にあったが、新訳にて記されている所は、そことは別の所である。
出エジプト記30:6によると、香壇は聖所の中に、至聖所と聖所を仕切る垂れ幕のそばに置かれているが、ヘブル9:1-5によると、香壇は契約の箱と共に至聖所にある。
これはどういうことか。

イエス・キリストの十字架により、聖所と至聖所を仕切る幕は真っ二つに裂かれ、神の臨在がいつも在る至聖所への道が、キリストを通して開かれた。
そして、悔い改めてイエスを信じる者には、誰でも御霊(聖霊)が与えられ、御霊はいつも弱い私達のために主の御前にて執り成し、祈っていて下さるのだ。
『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。』(ローマ 8:26-27)

旧約では、特別な人のみがが油注がれて任職を受け、祭司として立てられ、神と人との間に立って香壇の務めを為したが、新約の今は、キリストにある者は皆、聖霊の油が注がれ、選ばれた種族、王族の祭司、神の民とされたのだ。(1ペテロ2:9)

礼拝説教メッセージ音声:祭壇で捧げる捧げ物(出エジプト記29:35-46):右クリックで保存

『あなたは毎日、あがないのために、罪祭の雄牛一頭をささげなければならない。また祭壇のために、あがないをなす時、そのために罪祭をささげ、また、これに油を注いで聖別しなさい。あなたは七日の間、祭壇のために、あがないをして、これを聖別しなければならない。こうして祭壇は、いと聖なる物となり、すべて祭壇に触れる者は聖となるであろう。』(出エジプト記29:36-37)
ここでは祭壇の贖いの方法が示されている。
祭壇は、完全数である七が満ちるまで雄牛を捧げる事によって清められ、七が満ちた時、はじめて主に対し有用なものとなり、そこで捧げられたものは、主に受け入れられるようになる。

この祭壇には、毎日、主に捧げられるべきものがある。
それはすなわち、0.95リットルの上等の油に小麦粉2.3リットルを混ぜたもの、それにぶどう酒0.95リットルを添え、そして、一歳の若い雄羊一頭を、それらを朝ごと夕ごとに祭壇で焼いて煙にし、香ばしい捧げ物として捧げる。(出エジプト記29:38-41)

『これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。』(出エジプト記29:42-43)
これらの毎日の捧げ物は、「永遠に」主の御前で有効な契約であるからには、現代もまた有効である。
現代の私達は、イスラエル民族ではなく、祭壇もなく、朝ごと夕ごとに焼きつくすいけにえを捧げてくれる祭司もいないが、どのようにして主に近づけるのか。
その答えは、ヘブル10章にある。

『イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』(ヘブル10:10-14)

それ故、私達は罪赦され、大胆に御前に近づけるのである。
そして、キリストにあって私達も祭司とされたからには、日々、主の御前に自分自身を生きた供え物として捧げ、祈りの煙を主の御前に立ち上らせる務めがある。

『わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。』(出エジプト記29:44-46)

この記述は、黙示録21章によく似ている。
神の人類に対する究極的なご計画は、神の幕屋が人と共にあり、神と人とが永遠に共に住み、人は神の民となる事である。
それ故神は、この荒野の幕屋での務めの内に、天における永遠の幕屋のひな形を示されたのである。

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