メッセージ - 最新エントリー

礼拝説教メッセージ音声:祭司が身に付けるべきもの(出エジプト記28:31-43):右クリックで保存

続いて、大祭司がエポデの下に着る青服についての指示である。
『あなたはまた、エポデに属する上服をすべて青地で作らなければならない。頭を通す口を、そのまん中に設け、その口の周囲には、よろいのえりのように織物の縁をつけて、ほころびないようにし、そのすそには青糸、紫糸、緋糸で、ざくろを作り、そのすその周囲につけ、また周囲に金の鈴をざくろの間々につけなければならない。
すなわち金の鈴にざくろ、また金の鈴にざくろと、上服のすその周囲につけなければならない。アロンは務の時、これを着なければならない。彼が聖所にはいって主の前にいたる時、また出る時、その音が聞えて、彼は死を免れるであろう。』(出エジプト記28:31-35)

このエポデの下に着る服は、天の色・青で、襟はほころびないように鎧のように縁がついている。
これは、決してほころびたり色あせたりする事の無い、天で執り成しておられる大祭司イエスキリストの永遠性をあらわしている。
その裾には、金のすずとざくろが交互に取り付けられ、大祭司が動く時、このすずが鳴るようになっている。
伝承によれば、大祭司が至聖所に入る時、ひもで結ばれて入ったようである。それは、万一何かの間違いを起こし、大祭司が聖所で主に打たれて死んでしまっても、ひもを引っ張って引きずり出せるようにするためである。
それほど、大祭司には重大な責任が伴ったのである。

年に一度の贖罪日、大祭司は洗盤で身を清め、祭壇上のいけにえをほふり、祭壇の周りに血を注ぎ、残りの血を器の中に入れ、それを携えて至聖所へと入って行く。
外の大庭では、大祭司が贖いのつとめを果たすのを待つイスラエルの民は、大祭司の青服のすそにつけられた鈴の音を耳にしながら、無事につとめを果たす事を祈りつつ待っている。
そして大祭司が契約の箱の贖罪蓋に血を注ぎ終わり、一切の贖いのつとめを成し遂げ終わると、大祭司はひもを引きずりながら民の前に戻って、「テテレスタイ!(完了した)」と叫んだ。

同じように、キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられ(ヘブル9:12)、全人類の贖いが終わった時、「完了した」と叫ばれた。(ヨハネ19:30)

大祭司はまた、ひたいに純金の札がつけられる。その時、大祭司は全ユダヤ人の罪咎を代表して負っており、この札をつけて御前に出て、贖いのつとめを為したなら、ユダヤ人全体の罪咎もまた贖われた事になる。(出エジプト記28:36-38)
同じように、キリストも十字架にかけられた時、「これはユダヤ人の王イエス」と書かれた札が掲げられ、ユダヤ人だけでなく全人類の罪咎を代表して負い、贖いのつとめを完全に成し遂げられたのだ。

大祭司は他にも、市松模様の長服、亜麻布のかぶり物、色とりどりに織られた飾り帯を身につけており、他の一般の祭司たち(アロンの子ら)とは一線を画していた。アロンの子らと呼ばれる一般の祭司たちは、もっとシンプルな格好だったようである。(出エジプト記28:39-40)

『アロンとその子たちは会見の幕屋にはいる時、あるいは聖所で務をするために祭壇に近づく時に、これを着なければならない。そうすれば、彼らは罪を得て死ぬことはないであろう。これは彼と彼の後の子孫とのための永久の定めでなければならない。』(出エジプト記28:43)

先にも書いた通り、祭司たちのつとめは栄光であると共に、重大な責任が伴われるものであり、主に命じられた事をおろそかにしてしまうと、主に打たれて死んでしまうものであった。
私達も主イエスにあって王族の祭司とされたからには、御言葉に正しく従い、この祭司としての栄えあるつとめを、決しておろそかにすることなく、誠実に為さなくてはならない。

いのちの木と善悪知識の木(創世記2:8-17)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』(2:15)
主はアダムとエバをエデンに置かれたように、私達が住むべき領域に、私達を置いてくださっている。
主が人を園に置き、そこを耕し守り、管理させたように、私達も、主が置いて下さった場において、そこをしっかりと耕し、守り、て管理するべきである。
そして、主が置いて下さった生活ステージの中央には、ふた種類の木がある。
『園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2:8-9)
人類なら誰しも必ず通る「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の選択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすい。しかしそうではない。聖書が提示する究極の選択は、「いのちか、善悪判断か」である。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。
善悪を知る事、それはすなわち、神のようになる事である。(創世記3:5,22)
人は神のようになろうという誘惑によって善悪の実を取って食べ、また、サタンも、神のようになろうとして地に落とされた。(イザヤ14:14)神の命令を敢えて超える神から独立した善悪判断は、死へと導かれてしまう。

善悪の実を食べた時、真っ先に人に起こった事は、目が開かれた事であり(創世記3:7)、こうしてある意味、神のようになった。しかし、神のようになった彼らが最初に気づいた事は、実は自分達は裸であった事。
そこで彼らが最初に働かせた善悪判断は、恥ずかしい所をいちじくの葉で隠そうという「取り繕い」だった。
このように、神のような開かれた目で周りの状況や人間をじっと見、善悪判断する事は、自らに死を招く。
神から離れ、神との関わりが絶たれた人間は、所詮裸であり、弱い者であり、罪深く何も出来ない者である。
自分の弱さや裸を覆うために、力や知識を蓄え、技術を発展させて自活して生きて行く生き方こそ、アダム以来の呪いの生き方の本性であり、この、神から離れて取り繕う道具「いちじくの葉」は、歴史を下るごとに進化し、やがて身を守る道具となり、武器となり、知識や学術体系となって発展して行ったが、それは所詮、自分の不完全さに対して、罪に対して、死に対して、どうする事も出来ないのだ。

どこどこに行って遊んでも良いか悪いか、この映画を見ても良いか悪いか、など、何でもいちいち誰かに伺いたがる人がいるが、そのように、何でも「善いか悪いか」の善悪判断で生きる生き方こそ、呪いである。
律法は善悪の集大成だが、律法の行いの内にある人は全て呪いの元にある。(ガラテヤ3:10-12)
しかし、キリストは呪いの木にかけられ、私たちを、その律法の呪いから贖い出して下さった。
この事は、信仰によって義とされるアブラハムの祝福が、私達に及び、私達が信仰によって約束の御霊を受けるためである。(同13-14節) イエス様を信じた人には、聖霊が与えられ、もはや「善いか、悪いか」という善悪判断の呪いの中ではなく、聖霊が教えて下さる導きに従って歩むのである。(ヨハネ14:26)

現代、私達が選ぶべき「いのちの木の実」は、まことの食物であるイエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
呪いの木に掛かって下さった、イエス様という「いのちの木の実」を食べるなら、私達は生きるのである。
福音は、律法のような「こうせよ/するな」という善悪の集大成ではなく、イエス・キリストという「いのちの実」を、信仰によって受け取り、いただくという、命の路線である。
キリストは十字架を負われ、そこで自分の善悪判断を捨てられ、ただ御父のみこころに委ねられた。
私達もキリストにならい、自分で善悪判断する生き方を十字架にはりつけ、それを死に渡し、いのちなるお方イエス様と共に、十字架上で両手離しで御父に自らを委ねるなら、いのちを得るのである。
神のような開かれた目で善悪判断する生き方を止め、呪いの木に架って下さったキリストといういのちの実を食べ、命を得る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

最近、何かと予定が入ってしまうため、配信が定時通り出来ない事が多く、ご迷惑おかけしております。

昨日も来客があったり、礼拝の臨在が濃厚で時間が押してしまったりしため、配信ができませんでした。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
こう祈りなさい(マタイ6:5-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:さばきの胸当 - 主の胸に結び付けられて(出エジプト記28:15-30):右クリックで保存

今回は、エポデの上につける「さばきの胸当」についての主の指示である。
さばきは恐ろしいイメージがあるが、悪しき者が支配する世の中で不当に扱われてきた聖徒たちにとっては、主のさばきは慰めである。(詩篇18:20-34、黙示録6:9-10)
この「さばきの胸当」の特徴から、ご自分の民をしっかりと胸に結び付けて下さる大祭司イエスのご性質を見る事が出来る。

『あなたはまたさばきの胸当を巧みなわざをもって作り、これをエポデの作りのように作らなければならない。すなわち金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、これを作らなければならない。』(出エジプト記28:15)
これは、エポデと同じ種類の撚り糸を用いて22cm四方の四角形に織られ、その中に、12種類の宝石がはめ込まれる。

『さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。』(出エジプト記28:30)
ウリムは光、トンミムは完全という意味で、主のさばき(御心)を求める時に用いられるものである。(民数記27:21、1サムエル28:6)

その十二の宝石には、イスラエル十二部族の名前が彫り込まれている。つまり、大祭司が「さばきの胸当」を身につけて聖所を出入りする時、イスラエルの名前が大祭司の胸に置かれた状態で、出入りする事になる。(出エジプト記28:21)

「胸」は心の座であるが、まことの大祭司である主も、まことの聖所である天において、私達地上にいるキリスト者をいつも御心に留め、取り成しておられるのである。
『しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。』(ヘブル7:24-25)

さばきの胸当には十二種の宝石がはめ込まれているが、十二種の宝石は、黙示録にも登場する。
『その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。花嫁は宝石のよう。またその門には十二部族の名が記されている。そして土台石は宝石であり、十二使徒の名が記されている。』(黙示録21:10-12)

この、宝石を土台とした新しい聖都エルサレムは、主の花嫁であるが、宝石は花嫁と対比される。(箴言31:10、雅歌4:9)
私達の成り立ちが石ころのようであっても、主は、石ころからアブラハムの子孫を起こされ、それを尊い宝石として整え(ゼカリヤ9:16)、尊い宝石で飾って傷を包み慰めて下さる。(イザヤ54:11-13)

さばきの胸当ては金の輪と青紐によってしっかりとエポデに結び付けられるように(出エジプト記28:22-27)、私達も、主の御胸から落ちないよう、しっかりと天の紐によって結び付けられるのだ。
以下の雅歌の女性の告白は、そのまま私達の主に対する祈りでもある。

『私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。・・・ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。』(雅歌8:6,3)

礼拝説教メッセージ音声:エポデ - 私達を背負われる主(出エジプト記28:6-14):右クリックで保存

今回の箇所は、祭司の特別な服の一つ、エポデについて。
『そして彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を用い、巧みなわざをもってエポデを作らなければならない。これに二つの肩ひもを付け、その両端を、これに付けなければならない。エポデの上で、これをつかねる帯は、同じきれでエポデの作りのように、金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で作らなければならない。』(出エジプト記28:6)

エポデは袖なしのエプロンのような服で、幕屋の出入り口に使われた青、紫、緋、白の刺繍の他、神のご性質をあらわす「金」も加わり、非常にカラフルである。
このエポデは、神であり人であるイエス・キリストのご性質をあらわしている。

『あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を刻まなければならない。すなわち、その名六つを一つの石に、残りの名六つを他の石に、彼らの生れた順に刻まなければならない。宝石に彫刻する人が印を彫刻するように、イスラエルの子たちの名をその二つの石に刻み、それを金の編細工にはめ、この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない。』(出エジプト記28:9-12)

エポデの両肩部分には、縞めのうが配置されるが、縞めのうと訳されている語は「ショハム」、縞めのうの他に、薄青や青緑の宝石として、新共同訳ではラピスラズリとも訳される。
この石にはイスラエル十二部族の名が刻まれており、祭司の肩の所に配置されるため、祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為す事になるのだ。

主は、イスラエルをずっと背負ってこられた。
彼らが苦しむ時は共に苦しみ、愛と憐れみによって彼らを救おうとされて来たが、残念ながら、彼らは主に逆らい、聖なる御霊を痛ませて来た。
そのため、主は彼らの敵となられ、イスラエルは痛めつけられた。(イザヤ63:8-10)

そして、大祭司である主イエス様は、今も、ご自身の民であるキリスト者全てを肩に背負って歩んでおられる。
いつから、私達キリスト者は主に背負われて来たのか。
それは生まれる前から、私達はキリストにあって選ばれ、導かれて来たのである。(エペソ1:3-5)
いつまで、私達キリスト者は主に背負われて行くのか?
それは、私達がしらが頭になっても、なお背負われ、やがて誰もが行き着く「死」という大川に至っても、なお主は共に歩み、永遠の御国へと導いて下さるのである。
『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46:3-4)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪しき者のたくらみ(エステル3:7-15):右クリックで保存

【概要】

本日私たちはエステル記3章7節〜15節を通して、権力者の軽率な判断が神の御計らいと人々の生死にどれほど大きな影響を及ぼすかを学び、自らの体と心の「実印」をどこに委ねるかという重大な決断について考えます。

【聖書箇所】

・エステル記3章7節〜15節

※「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」(エステル記3章)

・ローマ人への手紙8章12節〜13節

※「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ人への手紙8章12〜13節)

【戒めの言葉】

・権力や外部の誘惑に無批判に依存してはならない。

・自分の体、心、そして実生活において、誰にその「実印」を渡すのかを慎重に判断する必要があります。

【励ましの言葉】

・御霊に委ねて生きるなら、必ず神の命と平安が備わります。

・日々の小さな選択が、未来に大きな実を結ぶことを信じ、御霊の導きに心を寄せましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

・過去に自らの判断で誤った道を選んだと感じる時、神に立ち返り、心からの懺悔と改心を行いましょう。

・神はいつでも悔い改める心を持つ者に慈しみと新生のチャンスを与えてくださいます。

【***詳細***】

今日、私たちはエステル記3章7節〜15節に記された、アハシュエロス王の時代における重大な出来事に目を向けます。エステル記では、権力者ハマンが自らの恨みと偏見から、特にモルデガイという一人のユダヤ人に対して憤りを募らせ、さらにその憤りをユダヤ民族全体へと向けるため、アハシュエロス王に進言しました。その進言の中で、彼はこう申し上げます。

「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」

 

この御言葉は、ただ単に個人の復讐心から出たものではなく、権力の座にある者が、国や民族の運命を左右する重大な判断を下す際に、どれほど軽率であってはならないかを示しています。アハシュエロス王は、ハマンの計らいに流され、王の実印―つまり、決定的な権威の象徴―を手渡してしまいました。この結果、既に遠い国々にまでその命令が回り、ユダヤ民族に対する根絶的な法令が発布されるという、悲劇的な事態を招いたのです。

私たちはこのエピソードから、外部の権力や誘惑がもたらす危険性、及びその影響力に対して、常に警戒を怠ってはならないという戒めを受け取ることができます。決して、世の権力者の一言で私たちの運命が左右されるべきではありません。そして、私たち一人一人が持つ「実印」は、私たち自身の体や心、生活のすべてを意味しているのです。誰にその大切な実印を託すか、またどのような思いに委ねるかという選択は、私たちの未来にとって極めて重大な問題です。

このメッセージから私は、現代の私たちにとっても、心の中にある感情や意思、さらには日常の小さな決断が、後に大きな実を結ぶことを思い起こさせられます。例えば、日々の中で感じる怒りや憎しみ、または反抗心が、いつのまにか私たち自身の破滅に向かうものであってはならないのです。悪魔の策略は、私たちが肉的な欲望に従う瞬間に静かに忍び寄ります。そして、その結果、私たちは神の恵みや命の祝福を遠ざけ、破滅への道を歩むことになってしまいます。

一方で、聖書はローマ人への手紙8章12〜13節において、私たちに光を示してくださいます。

「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

 

この御言葉は、私たちが日々の生活の中で、肉に支配される生き方を捨て、御霊に導かれる選択をするよう強く促しています。御霊に従う生き方は、神の愛と平安、そして永遠の命へとつながります。私たちは自らの意思で、心の中の悪い感情や肉的欲望を「殺し」、その代わりに神の御霊がもたらす愛と喜びに満たされる生を歩むべきです。

また、エステル記の物語は、どれほど巧妙にして、権力者が自分の都合の良いように事実を操作し、ユダヤ民族という選ばれた民を狙ったかを描いています。ハマンはあえて「一つの民族」という表現を用い、その正体を曖昧にしながらも、最終的には全民族に対する虐殺令を発布させました。その冷酷な計略は、私たちにとっても重大な教訓となります。権力や物事を自分勝手の都合で動かす時、どんなに人々の命が危機にさらされようとも、その判断は正義を欠き、神の御心には決してかなわないということです。

私自身、この箇所から深く感じるのは、「実印」の意味です。実印とはただの印鑑ではなく、私たち一人一人の信仰、価値観、そして日々の選択そのものを象徴しています。たとえば、私たちが車を運転する際、その操作ひとつひとつが善にも悪にも変わるという比喩に似ています。日常の中で誰かに対して怒りを抱いたり、無意識のうちに破壊的な行動に出たりすることは、すなわち自らの「実印」を肉的な欲望に託してしまっていることです。そして、それがいずれ自らや周囲の人々に取り返しのつかない結果をもたらす可能性があるのです。

しかし、私たちは希望を見失ってはなりません。神は常に、御霊による新しい生の道を示してくださっています。たとえ過去に誤った判断をしてしまったとしても、私たちは悔い改め、祈り、断食を通して神に立ち返ることができます。旧約のイスラエル民族が大危機の中で一致団結し、祈りと断食によって救いを求めたように、現代に生きる私たちも、日々の選択の中で神に心を委ね、御霊の導きを受け入れることが重要です。

さらに、私たちがこのエステル記の物語から学ぶべき大切な点は、権力者の軽率な「実印の委譲」に対して、自分自身の大切な体や心、未来を誰に委ねるかという問いかけです。アハシュエロス王は、ハマンに実印を渡したことで、後悔の及ばぬ惨事を招いてしまいましたが、私たちはそのような過ちを回避するために、日々しっかりと自分自身の判断を育て、神の御心に照らして生きる必要があります。

私たちが日常の中でどのような選択をするかによって、神の御恵みが与えられるか、あるいは破滅へと導かれるかが決まってきます。例えば、些細な怒りの感情や恨みを放置することは、やがて大きな悲劇へと発展するかもしれません。一方、御霊の導きに従い、謙虚に神の意志を求め、互いに愛し合う心を持つならば、私たちは神の相続人として、豊かな祝福と永遠の命を受けることができるのです。

改めて、ローマ人への手紙8章12〜13節の御言葉に立ち返りましょう。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

 

この御言葉は、私たちが肉の誘惑に流されず、常に御霊に導かれる選択をするべきであることを、力強く示しています。私たちの内に宿る思い、感情、そして意思が、神の御霊に委ねられるとき、私たちは真に神の子どもとして、新たな生命と希望に満たされるのです。たとえ今、どれほど混乱や誘惑、そして周囲の不正が目まぐるしく変わろうとも、神は変わることのない御約束と共に、私たちに平和と救済をお与えくださると信じます。

最後に、この教えを心に留め、日々の生活の中で「実印」をどこに委ねるか、どのように自らの意思や感情を扱うかを慎重に見極める決意を新たにしましょう。たとえ私たちが一度誤った判断をしてしまったとしても、悔い改めと祈りをもって、再び神の御手に委ねることができるのです。今この時、私たちは神の導きを仰ぎ、御霊の光の中で新たな生を歩む決断をするべき時なのです。

【結論】

私たちは、権力者の軽率な判断によって多くの人命が危機にさらされたエステル記の教訓を胸に、日々自らの体と心の「実印」を神に委ね、御霊による生き方を選ぶべきです。人間の弱さに流されず、真の神の子どもとして、神の恵み豊かな相続人となるよう、悔い改め、祈り、そして御霊に従う決意を新たにしましょう。イエス様の御名によって、この真実のメッセージが私たち一人ひとりの生命に確かな希望と平安をもたらしますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
3ヨハネ1-8:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:祭司のつとめ(出エジプト記28:1-5):右クリックで保存

28章と29章は、祭司の務めに関する定めである。

『またイスラエルの人々のうちから、あなたの兄弟アロンとその子たち、すなわちアロンとアロンの子ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルとをあなたのもとにこさせ、祭司としてわたしに仕えさせ、またあなたの兄弟アロンのために聖なる衣服を作って、彼に栄えと麗しきをもたせなければならない。』(出エジプト記28:1-2)

神は、アロンとその子達が神によって祭司に任命されている
そのように、祭司とは元々、自分からなるものではなく、神から一方的に選ばれ任命されるものであり、その務めは、神と人との間に立って執り成したりいけにえをささげたり、特別な事柄のために仕える仕事である。
『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。・・・だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。』(ヘブル5:1-5)

祭司はその務めに相応しく、特別な、聖なる衣服を着るよう、主に指示されている。

『あなたはすべて心に知恵ある者、すなわち、わたしが知恵の霊を満たした者たちに語って、アロンの衣服を作らせ、アロンを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を受け取らなければならない。』(出エジプト記28:3-5)

この衣服は、人間の知恵や感性など”人間のわざ”によるものではなく、神の側から示された型どおりに創られたものでなければならない。
人間の知恵や感性など”人間のわざ”とは、神の御前には「汚れた衣類」のようなものである。(イザヤ64:6)
人が、いかに正しい行いをしようとも、いかに清くなろうとがんばっても、主の御前に”きよい”とされる事は無い、それら行いは、ただ汚れた衣のようである。
主が、その汚れた衣を脱がせて下さり、主が与えて下さる新しい衣を着せられる事によってのみ、清らかにされるのだ。

『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。』(ゼカリヤ3:1-4)

生まれつきの人間は汚れたものであり、主の御前に出る時、そうした人間的な知恵や感性などは脱ぎ捨てなければならない。
ちょうど、バルテマイがイエス様に呼び出された時、自分のそれまで大切にしてきた外套を脱いだように。

今や、私達キリスト者は、祭司として聖なる務めにあずかる者とされているのだ。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:5-6)

礼拝説教メッセージ音声:主の大庭に入る時は(出エジプト記27:1-21):右クリックで保存

幕屋の外門から庭に入る時、最初に目にするのが、祭壇である。
『あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。その四すみの上にその一部としてそれの角を造り、青銅で祭壇をおおわなければならない。また灰を取るつぼ、十能、鉢、肉叉、火皿を造り、その器はみな青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:1-3)

人が幕屋に来て真っ先にすべきは「捧げる事」であり、捧げ物なしに主の大庭に入ってはならない。(申命記16:16、詩篇96:8)
捧げ物には色々な種類があり、ある時は感謝のいけにえを、ある時は動物に自分の罪を移し、自分の身代わりとして動物を焼き尽くす事もあり、ある時は和解を喜びつつ焼いた肉を共に食べる事もある。(レビ記)

この祭壇はアカシヤ材の上に青銅が被されており、祭壇で使う諸々の道具も、皆、青銅で出来ている。
青銅はさばきを意味するが、礼拝とは、まず自分自身の罪をさばき、自分自身を捧げる所からである。
この祭壇では、人の罪の身代わりとして動物が捧げられたが、私達には、私達の身代わりとなって下さったキリストがおり、キリストの故に私達も大胆に主の御前に出る事が出来るのである。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)
ゆえに、イエス・キリスト無しに神の御前に行く事は、身代わりの犠牲無しに祭壇へ行く事であり、そうするならもはや自分自身が裁かれるより他に無い。

『あなたはまた幕屋の庭を造り、両側では庭のために長さ百キュビトの亜麻の撚糸のあげばりを設け、その一方に当てなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。また同じく北側のために、長さ百キュビトのあげばりを設けなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。』(出エジプト記27:9-11)

幕屋の庭は、亜麻の撚り糸で織った幕で外界と仕切られている。
それは5キュビト間隔で柱によって支えられ、柱は青銅の台座の上に立てられており、銀の留め金によってつなぎ合わされている。
つまり、幕の内側と外界とは亜麻の撚り糸で織った幕によって分離されており、それは「さばきの青銅」の上に支えられ、「贖いの銀」によってつなぎ合わされているわけである。

私達も「十字架」という「さばき」によって世から分離されている。
「十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
十字架のこちら側にいる私達キリスト者に対し、世は何もする事が出来ず、私達もまた、十字架のあちら側にいる世に対しては別様の者である、と理解すべきである。

『庭の長さは百キュビト、その幅は五十キュビト、その高さは五キュビトで、亜麻の撚糸の布を掛けめぐらし、その座を青銅にしなければならない。すべて幕屋に用いるもろもろの器、およびそのすべての釘、また庭のすべての釘は青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:18-19)
以上のように、庭の長さは44.5m、幅は22.25m。

内側と外側を区切る幕の高さは2.23mであるから、普通の身長の人は、外側から庭の中を見る事はできない。
ただ4m超のじゅごんの皮で覆われた聖所の建物が、亜麻の幕の上からとび出ているのが見えるような感じである。

この外庭の門にも、色々な色で刺繍が施されている。
「庭の門のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織った長さ二十キュビトのとばりを設けなければならない。その柱は四つ、その座も四つ。」(出エジプト記27:16)
つまり、この庭の門に入ろうとする時、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては入れず、出入りする際は、天を、王を、血潮を、清めを意識するようになっている。

「あなたはまたイスラエルの人々に命じて、オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のために持ってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない。アロンとその子たちとは、会見の幕屋の中のあかしの箱の前にある垂幕の外で、夕から朝まで主の前に、そのともし火を整えなければならない。これはイスラエルの人々の守るべき世々変らざる定めでなければならない。」(出エジプト記27:20-21)

これは、聖所に置かれる「燭台」を灯す油についての指示であり、主の御前で絶える事なくともしびを灯しておくように、永遠の定めとして命じられている。
私達もまた、この暗闇の世界を灯す世の光として、聖霊の油を絶やす事なく、いつも主の御前にともしびを灯しておくべきであり、また、賢い乙女たち(マタイ25章)のように、いつ主が迎えに来られても良いように、油の用意をしておくべきである。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest