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現在、葬儀司式奉仕のため静岡へ出張しております。
明朝の早天礼拝は、天声教会においては通常通り行いますが、明日の配信はお休みさせていただきます。
尚、ホームページでの礼拝音声アップはまだ為されておりませんが、後ほどいたしますので、しばしお待ち下さい。
永遠の衣に何を織り込むか(黙示録19:6-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
キリストにあって忠実な働き人だったある姉妹が、天に凱旋された。
彼女の生涯は、主の御前に尊い日々で綾なされていた。子供たちを、しっかりと神の働き人として育て上げ、子や孫からは福音のための働き人たちがおこされ、その働き人達を通して、多くのキリストにある霊的な神の子達が、彼女から産まれ出て、そのいのちは、今も産んで増えて地に満ちて行っている。
彼女のその生涯は、主の御前に尊く、美しい綾織り物のような生涯であり、今や、キリストの花嫁として、新しいからだが着せられ、天のまことの夫の懐で、世の諸々の煩いや病から解放され、安息を得ている。
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示19:8) 「衣」は聖徒たちの正しい行いである、と書いてあるからには、私達はこの地上で、日々の「正しい行い」をもって、天国で着るための「衣」を織っているようなものであろう。
私達はこの地上の一日一日の「行い」を、どのように正しくできるだろう。
どうしたら、天で着せて頂く永遠の衣を、より美しく完璧に仕立て上げる事が出来るだろうか。
それは、一言で言えば、主イエス・キリストと共に歩む事によって、である。
キリスト者として歩む人生は、決して平坦なものではない。キリストを信じている故の患難があり、迫害もあり、災いもある。私達もまた弱く、時に誘惑に負けて罪を犯してしまう事もある。
私達の力には限りがあるが、キリストには限り無き力があり、キリストと共に歩むなら、どんなに非道く、耐えがたいような困難でも、不思議と神からの力で守られ、平安の内に歩む事が出来るのだ。
ステパノは、常人ならばとても耐え切れないような迫害の中でも、聖なる平安の内にキリストを証した。
群衆は口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。そのような暴力的な混沌の中、ステパノは御使のような面向きで、殺意に満ちた群衆をキリストのように執り成し、祈り、美しい平和の内に天に凱旋した。(使徒7:54-60)
彼に微塵の絶望も憎しみも悲嘆も無く、世のものならぬ平安に満たされつつ、眠りにつけたのは、なぜか。
それは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)
世の中の人々、あるいは、呪われてしまった自然界が、殺意に燃えて私達を飲み込もうとする事があるかもしれない。そのような状況でもステパノのような平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
キリストの愛と守りは、生も死も超えている。死も、命も、御使いも、支配する者も、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできない。(ローマ8:39)
もし私達が地上で身勝手に歩み、主イエスを無視して日々を送るなら、その分だけそこがほころびとなり、いざ天に召された時、その部分は焼きつくされ、僅かにキリストと歩んだ部分しか残らない。(1コリ3:11-15)
キリストと共に歩み、キリストにあって何かを行う時、私達の人生という織物は、キリストにあって織りなされ、それは「聖徒の正しい行い」という清い衣として栄光の内に永遠に残されるのであり、そして多くの聖徒達によって紡がれた織物が完成する時、キリストの花嫁の光り輝く衣装が完成し、花嫁として迎えられるのだ。
今や彼女は、キリストの花嫁として迎え入れられ、目の涙をすっかりぬぐい取られ、全く新しいからだを着せられ、イエス様の懐に抱かれ、安息している。(黙示録21:1-7) そして彼女のように、天では多くの信仰の先人達が、私達の地上での歩みを応援し、執り成し、天の栄光ある御国へ入れられる日を待っている。
「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1-2)
今、地上に残されている私達も、信仰の先人達に続き、イエスから目を離さず、イエスと共に歩み、「正しい行い」という永遠の衣を、共に地上でしっかりと紡いでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:同じ羊から共に食べる(出エジプト記29:22-34):右クリックで保存
引き続き「任職の雄羊」について。
『あなたはまた、その雄羊の脂肪、脂尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓、その上の脂肪、および右のももを取らなければならない。これは任職の雄羊である。』(出エジプト記29:22)
雄羊のこれらの部分、および、主の御前にある三種のパンの一個ずつを、アロンとその子達が取り、それを主の御前に揺り動かして、焼いて捧げる。
この、揺り動かして捧げる「揺祭(wave offering)」は、ある説では前後左右の四方向に、ある説では前後方向に動かすと言われているが、いずれにせよ、水平方向に揺り動かすようである。
そうしてから祭壇の上で焼いて煙にし(火祭)、主の前に、なだめのかおりとする。(出エジプト記29:23-25)
これらは、主に対して捧げられるものである。
また、主に捧げた「任職の雄羊」のうち、胸の部分は、主の御前で揺り動かしてから、祭司の食物となる。ももの部分も同じように、祭司の食物となる。(出エジプト記29:26-28)
なお、「献納物」あるいは「奉納物」と訳されている捧げものは、垂直方向に神に向かって持ち上げて捧げるささげもの(heave offering)である。
このように、同じ羊の、ある部分は神のものとなり、ある部分は人のものとなる事によって、神と人とがおなじ羊から共に与り、それによって、神と人とが一つとなって交わるのである。
この雄羊の性質は当然、小羊なるイエス・キリストをあらわしている。
キリスト者は、キリストのからだである聖餐のパンに与るとき、同じパンから共に食べ、キリストの血である盃に与るとき、同じ盃から共に飲む。
それよって神と一つになり、共にキリストのひとつ体となり、神に仕える者、神の祭司とされるのである。
大祭司アロンの聖なる装束は、代が変わったら新しく作り直すものではなく、代々受け継がれるべきもので、任職の都度、血と油を注いで受け継がれていく。
大祭司である父親が、子に職務を受け継がせる時、それには七日間必要で、新しく任命される者は、七日の間、その特別な装束を着なければならない。(出エジプト記29:29-30)
祭壇で焼きつくす任職の雄羊の捧げ物は、主に対して捧げるのに対し、煮るものは祭司のものとなる。祭司はその肉を、かごのパンと一緒に食べなければならない。
そしてそれは、任職される祭司のみが食べて良い聖なるもので、他の人は食べてはならない。(出エジプト記29:31-34)
このように、祭司として聖別された者のみがあずかれる食物がある。
聖餐式のパンと盃は、身代わりとなって死んで下さったキリストにあって聖別された人のみが与ることのできる特別な食物である。
私達キリストは、主にあって、隠れた真の食物によって養われる特権が与えられたのである。
明日の第二礼拝後、私は葬儀の司式奉仕のため静岡へ出張し、月曜の夜に横浜へ帰って来ます。
月曜朝の早天礼拝は通常通り行いますが、月曜の配信はお休みさせていただきます。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
異言の賜物(1コリント14章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:手と足、そして耳に血を塗る(出エジプト記29:19-21):右クリックで保存
祭司の任職の際、三番目に捧げられる動物のいけにえが「任職の雄羊」である。
『あなたはまた雄羊の他の一頭を取り、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:19)
これも他のいけにえと同様、アロンとその子達が手を置き、彼らの罪をこの雄羊に移してほふる。
『そしてあなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子たちの右の耳たぶとにつけ、また彼らの右の手の親指と、右の足の親指とにつけ、その残りの血を祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。また祭壇の上の血および注ぎ油を取って、アロンとその衣服、およびその子たちと、その子たちの衣服とに注がなければならない。彼とその衣服、およびその子らと、その衣服とは聖別されるであろう。』(出エジプト記29:20-21)
なぜ動物の血が流され、その血がアロンとその子達につけられるのか。
それは、全てのものは血潮によって清められ、血が流される事によって罪は赦されるからである。(ヘブル9:22)
祭司は血塗られている事によって聖別され、清められ、主の御用ができる者とされているのだ。
この血潮は、祭司の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけられるが、それは何を意味するのだろうか。
まず、「右」は力と権威をあらわし(詩篇110篇)、名誉をあらわし(詩篇45:9)、誓いをあらわしている(イザヤ62:8)。
真っ先に血が塗られる部位は「耳」である。祭司の耳は、手や足以上に重要である。
なぜなら、祭司は主の御声を正確に聞くべきであり、また民をさばく時、民の訴えを正しく聞き分けなくてはならないからだ。
主が何より喜ばれるものは、焼きつくす捧げ物でも、最上の脂肪でもなく、「耳を傾け、聞き従う」事である。
『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。』(ヘブル10:5-6)
この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。
耳で聞く事は、からだで行うのと同等に大切な事である。
また、次のようにも書いてある。
『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
これ程までに耳は重要であり、聞き従う事こそ、主が喜ばれる事なのだ。
そして祭司は、手も、足も、血潮によって清められる必要がある。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、・・・
彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。』(イザヤ59:1-8)
上記の通り、「手」はわざを示し、「足」は行いを示すが、人は元々、手のわざも、足の行いも、汚れている。
だから、血潮で現れ、清められる必要があり、祭司は清められた上で主の命令どおり忠実に行う必要があるのだ。
私達もまた、神の祭司とされた。(1ペテロ2:9)
まず、耳に血潮を塗って清めていただき、そして、手も足も清めていただき、主のみわざを大いに行っていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:罪のいけにえと全焼のいけにえ(出エジプト記29:10-18):右クリックで保存
祭司の任職の際、捧げられる動物のいけにえには三種類あり、その中で真っ先に捧げられるのは、雄牛による「罪のためのいけにえ」である。
『あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:10)
手を置く、という行為は、その相手と一体化となって我にあるものを彼に移すものであり、これから祭司になろうとしている人達が動物に手を置く時、彼らの罪がその動物に移され、そして、その動物が罪のいけにえとしてほふられる時、祭司達の罪はその動物を通して罰される事になる。
働き人として召す時なども、手を置いて祈る「按手」を行う。(使徒13:3)
手を置くという事を意味もなくパフォーマンス的に行ったりする事をたまに見かけるが、パウロはテモテに、誰にでも軽々しく按手しないよう戒めている。
『軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。』(1テモテ5:22)
『そして会見の幕屋の入口で、主の前にその雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、指をもって、これを祭壇の角につけ、その残りの血を祭壇の基に注ぎかけなさい。』(出エジプト記29:11-12)
雄牛の血は、祭壇の角につけられ、その残りは祭壇の下に注ぎ尽くされた。同じように、イエス様も十字架で打たれ、十字架の下に血を注ぎ尽くされた。
『また、その内臓をおおうすべての脂肪と肝臓の小葉と、二つの腎臓と、その上の脂肪とを取って、これを祭壇の上で焼かなければならない。』(出エジプト記29:13)
内蔵やその脂肪は、外から見ることのできない「心」をあらわす。
イエス様が群集を憐れみの目で見られた時、岩波訳では次のように訳している。
「彼は群集を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人(まきびと)のない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである。」(マタイ9:36)
イエス様は十字架上で神に見捨てられ、心がずたずたに裂き尽くされ、その十字架上での叫びが天に登り、御父は、その深い信仰の故に祈りを聞き届けられたのである。(ヘブル5:7)
『ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼き捨てなければならない。これは罪祭である。』(出エジプト記29:14)
肉と皮など外見的に見える「からだ」は、外に出されてそこで焼かれた。
同じようにイエス様も、都の外に出され、そこで苦難を受けられた。
『なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。』(ヘブル13:11-14)
このように、罪のためのいけにえ(罪祭)は、人々の罪を一身に引き受け、血を流され、心は裂かれ、燃やし尽くされ、からだは都の外に出されて苦難を受けられた、主イエスキリストをあらわしている。
続いて、全焼のいけにえ(なだめのかおり)の雄羊についての、主の指示である。
『あなたはまた、かの雄羊の一頭を取り、そしてアロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:15)
これにも手を置いて、アロンとその子達と一体化される。
『あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。またその雄羊を切り裂き、その内臓と、その足とを洗って、これをその肉の切れ、および頭と共に置き、その雄羊をみな祭壇の上で焼かなければならない。これは主にささげる燔祭である。すなわち、これは香ばしいかおりであって、主にささげる火祭である。』(出エジプト記29:16-18)
全焼のいけにえの血は、祭壇の周囲に注がれ、解体された上で全部位が焼き尽くされた。
詩篇22篇には、そのようにされたイエス様の様子が預言的に記されている。
『わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。』(詩篇22:14-17)
イエス様は十字架で「わたしは渇く」と言われたほどに、焼き尽くされる経験をされた。
全焼のいけにえは、なだめのかおりとも呼ばれる。
ノアは洪水の後、祭壇で焼きつくす捧げ物をささげ、神はそのかおりをかいで宥められ、もはや地上に洪水を起こさないと誓われた。(創世記8章)
そしてイエス様の十字架上での祈りという「なだめのかおり」によって、神は完全に宥められた。
私達もまた、全身全霊をもって、自分自身を主に捧げるべきであるが、何より喜ばれるのは「聞きしがたう」事であり、それはどんな焼きつくす捧げ物よりも大切な事である。(1サムエル15:22-23、ヘブル10:5-7)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
思いを一つにして祈れ(エステル4章):右クリックで保存
祈り会:右クリックで保存
【概要】
本日のメッセージは、エステル記4章と第一テモテ2章に見る、困難な時に信仰を貫き、行動する勇気と断固たる決意についての御言葉です。神の導きの中で、自分の責任と使命を再認識し、互いのために祈り続ける大切さを学びます。
【聖書箇所】
・エステル記4章 (特に1節〜14節、15節以降の決意の部分を中心に)
・第一テモテ2章1節〜4節
【慰めの言葉】
苦しい状況の中で、神は常に私たちと共におられ、慰めと希望を与えてくださいます。私たちがどんなに孤独や絶望を感じても、主の御手は決して離れていません。
【励ましの言葉】
エステルが王宮という極限の環境の中で、民族の存亡を担う決断をされたように、私たち一人ひとりにも神の導きが備わっています。たとえ困難な状況に直面しても、主に信頼し、勇気を持って前に進むことが大切です。
【戒めの言葉】
私たちの行動は、時に周囲の運命を左右します。もし無関心や怠惰のままであれば、結果として多くの命や未来が危機に晒されることを、エステル記の中で神は私たちに警告されています。神の戒めに従い、私たちは自らの責任を深く自覚しなければなりません。
【勧めの言葉】
互いに励まし合い、心からの祈りに励む姿勢を持ち続けましょう。実際にエステルが、国のために、民族の救いのために、断食と祈りを求めたように、今この時代においても、私たちが立ち上がって祈ることが、平和と救いを招く大きな力となります。
【悔い改めの促しの言葉】
もし私たちが時に自らの行動において、神の意志に背く選択をしてしまったなら、心から悔い改め、神の御前に立ち帰ることが求められます。過去の失敗を悔い改め、清い心で未来に向かう決意を新たにしましょう。
【***詳細***】
今日、私たちはエステル記4章の物語に深く目を向けます。冒頭、モルデカイが王宮の門の前に出て、着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶって大声で嘆く姿が描かれています。<強調>「モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら…」</強調>この激しい行動は、ユダヤ人全体が直面した絶望と危機を象徴しています。自らの民族の存亡の危機に、モルデカイは自分の内に湧き上がる深い悲しみと、神への信頼、そして民への責任感を表現しました。
これを聞いたエステルは、ただの宮廷内での華やかな存在ではなく、その裏で民の声に耳を傾けなければならない役割を担っていることに気づきました。彼女は、王の宦官ハタクを呼び寄せ、<強調>「どういうわけか、また何のためか」と問いただすよう命じた</強調>その言葉に、私たちはただ美しいだけでなく、民のために命を捧げる覚悟が求められることを学びます。エステルは、自分が王の呼び出しを受けるという厳しい掟の中にありながらも、<強調>「たとえ法令に背いても、私は王のところへ参ります。私は死ななければならないのであれば、死にます。」</強調>という強い決意を持って、神の民としての自覚と使命を貫きました。
ここで、重要なのはエステルだけではありません。モルデカイの痛切なメッセージも、私たちに深い意味を刻み込んでいます。彼は「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びよう」と告げました。これは、一人ひとりの行動が民族全体の運命に大きく影響するという、重大な教訓です。私たちの日常生活においても、社会の中で、また家庭や職場で、私たちの選択や行動がどれほど大きな重みを持つかを決して軽視してはなりません。
さらに、エステル記の物語は、奇跡と神の摂理が重なり合っていることを示しています。エステルが王妃として選ばれた偶然、そしてモルデカイとエステルとの信頼関係、さらにはユダヤ人全体が断食と祈りで一つになった瞬間。これらは、決して偶然ではなく、神の導きによって用意された歴史の流れであると確信させられます。私たちの歩む道もまた、たとえ予期せぬ困難や試練があったとしても、神の導きの中にあり、その中でそれぞれの役割を果たすために送り出されているのです。
また、私がこの場で特に注意深くお伝えしたいのは、決して高い地位や権力に甘んじることなく、むしろ民の叫びに応え、必要とされる行動をとる覚悟を持つことの大切さです。エステルは、王の掟に反してでも民のために立ち上がる決意を示しました。これは、私たちにも当てはまることであり、立場や見た目に左右されず、真に神に忠実な者として日々選択していくことが求められています。
このメッセージは、2000年以上にわたり、神がアブラハムに与えた祝福の約束が現代に至るまで続いているという事実をも信じさせてくれます。たとえば、エステル記に描かれる危機や絶望は、一見、ただの歴史的事件のように見えますが、神の永遠の視点から見ると、ユダヤ民族が後の時代に大いなる国として再建された奇跡の一部であります。私たち個々の人生も、大小さまざまな試練や偶然が連なって、今日の自分を形成しています。だからこそ、どんなに小さな選択であっても、神の御心に反するものであってはならず、逆に、主の御前で確固たる決意をもって行動することが求められているのです。
そして、第一テモテ2章1節〜4節の御言葉にもあるように、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために、願い、祈り、執りなし、感謝が捧げられるようにしなさい」と勧められています。これは、私たちが日々祈りを通して自己を奮い立たせるだけでなく、周囲の者すべてが救われ、平安と安定を手に入れるための大切な働きであると示しています。私たちが互いに励まし合い、心を尽くして祈り続けることで、神は必ずや必要な助けと救いの手を差し伸べてくださいます。
この歴史的な物語が現代の私たちに示しているのは、「立ち上がる勇気」と「互いに祈り合う絆」の大切さです。もし私たちが、今日示されたような使命感を持って、内なる声に正面から向き合い、信仰の歩みを全うするならば、どんな困難な時も必ず救いの光が差し込むことでしょう。たとえ法律や人の掟が私たちを抑えようとする時、神の御前では私たちの正しい行動が明らかとなり、必ずや大きな祝福がもたらされます。
皆さん、どうか今日の聖書箇所に耳を傾け、エステルとモルデカイの勇敢な姿、そして第一テモテの教えにあるように「すべての人のために」祈るという実践を、日常に生かしていただきたいと思います。私自身も、エステル記のその決意に感銘を受け、例え自分が小さな存在であっても、神の御心に従い行動する決意を新たにしております。私たち一人ひとりの祈りが、やがてこの国や世界全体の平和と救いにつながると信じ、力強く励んでいきましょう。
【結論】
本日の御言葉は、エステルとモルデカイのように、どんな過酷な状況にも真実なる信仰によって立ち上がり、他者のために勇気をもって行動することの重要性を教えてくれます。そして、すべての人のために、王や高位の者のために絶え間なく祈るようにという第一テモテの勧めは、私たち一人ひとりに与えられた大切な使命です。どうか私たちも、神の御心に従い、互いに励まし合いながら、平和と救いのために歩みを進めていきましょう。イエス様のお名前によって、皆さんが祝福され、守られますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
3ヨハネ9-15:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祭司としての任職 - きよめ(出エジプト記29:1-9):右クリックで保存
29章は、祭司を任職する際の主の指示である。
『あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次の事を彼らにしなければならない。すなわち若い雄牛一頭と、きずのない雄羊二頭とを取り、また種入れぬパンと、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬせんべいとを取りなさい。これらは小麦粉で作らなければならない。そしてこれを一つのかごに入れ、そのかごに入れたまま、かの一頭の雄牛および二頭の雄羊と共に携えてこなければならない。』(出エジプト記29:1-3)
以上のものが、祭司の任職の際に用意すべきもので、雄牛は罪のためのいけにえとして、雄羊の一頭は全焼のいけにえによるなだめのかおりとして、もう一頭は「任職の雄羊」と呼ばれ、この肉やパンは聖なる食物として祭司が食べるものとなる。
祭司の任職において真っ先に行われる事は、水による清めである。次に、彼らに前章で示された通りの祭服を着させ、そして、任職の油が注がれる。(出エジプト記29:4-7)
そこから続いていけにえが捧げられたり、いけにえの血がつけられたりするが、これらは大祭司キリストが任職されるプロセスや、私達が祭司として任職されるプロセスをも、あらわしている。
「キリスト」とは元々「油注がれた者」という意味であり、油注がれる事は、特別な役割が神から与えられるしるしである。
また、油には聖霊の意味がある。(1サムエル16:13、1ヨハネ2:27)
イエス様は働きのはじめに、まず、水の洗い(バプテスマ)を受けられ、次に聖霊の油注ぎ(聖霊が鳩のように降り留まる)があり、父なる神によって「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」と、公に任職された。(マタイ3:14-17)
私達も祭司とされるためには、まず、清めが必要で、神から任職を受ける必要がある。
私達を清め、神からあかしされるものは、三つあり、そのうちの一つが「御霊(聖霊)」である。
『わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。』(テトス3:5-7)
そして、「血」もまた私達を罪から解放し、清めるため、祭司の任職に必要なものである。
『わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。』(黙示録1:5-6)
また、「御言葉の水」も私達を洗い清め、聖なるものとする。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)
『このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。あかしをするものが、三つある。』(1ヨハネ 5:6)御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。』(1ヨハネ 5:6-8)
これら三つによって私達はあかしされ、清められ、祭司とされるのである。