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幕屋の構成に隠された創世記から黙示録までの流れ(出エジプト記26:15-37)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-2-11 23:32
礼拝説教メッセージ音声:幕屋の構成に隠された創世記から黙示録までの流れ(出エジプト記26:15-37):右クリックで保存
今回の箇所は、幕屋の骨格となる立枠についての指示であるが、今や、私達キリスト者ひとりひとりがキリストのからだの各部分、各器官であり(1コリント12:27)、私達自身が神の宮であり(1コリント3:16-17)、主にあって最後まで忍耐し勝利する聖徒は「聖所の柱」とされる。(黙示録3:12)
故に幕屋の構成物ひとつひとつは、私達・キリスト者の予表である。
『あなたは幕屋のために、アカシヤ材で立枠を造らなければならない。枠の長さを十キュビト、枠の幅を一キュビト半とし、枠ごとに二つの柄を造って、かれとこれとを食い合わさせ、幕屋のすべての枠にこのようにしなければならない。』(出エジプト記26:15-17)
幕屋の骨組みは、この4.45mx66cmのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
この幕屋は縦10キュビト、横30キュビト、高さ10キュビトなので、ちょうど10キュビト四方の立方体を横に三つ合体させたような寸法の建物である。
台座として支えられる銀は贖いを意味し、幕屋を構成する立板は、二つ(証人の数)の銀によって地上から贖われ、神の宮のために建て上げられ、キリストのからだの一部分とされた私達を暗示する。
これらの立板は、横木によって、しっかり組み合わされ、結び合わされる。
『またアカシヤ材で横木を造らなければならない。すなわち幕屋のこの側の枠のために五つ、また幕屋のかの側の枠のために横木五つ、幕屋のうしろの西側の枠のために横木五つを造り、枠のまん中にある中央の横木は端から端まで通るようにしなければならない。そしてその枠を金でおおい、また横木を通すその環を金で造り、また、その横木を金でおおわなければならない。こうしてあなたは山で示された様式に従って幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記26:26-30)
キリストのからだも、多くの部分からなり、それぞれ横のつながりによって結合している。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)
31節以降は、聖所と至聖所とを分ける「幕」についての指示である。
『また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。』(出エジプト記26:31-33)
アダムとエバの堕落以降、人はエデンの園への道がケルビムと回る炎の剣によって遮られてしまったが、至聖所への道も、ケルビムの織物によって遮られている。
しかしキリストが十字架でさばかれた時、この幕は真っ二つに裂かれ、もはや聖所と至聖所を隔てる壁は打ち壊された。
『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:13-16)
「至聖所」には契約の箱が置かれ、その上に贖罪蓋がかぶせられており、ケルビムの織物によって隔てられた向こう側・聖所には、南側に燭台、北側にパンの机が向かい合わせで置かれている。そして聖所と外を隔てる出入り口には、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕が張られ、その幕のために、金をかぶせたアカシヤ材の柱が五本立てられ、それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造される。(出エジプト記26:34-37)
青銅はさばきを意味するが、つまり聖所の入り口は、まず神のさばきを経なくては入れず、また、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては、入れない。
さばきはイエス・キリストが身代わりとなって受けて下さり、私達は、天の王であられるキリストの血潮にあって白く清められ、大胆に聖所に入る事が出来る。(エペソ3:12)
この建物の最奥(西側)にある至聖所は、10キュビト四方の立方体である。
後のソロモンが建てた神殿の至聖所は、その二倍の20キュビト四方の立方体(列王記6:20)で、黙示録に現れる新エルサレムにいたっては、12000スタディオンの立方体(1スタディオン=185m、1辺が約2400km)であり、その中には神殿はなく、都そのものが、主の栄光と臨在に満ちた至聖所である。(黙示録21章)
黙示録で記されている神の都こそまことの神殿であり至聖所であり、山で示された幕屋や神殿は、その型である。
主のご計画が成就するごとに、隠されていた物事が徐々に露わにされて行き、全ての時が満ち、全てが成就した時、神の栄光は誰の目にも明らかなほど巨大に、公にあらわれるのである。
どの土地となるか(マタイ13:1-23)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
群衆がイエス様の所に大勢押しかけたので、イエス様は舟に乗り、岸にいる群衆に向かって口を開かれた。
群衆は、世の隠された秘密を解き明かすような話や、心打つ感動物語を期待していたかもしれないが、イエス様の口から出たのは、あまりに短く平坦でオチも無い話、種蒔きの話であった。(マタイ13:3-9)
多くの人が、イエス様の話は大した事ないな、噂ほどではなかったな、と思った事だろう。ところが、この種まきのたとえは、多くの預言者や義人達が聞きたいと切に願って来た、天の御国の奥義だったのである。
多くの群衆はそのたとえの真意を知る事無く帰っていったが、弟子たちはイエス様の所に来て、聞いたので、そのたとえの真意を教えていただく事ができた。
天の御国の奥義を知る事がゆるされている人とは、弟子達のようにイエス様の所に「来て」「聞く」人である。
イエス様に聞かぬは、永遠の恥。イエス様に求める姿勢、探す姿勢、叩く姿勢を持っている人は、さらに与えられて豊かになり、それらを持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまう。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(マタイ13:18-19)
イエス様が語られた「種」は御言葉で、それが蒔かれる土地は人をあらわし、そして人には四タイプある。
第一のタイプの人は、「道端」の人。道端は色々な人や獣が来ては過ぎ去り、地面は踏み固められている。
こういう人は、世の人やテレビ、ラジオ、ネットなど、世の情報の往来を見聞きしては思い巡らし、御国の言葉さえも膨大な情報の一つとして、心に植える事なく、聞いてもすぐにサタンがそれを持ち去ってしまう。
テレビやラジオ、インターネットなどの内容は良く覚えていても、語られた御言葉はさっぱり覚えていない、となると、道端の人となっている自分に気づくべきである。
アブラハムが礼拝の捧げ物に群がるハゲタカを追い払ったように、自分という土地は、余計な者の往来を規制し、つとめて余計な情報は入れず、霊的に必要な御言葉を受け入れる土壌を耕すべきである。
第二のタイプの人は、「岩地」の人。表面上は土があるので、種がよく育つだろうと思われがちで、事実、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、内面は固い岩がごろごろしていて、根を深く張る事が出来ない。
表面上は敬虔そうでも内面は頑なで、御言葉が張るのを頑として受け入れず、自分の心を貫く人である。
例えば、「互いに愛し合いなさい」という御言葉を喜んで聞きはしても、「あの人だけは絶対イヤ」と頑なに自分を貫く時、自分の中に存在する岩を取り扱う必要がある。努めて自らを清くに保ち、内側から主に喜ばれないものを取り除こうとする人に、主は石の心を取り除き、肉の心を与えて下さるが、忌み嫌われるべき心を自分の心として歩む者には、自分の行ないを自分の頭上に返されてしまう。(エゼキエル11:18-21)
第三のタイプの人は、「茨の地」の人。道端のような往来は無く、土の下に岩も無いが、「世の煩い」や「富の誘惑」といった「茨」を自分の中から生えさせ、それによって、御言葉のいのちを窒息させてしまうのだ。
御言葉を読んでも「将来どうなるだろう」「住宅ローンどうしよう」などと言った思い煩いで御言葉を上塗りする傾向のある人は、「茨」に養分を与え育てていると知るべきである。思い煩いは茨の冠となってイエス様の頭を刺し、あくまで茨を生えさせ続けるとやがて呪われ、ついには焼かれてしまう。(ヘブル6:7-8)
苦い根を出させないコツは、よく監督する事(ヘブル12:15)。思いをよく監督し、煩いを膨らませて茨に養分をやる事を止め、御言葉にこそ思い巡らし、御言葉のいのちにこそ水と養分を与え、育てるべきである。
第四のタイプの人は、「良い地」の人。その人は、世の情報の往来は規制され、頑なな心の岩も取り除かれ、茨もしっかり監督して規制され、主に耕された人であり、御言葉のために自らを耕す人である。
そういう人は、御言葉を喜んで受け入れ、芽を出し葉を茂らせ、花を咲かせ、豊かに命の実りをもたらす。
イサクは百倍の収穫を実らせたが、それは彼がアブラハムによって主に自らを捧げ、ペリシテ人に井戸を奪われてもそれを与える、自らをよく耕す人であったからだ。彼はアブラハムに捧げられ、「鍬(くわ)を当てられる経験」を通し、また、ペリシテ人という鍬をも通して、よく耕されたが故に、豊かな実りを見せたのだ。
多くの実を結ぶため、皆さんの土地からは悪しき者達の往来は規制し、内面にある頑なな岩は取り除き、よく監督して「思い煩い」という茨に栄養をやる事なく、主から耕される事をいとわず、よく耕された土地として、多くのいのちの実を結ぶ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
種まきのたとえ(マタイ13:1-13):右クリックで保存
祈り会1:右クリックで保存
祈り会2:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:幕屋の幕に見るキリスト者の性質(出エジプト記26:1-14):右クリックで保存
幕屋の幕は、四層から成る。
その最も内側、聖所に接している部分にあたるのが、ケルビムが織り込められた幕である。
『幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。』(出エジプト記26:1-3)
この幕は一つが12.46メートルx178センチ、それを五枚つなぎあわせたもの二組をさらにつなげて一つにするのであるから、テントとしては結構な大きさであり、それを荒野で組み立てたり分解したり、運搬したりするには、レビ人の特別な働きが必要である。
この幕の縁には、青いひもの輪と、金の輪と金の留め金を五十個つけ、それを互いにつなぎあわせて一つとしている。(出エジプト記26:4-6)
この、最も聖所に近い幕は、栄光化されたキリスト者の性質があらわれている。
天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、そして白い亜麻布(清められた聖徒:黙示録7:9)によって、神の御前に仕えるケルビムが織りつけられ、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合い、神の性質である金の輪で留められるのだ。
このケルビムが織り込められた幕の上から被せられるのが、やぎの毛の幕である。
『また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。』(出エジプト記26:7-8)
これはケルビムが織り込められた幕よりも若干大きく、一枚分多い。それは、天幕の前で折り重ね、余った部分を垂らす事によって、ケルビムが織り込められた幕を覆い、外界からは完全に隔離された形とするためである。
『そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。』(出エジプト記26:10-13)
やぎの毛の幕は白、すなわち清さの色であり、これをつなぎ合わせる留め金は、青銅によって作られている。
青銅は裁きを意味する事を学んだが、イエス・キリストが私達の身代わりとなってさばかれ、それによって私達の罪は清められた。キリストが裁かれたそのさばきによって、白く清められた私達は一致するのである。
このやぎの毛の幕の上から被せるものが、さらに二つある。
『天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。』(出エジプト記26:14)
雄羊の皮は、なめすと赤くなる。雄羊はほふられたキリストを(黙示録5章)、赤い色は、キリストがほふられた時に流された血を思わせる。
そして、最も外側を覆う皮がじゅごんの皮であり、幕屋を外見として見る時、それは巨大なじゅごんの皮が横たわったようなテントで、見栄えはあまり良いものではない。
「じゅごん」はヘブル語「タハシュ」で、色々な訳がなされている言葉で(あなぐま、いるか、あざらしなど。)いずれにせよ汚れた動物であり、皮の見栄えの良いものではないが、頑丈であり、外側を覆うものとして適したものである。
私達も律法上では異邦の民であり、世を渡り歩く汚れた者であったが、キリストにあって神に近い者とされた。
以上、幕屋の幕は四層からなるが、これを外側から内側へと行けば行くほど栄光に富んだものとなって行き、まさしく、私達キリスト者が、罪清められ、聖化され、栄化される有様が浮かび上がってくる。
私達は、以前は異邦人として汚れた者(じゅごん)であったが、ほふられた羊キリストの血(赤くなめした雄羊)によって清められ、白くされ(やぎの毛皮)、キリストが受けたさばき(青銅)によって一つとなり、そして、栄光のケルビムと共に、至聖所にて礼拝にあずかる者とされるのだ。(ケルビム織りの幕)
このケルビムが織り込められた幕は、外界からは完全に隔離されており、至聖所の栄光に直に触れている。
それは天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、白い亜麻布によって織りなされており、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合わされ、神の性質である金の輪で留めら、いつまでも至聖所の栄光の元にケルビムのように仕える。それが、栄光化されたキリスト者の性質である。
『ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』(エペソ2:11-13)
礼拝説教メッセージ音声:幕の内側 - パンの机と燭台(出エジプト記25:23-40):右クリックで保存
神を礼拝する場所「幕屋」とは、天幕によって仕切られた22.3mx44.5mの「大庭」と呼ばれる敷地内に、4.45mx13.35mからなる長方形のテントがあり、そのテントの中は二部屋に分かれ、入り口に近い方の長方形の部屋が「聖所」、その奥には、最も聖なる領域とされる「至聖所」と呼ばれる4.45m四方の部屋があり、聖所と至聖所は、幕によって仕切られている。
前回見た「契約の箱」は、この最も聖なる領域・至聖所に安置され、今回の箇所で見る「パンの机」と「燭台」は、聖所に置かれており、日毎の祭事に用いられるものである。
(聖所にはもう一つ、「香壇」が置かれるが、それは30章にて学ぶ。)
『あなたはまたアカシヤ材の机を造らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。』(出エジプト記25:23)
これが「供えのパンの机」の寸法で、センチメートルに直すと、長さ89cm、幅は44.5cm、高さは66.8cmである。
これにも金をかぶせ、4箇所に輪を付け、その輪に担ぎ棒を通して持ち運び可能なものとした。
『そして机の上には供えのパンを置いて、常にわたしの前にあるようにしなければならない。』(出エジプト記25:30)
この机には、常に、主の御前に十二のパンが供えられ、ひと重ねに六個ずつ、ふた重ねが置いており、おのおの重ねの上には乳香を置いて主の御前にささげている。
それは安息日ごとに整えられ、最終的にそれらはアロンとその子達の食べる分となる。(レビ記24:5-9)
現代、キリストにあって祭司とされた私達も、この幕屋の内に隠れた特別なパンにあずかる事が出来、主の働き人には、常にパンの養いを受ける保証がある。
『そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。』(ヨハネ6:32)
続いて燭台について、31-40節に記されている。
『また純金の燭台を造らなければならない。燭台は打物造りとし、その台、幹、萼、節、花を一つに連ならせなければならない。また六つの枝をそのわきから出させ、燭台の三つの枝をこの側から、燭台の三つの枝をかの側から出させなければならない。』(出エジプト記25:31-32)
つまり、一本の燭台を中心にして、右側に三本、左側に三本、真ん中を入れると合計7本が、それぞれ左右に弧を描くように枝分かれして、その全体は半円形のように見える燭台である。
この燭台には夕から朝まで、油を絶やす事なく、常時ともしびをともし続けなくてはならない。
『「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前に整えなければならない。』(レビ24:2-4)
この燭台は、アーモンドの花の形をした三つの”がく”が、それぞれ節と花をもって一つの枝にあるようになっている。(出エジプト記25:33)
アーモンドはヘブライ語でシャケデ、エレミヤ1章ではシャカデ(見張る)という言葉と掛けて使われており、黙示録では、この7つのともしびは全世界を見張る主の目でもある。(黙示録5:6)
また燭台は、世を主の光で照らす「教会」でもある。
『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。・・・あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:12-20)
幕屋の内側は、外界とは幕によって隔てられ、世からは区別された領域である。
現代を生きる私達も、イエスの血によってはばかる事なくキリストの肉体という幕の内に入る事が出来、私達はその幕の中で区別され、まことのパンの養いを受け、主のともしびの光にいつも照らされて、主のつとめを為すのである。
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民に敵対するハマンの性質(エステル記3:1-7):右クリックで保存
祈りと祝祷:右クリックで保存
【概要】
本日の説教は、エステル記3章1節から7節の御言葉を通して、神に忠実であらねばならない民の在り方と、悪の権勢に屈しない信仰の強さを学びます。モルデカイの譲らぬ姿勢は、どんな圧力や誘惑にも決して心を曲げず、神に従う者としての証しとなるものです。
【聖書箇所】
・エステル記 3章1節〜7節
・1サムエル記15章(アマレクに対する神の命令の記録)
・エステル記 5章12節、6章6節
・ヨハネの第一の手紙 3章8節
・箴言 19章19節
【戒めの言葉】
私たちは、権勢や世の風潮に流されることなく、神の御前では常に謙虚でいなければなりません。また、怒りや憎しみ、妬みといった悪魔の策略に心を奪われることがあってはならず、兄弟姉妹に対する不愛にも決して陥ってはなりません。
【慰めの言葉】
たとえ、神に従うために周囲からの圧力や反発にあう時であっても、主は決してあなたを見捨てません。神は忠実な民を守り、試練の中にあっても明けの明星のように希望と救いをもたらしてくださいます。
【励ましの言葉】
エステル記において、モルデカイはハマンの命令に屈することなく、神への忠誠を貫きました。同じように、私たちの歩みも時に困難な状況に直面するかもしれませんが、神の御言葉を守る者には必ず大きな祝福が用意されていると信じ、勇気をもって歩んでいきましょう。
【***詳細***】
本日の御言葉「エステル記」3章1節〜7節は、ペルシアのアハシュエロス王の治世の中で、権勢を握ったハマンという人物が、自己の虚栄心と憤りからユダヤ民族を根絶しようと企む様子を記録しています。ハマンは、王の側近として昇進し、王の家来たちにひれ伏すよう命じられましたが、ただ一人、ユダヤ人であるモルデカイは決してその命令に従いませんでした。「エステル記」3章に記されるこの出来事は、単なる政治的争いの物語に留まらず、神に従う民と悪魔の策略とが対立する霊的な戦いの象徴として読むことができます。
ハマンは、過去の歴史においてイスラエルの敵対民族であったアガグの子孫、すなわちアマレク人の末裔であり、その性質は古くからイスラエルに対して敵意を抱いていました。1サムエル記15章に記された神の命令――「アマレクを打ち、そのすべてを容赦してはならない」という厳命――は、神がイスラエルに対して持つ深い憎悪と、悪に対する断固たる態度を明確に示しています。私たちは、ハマンのように自己の利益や虚栄心に駆られて行動するのではなく、神が定められた御言葉に従い、悪に対抗する勇気ある信仰を持たなければなりません。
モルデカイの振る舞いは、現代に生きる私たちの模範となるものです。彼は、王の命令に背くことに対して「なぜ、王の命令に従わないのか」と尋ねられても、自身の信仰から妥協することなく、ユダヤ人であること、そして神に従う者であるという誇りを明確に示しました。このような姿勢は、私たちにとっても非常に大切な示唆を与えています。たとえ周囲が圧力を加え、時には迫害や嘲笑にさらされようとも、私たちが心に抱く神への忠誠と信仰は、必ずや最終的な勝利へと導いてくださいます。
また、この御言葉は私たちに、憤りや怒りという感情の危険性をも警告しています。エステル記では、ハマンはモルデカイの一言に激しい憤りを覚え、その怒りは彼の判断を曇らせ、やがて全ユダヤ人根絶という極悪非道な計画へと発展しました。私たちが日々の生活の中で、感情に流され堪えてはならないのは、まさにこのことです。聖書ヨハネの第一の手紙3章8節は、「罪を行う者は悪魔から出たものである」と教え、私たちが悪魔の策略に染まることのないよう、心を清めることの重要性を説いています。さらに、箴言19章19節にも「激しく憤る者は罰を免れない」と記され、私たちがいかに慎重に、そして謙虚な心で日々を過ごすべきかを改めて示しています。
神は、私たちが感情や欲望に任せ、自己中心的な行動に走るとき、必ずやその結果として試練や災いをもたらされると警告されています。しかし、同時に主は、忠実に御言葉に従う者、すなわち神の道を歩む者を、あらゆる災いから守り、最終的には栄光と祝福とで報いてくださいます。エステル記全体を通しても、最初は困難や試練に直面した民が、忠実に神に従った結果、神の偉大な救いを体験し、繁栄へと導かれるという歴史の真理が読み取れます。
また、私たちはイエス・キリストによって示された究極の愛の模範を見逃してはなりません。キリストは、ご自分の命をささげ、私たちのために死を取り払い、愛と赦しの道を開かれました。その愛は、たとえ周囲がいかに冷たく、攻撃的であっても、私たちに真の勝利と平和をもたらす光であるのです。私たちが互いに支え合い、兄弟姉妹を心から愛するその行動は、キリストの御業に参与し、悪に打ち勝つための揺るぎない信仰となります。
今日、私たちがこの御言葉を胸に刻むとき、内に秘めた憤りや無慈悲な心の閑かさを見直し、決して悪に染まることなく、すべての行いにおいて神の御意志を第一に求める決意を新たにする必要があります。私たちが、どんなに小さな心の隙間も悪魔に譲ることなく、日々の生活と礼拝の中で神に眼を向け、御言葉に従うならば、神は必ずやあなたを守り、その歩みに祝福と栄光を与えてくださいます。
【結論】
私たちは、エステル記に見るように、時の権勢や悪の影響を前にしても、神に忠実であらねばなりません。モルデカイの犠牲を通して示された信仰と勇気は、今日の私たちにも大いなる励ましです。感情の怒りや他者への憎しみを捨て、互いに愛し合い、神の御言葉に従うことで、必ずや勝利と祝福を得ることができると信じ、日々の歩みを堅く守り続けましょう。イエス・キリストの御名によって、私たちの信仰が輝き、永遠の光の中で歩むことができますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ヨハネ7-13:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:契約の箱に見るキリストのご性質(出エジプト記25:10-22):右クリックで保存
今回の箇所は、契約の板を入れるための箱(契約の箱、英語:ark)を造る際の指示であるが、この箱の性質は、イエス・キリストの性質である。
契約の箱は、アカシヤ材を元にして造られる。
アカシヤは砂漠地方に育つ木で、密度のある頑丈な木で、とげばっており、材木としてはあまり適した木ではないが、この木はイエス・キリストの人間性をあらわしている。
『彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。』(イザヤ53:2)
また、アカシヤ材は純金で覆われるが、純金は神の性質である。
つまり、イエスキリストの、神であり人としての二面性が、ここに示されているわけである。
この箱の四隅には、輪が取り付けられ、そこにさおを通し、日本の神輿のように担ぐ事によって持ち運びが可能となっている。(出エジプト記25:12)
そのようにするのは、持ち運びの便宜のためだけではない。この箱は神聖なものであり、神が示した手順によって扱わないならその人は死ぬ他に無く(1サムエル6:19、2サムエル6章)、そのような事の無いためである。
キリストは人として来られ、ヨハネもキリストをじっと見、手で触った。(1ヨハネ1:1)人としてのキリストは、そのように親しく私達と交われるお方であるが、キリストの神としての栄光の御姿を見た時、ヨハネは倒れて死人のようになってしまった。(黙示録1:17)
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方(1テモテ6:15-16)である。
『また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。』(出エジプト記25:17)
この「贖罪所」または贖罪蓋(ギリシア語:ヒラステリオン)は、律法の石板が人に直接触れないようにするための「覆い」である。
これもまた、贖いの衣であるキリストを表している。
キリストは、聖なる御言葉の剣が人に直接触れて死んでしまわないようにするための、神と人との間の覆いとなっておられるのだ。
『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖いの蓋、贖罪蓋)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)
姦淫の現場で捕らえられた女が、イエス様の前に引きずり出された時、イエス様は地面に指で書いておられたが(ヨハネ8章)、神の指で書かれた律法に従って人が裁かれるなら、誰しも、死ぬ他に無い。
その女も、彼女を訴えた者も、傍観して面白がっていた者も。
しかし、主イエスは全ての人の罪を覆い、ご自身を通して神と和解をするようにと、全ての人に促しておられるのだ。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(2コリント5:20)
礼拝説教メッセージ音声:幕屋についての詳細な指示(出エジプト記25:1-9):右クリックで保存
『すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。』(出エジプト記25:9)
25章以降、荒野の民の礼拝の中心である「幕屋」の建造と、それに関わる全ての用具を作るにあたっての主の指示が続く。
その内容は設計書や仕様書そのもので、建造物の材料や寸法から、個々の什器の形や色に至るまで、詳細に指示されている。
聖書通読を挑戦する人にとって、最初の山となりやすい所で、一体、この内容が私達に何の関係があるのか、と感じる事が多いかもしれない。
主はなぜ、幕屋についてそこまでの緻密な指示を出されたのか。
それは、これら幕屋の建造物や器物は「天の型」であり、人に天の有様を示すためである。
『彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。』(ヘブル8:5)
『このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。』(同9:23-24)
主は、これらの細やかな指示を、当てずっぽうにされたのではない。天にはまことの幕屋、まことの聖所があり、その模型を造らせるために指示されたのだ。
人が地上の幕屋を見る時、天の模型を見ているのであり、人が地上の幕屋で礼拝する時、天でのまことの礼拝の”型”を行なっているのである。
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。』(出エジプト記25:1-2)
地上の幕屋は、聖徒達の捧げ物が元となって、造られる。そしてその元は、エジプトから分捕ったものである。
同じように私達も、サタンが所有権を持っている世から分捕って神の国のものとし、それを主に捧げるべきである。
捧げ物をする際、心から進んで捧げる捧げ物をこそ、主は喜ばれる。
主はその捧げ物を豊かに用いられ、さらに感謝が捧げられるように、祝福を増し加えて下さる。しかし、嫌々ながら捧げるような捧げ物は、主は喜ばれない。
『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。』(2コリント9:6-8)
天のまことの幕屋でも、地上の聖徒の捧げ物が元となっているものがある。
人が地上で主のために為した事は、天において宝として積まれ、決して朽ちる事が無い。(マタイ6:20)
主にあって勝利を得る者は、神の聖所の柱とされ(黙示録3:12)、また、聖徒たちは神の子羊の花嫁なる「聖なる都」とされ、高価な色とりどりの宝石で飾られ(黙示録21章)、この花嫁が着せられる光り輝く麻布は、聖徒たちの正しい行ないである。(黙示録19:8)
天においては、神の幕屋が人とともにあり、神は人と共に永遠に住まわれるのである。(黙示録21章)
私達が地上の幕屋で主に仕える事は、天におけるまことの礼拝の前味わいをしているわけである。
どの法則に乗って生きるか(ローマ7:14-8:2)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
私達はキリストに似た者へ、清く聖なる者になりたいと願っているが、やっている事はハエのようで、汚い思いに吸い寄せられ、うるさく人に付きまとっては神経を逆撫でさせ、ペタッと汚い思いをくっつけたりする。
聖書に記されている為すべき事は分かっているのに、それができず、かえって、してはならぬ悪を行なってしまう。あたかも自分の中に二つの異なるものが住んでいて、その葛藤の内に、したくない事をしてしまう。
今日は、そうした葛藤から開放される方法を学びたい。
まず、私達はなぜハエのような汚れた行いをしてしまうのか。それは、私達の内に宿る罪の故である。
「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(ローマ7:17)
よく、わたしはサタンの末裔だとか、罪の申し子だとかの「偽り」を思い込まされている人はいるが、この節を良く読むと「罪≠私」であり、私とは別物なる”罪”という楔が、私に打ち込まれている原理を見出す。
罪は外来性のものであり、アダムとエバが自分の意思を用いて善悪の知識の木の実を取って食べ、神から離れ自分の善悪判断で生きる生き方を”選択”してしまった時、この楔が打ち込まれてしまったのだ。
皆さんに犬が噛み付いて、痛くて、のた打ち回っている時、「のたうち回る自分が悪い」と言って自分を打ち叩くだろうか?いや、犬を打ち叩くはずである。同様に、罪にのたうち回る自分を、滝に打たせても、冷水を浴びせても、その他あらゆる修行も、無意味である。打ち叩くべきは、自分ではなく、罪である。
この罪に対し、どう対処したら良いのだろうか。
キリスト者が葛藤する原因が、21−23節にある。この節で「原理」とか「律法」とか訳されている言葉は、皆、同じギリシヤ語「ノモス」という言葉で、「法則」という意味である。
これらの節の中から、3種類の法則を見出す。第一の法則は「神の法則」。しかし、からだの中に異なった第二の法則があって、「心の法則」(第三の法則)に戦いを挑み、「罪の法則」(第二の法則)のとりこにしている。これが葛藤の原因であり、これら三つの法則のせめぎあいのために、したい善が出来ないのだ。
つまり、事は頑張りとか人格とかの問題ではなく、法則の問題である。
同じ60kgの女性がいて、一方は人格者で、他方は悪人だとする。体重計に乗ると、人格者はボーナスで体重計が30kgを指し、悪人のほうはペナルティで90kgを指す、などという事は、ありうるだろうか?
そんな事は有り得ない。法則に反するからである。法則がそうなら、別の法則によって対処するものである。
パウロは、24節では自分はみじめだと叫んでいるのに、25節では喜びに溢れ感謝を叫んでいるのはなぜか?それは、対処方法を見出したからである。そう、対処方法があるのだ!私達にも。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この第四の法則”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
この世には重力の法則があり、それに縛られている限り人は地上から離れる事はできない。
ところが、ライト兄弟が飛行の法則を発見し、飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るようになった。
同じように、キリスト・イエスがいのちの御霊の法則を開放し、私達も罪から離れる事が出来るようになった。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?
それは、皆さんの継続的な選択の問題であり、肉によらず、霊によって歩み続ける選択によって、である。
欽定訳のローマ8:1を訳すと「こういうわけで、今や、<肉によらず霊によって歩み続ける>キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」となる。(ネストレの底本からは上記<カッコ部分>がなぜか削除されている。)
命の御霊の法則に乗り続けるには、肉によらず霊に従って歩み続ける事によって、である。
あらゆる場面において、罪に対して死んだ者であると「仕分け」し、キリスト・イエスにあって神に生きている者であると「仕分け」する事である。(ローマ6:11)
私達の死ぬべき体を、罪の支配や情欲に「委ねない」と選択し、死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ、自分の体を義の武器として神に捧げる事を、意思で決定するのである。(同12-13節)
私達はアダム以来、選択によって罪と死を取り入れてしまった。故に、選択によって、救われるのだ。
御言葉によって正しく仕分けし、霊に従って歩む事を選択し続け、いのちに歩む皆さんでありますように!