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主日礼拝

この宇宙の下で最も尊く大切なもの(1コリント13:13)

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English Service: When Jesus visits you(Luk19:1-10) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今月の聖句は、第一コリント13:13である。パウロは勧める。あなた方はより優れた賜物を熱心に求めなさい、しかしどんな賜物にまさる道がある、それは、愛である、と(1コリント12:31)。この宇宙の下で、最も尊く、大切なものが「愛」であり、これこそ、私達が真っ先に追求し、そして身につけなければならないものである。
 クリスチャンの中には、「すごい」と思えるような賜物を持っている人は、確かにいる。心に秘めた事や、将来を言い当てる「預言」の賜物を持つ人、あらゆる奥義や知識に通じているかのような人、あるいは、この人が祈るなら、山をも動かせるのではないか、と思えるような信仰の人など。あるいは、持っている物を全部、貧しい人達に分け与えるような人や、自分の体を焼かれるために渡す程の、すごい犠牲を払う人もいる。
 しかし、そうした「すごい賜物」を持っているからといって、必ずしも、神と人から評価されるわけではない。
書いてある。もし「愛」が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルであると(1節)。
このアララゾーとは、鬨の声を大声で叫ぶ際の擬音で、やかましく喚きちらす事である。つまり、たとえそうした「すごさ」を持っていたとしても、愛が無いなら、その「すごさ」が、逆に「やかましい」と厭われてしまう。
すごい奇跡が起きたね、でもそれが何? あなたはすごい信仰だね、だから何? わたしの渇いた人生に、それが一体何の足しになるの? と。たとえ、そういったすごさは無くとも、愛があるなら、人の心は動くのだ。
私達キリスト者は、なぜ、イエス様に心惹かれ、イエス様について行くようになっただろうか?それはイエス様が、私達を愛してくださったから、ではなかったか。しかも、十字架上で、ご自分のいのちを投げ出すまでの愛で。だから、私達キリスト者も、イエス様にならって、愛を追い求め、愛を振りまいていくべきなのだ。
 
 自分に愛があるか無いかは、4節以降を「逆」に読むと見えて来る。すなわち、愛が無い人は不寛容であり、不親切であり、よく人を妬む。愛が無い人は、自慢し、高慢になり、礼儀に反する事をする。愛が無い人は、自分の利益を求め、怒りに身を任せ、人がした悪をよく勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。
愛が無い人はがまんできず、信用せず、期待せず、耐え忍ばない。そういう人は、どんなに「すごい」事をしてみせたところで、やかましいシンバル、すぐにでも止めて欲しい「騒音」となってしまうのだ。
 パウロは言う。完全なものが現われたら、不完全なものは廃れる、と(10節)。つまり預言も、異言も、知識も、そうした賜物は、所詮は完全なものの一部分を映す鏡に過ぎない。パウロはさらに続ける。子どもの時は子どもとして話し、考え、論じた、と。つまり、「愛」と比べるなら、それらのものは「子供のたぐい」「鏡にぼんやり映るたぐい」なのだ。真に価値あるものは「愛」であり、愛そのものであられるイエス・キリストである。
 私達は、彼によって完全に知られており、彼にあって、ぼんやり鏡に写ったようなものを完全に知る事ができる(12節)。優れた賜物を熱心に求める事は、確かに重要ではあるが、愛が無いなら、何にもならない。
愛があってこそ、物事を完全に知り、物事をわきまえ、全ての賜物が、完全になるのだ。
 
 この宇宙、この三次元世界は、愛の実体であられるお方・イエスキリストの再臨と共に、巻き去られる。
その有限世界の下で最も価値あるものは、愛である。愛が目指すところは「いのち」であり、愛が最も言いたい事は「生きなさい」「存在しなさい」である。それが、愛なる神様が、私達に願っておられる事である。
 自分には愛が無い、どうしたら愛が自分から流れ出るようになるか、と思う人は、私達をはじめから愛してくださったイエス様を、神の御子と告白し、その愛の内に留まり続けているなら、自然と身についてくる(1ヨハネ4:7-21)。イエス様は、私達が生きるように、と、ご自身のいのちを差し出し、身代わりとなって下さった。
 それに対し、サタンは、愛を破壊する「善悪判断」へと誘い込み、愛のわざを、あたかも損得勘定の「損」と思わせ、愛のわざを、くだらないと思わせ、愛から離れるように仕向けて来る。そしてサタンの願うところは、「生きるな」「存在するな」である。私達はサタンのわざを踏みつけ、キリストの働きをするべきである。忘れてはならない。この世で最も価値あるものは、愛であり、世の富や地位は、何も永遠へと加えるものは無い。だから、愛によって子育てしている専業主婦のほうが、愛が無い高給取りよりは、はるかに値高いのだ。
 神の御子が十字架でいのちを投げ出す事は、究極的に無駄な事に思えるかもしれない。しかし、それによって神のこよなき愛が示された。イエス様の十字架こそ、この宇宙で最も価値のある愛のあらわれである。
 イエス様にならい、この限りある時間、限りある地上の命を、人を生かし、次世代を生かし、真理をつなげるために、いのちを燃やし尽くして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

いつまで手をこまねいているのか(ヨシュア記18章)

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働き人に必須のたしなみと、必ず頂ける報酬(2テモテ2:1-15)

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御霊の7つの現れ(ローマ8:1-2)

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七つの悪霊の性質と対処(エペソ6:10-18)

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主日礼拝

知恵と啓示の霊を、思慮分別の霊を、求めよ(ダニエル2:1-30)

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週報/メッセージ(説教)概要

 バビロンのネブカデネザル王は、かつてなかったような無茶な難題を、バビロンの知者へ突きつけた。
自分が見た夢を言い当て、その解き明かしをするようにと要求し、それができないなら、その人の手足を切り離して、その家を滅ぼし、ごみの山とする、と、言って来たのだ(1-6節)。人が見た夢の内容など、言い当てられられる訳が無いので、バビロンの知者達は、まず、夢の内容をお話しください、と返す(7節)。しかし王は、頑として言う。あなた方は時間を稼ごうとしている、もし出来ないなら、判決は同じだ、と。一方はあれを要求し、他方はこれを要求して、互いに話が噛み合わないまま、互いの感情だけが険悪になって行く…。
 そもそも王は、なぜこんな非常識な難題を押し付けて来たのか。それは、王は、夢を見て心が騒いだからであり(1,3節)、速やかにその解釈を知りたかったのだが、肝心の、自分の見た夢の内容を、覚えておらず、ただ、内容のインパクトが強かった、という事だけを覚えていて、眠れないまでになってしまっていたからだ。
 
 いつも王の近くに侍っていたバビロンの知者達は、普段から、呪文や神伺いなどを駆使して、何もかも解決できるかのように振る舞っていたので、王としては、彼らには夢の内容と解き明かしが言い当てられるだろう、と、思っていた。ところがバビロンの知者たちは、この期に及んで、そんな事ができる人は一人もいないし、そんな難問をつきつけてきた王は誰もいない、と返して、結局、今まで彼らが行ってきた事は「人間わざ」だったと自ら暴露した。それで王は大いに怒り狂い、バビロンの知者を全て滅ぼせ、と命じた(12節)。
 強硬に要求をゴリ押しして来る人は、自分の思い通りに動いてくれない相手を、短絡的に「無能」呼ばわりし、イライラする。もしその人が強権を持った上司であるなら、大いにやっかいだが、そのような相手に一番してはならない事は、自分の正論をそのままぶつけ、短絡的な解決方法を押し通す事である。そうしてしまうなら、大切なものを失ってしまう。大切な人間関係、積み上げた信頼、そして最悪、大切ないのちを。
 そういう場合に必要なものは「知恵と思慮」である。ダニエルは、自分を殺しに来た侍従長に「知恵と思慮」をもって応待したので、殺しに来た彼らの心をやわらげ、事の詳細を引き出す事に成功した(14節)。
 私達も知恵と思慮を身につけるなら、子育てや夫婦関係、友人や上司との関係において、失敗する事は無くなる。だから私達は、ワンダフルカウンセラーであられる主イエス様に求めるべきである。あなたが見るように見させて下さい、あなたが聞くように聞かせて下さい、あなたの知恵と啓示の霊を与え、思慮分別の霊を、わたしにも与えて下さい、と。 ダニエル達は、祈り求めた結果、与えられた(17-19節)。主は、知恵を求める人には、誰にでも、惜しげなく、咎めることなく、お与えになるお方である(ヤコブ1:5)。主は、人の心に隠れた事を解き明かし、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられるお方だ(20-23節)。
 
 ダニエルは、王の前に連れて来られた時、社会的身分は「ユダからの捕虜」であった(25節)。そうでありながら彼は、ネブカデネザル以上に、世界に神のわざをもたらす影響者となった。実際ダニエルは、3つの覇権国、合計4人の王の代を、生きて、栄えた(1:21)。人の世の地位と、神が授ける地位は、違うのだ。
 ダニエルは王に言った。あなたが求める秘密は、世のどんな知者も示す事はできないが、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、終わりの日に起こる事を王に示されたのです、と(27-29節)。ダニエルは王に、あなたは寝床で、この後何が起こるのかを思い巡らされました、と言い当てたが、なぜ、それができたのか。
 世のカウンセラーは、他人が寝床で思い巡らした内容など分からないが、ワンダフルカウンセラーである主は、全ての秘密も、問題の本質も、そして、それら全部の解決方法も、ご存知である。
 王は、夢の内容を思い出せなかったが、全ての人も同様に、自分の問題の原因を、思い出せない。
どうしてこんなに心が騒ぐのか、どうして皆、とんちんかんなアドバイスしかくれないのか、なんで皆、自分を奇人扱いするのか。人は、どうして自分自身の性質がこのように形成してしまったかを、思い出せない。
 このように、本人すら分からない心の思いと問題の本質は、知恵と啓示の霊と、思慮分別の霊によって味付けられた人こそ、真に、解決への糸口へと導く事ができる。だから私達・クリスチャンは、四六時中、ワンダフルカウンセラーであられるイエス様に祈り、求め、聞くべきである。イエス様と、いつもひっきりなしに交わって、共に歩んで行くなら、ダニエルのように、知恵と啓示の霊が与えられ、思慮分別の霊が与えられ、時代を支配し、神の国をもたらす者、栄える者とされて行くのだ。ワンダフルカウンセラーであるイエス様にいつも求め、御霊を得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

祈るときは(マタイ6:5-8)

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無いはずなのに満足する心と、有るはずなのに満足しない心(ヨハネ4:31-34)

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詩篇講解説教

私達の中の邪悪な性質を追い出して下さるイエス様(詩篇101篇)

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この詩篇は、ダビデによるもので、彼が「このように生きたい」「このように歩みたい」と表明し決心した詩である。
そして同時に、この詩篇は、ダビデの子孫として来られる王の王、イエス・キリストのご性質を、的確にあらわしている詩篇である。
 
詩篇101:1 わたしはいつくしみと公義について歌います。主よ、わたしはあなたにむかって歌います。
 
1節の、前半の「歌い」はシール、「声」で歌う意味で、後半の「歌い」はザーマル、指で弦楽器を弾く事や、歌う事を意味する。
 
何を、歌うのか。
それは、主の恵み(ヘセド)と、さばき(ミシュパト)を、である。
 
ミシュパトは、司法的に宣告された判決、さばきを意味するが、人は誰一人、主の裁きの前に立つ事はできない。
そこで、主の恵み(ヘセド:恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深さ)が必要なのだ。
 
 
父なる神様は、義であられ、罪ある者を罰さざるを得ない。
しかし恵み(ヘセド)深い神様は、そのヘセドのゆえに、御子イエス様を、私達に送ってくださった。
彼の贖いのゆえに、私達はイエス様にあって、父なる神様の前に進み出る事ができるようになった。
それで私達・キリスト者は、主のさばきを「喜び」「慰め」として受け止める事ができる。
それを、私達もダビデのように、歌うのである。
 
しかし、サタンとそれに同意する者は、主のさばきを恐れる悲しむ以外に無い。
だから、誰もが、キリストにあって救われる必要があるのだ。
 
 
詩篇101:2 わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家(ベイト)のうちを歩みます。
 
ダビデのように、「全き道」に、心を留める人は、主が来られる日を、今か、今かと、心待ちにする。
しかし、後ろ暗い事をしている人は、主に、来てほしくない、と思う。
 
ダビデ個人としては、彼は、全き道に心を留め、正しい心で、自分の家の中を歩もう、と、決心し、宣言した。
しかし残念ながら、ダビデは、全き道を歩まなかった。
彼は、彼の家の中で罪を犯し、また、彼の家に生まれた後の子孫も、罪の道を歩み始めてしまった。
 
しかし、だからといって私達は、「ダビデは”直き心をもって、わが家のうちを歩みます”などと言う資格はない」と、断罪することはできない。
 
ダビデはたしかに、罪を犯した。
犯したけれども、彼は、主の前に進み出て、赦しを願い、主に喜ばれる道を歩もうと、もがいた。
 
私達も、もがくべきである。
たとえ罪を犯したとしても。
主に喜ばれる道を歩もうと決心し、宣言し、もがきつつも努力し続けるべきなのだ。このいのちがある限りは。
 
 
ダビデは「全き道に心をとめる」と言ったが、どうしたら、全き道を歩めるか。
 
それは、主の前に歩む事によって、である。
 
創世記17:1  アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 
ここで主が宣言された通り、全能の神の「前(パニーム:面前)」を歩むなら、人は、全き者になれるのだ。
 
人はたとえ、罪の行いを全くせず、品行方正に歩んだ、としても、神と共に歩まないとするなら、彼は、全き者ではない。
人は、単体では、全き者にはなれない。
ただ、全能の神と共に歩む事によってこそ、全き者になれるのだ。
 
アブラハムは、86歳から99歳までの間、神様抜きで、13年歩んだ。
しかし、神様の憐れみが注がれて、神様のほうから彼にあらわれて、わたしと共に歩んで全き者となれ、と言って下さった。
 
ダビデもまた、自分の家の中で、罪を犯したが、彼はそれでも、罪を犯したままの自分を、そのまま主の御前へと持って行った。
罪を犯したからといって、神との歩みを止めなかった。
むしろ、犯したからこそ、その罪ある自分を何とかしてほしい、と主の御前に持って行き、あくまで神との歩みを止めなかった。
だから、彼は主に愛され、主の憐れみを受けたのだ。
 
ダビデは2節で言っている。
わたしは「直き(トム:完璧さ、純粋さ、シンプルさ)」心をもって、わが家のうちを歩みます、と。
 
つまり、主の前の純粋さ、シンプルな心をもって、主の前に歩む人を、こそ、主は憐れんでくださるのだ。
 
そういうわけでダビデは、「主よ来て下さい」、と、何のわだかまりなしに言えたのである。
 
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
彼は、彼自身の前から「ベリヤアル」を、すなわち、邪悪な者を自分の中に置かない、
むしろ自分は、背く者の行いを憎み、それをまとわりつかせない、と、決心し、表明した。
 
罪を犯したダビデが、よくもそんな事が言えるものだ、と、私達は言うことはできない。
私達にも、いつ罪を犯してもおかしくはない「罪のとげ」が刺さっているからだ。
 
私達も、日々、ダビデのように、罪をかなぐり捨てる事の表明をし、競争を耐え忍んで走っていくべきなのだ。
キリストとベリアルは、共生できないからだ。(2コリント6:15)
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
もし、キリストが私達のうちに住んでいない、キリストに住んで欲しい、と、願うなら、
ダビデのように、私達の内のベリヤアルを置かない、と宣言し、それを憎み、それが出ていくまで「イエスの御名によって出ていけ」と宣言し続けるべきである。
 
ヘブル12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 
 
詩篇101:4 ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません。
詩篇101:5 ひそかに、その隣り人をそしる者を/わたしは滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。
 
5節は、「そしる」という意味のラーシャンが、反復強調されている。
この、隣人をそしる性質、高ぶる目、高慢な性質は、サタンの性質である。
 
日本語訳では、ダビデはそのような「者」を滅ぼします、といっているように書かれてあるが、それでは、ダビデは恐怖政治をするつもりなのかというと、そういう事ではない。
原文には元々、「滅ぼし」の対象となる目的の語は無いので、ここはむしろ、わたしは「隣人へのそしり」を滅ぼします、という事だろう。
 
私達も、自分自身の中から、また、自分のグループの中から、サタンの性質を、滅ぼすべきである。
 
ダビデには、それは結局できなかったが、ダビデの子孫・イエス様は、真に、私達の中から、そのような性質を断ち切り、滅ぼしてくださる事が、おできになる方だ。
そしてゆくゆく、イエス様は、悪魔サタンそのものを、断ち滅ぼして下さる。
 
黙示録22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
黙示録22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
 
 
詩篇101:6 わたしは国のうちの「忠信な(アーマン)」者に好意を寄せ、わたしと共に住まわせます。全き道を歩む者はわたしに仕えるでしょう。
 
ここもまさに、イエス様のご性質が、そのまま歌われている。
アーマンは、アーメンの元となった語であるが、イエス様の元には、彼にアーメンする人達が来る。
そして彼に対して「アーマン(忠信)」な人達が、イエス様とともに住み、とこしえにイエス様に仕える事が、黙示録に書かれてある。
 
 
詩篇101:7 欺くことをする者は/わが家のうちに住むことができません。偽りを言う者はわが目の前に立つことができません。
 
イエス様も言っている。
 
啓示録22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
 
 
詩篇101:8 わたしは朝ごとに国の悪しき者を/ことごとく滅ぼし(ツァーマト)、不義を行う者をことごとく主の都から断ち除きます。
 
ダビデ個人としては、そのようにあろうと宣言した。
それを実行できるお方は、まことのダビデの子孫、イエス様お一人である。
私達はイエス様にあって、ダビデのように、日毎、主とともに歩み、全き者の道を歩んでいく者達である。
 
キリストとベリヤルは、共生できない。
だからもし、私達の中に、邪悪な性質がはびこる都度、それに「しょうがないや」と言って妥協したりしてはならない。
都度、ベリヤアルを追い出し、主の前に歩む努力をすべきだ。ダビデがしたように。
そのような日々こそ、主の面前を歩む道、まったき道だから。

全知識人に死刑宣告を発してしまう暴君のカウンセリング方法(ダニエル2:1-30)

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