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全てが虚しい?そうなる原因はこれ!(伝道者の書1:12-14) 2026/01/12 月 早天礼拝

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Ecc 1:12  伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。 
Ecc 1:13  私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。 
Ecc 1:14  私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。 


ソロモンは、この天の下で行われる一切のことについて、知恵を一心に尋ね探り出そうとした、と言っています。
つまり、天の下で、人が行うわざ、また被造物が行き着くさまを、よくよく観察して調べて、
論理的に導き出す、という事を、ソロモンはしたんですね。
けれども、その結果彼が得たのは
「これは人の子らが労苦するようにと神が与えた辛い仕事だ」、という結論でした。

みなさん、神様抜きで、キリスト抜きでこの世のありさまを観察するとき、
確かにこのソロモンの行き着く先に至ります。それは当然の結果です。
なぜならこの世のもの、この世のありさまは、過ぎ去るものであって、
全被造物は、アダムとエバの堕落によって、全てが滅びに向かっているからです。
呪われてしまっているからです。

皆さんは死体を見たことありますか。
人間の死体でも動物の死体でも。
それはやがて腐っていくものですね。
この世の有様は、人間の罪の行いの結果、死体となってしまったようなものです。
ですからこの世は、癌の末期的症状な、あるいはもう死体のように腐っていく、ただそれだけのものです。

皆さんは死体をじっくり調べて、死体の博士になって何の益があるでしょうね。
そんな博士号、いらないですね。
ソロモンはその死体の博士になったようなものなんです。
死体をじっと見て、やがて腐っていく。
外で死んだ場合は何日以内にウジが湧くとか、匂いはこれこれで、火で死んだ人はこれこれの匂い、水で死んだ人はこれこれの匂いとか、ソロモンはいわば、そういったことを同類な事を研究していたようなものです。
それはそれは、虚しくなりますよね。

これをじっと見て、これは人間の子らが労苦するように神が与えた辛い仕事だ、とソロモンは言いましたが、そうじゃありません。
神様が与えられた仕事は、そんな世のありさまを観察することじゃないんです。
神様が与えられた仕事は、ただイエス・キリストという命の主を一心に見つめて、これから離れないこと、です。

人々はこうイエス様に質問しました。
「私たちは、神のわざ(エルゴン:仕事)を行なうために、何をすべきでしょうか。」 
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざ(仕事)です。」 
ヨハネ6:28-29
 
神が遣わした者を信じること!
それが神のわざ(仕事)、本来の私達の仕事、です!
 
この、イエス様が定義された神の仕事は、絶対にむなしくなる事はありません。
 
ですから、人は何か世のありさまを観察して、それに対抗する手段を得て、、、と、そういったことによって救いを得ることはできないんです。
イエス様はただ熱心にイエスを一心に見つめること、これによってのみ、私達は救いを得られるのです。

だから、このソロモンのように、この世のありさま、滅んでいく人間、人間の愚かさ、狂気、、、
人間にはこれこれの罪のタイプがあるとか、カインの罪を犯す者とか、盗みを働く者、人を殺す者、
それぞれをじっくりと観察していても、このソロモンのようになっていくばかりで、全てが虚しくなるばかりです。
人間の愚かさ、罪の様、滅びゆく世界の有り様を観察し続けると、むしろ、救いが見えなくなってしまうんです。
 
私たちが一心に尋ね求めるべきは、決して滅びず、永遠のいのち、永遠の喜びの源であられる、イエス・キリスト。ただこのお方だけです。
するならば、この「全てが虚しい」という、このスパイラルから脱却することができます。


また、ソロモンは、伝道者の書の続く14節でこう言ってます。
Ecc 1:14  私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。 

聖書の他の箇所、伝道者の書以外の書では、「むなしい」ということばは、ここまで繰り返されていません。
この伝道者の書だけです、この虚しいという言葉が何回も何回も言われているのは。
それ以外の書、特に新約聖書の方では、積極的で希望に満ちた、虚しさの逆が満ち満ちているんですけども、その方はなぜここに行き着いたか。
 
それは彼が、神様を恐れず、神様を信じない事を続けたから。
御霊によってわきまえることができていなかったから、です。

14節の後半のところに「全てが虚しいことよ、風を追うようなものだ」と書いてあります。
この「風」という言葉、これはルアハという言葉で、要するに、神の霊、神の息吹、霊と訳すことができる言葉で、
 
英語のキングジェームズバージョンでは、こういうふうに書いてあります。
「全ては空虚で苛立たしい風だ」
あるいは
「全ては空虚で苛立たしい霊だ」
そういうふうに書いてあります。

肉である人間は、肉を超える事はできず、霊を理解する事はできません。
だから、風、すなわち霊が思いのままにする事は、ただ苛立たしいのです。
 
このジレンマを超えるには、どうしたらいいでしょうか?
答えは、イエス様にあって、新しく生まれる事です。

イエス様はおっしゃいました。
Joh 3:5  イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 
Joh 3:6  肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 
Joh 3:7  あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 
Joh 3:8  風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 

だから、全部の答えは、イエス様にあるのです。
イエス様を信じること、イエス様を見つめること、イエス様の十字架とともに、自分自身の肉は、死に明け渡し、霊にあって新しく生まれる事。
それによってこそ、これら全ては、乗り越えることができるのです。

 

主日礼拝

主のもとに帰れ(ルツ記1-2章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今日の御言葉 ルツ記1-2

 

1:1 さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。

1:2 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。

1:3 するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。

1:4 二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。

1:5 するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。

・・・

1:8 ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、【主】があなたたちに恵みを施してくださいますように。

1:9 また、【主】が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

・・・

1:15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」

1:16 ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です

1:17 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

1:18 ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。

・・・

2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった

2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。

・・・

2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。

2:9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」

2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」

2:11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています

2:12 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように

・・・

2:15 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない

2:16 それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」

2:17 こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。

私たちを買い戻す責任のある方イエス様 (ルツ記)

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【概要】

ルツ記を通して、買い戻しの権利のある方であるボアズと、イエス・キリストが私たちの救い主として買い戻してくださることの関係について語られている。モアブ出身の異邦人ルツが、イスラエルの神に出会い、信仰によってイエス様の系図に名を連ねるまでの物語を通して、私たちもイエス様の翼の下に避け所を求めるべきことが示されている。

【聖書箇所】

ルツ1-4章、ルツ3:9、マタイ1章

【慰めの言葉】

イエス様は私たちを買い戻す責任と権利のあるお方であり、その衣を広げて私たちを覆い、愛、憐れみ、許し、恵みの中で守ってくださいます。神様は皆さんを辛い思いにばかり合わせるお方ではありません。その全能者の翼の影に入ってきて、助けを求めてきたすべての民に対して開かれた神様です。

【励ましの言葉】

主の翼の影に隠され、その守りと愛の中で包まれることで、私たちは世に対し、サタンに対し、勝利者としての立ち位置を得ることができます。イエス様は皆さんのことをすっかり話を聞いておられます。皆さんが経験したあのこと、このこと、皆さんがイエス様の働きのゆえに費やした時間、労力、エネルギー、お金、またあらゆること、イエス様はすっかりと話を聞いておられます。

【勧めの言葉】

困難な状況にあるとき、イエス様に向かって「あなたは私の買い戻しの権利のあるお方です。どうぞあなたの御翼を広げて、このものを覆ってください」と求めましょう。へりくだってイエス様の足元にひれ伏すことが大切です。イエス様こそが皆さんにとっての真の買い戻しの権利のあるお方、皆さんの家を絶やさぬ責任のあるお方です。このお方に寄りすがるならば、主が皆さんの家を、事業を、仕事を、命を絶やさない責任のあるお方として祝福してくださいます。

【***詳細***】

今朝、恵みをいただく御言葉はルツ記です。はじめにルツ記3章9節を新共同訳で宣言いたします。

「お前は誰だとボアズが言うと、ルツは答えた。私はあなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(ルツ3:9)

アーメン。

今朝のお話はルツさんについてです。お祈りの中でよく「買い戻しの権利のあるお方」という言葉を使いますが、それはこのルツ記が元なんですね。

ルツはもともとイスラエルの民ではありませんでした。けれども、マタイ1章の系図を見ますと、イエス様のおばあちゃんにこのルツさんの名前が記されているんですね。

ルツはもともとモアブというところで生まれ育ちました。そこの神はケモシュという神なんですけども、ルツが生まれて、それから育っていくんですけども、お父さん、お母さんが身ごもって、赤ちゃんがお母さんのお腹がどんどんどんどん大きくなっていく。

それでいざ生まれたと思ったらですね、その生まれた赤ちゃん、どこにもいないんですね。なんでっていうふうに聞いてみたら、「私たちの神ケモシュがね、それを捧げられましたよ」っていうことを言われたりするんですね、お友達のお母さんが。

お母さんがお腹が大きくなっていっても、たまにそういうことをね、「あれ、赤ちゃん生まれたのにどこ行ったの」って。「私たちの神様がね、それをいただいたからだよ」ということを聞かされて、ちょっとなんか怖いって。

彼女がだんだん育っていくうちにですね、真相がわかってくるんですね。ケモシュの手の偶像があって、その手の上に赤ちゃんをですね、焼いて、それでケモシュの神に捧げるんですね。

そしてなんでそういうことするのって、ある時聞いたところ、「このケモシュの神様に赤ちゃんを捧げたら、あなたの願い事が何でも叶うんだよ」っていうことになったり、あるいはね、だんだん大人になるとですね、大人の事情がわかってきます。望まれない子供が生まれたりすることがあると、そのケモシュの神に捧げるということになったりですね。そういう世界の中でルツは生まれたんですね。

そんなある日、ルツのところにですね、縁談が持ちかけられます。その結婚相手は自分の国、モアブの国からじゃなくて、イスラエルの国から来たその旦那さんと結婚したらどうかっていうことで。それで縁談がまとまって結婚するんですけどもね。

ルツさんが結婚したところ、イスラエルの家系です。そして義理のお母さんになったナオミさんというね、女性、とても優しいですね。そしてイスラエルの神様はこういうお方なんだよと。私たちのこの人間を作り、全世界を作り、そして神様は命を大切にしてくださるお方です。神様の律法というのは、とても整然として、そして理にかなった、弱い人に優しい律法なのです。ルツはこの義理の母であるナオミを通して、この律法を学びました。そしてルツは思うんですね。「ああ、なんて素晴らしい神様だろうか。この神様のもとになったら、私はこの身を寄せてもいいな」と思ったんですね。

けれども、このナオミの一家は、なぜこの素晴らしい神様のもとを離れて、わざわざこんなモアブという地に来たんだろうか。パンがなかったからだよということは言われていたんですけども、しかし、この素晴らしい神様のもとを離れたこのナオミの一家、ナオミの旦那さんはエリメレクと言うんですけども、ルツにとっては義理のお父さんですね。やがて死んでしまいました。ナオミは未亡人になってしまった。それでルツの旦那さんもやがて死んでしまいました。ルツの義理の妹オルパの旦那さんも死んでしまって、義理の母ナオミも未亡人になり、また自分も未亡人になり、そして義理の妹も未亡人になってしまいました。

これは全能なる神様のもとを離れて、そして自分の求めるパンを求めて、神様のもとを離れて、そして神様抜きで生活していったからだということ、ナオミは薄々気づいていたんですけども、しかしナオミは妻の身であり、旦那さんのその主権には逆らえませんでした。それで生き残ったのは、このナオミとルツとオルパだけだったんですね。

それでナオミは自分の国に帰る決心をします。そして、この義理の娘たち、このルツとオルパ、彼女たちはまだ若い。そして自分の国イスラエルにおいては、このモアブという国については忌み嫌うべき民族だということを言われております。ですから、この娘たちをイスラエルに連れ帰っても、ちょっと見るに忍びない。むしろこの娘たちはまだ将来がある若者なんだから、このモアブの地において旦那さんと結婚して、そして家庭を築いていくのが幸せなんじゃないかと思い、そしてナオミは一人帰る決心をするんですね。

ナオミは言います。「あなた方はそれぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなた方が亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなた方に恵みを賜り、あなた方がそれぞれ夫の家で平和な暮らしができるように、主がしてくださいますように。」そう言って、この二人の義理の娘に口づけをしました。二人は声を上げて泣いて、「いいえ、私はあなたと一緒に行きます」と言うんですけども、しかしナオミは静かに言います。

「帰りなさい、娘たち。私をもっと辛い思いをさせないでください。私はもう年をとって結婚することはできません。もうあなたの夫になるような子供を産めるものではないし、また、たとえ子供を産んだとしても、あなたたちはその子供が大人に育つまで待つんですか。帰りなさい。もうそれは私をひどく苦しめるだけです。」そういうふうに言って口づけをしました。

それでオルパは泣きながら別れの口づきをして、そして帰っていったんですけども、しかしルツはこのお母さんの衣を掴んで離しませんでした。お母さんは言います。「ほら、あなたの義理の妹はもう帰っていったから、あなたも彼女に倣って、あなたの神、あなたの民のもとに帰りなさい。」と言うんですけども、しかしルツは言うんですね。

「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私に仕向けないでください。あなたの行かれるところに私も行きます。あなたの住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民。あなたの神は私の神です。」こういうふうに言って、もうすがって離れないんですね。「もしあなたから離れるようなことが、もし私が死を通してでも離れることがあれば、主が私を幾重にも罰してくださいますように。」そこまで言うんですね。

ナオミはもう、このルツの決心が固いのを見て、もうそれ以上何も言いませんでした。こうしてナオミとルツはイスラエルの地に帰りました。イスラエルのベツレヘム、そこがこのナオミの故郷だったんですけども、二人が旅してベツレヘムに着いた時、街中が騒ぐんですね。「まあ、ナオミではありませんか。ナオミが帰ってきた。旦那さんはどうしたの?」

ナオミは言います。「私のことはもうナオミと呼ばないでください。」ナオミという名前の意味は「快い」というヘブライ語の意味ですね。ヘブライ語では喜び、快いという意味ですけども、しかしナオミは、そういうふうな名前で呼ばれることは、もう本当に心に刺さるんです。「全能者が私を辛い思いをさせた。だから私のことをナオミではなくてマラと呼んでください。」このマラは「苦々しい」という意味です。「全能者が私をひどい苦しみ目に遭わせましたから、主の御手が私に下ったんです。主は私を卑しくして、そして辛い目に遭わせられました。」そういうふうにナオミは本当に辛い、苦い思いをして、イスラエルのベツレヘムに帰ってきたんですね。

けれども、このナオミには、このモアブで一緒になったルツがいたんですね。そしてこのルツは本当にお母さん思いです。悲しんで、もう立つこともできないような、そういう心のナオミに寄り添って、そしてとにかくこの義理のお母さんを食べさせてあげなくてはなりません。

それで、このイスラエルの風習で、この全能の神様の憐れみにすがって、落ち穂拾いというのをしていい、人の畑に入って落ちている落ち穂を拾って、それを未亡人とか孤児のために食べ物としていいという、そういう律法、それにすがって、このルツは「どうぞ畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方の後について、落ち穂を拾いたいのです」と言いました。するとナオミは「娘よ、行っておいで」と言いました。

ルツはとても心細いですね。異邦人の身、そして本当にイスラエルの人々はそれに対して、本当に素晴らしい神様を持っている。本当にこんな自分が人様の畑に入って、落ち穂を拾って、果たしてやっていけるんだろうか、みんなにいじめられないだろうか、そういう心配がありました。

けれども、彼女が図らずも、たまたま入った畑、そこはとても特別な、彼女にとって縁がある畑だったんですね。彼女からすれば、とにかくたまたま入った畑でした。けれども、神様は皆さんを辛い思いにばかり合わせるお方ではないんです。その全能者の翼の影に入ってきて、助けを求めてきたすべての民に対して開かれた神様です。皆さんもこの神様の翼のもとに助けを求めてきたならば、神様は皆さんを、図らずもかもしれません、たまたまかもしれません、でも本当に神様の導きに従って、そして神様のご計画に組み入れて、皆さんを素晴らしいところへと導いてくださるんですね。

この畑はボアズという人の畑でした。ボアズは図らずも、この義理のお母さん、ナオミの親類、エリメレクの親類であるボアズの畑だったんですね。ボアズさんは親類でした。そしてちょうど、ルツさんがこの畑の中で落ち穂を拾っておりました。人がこの麦畑で刈り取った大麦の畑で、刈り取った後に落ちた、もう人から見向きもされなくなった穂、それを一つ一つ見つけては拾い、見つけては拾い。お母さんのために、その人から捨てられた落ち穂を拾って、そしてお母さんを養わなくては、なんとか生き延びなくては。その思いで、全能者のイスラエルの神、主により頼んで入ってきたこのイスラエルの国の中で、本当に彼女はなんとかしてお母さんを養いたい、なんとかしてこの全能者の神様の保護にすがりたい、そういう思いで拾っておりました。

そこに、その畑の主人であるボアズがやってくるんですね。そしてそこにおいて、ボアズがこの畑で働いている人たち、従業員ですね、その一人一人に「主があなたと共におられますように」と、ボアズが一人一人従業員に、その祝福の挨拶をするんですね。その祝福の挨拶の声をかけられた従業員の方は、「主があなたを祝福されますように」という祝福の挨拶のやり取りがある、そういう畑だったんです。

ルツはこの畑の主人が来た。身が縮こまる思いだったかもしれません。顔を伏せて、なるべくこの異邦人の私、目立たないように落ち穂を拾っておりましたけれども、でも声が聞こえるんですね。「これは誰の娘か。」そこの従業員にこの主人は聞いて、そして刈る者たちは答えて言います。「あれはナオミと一緒にモアブの野から帰ってきたモアブの娘です。彼女は『どうぞ刈る人たちの後について、束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」

ルツさんは聞こえてきます。「ああ、モアブの娘だって言っちゃった。どうしよう。本当に恥ずかしい。」そういうふうに思っていたんですけども、しかし、彼女のところにその男性の声が聞こえるんですね。「娘さん」と、優しい声です。「娘さん、よく聞きなさい。他の畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、後について行きなさい。私は若者たちにあなたの邪魔をしてはならないときつく命じておきました。喉が渇いたら、水瓶のところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」そういうふうに声をかけられました。

ルツは顔を伏せて、地面にひれ伏して、「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか」と言います。ボアズは答えています。

「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主から豊かな報いがあるように。」

アーメン。なんて素晴らしい男性でしょうか。素晴らしい人ですね。皆さん、イエス様はこういう方です。イエス様は皆さんのことをすっかり話を聞いておられます。皆さんが経験したあのこと、このこと、皆さんがイエス様の働きのゆえに費やした時間、労力、エネルギー、お金、またあらゆること、イエス様はすっかりと話を聞いておられます。そして皆さんのためにわざと落ち穂を落としてくださるんです。皆さんのために、もう邪魔をしてはならないと、周りの者にきつく命じてくださるんです。イエス様は「水瓶のところに行って自由に飲みなさい」とボアズが言ったように、皆さんが渇いたなという時には豊かに惜しみなく水を、命の水をくださるのが皆さんの主イエス様です。アーメン。

こうしてルツはこのボアズの畑でずっと刈り入れの間、ここで落ち穂拾いをしました。それで落ち穂を拾い集めて帰ってくるんですけども、そのナオミが、そのルツが集めた落ち穂を見てびっくりするんですね。「あれ、あなた、それどうしたの? その畑のその主人が祝福されますように」とナオミが言うんですけども、それでルツは「私は今日、ボアズという名の方のところで落ち穂を拾い集めました」と言うと、ナオミは言うんですね。

「生きている者にも、死んだ者にも恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。その方は私たちの親類で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類の一人です。」それでルツに言いますね。「娘よ、あの方のところにいることは結構なことですね。他の畑でいじめられなくて済みます。」そして、このルツはその間ずっとこのボアズの畑に行って、ボアズの畑で落ち穂を拾い、そして持ち帰るという日々が続きました。

ある時、ナオミは言うんですね。「娘よ、あなたが幸せになるために、身の落ち着くところを探してあげなくてはならないでしょうか。ところで、あのボアズは私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方が打ち場で大麦をふるいに分けようとしております。あなたは体を洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下っていきなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝るところを見届けてから入っていき、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」

びっくりですね。その男性のところに夜行って、そしてその衣のところをめくって、そしてそこに入りなさいって言うんですね。けれども、ルツは「私におっしゃることは皆いたします」と言うんです。そうして彼女は身をきれいにして、体を洗って、油を塗って、晴れ着を着て、そして打ち場に下っていって、このナオミが言った通りのことをするんですね。

ボアズは、この大麦をふるいにかけて、いよいよお祭り騒ぎのような感じですね。そして、そこにおいて飲み食いをして、気持ちがよくなると、そこに積み重なってある麦の端に行って寝ました。刈り取ったばかりの麦、その束、青草の匂いがします。刈ったばかりの麦は甘い匂いがします。そこにおいて寝ました。

それを見届けたルツは、こっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝ます。そして夜中になって、その人はびっくりして起きております。一人の女性が自分の足のところで寝ているんですね。それで彼は言います。「あなたは誰か。」彼女は恐る恐る答えたでしょうね。こんなことをして、けれども、自分はこのお方と関係がある、関わりがある。彼は買い戻しの権利のある方です。彼女は勇気を振り絞って言うんですね。

「私はあなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」

もしかしたら拒絶されるのではないかという恐れもあったでしょう。けれども、ボアズから言われた言葉は「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたの後からの真実は先の真実に勝っています」というものでした。驚くべき言葉ですね。後からのこの真実、今したこと、これを真実だと言ってくださり、そして先にした真実よりも、もっと勝っていると言われたのです。

自分がこのナオミを決して離れなかった、イスラエルの神の中に入っていった、この真実よりも、もっと勝った真実だと言われました。なぜでしょうか。それは、誰彼かまわず男性の寝ているところに行くことではなく、この買い戻しのあるお方のところに来たからです。

あなたは買い戻しの権利のあるお方、律法に従ったことを要求したのですね。実はルツは、神様のお言葉ではこれこれこうです、あなたは律法では私を買い戻してくださる権利のあるお方ですから、ということを、それゆえに、だからどうかあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってくださいと要求したのです。これは御言葉に実は叶ったことだったんですね。

それでボアズは「あなた、主があなたを祝福されますように。あなたは真実です。あなたは貧しい者でも富む者でも、若い男たちの後を追わなかったからです」と言いました。結構な年が離れていたんでしょうね。ルツはまだ若いです。けれどもボアズはきっともっと年を取っていたんでしょう。それでも年を取っているにもかかわらず、御言葉通り、買い戻しの権利のあるところに来た。だからあなたは真実だと言われたのです。

「さあ、娘さん、恐れてはいけません。あなたの望むことを皆してあげましょう。この街の人々は、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。」でも、けれども、実はボアズは確かに買い戻しのある親類ではあるんですけど、しかし、もっと近い、もっと権利のある親類がいるんですね。ボアズは二番手です。ですから、その一番先の人のところに行って、それでその役割を果たすように、そのように手続きをします。もしその人がそれを断ったのであるならば、私があなたを買い戻してあげますよと言いました。「とにかく今晩はここで朝までおやすみなさい」と言って、彼女は朝まで彼の足のところで寝ました。

そしてまだ薄暗い頃、彼らは起き上がりました。彼は、打ち場に彼女が来たことを知られてはならないと思ったので、「あなたが着ている外套を持ってきて、それで服をこういうふうに掴みなさい」と言いました。ルツがこういうふうに外套を掴んでいるところに、ボアズは大麦を六杯測って、そこに入れて、そして彼女に「さあ行きなさい」というふうにしました。こういう風にして、彼女が来たことを誰にも悟られないように、むしろルツさんがもう朝からこういうふうに働いた良い女であるかのように、そういうふうにして彼女を返してあげました。

そうしてボアズさんはその朝、そのまま町の門のところに行きます。当時、その門のところがいろいろな行政を決めるところだったんですけども、そこにおいて、まず自分よりも近い親類、買い戻しの権利のある人を捕まえて、そして長老たちの前で「あなたがこのエリメレクの一家、ナオミさんのその旦那さんの家を絶やさない責任を果たしますか」と尋ねました。彼は果たすと言うんですけど、しかし「果たすんでしたら、じゃああの異邦人モアブの女ルツもあなたは娶らなくてはいけませんよ」と聞いたらですね、その人は自分の足の靴を脱いで、そしてボアズに渡して「あなたが権利者、権利を渡しますから、どうぞあなたがその権利を受け継いでください」と言いました。当時、その履物の靴を脱いで相手に渡すこと、これは権利を譲渡するという正式な手続きだったんですね。

こうしてボアズは正式に町の前で「私はこのエリメレクの一家の家を絶やさないように買います。そしてモアブの女ルツも自分のお嫁さんにします」と宣言しました。したらですね、町の人々がみんな祝福するんですね。「どうかあなたの家が栄えますように」と。そして、結婚が成立しました。

実際、このボアズの家、栄えていくんです。ボアズの子供、孫、ひ孫から、王様が、王族の家系が生まれるんです。ルツ記はダビデという名前で終わっておりますね。この家系からダビデが生まれた。本当にこの皆さんも、真のボアズであられるイエス様、このお方にすがるのであるならば、主が皆さんの家を絶やさぬ責任をあるお方としてくださいます。

皆さん、もしかしたら、皆さんの今の状況、今の家庭、今のその事業、それがもしかしたら絶えてしまいかねないような、そういう危機的な状況にある人は特にですね、皆さんも言うべきです。イエス様に向かって「あなたは私の買い戻しの権利のあるお方です。イエス様、あなたはこの家を、この事業を、この状況を絶やさない責任のあるお方です。私、どうぞあなたの御翼、あなたの衣を広げて、このものを覆ってください」というふうに求めるんです。

するならば、主は「あなたは真実だ。あなたのために手続きをしてあげるよ」とボアズのようにですね、言ってくださるんです。皆さん、イエス様こそが皆さんにとっての真の買い戻しの権利のあるお方、皆さんの家を絶やさぬ責任のあるお方、皆さんの子供を、皆さんの家族を絶やさぬ責任のあるお方、皆さんの事業を、皆さんの仕事を絶やさない責任のあるお方、買い戻しの責任と権利のあるお方がイエス様です。

このイエス様に寄りすがりましょう。これから祈る時においては、このイエス様、どうぞあなたの御翼を広げて私を覆ってください、このものを買い戻してくださいと祈りましょう。そうして皆さんを本当にこれから祝福して、皆さんのことを守り、生涯皆さんの事業、家庭を、また命を、絶やさぬ責任のあるお方として、このお方を迎え入れましょう。どうか、このお方にあって幸いである皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

ルツは異邦人モアブの出身でありながら、イスラエルの神の翼の下に避け所を求めました。神は、その翼の下に来る者を決して退けず、図らずもボアズとの出会いを与えられました。ボアズは、ルツのしたことをすっかり聞いており、彼女を親切に扱い、祝福しました。これは、イエス様が私たちのすべてを知っておられ、私たちのために豊かに備えてくださることの予表です。

イエス・キリストこそが私たちの真の買い戻しの権利者です。ルツがボアズに「あなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」と求めたように、私たちもイエス様に「あなたの御翼を広げて私を覆ってください」と求めるべきです。へりくだって信仰をもってイエス様に従うならば、ルツのように祝福され、栄光の家系に組み込まれます。私たちの出どころではなく、私たちの信仰が肝心要なのです。

また、ナオミがルツにイスラエルの神を伝えたように、私たちも他の人々にイエス・キリストを伝える使命があります。神の憐れみと導きは、どんな立場の者にも開かれており、その翼の下に避け所を求める者には豊かな報いがあります。イエス様は私たちの家を、事業を、仕事を、命を絶やさない責任のあるお方として、私たちを祝福してくださいます。

2026/01/08 木 真の戦い方とは(1列王記18:21-40) 早天礼拝

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18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
 18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが【主】の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
 18:23 彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
 18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
 
 
聖書の中でも名場面の1つである「エリヤとバアルの預言者との戦い」。それは、世にも不思議な戦い。
 
肉弾戦や兵器による戦いではなく、舌戦でも心理戦でもない。
人数は一切関係無い。なにしろこちらは一人、相手は850人。
対戦相手と対面すらしていない。
そしてこの世にも奇妙な戦いの決着方法は、ただそれぞれが、自分の神に呼ばわり、自分の神に動いてもらう、という戦いである。
これこそ、私達が、世に対し、サタンに対しての、決着方法である!(エペソ6:12-18)
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。』(エペソ6:12)
 
私達は、世と渡り合って行く時、肉弾戦に持ち込んではならない。
計略戦や、心理戦、人数戦にも、持ち込んではならない。
エリヤがもしそんな戦争に持ち込んでいたら、とてもかなわなかった。
 
エリヤがたった一人で、850人を相手に、あくどい王を、そして、神に対して反逆的な国家を相手に出来た理由は、そして勝利した理由は、
自分の神に呼ばわり、自分の神に動いてもらう、という戦いに持ち込んだから、に、ほかならない。
ダビデがゴリヤテと戦った時も、その方法だった。
ゴリヤテは、自分の神々にかけてダビデを呪ったが、ダビデはイスラエルの戦陣の神にあって立ち向かった。
 
もし私達も、自分の神に呼ばわり、自分の神に動いていただく戦いをするなら、必ずビクトリーとなる。
  
バアルの預言者達は、先にバアルを呼び出す事を始めたが、何をどう呼びかけても、何の答えもなかった。
彼らはついに、踊り回り始めるのだが、それでも答える者が何もいない。
朝からずっと見物していた人々は、きっとしびれを切らして来た事だろう。
 
 

 18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
 18:28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
 18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。

 
 
時間が朝から昼へと経過し、夕方まで経過したが、
エリヤのほうは、自分の神である主に祈り求めたような行動は、一切していない
なぜ?
「主に定められた時」ではなかったからだ。
身勝手な時に、身勝手な方法で、身勝手な熱心に基づいて行なう礼拝は、全く無駄なのだ。
 
バアルの預言者達は、叫び踊っていたばかりでなく、互いを刃物で傷つけ、血を流すまでになった。
何百人もの人々が踊り狂いながら、刃物で血を流し合う。
実に、派手なパフォーマンスで、なかなかの壮観だったろう。
人々は、今度こそもしかしたら、何か起こるのではないか、という気がしたかもしれない。
しかし、「何もおきない」という事実が厳然と残るのみで、人々のバアルに対する期待は失望に変わり、やがて怒りへと変わっていく。
 
世の中は、大人数、大金を動員して、派手なパフォーマンスをやって見せて、
彼らが「神」としているものを呼び求めるが、
しかし、私達が自分の神に呼ばわり、自分の神に動いてもらう、という戦いに持ち込んだからには、神様の時、神様のやり方を、たんたんとやっていれば良い。
 
そうこうしている内に、主が定められた「夕暮れの捧げ物」の時刻が近づき、そして、エリヤは動き出す。
 
壊れた祭壇(礼拝)の建て直し
 18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた【主】の祭壇を建て直した。
 
主の御名は今までずっと軽んじられっぱなしで、その時、主の祭壇は壊れたままだった。
祭壇も、主の家も、主へ捧げる礼拝の場である。生活を良い方に立て直したいのなら、まず、礼拝の立て直しから始めるべきである。
 
この点、ビクトリーはいまのところ、クリヤしているが、もし、
 
主を礼拝する「祭壇」が壊れたままなら、働いても働いても、なお暮らしは楽にならない状態、稼いでも、穴の空いた袋に溜め込もうとするようなものなのだ。(ハガイ1:4-8)
礼拝の立て直しをするなら、その時から主が動いて下さり、実生活の立て直しが始まる。
もし、礼拝が壊されたまま放置しているなら、
どんなに血を流すほどの熱心があっても、バアルの踊りと同じで、何も起きない
 
自分は何にしたがって、この事を行っているか、というあかし
 18:31 エリヤは、【主】がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
 
十二の石を取る事は、モーセも、ヨシュアも行なった。(出エジプト記24:4,ヨシュア記4章)
これは、イスラエルの神、主あって為している事の「あかし」として行なっているのだ。
私達も、どなたを神としているのか、その所在を明らかにしておく必要がある。
一体、今、どなたを礼拝しているのか。「どの神」にあって、今、この事を行っているのかを。
 
犠牲と、主への信頼
 18:32 その石で彼は【主】の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
 18:33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
 18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ」と命じた。ついで「それを二度せよ」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ」と言ったので、彼らは三度そうした。
 
雨が降らない時期の水は、とても貴重であるが、エリヤは、それを主の祭壇に注げ、と、人々に言う。
水を注いだら、火がつくのがもっと困難になってしまうばかりでなく、貴重なものを注ぐわけだから、ちょっとやそっとの覚悟では出来ないが、人々はそれをした。
エリヤはさらに、それを2度せよ、3度せよ、と言った。
こうして、イスラエル部族の数と同じ、合計十二杯の水が祭壇に注がれた。
 
全く、バアルの預言者とは違った方法だ。
バアルの預言者達は、朝から熱心に騒ぎ立てながら祈ったのに、エリヤは、定められた時が近づくまで行動を起こさなかった。
バアルの預言者達は、派手なパフォーマンスをして人々にエンターテイメント性を感じさせる事を行なったのに対し、エリヤは人々を楽しませる事は一切せず、むしろ、貴重な水を主の祭壇に注がるという「捧げもの」をさせた。
礼拝とは、人間のエンターテイメントではない。人がサービスを受けるものではない。
礼拝とはサーヴィス、すなわち、仕える事や捧げる事を意味するものであり、主をエンターテインさせる(喜ばせる、もてなす)事である。
 
このように、人の側が主を敬い、主に捧げる行動をとる時、主は事を行われる。
 
たった一言の祈りで事を終わらせたエリヤ
バアルの預言者達は、朝から踊ったり血を流し合ったりしてまで、何百の口が、何百回とバアルを呼び求めたのに、何も答える者は無かった。
それに対し、エリヤは、たった一回の祈りで、事を終わらせる。
 
 

 18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。
 18:37 私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
 18:38 すると、【主】の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。

 
 
主こそ生きておられ、力強き神である事が証明された瞬間だ。
主に定められた時、主の御名を置いた祭壇を築き直し、主に呼ばわって祈った。
主の御旨に適った時、方法、言葉で祈るなら、
主は一発でその祈りを聞かれるが、
主の御旨に叶っていないものは、何度祈っても、踊り狂って血を流しても、無意味なのだ。
 
『民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。
 
エリヤが祈った結果、天から火が降ってきて、主の前に置かれたいけにえだけでなく、水さえもその火は焼きつくしてしまった。
これ以上、主が生きておられる事の明確なしるしはない。
これを見、また聞いておきながら、主に立ち返らず、心頑なにするなら、そのような者は、もう救いようがない。
 

 

久しぶりにエポデ(祈り、御言葉)を活用して大勝利したダビデ(1サムエル記30章)

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 30:7 ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。
 30:8 ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
 
 
今夜は、ダビデのおはなしです。
ダビデは、ユダヤ人の間では今も一番尊敬されている偉大な王ですが、
そんな彼でも、心が弱くなって、神様の方法ではなく、世の中の方法に頼ろうとした時がありました。
今回の箇所は、彼が、自分の主君であるサウル王を恐れて、神の国であるイスラエルを離れて、ペリシテに逃れて行った時でした。
 
彼は、ペリシテの王アキシュに取り入るために、ウソと暴虐の日々を過ごしていました。
アビメレクには、ユダヤのどこどこを襲って分捕りました。。。
しかし実際は、ユダヤではない別のところを襲って分捕りをして、そして襲われた町の人がアキシュに告げ口されないようにするために、その町の人は皆殺しにしてしまいました。
ダビデはペリシテにいる間、そのようにしていました。
 
神の国から離れた世界は、このように、ウソをついたり、力づくで黙らせたり、という事でのし上がっていく、弱肉強食の世界です。
そして、いつ、自分もそれにやられてしまうか、わからない世界です。
 
――私たちにも、こういう瞬間があります。
怖くて、神様に祈って頼りよりも、先に、“計算”で動いてしまいます。
信仰よりも先に、現実的に手段が見える、“安全策”を握ってしまうのです。
 
その場はしのげるかもしれません。
けれど、いつも平安がなく、そしてそこでやりくりして行けば行くほど、心が汚れ、手も汚れ、罪を重ねて行ってしまうものです。
そして、ある日突然、「刈り取り」が来てしまうのです。
 
ダビデとその部下たちが、三日ぶりにチクラグへ帰った時、彼らが見たのは、
自分たちの町が火に包まれていて、黒く焼けた家いえでした。
そこにいったはずの妻も、息子も娘も、一人もいません。
今まで積み上げてきたものが、まるごと消えていて、灰になっている。
 
…想像してください。
家に帰ってきたら、安息できるはずの家が、灰になっているのです。
そこには、抱きしめたい妻が、子供がいない。
名前を呼んで回っても、一切、返事がないのです。
 
その瞬間、ダビデたちは、声をあげて泣きました。
泣きすぎて、泣く力さえなくなるまで。
“涙が枯れる”って、本当にあるんです。
悲しみが深すぎると、人は泣けなくなる。
 
そして泣きつかれた彼らに、次に襲ってきたのは、怒りでした。
「これは、誰のせいだ」 「誰が責任を取るんだ」
部下たちの目が、ダビデを刺します。
「ダビデのせいだ」 「ダビデがこう導いたんだ」 「石で撃とう」
 
本当に、リーダーには、この手の孤独は、つきものです。
部下たちを生かすために、考えて、選択して、守り養ってきた。
どんなに危険な中でも、先頭を切って進んで行った。
けれども、一度でも崩れたら、“全部あなたのせいだ!” という事にされる。
 
家族や職場を守る立場の人は、この葛藤を知っているはずです。
ダビデは、非常に悩みました。
妻子を失った彼自身の痛みの上に、仲間に殺されかける恐れまで重なりました。
 
でも、ここで物語の方向が変わるんです。
たった一行で。
 
「しかしダビデは、その神、主によって自分を力づけた。」
“しかし”。
この「しかし」が、V字回復の起点です。
ダビデは、ようやく思い出します。
いままで、自分の計算で逃げてきた。神様への信頼を一切働かせずに、世の方法で生きた。
その結果、ここまで来てしまった。
でも――戻れる。
主に向かえば、その瞬間から、話は変わる。
 
ダビデは、久しぶりに、この言葉を口にします。
「エポデを持って来なさい。」
これは、彼が“王座”を降りた合図です。
 
「もう自分の勘で決めない」 「もう自分の計算で押し切らない」 「ただ、主に伺おう」
エポデとは何でしょうか。それは、神様の御心をうかがうための、祭司の道具です。
私達も、いつも、エポデを持っています。
私たちにとってのエポデは、御言葉であり、祈りです。
 
ダビデは震える声で聞きます。
「追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
主の答えは、あまりにも明確です。
「追いなさい。必ず追いつく。確かに救い出す。」
 
……ここに、神の恵みがあります。
しばらく主を忘れて、身勝手に動いて、自業自得の窮地に陥った人の祈りに、
主はなお答えてくださる。
「もう遅い」とは言われない。
「おまえの責任だ」と突き放さない。
“今ここから”始めよう、と言ってくださるのが、主です。
 
 
それで、彼らは進みました。
でも、みんなとても疲れています。
遠い旅路から帰ってきてみたら、家が焼かれていて妻子がいなくて、一日中泣きつかれた後でした。
そんな、疲れ果てた中、ただ、神様のおことばだけを握りしめての出発でした。
 
途中、川がありました、600人で出かけた中、200人が疲れ果てて渡れません。
それでも、残る400人は進みました。
行き先が見えなくても、“神様のお言葉”が背中を押すからです。
そして、主の助けは意外な形で現れます。
主が遣わした助け手は、なんと、野に倒れている、行き倒れのエジプト人でした。
 
彼らとしては一刻の猶予もないはずでしたが、でも彼らは彼を助けました。
ここが、ダビデが、偉大だ王である所以です。
貴重なパンを与え、水を飲ませました。
 
実は、その小さな憐れみによって、道が開いたのです。
捨てられた奴隷だった彼が、略奪隊への“案内人”になったのです。
 
主は、日常の中に「盗人のように」現れ、
小さな出来事を、大きな転換点へと、変えられます。
そうして彼らは、自分たちの家を襲った、略奪隊のもとに到着しました。
 
彼らが到着したとき、略奪帯はちょうど武装を解いて、飲み食いして、踊っている有り様でした。
そこでダビデたちは、彼らに戦いを仕掛けます。
タイミングとしては、うってつけのタイミングでした。
私達の主は、時間を支配し、空間を支配しておられる主です!
 
ダビデは夕暮れから翌日の夕方まで撃ち続け、
奪われたものをすべて取り戻します。
彼らの妻も、子どもも、財産も――何一つ失わないで、全部、分捕り返したのです!
 
ここで私たちが受け取るべきメッセージは、これです。
 
私達も、神様ぬきで消耗してきた、「ペリシテの地」があったかもしれません。
大切なものを分捕っていった、アマレクが、みなさんにもいたかもしれません。
 
もし、みなさんが、神様への信頼ぬきで、自分の計算だけで動き、魂が擦り減ってきたなら。
ダビデのように、祈りのエポデを持ってきてください。
ダビデがエポデを持ってきなさい、と凛々しく言いました。
私達も、信仰において凛々しさを取り戻しましょう。
 
主は、今も答えてくださいます。
「追いなさい。必ず追いつく。確かに救い出す。」
サタンに奪われたものを、
キリストにある者が奪われっぱなしでいいはずがない。
 
ダビデのように、主にあって奮い立ち、
主の言葉に従って進み、回復を得ていく皆さんでありますように。

イエス様に捧げられたわずかなお弁当が五千人以上と働き人を養う(マルコ 6:30-43)

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Mar 6:41  するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。 
Mar 6:42  人々はみな、食べて満腹した。 
Mar 6:43  そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。 
Mar 6:44  パンを食べたのは、男が五千人であった。 
 
有名な、5つのパンと2匹の魚で、五千人を養った箇所。
その場面は、実は、何もミニストリーをしようと思ってそれをやったのではありません。
イエス様が、働き詰めのお弟子さんたちを、休ませようとして、辺鄙なところに行ったところでした。
 
だからイエスは言われました。
「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」
 
この一言には、深い優しさがあります。
主は、働き人の疲れを見ておられます。
 
それで弟子たちは、舟を出して、「やっと休める」と思ったでしょう。
 
けれども、いざ、むこう岸が近づいてくると、、、
人が走ってくるのが見えます。
方々の町々から、徒歩で駆けつけてくる。
かれらは、舟の行き先を見抜いて、先回りして、もうそこにいたのでした。
 
弟子たちは思ったことでしょう。
「…またか。」 「もう勘弁してよ」
 
牧師や伝道師は、いつ急患が来るのは避けられないお医者さんと同じように、ケアしなくてはならない人々が突然あらわれるものです。
でもですね、そんな時は、バカンスを取り上げられたのではありません。
 
イエスさまは、舟から上がられると、群衆をご覧になると。
「羊飼いのいない羊のようである」と深くあわれまれた、と書いてあります。
 
霊的に困窮している人を満腹させてあげる事は、バカンスとか観光にはるかに勝る満足が与えられるものです。
これこそが、イエス様にとって、そして主の働き人にとって、人々には知られない「食物」です。
 
 6:35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。
 6:36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
 
**ポイント**
弟子たちは、常識で考えました。
車も商業施設も無いあの時代、こんな辺鄙な場所に、こんなに大勢の群衆がおなかを空かせているのは、行き倒れの人が、大量にでてきそうな、危険な状態。
けれどもですね、ここで、突然、イエス様の無茶振りが来るんです。
 6:37a すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
 
真代先生、5千人を眼の前にして、川合先生からいきなり、「あなたが、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われたら、どうしますか?
そう、弟子たちは凍ったと思います。
 
 
6:37b そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
 
**この場面の詳細**
Joh 6:5  イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 
Joh 6:6  もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。 
 
**ポイント**
・イエス様は、「どこから」という質問した。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 
・買う:アゴラゾー。市場に行く、というのが原意で、そこから、買う、贖う、という意味になった。
・イエス様は、どこから、人々のパンの問題やあらゆる問題からの贖いや救いが来るか、をご存知だったが、主は、あえて、このような状況下で、主の働き人をためし、そして、それらは天の父なる神から来るのだ、と教えられる。
 
 
Joh 6:7  ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 
Joh 6:8  弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。 
Joh 6:9  「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
 
**ポイント**
・ピリポは、イエス様の「どこから」に対し、金銭的な「いくら」で考えた。論理的に考えて、計算をしたのである。そして、「足りない」と結論づけた。人間的な考えでは、物質的・金銭的には到底足りない、という結論に行き着く状況。
・対してアンデレは、とりあえずパンを持っている人をさぐり、イエス様のもとに連れてきた。しかし、持っていた少年のそのささやかな「おべんとう」は、こんなに大勢の人々の前では何の役にもたたない、と結論づける。
・しかし、その少年のささやかな「おべんとう」が、イエス様へと捧げられた時、イエス様の出番であり、イエス様は人知をはるかに超えた事をなさるお方である。
 
マルコ 6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
 6:40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
 
 6:41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
 6:42 人々はみな、食べて満腹した。
 6:43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。

凝り固まって中々消せない心の黒板の落書きに対処する術(2コリント10:4-6)

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昨日、私達の心に、心の「黒板」がある事を、学びましたね。
今日は、その続きです。
 
この、私達の心の黒板には、ガードがありません。鍵は、ありません。
気づかないうちに、傍らの人が、チョークを持って入って来て、
好きなことを書いていける――そんな黒板です。
 
親や友だちが好き勝手にかけますし、
先生や上司や、兄弟姉妹も、ぐさぐさ刺さるような事を、書いていきます。
たとえば、こんな感じです。
 
「それ、向いてないんじゃない?」 「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「みんなに迷惑かけるって、わかってるの?」
「あなたは、愛されるタイプじゃないよね。」
「どうせ続かないよ。」  「期待しないほうがいいよ。」
 
こういう、一言です。
しかも、心の黒板の落書きって、チョークの粉が、凝り固まって残るんですよ。
黒板消しで消しても、薄く残るんです。
しかも、残った粉の上に、また次が書かれる。
それで、黒板はいつの間にか、他人の文字でぎっしりになる。
 
そして、厄介なのはここからです。
書かれた言葉が、いつしか“自分の声”になってしまうこと。
 
誰も言っていないのに、朝起きた瞬間から聞こえてくるんです。
耳元で、ささやいてくるんです。
「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「今日もだめだよ」 「また迷惑かけるよ」
 
あたかも、黒板の文字が口を持って話しかけてくるみたいに。
 
それで、LINEをしても、既読にならないだけで、胸がざわつく。
“あれ?嫌われた?”って、勝手に結論が出る。
 
職場で名前を呼ばれただけで、わなわな、わなわな、なってくるんです。
 
川合先生が、まだ怒っていないのに、
ああっ、怒られる!! が先に来て、身が硬直するんです。
 
そばの人が、タメ息をついただけで、反射的に、わたし、嫌われてるのかな?って思うんです。
 
何でもないのに、突然、過去の失敗がフラッシュバックするんです。
もう過ぎたはずなのに、心の中が、“現在進行形”で痛いんです。
 
これが、黒板が落書きで埋まりすぎている状態です。
こうなってくると、
「本当の自分」がどこにいるのかわからなくなってしまうんです。
 
神さまが造られた創造本来の姿よりも、
誰かに貼られた落書きのほうが、濃くなってしまっているんです。
 
みなさん―― その落書き、
あなたじゃないです!!
それはあなたの本質ではないし、あなたの性格でもないし、あなたの運命でもない。
 
それは、心の黒板に書き込まれた言葉が、積もって、固まって、
“要塞”になってしまったものです。
 
要塞って何か。
中に敵が潜んで、タイミングを見て攻撃してくる場所です。
普段は静か。でも「きっかけ」があると急に動き出す。
 
たとえば――
ちょっと注意された。それだけなのに、
「ああ! やっぱり否定された」
「やっぱり私は価値がない」 「やっぱり嫌われる」
たとえば――
家族に一言言われた。
ほんの小さな言い方が刺さった。
すると、昔の傷が全部連れて来られる。
 
それで、涙が出るほどちぢこまったり、腹が立って怒りが止まらなかったりします。
それでいて、自己嫌悪が来るんです。
 
違うんです!
それは、あなたではない。
あなたの中に“住み着いた要塞”、言葉の城なんです。
 
今日のテーマは、ここです。
要塞は、壊せる。
みなさん、言いましょう!
要塞は、壊せる。
黒板は、書き換えられる。
 
そしてそれは、気合いや根性ではありません。
聖書は言います。
 
 10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
 10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
 10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
 
こで「思弁」とでてきました。これは、「ロギスモス)」と呼びます。
「相手が悪い、だから私は正しい」
とか、一見すると論理的で、筋が通っている。計算が合っている。
だからこそ厄介なんです。
 
そして次に、その理屈が大きくなると、心の中に「高い塔」が建ち始める。
“私はこういう人間だ” “私はこうする所存です”
 
それが「障害物(エパイロー)」――高慢という名の“高台”です。
高台に立つと、見晴らしがいい。自分が強くなった気がします。
 
さらに、その高台の中で「思い、これを(ナイマ)といいます」――
この思いというのは、はかりごと、とか、所存とか、心の企みが育っていく場所です。
 
これは、自分の中で、会議室をつくって、心の中の“自分王国”が政策を決めていくんです。
「こう反応すべきだ」 「こうやって人を判断すべきだ」
「こうやって自分を守るべきだ」
 
そうして、気づいたら、心の中に“要塞”が完成しているんです。
そして、その要塞の中から、敵が時々顔を出すんです。
些細な一言で爆発するんです。
 
 
だからパウロは言うんです。
私たちの武器は、肉のものではない。
神のためには、要塞さえ破壊する力がある、と。
 
ここで大事なのは、聖書が「あなたは努力で心を整えなさい」と言っているのではないことです。
“神から来る武器”があるんです!
つまり、戦い方が違うんです。
 
そして、その戦い方が、衝撃的な表現で描かれています。
 
「それを、逮捕して、キリストへと連行せよ!」
思いを、逮捕する。
感情を、逮捕する。
理屈を、逮捕する。
 
みなさん、神に逆らってたついものは、逮捕です。
自分の思いかどうか、怪しいものは“手錠をかける”んです。
 
「はい、あなたは今、ここで主権者ではありません。」
「あなたは真理ではありません。」
「あなたは私の人生の王座に座れません。」
そして連行して、キリストの前に引き出すんです。
 
ここまで来ると、私たちは気づき始めます。
「あれ…これ、私の本音だと思ってたけど、違う。」
「これ、私の性格だと思ってたけど、違う。」
「これ、真実だと思ってたけど、“要塞の声”だった。」
 
ダビデがよくやったのは、これです。
彼は自分に言い聞かせました。
「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と。
面白いですよね。
ダビデは、心が自然に主をほめたたえるのを待っていない。
たましいが暗いとき、たましいがふてくされているとき、たましいが傷だらけのとき、
彼は“たましいを相手にして”語りかけた。
つまり、私たちも同じです。
心が勝手に言うことを、そのまま採用しなくていい。
たましいが勝手に走ろうとする方向に、ハンドルを渡さなくていい。
「その思い、いま逮捕。」
「そして、キリストに服従。」
これが、御言葉の戦い方です。
 
 
ですから、今日、もし心の中が騒がしいなら。
理屈が止まらないなら。
高台から降りられないなら。
こう祈ってください。
 
「主よ、この思いを逮捕します。
私の計算を、あなたの前へ連れて行きます。
私の高慢を、あなたの光にさらします。
私の所存を、キリストに服従させます。
私は王座を明け渡します。あなたが王です。」
 
この!
服従が“完全になる”とき――
つまり、心の中で主が王座に座ることを私たちが選び続けるとき、
要塞は音を立てて崩れ去ります。
敵は居場所を失います。
 
ですから、みなさんの人生は、みなさんの理屈が守るのではなく、
キリストの御言葉が生かすのです。
この「いのちのことば」を、今日いっしょに握りしめましょう。

心の黒板の落書き(マタイ 4:1-4)

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今日、扱うテーマは、「ことば」です。
みなさんは、今まで生きてきた中で、色々な「ことば」が、自分自身の心や思いに刻み込まれていると思います。
 
たとえば、親や先生が言った言葉が、ずっと記されている事でしょうし、
子供の時にみたテレビ番組や、漫画とかの内容も、書き込まれているでしょう。
あるいは、昨日見たYoutubeとか、インターネットの情報が、心のことばに新たに書き込まれているかもしれません。
 
このようにですね、私たちの心や思いには黒板があるんです。
そしてこの黒板には、誰もが落書きをすることができるんです。
 
そこには、自分以外の誰か他人が落書きすることがありますし、
また、私達自身も、自分の黒板に、自分で書き込みをする事ができます。
そして、悪霊やサタンも、私達の心の黒板に、書き込みをすることがあります。
 
みなさんの中に、今、もしかすると、
何かのことばがずっと心に刺さりっぱなしで、その心の傷からずっと血を流しっぱなしの状態の方も、いるかもしれません。
 
特にですね、悪魔やサタンは、
「お前はダメだ」とか「失敗者だ」とか、
ぐさっと刺すようなことばを書き込んで来るんですが、
やっかいな事にですね、そういった言葉を投げて来たのは、悪霊やサタンだと思わないんですね。
 
実際に覚えているのは、そのことばを放った、あの人この人の顔です。
 
あるいは、特に、これは夜に多い事ですけれども、
みなさんが夜、フトンの中に入った時、
むかし言われた、あのことばが、強烈に頭の中に巡ってきて、
ああ、あの時のあいつ、憎たらしいな、とか、
あの時わたしはどうして、ああいう風にしてしまったのだろう、とか、
どうしてわたしはこうなのだろう、とか。
 
あるいは、将来の事とか、経済の事とか、社会情勢の事とか、
いろいろな事が、頭の中を堂々巡りして、
そうやって自分で自分の黒板に、たくさん落書きしてしまう、
という事がありますが、
実はそれ、悪魔サタンが、そういったネタを飛ばして来るんです。
 
でも私達は、その由来が、悪魔サタンだとは思っていないんですね。
飛ばしてきたのは、あの人この人とか、自分自身だと思ってしまいますが、
でも、すべて人を闇にさせる言葉は、悪魔サタンが飛ばしてくるものです。
 
 
まず知っておくべき事は、真実・本来の自分は、神様の前でどんな姿であったのか、ということです。
 
まことの真理の「ことば」である聖書は、私達について、どのように記しているでしょうか?
 
私達は本来、神様によって、神の似姿に創造された存在です。
けれども、悪魔が、最初の人であるアダムとエバの心の黒板に、まことの真理のことばである神のことばとは、真逆の内容を落書きしてしまって、
それで彼らは、神様のおことばどおりにはしないで、悪魔のことばどおりに、実行してしまったのです。
 
昨日のメッセージで学びましたね。
いちばん大切な事は、神様のおことばどおりに実行する事だ、と。
 
サタンのやり方は、いかに神様のことばから離れさせよう、という方向に、働きかけることです。
私達は、そうした悪魔の策略を知って、それに対抗して勝利する術を身につける必要があります。
 
幸いなことに、イエス様は、悪魔サタンのことばに対抗する術を、私達に実演してくださいました。
 
 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
>イエス様のミニストリーの最初は、悪魔のことばを打ち砕く事!
モーセもそうだった。パロの前で、放った蛇をつかむ事が、エジプトという牢獄から脱出するための最初のしるしだった。
 
 4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
>サタンは「石」を「パン」に変えてみなさい、と言って来た。
石をパンに変える?
そんなのは、当然、神の法則に叶っていない。
イエス様ならともかく、そもそも私達人間には、そんな事できないから、誘惑になりようがない。
 
けれども、この、石をパンにかえる、という誘惑は、
ヘブライ語でみると、霊的な意味が見えてくるのです。
どういう事か。
 
ヘブライ語で「石」はエベンと言う。
これを分解すると、「アブאב+ベンבן」になる。
すなわち、父(アブ)と子(ベン)の関係として読み取ることができる。
この、私達と神様との関係、父と、子の関係を、
パンに変えてみなさい、と・・・
 
 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
イエス様は、神であられるのに、「人は」とおっしゃった。
神としての圧倒的力を用いず、あくまで「人」の立場を貫いて神の言葉によって勝利するコツを、私達・「人」に開示してくださった。
 
人は、肉欲を満たすパンだけで生きるのではない。
真に人を生かすのは、「神の言葉というまことの食物」である。
 
 私達が、パンにおいて飢えた時、あるいは金銭において不足が生じた時など、主が許可していない手段や、サタンが好むようなやり方で、得ようとしてはならない。
ただイエス様というまことのパンを選び、まことの食物である御言葉に聞き、不安な心に対し御言葉を信じて口ずさみ、誘惑してくるサタンを、御言葉で叩き返すことです。
 
今日、みなさんに覚えておいていただきたい事は、
心の黒板消しは、神さまのお言葉だ、という事です。
 
世の中は、色々と、不安にさせるような、ことばを投げかけてきます。
その中には、私達の尊厳を傷つけてくるようなことばもありますが、
それに対しては、イエス様がしたように、
聖書には、なになにと書かれてある!
と宣言して、偽りのことばを、真理のことばで、上塗りする事です。

 

今にも死にそうな貧しいやもめが偉大な預言者を3年も養った話(1列王記 17:13-14)

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1列王記 17:13-14
 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
 
今日は、ある、一人のやもめのお話をしたいと思います。
彼女は、シドンのツァレファテという町に住んでおりました。
彼女は、やもめです。夫を失い、守り手を失い、収入を失いました。
そしてその時は、とても大変な時代でした。
神様を恐れる敬う人があまりにもいなくなったので、天から雨が降らなくなってしまったのです。
空はひたすら青くて、雨は降りません。
土は乾いて、手に入るものはどんどん減って行きます。
 
人々は噂します。
「もう何ヶ月も雨が降らないよ。パンの値段もどんどん上がっていく。
これからどうやって家族を養おう。」
人々はそれぞれ、自分がおがむ偶像の神々に頼みますが、なんの効果もありませんでした。
 
そんな中で、彼女は、イスラエルの神、主に祈っておりました。
「神様、どうか助けてください。
もう、台所には、一回分の食べ物しか残っておりません。
神様、どうか助けてください。
せめてこの子だけでも、生かしてください。」
 
母親の心は、不思議です。自分が食べないことには耐えられても、子どもが食べられないことは刺さるのです。胸が痛むのです。
 
彼女は、祈ってから、最後の食事を料理するために、たきぎを拾いに行きました。
彼女は、町の門のところでたきぎを拾っています。
もう、料理をするためにたきぎを拾うのは、これで最後だろうか。
そんな風に思いながら、拾って今したところ、
そこに、ひとりの男が近づいてきました。
その男性は、毛の衣をまとっていて、革の帯を締めておりました。
その男性の名は、エリヤです。
彼は、神さまから預かった言葉を、そのまま伝える預言者でした。
 
彼女は、その男性の成り立ちや雰囲気から、直感的に、この人は神の人だ、と感じました。
実際彼女は、彼とは初対面だったのに、彼が神様のことをよく知っている人であるかのように接します。
 
その男性は、彼女に言いました。
「ほんの少しの水を持って来てください。」
 
水。。。
このような時代、水は命です。
そんな貴重な水は、できれば子供のためにも取っておきたい。
けれども彼女は、彼のために取りに行こうとしました。
ここに、彼女の、高貴な品性が垣間見られました。
 
自分が苦しくても、神の人は、大切にする。
たとえ持っている全財産が、ほんのわずかであっても、それを神の人のために用いる。
このような品性を持つ信仰の人を、神様は天から見ておられ、しっかりと、覚えておられるのです。
 
でも彼は、彼女に、さらに追い打ちのような言葉を言うんですね。
彼は言いました。
 
「一口のパンも持って来てください。」
 
彼女はそれを聞いて、胸が、ぎゅっと縮む思いがしたことでしょう。
彼女は、正直に答えます。
 
「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。
ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。
ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、
帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
 
彼女は、「あなたの神、【主】は生きておられます。」という言葉で、語りはじめました。
ここに、彼女が信仰者であったことが窺われます。
さらに、この言葉からは、この男性が、神の人であるとうすうす感づいていたこともわかります。
 
彼女は、正直に、全てを彼に打ち明けました。
そこで、彼は言います。
 
 
「恐れてはいけません。」
 
恐れてはいけません。。。
 
この言葉は、軽い気休めで出た言葉ではありません。
神様の、根拠がある言葉です。
 
神様は、この
「恐れてはいけません」
という言葉を、全ての、“恐れて当然”な状況にいる信仰者に対して語られます。
 
 
さらに、彼はこう続けて語ります。
 
「行って、あなたが言ったようにしなさい。
しかし、まず、私のために小さなパン菓子を作り、持って来なさい。
それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」
 
これは、とても理不尽に、そして冷酷に聞こえたかもしれません。
しかし、彼がそのように言ったのには、理由がありました。
 
それは何も、彼が、彼女たちから強制的に最後の食料を取り上げるためではありません。
そうではありません。
神ご自身が、彼女のことをよくご存知であり、
預言者エリヤのほうも、この町に来たのは、他の誰でもなく「彼女に」会うために来たのだからです。
そして神様は、彼女を通して、神の預言者を
長い間、養うようにするために、エリヤを、この街の彼女のところに遣わしたのです。
 
一体どうしたら、今にも死にそうなほど貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
 
 ここ、大事なところです。
 
一体どうしたら、今にも死にそうなほど貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
 
それは、他でもありません。
神様の、おことばを信じて、そのとおりに、する事です。
 
神様のおことばを信じて、その通りにする、という性質は、何よりも素晴らしい性質です。
それがある人は、たとえどんなに貧しくても、どんなに弱い立場のやもめでも、
神様に用いられて、神様のために素晴らしいお手伝いをする事ができるのです。
 
エリヤは、さらに言葉をつづけます。
「イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。
『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、
そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
 
 
彼女はこの言葉を、イスラエルの神、主が、他でもない、自分に向かって仰せられたお言葉、として受け止めました。
信じました。
 
そうすると彼女は、一抹の希望を持つことができました。
いつも祈っているイスラエルの神様が、こんな私に目を留めてくださった、と言う嬉しさと、
そして、この瓶の粉は尽きず、油もなくならない、と言う言葉に対する希望が、ほんのわずかではありますが、芽生えたのです。
 
それで、彼女は、その2、3本の薪を家に持ち帰って、いつものように、粉に残っていた最後の油を、料理台の上に出しました。
そして、油のツボを傾け、もう本当にわずかな糸のように滴る、少しの油を、最後の1滴まで、その粉の上に注ぎつくしました。
 
お腹を空かせ息子が、その様を見ています。
あぁ、最後の粉と油が、今料理されている、と息子にもわかります。
母は、そんな息子の視線に気づいて、彼を見ます。
息子は、求める目で母親を見つめます。
母親は、そんな彼に向かって、言いました。
 
「あの方が先よ。」
 
その母の表情は、神様を信頼しきって笑顔だったでしょうか?
それとも?
9割は心配で、希望は1割しかない。というような表情だったでしょうか?
 
どちらにしてもですね、彼女がどのような心持ちであったのかは、実は重要ではありません。
重要な事は、彼女が、神様のお言葉に従った、という事実です!
 
神様のお言葉に従ったという事実!
それが、その後の明暗を、くっきりと分けるのです。
 
こうして、1つの小さなパン菓子が、焼き上がりました。
彼女はそれを、預言者のところに持っていきます。
預言者は、それを神様に感謝していただきました。
 
そして預言者は、彼女とその息子に言います。
「ほら、台所に行って、みてみなさい。
神様がお言葉通りにしてくださったかどうかを。」
 
二人は台所に行って、見てみると、本当に、神様が言った通り、空っぽのはずの、かめの粉は尽きておらず、壺の油は、なくなっておりませんでした。
これで彼女たちは自分たちの分も焼いて、食べることができました。
こうして1日分、彼らの命は、つないだのです。
 
この奇跡は、1日限りの奇跡ではありませんでした。
彼女の従順によって、その翌日も、そのまた翌日も、瓶の粉は尽きず、油はなくなりませんでした。
こうして、預言者エリヤと、この一家は、神様が雨を降らせるその日まで、長らく、命をつなぐことができたのです。
 
今日、皆さんに伝えたい重要なことは、1つです。
先ほども言いました通り、
神様のお言葉に従う性質が、何よりも重要だと言うことです。
その性質を持ってる人が、困難な時代を神様に助けられて生き延びます。
そればかりでなく、神様の重要な働きをその時代に、するようになるのです。
 
神様の働きをするのは、大きな力や、持ち物がなくても、いいんです。
ただ神様のお言葉に従う信仰をいつも持っていて、困ったときには神様に助けを求めるなら、神様は、その人に助ける人や物、事を遣わしてくださいます。
さらには、皆さん自身が、偉大な神の預言者を養うと言う、永遠に残る素晴らしい働きをするかもしれません。
 
主は、生きておられます。
そして、みなさんを見ています。
みなさんが養っている子供を見ておられ、必要を見ておられ、
毎日の、小さな従順を見ておられます。
そして、皆さんのその従順こそが、この時代を神様の働きを通して、大きく動かすことになるのです。
 
困難な時代の中でも、神様のお言葉に従う従順によって守られ、必要が満たされ、養われ、そして神の偉大な預言者を養うほどの働きをする皆さんでありますように
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

見たこともないような全く新しいことをしておられる主(イザヤ43:19)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 

1月の御言葉 イザヤ43:19

 

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:19)

 

 今年最初のニューイヤーズ・イブ礼拝で、新年が明けた時のメッセージで示された御言葉は、アブラムに対する主の言葉、「恐れるな、(アブラム)よ。わたしは(あなた)の盾であり、(あなた)への、はなはだ大いなる報酬である。」(創世記15:1 逐語訳)でした。 主を自分の盾とし、主を自分の相続とし、報酬とする人が受ける報いは、非常に大きい! その報いの第一弾は、「主は全く新しくしてくださる」、です。

 

今月の御言葉、イザヤ43:19をより詳細に訳すと、以下のようになります。

「見よ。わたしは(今まさに)行っている。(これまでになかった全く)新しいことを。

今、芽生えているではないか。あなたはそれを知ろうとして行かないのか?

わたしは置く。荒れ地に道筋を、また乾いた地に川々を。」

 すなわち、神ご自身が、今まさに行動を起こして新しいことが芽生えておられ(進行形)、しかも神は、
「あなたはそれを知ろうとしていないのか?」と、問いかけておられます。すなわち私達に、受け身で観察をするのではなく、信仰による洞察と応答を自分から積極的にしなさい、と、促すニュアンスになっています。 

主は、主がなさろうとしている新しい事を積極的に知って行こうという姿勢を私達に求めておられるのです。

 

 最近、1189テフィリンでは、伝道者の書を暗唱していますが、ソロモンはそこで真逆な事を言っています。

すべてのことは物憂く、日の下に新しいものは一つもない。これは新しい、と言われるものがあっても、それははるか先の時代に既にあったもので、それはもう記憶には無く、これから起こることも後の時代の人々の記憶には残らない。。。全てはむなしい、と。 私達はソロモンの言葉に同意するでしょうか?それとも??

 忘れてはならない事は、これは、神様から段々離れて行ったソロモンが晩年に書いたもので、つまり、神から離れた人間が叡智を極めた結果、最終的に行き着く思想が、この伝道者の書である、という事です。

 神様を「抜き」にして、世の知恵、世の富、世の楽しみを味わい尽くす者の行き着く先が、伝道者の書の思考ですが、それに対し、「主こそわたしの報酬」としている人に、主が準備しておられる報いは絶大です。

主に望みを置く人の行き着く先は、黙示録21-22章に記された永遠のいのちの喜びと、新しい希望です。

 

 主は、言っておられます。これまでになかった全く新しいことを、今、まさに構築中だ、と。今、それが芽生えているではないか、と。外の桜は、今は枯れ枝のように見えますが、見た目はそうでも、その中では芽生えの準備を着々と進めています。 それと同じで、たとえ今、主がなさろうとしておられる事が見えず、枯れているかのように見えても、主は着々と、見た事の無いようなものを準備しておられ、それはある時、華やかに開花します。主は「あなたはそれを知ろうとして行かないのか?」と、私達の積極性を求めておられます。

 

 主は言われます。「わたしは置く。荒れ地に道筋を乾いた地に川々を。」と。 荒れ地は道なき所ですが、主は、そこに「道(デレク:道筋、方法、通り道)を設けてくださいます。どんなにめちゃくちゃで、道筋も方法も見いだせないところでも、私達の報酬であられる主は、そこに道筋を、方法を、通り道を置かれます

 また、乾いて生命なき所に、豊かさや命の象徴である川々(複数形)を置いてくださいます

続く20節では「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」と書いてあります。たとえジャッカルのように荒々しく、弱いものを集団で食い物にするような者でも、あるいはだちょうのように、知恵も愛情も無い者であっても、主を知り、主をあがめるようになる、と書いてあります。 これこそ、主に望みを置く者の受ける報いであり、それは今までに一切なかった、全く新しいつくりかえが、主によって為されるからです。

 しかし、世のものや、過ぎてしまった過去など、神ではないもの、すなわち、すたれるべきものに見入って、目を留め続けているなら、新しいものが来ても気づかないものです。ソロモンのように、神を除外した自分だけを見つめ続けていると、堂々巡りから脱出できません。 しかし、主を自分の「報い」とした人は、主が用意してくださる新しい命、新しい歩みの中を進むことができます。主を自分自身の「報い」として定め、今まで見たことも聞いたこともないような、全く新しい報酬を得ていく今年の皆さまでありますように!

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